2023/09/30 - 2023/09/30
66位(同エリア118件中)
kojikojiさん
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この旅行記のスケジュール
2023/09/30
この旅行記スケジュールを元に
トリエステ駅前の公園にたたずむオーストリア皇妃エリザベートの像を見た後は駅構内のタバッキでバスの1時間券を4枚購入します。駅に隣接したスーパー「パム(Pam)」の前にはバス停があり、ここから6番のバスに乗れば「ミラ・マーレ城」へ行けます。バス停にあった案内板には路線バスのすべてに「mira mare」と書かれてあるので、変なスイッチが入ってしまい、やってきた44番のバスに乗ってしまいました。昔から知らない国の知らない都市の知らない路線バスに行き先も分からずに乗りたくなる衝動があったせいかもしれません。乗ってしまったバスはすぐに山に向かって走り出したので運転手に「ミラ・マーレ城」に行くか確認すると、「行かないよ。次のバス停で降りて、左に階段があるからそれを降りて、大きな通りに出ればバス停があるよ。チケットは1時間券だからそのまま使えるよ。」と教えてくれました。小さな冒険はほんの3分ほどで終わってしまいました。大通りのバス停に来たバスにはまた「MIRA MARE」と書かれていましたが、乗りたい衝動を抑えて6番のバスが来るのを待ちました。15分ほど無駄な時間を失いましたが、ようやく旅をしているような気分になってきました。多分6番以外のバスでも「ミラ・マーレ城」の手前で下車すれば行けるのだと思います。実際に22年前はかなり手前のバス停で降りて、そのまま海岸線を進んだ記憶がありました。6番のバスは城のある公園を越えて、その先にある小さな港が終点になっていました。観光客を案内するにはなるほど分かりやすいと思いました。ただ、ここからは一度階段をかなり登らなければなりませんでした。公園内は無料なのでそのまま先に進みます。現在は美しく整備された庭園ですが、城の建設当時はほとんど手入れのされていない森だったようです。オーストリアの建築家カール・ユンカーがマクシミリアン大公の要請で設計し、庭師のヨーゼフ・ラウベは英国式の庭園を作り上げました。この辺りからミラ・マーレ城の姿が見え始め、円形の噴水のある前庭に出るとその全容が現れます。以前来たときは社会科見学の高校生の集団くらいしかいませんでしたが、ものすごい数の観光客に圧倒されます。まずは城の見学をするために20分ほど並ぶことになります。城内は以前と変わらない美しさで、妻をようやく連れてこれたことで感無量です。1階は残念ながら写真撮影が禁止でしたが、2階は撮影できたのは良かったです。ハプスブルグ家の家系図やマリア・テレジアと夫のフランツ1世の肖像、この城の主であるマクシミリアン1世の肖像画から始まり、美しい部屋や調度品、この屋敷にかかわった人々の肖像画を眺めながら歴史を反芻します。バルコニーに出るとトリエステの町と港、そしてスプレンディダの巨大な姿が見えます。約6キロの距離ですが、とても遠く感じます。小さな埠頭に座って城のスケッチをしたことも懐かしく思い出されます。この埠頭から皇妃エリザベートはカッターに乗って、沖合の船でコルフ島に向かったと考えると感慨深いものがあります。2時間半ほどの滞在で、同じルートでトリエステ市内に戻り、まずは「カフェ・サン・マルコ」でお昼にします。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 タクシー 徒歩
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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「トリエステ中央駅」横のバス停には路線図があり、6番以外にも「MIRA MARE」と書いてあるので、すぐに来た44番に飛び乗ってしまいました。ところが海沿いの道から右にそれて坂道を登り始めたので、運転手さんに確認してみると「このバスは行かないよ。停留所の先に階段があるからそれを降りて、大きな通りに出たところにバス停があるから6番のバスに乗りなさい。チケットは1時間券だから使えるよ。」と教わります。
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ということで新たなバス停で6番のバスを待ちます。すぐに他の番号のバスが来て、そのバスにも「MIRA MARE」とあったので乗りたくなりますが、大人しく6番を待ちます。なぜか知らない国の知らない街で行き先も分からないバスに乗りたくなる習性があるようで、1人旅をして予定もない時はそんな旅もしていました。
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以前行ったときは「ミラ・マーレ城」のかなり手前のバス停で降ろされ、海岸線の道をいくつもの門を越えて行ったので、どのバスでも途中で降りればよいのかと思っていました。6番のバスは城と庭園のある森を越えた先の小さなヨットハーバーが終点でした。これなら観光客も間違えないだろうなと納得しました。
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「ミラ・マーレ城」の庭園はかなり広大で、裏側のこの門にたどり着くまでかなりの階段を登りました。6番のバスでも良いのですが、3停留所手前で降りて、海岸線を歩いたほうが登り下りが無いなと思いました。
ミラマーレ城 城・宮殿
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庭園に入って少し進むと「カステレット(Castelletto)」が見えてきます。ミラ・マーレ城の建設と並行して、マクシミリアンは庭園にこの小さな「ガルテンハウス」を建設しました。本邸の折衷的な外観を小規模に模倣したため「カステレット」と呼ばれました。
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1859年から1860年までマクシミリアンとシャルロットが滞在した「カステレット」は、グリニャーノの小さな港を見下ろし、温室の前の空き地にある木々と噴水に囲まれたパルテールエリアが先行して造られました。
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入り口のパーゴラを備えた正方形スペースや邸内の装飾は、マクシミリアンがトリエステで最初に住んでいた「ヴィラ・ラザロヴィッチ」と多くの類似点を備えています。仔kで使われていた家具や調度品は後に「ミラ・マーレ城」に移されています。
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「温室(Serre antiche)」はもともと実験的な植物の育成を目的としており、ジョセフ・ラウベとアントン・ジェリネクを含む宮廷の庭師が木や植物を植えるために使用していました。ハプスブルク家のマクシミリアンはミラマーレでオランジュリーを育てるという夢を実現することを目的としたプロジェクトの始まりでした。古い温室は1857年から1860年の間にアントン・ハウザーの建設会社によって建てられました。
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パーゴラの間からはグリニャーノの港とアドリア海が広がっています。
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漁をしているのかと思いましたが、海中から泡が上がっていたのでダイビングをしているのだと分かりました。
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木立の隙間から「ミラ・マーレ城」が見えてきました。前回来たときはお城の見学と1時間ほどスケッチをしていたので、この庭園を歩かなかったと思います。
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「ミラマーレ庭園(Parco del Castello di Miramare)」
ミラマーレ公園は元々ほとんど植生のないカルストの広がりだったグリニャーノの岩だらけの岬でマクシミリアンが長年にわたって行った挑戦的な作業の結果です。庭園のデザインのために、マクシミリアンはカール・ユンカーの才能に頼りましたが、植物のために彼は庭師ジョセフ・ラウベに注目しました。 -
シュタイアーマルク州とケルンテン州から大量の土壌が持ち込まれ、ヨーロッパ以外の起源を持つ多種多様な樹木や低木種が植えられました。その作業はマクシミリアンがメキシコに定住したときでさえ中止されることはありませんでした。
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フランス風の庭園のはススキがきれいに穂をつけていました。
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庭園にはギリシャのブロンズ像のレプリカがいくつも置かれています。
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パルテールは平らな地面上に構築された低い生け垣、または色付きの砂利で構成される対称的なパターンで構成され、小道で区切られているフランス式の庭園です。以前妻とフランスのロワールの城を十数カ所巡りましたが、その中の「ヴィランドリー城」の庭園を思い出しました。
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庭園の一番奥には瀟洒な東屋があり「カフェ・マッシミリアーノ(Caffè Massimiliano)」というセルフサービスのカフェになっていました。この辺りの設えはウィーンの「シェーンブルン宮殿」の庭園を思い出します。
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最近修復されたのか美しいパーゴラのある小道を進むと「ミラ・マーレ城」もすぐ近くです。
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「ミラ・マーレ城」です。妻に絵葉書で「今度一緒に来ましょう。」と書いて22年が過ぎてしまいました。
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感慨深い再会なのですが、すごい人気のある観光地になっていると感じました。この日は土曜日ということもあったのかもしれません。もちろんスプレンディダからもバスが何台も来ているのだと思います。
ミラマーレ城 城・宮殿
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まずは入場券を買う列の後ろに並びます。比較的小さな城なので入場制限をしているようで、3人とか5人程度のグループが入れるだけです。その間にもチケットを持ったツアーの団体が入ってしまいます。
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20分ほどで中に入ることが出来ました。入り口に吊り下げられた外灯のデザインを見ると面白いことが分かりました。これは列に並ばなければ気が付かないことでした。
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6角形に鋳造されたフレームの隅には蛇を咥えた鷲の姿があります。メキシコ国旗の中央にもサボテンの上で蛇を咥えた鷲の姿があります。摺りガラスの部分には王冠の下にMMI(マキシミリアン1世)のメキシコ皇帝のモノグラムが読み取れます。
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写真の撮れない1階の見学を終えて2階に上がります。入り口にはこの城の主であったマキシミリアン1世の肖像画が置かれてあります。巨大な額の上にはマキシミリアンのモノグラムが置かれてあります。城の倉庫から出てきたこの肖像画はサンティアゴ・ルブルによるもので王座の間を飾られたものです。
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「金羊毛騎士団」はブルゴーニュのフィリップ善良公によって設立され、皇帝マクシミリアンがブルゴーニュ公国のマリア公女と結婚したことによって、領土はハプスブルク家に引き継がれ、以後ハプスブルク家の皇帝が騎士団長をつとめるようになります。下の段の中央に「黄金の羊毛勲章のコラーヌ」が見えます。モットーは「我らの働きに報償に値しないものはない」で、スペイン国王フェリペ6世やイギリス女王のエリザベス2世に日本の天皇陛下もメンバーです。さらに「マルタ騎士団」のマルタ十字も見えることから彼も地位や名誉を読み取ることが出来ます。
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ウィーンの「王宮宝物館」で見た「黄金の羊毛勲章のコラーヌ」と同じデザインだということは今回初めて気が付きました。
王宮宝物館ほか:https://4travel.jp/travelogue/10563132 -
マクシミリアンはフランツ・カール大公を父にゾフィー・フォン・バイエルンを母にウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれました。幼いうちからマクシミリアンは彼がより良く適任で、二番目以上の価値のあるものすべてを証明しようと試み、兄のフランツ・ヨーゼフをあらゆる面でしのいでいました。マクシミリアンは大変人気者で、フランツ・ヨーゼフより優る試みと魅了する能力は、物静かで内向的な兄とは大きな隔たりがありました。それは年を経るごとに広がり、子供のころには親友だった兄弟はやがては名ばかりのものとなっていきます。どこかの英国の兄弟のような話です。
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1848年に革命が起きて抗議と反乱に直面した皇帝フェルディナント1世は退位し、マクシミリアンの兄フランツ・ヨーゼフが次の皇帝に選ばれ、フランツ・ヨーゼフ1世となります。1857年7月にマクシミリアンはブリュッセルでベルギー国王レオポルド1世と王妃ルイーズ=マリー・ドルレアンの王女シャルロッテと結婚します。
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ハプスブルグ家の歴代の人々を描いた家系図も飾られています。じっくり眺めたらこれだけで1時間時間がつぶせそうです。赤いリボンが歴代皇帝を表しているようで、マリア・テレジアの肖像も結ばれています。一番上にはマクシミリアンとシャルロッテの肖像がありますが、オーストリアを表す紅白のリボンのままです。足元に並ぶ王冠もウィーンの「王宮博物館」に展示してあります。
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見覚えのある王冠はやはりウィーンにあるものでした。妻とはウィーンを何度も旅してハプスブルグ家についても学んでいたので、今回ここへ連れてきたいと思っていました。
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マクシミリアンとシャルロッテはミラノに総督としてあるいはロンバルディア・ヴェネトの副王として1859年にフランツ・ヨーゼフ1世が彼を副王から解任するまでの間ミラノに暮らしました。皇帝はイタリアでの弟による自由主義政策の実行に怒り、彼の解任からほどなくオーストリアはイタリア地域のほとんどでの統治の影響力を失います。マクシミリアンはトリエステで隠遁して、トリエステ近郊に「ミラ・マーレ城」を築くことになります。
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この頃メキシコは自由主義的な改革を推進しようとするベニート・フアレスらと保守派の間で内戦状態のレフォルマ戦争となっており、保守派はフランス皇帝ナポレオン3世と結んで巻き返しを図ります。アメリカ合衆国が南北戦争に突入して介入が困難だったこともあり、フランスなどがメキシコに軍事干渉を行い、1864年にナポレオン3世がマクシミリアンを傀儡として帝位に就けました。
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メキシコの皇位を受ける話をマクシミリアンは受け入れませんでしたが、シャルロッテの説得によってこれを受ける決意を固め、1861年からその翌年にかけて兄のフランツ・ヨーゼフ1世と協議します。フランツ・ヨーゼフ1世はマクシミリアンの決意に迷いを見せ、それまで弟には後継者たる権利がないことを言い含めていいましたが、皇太子ルドルフに万一のことがあった際にはマクシミリアンが帝位を継ぐものであることを指摘して慰留します。しかしマクシミリアンの決意は変わらず、オーストリア皇位継承権を放棄することを署名し、皇位継承権のみならずオーストリア皇族としての権利も喪失します。
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マキシミリアン夫婦はトリエステから「ノヴァラ号」に乗船し、フリゲート艦「ベローナ号」と 「テミス号」を従えて皇帝のヨット「ファンタジー号」はこれらを導き「ミラ・マーレ城」を出港します。
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南北戦争終結後のアメリカ合衆国はナポレオン3世にマクシミリアン1世へのフランスの支援をやめ、メキシコから撤退するように外交的な説得の圧力を増します。ヨーロッパ本土でプロイセンが急速に強大化したため、フランスはメキシコ問題に拘泥することを望まず、メキシコの自由主義勢力が保守派を破るとナポレオン3世はメキシコ支配をあきらめてフランス軍を撤退させてしまいます。
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最終的にマクシミリアン1世は1万人のメキシコ人帝国軍と共に戦いますが、最終的には共和派に破れて捕らえられます。軍事裁判にかけられて死刑を言い渡され、1867年6月9日に刑は執行されます。彼はスペイン語で死刑執行者に話し、母が自分の死に顔を見られるように頭は撃たないようにひと瓶の金貨を与えたと言われます。
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マクシミリアンの処刑が兄フランツ・ヨーゼフ1世に知らされたのは、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が成立したことを祝うブダペストでの祝賀行事の最中でした。ウィーンのカプツィーナー納骨堂に埋葬された棺は前々回のウィーンの旅で参拝することが出来ました。
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妻のシャルロッテは精神の錯乱を引き起こし、死ぬまで夫の死を認めず、この「ミラ・マーレ城」に隠遁しました。
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この部屋には4代前の女帝マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の肖像画も掲げられてありました。兄のフランツ・ヨーゼフ1世はエリーザベートと結婚しますが、母のゾフィーと妻の間で板挟みにあったいました。エリザベートがコルフ島の「アヒリオン・パレス」へ向かった理由の1つには義母ゾフィーとも確執があったようです。
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聡明で将来を嘱望された長男ルドルフ皇太子は保守的な父帝と対立し、1889年にマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とマイヤーリンクで謎の心中を遂げ、最愛の妻エリザベートもジュネーヴでイタリア人無政府主義者ルイジ・ルキーニに暗殺されてしまいます。フランツ・ヨーゼフ1世が生涯をかけて守ろうとしたハプスブルク帝国は、彼の死去のわずか2年後に世界地図から姿を消してしまいます。
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歴史ホールには何世紀にもわたるグリニャーノ湾にかかわる歴史がイストリア出身の画家のチェーザレ・デッラクアによって描かれました。
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この絵では「ミラ・マーレ城」の下のミラマー湾に上陸した皇妃エリザベートをマクシミリアンとシャルロッテが出迎えている場面です。多分コルフ島の「アヒリオン・パレス」から帰った所でしょう。黒いドレスのエリザベートと白いドレスのシャルロッテの姿が印象的です。黒い服は喪服なのでエリザベートの息子のルドルフ皇太子がマイヤーリンクで謎の心中を遂げた後だと思われます。
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天井にはマクシミリアンが「ミラ・マーレ城」を完成させた場面がギリシャ神話のように描かれています。四隅から鎖がのばされ、シャンデリアが吊られているので絵画としては鑑賞しにくいです。
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赤いローブ姿はオーストリアの行程の姿のようで、首からは「黄金の羊毛勲章のコラーヌ」を下げています。空には王勺を持って来る蛇を咥えた鷲の姿があります。これはメキシコの皇帝を暗示しています。足元には鳥の羽の冠を被りパイナップルを持つ女性の姿などメキシコの寓意が描かれています。
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1864年4月にフェルディナント・マクシミリアン大公はオーストリア海軍少将の職を辞しました。そしてトリエステから「ノヴァラ号」に乗船しメキシコへと向かいます。オーストリアのフリゲート艦「ベローナ号」と フランスの「テミス号」を従えて皇帝のヨット「ファンタジー号」はこれらを先導しました。彼らはローマ教皇ピウス9世の祝福を受け、イギリスのヴィクトリア女王はジブラルタル海峡を通過するマクシミリアンを乗せた艦隊に祝砲を打つように命令しました。
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沖に停泊する「ノヴァラ号」に向かうカッター船の船上にはマキシミリアンとシャルロッテの姿が見えます。掲げられた国旗は素手のメキシコのものです。背後の建物が「ミラ・マーレ城」だということはすぐに分かりました。
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「オリエンタル・サロン」はマキシミリアンが作った日本風と中国風の小さな部屋です。
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シェーンブルン宮殿にも同じような部屋があったことを思い出します。ドアパネルや寄木材の床、布張りの壁面パネルなど手が込んだ造りになっています。
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これらの部屋は喫煙者のためのものだったようです。
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「居間(The Parlour)」へ向かう扉のバロック風の彫刻もものすごい豪華です。
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居間にはマキシミリアンの肖像画と妻のシャルロッテの肖像画が対で飾られています。この肖像画は1863年にエーデ・ハインリッヒによって描かれました。彼の最期の言葉は「私は全ての人を許そう!お願いだ、みなも私を許してくれたまえ!いま流される血が、この国の幸福につながらんことを望む!メキシコ万歳!独立万歳!」で、34歳で没しています。
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シャルロッテ・フォン・ベルギエンは 1840年にベルギー国王レオポルド1世とその王妃ルイーズ=マリーの第1王女として生まれます。レオポルド1世夫妻にとって唯一の王女であり、父王から溺愛され、気位が高く育ったようです。シャルロッテはバイエルン王家の傍流に過ぎない皇后エリーザベートに対して激しい嫉妬心を燃やし、王女であるのに皇后ではなく大公妃という身分である事に強い不満を感じていたそうです。
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マキシミリアンの死後、シャルロッテは最終的に故国ベルギーに戻り、ブリュッセル近郊のメイゼのバウハウト城に幽閉されたまま長い余生を送ります。第1次世界大戦中に城の周囲はドイツ軍に占領されましたが、城にドイツ軍が侵入することはありませんでした。オーストリアはドイツの同盟国であり、シャルロッテはオーストリア皇帝の義理の妹でした。シャルロッテは自分はまだメキシコの皇后であり、夫マクシミリアンはまだ生きていてすぐに帰ってくると信じて、「マックス」と名付けられた小さな人形と一緒に寝ていたと言われています。シャルロッテは1927年に精神を病んだまま86歳で死去しました。
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居間の扉の欄間にも「ミラ・マーレ城」が描かれています。マキシミリアンがメキシコ皇帝にならなければ、甥のルドルフ皇太子の死後はマキシミリアンが皇位継承権があがり、皇帝になっていたかもしれません。
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ウィーンの巨大なシェーンブルン宮殿の部屋を巡るよりこの小さな城の中でハプスブルグ家の歴史を考えた方がコンパクトにまとまるような気がします。
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「謁見の間」の壁を覆う深紅のタペストリーはマキシミリアンのモノグラムが織り込まれていますが、彼がメキシコ皇帝になった後に織られたものだそうです。
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正面から写真が撮れないのが残念でしたが、「Francesco Giuseppe Imperatore D'Austoria」とあるので、若い頃のマキシミリアンの兄のフランツ・ヨーゼフ1世だと分かります。
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「Eugenie Imperatrice des Francais」と額に書かれてあるので、ヴィンターヘルダーの描いたウジェニー・ド・モンティジョだと分かりました。フランス皇帝ナポレオン3世の皇后です。
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15代アルバ公に恋をしていたウジェニーは、いつかはアルバ公に嫁ぎたいと願っていましたが、母は静かな性格の姉のパカをアルバ公に嫁がせます。失恋の痛手から男装してマドリッドの町を煙草を吸いながら闊歩したり、裸馬で町を疾走したり、闘牛場に男装して現れるなどの奇行が5年ほど続いたと言われます。父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わり、彼女は各国の王侯貴族から求婚されていますがすべてを断り続け、やがて「鉄の処女」と言われるようになります。1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルトが第2共和政の大統領になると、母とともにエリゼ宮での舞踏会に姿を現し、これが出会いとなり結婚することになります。
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「君主の間」にはマキシミリアンの時代の各国の君主の肖像画が飾られていて、それを読み解くのが面白いです。
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「ロシア皇帝アレクサンドル2世」
1855年のクリミア戦争がセヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御したため、皇帝の座につきます。クリミア戦争の敗北はロシアの支配階級に大きな危機感を抱かせることになります。旧弊な社会制度の象徴とされた農奴制の解体に着手し改革は多方面に及びます。1881年に没落したシュラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人の投じた爆弾により、サンクトペテルブルク市内で暗殺されました。サンクトペテルブルグで参拝した「血の上の救世主教会」がその場所だったと思い出します。 -
「ギリシャ王ジョージ1世」
ゲオルギオス1世は元々はデンマーク王子でしたが、1863年に議会で初代国王オソン1世の廃位、自身の即位が可決されると、イギリスやフランス、ロシアなど列強諸国の支援もあって17歳で王位に就きます。これに伴いデンマークの国教であるルーテル教会からギリシャ正教会に改宗します。王位に就いた当時はギリシャは後進国の位置に甘んじており、このような同国の問題点の解決に努め、領土拡大にも力を入れます。第1次バルカン戦争中の1913年に前年オスマン帝国から奪還したテッサロニキを訪問した際に暗殺されました。 -
「フランス皇帝ナポレオン3世」
ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオンの失脚後は国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送りましたが、1848年のフランス革命で7月王政が打倒されるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選します。第二共和政の大統領の権力は弱く、王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な干渉を受けましたが、1851年に国民議会に対するクーデターを起こし、独裁権力を掌握します。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始しました。 -
「現在のパリの中でサクレ・クール寺院とエッフェル塔以外の物は第二帝政期にできあがっていた」と言われるほどのパリ改造計画についてはパリを旅した2週間で目の当たりにしました。ただ、ここ「ミラ・マーレ城」でナポレオン3世の肖像画を見ると、彼がメキシコを見捨てなければマキシミリアン1世は処刑されることも無かったのだと思えます。
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「バイエルン王ルートヴィヒ2世」
神話に魅了され長じては建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した「狂王」の異名で知られ、ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場を残したことでも知られます。ルートヴィヒ2世は精神病を理由に廃位されましたが、実際にはバイエルン内閣と築城の負債問題を巡って対立状態にあったことがその真の理由だったといわれます。バイエルン政府はルートヴィヒ2世の廃位を計画し、1886年に彼を逮捕し廃位します。翌日の6月13日にシュタルンベルク湖で、医師のベルンハルト・フォン・グッデンと共に散歩に出た少し後で医師と一緒に水死体となって発見されました。 -
こうやって歴代の皇帝の生涯を考えていくと、暗殺されたり処刑されたり、謎の死を迎えたりあまり幸せでは無かったのではないかと思えてきます。
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死ぬときはちゃんとベットの上で生涯を終えたいと思います。
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「皇后エリザベート」
当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加えて身長172cmと背が高く、ウエスト51センチで体重は生涯43~47キロという驚異の体形の持ち主でした。美貌と痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していました。従甥で「狂王」と呼ばれるバイエルン王ルートヴィヒ2世とも親しかったといわれますが、義妹のベルギー王女シャルロッテとの仲は険悪であったようです。ナポレオン3世の皇后ウジェニーがエリーザベートに興味を持ち、表敬訪問しようとしますが断ります。マキシミリアンの死後の調停訪問ではザルツブルグで会っています。イギリスのエドワード7世の妃のアレクサンドラの美貌と自身の美貌とどちらが優れているかを気にしていました。美人に生まれるのも大変なものだと思います。 -
「王子の部屋」
マキシミリアン夫妻がメキシコへ旅立った後に完成された部屋です。精巧な木彫や象嵌で埋め尽くされたとても豪華な部屋です。様式はネオ・ルネッサンスとネオ・ゴシックからインスピレーションを受けたジュリアス・ホフマンによって設計されています。 -
1867年6月にメキシコでマクシミリアン1世が悲劇的な最後を遂げた後、ハプスブルグ家の人々は短期間この城を訪問しました。
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1929年にトリエステがイタリアの一部になった後、「ミラ・マーレ城」は一般に公開されました。
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1943年にドイツ軍に占領された後の1945年から1954年までは軍事同盟政府の建物として使用されます。1955年に修復工事が行われ、マキシミリアンの時代の家具が入れ替わると再び一般公開されます。
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欄間に掲げられた地球儀の絵画には歴代の探検家の名前がリボンに記されています。マルコ・ポーロにクリストファー・コロンブス…。
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このバスルームの部屋だけは機能性を優先させたのかウィーン分離派の時代のデザインになっていました。
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「トリエステとイストリアの寓意」アンニバレ・ストラータ1861年
1870年の統一完成後もイタリア人居住地域で王国に編入されていなかったトリエステと南チロルとイストリアなど国境地帯の小地域はなおオーストリア領にとどまり、イタリア人はこれを「未回収のイタリア」とよんで、その併合を要求し続けました。 -
ようやく城内の見学が終わりました。これでこの城に思い残すこともないような気がします。22年前は2カ月にもおよび長大な旅の一部だったので、これほどじっくり見学することもありませんでした。コルフ島の「アヒリオン・パレス」には行けませんでしたが、妻にも見せることが出来ました。
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海側の高台にあるバルコニーからはトリエステの海岸線が望め、港に停泊しているスプレンディダの姿も確認できました。何しろその奥にあるエクセルシールホテルよりも長大です。
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望遠レンズで切り取ってみると手前の海を風に乗って流れている小型のヨットが木の葉のようです。
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V字型に開いた城のレイアウトはトリエステ湾とアドリア海を望むように設計されています。
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1856年にオーストリアの建築家カール・ユンカーによって設計されたミラマーレの建築は1860年に完成しました。このスタイルはオーストリアとドイツとイギリスの折衷的な建築様式に精通していたマキシミリアン大公の芸術的センスを反映しています。
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カール・ユンカーは主に水道橋の建設に専念し、1847年にアロイス・ネグレリの下でスエズ運河の建設に携わりました。 1855年にトリエステのアウリシナ水道橋の建設計画も引き継いでいます。
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1860年に彼は現在のモンテネグロのバールにある教会の監督を引き継ぎ、教皇ピウス9世はこのプロジェクトに対して聖グレゴリウス勲章を授与しています。
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建物には王冠を被り蛇を咥えた鷲の彫刻が施されています。
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この彫刻はここでしか見ることが出来ないのではないかと思います。
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階段を下りて海岸沿いを埠頭まで歩いてみることにします。妻は歩き疲れたので下には降りてきません。
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ここが正に先ほど城内の2階に飾られていた絵画の場所です。
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22年前は1人でここへ来て、スケッチブックにこのアングルで絵を描いていました。社会科見学できていた高校生の女の子に「なかなか上手いね。」と言われて嬉しかったことを覚えています。
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最初に通ったフランス風の「ミラマーレ庭園」も見えます。
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埠頭の先にこんなスフィンクスがあることは全く記憶がありませんでした。逆にその後に行ったカプリ島の「ヴィラ・サン・ミケーレ」の海を眺めているように置かれたスフィンクスのことを思い出しました。
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そろそろ「ミラ・マーレ城」ともお別れです。海岸線を歩いて途中からバスに乗ることも考えましたが、大事をとってきた道を戻ることにします。
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坊少し時間があればカフェでお茶でも飲むのですが、お昼を回っているので次の予定に移らなければなりません。
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埠頭から見上げた階段を上から見下ろしてみます。もう下ろうという元気はありません。
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「カステレット(Castelletto)」まで戻ってきました。こうやって眺めているとウィーンの世紀末と同じ時代ながらハンガリーのレヒネル・エデンの建築を思い出してしまいます。内部を見学できないのが残念です。
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脇にあった井戸は埋められていましたが、何か悪いことを考えているようなリスに妻も混ざってしまいました。考えていることは分かっていて、午前中に見たGEOXのコートをどうやって買ってもらうかです。
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最初に見た温室の近くには「サギと少年の噴水」がありました。サギはエジプトの間みでもあり、イソップ童話などにも出てくるのですが、モチーフの意味が思いつきませんでした。ただ宮崎駿の「君たちはどう生きるか」の英語のタイトルが「THE BOY AND THE HERON」だったことを思い出しました。
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公園を出ると駅方面へ戻る6番のバスが停車しています。
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ここまで薄魯を歩いていた妻が颯爽と前を歩いていきます。それほど早く座りたかったのでしょう。
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駅のタバッキでバスのチケットは4枚買ってありましたが、ここには自動券売機がありました。
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全体的に1時間ほど予定から押しているので、急いで「カフェ・サン・マルコ」へ向かうことにしますが、素晴らしい建物が数多くあるのでまた遅れてしまいます。
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2023MSCスプレンディダの旅
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2023/09/26~
イスタンブール
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(5)終日航海日はレストランで3食食べて、キャビン...
2023/09/27~
チャナッカレ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(6)ケファロニア島の沖からオデュッセイアのように...
2023/09/28~
ケルキラ島
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(7)懐かしいコルフに入港するも、アヒリオンパレス...
2023/09/28~
ケルキラ島
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(8)32年ぶりのアルベロベッロへようやく妻を案内...
2023/09/29~
プーリア州
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(9)トリエステ入港を楽しんだ後はオーストリア時代...
2023/09/30~
トリエステ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(10)ミラ・マーレ城でコルフ島へ向かうオーストリ...
2023/09/30~
トリエステ
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(11)文豪カフェのサン・マルコでランチを食べて、...
2023/09/30~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(12)終日航海日に風邪をひいて寝込みながらフレン...
2023/10/01~
トリエステ
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2023/10/02~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(14)オリンピア遺跡の見学の後は考古学博物館で学...
2023/10/02~
オリンピア
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(15)夜明けのピレウス入港からアテネ市内を走り抜...
2023/10/03~
アテネ
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2023/10/03~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(17)25年ぶりのアテネ国立考古学博物館は記憶通...
2023/10/03~
アテネ
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2023/10/04~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(19)ダーダネルス海峡を通過してイスタンブールに...
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(20)トプカプ宮殿の陶磁器博物館と武器博物館と図...
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(21)トプカプ宮殿のスルタンの衣装と宝物の素晴ら...
2023/10/05~
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MSCスプレンディダ アドリア海・エーゲ海クルーズ12日間(22)トプカプ宮殿のイスラム教とキリスト教の聖遺...
2023/10/05~
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