2023/09/30 - 2023/09/30
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kojikojiさん
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クルーズ5日目は早朝にバルコニーに出てみると東の空が真っ赤に燃えているようです。スマホのグーグルマップで確認してみるとトリエステ港へはから利西側から入港しようとしているのが分かりました。22年前にヴェネツィアから列車に乗ってトリエステに入り、駅近くの「ローマ」というホテルに4泊して郊外のアクイレイア(Aquileia)とグラート(Grado)にも足を延ばしていました。最終的には大運河近くの旅行代理店で買い求めたクロアチアの「ヤドロリニア(Jadrolinija)」のフェリーチケットを持って、国鉄駅横のバスターミナルからスロヴェニア経由でクロアチアのリエカまで移動しました。そんな思い出のあるトリエステに海から入るのは感慨深いものがありました。ここまでのクルーズで立ち寄ったコルフ島では「アヒリオン・パレス」へ行くことが出来ませんでしたが、オーストリアの皇妃エリザベートはここトリエステの郊外にある「ミラ・マーレ城」から船に乗ってコルフ島へ通っていました。トリエステでは1日自由行動の日なので、この「ミラ・マーレ城」にも妻を連れていきたいと思っています。感慨深い入港シーンを眺めた後は5階の「ラ・レッジア(La Reggia)」でアラカルトの朝食をいただき、午前9時過ぎに船を降ります。事前にクルーズ・ターミナルの位置は調べてあったので、下船後の移動はスムーズです。まずは「イタリア統一広場」まで出て、市役所の建物の1階にあるツーリスト・インフォメーションへ行き、地図を貰い「ミラ・マーレ城」行きのバスを確認します。それともう1つ、トリエステの世紀末前後の建築の資料がないかを尋ねてみました。1871年にローマを首都として国民国家を建設した後もイタリア人居住地でありながらオーストリア=ハンガリー帝国領として残された地域がトリエステと南チロルでした。第2次世界大戦中にドイツに占領さえたトリエステを解放したのが、チトーのユーゴスラヴィア軍であったことからトリエステ問題が起き、その後2つの地区のうちトリエステを含む部分がイタリアに返還されます。そんな歴史があるためトリエステの町並みはイタリアというよりはオーストリアのウィーンを彷彿とさせます。時代的にもオーストリア統治時代に建てられたネオ・クラシック調の建築が数多く残されています。残念ながらそんな気の利いた資料はありませんでしたが、そんな建築を巡りながら国鉄のトリエステ駅へ向かいます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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早朝5時に目が覚めてベランダに出てみると東に向かっているのが分かりました。イメージとしてはアドリア海をまっすぐ北上しているのかと思いましたが、トリエステ港へは西から東に向かって舵をとっているようです。
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以前は良く利用していたアエロフロートではモスクワからヴェネツィアに向かう際にトリエステ上空でアドリア海に出て、右の窓側の席だと眼下にグラートやアクイレイアを確認しながらリド島からヴェネツィア本島を大きく時計回りに旋回してヴェネツィア・テッセラ空港に着陸します。この美しさを何度か楽しんでいますが、忘れられない景色です。
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だんだんトリエステが近づいてくると空が真っ赤になってきました。今回の朝焼けで一番の美しさでした。
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港が近づいてくると沖合いに停泊している貨物船の姿が増えてきます。
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薄っすらと町の姿が浮かび上がってきました。そうトリエステの町は須賀敦子ののエッセイ「トリエステの坂道」にあるように坂道の多い町です。「サバが愛したトリエステ。重なりあい、うねってつづく旧市街の黒いスレート屋根の上に、淡い色の空がひろがり、その向うにアドリア海があった。そして、それらすべてを背に、大きな白い花束のようなカモメの群れが、まるく輪をえがきながら宙に舞っている…」
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フランスの小説家ジュール・ヴェルヌの冒険小説「アドリア海の復讐」では、活気があった頃のトリエステのにぎわいが描かれていました。1867年にオーストリア支配下のハンガリーで、独立のために地下活動を続けていたサンドルフ伯爵、ザトマール伯爵、バートリー教授の3人は待ちに待った一斉蜂起を目の前に何者かの密告により逮捕され幽閉されてしまいます。密告者の正体を知った3人は脱出計画を決行しますが、ザトマールとバートリーは再度捕まり処刑されてしまいます。サンドルフは断崖絶壁から海に落ちて行方不明になります。それから15年後にアンテキルト博士なる人物がハンガリーに現れ…。トリエステの地勢的な歴史を考えるとストーリーがリアルに感じます。
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水先案内人を乗せたパイロット船が金色の水面を切り裂いてやってきました。
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右舷から乗り込むようですが、救命艇の陰になって何も見えないのが残念です。
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離れたパイロット船はすごいスピードで港へ戻っていきます。
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珍しく妻も早起きしてバルコニーに出てきました。今回のクルーズでは少し奮発してバルコニー付きのキャビンにしましたので、有効に使ってもらわないとなりません。
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イタリアには「未回収のイタリア」という世界史で習った問題があり、イタリア王国成立後もオーストリア領として残された地域がありました。イタリア人の居住者が多かったことから世論は強くその併合を求め、国際的な紛争の要因となります。1919年のサン=ジェルマン条約でほぼイタリア領となりましたが、第2次世界大戦後にユーゴスラヴィアとの間で新たな問題に発展します。
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第2次世界大戦中にドイツに占領さえたトリエステを解放したのが、チトーのユーゴスラヴィア軍であったことからトリエステ問題が起こります。1954年に協定が成立し、イタリア側の地域は返還され、残りはユーゴ領とすることで収まります。これによってトリエステ市域はイタリア領となり、その南の沿岸部がユーゴスラヴィア連邦となります。1991年のユーゴスラビア連邦分解によって旧地区はスロヴェニア領となりましたが、同じく独立を宣言したクロアチアとの間でピラン湾をめぐる国境問題が残っています。
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22年前に1週間ほどヴェネツィアに滞在した後にトリエステに移り、4泊した後に駅横のバスターミナルからスロヴェニアを経由してクロアチアのリエカまでバスで移動しました。同乗していた夫婦のシェパードがスロヴェニアの入国が認められず、1時間ほど国境で止められたため、リエカから乗る「ヤドロリニア(Jadrolinija)」の出港ぎりぎりになったことを思い出します。
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「ランテルナ灯台(Faro LANTERNA)」という名の古い灯台は「トレジア―ノ埠頭(Molo TERESIANO)」にあり、 ローマ時代には海上信号が設けられていた場所になります。
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「トレジア―ノ埠頭(Molo TERESIANO)」の周辺は100年は時間が止まったままのような風情です。この倉庫の中で「紅の豚」のポルコの真っ赤な「サボイアS.21」という飛行艇が造られていそうな、そんな雰囲気を感じました。
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最初の灯台は1769年から1833年にかけてこの島にマリア・テレジア皇后によって命じられ25年かけて造られました。建築家マッテオ・ペルチュによって設計されました。これはイタリアで唯一のオーストリアが設計した灯台です。高さ31メートルの丸い石の塔で、1969年以来は「勝利の灯台 (Faro della Vittoria)」に役目を譲っています。
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スプレンディダは湾内で旋回を始めたので「勝利の灯台(Faro della Vittoria)」が見えてきました。
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戦勝の灯台は海で亡くなった人々を追悼する記念碑で、高さは68メートルあります。3人乗りのエレベーターで展望台まで上がることが出来て、トリエステ湾を眺めることができます。しばらくライトが灯っていましたが、夜明けとともに消えてしまいました。ドームの先端には彫刻家ジョヴァンニ・メイヤーによって設計された勝利の銅像が据えられています。
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「モンテ・グリサの聖域(Santuario di Monte Grisa)」はトリエステの北側のバルコラ地区と「ミラ・マーレ城」のあるカルスト高原にある標高300メートルに位置あるローマ・カトリック教会です。建築家のアントニオ・グアッチによって設計され、三角形の構造は聖マリアの象徴としてMの文字を想像させます。1959年から22年かけて建設され、1992年には教皇ヨハネ・パウロ2世がミサを行っています。
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そして海岸線の先には「ミラ・マーレ城」が姿を現します。真っ白な外観にちょうど朝日が当たり始めました。海上からこの城を眺めることが出来て感無量です。この日の午前中はここまで足を延ばす予定です。
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近景に目をやると懐かしい「大運河(Canal Grande)」辺りの風景が見えます。この近くの旅行代理店でリエカからドゥブロブニクまでの2泊3日の「ヤドロリニア(Jadrolinija)」のフェリーのチケットを買いました。
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「オーダチェ埠頭(Molo Audace)」には朝の散歩に来た人がスプレンディダの入港シーンを眺めています。クルーズ船の停泊する埠頭は事前に調べてあった通りなので安心しました。
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「サン・ニコロのギリシャ正教会(Chiesa greco-ortodossa di San Nicolò)」の建物1つにしても他のイタリアの町では見かけることのない鐘楼の形をしています。
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「イタリア統一広場(Unity of Italy Square)」という名前ですが、周囲に建っている建物はオーストリア時代のもので、イタリアぽさは感じられません。
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船尾を町の方に向けてうまく停泊できたようです。22年前は列車で来てバスで出発したトリエステの町に船で戻ってこれるとは思いもしませんでした。
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ヨーロッパを旅していて、いくつかの町は船で再訪したいと思うことがあります。ヴェネツィアやドゥブロブニク、アマルフィ、ドゥブロブニク、マルタ島のヴァレッタ。数えたらきりがありませんがトリエステもそんな町だとここへ来てそう思いました。
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午前7時半に5階の「ラ・レッジア(La Reggia)」で朝ごはんにしました。さすがにトリエステに入港した後なのでかなり混んでいました。
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このレストランのスタッフは優秀で、注文したものはあっという間に間違いなく届けられます。パンやマフィンは籠に入ったものを持って歩いているので、ストレスなく追加できるのも嬉しいです。
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オムレツもいい具合に火が入っていて中はトロトロでした。美味しいのでついつい食べ過ぎてしまうのが困ります。
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午前9時に2人で下船しました。今回のクルーズツアーで初めての2人旅です。クルーズ船は「ベルサリェーリ埠頭(Molo dei Bersaglieri)」に停泊しています。
Pizzeria Cucina di mare Marinato イタリアン
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「トリエステ市立水族館{Acquario Marino della Città di Trieste)」が見えました。前回来たときは4泊して時間を持て余すこともあり、ここへ来た覚えがあります。当時の日本の水族館に比べたらレベルの低いものでしたが、手作り感が何とも言えなかった思い出があります。現在は改修工事中で閉館しています。
トリエステ水族館 テーマパーク・動物園・水族館・植物園
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「フェリーターミナル(Stazione marittima)」は元々「「モロ・デッラ・サニタ(Molo della Sanità)」と呼ばれ、現在の1/4の大きさの埠頭でした。1930年に桟橋はトリエステ出身の建築家ウンベルト・ノルディオ(Umberto Nordio)の指揮のもとに現在の大きさとなりました。
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ファシスト政府時代のこの建築はイタリアの近代建築の始まりを示す3つの作品の1つとして、芸術とグラフィックの雑誌である「エンポリアム」に認められました。鉄筋コンクリートの特性を利用して、ファサードを浅浮き彫りによって時計の側面ペディメントを簡素化しました。
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誰も注目していない建物ですが、実はイタリアの近代建築を代表するもの建物でもあります。
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「ナザリオ・サウロの像(Statue of Nazario Sauro)」
彼はイタリア海軍の志願兵で、魚雷艇に配属されて60か月の期間で14を超える任務を達成しました。1916年にサウロのボートは岩に衝突し、オーストリアの捕虜となり投獄され、軍事法廷にかけられ絞首刑を宣告されました。 -
トリエステ出身の彫刻家トリスターノ・アルベルティによって死後50周年を記念して造られました。
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「サボイア エクセルシオール パレス トリエステ(Savoia Excelsior Palace Trieste )」はスプレンディダの船尾と対峙するように建っているので、後部のキャビンに宿泊されたご夫婦によるとベランダにいるおじいさんと目が合ったと仰っていました。
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ようやく船から離れて先へ進めます。前回来たときの海岸通りは閑散とした雰囲気でしたが、この20年間の間にクルーズ船も来て雰囲気も変わったように思えます。まだ古い貨物列車用の線路が残っていて、貨車もそのまま放置されているような時代でした。
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海岸線をまっすぐ進めば道なりにトリエステ国鉄駅に行けるのですが、「イタリア統一広場」を見てしまうと、自然と足が中に向いてしまいます。トリエステの町はいつもイベントを開いているようで、22年前も古本屋が広場や通りを埋め尽くすように店開きしていました。今回も何かの見本市のようなものが開かれ、そのテントが邪魔で建物の写真がうまく撮れません。
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「ロイド・トリエスティーノ宮殿」
現在は地域評議会の議席である建物は1883年に建築家ハインリッヒ・フォン・フェルステルによってルネッサンス様式で設計されました。当時の同社はオーストリアン・ロイドと呼ばれる世界で一番古い海運会社でした。 -
ペディメントの彫刻には協会の紋章が入った盾を持つ2人の勝利の女性像と2人の天使が表されています。左側は労働を意味し、右側には海との戦いを意味しています。
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1873年に建てられた「グランドホテル ドゥキ・ダオスタ(Grand Hotel Duchi d'Aosta)」は1300年に厩舎付きのプライベートホテルであるホスピティウム・マグナムから始まり、その後オステリア・デル・ダツィオ、ロカンダ・グランデとなり、そして最後に現在のグランドホテル ドゥキ・ダオスタとなります。
グランド ホテル ドゥキ ダオスタ ホテル
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17世紀にはオーストリアのマリア・マッダレーナ大公妃、トスカーナ大公コジモ・デ・メディチの妻、スペインのマリア・アンナ王妃など、最高位の貴族が次々とこの宿に滞在しました。そのためかペディメントの彫刻には旅人の守護聖人でもある翼の生えたペタソスを被っているヘルメスの姿も見えます。有翼のサンダルのタラリアも見えます。
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「イタリア統一広場」は元々サンピエトロ広場と呼ばれていましたが、一般的には単にグランデ広場と呼ばれていました。トリエステがイタリアに併合された後の1918年に「イタリア統一広場(Piazza Unità d'Italia)」の名前が付けられました。
ウニタ ディタリア広場 広場・公園
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「四大陸の噴水(Fontana dei Quattro Continenti)」はベルガモの彫刻家によって1751年から1754年の間に作成されたバロック様式の噴水です。この当時まだオーストラリアは発見されていません。名声を表す翼を広げた女神が宙を舞っています。
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足元にライオンがいるのはアフリカ大陸を表す像です。それ以外にワニのいるアメリカ大陸、オウムを持った女性のアジア、馬を連れた女性のヨーロッパです。
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「トリエステ市庁舎(Comune di Trieste)」は1875年にトリエステの建築家ジュゼッペ・ブルーニが新しい宮殿の設計により進められました。費用を抑えることに加えて1871年に取り壊されたパラッツォ・デル・マジストラートの形と建築的特徴を取り上げたため、地域の外観を大きく変えることは出来なかったようです。
市庁舎 建造物
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この辺りは午後に散策しようと考えていた理由は、午前中だと逆光になって薄暗い写真になってしまうからです。船への帰り道でもあるし、この先の予定がどうなるかも分からないので、ポイントポイントで写真は撮っておきます。
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市庁所の1階にはツーリストインフォメーションがあり、トリエステ市内の詳細な地図がありました。それと「ミラ・マーレ城」へのバスのナンバーを聞いておきます。トリエステ市内の19世紀から20世紀初頭の建築に関するパンフレットなどがないか尋ねてみましたが全くありませんでした。
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妻に促されて隣の薬局で喉スプレーを買い求めました。キャビンが乾燥しているせいか前のバンから咳が出るようになっていました。これで10.2ユーロでした。ヨーロッパのほとんどの国で喉スプレーを買っているように思います。
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ここまで来てしまったので海岸沿いの道には戻らずに国鉄駅に向かうことにします。通りにはこんな頭像が入り口の扉の上に飾られた建物がいくつもありました。バルコニーのフェンスに1776とあるのは建築された年のようです。
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「テルジェステオ宮殿(Palazzo del Tergesteo)」は市内の重要な建物で、トリエステの中心部に壮大な多目的ビルを建てることを目的として1842年に完成しました。
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以前はトリエステ証券取引所の本拠地でしたが、第2次世界大戦中は建物はドイツ軍によって接収されました。トリエステがイタリアに返還される前はイギリス軍のレクリエーションクラブがありました。 現在は美しいトップライトのあるガレリアになっています。
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入り口の左右にある紋章は海神ポセイドン(ネプチューン)がまたがる海馬のヒッポカンポスとポセイドンの三叉の矛、ケーリュケイオンと呼ばれるヘルメス(メルクリウス)の持つ杖がデザインされています。ケーリュケイオンは「聖なる力を伝える者が携える呪力を持った杖」とされ、2匹の蛇が絡まった姿で表されます。ヘルメスは医療の守護聖人でもあるので、海外の救急車にはこの杖がデザインされていることが多いです。
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「ボルサ広場(Piazza della Borsa)」までやってきました。間違いなく駅に向かっては進んでいます。広場の中央には大きな噴水がありました。
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「ネプチューンの噴水(La Fontana del Nettuno)」
海馬のヒッポカンポスを従え、巨大な貝の上に立つネプチューンはアレゴリーである三叉の矛を持っています。 -
ネプチューンの視線の先には「トリエステ旧証券取引所(Borsa valori di Trieste)」の建物があります。先ほどの「テルジェステオ宮殿(Palazzo del Tergesteo)」の前に使われていた取引所ということになります。ギリシャ建築のような建物は1804年に新古典主義の様式で建てられました。
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その周囲にも新古典主義の様式の建物がいくつも残っています。1日かけてじっくり見学したいところですが、今回はその願いは叶いません。
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「バルトリハウス(La Casa Bartoli))」は一般的に「温室」とも呼ばれ、建築家マックス・ファビアーニ(Max Fabiani)によってウィーン分離派様式で1906年に建てられました。見上げるだけでウィーンの「マジョリカハウス」と「メダイオンハウス」を彷彿とさせます。
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2階の部分が自由トリエステ運動の本部となって、温室らしさを感じることは出来ません。マックス・ファビアーニ(Max Fabiani)はウィーンではオットー・ワーグナーのスタジオに参加し、「ウラニア天文台」を設計しています。
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この日のためにトリエステの町をグーグルのストリートビューで歩き回り、見たい建物は全部地図にピックアップしてありましたが、実際に歩いてみると美しい建物が目に留まってしまいます。
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「ボルサ広場(Piazza della Borsa)」の片隅には「レオポルド1世像(Leopold I statue)」がありました。1683年のウィーンの防衛に成功したオーストリア軍はただちにオスマン軍を追撃しました。1684年にはレオポルト1世はローマ教皇の仲介を得てポーランド王やヴェネツィア共和国やロシアなどと神聖同盟を結成し、ロートリンゲン公カールの指揮するオーストリア竜騎兵は次々と勝利します。1686年には150年間もオスマン帝国に支配されていたブダペストを奪還することに成功し領土を拡大していきます。
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逆光になったのが残念ですが、妻は近くの「GEOX」というお店に入ってしまいます。日本では靴しか取り扱ってませんが、ヨーロッパではウェアのシェアの方が大きいようです。すぐに気に入ったジャケットが見つかったのですが、さすがにそれを持って「ミラ・マーレ城」まで行けないので午後に戻ると伝えました。お支払いはどうしますかと言われましたが、戻れないと大変なので後にしてもらいました。
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ローマ通りのサン ニコロ通りとの角に位置するこのヴェネチア・ネオゴシック様式の美しい建物は、1912年に建築家エンリコ・ノルディオによって建てられ、当初は「ホテル・ブリストル(Ex Hotel Bristol)」という名前でホテルとして使用されていました。
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この建物の特徴は彫刻家ジャンニ・マリンによってローマ通り側を見下ろす正面に置かれたヴェネツィアを象徴するサン・マルコのライオンの浅浮き彫りと、トリエステのギリシャ人コミュニティによって1934年にサン・ニコロ通り側を見下ろす正面に置かれた銘板です。この建物は1911年に取り壊されたため現在は存在しない前の建物で1849 年にコレラで亡くなったパスクワーレ・ベセンギ・デリ・ウーギに捧げられています。小さな銘板にはウーギ家について語ったダンテの楽園の一節が刻まれています。
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「プラハ銀行ビル(Palazzo della Banca di Praga)」
1911年にトリエステ市政は車両の交通量が多いため歩行者の通行が困難になった現在のローマ通り)を広げるためにいくつかの建物を取り壊すことを決定しました。新しい土地が作られ、そのうちの1つはプラハ銀行によって購入され、本社オフィスを収容する建物が建てられました。このプロジェクトは建築家のヨシップ・コスタペラリアとオスヴァルド・ポリフカによって開発されました。 -
オスヴァルド・ポリフカ(Osvald Polívka)はアントニーン・バルシャーネクと設計したプラハの「市民会館」では美的効果を追求するために他のアーティストとのコラボレーションに専念し、友好関係のあったアル・ミュシャを含む何人かのチェコの壁画家や彫刻家の作品を取り入れました。この「市民会館」の美しさには魅了され、内装のほぼすべてを写真に撮ったほどなので、ここへ来たのは感慨深いものがありました。
プラハ市民会館:https://4travel.jp/travelogue/10561856 -
ローマ通りに面したファサードには階段からアクセスできる入り口があり、その側面には彫刻家ラディスラフ・シャローンの作品である「労働」と「産業」を意味する2つの銅像があります。
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最初にこの建物を見たときにチェコのキュビズム建築を想像したのは時代的にも間違いでなかったと分かりました。この建物も事前に調べ切れていなかった建物でした。
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ローマ通りにはまだまだ魅力的な建物がありますが、全部見ていたら駅にたどり着けなくなりそうです。
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「ジョヴァンニ・デル・ポンテロッソの噴水(Giovannin Ponterosso Fountain)」噴水は18世紀半ばに「イタリア統一広場」の「四大陸の噴水」の作成者であるジョヴァンニ・マッツォレーニによって建てられました。市民が使用する大きな水盤の水はサン・ジョバンニ水道橋から引かれました
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18世紀の後半の彫刻家ジョヴァンニ・カルロ・ワーグナーは天使の像を彫刻し、噴水の上に置きました。
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「ポンテ・ロッソ広場(Piazza del Ponte Rosso)」は名前の通り大運河に架かる「ポンテ・ロッソ(赤い橋)」の脇にある広場です。
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広場には巨大なメダルが埋め込まれてあり、ひと目でハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアだと分かりました。直径は5メートルあり、マリア・テレジアの治世中に使用されたコインのレプリカです。マリア・テレジアはトリエステに来たことはありませんが、彼女の治世の時代のトリエステはヨーロッパで一番繫栄していた港でした。2017年の生誕300周年を記念してここに設置されたようです。
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「ポンテ・ロッソ(赤い橋)」から「大運河(Canal Grande)」を眺めてみます。ボルゴテレシアーノは18世紀半ば頃に建設されたトリエステのこの地区を指し、神聖ローマ皇帝カール6世と彼の死後オーストリアのマリア・テレジアによって引き継がれました。1719年に皇帝カール6世はトリエステを自由港として宣言し、市内の目覚ましい経済発展と前例のない人口増加を引き起こしました。
カナル グランデ 散歩・街歩き
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「サンタ・アントーニオ・ヌオーヴォ教会(Chiesa parrocchiale di Sant'Antonio Taumaturgo)」のファサードは6本のイオニア式の柱が特徴なバロック様式の建物です。ドームの前にはフランチェスコ・ボサによって彫刻された聖ユストゥス、聖セルギウス、聖セルヴォロ、聖マウロ、聖ユーフェミア、聖テクラの6つの彫像が置かれてあります。
Chiesa di Sant'Antonio Nuovo 寺院・教会
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「ジェームス・ジョイスの像(James Joyce statue)」
ジェームス・ジョイスはダブリンに生まれ、トリエステには1904年から1915年の間住んでいます。、プルーストの「失われた時を求めて」とともに20世紀を代表する大長編小説と言われる「ユリシーズ」くらいしか作品は知りませんが、「ユリシーズ」はオデュッセウスのラテン語形の英語読みです。ジェームス ジョイス像 モニュメント・記念碑
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アドリア海を航行しながらホメロスの「オデュッセイア」について考えていましたが、トリエステでもまた「ユリ―シーズ」に出会った気がします。物語は冴えない中年の広告取りレオポルド・ブルームを中心に、ダブリンのある1日(1904年6月16日)を多種多様な文体を使って詳細に記録しています。全体の構成はホメロスの「オデュッセイア」との対応関係を持ち、オデュッセウスは冴えない中年男ブルームに、息子テレマコスは作家志望の青年スティーヴンに、貞淑な妻ペネロペイアは浮気妻モリーに、20年にわたる辛苦の旅路はたった1日の出来事に置き換えられています。
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「ヌオボ・アルベルゴ・セントロ(Nuovo Albergo Centro)」は重厚な造りのバロック様式の建物の中のある1フロアで経営しているホテルのようです。ほかにもいくつか安宿が入っているようです。若い頃はこんな安宿を探して泊まり歩いていました。30年前のイタリアリラの時代であれば3500円くらいで泊まれたのではないでしょうか。元々は立派な邸宅だったのだと思いますが、こんな建物はヨーロッパ中にどれだけあるのでしょう。
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こちらの建物もバロック様式の古い邸宅で、2階と3階はいくつかの会社が入っているようです。こういった建物の1フロアに安宿が入っているといちいち呼び鈴を押さなければならず、部屋探しも結構なストレスでした。駅について荷物を預けるとすぐに宿が見つかり、ケチって荷物を持ち歩くと見つからないという不思議な法則がありました。
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ローマ通りを抜けると大きな「ヴィットリオ・ヴェネト広場」に出ました。この建物は「郵便局」ですが、土曜日なので閉まっているようです。そのせいか広場には人の姿がほとんどありません。以前は「ドガーナ広場」という名前でしたが、1894年に新しい郵便局の建物が完成した後「ポステ広場」に変更され、その後オーストリア・ハンガリー軍の敗北につながった戦いを記念して「ヴィットリオ・ヴェネト広場」になりました。
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「トリエステ鉄道局(Palazzo delle Ferrovie dello Stato)」この建物は建築家ライモンド・サゴールスの設計に基づいて1894年から1895年にかけて建設されました。元々はトリエステ鉄道局のための建物でした。MDCCCXCVは1896年を意味するローマ字です。
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1898年にオーストリアのフランツヨーゼフ1世皇帝の治世50周年を祝うために南チロルの彫刻家フランツ・シュランツによって作成されたトリトン噴水があります。噴水はトリエステ市から前年に撤去された噴水を交換するよう依頼されたもので、この場所に皇帝の像を設置することを避けるために急いで建てられました。2人のトリトンとネレイドが水の流れる貝殻を支えています。
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「トリエステ郵便局(Poste Italiane)」はウィーン帝国王立商務省の職員であったオーストリア人建築家フリードリッヒ・セッツによって設計され、すでにハプスブルク帝国王立郵便電信局の敷地に1890年に建設されました。
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正面の柱の上に見える6つの寓話的な彫像はそれぞれ航海、鉄道、商業、ブドウ栽培、農業、産業を表しています。
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ようやく国鉄トリエステ中央駅の近くまで来ました。駅前には「リベルタ公園(Giardino di Piazza della Libertà)」があります。
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その公園の一角には「エリザベート像(Statua dell'Imperatrice Elisabetta d'Austria)」があります。
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この記念碑は皇后の死を悲しむ市民の寄付により、青銅とイタリアのカッラーラ産の大理石で造られ、1912年12月15日に落成しました。アール・ヌーボー様式の作品は彫刻家フランツ・ザイフェルトに委託され、皇后の側面には芸術と自然の寓意と彼女に対する人々の敬意を加えました。
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ハプスブルク帝国の崩壊後1921年にこの記念碑は解体され、ミラマーレの倉庫に保管されました。1997年に広場が再建された後にリベルタ広場に移されました。
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「トリエステ中央駅(Stazione ferroviaria di Trieste Centrale)」
トリエステ市の現在の鉄道網はほとんどが旧オーストリア帝国時代に建設された鉄道路線に基づいています。オーストリア南部鉄道の主軸にトリエステが含まれることで、トリエステはオーストリア帝国において最大かつ最も重要な港湾都市になったことから経済が上向きになります。オーストリア帝国とトリエステとの間の交易路の急速な発展により駅舎を一新することとなり、この駅舎はヴィルヘルム・フォン・フラッティッチによりネオルネッサンス建築で設計され、1878年に完成します。 -
「トリエステバスターミナル(Autostazione Trieste Trasporti)」
22年前にここからバスに乗ってスロヴェニアを通過してクロアチアのリエカまで行ったことが懐かしく思い出されます。「地球の歩き方」にも隣接する国への国際バスなどの情報は皆無だった時代です。その当時の旅行の支出を見るとバス代が12,000リラ(720円)で、荷物が別料金で1,500リラ(90円)でした。同乗した夫婦の連れていたシェパード犬がスロヴェニアに入国する書類が無く、国境ですったもんだ1時間ほど停車して、危うくリエカからのフェリーに乗り遅れるところでした。 -
美しい吹き抜けのある駅舎なのですが、改修工事の足場パイプが組まれていたので写真が撮れなかったのが残念です。最初にヴェネツィアから到着した時、アクイレイアとグラートにもこの駅から往復しました。沿線にあるチェルヴィニャーノ駅で列車が不通になり、代替バスでトリエステに戻る際はドキドキしました。
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駅の構内まで来たのは懐かしさもありましたが、路線バスの切符を買うのが目的でもありました。1時間券が1枚1.4ユーロでした。昔は1,500リラで90円でした。表にあるスーパーPamの前からバスに乗って「ミラ・マーレ城」に向かいます。予定から30分ほど遅れています。
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