2023/10/03 - 2023/10/03
425位(同エリア1598件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1488冊
- クチコミ1141件
- Q&A回答73件
- 2,692,448アクセス
- フォロワー151人
この旅行記スケジュールを元に
「新アクロポリス博物館」の見学を終えた後はアクロポリ駅から地下鉄に乗ってオモニア広場駅まで移動します。出口がたくさんあるので地下道を歩いている人に「考古学博物館へ行くにはどちらへ行けばよいでしょうか?」と尋ねますが誰も英語を理解していないようで、悲しい顔をされます。仕方ないので表に出てみますが最後にここへ来たのは25年前で全く記憶が残っていません。ジュース屋のお兄さんに尋ねるとようやく英語が通じて、「この先を右に行って、1つ目の角を左へまっすぐ進めば右側に見えるよ。」と教えてくれました。思っていたより距離がありましたが、無事に「アテネ考古学博物館」に到着しました。クロークで荷物を預けてカメラと替えのバッテリーだけを持って館内に入ります。入場料は11?とかなり高いですが収蔵されているものを考えたら安いのかもしれません。博物館の外観の記憶はありませんでしたが、収蔵品はよく覚えていて、昔とあまり変わらないように思えました。懐かしい収蔵品の1つ1つを眺めているととても時間が足りなくなるので、心を鬼にして気に入ったものだけを見るように見学を進めます。途中でエジプトの収蔵品の部屋にも差し掛かりましたが、ここを細かく見てしまうと時間までに船に戻れなくなりそうなので入り口の一部だけを見て目をつぶって次の部屋へ移ります。正直なところもう少しゆっくり懸隔したいところでしたが、それでも約2時間はかかってしまいました。その間飲まず食わずなので妻のご機嫌も見ながらハラハラドキドキでもありました。帰りは博物館前からタクシーでピレウスのクルーズターミナルまで戻ることにしました。とは言っても目の前で客待ちしているタクシーに乗ることは無く、反対側を走る流しのタクシーに乗りました。ピレウスまでのタクシー料金は25ユーロくらいと聞いていましたが、これは港側を通るルートでしたが、我々の乗ったタクシーはほぼ地下鉄のルートと同じだったようで16?でピレウスのイプシロン12のターミナルまで送ってくれました。タクシーに乗った途端に妻が咳込んでしまい、慌ててマスクをすると運転手さんもダッシュボードからマスクを取り出しました。申し訳ないなと思っていると私まで席が出はじめ、運転手さんから早くこのお客を降りしたいというオーラを感じ、そのせいもあって早く着いたのかもしれません。20ユーロ札を出してお釣りはいいですというと、大喜びで後ろのドアを開けてくれました。思っていたよりも30分早く船に戻ることが出来たので、部屋でゆっくり休むことが出来ました。この日はお昼も抜いてしまったので晩御飯のディナーはとても美味しく感じ、新しくワインも1本開けました
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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図書の予定からずいぶん遅れて「アテネ考古学博物館」に到着しました。ここへ来るのは2回目ですが、25年前のことなのでロケーションなど全く記憶が残っていません。
国立考古学博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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この博物館は1866年にエルンスト・ツィラーによって設立され、ドイツ人建築家のL.ランゲの設計で1889年に開館しました。新古典主義の美しい建物の中に古代ギリシャ文明の主に紀元前7000年から紀元500年までの11,000点の収蔵品を誇ります。その範囲はギリシャからキプロス、エジプトやイタリアなどその他の地中海地域からも収集されています。
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入り口わきのクロークに荷物を預け、カメラと予備のバッテリーだけを持って入場します。入った正面にいきなりミケーネ文明の黄金の仮面が見えてシャッターを押しましたが、目がくらんでピントが合っていませんでした。25年前に撮った写真が残っていて良かったです。
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フィルムカメラ時代の写真です。長い間「アガメムノンの仮面」として知られる金のデスマスクは紀元前16世紀のミケーネ文明の副葬品です。仮面には髭を生やした男性の堂々とした顔が描かれています。耳の近くにある2つの穴は仮面が紐で故人の顔を覆うように固定されていたことを示しています。この仮面はミケーネ文明の代表的な遺物で、1876年にシュリーマンによって城内の墳墓から発見されました。
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「獅子の頭の形をした黄金のリュトン」もミケーネ文明の紀元前16世紀の副葬品です。注ぎ口やたてがみなど特徴的な細工が施されています。儀式用のリュトンはミケーネの王室の埋葬における特徴的な墓の供物です。これらのリュトンはおそらく葬儀の際に儀式用の漏斗として使われたと界思われます。ライオンは自然界の強さと支配の表現である可能性があります。これも古い写真です。
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ミケーネ文明は紀元前1600年頃に南下したギリシア人の第1波とされるアカイア人によってアルゴリス地方で興り、地中海交易によって発展しました。クレタ島のミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入していましたが、ついにはクレタ島に侵攻して征服したと考えられます。
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「木製の六角形のピクシス」は黄金のプレートで飾られています。これもミ文明の紀元前16世紀の発掘品です。金のプレートには螺旋模様が描かれ、植物が生い茂る草原でライオンが鹿やカモシカを追いかける場面が描かれています。誇張された目を持つ牛の頭のモチーフが構図を支配しています。このピクシスはミケーネ時代から残された貴重な木材のためだけでなく、情景の象徴的な特徴のためにもユニークな発見といえます。
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ミケーネ時代の黄金のネックレスです。3500年前に宝飾品のデザインはすでに完成の域に至っていて、その後は機械を使った加工技術が向上したくらいのことのように思えてきます。
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ミケーネ時代の黄金の装飾品が続きます。黄金のプレートは衣服に縫い付けられたものです。その下には神殿にとまる鳥のプレートで、同じ形状をしているので型に流し込んだものと思われます。その下の雄牛の頭部を模ったプレートは奉納された物のようです。
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幾何学模様のプレートかと思いましたが、老眼鏡をかけて良く見るとタコがデザインされています。おそらく豪華な衣類に縫い付けられていたのだと思います。
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螺旋模様のボタンも豪華な衣装に使われたものです。これらは動物の骨で造られたボタンを覆うように使われていました。
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これらも同じように衣装に縫い付けられていた黄金のプレートです。渦巻き模様のデザインも完成されていると思います。
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黄金のデスマスクはいくつもあり、その差を見ていくのも面白いです。その多くは目を閉じた形のデザインが多いです。
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中には大きく目を見開いたデザインもあります。このタイプは初めて見た気がしますが、多分25年前にも見ているのだと思います。
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黄金の冠は女性の墓から発掘されたものです。その下の人体の形をした黄金のプレートは幼児の体を覆っていたということが分かります。
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「腕を組んだ女性像」は前期キクラデス紀元前2800年から2300年に パリアン大理石キクラデスII期前期の彫像です。キクラデス彫刻の中でも最大の作例であり、完全な状態で保存されています。その像の高さは1.52メートルにもなります。キクラデスの代理石像は後にヘンリー・ムーアやモディリアニ、ピカソなどに影響を与えたといわれます。
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「ケロスのハープ奏者」は優雅な玉座に座り、トリゴノンと呼ばれるハープを持っています。ケロス島からは重要な儀式で使われる遺物が数多く発見されています。フルート奏者と共に木の葉^プ走者もお暗示墓から発見されています。
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「二重笛を演奏する男性立像」この小像は立ち上がってフルートを吹いています。他の初期キクラデスの小像とともに、その立体的な彫刻はキクラデス彫刻の傑作とされています。キクラデスの社会では音楽家の役割は男性が担うと考えていたようで、その像のすべてが男性の姿で表されています。
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キクラデス文明は新石器時代から青銅器時代初期にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明でエーゲ文明に含められます。年代は紀元前3000年頃から2000年頃にわたり、これはクレタ島のミノア文明よりも前に当たります。50年ほど前の中学生の頃に上野の国立博物館だったかでキクラデス文明を紹介する展覧会がありました。その時にこの白いパリアン大理石の石の肌と不要なものをそぎ落としたような人体のデザインに魅了されたことを思い出します。
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エーゲ海西部ではすでに紀元前4000年より前にアナトリアとギリシア本土の影響が混合した独特の新石器文化が栄えました。クレタ島で高度に組織化された宮廷文化が発展すると、キクラデス諸島は重要性を失なっていきます。この文明で最も有名な極度に様式化された大理石製の女性像は約1400体知られていますが、20世紀初頭に盗掘されたことにより出土地がわかっているのは40%にすぎないようです。
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「ハリネズミの形をした花瓶」
擬人化されたハリネズミがボウルを持っています。 キクラデス2世前期のケロス・シロス文化の時代に造られたもので(紀元前2800年から2300年のころのものです。動物の背中と腹に描かれた装飾はその毛皮を表し、中空に作られているためボウルは花瓶になっています。 -
「ミケーネのアクロポリスの壁画」
壁画の芸術はミノア・クレタ島のエーゲ海で初めて現れ、宮廷建築と密接に関連していました。これらの絵画は国王のために働く芸術家に請け負われていた公式の芸術でした。題材は自然界からインスピレーションを得たものか王室の宗教儀式を表しています。 -
紀元千15世紀にミケーネ人がクレタ島のクノッソス宮殿に定住した後、ミケーネやティリンス、テーベやピュロス宮殿の建設とともにギリシャ全土に広がりました。ミケーネの芸術家は主に金属の酸化物など自然素材の塗料を乾く前の石膏の表面に描きました。
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「金のゴブレット」
槌で打ち出された金のゴブレットには鋳造された2つのハンドルが取り付けられています。デザインされた犬の頭部はゴブレットの縁を噛んでいます。 -
幾何学文様は古代ギリシャで生まれ、文字では表現しにくい意味を示すのに図形が使われ世界中に伝わっていきました。図形は象徴的な表現として用いられ、何かしらの意味や役割をもち、その意味や役割はその図形のもつ特徴に由来すると考えられています。
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「ティリント宮殿の狩猟シーンのフレスコ画」
大きな猪を追う猟犬の姿がリアルに描かれています。この時代にイラストのようなデザインも確立されていたと感じます。 -
「ティリント宮殿の狩猟シーンのフレスコ画」
左右対称に描かれている構図の素晴らしさも感じます。それにしてもこれだけの破片からここまで再現する技術もすごいなと思います。 -
「少女の行列(部分)」
紀元前14世紀から13世紀に造られたティリンス宮殿の壁画です。以前にクレタ島のクノッソス宮殿を案内してくれた若い女性の目鼻立ちを思い出します。 -
牛跳びは曲芸師が突進してくる雄牛 の背中を飛び越えるという古代ミノアの儀式に基づいています。このスポーツは現代のフランスやスペインでも残っているようです。
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ミケーネ遺跡の南方にある城壁に囲まれたティリンス遺跡もシュリーマンによって発掘されています。
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「戦士の花瓶」
クラテルと呼ばれる壺には兜を被り胸当てと脛当てという完全武装の兵士は盾と槍を持って行進しています。槍には物の入った袋が下げられているのでこれから出征していく姿だと分かります。その横で女性は手を上げて分かれの挨拶をしています。牛の頭のハンドルには鳥の絵が描かれています。紀元千12世紀のミケーネのアクロポリスにあった戦士の花瓶のあった家から出土しています。 -
2頭立ての戦車や雄牛のテラコッタの置物がたくさん並んでいます。先日の「オリンピア考古学博物館」で見た奉納の動物を思い出します。子供のおもちゃとしても使われたと説明書きがありました。これらの形はT(タウ)やφ(ファイ)やψ(プシ)に似ていると考えられていたようです。
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「2頭立ての戦車」
2頭立ての戦車の後ろにはパラソルを持った戦士が表されています。何となくマヨルカ島のシウレルという白く塗られたテラコッタを思い出します。 -
プロシンナの墓から出土したハリネズミの形をした花入れ。ミケーネ文明ではハリネズミはポピュラーな動物だったのでしょうか。
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2人乗りの2頭立ての戦車。ハリネズミはリアリティのある造形ですが、馬はこれ以上省略の出来ないほどデフォルメされています。
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左右共にネックレスを身につけている女性の崇拝者の像です。文明は違っても女性を表す表現としては胸を膨らませるのが一番分かりやすいと考えたようです。
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紀元前15世紀のアルギヴェ・プロシンナの墓から発掘された3つの耳を持つ宮殿用のアンフォラです。3匹の大きなタコはミノア海洋様式のミケーネの模倣のようです。
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25年前にこの壺を見てギリシャ美術に魅了されたことを覚えています。タコの足を幾何学模様のようにデザインしたレベルの高さを改めて感じます。
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アルギヴェ・デイラスのミケーネ人の墓から発掘された3つの耳を持つ宮殿用のアンフォラです。大きく葉を広げたヤシの木が左右対称に描かれ、その足元には花のモチーフが配されています。質の高い粘土と釉薬が用いられ、自然主義的な装飾が特徴とされます。
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紀元前ン15世紀のアルギヴェ・デイラスの墓から発掘されたアンフォラにはミノア文明の影響下で造られたミケーネ絵画の最初の作例の1つと考えられます。
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「ヴァフェイオのカップ」
紀元前15世紀のスパルタ近郊のヴァフィオで発掘されました。これら2つのカップはクレト・ミケーネの金属細工の傑作で、ヴァペイオ・トロスの墓で他の貴重な品々とともに発見されました。 -
最初のカップでは雄牛が平和的に捕獲され、男性が雄牛の足にロープを結び、3頭の放牧牛が構図として完成されています。2番目のカップは1頭の雄牛が網に引っかかり、別の雄牛が2人の狩人を襲い、3人目の狩人が逃げる様子が描かれています。どちらのカップも同じ職人が作ったと思われますが、最初のカップはより丁寧に作られています。
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「アフロディーテの像」
パリアンの大理石で造られた像はイタリア南部のパイアイで発券されました。以前はホープ郷のコレクションでしたが、1924年にM.エンベイリコスによって国立博物館に寄贈されました。 -
首と頭部、右腕はイタリアの有名な彫刻家カノーヴァによって修復されました。アフロディーテは左手でヒマティオンのドレープを押さえています。
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「髪を束ねた若者の像(ディアドゥメノス)」デロス島の大理石で造られたこの像は紀元前450年頃にポリュクレイトスによって造られた有名な「ディアドゥメノス」の像の複製です。足元の木と上に置かれたヒマティオン(衣服)は複製として造られる際に追加されたものです。この像は紀元前100年頃に造られた複製です。
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ディアドゥメノスの家で発見されたこの像は裸ですが頭にはリボンを結んだ姿で表されています。この事からこの男性がアスリートであったことが分かります。
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大理石で造られた女性の葬儀の彫像です。キクラデス諸島のデロス島で発見されました。女性像は小ヘルクラネウムの女性の容姿であるキトンと全身と腕を覆うヒマティオンを身に着けています。色の痕跡は髪の毛や人物の衣服に保存されています。 高さは1.75メートルと実際よりは少し大きく造られています。紀元前300年頃のオリジナルの彫刻を紀元前2世紀に複製したものです。
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葬式用の彫像はヘレニズム期に進化を遂げました。これらの彫像はアテネ近郊でよく見られるのは古代には都市郊外に墓地があったからと思われます。それらの幾つかは理想的なタイプとして喪に服す母親、忠実な息子を描いていますが、 それらは実在の人々を描いたものと考えられます。このことはアルカイック期や幾何学文様期に比べて感情の度合いを著しく向上させています。
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「馬と若い騎手のブロンズ像」
1928年と1937年にエウボイア北部のアルテミシオン岬沖の海底から断片的に回収されました。若い騎手はおそらくアフリカ出身で、左手に疾走馬の手綱を持ち、右手に鞭を持っていたと思われます。彼の顔の額の収縮と皺は、苦悶と情熱を表しています。この作品はアルテミシオンジョッキーとして知られています。 -
紀元前2世紀頃の後期ヘレニズムの作品です。5世紀初頭までは主要作品として青銅鋳造品が好まれる素材で、ローマ市場向けに作られた複製品が大理石だったと考えられます。大理石と青銅はどちらも成形しやすく耐久性がありますが、青銅の場合は後になって溶解して再利用することがあるため、オリジナルの青銅はほとんど現存しているものの数が限られています。
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この騎馬像をはじめ幾つかを妻に見せたかったのですが、どこまで気持ちが通じたかは分かりません。何しろここにいた2時間以上ほとんど別々に見学していましたから。写真撮影が出来る美術館や博物館の場合、どうしても見学する時間に差が出てしまいます。
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「眠れるエロスの像」
ペンテリック大理石製と思われますが出自は不明のようです。羽の生えた若いエロスは布で覆われた岩の上に左手を置いて眠っています。小さなライオンが彼の前に横たわっています。ローマ神話ではエロスにはラテン語で受苦の愛に近い意味を持つアモールまたはクピードーを対応させます。クピードーは後に幼児化して、英語読みでキューピッドと呼ばれる小天使のようなものに変化していきます。 -
アッティカのペンテリ山のニンフの洞窟で発見されました。レリーフはナイスコスの形をして、右側に立つテレファネスとニケラトスとデモフィロスの3人によってニンフに奉納されたことが碑文に刻まれています。
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「パーンの像」
紀元前4世紀に造られたオリジナルを紀元1世紀に複製したものです。パリアンの大理石で造られペロポネソス半島のスパルタで発見されました。ヤギ足の神は毛皮を被っており、毛皮からは毛むくじゃらの足と楽器を持った左手だけが見えています。野獣のような顔ですが、満面の笑顔によって和らぎます。 -
パーンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角を持った姿でも表されます。何者がパーンの親かは諸説がありますが、父親はゼウスともヘルメスともいわれ、母親はニュムペーであるといわれています。
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「パーンの像」
紀元前4世紀のオリジナルを紀元2世紀にペンテリック大理石で複製しています。ピレウスで発見され、テーブルを支える支柱の形をしています。その姿は上の写真の姿に酷似しています。 -
「台座付きの奉納レリーフ」
アッティカのペンテリにあるニンフの洞窟で発見されました。洞窟のようなレリーフには台座があり、そこにはアガティメロスによって奉納されたという碑文があります。一番右には奉納者が描かれ、手に持ったジョッキにはワインが満たされています。岩に座るパーンの横にはカドゥケウスと蔵ミスを着たヘルメスが立っています。その横には3人のニンフの姿もあります。 -
「ヘラクレス」
ヘラクレス はギリシャ神話に登場する多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在です。ゼウスとアルクメーネの子供で、アテネではアルカイック後期以降から崇拝されていました。彼のもっとも重要な聖域の1つはメリテの古代の領地にあり、そこではクトニズムの神として崇拝されました。 -
「ヘラクレスの小像」
アテネのアギア・エイリーニ教会のそばで発見されました。紀元前350年頃に造られた像は「ヘラクレスの結び目」で結ばれたライオンの毛皮をまとっています。「ヘラクレスの結び目」とは日本でいう本結びのことで、ライオンの毛皮ということは12の偉業の中のネメアの獅子を退治した後だということが分かります。 -
「ヘラクレスの小像」アテネのアクロポリスの西斜面で発見された幼少期のヘラクレスの姿です。それでもアトリビュートとして「ヘラクレスの結び目」で結ばれたライオンの毛皮をまとっています。
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「奉納レリーフ」
アテネのモナスティラキ広場で発見された初期ヘレニズム時代の作品を紀元2世紀に複製したものです。ヘラクレスはネメアの獅子の毛皮を敷いた岩の上に横たわっています。頭上にはプラタナスの葉が見え、木陰で休んでいることが分かります。 -
「葬儀用ルートロフォス」
ルートロフォロス (loutrophoros) はアンフォラの一種で、このタイプは葬儀用に造られたものです。ハンドルとネックの両面には豪華な花の装飾が施されています。胴の部分には亡くなった人物の名前と悲しむ女性の姿のレリーフがあります。 -
「若い青年の像」
出所は不明で2002年にドイツからギリシャへ返還されたものです。おそらくはスポーツ選手の像だと思われます。紀元前4世紀のものを5世紀後半のローマ時代に複製されたものです。 -
古代ギリシャでは美しいということは神に近づくことであり、また神もそれを喜ぶという考え方が浸透していたことがわかります。「男は顔じゃない」ではなく、美しいか否かが人格までを決めるほど美しさが重要でした。
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展示室の雰囲気は25年前に初めて来た時とあまり変わっていないような気がします。「アクロポリスの丘」や「新アクロポリス博物館」はとても混んでいましたが、ここは拍子抜けするほど観光客の姿は少ないです。
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「ブロンズ製ヘルメット」
1957年にエレニ・スタタトウが国立考古学博物館に寄贈したスタタトス・コレクションは、1階の展示室42に展示されています。コレクターとしての情熱は彼女の最大の功績です。このヘルメットもそのコレクションの1つです。 -
ヘレン・スタタトスはエジプトのアレクサンドリアで1830年代からエジプトのギリシャ人コミュニティの著名なメンバーであるK.コンスタンティニディスの裕福な家庭に生まれました。彼女が生涯を通じて収集した美術品はミケーネ時代からビザンチン時代以後のジュエリー、初期のビザンチンのオイルランプ、花瓶、彫刻、刺繍、ビザンチン時代とポストビザンチンのイコン、木工品、ビザンチンの写本などでした。
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紀元前4世紀後半から2世紀初頭にかけての女性の装飾品に関連する工芸品とともに、2つの展示ケースを占めるいわゆる「カルペニシの宝物」が際立っています。最も印象的な展示はアフロディーテやアルテミスの胸像が飾られた金製の3つのヘアネットです。
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テッサリアで発見された半貴石で飾られた黄金の寺院にはの中には首を掴まれたサテュロスとディオニュソスと足元にはヒョウが見えます。
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ロゼットと半貴石の象嵌で装飾された黄金のベルトは紀元前200年頃に造られたとは思えない完成度です。
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女性の胸像が打ち出された黄金のリングも小さいながら完成度は非常に高いです。
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「巫女タクシットの像」
1880年にエジプトのアレクサンドリアの南、マレオティダ湖近くのコム・トゥルガで発見されました。貴金属の象眼を施した銅の合金で25王朝末期の紀元前670年頃に造られました。彼女の名前はエチオピアを意味することから、エチオピア人との婚姻又は親族関係があったと思われます。彼女の父はリビアのマ族の偉大な指導者アカノス2世です。 -
2018年にエジプトを旅した際には半年ほど前から歴史や文化、美術についても勉強しましたがものの見事に頭の中から抜けていることに気が付きました。エジプト美術の展示室を詳しく見たら船に帰れなくなりそうなのでかなり省略した見学にしました。
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「太陽神ホルスの青銅像」
古代エジプトの天空と太陽の神ホルスの青銅像です。ハヤブサの姿に頭の上には太陽円盤を乗せた鳥の姿で表されています。 -
「ホルス像」
エジプトの神々の中で最も古く最も偉大で、最も多様化した神の1つです。地域や時代によっては異なる呼称や神格を持ち、また多くの他の神々と習合しています。有名なシンボルである「ウジャトの目」とは、ホルスの目のことを指します。手に持っていたウアス杖は失われているようです。 -
「幼子ホルスに乳を飲ませる女神イシス」
女神イシスはオシリスの妹および妻であり、ホルス神の母親でした。イシスは呪術の使い手で治癒の術を持ち、子供の保護を担っていました。新王国時代の紀元前1550年頃以降には雄牛の角の間に太陽円盤を挟んだシンボルを頭上に乗せて表現されるようになりました。イシスの母としてのイメージが、ハトホル女神と結び付けられたためです。ここでは太陽円盤が失われてしまっています。 -
エジプトからギリシャへの文化影響の観点から、西洋文明のルーツはエジプトにあるという考えもあります。このイメージはキリスト教における幼子イエスを抱いた聖母マリア像にまで影響を与えていると考えられます。
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セクメトはエジプト神話に登場する女神です。プタハの妻であり子供にはネフェルトゥムがいます。ラーの片目から生まれ、ライオンの頭を持ちます。頭頂に赤い円盤を載せており真昼の太陽の灼熱を表現します。破壊神にして復讐者であり、王の守護神とされます。
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ある時にラーが自分を崇めない人間に復讐して殺戮させるためにセクメトを地上に送りましたが、オシリスらの意見を聞いて後悔します。そこでラーに血に似せて造らせた赤いビールで彼女を酔わせ、殺戮を止めさせたという神話が知られています。この時からエジプトの砂漠が赤く染まったと言われます。
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たくさん並んでいるとエジプトの遺跡の周辺でヌビア人のおじさんが売っている複製品を思い出します。出来栄えはピンキリなのですが、意外に良く出来ているものもあり、遺跡や博物館を見学していると欲しくなってしまいます。我が家にもそんな像がいくつかあります。
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ロンドンの大英博物館にある「ゲイヤー・アンダーソンの猫」によく似た猫の像がありました。ギリシャはヨーロッパの国々に遺跡から持ち帰った美術品を返還するように強く働きかけていますが、エジプトにはこれらの収蔵品を返還しないのだろうかと疑問が生じてきます。
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ミイラ肖像画はエジプトの古代末期ごろから死者のミイラとともに埋葬された埋葬者の肖像画です。木の板に描かれた伝統的な板絵に属する絵画作品で、自然主義的なその作品は古代美術としてはきわめて優れた分野の1つとみなされています。
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死者に麻やパピルスを貼り付けて石膏で固め、その上から肖像や装飾を描く風習はエジプト第1中間期まで遡ることができますが、ミイラ肖像画はエジプトが古代ローマ帝国の属州だった紀元前1世紀ごろから発展した風習です。
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今回どうしても見たかった収蔵品と出会えました。アンティキティラ島の機械はアンティキティラ島近海の沈没船から発見された古代ギリシア時代の遺物で、天体運行を計算するため作られた手回し式の太陽系儀であると推定されていますが詳しいことは分かっていません。
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この機械は1901年に考古学者ヴァレリオス・スタイスによってアンティキティラの沈没船から回収されました。ただ、その複雑さや重要性は何十年もの間気づかれることがありませんでした。紀元前3世紀から紀元前1世紀中ごろの間に製作されたと考えられており、同様な複雑さを持った技術工芸品はその1000年後まで現れることはありませんでした。
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発見場所やすべての使用説明が現代ギリシャ語の基礎となるコイネーで書かれていることなどからギリシャで作られたことはほぼ間違いなく、構造が非常に精巧であるので古代の著名な科学者が作成にかかわった可能性があると考えられます。
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本機械の製作を天文学と数学の中心として知られたロードス島と結びつける仮説がありますが、歯車に書かれた日付から年代が紀元前205年以前に遡るともいわれます。
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アンティキティラ島の機械は最古の複雑な科学計算機と考えられ、縮小化と部品の複雑さには特筆すべきものがあり、18世紀の時計と比較しても遜色ない程です。30以上の歯車を持ち、歯車の歯は正三角形です。クランクを回転させると機構が太陽や月やその他の天体の位置を計算し、地上の観測者から見た天球に対する天体の位置を示します。
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装置には主な表示盤が3つあり、1つは前面にあり2つは背面にあります。前面の表示盤には2つの同心円状の目盛が刻まれていて、外側のリングはソティス周期に基づく365日のエジプト式カレンダーまたはソティス年を表示します。
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内側の目盛りにはギリシャの黄道十二星座の記号が刻まれていて角度により区切られ、この暦ダイヤルを4年に1回1日分戻すことにより実際の1太陽年(約365.2422日)との誤差を補正することができます。
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機械に刻まれた文字には火星と水星に関する記述があり、製作者には確かにそれらの惑星の位置を示す歯車を盛り込める十分な技術があったように思われます。この機械は当時のギリシャ人が知り得た5つの惑星全ての位置を表せたとも推測されていますが、そのような機能に該当する歯車は1つだけしか発見されておらず、その他の歯車の用途は未解明です。
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こんな機会が2300年ほど前に造られたということは現物や複製品を見ても信じられません。「オーパーツ」は主に出土品などが考古学上その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難あるいは不可能に見える場合に使われる言葉ですがこの機械にも当てはまると思います。
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「NAMコレクションのエロス」
NAM コレクションの幼児の姿のエロスは頭にツタの花輪を被り、おそらく右手にチューニングハンマーまたはバチを持っていたと思われます。 -
「ギリシャとエジプトの特徴を持つセラピスの胸像」
1964年にアテネのアンベロキポイの宝庫で発見された紀元2世紀頃のブロンズ像です。セラピスはエジプト王国時代の末期、ギリシャ人によるプトレマイオス朝の統治の時代の末期に現地融和政策として作り出された神です。原型はメンフィスで信仰されたオソラピスという神だとされます。 -
シンクレティズムとは別々の信仰、文化や思想学派などを混ぜ合わせることで、異なる信念や実践の組み合わせ、異なる複数の文化や宗教が接触して混交している状態や現象を指します。ここでもギリシャ起源の男性像の頭には古代エジプトの王の冠、下エジプトを意味する「赤冠」と上エジプトを意味する「白冠」を合体させ、2つの国の統治者という意味の「二重冠」を被っています。
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「丸い台座に乗ったディオニソスの像」
おそらくディオニソスは蔦やブドウの葉で覆われた杖と(先端にテュルソスという松ぼっくりの付いた)左手には酒杯を持っていたと思われます。左肩にはヒョウの毛皮を被り、サンダルをはいた左足は子犬を踏んでいます。紀元前2世紀頃のオリジナルをローマ時代に複製されたものです。 -
「根雌の獅子の毛皮を被るヘラクレス」
丸い台座の上に立ち、ポーズをとる青年の姿のヘラクレスです。頭には獅子の頭部が見え左腕には獅子の後ろ足の肉球が見えます。前足は首で結ばれていますが、俗にいう「ヘラクレスの結び目」も見えます。 -
「羊飼いの像」
羊飼いの男性は右側の肩を露出させた薄手のチュニックを着て、左手には子羊を抱えています。左手に横たわっている小型犬は牧童犬なのではないでしょうか。紀元前3世紀のオリジナルの影響を受けた紀元1世紀頃の作品です。 -
「蔦の花輪を被り座っているサイレンの小像」
下半身は部分的にヒマティオンというマントで覆われています。ヘレニズム時代のオリジナルをローマ時代に複製したものです。 -
ピレウスで発見された墓石は椅子に座った女性が左手に小鳥を抱えて前に立つ少女と握手している姿が描かれています。この人物はロディラとその娘アリスティラであると下部に書かれたエピグラムで特定できます。紀元前420年に造られました。
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紀元前5世紀の終わりにかけて墓のレリーフは主に女性や若者、子供の墓として造られました。それに対して男性市民の碑のほとんどが簡素でした。彼らの墓誌には個人名と父親の名前が書かれました。これは彼らの出身地を明確にし、領地や公民権を表しました。外国人の場合は個人名と民族名が記され、奴隷の場合は個人名だけが書かれました。
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「アテネの頂上の外で発見された墓碑」
短い髪の若い女性が左側で宝石箱を持って立ち、右側は失われています。ショートカットの髪形は現代でも通用するようなデザインです。失われた右側には椅子に座った女性がいたことは、展示室に並ぶほかの墓誌を見ると分かります。 -
テーベ郊外で発見されたテッサリアの大理石で造られた墓碑です。5人の男女が生き生きと描かれています。そのまま当時の衣装や髪形がタイムスリップして現代によみがえったようです。
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「クセノクラテイアのレリーフ」
紀元前5世紀末に制作された大理石の奉納物です。これは、ゼノクラテイアという女性による川の神ケフィソスの聖域の設立を記念しています。ピレウス港とアテネを結んでいた長城の内側にあるケフィソス川の河床と城壁の交差点付近で発見されました。 -
「クテシオレストとテアノの墓碑」
浅い浮彫の顔の半分だけですが、2000年以上経ってもその悲しさが伝わってくるようで、この時代の墓碑に惹かれます。特に女性の墓碑に漂うアンニュイな空気感は実際の遺骨が失われても個人や遺族の思いが伝わってきます。 -
椅子に座って足を踏み台に乗せたアテネの女性が、宝飾品を見つめています。彼女の向かいでは、悲しげに立っている男性が開いた宝石箱を持っています。
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一般的に他の文化圏では死んだ本人の姿を彫刻するのに対し、古代ギリシャの墓碑彫刻は「1つの墓碑の中に死者と家族と友人の姿を描き、死者と生者の対話する姿で死者を哀悼する」という考えがあったようです。
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墓碑芸術の繁栄は紀元前4世紀後半まで続きましたが、アッティカの知事ファレーロンのデメトリオスによる薄葬令によって、アッティカの浮彫り墓碑はその歴史を閉じることになります。
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「セイレーンの像」
ペンテリック大理石で造られた像はアテネのケラメイコス家の古代墓地で発見されました。鳥の足と尾を持つ神話上の翼のある女性は墓を飾った亡くなった男性の死を嘆いています。彼女の束ねていない巻き毛がとてもリアルです。 -
ギリシャ神話では上半身が人間の女性で下半身は鳥の姿とされますが、後世には魚の姿をしているとされました。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる怪物とされました。歌声に魅惑された挙句セイレーンに喰い殺された船員たちの骨は、島に山をなしたといわれます。これは紀元前330年に造られました。
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「セイレーンの葬送像」
アテネのケラメイコス家の古代墓地で発見されました。セイレーンは羽を広げ亀の甲羅で造った竪琴を奏でながら死者を悼みます。撥を持っていたであろう右手首が失われています。楽器の響箱の穴は青銅製の弦が別に造られていたことを示しています。体の羽や体の細部は彩色されていた跡が残っています。 -
セイレーンから助かった話ではイアソンのアルゴー号の英雄オルフェウスが琴で勝負をしてくぐりぬけた話が有名です。オデュッセウスが部下に耳栓(蝋を詰めたという説もある)をさせ、自分は帆柱に縛り付けてセイレーンの歌を聴いたという神話があります。
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「墓石」
紀元前350年頃にペンデリック大理石で造られ、ピレウスで発見されました。豪華な玉座に座る女性が立っている男性を迎え、彼らの間には悲しそうな表情をした親族が立っています。左側には粗野なキトンを着た女性がもたれかかっています。椅子に座る女性の名前はポリュクレイドスの妻ダマシストラティスと刻まれています。 -
「墓石」
紀元前4世紀頃に造られ、ピレウス港の沖合のサラミス島で発見されました。チュニックとローブを着た故人である女性はおそらく彼女の夫である男性に迎えられています。彼女の左手でも分かるように会話している最中のようです。左側には個人の名前ムニシストラタと書かれてあります。 -
「ライオンの墓像」
アッティカのマルコポロスで発見されました。ライオンは台座の上で右に向かって動いている様子を表しています。墓の守護者として頭を前に向け、口を威嚇的に開いています。燃えるようにデザインされたたてがみと盛り上がった筋肉質の下半身が印象的です。 -
「セイレーンの葬送像」
アテネのケラメイコスの古代墓地で発見されました。左手に亀の甲羅の竪琴を持ち、右手にはバチを持っています。演奏しながら亡くなった男性の死を嘆いているようです。脚部の羽が特徴的です。 -
「ナイスコス」
ナイスコスは円柱または角柱とペディメントを備えた古典的な古代ギリシャの祠です。アテネのケラメイコスの古代墓地で発見されました。完全な姿で軍の装備を身につけ、クラミスを着たアテネの兵士が戦場に向かって力強く歩いています。左手には盾を持ち、右手には剣を持っていたと思われます。死んだ兵士の名前はないコスの碑文に刻まれています。ハライの領主アルシュナウテスの息子アナトリナウテスで、未婚のまま亡くなったと書かれてあります。 -
「墓のレリーフ」
アテネ市内のラリッサ駅近くで発見されました。2枚のペンデリック大理石がつなげられています。背中にヒョウの皮を敷いた馬を若いエチオピア人の男性がなだめている様子が描かれています。このスタイルのレリーフは1世紀頃の古典化した表現で、紀元千二処刑されたポントスの王ミトリダテスに敬意を表して造られました。 -
「若いアスリートの像」
紀元前340年頃に造られた銅像で、アッティカのマラトン海峡で発見されました。額の上の帯から示唆されるようにこれは何らかのコンテストでで勝利した10代の若い男性だと思われます。彼が上げた右手に何を持っていたかは分かっていませんし、失われた左手の上についても同じです。 -
彼の視線は左手の上に向けられています。おそらく後の時代に掌がランプの形をした別の手に置き換えられているようです。
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古典期後期の傑作の1つとされ、プラクシテレス派によって造られたと思われます。ブロンズ(青銅)とは銅を主成分とし、錫を含む合金です。 ブロンズには長期間風雨に曝されても劣化しにくいという特徴と、硬度は高いが延性や展性もあり、微細な彫刻などもし易いという特徴があります。 このためブロンズは古代から彫像の素材として用いられて来ました。さらに眼球部分は象牙やアラバスタ―(雪花石膏)を用いて白目をつくり、黒目はまた別の石の素材を嵌め込んでいます。
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「アマゾネスの戦いのレリーフ」
アテネで発見されたペンデリック大理石のフリーズは墓の一部だったと考えられます。描かれているのは軍装をした2人のアマゾネスと戦う裸のギリシャの戦士が描かれています。これは紀元前4世紀ごろにプリュクシス派またはティモテウス派の手により造られました。 -
「アンティラキ島のエフェベ像」
アンティキティラ島の難破船の海域でスポンジ漁師によって1900年に発見されました。これはエーゲ海と地中海で20世紀に発見された一連のギリシャのブロンズ彫刻の最初のもので、古代ギリシャ彫刻の近代的な見方を根本的に変えました。エフェベは1.96メートルで実物大をわずかに超えており、発見当時は多数の破片で回収されました。その最初の修復は1950年代にクリストス・カルーゾスの指揮の下で行われ、その後に目の焦点、腹部の構成、胴体と右大腿部の間の接続、および右腕の位置が修正されました。 -
エフェベは馴染みのある図像モデルには対応しておらず、このタイプの既知のコピーはありません。彼は右手に球形の物体を持っていたであろうことから、パリスがアフロディーテに不和のリンゴを贈っていることを表していたのかもしれません。その場合パリスはマントをまとい、特徴的なフリギアの帽子をかぶって描かれているため、ヘスペリデスの林檎を持つ髭のない若々しいヘラクレスという説もあります。
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中空の青銅像鋳造は紀元前7世紀末にサモス島の工房で始まりました。これにより
大理石よりも自由な形や柔らかい曲線がだせるようになり人々を魅了し、美しい青銅像が沢山作られます。この作品は紀元前340年から330年頃の彫像で、ペロポネソス半島の青銅彫刻の最も輝かしい作品の1つです。プリニウスによれば、おそらくポリュクレイトの有名な彫刻家エウフラノールの作品であると考えられました。 -
「女神テミスの像」
アッティカのラムヌスにあるネメシスの小さな神殿で発見されました。女神はベルト付きのチュニックを着て豊かなプリーツのローブを羽織り、サンダルを履いています。頭部と右手は別の大理石から造られて継がれてあります。ウラヌスとガイアの娘であるテミスは正義に女神であり、ラムヌーダではネメシスと同じ神殿に祀られていました。この像は紀元前300年頃にラムヌーダのチェアストラトスによって忠告され、メガクレトスが奉納したものです。 -
大きな展示室でようやく妻に追いつきました。この辺りの展示室の設えも25年前と変わっていないようです。
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「犬を連れた少年の小像」
小アジアのニュッサにあるジェロンティコンで発見され、1922年委難民によってアテネに持ち込まれました。そのために「小さな難民」と呼ばれ、幼子は喉の所で結ばれたマントのフードを被り、小さな犬をしっかりと抱いています。 -
「少年の小像」
古代ライリアと呼ばれたラミアの近くで発見されました。裸の少年は柱にもたれかかり、その上にアヒルを抑えてけています。彼は髪にリボンを付けて、笑顔はアヒルに向けられています。 -
「未完成のスフィンクスの葬送像」
デロス島で発見された大理石の像で、紀元前2世紀に造られました。スフィンクスは翼を広げて岩の上に座った姿で描かれています。彼女は長方形の台座の上に立っている納骨用のヒドリアの口に右ひじを当てて寄りかかり、左手で花瓶の胴を押さえています。 -
「劇場用マスク」
アテネのディピュロン門の近くで発見されました。顔の表情は誇張されています。このマスクは新しい喜劇用の支配者と奴隷を表しています。 -
「ポセイドンの大理石像」
パリアン大理石で作られたポセイドンの像は1877年にキクラデス諸島のメロス島で発見され、彼の仲間であるアンフィトリテの像とともに発見されました。等身大よりも大きな像は高さ2.35メートルあり、下半身を覆うヒマティオンを身に着けたほとんど裸の神を描いています。上げた右手には三叉の矛のトライデントが握られていたと思われます。右足の横にはイルカの形をした支柱があります。 -
「アフロディーテとパーンとエロスの像」
パリアの大理石で作られた群像はデロス島のベリトスのポセイドニアスタイの家で発見されました。色の痕跡は多くの場所で見ることができます。彫刻は彼の先祖代々の神々にベリトスのディオニュシオスによって捧げられたと述べられている台座と一緒に保存されています。 -
裸の女神アフロディーテは彼女にエロティックな誘惑をする山羊足の牧神ーンをかわそうとしています。ヘルメス神とアフロディーテの2人から生まれた翼の生えた神エロスが助けに来ています。
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アフロディーテは右手でサンダルを持ち、威嚇するように握りしめています。ヘーシオドスの「神統記」によれば、クロノスによって切り落とされたウラノスの男性器にまとわりついた泡(アプロス)から生まれ、生まれて間もない彼女に魅せられた西風のゼフィロスが彼女を運び、キュテラ島に運んだ後にキュプロス島に行き着いたと言われます。
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西風のゼフィロスが彼女を運ぶシーンはフィレンツェの「ウフィッツィ美術館」に収蔵されているボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」の題材になっています。最後に流れ着いたキュプロス島は現在のキプロス島で、そこには「ペトラ・トゥ・ロミウ」という美しい海岸があり、そこにアフロディーテが流れ着いたといわれます。
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ローマ時代の紀元前31年から紀元後330年の主に帝国時代の彫刻作品が数多く展示されています。その奥は胴体が失われた頭部だけのものがほとんどです。
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ヘルマは石もしくはテラコッタ、青銅(ブロンズ)でできた正方形あるいは長方形の柱を意味します。柱の上にはヘルメスの胸像が乗っており、通常あご髭を生やし、さらに柱の部分には男性の生殖器がついています。古代ギリシアの神ヘルメスの名はこのヘルマに由来するという説があり、一説にはヘルメス神は商人および旅行者の守護者としての役割を担う前は生殖力・運・街道と境界と関連したファルス(男根)の神でした。
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「アンティオノスの胸像」
パトラスで発見されたこの像は小アジアのピティニア出身の若いアンティオノスで、ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けた男性です。死亡したのは18歳位と推定され、ナイル川で溺死したことは分かっていますが、その状況については謎に包まれています。ハドリアヌスにより神格化されたことから多数の芸術作品に表現され、彼の顔は古代でよく知られていた。 -
「奉納レリーフ」
「奉納レリーフ」
ペンテリック大理石で造られ、アルカディアのロウコウ修道院の近くで発見されました。レリーフはナイスコスの形をしています。真ん中の若者はヘロデス・アッティコスの愛弟子で愛人だった10代で亡くなった後に師によって英雄化されたポリュデウキオンとされます。若者の裸体、馬、餌をやっている蛇は彼を英雄として特徴づけています。若い奴隷が兜を差し出し、奴隷の背後には墓標が描かれており、台座にはルトロフォロスが描かれています。 -
「ディオニュソスをモチーフにした大理石のテーブルサポート」
小アジアのドキメイオン産の大理石で作られたこの作品はテーブルトップの唯一の支持体でした。柱はディオニュソス、パーン、サテュロスによって飾られています。裸のディオニュソスはリュトン(儀式用の壺)を持っています。その隣には山羊の足の神パーンがラゴボロン(野ウサギに向ける棒)を持っていいます。 -
彼らの前には小さな円筒形のバスケットがあり、そこからヘビが出ています。若いサテュロスが葡萄の木に登り、右手に持った鎌で葡萄を刈っています。枝からはラゴボロン、パーンのシリンクス(笛)、山羊の皮がぶら下がっています。身体の露出した部分は非常によく磨かれています。赤と黄色の色の痕跡は人物の髪と枝に残されています。この精巧な作品は小アジアの工房から生まれました。
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「スフィンクスの像」
アッティカのスパ蓼発見されもっとも初期のスフィンクスです。紀元前570年頃に造られました。 -
「墓石」
スフィンクスをいただいた墓石の人物は故意に削られています。 -
「レリーフ」
アテネのテシオンの近くで発見されました。葬送のためのレリーフと考えられ、ヘルメットを被って右に走る裸の若者を表しています。彼は重歩行兵のレースに参加するアスリートかピュロスのダンサーかもしれません。このレリーフは大胆な動きとデザインされた飾り板の形状と人物の調和がとれています。 -
「クーロス墓像の台座」
アテネのケラメイコスで発見されました。クーロスはスポーツ選手の墓に置かれる墓像で、台座にの3面にレリーフが施されます。中央にはレスリングの競技をしている人物と左にはジャンプをする選手、右側にはピットの準備をしている選手がいます。 -
「アッティカ黒色陶器のアンフォラ」
4頭立ての戦車のクアドリガが両面に描かれています。御者は戦車協議のスタートを待っています。 -
「ポセイドンのブロンズ像」
神は裸体で右足を前に出し、「ΤΟ ΠΟΤΕΙΔΑΟΝΟΣ ΗΙΑΡΟΣ(ポセイドンに神聖なもの)」と刻まれたブロンズの台座の上に立っています。左手にはトライデントを持ち、右手にはイルカがいたのかもしれません。 -
目は別の素材で作られ、象嵌細工が施されていました。唇は赤みを帯びた銅で表現されています。この作品はシビアスタイルの初期にさかのぼる数少ないオリジナル作品の1つです。
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「ポセイドンまたはゼウスのブロンズ像」
エウボイア北部のアルテミシオン岬付近の海域から発見されました。神は左腕を前に伸ばし、右腕はトライデントまたは稲妻を持っていたと思われます。ポセイドンとゼウスのどちらが描かれているかについては意見が分かれています。この彫像は、動きと身体の形成を見事に表現したセヴェ様式の現存する数少ないオリジナル作品の1つであり、間違いなく古典期前期の偉大な彫刻家の創造物です。 -
この彫刻は1926年に初めて発見され、その後の1928年にさらに紀元前2世紀半ばまでに沈没した難破船の跡で発掘されました。このような難破船の多くはローマ時代のもので、ギリシャ美術をイタリアに略奪する船のものでしたが、アルテミシオン号の難破船がこれらの難破船の1つであるかどうかは不明とされています。先ほど見た「アルテミシオンの騎手」 の競走馬とその騎手のブロンズ像は同じ難破船から回収されています。
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作者については分かってはいませんがこの完成度から技術的にそのような大規模な彫刻が可能なギリシャ本土の彫刻家はカラミスかオナタスやマイロン、クリティオスやネシオテスとも関連づけられていますが、誰がこの作品を制作したのかは不明でです。
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2006年に行ったナポリ湾に浮かぶイスキア島の「ジャルディーニ・ポセイドン・テルメ」という温泉リゾートのプールサイドにこの像のレプリカがあって驚いたことがあります。
イスキア島で温泉三昧:https://4travel.jp/travelogue/10355273 -
午前中からギリシャ文明を洪水のように頭の中に取り込んでいるので、そろそろパンクしそうです。ようやく2階に上がりましたがまだまだ展示品は数多く残っています。
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「くちばしのある乳首型突起装飾水差し」(奥側の水差し)
紀元前16世紀に造られ、サントリーニ島のテラのアクロティリで出土しています。人間と鳥の特徴を持つ乳首の水差しはどういった発想で生まれたのでしょうか。アクロティリは中期キクラデス時代の紀元前2千年初頭に発展を続け、紀元前16世紀には、高度な高層ビルの建築が示すように都市形態を形成していましたが、火山の噴火により島の多くが沈んでしまいました。火山灰は集落を覆いましたが、優れた保存状態からアクロティリは「エーゲ海のポンペイ」と名付けられています。 -
「ボクサーのフレスコ画」
裸の若者2人がベルトを締めてボクシンググローブを着用しています。サントリーニ島(テラ)のアクロティリで発掘された紀元前16世紀のフレスコ画です。 -
頭は剃られていますが後ろに2つの長い髪の毛があり、額の上に2つの短い髪の毛があります。彼らの暗い顔色は彼らの性別を示しています。左の少年は控えめで首飾りと腕と足首につけた2つのブレスレットからなる宝飾品を身に着けており、社会的地位の高さを示しています。「カモシカ(アンテロープ)の壁画」のフレスコ画と同じ部屋にあったっため、おそらく同じ画家によるものと考えられます。
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「カモシカの壁画」
紀元前16世紀に描かれた壁画で、ボクシングの壁画の右壁面に描かれていました。
白く塗られた漆喰の上にカモシカ(アンテロープ)が2頭が濃い線で生き生きと機敏な動きで描かれています。 -
「春のフレスコ画」これはテラのアクロティリの唯一のフレスコ画で、同じ部屋の3つの壁に渡り無傷で発見されたものです。
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その場で発見された唯一のアクロティリの壁画です。 火山噴火前の岩だらけの風景を描いたもので、黄色い茎を持つ赤いユリの群れが赤と灰色の火山層を覆い、ツバメが上空を舞い飛ぶことで場面を活気づけ、自然の毎年の再生を象徴的に告げています。
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「キンぺ(細長い容器)」
てらの典型的なタイプの陶器ですが、用途は不明のままのようです。描かれた絵はミノアの標準的なものです。ここでは1つには緑豊かな風景の中にヤギを描き、もう1つには群れを成して泳ぐイルカが描かれています。 -
「三脚アンフォラ」
紀元前850年から800年ころの中期幾何学時代に造られたものです。黒地のアンフォラに描かれた幾何学模様は現代のデザインにも通じる完成度を感じます。これらのデザインは定規とコンパスを使って描かれました。 -
紀元前1125年頃のミケーネ文明の崩壊後人々の移住や移動の結果出現した新しい特徴が幾何学模様でした。それは紀元前1050年から700年にかけての約300年にわたって続きました。
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そろそろ2人とも歩くのが限界になってきました。妻も腰に手を当て始めましたし見学を切り上げないとならない時間にもなってきました。
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幾何学的な様式の壺は壺全体を覆う円周の周りのいくつかの水平帯によって特徴付けられます。これらの線の間にはジグザグ、三角形、蛇行、卍など多くの装飾的なモチーフを使用しました。抽象的な要素に加えてこの時代の画家は、人間と動物の様式化された描写を導入しました。この時代の現存する遺物の多くは埋葬品desu.
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「アッテカのスキュポス(取っ手の付いた陶器)」
ケラメイコスのこのスキュポスの内部の絵には合唱しながらダンスするシーンが描かれており、その部分はそれぞれ次の要素で構成されています。 2人の女の子と別の女の子の列に先立つ若者の列、1人で踊る女の子のグループを除いて人物はお互いに手を握り合っています。 -
「アッテカのスキュポス(取っ手の付いた陶器)」
1頭の大きな雄牛を中心に4頭の馬が描かれています。ギザギザの模様は草原の草を表しているようです。馬の周囲には佇む人が1人と馬に乗る人が2人描かれています。 -
「後期幾何学模様時代のクラテル」
クラテルは古代ギリシャでワインと水を混ぜるのに使われた大型の甕で、饗宴では部屋の中央に置かれました。ケラメイコス(ディピロン)出身のヒルシュフェルトにより紀元前750年から735年頃に造られました。 -
幾何学的な模様以外の馬や人物までもデフォルメされて統一した模様の一部になっています。作家は何も描かれていない部分を残すのを嫌がったようで、隙間を埋めるようにメアンダーや卍が描かれています。このような余白を嫌がる傾向を「空間畏怖」と呼び、幾何学様式時代の最後までその傾向は続きました。
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「遺体を墓所に運ぶエクフォラの模型」
布で覆われた遺体は馬車の寝台の上に置かれ、4人の哀女がその周りに立っています。遺体の隣では子供が手を挙げて嘆いているので、母親が亡くなったのかもしれません。 -
「アッテカの黒絵様式のアンフォラ」
ネッソスの画家により紀元前620年から610年に造られました。翼を広げたゴルゴンの姿からペルセウスの物語が題材になっていると思われます。左手にはゴルゴンの首が転がっていることから躍動的に描かれた2人は三姉妹の残りのステンノとエウリュアレが翼を広げてペルセウスを追う瞬間のようです。花瓶の首の部分にはヘラクレスがケンタウロスと戦っている姿も描かれています。 -
黒絵式の時代は紀元前620年から紀元前480年ごろで、アルカイク期の中期から後期にほぼ相当し人物像などをシルエットで描き線刻で詳細な描写をするという技法です。紀元前7世紀のコリントスで発明された黒絵式が様式として完成したのはアテナイで、絵付師が署名し始めたのもアテナイでのことで、紀元前580年頃にソフィロスの署名したものが現存する中では最古です。
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ヒョウと白鳥を描いたアンフォラも素晴らしいですが、個人的には好きなモチーフのセイレーンが描かれたスキュポス(取っ手の付いた陶器)もいい味を出しています。
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「アッテカの赤絵式キリクス」
陶芸家パンパイオスのサインが入り、紀元前500年から490年にブーエティアのカルディツァで造られました。赤絵式の技法は紀元前6世紀末にアテナイで生まれ、黒絵式のような線刻ではなく描線で詳細を直接描くことで表現の幅が広がりました。 -
ネメアの獅子の毛皮を被ったヘラクレスが躍動感ある姿で描かれています。
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そろそろ時間切れです。もう少し時間があれば博物館のカフェでお茶でも飲もうと思っていましたが、ミュージアムショップに立ち寄っている時間もありません。
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約2時間の駆け足の見学でしたが気に入ったものの写真も撮れて、分からなかったことの謎も解明できて新たな発見もありました。
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ここからオモニア広場の地下鉄駅まで戻って、さらにピレウス駅まで出てタクシーでクルーズターミナルまで戻るのがしんどくなってきました。妻も付かれているのでタクシーで戻ることにします。現地の日本人のガイドさんから大体25?という金額も聞いています。
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博物館の前には客待ちのタクシーが止まっていてドライバーがうろうろ歩いています。そのタクシーを素通りして通りの反対側を少し離れたところで車を止めます。ちなみにギリシャではタクシーやバスに合図するときは手のひらをパーにしてはいけません。これは相手にバカといっているゼスチャーになるので、腕を斜め下に伸ばすと車は止まってくれます。
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タクシーに乗った途端に妻が咳をしだすと運転手さんはダッシュボードからマスクを取り出しました。気を使わせて申し訳ないなと思っていると自分も咳が出てきました。運転手さんは早く降ろしたかったのか、最短距離で走ってくれたので16.4ユーロでピレウスの一番奥のBクルーズターミナル、イプシロン12に着きました。申し訳なかったので20ユーロでお釣りはいりませんというと大喜びで、表に出て、妻側のドアを開けてくれました。
ピレウス港 船系
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午後5時には自分たちの船室に戻ることが出来ました。バルコニーに出てピレウスの港をじっくり眺めてみます。昔のように個人旅行で地中海のフェリー旅を再開したくなります。
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港湾で働く真っ赤な船がカッコいいです。
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昔は現地の旅行会社まで来てチケットを手に入れていましたが、現在はネットで簡単に予約と発見が出来てしまうので便利な時代になったと思います。
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ただその代りに何か大切なものも失われてしまったような気がします。旅先での人との関わりは恐ろしいほど希薄になったように思えます。
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朝は気が付きませんでしたが古い港湾ビルには三叉の矛を持ったポセイドンの姿が描かれていました。屋上の時計は何年も壊れたままのようです。
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港の教会越しに夕日を浴びた「リカヴィトスの丘」がきれいに見えました。
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その右には「アクロポリスの丘」と「パルテノン神殿」見えました。距離はありますが望遠レンズできれいに切り取れました。これも11階という高さのある客室だったから見えたのかもしれません。
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以前の旅で乗ったヘルメス号はこんな船体だったと思い出します。サロニコス湾に浮かぶエギーナ島とポロス島とヒドラ島の3島を巡りましたが、その何年か前に両親も同じ船に乗っていました。既に両親とも他界していますが、今も元気だったら一緒に旅が出来たと思うと残念です。
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タグボートが近づいてくるとそろそろ出港の時間なのだと分かります。今回もサイドスラスターを利用してあっという間に港を離れました。
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船体にブルーの波とイルカが描かれた遊覧船が並走しています。早朝にアテネについて、こんな船に乗ってエギーナ島へ渡って海岸で昼寝した昔の旅を思い出しました。
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お金持ちのカタマランを追い抜いていきます。
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行ったことはありませんが夕日が有名なスニオン岬はこの先にあるのだと思います。残念ながら右舷のキャビンなので見ることは出来ませんでした。
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パイロット船も見送りを終えて港に戻っていきます。
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ソヴィエト時代の水中翼船はピレウスでも現役で働いています。無くなってしまう前にどこかの島で乗ってみたいものです。
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エギーナ島とサラミス島の間をギリシャの艦隊が通過していきます。10数艘のイドラ級フリゲート艦のようです。
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艦隊を見るのは初めてだったのでちょっと興奮しました。
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「SARONIC FERRIES」はエギーナ島、アギストリ島、メタナ島、ポロス島という比較的近海の島々をカバーしているフェリー会社です。
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モロッコのタンジール船籍の貨物船が地中海へと出発していきます。
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エギーナ島の「アフェアス神殿」も見えないか目を凝らしましたが、陽が落ちてきてシルエットになってしまいました。そろそろ晩ご飯に出掛ける準備を始めます。
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この日の前菜は「イカのサラダ カポナータ」からスタートします。柔らかくボイルされたイカとマヨネーズ風のソースがとても合います。
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さらに「アスパラガスのクリームスープ」も注文しました。濃厚なアスパラの香りがして熱々なので体が温まります。春のオランダの城アスパラとまではいきませんがとても美味しいスープでした。
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メインは「チキンパルメザン」で、トマトソースと溶けたモッツアレラチーズが美味しい逸品です。前の晩は体調が良くなくて晩御飯を抜いていますし、今日もお昼を食べる時間が無かったのでお腹はペコペコです。
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妻は「スパゲッティ アッラ ネラーノ」です。イタリアのソレント半島のマッサ・ルブレンセのネラーノ村発祥のパスタ料理です。主な素材はスパゲッティと揚げたズッキーニ、プロヴォローネ・デル・モナコあるいはカチョカヴァッロというチーズを使います。
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デザートは今日もアイスとシャーベットです。長い1日が終わりました。残すはトルコのクシャダシに寄港するだけでクルーズも終わりが近づいてきました。
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2023/09/28~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(8)32年ぶりのアルベロベッロへようやく妻を案内...
2023/09/29~
プーリア州
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(9)トリエステ入港を楽しんだ後はオーストリア時代...
2023/09/30~
トリエステ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(10)ミラ・マーレ城でコルフ島へ向かうオーストリ...
2023/09/30~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(11)文豪カフェのサン・マルコでランチを食べて、...
2023/09/30~
トリエステ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(12)終日航海日に風邪をひいて寝込みながらフレン...
2023/10/01~
トリエステ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(13)初めて来たオリンピア遺跡の競技場でとりあえ...
2023/10/02~
オリンピア
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(14)オリンピア遺跡の見学の後は考古学博物館で学...
2023/10/02~
オリンピア
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(15)夜明けのピレウス入港からアテネ市内を走り抜...
2023/10/03~
アテネ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(16)5度目のアクロポリスの混雑に驚き、念願の新...
2023/10/03~
アテネ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(17)25年ぶりのアテネ国立考古学博物館は記憶通...
2023/10/03~
アテネ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(18)クシャダシから4度目のエフェソス遺跡を訪ね...
2023/10/04~
エフェス遺跡周辺
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(19)ダーダネルス海峡を通過してイスタンブールに...
2023/10/05~
イスタンブール
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(20)トプカプ宮殿の陶磁器博物館と武器博物館と図...
2023/10/05~
イスタンブール
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(21)トプカプ宮殿のスルタンの衣装と宝物の素晴ら...
2023/10/05~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(22)トプカプ宮殿のイスラム教とキリスト教の聖遺...
2023/10/05~
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