2023/03/29 - 2023/03/29
10位(同エリア328件中)
たびたびさん
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旅の三日目は、滋賀。滋賀屈指の花見の名所、三井寺と石山寺を回ります。
調べてみると三井寺は2011年、石山寺は2012年以来。10年以上のブランクが空いていますが、まあそれくらいは当然かな。滋賀は一般に知られている以上に歴史や文化の宝庫で私も一目置いているところ。あれこれと見どころが広範囲にあって、大津周辺といえども滋賀の見どころのほんの一部ですから、一巡するだけでも大変なんです。
例によって、たびたび的に滋賀県の観光エリアを整理すると以下の通り。表面的にはすべてカバーしているんですが、観音寺山城やMIHOMUSEUM、滋賀県立琵琶湖博物館などまだ気がかりなところが少しずつ残っていて、すぐには埋めれそうにない。どうしたらいいかなあと悩んでいたところです。ただ、そういう時はやはり原点回帰の大津。むしろ大津・石山寺はフォートラ会員になってから旅行記を書いたことがないし、結果として、今回の花見の旅にはすぐには解消できないもやもやを落ち着かせる意味もあったような気がしています。
<滋賀の観光エリアランキング>
1位 大津・石山寺
2位 長浜・木之本
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3位 近江八幡・安土・東近江・日野
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4位 比叡山~坂本・堅田・高島
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5位 彦根・米原
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6位 草津・信楽・甲賀
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前置きが長くなってしまいましたが、三井寺のこと。壬申の乱で敗れた大友皇子の子、大友与多王(伝承上の人物?)が天智天皇の所持仏だった弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立。大友皇子と敵対した天武天皇も、朱鳥元年(686年)、これを許可し園城寺の寺号を与えたと伝わります。また、三井寺の通称は、天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われた霊泉があったことから”御井(みい)の寺”と言われていたものが転じて”三井寺”になったとも。天智天皇が即位したのは近江大津宮だし、天智天皇と三井寺はよくよくの深い縁も感じます。
そして、後世の発展の基礎を築いたのは智証大師円珍。唐から帰国した円珍は、貞観元年(859年)、三井寺を再興、三井寺は延暦寺の別院に。貞観8年(866年)、三井寺の円珍には伝法の公験が付与され、貞観10年(868年)、遂に天台第5代座主就任。三井寺は阿闍梨の位を授ける伝法灌頂の道場となりました。
しかし、円珍の死後は、第3代天台座主、慈覚大師円仁派との対立が勃発。山門派対寺門派の争いにより、円珍派の寺門派は延暦寺を追われ、三井寺を拠点として延暦寺の山門派に対抗していく関係となります。対立は激化し、延暦寺は三井寺を何度となく焼き討ちにするのですが、三井寺もこれに対抗すべく時の権力者との関係強化を図ったり、何度も復活しているその歴史はけっこう独特です。
ところで、天台宗における円仁、円珍については、個人的な見方ですが、結局はコップの中の争いかな。二人とも天台宗の弱点だった密教を補完するために力を尽くしたのですが、円珍は密教や修験道に肩入れし過ぎた感があるというだけのこと。どちらも天台宗の本丸である法華三大部の発展なんかには関心が薄いように感じます。結局、そこに踏み込んだのはあえて言えば日蓮かな。天台宗が法華経を最高の教えであると説いたのを素直に受け止め、末法思想に応じて法華経との向き合い方の新しい扉を開きました。円仁、円珍は、密教に関する最澄の劣等感ばかりに気を取られて、密教にご執心だった桓武天皇や嵯峨天皇のパーソナリティにも振り回され過ぎ。密教は空海で十分だし、肝心なことをやってない。そんな感じですけどね。曼殊院の口コミでも少しまとめていますので、興味のある方はどうぞ(https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/15005988)
さて、元に戻って、訪ねた三井寺の桜の方は想像以上。清らかな桜が三井寺の境内のあちこちを雲がたなびくように彩っている姿は本当に素晴らしい。もともと気品があって清々しい雰囲気のある三井寺なのですが、それをさらに何段階もランクアップさせている感じ。ただただ感服するしかありません。円珍についてはちょっとネガティブなことも書いてしまいましたが、壬申の乱にも関係する創建の経緯や後世の延暦寺との厳しい抗争の繰り返し。その困難の中で人々に広く支持され、長く歴史と文化を紡いできた物語があることも間違いのない事実。そんなことを考えると、この桜の美しさは余計ありがたく貴重なものに思えます。島倉千代子じゃないですが、人生いろいろ、桜もいろいろ。美しい三井寺の桜にいろんな思いが重なりました。
石山寺ほかについては、また本文で。
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早朝、宿の周辺散策から始めます。
琵琶湖畔の大津港の方に向かいます。 -
その途中にある大津城跡の碑。
大津城跡 名所・史跡
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縄張り推定復元図が示されていましたが、なかなかの規模ですね。
城は、豊臣秀吉の命によるもの。坂本城を廃城とし、浅野長政が築城。関ヶ原の戦いの際の城主は東軍に付いた京極高次。3千の手勢で1万5千の西軍に対する籠城戦となりました。最終的には降伏しますが、開城したのは関ケ原の戦いの当日。1万5千の西軍を大津城に引き付けた功績は大きいとして京極高次には若狭国8万5千石が与えられています。京極高次の正室は、浅井三姉妹の初。高次流京極家は、若狭→出雲→龍野→丸亀と移り、幕末まで。無事に明治維新を迎えています。
なお、大津城はその翌年、廃城。代わりに膳所城が築城されました。大津城の歴史は短いですが、それなりの内容はあると思います。 -
大津港は、大津の市街から琵琶湖畔に出たところ。ここに大津城が築城されたのもそうですが、琵琶湖湖上水運の重要拠点だったから。
大津港 名所・史跡
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しかし、今は遊覧船ミシガンの発着場や公園として一帯が整備された憩いの場所ともなっています。
同じエリアに湖の駅浜大津という地元の産品を扱う市場やフードコートを備えた商業施設があって。大きな駐車場もあるしけっこう大きくて立派なのですが、大津港やびわ湖浜大津駅から微妙にちょっと離れていて、あんまり一体感がないように思います。 -
琵琶湖一帯は琵琶湖国定公園。琵琶湖は日本一の大きさを誇る淡水湖なのですが、100万年ほどの歴史を持つ古代湖であり、固有種を持っている貴重な湖なのだとか。
大津港からの眺めとかは穏やかですが、そういう目で見るとちょっと気持ちも変わってくるのではないかと思います。 -
京阪大津線は、御陵駅からびわ湖浜大津駅までを結ぶ京津線と石山寺駅から坂本比叡山口駅を結ぶ石山坂本線を合わせた総称です。大津と京都市内を結ぶという面と大津市の周辺、琵琶湖沿いを走るという両方があるのですが、いずれにしても、これを使うと京都と大津の観光はとても便利。京都・大津観光というのが楽にこなせます。
ということで、石山坂本線でびわ湖浜大津駅からひと駅ですけど三井寺駅まで移動します。 -
三井寺駅から三井寺を目指しますが。
その前にこれは大津絵の道。明日都浜大津から、市役所前を経由して皇子が丘公園までの遊歩道です。道沿いにはあちこちに大津絵が飾られているはずでしたが、密度はあまり濃くないので、すぐに見つかるというほどでもないかな。写真は小さな橋のところです。大津絵の道 名所・史跡
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三井寺には琵琶湖疏水沿いに進みます。
これはその途中の閘門。琵琶湖の水位は疏水路の水位よりも高いので、琵琶湖と疏水路を舟が行き来する際は、この大津閘門の水門を開閉し、水位差を調整して舟を通すことになります。疎水の中央部に石垣でしっかりと築かれた構築物の力強さとその上にちょこんと植えられた松の緑が美しいです。 -
さらに進んで
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イチオシ
琵琶湖疏水ではよく紹介されているポイント。
こちらも桜の名所とされていますが、三井寺に向かう途中に通ることになるので効率がいいですね。山のトンネルに向かって一直線に伸びる疎水の両脇には桜の並木が続いていて、確かにネットの情報でもよく見るそのままの眺め。その分、サプライズ感はあんまりないように思います。 -
もう三井寺も近い場所ですよ~
三尾神社は、貞観元年(859年)三井寺を再興した円珍によって創建。三尾神社 寺・神社・教会
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長等山の山頂に降臨した伊弉諾尊、三尾明神を祀り、三井寺の鎮守社としたものです。
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入り口の中門を入って
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これが本殿。本殿は、応永33年(1426年)に足利義持により再建されたもので、重要文化財。
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中門や拝殿等と合わせてとても趣があって美しいと思います。
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三尾神社からすぐにあるのが三井寺の総門。
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総門を入って、左手の石段を観音堂の方に上がっていきます。
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この石段の辺りの桜もいい感じ。
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石段を上がったところが毘沙門堂の前。そこを右に曲がると金堂の方なんですが、そのまままっすぐ進んで
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観音堂に到着です。
西国三十三か所観音霊場の第十四番礼所で、本尊は如意輪観音。 現在の建物は、元禄2年(1689年)の再建です。 -
イチオシ
同じ敷地に建つ観月舞台。
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なかなか優美な建物ですが、ここから桜を眺めるのは有料となっていてかなり特別な扱い。しかし、建物の方が見栄えがしていますけどね。
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また毘沙門堂の前に降りてきて
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桜をバックにした毘沙門堂をチェック。
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改めて、金堂の方に向かいます。
この辺りからはなんとなく記憶がありますね。 -
と、ここで三井寺 文化財収蔵庫というのがありました。まだ新しい施設。ちょっと小ぶりな感じですが、三井寺の宝物館という位置づけかな。
三井寺 文化財収蔵庫 名所・史跡
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ちょっと寄ってみましょう。
入ってすぐには、円珍の紹介。まあ、円珍あっての三井寺ですからね。 -
入唐求法の旅。青龍寺で法全阿闍梨から密教の奥義授法されるところがハイライト。こういうところは空海とほとんど同じですよね。
展示品の中では、勧学院一之間障壁画及び襖絵 狩野光信筆、金地著色 四季花木図15面が素晴らしい。狩野光信は、狩野永徳の長男。狩野探幽は甥という狩野派の本流ですが、さすが三井寺というような、その代表作ともいえる作品かな。脂が乗り切った冴えを感じる出来栄えでした。 -
参道に戻って、
さてさて。 -
参道沿いの桜は淡い白さ。薄墨桜もこんな色をしていましたね。
染井吉野のようにこんもり花が付くのではなく、さらっとたなびくような花付きなので、背景の緑ともごく自然に調和しています。
可憐で清らかな美しさといった印象の桜です。 -
勧学院の辺り、石垣の上にも
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イチオシ
こんなに見事な景色。
計算したものではないと思いますが、よく見ると枝垂れ桜が一部混じっていて、全体のバランスを良くしているような気がします。 -
さらに進んで村雲橋に差し掛かると
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金堂ももうすぐ。
桜の花の向こうにちらりと見えてきましたよ~
この感じ。いいじゃないですか。 -
イチオシ
桜の時期の三井寺は初めてなんですが、清らかな桜の花がここでも三井寺の金堂の美しさをより強調してくれている感じ。
金堂は、もともと美しい建物なんですが、桜の花がこんなにもぴったりだとは予想もしていませんでした。
いやいや、この眺めだけで、今日一日の目的はほとんど果たされてしまったかもしれません。しばし、感激のたびたびです。 -
イチオシ
ところで、三井寺の中心である金堂は、天智天皇の念持仏であった弥勒仏を祀る三井寺の総本堂。現在の建物は、慶長4年(1599)、豊臣秀吉の正室、北政所によって再建されたもの。
桃山時代を代表する名建築とされ国宝です。外観は両翼を広げたような屋根の形が印象的。堂内の諸仏の巡拝も可能ですが、今日はやめておきましょう。三井寺(園城寺) 寺・神社・教会
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ところで、金堂前のこの石灯籠ですが、
大化の改新のクーデターで蘇我氏一族を滅ぼした天智天皇ですが、その罪悪感から自らの薬指を切ってここに埋めたという伝説があります。三井寺は、天智天皇が亡くなってから建立されていますし、そんなことはあり得ないのですが、つまりそれだけ三井寺と天智天皇の関係は深いのだという思いがあるということでしょう。さきほど円珍あっての三井寺と言いましたが、三井寺は天智天皇への思いもちゃんと担っている寺。私も三井寺にはそっちの思いの方が強いかな。天智天皇の御陵は京都と大津の間くらいだし、また機会を作って訪ねたいと思います。 -
金堂前の広場から見上げた先は、一切経蔵。
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反対側には、鐘楼。
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近江八景の三井の晩鐘として名高い天下の三銘鐘のひとつ。
宇治平等院の鐘、高雄神護寺の鐘と並ぶのですが、特にの響きがよいと認められているのがこの鐘です。 -
今度は、金堂の脇を通って、弁慶の引摺り鐘のある霊鐘堂の方へ。
正面に見えるのが閼伽井屋。冒頭に触れた三井の霊泉です。 -
弁慶の引摺り鐘は、その手前を山の方です。
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これですね。
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弁慶の引き摺り鐘は、けっこう艶々してますね。
ちなみに、この鐘は三井寺と比叡山の争いの際、武蔵坊弁慶が奪って比叡山に引きずり上げた鐘。しかし、叩くと「いのーいのー」と帰りたがったので、弁慶は怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったというのですね。
ただ、弁慶は今でも実在が疑われていてはっきりとはしていません。まあ、弁慶ではなかったにしても、比叡山との抗争で奪ったり取り返したりの鐘だったというのは大いに可能性がある話かと思います。 -
そのまま進むと先ほど下から見えていた一切経蔵。
例の回転式の巨大な八角輪蔵が備えられている建物で、禅宗様の美しいお堂。 -
慶長7年(1602年)、毛利輝元によって移築されたものということです。
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さらに進むと三重塔。
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉が大和の比蘇寺の塔を伏見城に移築。その塔を今度は慶長5年(1600年)、徳川家康が三井寺に寄進したというもの。これもとても雰囲気があって、美しいです。 -
三重塔の塔の隣りは、唐院潅頂堂。
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桃山時代の建物で、三重塔とのバランスもとてもいいと思います。
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唐院潅頂堂から金堂に向かう参道の方に下りてくる
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この坂もとてもいい。
石垣の感じとか比叡山坂本のどこかにもあるような景色ですね。
三井寺は以上でおしまい。
心が洗われるような清らかな桜でした。 -
三井寺から、今度はこれも円珍ゆかりの神社、長等神社に回ります。
この神社は、天智天皇が近江大津宮に遷都した際、建速須佐之男大神を祀ったのが始まり。その後、貞観2年(860年)、三井寺を再興した円珍が山王権現を合わせて祀り、三井寺の鎮守社としました。赤い楼門が勢いを感じさせますが、長等神社 寺・神社・教会
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奥の拝殿から
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透かし塀で囲われた本殿の辺りの詫びた風情もなかなか。
それなりに見ごたえのある神社です。 -
大津大神宮は、長等公園に上がっていく少し手前のところ。明治11年、久邇宮朝彦親王の令旨により、伊勢神宮の内宮、天照皇大神宮を分霊したのが始まり。ということで、歴史はさほどありませんが、構えとしては堂々としたものです。
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で、これが長等公園。ここも三井寺と同じく長等山のふもとのエリアです。
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ちなみに、長等山はイザナギノミコトが降臨したとも伝わる山。
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大津市街からもさほど遠くなくて、この公園も市民に親しまれている公園だと思います。ただ、谷のような地形なので、広々とした感じはないですね。
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そのまま、三橋節子美術館の方に上っていく道も山道のような感じです。
で、これがその三橋節子美術館。
三橋節子は、結婚を機にここ長等山のふもとの居を構え、創作活動をしていたという女流画家。 -
三井の晩鐘や花折峠など、近江昔話を題材とした作品は独特の作風で豊かな情感が伝わってきますね。35歳の若さで亡くなったようですが、しっかりいいものを残していると思います。
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高観音近松寺も三橋節子美術館を抜けていった先。
平安時代に創建された天台宗寺門派のお寺。 -
三井寺の別所の一つだということですが、本堂の建物は享保元年(1716年)の建築。広い縁が設けられていて、爽やかな印象です。
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峠を越えるようにして大通りに出て。
関蝉丸神社へ。神社は上社と下社があるようですが、これは下社。 -
弘仁13年(822年)、小野小町の曾祖父、小野岑守が猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上に祀ったのが始まり。その後、百人一首「これやこの 行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも あふさかの関」を詠んだ蝉丸が逢坂山に住んでいたことから、その死後、蝉丸も祀られるようになったということ。
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線路を渡って神社に入って行くロケーションには少し驚きましたが、ちょうど桜の時期で拝殿の脇に満開の桜がきれいでした。
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ここからは、大津市街の中心部に戻ります。
まだお昼までには時間がありますから、ここからは市街地をあれこれ。 -
大津事件の碑は、東海道沿いの通りの角に建っていました。あまり目立たない碑ではありますね。
明治24年、ロシア皇太子ニコライが親善のため大津を訪問中、警備中の巡査であった津田三蔵に斬りつけられたというのが大津事件。日清戦争が明治27年、日露戦争が明治37年ですから、戦争の足音が聞こえてくる時代です。
ちなみに、皇太子はニコライ2世。後にロシア革命の後、銃殺されていて、ロシア帝国最後の皇帝となりました。 -
大津別院は、大津駅前、中央大通り沿い。真宗大谷派東本願寺の別院で、江戸時代初め、教如の創建です。
門前には明治天皇大津別院行在所の石碑があって、山門も厳めしい雰囲気。 -
一方で、本堂の方は国の重要文化財に指定されている割に地味な印象。ちょっとギャップがあるように思います。
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これは、ナカマチ商店街。ただ、菱屋町商店街とか丸屋町商店街とかの看板はしっかりあるんもですが、ナカマチ商店街と書いてあるのは琵琶湖疏水が日本遺産になったというポスターくらい。そういう意味では分かりにくいのですが、つまり、いくつかの商店街が合わさって一本道の商店街を形成しているということ。
創業、嘉永3年(1850年)というながら漬の八百与とか。堂々とした老舗もあったりして、歴史を感じます。 -
商店街の途中にある大津祭曳山展示館は、
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中に入るとすぐに大津まつりの曳山が展示されていて、なかなかしっかりとしたものですね。
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ただ、この曳山は本物かと思いましたが、これは原寸大の模型だそうで。しかし、ちゃんと迫力は感じられるし、周囲の大津まつりのパネル展示も賑やかな感じが伝わってきます。
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「寺田屋」お登勢生家跡碑は、これも丸屋町商店街の中。お菓子屋さん光風堂の店先に建っていました。
寺田屋は伏見にあった薩摩藩の定宿。文久2年(1862年)の寺田屋騒動では薩摩藩士同士の斬り合いがあったし、慶応2年(1866年)の寺田屋騒動では、龍馬が襲撃され捕らえられそうになったり。この時、機転を利かせて龍馬を助けたのが後の妻となるお龍さん。お登勢は寺田屋の女将としてそうしたすべてに関わっていて、並みの神経では勤まらなかったかも。女傑と言っていい人物だと思います。 -
ところで、大津宿は、東海道53番目の宿場。東海道でも最大の宿場だったとか。
敦賀へ通じる北国街道が分岐していて、大津市道路元票のある札の辻の辺りが分岐点。宿場の宿は当時この周辺に一番建ち並んでいたということでしたが、今はなかなかその面影は感じられません。 -
では、ここから
今度は後半の石山寺に向かいます。 -
石山寺は、石山寺駅から少し歩きますが、その前に、駅のすぐ近くにある螢谷公園へも。
瀬田川のほとりにあって、まあ、別に何ということはない公園かな。池の中央のモニュメントが源氏物語をモチーフにしていましたが、それくらいです。 -
改めて、少し歩きますよ~
琵琶湖周辺の温泉だと雄琴温泉が有名なんですが、石山温泉も歴史があるようですね。石山駅から石山寺に向かう途中、石山温泉とあるぼだい樹というのがあって、御休息と書かれていたのでてっきり日帰り温泉だと思ったら、普通のランチのこと。日帰り温泉はやっていないということでした。さらに尋ねると石山温泉では日帰り温泉をやっている宿はないということ。なるほどね~ -
駐車場の辺り。
石山寺はもうすぐです。 -
石山寺の正門、東大門です。
鎌倉時代に源頼朝が寄進したと伝わりますが、豊臣の淀君によって大規模な修繕が行われ、実質的には今の姿はそれ以来のもののようですね。 -
このアングルはたまにネットとかでも目にします。
石山寺の提灯と -
この黒くて力強い仁王像のインパクトがすごいですからね。
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仁王像は、鎌倉時代の仏師、運慶・湛慶によるもの。
実は鼻の穴をおっぴろげてすごい顔なんですけど、黒いのであんまり目立っていないのは幸いかもしれません。 -
そのまま参道を進みます。
こちらも桜がいい感じです。 -
小さな門があって、ここが料金所。
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すぐに右手の階段を上がります。
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上がった先は、正面に石山寺のシンボル、多宝塔。
長い石段を上がると突然正面にこの景色が現れるというシチュエーションはなんともドラマチック。ちょっとした感動があると思います。 -
イチオシ
こちらも源頼朝の寄進と伝わり、建久5年(1194年)の建立。
建立の年代が明らかなものとしては日本最古だそうですが、二層の屋根から法輪までもそうですが、周囲の木々とのバランスもよくて、優美な印象の多宝塔がいっそう引き立ちます。岩山の上に建っていて、下から見上げる角度が絶妙。とにかくすべてがぴったりはまっています。 -
左手に進むと石山寺の本堂です。
少し石段を上がって -
イチオシ
これが本堂の入り口。
現在の建物は三代目で、永長元年(1096年)の再建。滋賀県最古、国宝です。 -
本堂と礼堂を相の間でつなぐ構造なのですが、建っている場所はキツキツなので全景はよく見えません。
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堂内はゆったり。
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右手の相の間に紫式部源氏の部屋があって、
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源氏物語を執筆する紫式部の像が見えています。
ところで、石山寺は聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりです。その後、良弁が観音に祈ると東大寺の大仏に使う鍍金のための金が陸奥国で発見されるという流れもあって、とてもおめでたい縁起ですね。
そして、紫式部が、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺で八月十五夜の名月の晩に源氏物語の「須磨」「明石」の着想を得たという伝承は、”源氏物語の石山寺”として大変な箔となったもの。NHK大河ドラマ「光る君へ」も始まりますしね。
ちなみに、「須磨」「明石」は光源氏にとっては不遇の時代なのですが、明石の上との間にできた娘は朱雀帝の第一皇子、今上帝の中宮となって、この頃は逆に光源氏の絶頂期。今上帝の前は、光源氏と藤壺中宮の不義の子、冷泉帝が天皇となっていて、こちらは天皇の実父という関係。しかし、表には出せないことですから、次は堂々、天皇の外戚へ。こういう二重三重の仕掛けは抜かりがありません。 -
さて、本堂から三十八所権現社を経由して多宝塔に向かいます。
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途中、例の岩山の上からは
御影堂や -
その向かいには一回り小さな毘沙門堂が見えています。
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イチオシ
多宝塔はやっぱり均整の取れた美しさ。
下から見上げる姿もよかったですが、近くでみる姿もまた素晴らしいですね~ -
これは多宝塔の真下。これだとちょっと近すぎかな。
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多宝塔を過ぎて
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突き当りは瀬田川を望む展望所。
この辺りは桜がきれいです。
ここまで来る途中でも桜の花は満開だったのですが、あんまり馴染んでいるので、桜を意識することがありませんでした。ここは瀬田川の青があるので桜の花が映えるんだと思います。 -
ここから山の方へ。
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心経堂を過ぎて
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豊浄殿です。
ここは石山寺の宝物館的な建物。最近整備が終わったようで、石山寺と紫式部展が行われていました。 -
別料金ですが、入ってみましょう。
石山寺に来たら、それなりに源氏物語に浸らないとフラストレーションがたまりますからね。
内容的には絵巻や屏風など特に優れたものではないと思いますが、やはり源氏物語自体に魅力がありますから、物語に思いを馳せるきっかけとなるものであればそれで十分OK。価値ある内容だったと思います。 -
では、鐘楼から
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岩山を下って
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また入り口の東大門まで。
ところで、源氏物語は京都の生んだ文化遺産としては平家物語と双璧というのが私の持論。平家物語の方は実話ですから遺跡は数が多いのですが、源氏物語はなかなかそうはいきません。もう少し、何か本格的な記念館とか出来てもいいと思うんですけどね。そういう意味だと宇治の方が積極的。源氏物語ミュージアムを作って、宇治十帖は源氏物語54帖の中でもピカイチと強くアピールしています。まあ、それは地元だから仕方がないんでしょうが、私から言わせると本当はちゃんちゃらおかしい。光源氏の登場する第二部までの深さと比べると月とスッポンです。宇治十帖は単なるすれ違い。匂宮はヤバいやつだし、薫もガキンチョの恋。浮舟だってポンコツであることは否めない。紫式部どうしちゃったんですか?という感じです。対して、光源氏の段は、男女の仲は相思相愛、お互いに思いやっていてももどかしくて苦しいものであるというところを丁寧に描いていて、そこが素晴らしいんですよね。運命のいたずらや複雑な人間関係の中に翻弄されるストーリーの巧妙な仕掛けは当然素晴らしいのですが、源氏物語の一番の魅力はやっぱり光源氏の恋愛遍歴。地位も名誉も才能もすべてを備えている身であっても叶うことがない、もどかしくて苦しい心のうちを美しく描き切っているところだと思います。その辺りはもののあわれという言い方もありますが、もうちょっと当事者的な世界だし、そして、最後はすべてを受け入れていくという姿勢には平家物語とも共通のものもあるような気がします。 -
ふう、ちょっと気持ちが高ぶってしまいましたが、後はもう少し周辺散策。
朗澄大徳を称える歌碑が石山寺の山門のはす向かい。枝垂れ桜の下にありました。
碑文は、
降魔のすがたとなりたもう
朗澄律師の青鬼は
悪心くじき福徳を
与え給うもありがたやは
朗澄律師は、鎌倉時代、石山寺中興の祖。石山寺の経典の収集や整備に尽くし、自らの死後は、鬼の姿となり、石山寺の経典を守護すると誓いを立てたのだとか。それに感謝をするという内容です。 -
石山貝塚は、縄文時代早期の貝塚。淡水産の貝塚としては日本で最大規模なのだそうです。
琵琶湖の周辺に早くから人が住み始めた証。出土した土器は石山式土器とされて、時代を特定する指標ともなっているよう。地味な石柱と説明板がありました。 -
石山貝塚から一段上がったところには、石山寺 観光案内所。こんなところにわざわざ行くかなあというような場所なのですが、三鈷の松がどこか分からなくて、それを聞くために訪ねました。
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情報をもらって、その三鈷の松は、石山寺の山門から少し奥。公衆トイレがあって、その横です。特にどうということはなくてあんまりたいした姿でもないんですけどね。高野山にもあったと思いますが、いずれにしても空海ゆかりの松。空海は厄年の3年間、石山寺に参籠したということ。この松も3本葉という縁起の良い葉なんだそうです。
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では、ここで遅めのランチです。
志じみ茶屋 湖舟は、石山寺の入り口からすぐにある人気の食事処。 -
イチオシ
うなぎと近江牛のお重、うな牛重をいただきました。うなぎと牛肉なんてちょっとありえないような組み合わせかと思いましたが、これがけっこうというか抜群にうまい。うな重と近江牛重それぞれがうまいし、お互いにまったく邪魔をしていないんですよね。そんな話をしたら、お店の人曰く「やっぱり近江牛ですからねえ」というコメント。ちょっとお値段は張りますけど、お勧めです。
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石山寺からの帰りはJR石山駅を目指します。この間に、いくつか気になるところがあるんですよね。
始めの御霊神社は、唐橋前駅そばのちょっと寂し気な神社。
弘文天皇を祀る神社とされますが、この弘文天皇は壬申の乱で敗れた大友皇子のこと。この場所で命を絶ったと伝わります。白鳳4年(675年)、大友皇子の子、大友与多王が創建というのは三井寺と同じですね。高台に向かう場所にある門が神社にしては変わっていますが、これは膳所城本丸の黒門を移築したもののようです。 -
続いての北大路御霊神社も、大友皇子を祀る神社。鳥居川御霊神社と基本は同じですね。
ただ、境内はこちらの方が明るい雰囲気だし、 -
社殿もすっきりして立派な印象。元禄6年(1693年)に再建されているようです。
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石山駅観光案内所は、定期券売り場の横ですが、少し気が付きにくいかも。芭蕉の関係で幻住庵について少し情報をいただきました。
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JR石山駅から歩いて、今井兼平の墓へも。川のほとりの整備された一角です。
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今井兼平は、木曽義仲の乳兄弟にあたり、木曽の四天王とも呼ばれた武将。寿永3年(1184年)、源義経、範頼の軍と粟津で戦い、討ち死にした義仲の後を追って壮絶な最期を遂げたということ。謡曲「兼平」というのもあるようです。
瀬田の唐橋も近くですからね。 -
面倒くさいので、石山駅から北の方もそのまま歩きますよ~
若宮八幡神社は、白鳳4年(675年)の創建と伝わる古社。天智天皇がこの地へ行幸の際、この地へ社を建立することとしたのが始まりとも。
見どころは移築された膳所城の犬走門。石の鳥居のすぐ後ろに建っていて、ちょっと妙な感じはあります。 -
拝殿も立派だし、
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拝殿と本殿のバランスも美しい。
滋賀の神社は、独特の美しさがあると感じます。 -
さらに北上を続けて、これは膳所・晴嵐の道。膳所城址公園まで続く湖岸沿いの遊歩道。膳所・晴嵐の道駐車場という立派な駐車場があって、そこから湖畔に出るとこの道が現れました。遠くには近江大橋なんかもよく見えています。
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そのまま進むと大津湖岸なぎさ公園。近江大橋のまだ南側。
少し弧を描いて湾のような地形にちょっと雰囲気がないこともないですね。ただ、公園という広いイメージではない。ここも遊歩道にちょっと手を加えただけという感じです。 -
少し陸地に入って、これは記恩寺。寺とあったので、当然寺だと思いましたが、外観も含めて寺ではないですね。蘆花浅水荘というお屋敷です。日本画家、山元春挙の別荘で、大正3年から10年にかけて、京都の大工橋本嘉三郎の手により建てられ、県下の数寄屋を代表するものの一つとありました。茅葺の門の構えからして、特別な建物感が漂っています。
蘆花浅水荘庭園の方の詳しい説明板もありまして。何でも、庭は日本画家山元春挙遺愛の庭園。琵琶湖と近江富士を借景として取り込み、その湖と山が融合し一体となった景色は春挙氏の指導による画景。昭和初期の湖国の代表的名園とありました。 -
少し移動して。篠津神社は、祭神を素盞鳴命とし、古来、産土神として尊崇されてきた神社。
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見どころは、神社の表門で、これは旧膳所城の城門の一つ、北大手門を移築したもの。明治5年にここで再建されたとありました。
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石の鳥居から少し参道を進んだ正面。その門を入るとそれなりに広い境内が現れて、
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拝殿と本殿がここもバランスよく建っていました。
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膳所神社も似た感じかな。膳所本町駅からすぐの場所。
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表門は、膳所城の二の丸と本丸の間にあった城門。国の指定重要文化財にもなっています。
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しっかり広い境内に建つ拝殿や本殿にはちょっとした威厳も。
豊臣秀吉や北政所、徳川家康が神器を奉納したという記録が残っているのもなるほどという感じです。 -
そうこうしているうちに、とうとう膳所城跡公園に到着です。
入り口に復元された城門があって、いきなりちょっと重々しいですが、重々しいのはそこだけ。 -
関ヶ原の合戦の翌年、藤堂高虎が築いた典型的な水城、膳所城の本丸跡を
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公園として整備したもので、
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木々の間から琵琶湖の景色や近江大橋を長閑に眺められる和やかな雰囲気です。
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膳所城跡公園のすぐ隣りに見える近江大橋は、大津市丸の内町と草津市新浜町を結ぶ全長1,290mの琵琶湖の橋。大津から草津まで石山寺を経由することなくショットカットで行けるので交通量はけっこう多いですね。
湖面に長く続く橋の姿はけっこう遠くからも見えていましたし、この辺りではちょっとしたランドマークにもなっていると思います。 -
最寄りの駅、膳所本町を目指しますが
その途中、和田神社は、白鳳4年(675年)の創建という古社。 -
入口の門は膳所藩校遵義堂の門を移築したものって、同じパターンですね。
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拝殿と本殿がバランスよく配置されているのお決まりかな。
境内にイチョウの巨木があって、関が原合の戦いに敗れた石田三成がここにつながれて休息を取ったとか。思いがけず、ひょっこり隠れた歴史も見つけました。 -
膳所本町駅から朝のびわ湖浜大津駅まで帰ってきました。
もう一つのお目当ては、びわこ花噴水です。
大津港の西側に続く湖畔の公園で待っていると -
夕方になって防波堤のところからいくつか吹き上がりましたが、想像していたよりも噴水の大きさはけっこう小ぶり。
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もう少し暗くなるとライトアップの効果が増すのかもしれませんが、うーん。それにしてもやっぱり微妙かなと思います。
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びわ湖浜大津駅から今夜の宿、京都市街へ。
花見の旅ですから、夜桜もがんばりますかあ。
京都市街の夜桜だと祇園白川宵桜ライトアップは定番中の定番。 -
巽橋の近辺は観光客で大賑わいです。
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満開の桜に覆われた石畳やさらさらと流れる白川の眺めは確かに風情があるのですが、そこに集まる大勢の人の和やかな笑顔も含めてがここの魅力かな。
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イチオシ
そういう意味では賑わってこそのライトアップ。桜だけではいくら満開でも寂しいと思います。
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今夜の宿のホテルシャトレーイン京都は、御池通り沿い。烏丸御池駅から何もない通りを西にしばらく歩くので、アクセスはちょっと微妙かな。
建物はコンクリートのビルなんですが、少し和の要素を入れたデザインが京都らしいですね。
フロントはきちんとしているし、部屋の広さもまあまあ。リーズナブルなビジネスホテルだと思います。明日は最終日。京都市内の桜を巡ります。
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