2023/10/04 - 2023/10/04
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kojikojiさん
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クルーズ9日目は午前7時のクシャダシ入港からスタートします。いつものようにもっと早く目覚めていたので夜明け前の情景から景色を楽しめました。今回のクルーズでは西から東に向けても入港が多かったので、キャビンが右舷側にあったのはラッキーでした。着岸するまでの見てから朝食をいただき、午前8時30分の集合を待ちます。クシャダシから「エフェソス遺跡」へのエクスカーションはクルーズプラネット社で仕立てた小型バスに乗り込みます。「エフェソス遺跡」へ行くのは4回目で、1回目はピレウス発着のロイヤルオリンピッククルーズの4泊5日のエーゲ海クルーズで「聖母マリアの家」と共に見学しました。2回目はトルコと北キプロスを巡った1カ月の旅で、イズミールからイスタンブールへのフェリーに乗ろうとしたらその年の運行が1週間前で終わっていて、行くところが無くなってしまい路線バスで遺跡と博物館とアルテミス神殿を見学しました。3回目はトルコを15日で周遊するツアーで、妻にとっても今回が2回目のエフェソスの遺跡見学です。バスは1時間ほどかけて「エフェソス遺跡」に向かいますが、我が家だけが2カ所ある遺跡の入り口のどっちでバスを降りるか添乗員さん詰め寄ります。着くに妻は坂道を登りたくないので真剣です。車中では現地のガイドさんが現代のトルコについていろいろ教えてくれたことが面白かったです。エルドアンを支持する人は実際52%くらいしかいなことなどは最近はNHKでも放送しますが、以前は全くといっていいほど日本のニュースで知ることは出来ませんでした。以前にアンタルヤから1日ツアーに参加した時にガイドさんからトルコの政治について尋ねられたことがありました。ちょうどトルコの総選挙の直前だったせいもありますが、満員のバスの全員がマイクを持って意見を述べました。この時は全くトルコの政治についての知識も無く、何も答えられませんでした。後ろの方でわいわい騒いでいたエクアドルの女子大学生でもちゃんと答えていたのに…。そんなことを思い出しながらの移動はあっという間で、願い通りオデオンに近い高い方の入り口近くの駐車場でした。アゴラからオデオン、クレテス通りを通ってヘラクレスの門からケルスス図書館に向かって坂道を下るように進みます。この日はクシャダシに3艘のクルーズ船が入港しているのでものすごい観光客の数で、メインストリートのクレテス通りは人で埋まっています。ケルスス図書館で15分ほどの自由時間があり、その後は劇場に向かって歩きますが、途中には世界最古の広告があり4回目の説明を受けます。今回新しかったのは通り沿いの大理石に等間隔で割れ目があることの説明でした。古代では遺跡に積み上げられた大理石の固定に鉛が使われていました。後年になってその鉛を取り出すために大理石を割ったという事実は初めて知りました。4年前には修復工事の仮囲いで覆われていた劇場はその全てが外されていて、美しい全体像を見ることが出来ました。ツアーは遺跡の見学だけで、クシャダシに戻る前に恒例のレザーショップに立ち寄り、ファッションショーを見学します。この時間で「聖母マリアの家」か博物館に立ち寄ってくれればと思います。クシャダシの港に戻った後はフリータイムになり、船の出港前に各自で戻ります。クシャダシには見るべきところは少ないのですが、キャラバンサライを見てから町中をぶらぶらしました。絵葉書を買って切手が欲しかったのですが、どこの店も郵便局へ行けと言います。それではと郵便曲を探しますが、何院にも訪ねて最後には通りがかったおじいさんに連れて行ってもらいました。ところがお昼休みがあって15分後からの営業で、さらにたくさんの人が並んでいるので諦めなければなりませんでした。妻を30分近く待たせてしまって何も得られずちょっと失敗でした。季節の柘榴のジュースを飲んで、土産物屋を覗きながら船に戻ります。部屋に戻ってからは買ってきたコーラとボンベイサファイヤでジンコークを作ってベランダで景色を眺めました。クルーズ最後のディナーをツアーの皆さんと楽しんで、カジノへ向かい、換金してもらいました。結局1一晩しかできなかったのでプラス400ユーロに留まりました。荷造りして部屋の前にトランクを並べると、クルーズの終わりを感じます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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この日も夜明け前に目が覚めてしまい、ベランダに出てみるとトルコのクシャダシの近くまで来ていることが分かりました。
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東の空が薄っすらと赤く染まり始めています。今回のクルーズでは南西の方角から入港することが多かったので、右舷側の部屋で良かったと思います。
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クシャダシの港へ来るのは2000年のエーゲ海クルーズ以来なので23年振りになります。
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暗い海の上を蝋燭が灯るようにタグボートが近づいてきます。
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かつて高度な文明を築いた古代都市エフェソスの港として繁栄した小アジア最大の貿易港です。港にはクシャダシ城があり、その城壁が明け方までライトアップされています。
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本来は真っ白い飛行機雲に朝日が当たってピンク色に染まっています。
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我々のスプレンディダより先にシルバー・スピリットが港に停泊しています。シルバーシー・クルーズの最大船で270室ある客室は全てが海側客室です。全長195.8 メートルで、36,000トンと現在のクルーズ船の状況から見るとかなり小型の船です。
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キリスト教初期の時代である紀元前2世紀にはローマ帝国が沿岸部を支配し、聖母マリアと使徒ヨハネはこの一帯に住み、聖母マリアの終の住処といわれる家があります。
クシャダス港 船系
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一度ツアー参加者全員が集合して下船します。この日の「エフェソス遺跡」へのエクスカーションはクルーズプラネット社の仕立てた小型バスでの観光になります。
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たくさんのお土産物屋と呼び込みと観光客の間を抜けて港の外まで出ました。現地ガイドさんが捕まらないので近くにあるツーリストインフォメーションでsクシャダシの地図などを貰っておきます。
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やってきたガイドさんと合流してバスに乗って出発します。25年前は閑散としていた港の周りもずいぶん景色が変わったものだと時の流れを感じます。
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「エフェソス遺跡」までの1時間ほどは現地のガイドさんの面白い話をずいぶん聞かせてもらいました。
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海岸線には巨大な「平和の手の彫刻(Hand of Peace Sculpture)」が見えました。1970年代には日本にもこんな彫刻がたくさんあったような気がします。
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海岸線に沿ってバスは走り、高台に登ると港に停泊しているMSCスプレンディダの姿が見えました。
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しばらく走るとセルチュク・エフェソス空港が右手に見えてきました。この空港は軽量飛行機や飛行訓練の練習機、スカイダイビングも楽しめるようです。ほぼ「エフェソス遺跡」の横にあります。こんな場所に飛行場を作ってよいのかと思いますが、昔はこの辺りは海だったのかもしれません。
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遺跡へは標高の高いオデオンの近くの入り口から入場しました。こちらから入るとずっと下りの道を歩くことが出来ます。見学はステートアゴラから始まります。このアゴラは公共広場でさまざまな理由や機会で人々が集まるように設けられています。広さは160メートル×73メートルあります。イシスまたはアウグストゥスに捧げられた神殿もあったようです。ここはヴァリウスの浴場跡です。
エフェス遺跡 史跡・遺跡
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ローマの入浴施設の習慣はヘレニズム時代から始まったようです。ヴァリウスの浴場の北側の入浴室は後方の山の岩盤を切り出した形になっています。西にあるカルダリウムと呼ばれるサウナルームには7つの壁龕(ニッチ)と入浴用のプールを備えていました。ローマ人の造った浴場は都市が違ってもそのシステムや用途別の部屋などは基本的に同じだったようです。
公営アゴラ 史跡・遺跡
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西と南には床のモザイクの装飾と列柱が並び、ここはレクリエーションルームとロビーホールとして機能しました。発掘されていない南側の領域にパラエストラ(運動エリア)が存在していたと思われます。
ヴァリウスの浴場 史跡・遺跡
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オデオンはブリューテリオン(Bouleuterion)とも呼ばれ評議会の会議だけでなく、音楽のパフォーマンスやコンテストも開催されました。元々屋根が付いていた半円形の講堂はステージの壁に囲まれています。
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建物は西暦100年頃に建てられ、1500人を収容できました。西暦150年にプビリウス・ヴェディウス・アントニウスは皇帝の肖像画と皇帝アントニウス・ピウスの書簡のための新しい舞台を建築しました。
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オデオン自体はそれほど大きくありませんが、座席の大理石は破損や欠損も少なく往時のイメージを沸かせることはたやすいです。
オデオン (劇場) 史跡・遺跡
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ローマ帝国の宗教でもあったディア・ローマとディヴァス・ユリウスの神殿は人々の団結を図るためのものでした。劇場に隣接したプリタニオンと市庁舎の前にありました。
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初めてこの遺跡へ来たロイヤルオリンピッククルーズのエーゲ海クルーズではパトモス島の神学者聖ヨハネ修道院に併設された「黙示録の洞窟」にも行きましたが、エフェソスでは遺跡以外に「聖母マリアの家」にも寄りました。キリスト教徒にとってはどちらも聖地です。
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伝説によるとイエスの死後4年目に聖母マリアは聖ヨハネを伴って、エフェソス遺跡の左側にあるコレッソス(ビュルビュル)山へ行き、亡くなるまでここで過ごしました。この聖堂にはパウロ6世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世を含む教皇が祝福のために訪れています。
市公会堂 (プリタネイオン) 史跡・遺跡
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「ロディアン・ぺリスタイルとプリタニアン」
オリンピア遺跡で見たプリタニオンはマケドニア王フィリッポス2世による全ギリシャ統一を記念して建造された建物でしたが、ここでも同じような建物が残されています。 -
都市にはコミュニティの団結と活力を表す神聖な火であるプリタネイオンがありました。火は王やその家族によって手入れされ、絶え間なく燃え続けました。この火が置かれていた建物がプリタ二オンであり、建物には炉の女神であり、都市の生活の象徴であるヘスティアの聖なる火が灯されました。
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案内板にもあったアルテミス神の像はここで発見されたものです。20年前の2回目に来たときはイズミールからセルチュクまで路線バスで来たので「エフェソス考古学博物館」へも立ち寄ることが出来ました。この博物館の収蔵品も素晴らしいのですが、その後の日本のツアーでは立ち寄ることはありません。ウィーンには「エフェソス博物館」があるのですが、延べにして3週間ほどウィーンに行きながらまだ訪れたことはありません。
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先日の「オリンピア遺跡」の見学の後には「オリンピア考古学博物館」にも立ち寄ったことで、知識の吸収が安易でしたが、ここまで来て博物館へ行かないのは片手落ちだと思います。
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「スト―ア大聖堂」
スト―アとは王の列柱で、この大聖堂はC.セクスティリウス・ポッリオによって寄進され、西暦11年に建設されました。正面ファサードには67本もの柱がありました。 -
トスカナ式オーダーは3つの内陣を持った幅広の軒の深い神殿に使われるものとされています。この特徴はエトルリアの神殿建築に見られ、従ってこれはイタリア半島のエトルリアに起原を持つ最も単純な形式な柱と考えられますが、遠く小アジアのトルコまで伝播していることが分かります。
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東ローマ帝国の下でもエフェソスは引き続きアシア属州の首都として繁栄しました。政治と経済の中心であり、また府主教座が置かれるキリスト教会行政の中心でもありました。多神教が禁止された後一部アルテミス神殿や劇場は街の建築資材を得る場所とされ、石材が搬出されるとともに住宅地に侵食されていきます。エフェソスの神殿の石材の一部はコンスタンティノポリス(イスタンブール)の建築資材としても使われました。
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「メミウスの碑」
ドミティアヌス広場の北側にあり、紀元1世紀のアウグストゥス帝の治世中に独裁者スッラの孫息子であるメミウスによって建設されました。 -
彼の父カイウスと独裁者の祖父スラの姿を彫像で見ることができます。構造には4つのファサードがあり西暦4世紀に北西のファサードに正方形の噴水が建てられました。記念碑の東端から発見されたラテン語による碑文には「救済者カイウ、メミウス、カイウスの息子、コーネリウス・スラの孫」とあります。
メミウスの碑 史跡・遺跡
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元々は案内板にあったように円錐形の屋根を持つ党のような構造だったと思われます。
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過去2回のガイドさんと説明するポイントが違うので何度来ても新しい発見があります。
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アスクレピオスの杖はギリシャ神話に登場する名医アスクレピオスの持っていた蛇(クスシヘビ)の巻きついた杖です。医療や医術の象徴として世界的に広く用いられているシンボルマークでもあります。「杖にからむ蛇」として表される螺旋は生命力や権威などを象徴しており、ギリシャの医療神アスクレピオスのもつ杖やヘルメス神の持物のカドゥケウスにおける二重の蛇の螺旋はいずれも超自然的な力を示すといわれます。
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「皇帝崇拝の神殿」
ローマ元老院の記録ではエフェソスに皇帝神殿を建設する許可は皇帝バレリアヌスの時代の紀元251年から260年に下されています。小アジアの州にとって皇帝神殿を所有する事は実に名誉ある事で、エフェソスは皇帝神殿を獲得した第一の都市となり、ペルガモンとスミルナに格段の差をつけられるため出費も惜しまなかったそうです。 -
神殿には東に面した壁に4本ずつの支柱がありましたが後の時代に建物の上に別の建築物が造られたため神殿自体は崩壊状態にあり、現在は高度な職人技術がうかがえる大理石の舞台と基礎の上に壁が残るのみとなっています。皇帝アウグストゥスがエフェソスに来た紀元前29年に建設許可したこれらの神殿は、ローマの女神ディア・ローマに、もう1つはアウグストゥスの養父であるジュリアス・シーザーに捧げられたのです。
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左手にケーリュケイオンという超自然的な杖を持って、脚にはタラリアという有翼のサンダルを履いています。頭部は欠損していますが、もしかすると翼が生えたぺタソスという帽子を被っていたかもしれません。これはヘルメス神の姿の特徴で、右手で押さえた羊は彼が司る「羊の群れ」を意味していると思われます。
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「ニケの像」の前は写真撮影ポイントなのでいつも混んでいますが、一瞬誰もいなくなるタイミングがあります。この像の前で何度記念写真を撮ったことでしょう。
ニケのレリーフ 史跡・遺跡
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ニケのリアルな像は先日オリンピアの考古学博物館でも見てきましたが、有名℃でいえば子のレリーフだと思います。ニケはギリシア神話に登場する勝利の女神で、一般には有翼の女性の姿で表され、アテナの随神ともアテナの化身とする場合もあります。ここでは左手に勝利の月桂冠を持っています。
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ようやくヘラクレスの門までたどり着きました。先ほど記念写真を撮ったニケのレリーフは元々はこの門の上部に飾られていました。
ヘラクレス門 史跡・遺跡
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ヘラクレスはネメアの獅子の毛皮の頭を左手で持ち、右手ではその後ろ足を握っています。ネメアの獅子とはヘラクレスの十二の偉業の1つで、刃物を通さない強靭な皮を持っており、矢を撃っても傷一つつきませんでした。ヘラクレスは棍棒で殴って悶絶させて洞窟へと追い込みます。そこで洞窟の入り口を大岩で塞いで逃げられないようにし、3日間の格闘の末に絞め殺しました。その皮を?ぐためには獅子の爪を使いました。
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これは一番最初の英語ガイドさんに教えてもらったのですが、バナナの房がレリーフのモチーフになっています。ギリシャ時代にアナトリアでバナナがとれたかどうかは分かりませんが、アンタルヤの東の海岸線では街道沿いでバナナを売っているのを見掛けますし、バナナの温室も見ることが出来ます。
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「クレテス通り」の先に「ケルスス図書館」が見えてきました。ここからはずっと下り坂なので歩くのも楽です。逆から見学を始めるとずっと登り坂になるので大変です。それくらい広大な遺跡です。
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「クレテス通り」は観光客で埋め尽くされています。
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大理石の敷かれた古代の通りはツルツルに磨かれたような状態です。これで雨など降ったら滑って歩けないと思います。実際そんな事故は多いようで、案内板の下には救急車を呼ぶ場合の電話番号が書かれてあります。
クレテス通り 史跡・遺跡
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コリント式は古代ギリシャ建築における建築様式(オーダー)の1つであり、ドーリア式とイオニア式と並ぶ3つの主要なオーダーに位置づけられます。トスカナ式のリブの無いオーダーが並んでいる意味は不明です。
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ツアーの2日目にイスタンブールの観光で行った「アヤソフィア」はたった5年で完成していますが、当時としては驚愕のスピードでした。その理由はここエフェスのアルテミス神殿、エジプト、レバノンなど各地の神殿の柱を再利用したからといわれています。そのため柱頭だけ残されて柱が無くなっているものが多く見られました。
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雨の当たらなかった梁の上に当たるコーニスには精巧な彫刻が施され、造られた当時の色が残されています。
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「トラヤヌス帝のニンファエウム」
トラヤヌスのニンファエウムは紀元102年から114年に建てられ、エフェソスのアルテミスとトラヤヌス帝に記念碑を捧げた裕福な夫婦のティベリウス・クラウディウス・アリスティオンとユリアリディア・ラテラネによって寄進されました。アリスティオンはケルスス図書館の完成にも責任があり、ニンファエウムは図書館と同様に彫像で飾られた2階建てのファサードを持っていました。 -
ニンファエウムは古代ローマや古代ギリシャで泉の神ニンフ(ニュンペー)を祀る場所または神殿です。古くは自然の洞穴などをニンフ信仰に結びつけていましたが、後に瀟洒な装飾を施した建物などが建てられるようになります。
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案内図に描かれた地球儀の上に立つトラヤヌス帝の巨大な像は、ファサードの中央のくぼみの上に立っていました。他の彫像にはテヴェレ・アポロン型のディオニュソス、サテュロス、アフロディーテ、皇帝の家族の彫像が含まれ、これらは近隣のセルチュクにある「エフェソス博物館」に所蔵されていました。
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ニンファエウムはビザンチン皇帝テオドシウス1世の治世中に再建されました。1958年に発掘されましたが、ファサードの高さは約9.5メートルでした。現存する部品で作られた現在のファサードの復元はかなり小さくなっているようです。
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ダメもとでグーグルレンズの翻訳に掛けてみましたが、翻訳することは出来ませんでした。
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「ハドリアヌスの神殿」
ハドリアヌス帝に捧げられたこの寺院はクレテス通りで最も保存状態が良く、最も美しい建造物の1つと見なされています。紀元2世紀初頭にP.クインティリウスによってハドリアヌス帝がアテネからこの街を訪れたことを祝うために建設されました。ハドリアヌス帝は五賢帝の1人とされていました。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスなどのローマ皇帝を指しますが、彼らは元老院の支持と協力を勝ち取ることに成功しましたが、これ以前の皇帝が成し遂げられなかったことです。 -
「ハドリアヌス神殿」という名前は少し誤解を招き、この建造物は神殿というよりも記念碑であり、女神アルテミスとエフェソスの人々に捧げられました。寺院のファサードは市内で最もエレガントな建物の1つとなっています。ファサードには湾曲したアーチを支える4本のコリント式の柱があり、このアーチの真ん中には勝利の女神テュケーのレリーフがあります。
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神殿の前にはディオクレティアヌス帝、マクシミアヌス帝、コンスタンティウス1世、ガレリウス帝の銅像が置かれていました。銅像の柱は残っていますがオリジナルの銅像はまだ見つかっていません。
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この寺院は紀元4世紀にテオドシウスが父に敬意を表して再建しました。扉の上の神殿の中ではメデューサがアカンサスの葉の飾りを持って立っています。
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入り口の両側には街の歴史を描いたフリーズがあります。1枚目はアンドロクロスがイノシシを撃ち、もう1枚はディオニュソスの儀式の行列で、3枚目はアマゾネスを描いています。4枚目のフリーズはアポロン神と女神アテナ、アンドロクレス、ヘラクレス、テオドシウスの家族の何人かが描かれています。
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もう少し時間があればレリーフの写真を撮りたかったのですが、1時間ほどでこの遺跡を走破するにはかなりの早足になってしまいます。
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通りの左側の説明はないので、1人で木製の階段に登って写真を撮ります。
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3つの段丘に6つの住宅ユニットがあり、最も古い建物は紀元前1世紀に遡り、紀元7世紀まで住居として使用され続けました。エフェソスのテラスハウスはローマの住宅に似た屋根で覆われています。
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床のモザイクとフレスコ画が修復された2軒の住宅が博物館として一般公開されていますが中に入る時間はありません。
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この近くには古代エジプト最後の女王クレオパトラの妹の墓があります。妹の名はアルシノエといい、クレオパトラと女王の座を争ったほどの妹でした。史上初めて発見されたクレオパトラの肉親の骨は大規模な化学分析が実施され、妹の生前の姿や意外な死因が判明しています。現在は仮設の建物に覆われて見学することは出来ないようでした。
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「オクタゴン」
クレオパトラがアウグストゥス帝に頼んでエフェソスで殺させた末の妹アルシノエ4世の墓と言われているのがオクタゴンです。アルシノエが殺された紀元前41年頃に造られたとされる八角形の霊廟です。9メートル四方の正方形の台座の中には大理石の石棺があり、15歳から16歳くらいと思われる若い女性の骨が見つかっています。 -
「公衆トイレ(ラトリーナ)」
エフェソスのローマ時代のトイレは西暦1世紀に後にスコラスティカ浴場となるものの一部として最初に建設されました。自宅にトイレを持てない貧しい市民が使う街の公衆トイレで入場料がかかりました。ローマ文化ではこの建物は浴場と同じ社会的目的を果たしていたようです。市民はラトリーナに長期間滞在し、リラックスしてその日の懸念事項について話し合っていました。 -
ラトリーナは当時としてはかなり先進的で文明的な建造物でした。建物は途切れることのない水の流れを持つ水路の上に建てられました。座席は底に穴が開けられた大理石のベンチでした。それらは部屋の三方に沿って3列に並んでいた。全部で48のトイレがあり、それぞれが肘掛けを兼ねた彫刻の仕切りで区切られていました。座席自体は屋根を支える柱で囲まれていました。
公衆トイレ跡 史跡・遺跡
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広い部屋の残りの空間は空に向かって開いていました。開けた部分の真ん中にはインプルビウムと呼ばれる四角い浅い水槽がありました。このプールは雨水を溜め、掃除と夏の部屋の冷やし役を果たしていました。冬にはトイレはスコロスティカ浴場から蒸気を流し込む地下暖房システムによって暖められました。床はモザイクタイルで覆われていました。市民には便所を使用した後に体を洗うためにスポンジが取り付けられた棒が渡されました。スポンジは衛生のために酢に漬け、トイレ前の排水溝を流れる真水で洗ってから使用しました。
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「ハドリアヌスの門」
ハドリアヌスの門は紀元130年に街を訪れたローマ皇帝ハドリアヌスの名前で建てられた凱旋門です。3つのアーチ型の門があり、シバの女王はソロモン王を訪ねる途中でこれらの門の下をくぐったと言われています。 -
城壁の内側では門が閉ざされ長年使われていませんでした。柱を除いて門はすべて白い大理石でできており、印象的な装飾が施されています。案内板を見るとアテネで見た「ハドリアヌスの門」にも似ているような感じがします。
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「ケルスス図書館」
この建物は、西暦110年代にローマ帝国の執政官ティベリウス・ユリウス・アクイラ・ポレマエアヌスによって、彼の父ティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌス、アジアの元プロコンスルの葬儀記念碑として依頼され、アクイラの死後しばらくしてローマ皇帝ハドリアヌス帝の治世中に完成しました。 -
ケルスス図書館は建築の驚異と見なされており、ローマ帝国にある古代世界の偉大な図書館の唯一の現存例の1つです。ギリシャ・ローマ世界では、アレクサンドリアとペルガモンに次ぐ第3位の図書館であり、約12,000冊の巻物を所蔵していたと考えられています。ケルススは図書館の地下室の装飾された大理石の石棺に埋葬されています。
マゼウスとミトリダテスの門 史跡・遺跡
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図書館の内部とその収蔵された書物は西暦262年の地震またはゴート族の侵略による火災で破壊され、ファサードは10世紀または11世紀の地震で崩壊しました。ファサードが1970年から1978年の間に考古学者によって再建されるまで、何世紀にもわたって廃墟になっていました。
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図書館の名前の由来となるケルススは紀元92年にローマ帝国の執政官に選出される前にローマ軍の司令官を務めた後、軍事的および政治的に成功しました。彼はローマの元老院議員になった最初のギリシャ人であった可能性があります。
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図書館の東向きの大理石のファサードは植物の彫刻と肖像画の彫像で複雑に装飾されています。外側のファサードはギリシャの技法である偽遠近法で建てられました。デザインの特徴にはアカンサスの葉、巻物、およびファスケスのエンブレムが含まれ、後者は執政官としてのケルススの権威の象徴です。入り口の脇には4体の女神像が並んでいます。
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「アレテの像」
ケルススの図書館にあるギリシャの道徳的美徳の卓越性を擬人化したものです。この像とソフィアの2体のオリジナルはウィーンの「エフェソス博物館」に収蔵されています。ここに並ぶ4体はオリジナルではありません。 -
「ソフィア像」
ケルスス図書館の知恵の擬人化です。もともとは「賢さ、技能」という意味を持っていましたが、プラトンが使用した「フィロソフィアという用語によって大きく形作られました。 -
「エンノイア像」
ケルスス図書館の知性の擬人化です。 -
「エピステーメー像」
ケルスス図書館にある知識のギリシャ語の擬人化です。アリストテレスはテクネ、エピステメ、フロネシス、ソフィア、ヌースの5つの思考の美徳を区別し、テクネは「工芸」または「芸術」、エピステーメーは「知識」と訳しました。 -
これらの美徳は図書館と霊廟の両方として機能するように建てられた建物の二重の目的をほのめかしています。ケルススがこれらの4つの美徳を持っていることと、訪問者が図書館の所蔵品を利用することによってこれらの美徳を育むことができることを暗示しています。
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10分ほどのフリータイムがあり、思い思いに写真を撮ります。4年前の写真と比べてもお互い歳を取ったなと思うとともに、コロナ禍を乗り越えて再びここへ来れました。
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「マゼウスとミスリダテスの門」
ケルスス図書館の左前の3つのアーチと通路がある立派な門は、奴隷であったマゼウスとミスリダテスが彼らに自由を与えてローマ帝国の財政保持担当としてエフェソスに送った皇帝アウグストゥス帝とその家族に敬意を示して紀元40年に寄贈した記念碑的な門です。
門のケルスス図書館側は黒大理石、大理石通り側は白大理石で作られています。ケルスス図書館側の上部にはブロンズの象眼細工でアウグストゥス帝とその家族を称える碑文が刻まれています。 -
その奥には「下のアゴラ」があります。ここは20年前には仕分けされた大理石の仮置き場でしたが、現在はきれいに整備されています。少しづつ修復が進んでいるのを感じます。
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「スコラスティカ浴場」と繋がった「公衆トイレ」の北側、「ケルスス図書館」の前にあるのが紀元1世紀のトラヤヌス帝の時代に造られ、愛と美の女神アフロディーテに捧げられた2階建ての娼婦の館です。1階はモザイク張りの床のメインホールとお客たちの部屋、2階は女性たちの小部屋があったとされています。1階西側レセプションの床には四季を現すモザイクが施されています。
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「ケルスス図書館」の前から大理石通りの下を通る地下道があり、裕福な男性達は図書館に行くと見せかけて娼婦の館に行っていたと言います。
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「大理石通り」
ケルスス図書館から大劇場までのびる大通りが大理石通りです。1世紀に作られた後に5世紀に再建されたこの通りはパナユル山を越えて「アルテミス神殿」へ続く神聖な道の一部でもあります。道の西側(写真の左側)は市民のアゴラの壁で囲まれており、その壁の上にはネロ帝の治世に歩行者のために建設された高いプラットフォームがありました。皇帝発の手紙は、市民に読ませるためにこの道の壁に刻まれたと言います。 -
プラットフォームに積まれた大理石は等間隔にノミで削り取られた跡があります。これは今回のガイドさん五初めて教わったのですが、建設当時大理石同士は彫り込まれた溝に鉛を流し込んで接続させていました。近世になって弾丸を作るために大量の訛りが必要になり、遺跡から古代の鉛を取り出した跡だということです。
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「娼婦の館」の前の「大理石通り」の隅に左足の足跡と女性の顔とハートが彫られた敷石があります。この足跡は娼婦の館の位置を指していて、世界最古の広告と言われています。左足なのはこの先の左に館があるという意味です。また、この足跡より小さい足の男性はお断りだったようで、世界最古の広告と言われています。行われていたのも世界最古の商売といわれています。
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以前は無かったと思われる修復用の大きな仮設屋根があります。その前の通りの左側が「娼婦の館」です。
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「商業アゴラ(下アゴラ) 」
「ケルスス図書館」の北側横にある広場がエフェソスの最も重要な商業センターである「下のアゴラ」です。ここではアナトリア産やエフェソス産、アラビア産の物など食品から宝石まで多種多様な商品が売られていました。このアゴラは紀元前3世紀のヘレニズム時代に造られましたが、現存しているのは今の形になった紀元3世紀初頭のカラカラ帝時代のものです。アゴラは柱の廊で囲まれた一片110メートルの正方形で、中央には日時計と水時計がありました。俯瞰してみるとこの20数年で一番整備された場所だと思います。 -
「エフェソス大劇場(円形劇場)」
大理石通りの終わりのパナユル山の斜面を利用して作られているのが、遺跡の中でも最も壮大な大劇場です。ステージはなんと18メートルの高さで、観客席には2万4千人収容でき、古代アナトリア世界で最大の野外劇場とも言われています。コンサートや演劇だけでなく、宗教的や政治的、哲学的な討論の場として、また剣闘士と野獣の戦いなどにも使われていました。 -
リュシマコスの時代に造られたこの大劇場は、皇帝クラウディウスの治世の紀元31年から42年の間に完成までに70年かかる大規模な増築改修工事が始められました。聖パウロがエフェソスを訪れた際にこの工事が行われていたと言われ、聖パウロはここで宣教の演説をした際にエフェソス市民に受け入れられず、エフェソスから離れざるをえなくなったと聖書で触れられています。
大劇場 史跡・遺跡
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4年前はステージ側は修復工事中でパネルで囲われていましたが、工事が終わったようで全て取り払われていました。
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以前は見ることが出来なかったレリーフも手が届く距離で見ることが出来ます。修復工事は終わっていますが、石材の多くは持ち去られているのでこれ以上は直しようもないのだと思います。そう考えるとアンタルヤ郊外のアスペンドスの円形劇場などは完全な姿で残っていると思います。こんな遺跡がごろごろ残され、現在もコンサートなどで使われているというのはすごいことだと思います。
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スカエナエ・フロンスと呼ばれる舞台背後の壁ですが、2世紀頃には3階建て相当の建物で列柱や石像を飾る壁龕(ニッチ)を持つものになっていきます。この部分にも前は入れませんでしたが、ガイドさんの後に続いて入ってみます。
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ここを一体どれだけの人が通ったのでしょうか。それは剣闘士だったり役者だったりと考えただけでもワクワクしてきます。
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「円形劇場」からまっすぐ伸びる道はエーゲ海から都市への玄関口「アルカディアン通り(港通り)」です。現在は堆積物で陸地の内部になっていますが、古代にはこの先に港がありました。長さ530メートル、幅11メートル、両側には柱が立ち並び、下は大理石が敷き詰められたエフェソスで最長の華やかな大通りでした。クレオパトラとアントニウスもこの道を一緒に歩いたのだと思うとロマンは感じます。この時点までの話ですが。
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「井戸の家」
円形劇場のスカエナエ・フロンスの表側にはヘレニズム時代のイオニア式の噴水がありました。深さは100メートルもあったそうで、マルナス川から水を引いていました。 -
現在はその水路は失われてしまっています。以前は存在すら知らなかったものが目の前に現れました。この前にも背の高いパネルが建てられて、窺い知ることも出来ませんでした。
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「アルカディアン通り(港通り)」を歩きます。カエサルの暗殺後に三頭政治が行われていたローマですが、カエサルの後継者と目されていたオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)に対抗する実力者アントニウスがオクタヴィアヌスとの決戦直前に滞在していた地がエフェソスでした。
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三頭政治の一角であるアントニウスは小アジアからエジプトの属州総督に就任し、
エジプトのアレキサンドリアに滞在しているときにクレオパトラの美しさに心を奪われます。カエサルとの子供を王子にもっているクレオパトラも、これを機会にローマでのエジプトの勢力を強めるチャンスと思ったのかも知れません。 -
2人は紀元前37年に結婚までしてしまい、アントニウスは紀元前33年にクレオパトラとともにエフェソスに移り住みます。このローマの将軍としてあるまじき勝手な行動はローマ元老院の非難を浴びることになります。さらにアントニウスにはローマに正式な妻がいて、その妻はオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアでした。ローマでは重婚は禁じられていたので、元老院だけではなく庶民もアントニウスに非難を浴びせるようになります。
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ローマの将軍にローマ軍を差し向けるわけにもいかず、クレオパトラのエジプト勢力拡大への野望を阻止することを名目にオクタヴィアヌスを最高司令官とする軍隊をエフェソスに差し向けます。アントニウスが率いる軍団とエジプト軍の連合軍はアクティウムの海でローマ軍を迎え討つ海戦が展開されましがローマ軍がこれを簡単に蹴散らし、アントニウスとクレオパトラはエジプトの首都アレキサンドリアに逃げ帰えります。
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オクタヴィアヌスが率いるローマ軍はアレキサンドリアに2人を追い、攻め込むべく軍勢をアレキサンドリア沿岸に配置しましたが、この事態を知ったアントニウスとクレオパトラは自害してしまいます。宿敵アントニウスがいなくなったローマではこれを機に後にアウグストゥスの称号を受けたオクタヴィアヌスの専政体制が整います。そんな歴史を振り返りながら出口に向かいます。
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「エフェソス遺跡」の近くにはセルチュクの町があり、そこにはアルテミスの像を収蔵した「エフェソス考古学博物館」があります。素晴らしい州ぞy品があるのですが、今回は立ち寄ることはありません。また遺跡のすぐ近くには世界七大不思議の1つの「アルテミス神殿」もありますがそこにも立ち寄りません。「聖ヨハネ聖堂」もありますが、「聖母マリアの家」も含めてキリスト教の聖地についての説明もありませんでした。
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この馬車は遺跡の中ではなく、セルチュクの町や周辺の遺跡に行くことが出来るようです。いつかこんな馬車で観光するようなお金持ちになりたいものです。
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下の入り口の駐車場に回されていたバスに乗ってクシャダシの方へ向かって走ります。観光はもう終わりです。先ほど通った飛行場を通過します。
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戻る途中で立ち寄ったのは「Donna Milan」というレザーショップです。こういったショップはトルコ中にあるのではないかと思います。過去にはアンタルヤからの1日ツアーの帰りに立ち寄り、4年前のツアーでも立ち寄りました。
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まずはステージの周りに座ってワインや紅茶をいただきながらくつろぎます。前の方に座っているとモデルにされるので後ろの方に座っています。
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紙と鉛筆を渡されて、気に入った番号を書き込むように言われますが、この旅行の前にAVIREXのB-3という20代のころから欲しかったボマージャケットを買ったばかりなので買う気はありません。
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モデルさんのショーの後はツアーのメンバーの中から1組のご夫婦が選ばれてステージに上がります。楽しいひと時を過ごしましたが、その後はお買い物タイムです。薄くなめしたレザーのジャケットは非常に軽く、リバーシブルだったり畳むと小さくなるので魅力でしたが…。
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物足りない観光でしたがツアーの皆さんと楽しい時間が過ごせました。港まで戻らずに「キャラバンサライ」の前でバスを降りました。この後は船の出港時間を気にしながらフリータイムになります。
キャラバンサライ クシャダス 史跡・遺跡
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オスマン帝国とセルジューク帝国の建築の細部が豊富なクシャダスキャラバンサライに足を踏み入れると何世紀も時間が遡ったような気になります。ヴェネチアンスタイルの建物は1618年にさかのぼる歴史があります。オスマン帝国時代のキャラバンサライは商人の交易所と待ち合わせ場所として機能し、そこに保管されている貴重な品物を保護するために強化されました。
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大理石のアーチ型の出入り口を通り抜けてキャラバンサライの中に入ると、緑豊かなヤシの木や大理石の噴水などが配された2階建ての中庭に入ります。現在はホテルとしても使われているようです。
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クシャダシの町中をぶらぶら目的も無く歩いてみます。ここにもレザーショップや偽物の時計やブランド品のコピーを売っている店がたくさんあります。
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メインストリートから1歩それると途端に人通りは無くなり、こんなカラフルな階段があったり。
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メインストリートのアイスクリーム屋ではお約束のショーを見ることが出来ます。いつまで経ってもからかわれてアイスを貰えません。
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絵葉書を買って切手について尋ねると「郵便局にしかないよ。」といわれます。それでは郵便局を探そうとしますが、誰に聞いても分かりません。そのうちにこれに集中してしまい、妻には木陰で待ってもらい10人くらいの人に尋ねて、英語のわかる人がいる旅行会社に連れていかれたり、最後は案内してもらって郵便局に着きました。ところが昼休みで午後の営業まで15分あります。入り口には10人ほどの人が並んでいるのを見て諦めました。
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妻を30分近く待たせてしまいましたが、若い頃の情報を持たないままに旅していた頃のワクワク感を久しぶりに感じた気がしました。切手は買えませんデイsたが、貴重な時間が過ごせました。
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お詫びに妻の大好きなザクロジュースを奢ることにします。大きなザクロを1個半搾って2ユーロです。4年前にスルタンアフメットのトラムの通りで飲んだ柘榴ジュースがあまりにおいしかったのを思い出します。
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思ったよりも少し渋かったので足がぴたりと止まりました。分かりやすいリアクションです。レザー屋さんを覗いたりしながら港に戻ります。朝は時間があったら行こうと思っていた海に突き出た「クシャダシ城」へ行くのも忘れていました。
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特にセキュリティも無く埠頭まで戻ってきました。入港時には姿も無かったノルウェージャンのクルーズ船が停泊しています。
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クシャダシ港ともこれでお別れです。
クシャダス港 船系
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お腹も空いてきたのでそろそろ船に戻りましょう。
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2度手間にならないようにそのまま14階まで上がってお昼の料理を見繕って部屋まで持ってきました。この日はバーガー2個とホットドック、フライドポテトにチキンサラダというメニューです。オリンピア遺跡のお土産屋で買っておいた1ユーロの缶ビールを冷蔵庫から出します。
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ベランダで食事をしていると帆船型の遊覧船が出港していきました。映画「パイレート・オブ・カリビアン」のヒット以降このタイプの遊覧船が増えたような気がします。4年前に行ったアンタルヤのカレイ地にも何十という海賊船が停泊していました。
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もう少し時間があればこんな遊覧船乗るのも良いなと思いました。6回目のエフェソス遺跡はないと思いますが、いつかクルーズ船でクシャダシにまで来ることはありかもしれません。
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お昼を食べているうちにスプレンディダは出港してエーゲ海を航行します。MSCのクルーズはアルコールは持ち込み禁止ですが、小瓶のスピリッツならヘアートニックとかと見分けがつかないだろうと思いました。アテネで買ったコカ・コーラで割ってジンコークを楽しみます。ボンベイ・サファイヤは美味しいです。
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クシャダシを出港すると翌朝にイスタンブールに戻るだけです。長いようで10日間のクルーズはあっという間でした。
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とうとうツアーの皆さんと1テーブルで晩御飯をいただくのも最後になりました。エフェソス遺跡でたくさん歩いたので遅いお昼をたっぷり食べたので軽めのプレートを選びます。この日のフリットは特に美味しかったです。ズッキーニと人参、小エビとカラマーレと好きなものばかりです。
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妻はビシソワーズスープ。トマトとガーリックの効いた濃厚な味です。
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メインはカジキマグロと大きなエビとイカのグリルです。これもワインによく合います。葬送ワインのボトルも今晩空けてしまわないと明日の晩はありません。
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妻のメインはサフラン色に染まったパエリアです。添乗員さんも驚いていましたが、スプレンディダの食事の質が上がっていたそうです。初めて乗った我々にはラッキーでした。実際どこで何を食べても美味しかったです。
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デザートをいただいて部屋に戻り、荷造りを済ませます。3つのトランクを廊下に出しておくと翌日は下船した後にピックアップするだけです。翌朝まで必要なものは別のバックに入れるようにしないとなりません。翌日の荷物をトランクに入れてしまったとか気を付けないとそんなトラブルはよくあるそうです。最後にカジノに行きポケットいっぱいのチップを換金してもらいます。今回は1番だけしかできなかったので400ユーロくらい勝っただけでした。このリベンジは年明けのMSCベリッシマに賭けます。
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