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午前中に兵馬俑を観光し、いよいよシルクロードの旅のフィナーレです。<br />午後は西安市内観光ですが我々日本人には外せない場所があります。それは弘法大師空海様が密教の秘伝を伝授された青龍寺。<br />午後の観光はこの青龍寺から始まり、大雁塔を観光しました。歴史的建造物の観光でしたが商魂逞しい中国人の一面も見ることができました。

始めての中国シルクロードの旅 20 旅の終わりは西安(古都長安)商魂たくましい中国人の神髄に触れた

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2019/06/11 - 2019/06/18

337位(同エリア1561件中)

旅行記グループ シルクロードの旅

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ポポポ

ポポポさん

この旅行記のスケジュール

2019/06/17

この旅行記スケジュールを元に

午前中に兵馬俑を観光し、いよいよシルクロードの旅のフィナーレです。
午後は西安市内観光ですが我々日本人には外せない場所があります。それは弘法大師空海様が密教の秘伝を伝授された青龍寺。
午後の観光はこの青龍寺から始まり、大雁塔を観光しました。歴史的建造物の観光でしたが商魂逞しい中国人の一面も見ることができました。

旅行の満足度
3.5
観光
4.5
ショッピング
2.0
同行者
一人旅
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • 午前中に兵馬俑の観光を終え、午後は西安市内観光です。<br />西安市内観光と言えば空海様が恵果阿闍梨から密教の奥義を伝授された青龍寺、それと三蔵法師ゆかりの大雁塔でしょうね。<br />さてこの旅行記の副題に「商魂たくましい中国人の神髄を見た」と付けましたが、彼らは我々日本人ツアー客をカモにしようと手ぐすね引いて待っていたんです、<br />この手口は巧妙で我々の内の何人かは危うく騙されそうになりました。<br />

    午前中に兵馬俑の観光を終え、午後は西安市内観光です。
    西安市内観光と言えば空海様が恵果阿闍梨から密教の奥義を伝授された青龍寺、それと三蔵法師ゆかりの大雁塔でしょうね。
    さてこの旅行記の副題に「商魂たくましい中国人の神髄を見た」と付けましたが、彼らは我々日本人ツアー客をカモにしようと手ぐすね引いて待っていたんです、
    この手口は巧妙で我々の内の何人かは危うく騙されそうになりました。

  • さて、旅行記に戻りましょう。<br />驪山から西安旧市街に向かう途中の道路の左側には無数の高層マンションが立ち並んでいました。<br />一部では不動産バブル崩壊が叫ばれる中国ですが、西安ではそのような噂はどこ吹く風と言った印象です。<br />

    さて、旅行記に戻りましょう。
    驪山から西安旧市街に向かう途中の道路の左側には無数の高層マンションが立ち並んでいました。
    一部では不動産バブル崩壊が叫ばれる中国ですが、西安ではそのような噂はどこ吹く風と言った印象です。

  • そうこうする内に青龍寺に到着しました。写真は山門(東門)です。<br />イヤーついにやって来ました。数年前まではここに来れるなんて思ってもみなかったんでが、思い立つと割と簡単に来れるものなんですね。<br />憧れの地に着いた感激と興奮で胸がバクバクしていました。<br />さて、青龍寺は弘法大師空海所縁の寺として知られていますが創建は隋時代の582年、最初は霊感寺と飛ばれましたが唐の武徳4年(621年9)に廃寺になりました。<br />その後唐の龍朔2年(662年)に観音寺として再建され唐の景雲2年(771年)に青龍寺と改称されました。<br />唐代は仏教の繁栄期で、唐の有名な高僧恵果阿闍梨が主催していた青龍寺は密教の重要な道場の一つとして盛大を極め、仏法を求めるために内外から多くの僧侶がここを訪れました。<br />日本仏教史の入唐八家のうち六家(空海、円行、円仁、恵運、円珍、宋叡)も青龍寺で仏法を学びました。<br />その青龍寺も唐の会昌5年(845年)廃仏により廃棄されました。その翌年に復活し護国寺と名付けられ北宋まで存続しましたが1086年以降荒廃し、ついに廃墟となって地上から消滅しました。<br />月日は流れて1982年、西安市人民政府が青龍寺遺跡に管理事務所を設置して2回の発掘調査を行いました。結果7か所の建築遺跡と多数の唐代の遺物を発掘し、そこが青龍寺の遺跡であることを確かめました。<br />そして青龍寺の復興がはじまりました。日本の四国4県の浄財と真言宗関係団体の浄財で1982年にまず空海記念碑が建てられ、続いて1984年に恵果空海記念堂が建てられました。<br />続いて1985年に四国4県から桜の苗木1000本が贈呈され、1993年には同じく四国4県の浄財で青龍寺跡に付属庭園が完成しました。<br />ガイドのダンさんは記念碑もお寺も日本の四国4県の皆さんの浄財で建てられたと説明してくれました。<br /><br /><br /><br />

    そうこうする内に青龍寺に到着しました。写真は山門(東門)です。
    イヤーついにやって来ました。数年前まではここに来れるなんて思ってもみなかったんでが、思い立つと割と簡単に来れるものなんですね。
    憧れの地に着いた感激と興奮で胸がバクバクしていました。
    さて、青龍寺は弘法大師空海所縁の寺として知られていますが創建は隋時代の582年、最初は霊感寺と飛ばれましたが唐の武徳4年(621年9)に廃寺になりました。
    その後唐の龍朔2年(662年)に観音寺として再建され唐の景雲2年(771年)に青龍寺と改称されました。
    唐代は仏教の繁栄期で、唐の有名な高僧恵果阿闍梨が主催していた青龍寺は密教の重要な道場の一つとして盛大を極め、仏法を求めるために内外から多くの僧侶がここを訪れました。
    日本仏教史の入唐八家のうち六家(空海、円行、円仁、恵運、円珍、宋叡)も青龍寺で仏法を学びました。
    その青龍寺も唐の会昌5年(845年)廃仏により廃棄されました。その翌年に復活し護国寺と名付けられ北宋まで存続しましたが1086年以降荒廃し、ついに廃墟となって地上から消滅しました。
    月日は流れて1982年、西安市人民政府が青龍寺遺跡に管理事務所を設置して2回の発掘調査を行いました。結果7か所の建築遺跡と多数の唐代の遺物を発掘し、そこが青龍寺の遺跡であることを確かめました。
    そして青龍寺の復興がはじまりました。日本の四国4県の浄財と真言宗関係団体の浄財で1982年にまず空海記念碑が建てられ、続いて1984年に恵果空海記念堂が建てられました。
    続いて1985年に四国4県から桜の苗木1000本が贈呈され、1993年には同じく四国4県の浄財で青龍寺跡に付属庭園が完成しました。
    ガイドのダンさんは記念碑もお寺も日本の四国4県の皆さんの浄財で建てられたと説明してくれました。



    青龍寺 寺院・教会

  • 山門の横から眺めた西安市内の景色。<br />青龍寺の向かいには高層マンションが建ち並んでいます。

    山門の横から眺めた西安市内の景色。
    青龍寺の向かいには高層マンションが建ち並んでいます。

  • 山門の横から階段を上って行くと左に建物の入りがありましたが、ガイドはそちらには向かわず寺の敷地にある庭園の方に我々を連れて行きました。<br />後々考えるとこの右の建物が青龍寺の入り口だったかもしれません。

    山門の横から階段を上って行くと左に建物の入りがありましたが、ガイドはそちらには向かわず寺の敷地にある庭園の方に我々を連れて行きました。
    後々考えるとこの右の建物が青龍寺の入り口だったかもしれません。

  • 青龍寺の敷地の一角にある空海記念碑です。<br />記念碑の左右にある4つの穴の開いた丸いオブジェは四国4県を表しているそうです。<br />これらは四国4県と真言宗関係団体の浄財で建てられました。

    青龍寺の敷地の一角にある空海記念碑です。
    記念碑の左右にある4つの穴の開いた丸いオブジェは四国4県を表しているそうです。
    これらは四国4県と真言宗関係団体の浄財で建てられました。

  • 記念碑がある敷地の隅にあった丸い記念碑。<br />私は知恵の輪かと思いましたがそうではありません。<br />これは四国八十八か所霊場の0番札所と言う意味だそうです。四国霊場は弘法大師が八十八か所の寺を霊場と定められたわけで、0番札所なんか構想には無かったはずです。<br />青龍寺が勝手にそう名乗ったのか、それとも誰かがそう命名したのか、命名したのであれば何とお節介なことをしたもんだなと思ったので調べてみました。<br />調べた結果は四国の善通寺の元法主蓮生善隆氏がそう命名したそうです(Wikipediaより)。<br />もちろん法主単独の構想では無く、四国4県や本山の賛同も得ての行為だったのでしょうが、このことでここが四国八十八か所の起点となっていまいました。<br />今までは八十八か所を回って結願していたものが、0番札ができてからはここを回らないと結願しないのかと疑問が湧いてきますね。<br />私はわざわざここを回らなくても関係ないと思いますよ。中国は共産主義国家で宗教を否定する唯物論国家なのでここに来なくても何ら問題ないと思います。<br />ここは日本人にとって、空海さんが恵果阿闍梨から密教の密教の奥義を伝授された特別な場所だという事、ただそれだけですよ。<br />さて、この敷地の周辺には種々の植物や木々が植えられていましたが、三鈷の松がありました。<br />三鈷の松とは松葉が3本ある松の事。高野山の壇上伽藍にある松ですが枯れてしまった為平成期に植え替えられたそうです。<br />私が見たのは枯れる前の大きな三鈷の松。母と高野山にお参りした時に三鈷の松の松葉を見つけて大事に保管していました。<br />青龍寺の三鈷の松も日本から苗木を持ち込んで植えられたのかもしれませんね。<br />三鈷の松にはこんな由来があります。空海様は恵果阿闍梨から密教の奥義を伝授された後に、中国寧波の浜から密教を弘通するための地を求めたいと願いながら<br />三鈷杵を投げられました。<br />その後高野山に伽藍を造営されている時に、松の枝に掛かった三鈷杵を見つけられたのです。その三鈷杵は空海様が寧波の浜で投げられたあの三鈷杵でした。三鈷杵を見つけられた空海様は高野山が修験の道場とするのに最適な場所であると確信されたそうです。<br />三鈷祥も三鈷の松もどちらも三又です。三鈷の松は霊力がある松として古来より珍重されてきたそうです。<br />壇上伽藍で三鈷の松を見つけられればラッキーです。皆さんも見つけてみましょう。

    記念碑がある敷地の隅にあった丸い記念碑。
    私は知恵の輪かと思いましたがそうではありません。
    これは四国八十八か所霊場の0番札所と言う意味だそうです。四国霊場は弘法大師が八十八か所の寺を霊場と定められたわけで、0番札所なんか構想には無かったはずです。
    青龍寺が勝手にそう名乗ったのか、それとも誰かがそう命名したのか、命名したのであれば何とお節介なことをしたもんだなと思ったので調べてみました。
    調べた結果は四国の善通寺の元法主蓮生善隆氏がそう命名したそうです(Wikipediaより)。
    もちろん法主単独の構想では無く、四国4県や本山の賛同も得ての行為だったのでしょうが、このことでここが四国八十八か所の起点となっていまいました。
    今までは八十八か所を回って結願していたものが、0番札ができてからはここを回らないと結願しないのかと疑問が湧いてきますね。
    私はわざわざここを回らなくても関係ないと思いますよ。中国は共産主義国家で宗教を否定する唯物論国家なのでここに来なくても何ら問題ないと思います。
    ここは日本人にとって、空海さんが恵果阿闍梨から密教の密教の奥義を伝授された特別な場所だという事、ただそれだけですよ。
    さて、この敷地の周辺には種々の植物や木々が植えられていましたが、三鈷の松がありました。
    三鈷の松とは松葉が3本ある松の事。高野山の壇上伽藍にある松ですが枯れてしまった為平成期に植え替えられたそうです。
    私が見たのは枯れる前の大きな三鈷の松。母と高野山にお参りした時に三鈷の松の松葉を見つけて大事に保管していました。
    青龍寺の三鈷の松も日本から苗木を持ち込んで植えられたのかもしれませんね。
    三鈷の松にはこんな由来があります。空海様は恵果阿闍梨から密教の奥義を伝授された後に、中国寧波の浜から密教を弘通するための地を求めたいと願いながら
    三鈷杵を投げられました。
    その後高野山に伽藍を造営されている時に、松の枝に掛かった三鈷杵を見つけられたのです。その三鈷杵は空海様が寧波の浜で投げられたあの三鈷杵でした。三鈷杵を見つけられた空海様は高野山が修験の道場とするのに最適な場所であると確信されたそうです。
    三鈷祥も三鈷の松もどちらも三又です。三鈷の松は霊力がある松として古来より珍重されてきたそうです。
    壇上伽藍で三鈷の松を見つけられればラッキーです。皆さんも見つけてみましょう。

  • 敷地内にある庭園。<br />青龍寺は敷地が広く立派な庭園があります。この庭園も四国4県の浄財で造園されてものです。

    敷地内にある庭園。
    青龍寺は敷地が広く立派な庭園があります。この庭園も四国4県の浄財で造園されてものです。

  • 庭園の前を通りガイドのダンさんに案内されてきたのがこのお堂。ここで少し待つように指示され、ガイド本人はどこかに行ってしまいました。<br />外観は撮り忘れてしまいましたが、我々は青龍寺の本堂に連れてこられたのだとばかり思っていたのです。しかしお堂の中の様子がどうも本堂とは違うようです。<br />中央に護摩壇らしき四角の壇と結界のように紐を張った場所がありますがどう見ても護摩壇ではない。<br />お堂には違いないらしが何かが足りない、そう仏像が無い、燭台や香炉、花立も無い、無い無い無い。<br />私が「ここ本当に本堂なの、お堂なの」と訝しんでいると、ツアーの皆も同じように思っていたようで、口には出さないまでも不思議そうな顔をしていました。<br />兎も角ガイドを待つことにしました。

    庭園の前を通りガイドのダンさんに案内されてきたのがこのお堂。ここで少し待つように指示され、ガイド本人はどこかに行ってしまいました。
    外観は撮り忘れてしまいましたが、我々は青龍寺の本堂に連れてこられたのだとばかり思っていたのです。しかしお堂の中の様子がどうも本堂とは違うようです。
    中央に護摩壇らしき四角の壇と結界のように紐を張った場所がありますがどう見ても護摩壇ではない。
    お堂には違いないらしが何かが足りない、そう仏像が無い、燭台や香炉、花立も無い、無い無い無い。
    私が「ここ本当に本堂なの、お堂なの」と訝しんでいると、ツアーの皆も同じように思っていたようで、口には出さないまでも不思議そうな顔をしていました。
    兎も角ガイドを待つことにしました。

  • ところがいくら待っても肝心のガイドが戻って来ません。<br />仕方ないので内部の物を見ていました。<br />これは恵果阿闍梨と空海様の姿絵。

    ところがいくら待っても肝心のガイドが戻って来ません。
    仕方ないので内部の物を見ていました。
    これは恵果阿闍梨と空海様の姿絵。

  • その横に展示されているのは青龍寺遺跡の発掘調査の写真。

    その横に展示されているのは青龍寺遺跡の発掘調査の写真。

  • 青龍寺の伽藍風景。多分唐代の青龍寺を描いているのでしょう。

    青龍寺の伽藍風景。多分唐代の青龍寺を描いているのでしょう。

  • 空海様の墨跡。日本から持って来たもののようでした。

    空海様の墨跡。日本から持って来たもののようでした。

  • 日本国空海記念碑建立実行委員会寄贈資料と染め抜かれた布が貼られ、四国霊場や空海様の絵姿が展示されていました。<br />堂内を見て回った我々は、いくら待ってもガイドが来ないので折角だから般若心経をあげようと皆で読経を始めたその時に青龍寺の職員と思われる女性が現れました。<br />そして流暢な日本語で「日本のツアーの皆様ようこそ青龍寺にお越しくださいました。私から青龍寺の歴史を簡単ですが説明させていただきます。」として話が始まりました。<br />この女性、青龍寺の職員でしょうがガイドもするようです。<br />説明の内容は一般的な内容でしたので省きますが、四国4県の皆様の浄財や日本の皆様の寄付によって青龍寺が復興できましたこと、感謝申し上げます。と言っていました。<br />が、これからが彼女の真骨頂、営業トークが始まったのです。<br />中国のいつものパターンですが、ここもかとあきれてしまいました。<br />この建物は青龍寺遺址公園正果堂、資料展示室でした。資料展示室の右奥の部屋が<br />御朱印・御朱印帳が受けられる場所、つまり青龍寺の売店です。<br />「ご参拝の記念に芳名帳に住所氏名を記入の上第0番札所の印の入ったパンプレットを貰って下さい。そして0番札所の御朱印を受け、四国霊場巡りの発願寺として青龍寺の御朱印帳をお求めください。」との営業トークでした。<br />ちなみに御朱印帳は300元(約5400円)と500元(約9000円)、御朱印代は50元(900円)でした。<br />ツアーの友人はすでに四国霊場八十八か所を回り、今回0番札所の御朱印を頂きたいと御朱印帳を持参していました。彼に日本の価格を聞いたところ、日本では御朱印帳が1500円、御朱印料は四国八十八か所で300円、西国三十三か所観音霊場では400円だそうです。<br />高いなとつぶやいていました。

    日本国空海記念碑建立実行委員会寄贈資料と染め抜かれた布が貼られ、四国霊場や空海様の絵姿が展示されていました。
    堂内を見て回った我々は、いくら待ってもガイドが来ないので折角だから般若心経をあげようと皆で読経を始めたその時に青龍寺の職員と思われる女性が現れました。
    そして流暢な日本語で「日本のツアーの皆様ようこそ青龍寺にお越しくださいました。私から青龍寺の歴史を簡単ですが説明させていただきます。」として話が始まりました。
    この女性、青龍寺の職員でしょうがガイドもするようです。
    説明の内容は一般的な内容でしたので省きますが、四国4県の皆様の浄財や日本の皆様の寄付によって青龍寺が復興できましたこと、感謝申し上げます。と言っていました。
    が、これからが彼女の真骨頂、営業トークが始まったのです。
    中国のいつものパターンですが、ここもかとあきれてしまいました。
    この建物は青龍寺遺址公園正果堂、資料展示室でした。資料展示室の右奥の部屋が
    御朱印・御朱印帳が受けられる場所、つまり青龍寺の売店です。
    「ご参拝の記念に芳名帳に住所氏名を記入の上第0番札所の印の入ったパンプレットを貰って下さい。そして0番札所の御朱印を受け、四国霊場巡りの発願寺として青龍寺の御朱印帳をお求めください。」との営業トークでした。
    ちなみに御朱印帳は300元(約5400円)と500元(約9000円)、御朱印代は50元(900円)でした。
    ツアーの友人はすでに四国霊場八十八か所を回り、今回0番札所の御朱印を頂きたいと御朱印帳を持参していました。彼に日本の価格を聞いたところ、日本では御朱印帳が1500円、御朱印料は四国八十八か所で300円、西国三十三か所観音霊場では400円だそうです。
    高いなとつぶやいていました。

  • 写真は芳名帳に使命と住所を記入した後で貰った0番札所入りのチラシです。<br />裏に青龍寺の歴史と空海様の事が極簡潔に書かれていました。0番札所はスタンプが押してあるだけ、有難味も何もない。やはり御朱印とは違うなあ。<br />さて、御朱印帳と御朱印の値段日本の価格と比較するとべらぼうに高い。日本人ツアー客の信心を逆手に取って法外な値段で買わせようとする魂胆か。日本価格の3.6倍から6倍の値段を吹っかけて荒稼ぎするつもりだな。空海さんが修行なさったお寺で信心深い日本人を集めて悪どい商売をするとはおいらが許しちゃおかねえぜ。<br />遠山の金さんなら諸肌脱いで桜吹雪を見せるところですが今は令和の御代、そんなことはできません。<br />でも悪どい商売ですな。私なら何も買いません。ツアーの友人はどうするんでしょうか?聞いてみました。<br />彼曰く「御朱印帳も買うつもりで来たが買う気にならない。でも御朱印は迷っている。ここしか貰えないから。」<br />結局彼は御朱印だけ受けたそうです。0番札所の御朱印はここしかないのでそれはそれで彼には良かったと思います。<br />でも私には許せない。青龍寺は空海様が命の灯が消えかけている恵果阿闍梨から密教の奥義の全てを伝授された神聖な場所であります。日本人の心を踏みにじる許せない行為です。<br />青龍寺の職員らがこの聖地に巡礼に来るに日本人観光客をカモにしていることをあの世の恵果阿闍梨が知ったら嘆き悲しまれることでしょう。<br />青龍寺は密教の聖地には違いありませんが、今や法力も霊力も何もない張りぼての寺に成り下がっていました。何故こんな寺を善通寺の法主は0番札所に命名したのでしょうかね。<br />真言宗関係の皆様には青龍寺を復興させるのが悲願だったのでしょうね。それを中国側にうまく利用されたのでしょう。この寺は中国人が崇拝する拝金主義、金満主義が満ち溢れた寺だったという事です。<br />そのことは青龍寺だけに限らず産業界でも同様でした。多くの日本企業(特に中小企業)が中国に進出して騙され、工場を取り上げられたり、倒産に追い込まれたりしました。<br />中国は共産主義国家なので唯物論国家、宗教は否定され弾圧される対象なのです。<br />すでに新疆ウイグル自治区内のイスラム教徒は大弾圧を受け信者は強制収容所に収監されてモスクは閉鎖されています。チベットのラマ教(チベット仏教)も大弾圧を受けダライラマ14世は他国に亡命しました。<br />現在仏教だけが表向きは弾圧を受けてはいませんが、中国共産党が成立する以前の仏教のように信仰の自由が認められたいるかは疑問です。<br />話を戻しましょう。結局御朱印を受けた人が数人だけであとは誰も何も購入しませんでした。<br />予定外の買い物タイムで驚きましたが、全員が芳名帳の記帳が終わるころにはガイドのダンさんは戻っていました。<br />帰国後分かった事ですが、正果堂の隣にある売店は通常は閉まっていて、ツアー客が来た時だけ開けるそうです。<br />これは一人で青龍寺を訪れた4トラメンバーさんの旅行記を読んだ時に知りました。この方は青龍寺を訪れた時に御朱印をもらいに行ったが御朱印所が分からなかったそうです。それで寺の警備員らしき男性に尋ねると売店まで案内されました。<br />売店はいつも閉まっていて日本人のツアー客が来た時だけ開けるのだそうです。<br />売店の係員を呼んでくると言われ、しばらく正果堂で待っていると女性の係員がやって来て売店に入れたそうです。<br />これは私の推測ですが、ガイドのダンさんが我々を置いて出かけたのは売店の女子従業員を呼びに行ったのではないでしょうか。カモが来たぞって。当然何がしかの報酬が支払われたことは想像するまでも無いことでしょう。<br />売店の買い物タイムを終わり引き続き境内を観光です。<br /><br /><br />

    写真は芳名帳に使命と住所を記入した後で貰った0番札所入りのチラシです。
    裏に青龍寺の歴史と空海様の事が極簡潔に書かれていました。0番札所はスタンプが押してあるだけ、有難味も何もない。やはり御朱印とは違うなあ。
    さて、御朱印帳と御朱印の値段日本の価格と比較するとべらぼうに高い。日本人ツアー客の信心を逆手に取って法外な値段で買わせようとする魂胆か。日本価格の3.6倍から6倍の値段を吹っかけて荒稼ぎするつもりだな。空海さんが修行なさったお寺で信心深い日本人を集めて悪どい商売をするとはおいらが許しちゃおかねえぜ。
    遠山の金さんなら諸肌脱いで桜吹雪を見せるところですが今は令和の御代、そんなことはできません。
    でも悪どい商売ですな。私なら何も買いません。ツアーの友人はどうするんでしょうか?聞いてみました。
    彼曰く「御朱印帳も買うつもりで来たが買う気にならない。でも御朱印は迷っている。ここしか貰えないから。」
    結局彼は御朱印だけ受けたそうです。0番札所の御朱印はここしかないのでそれはそれで彼には良かったと思います。
    でも私には許せない。青龍寺は空海様が命の灯が消えかけている恵果阿闍梨から密教の奥義の全てを伝授された神聖な場所であります。日本人の心を踏みにじる許せない行為です。
    青龍寺の職員らがこの聖地に巡礼に来るに日本人観光客をカモにしていることをあの世の恵果阿闍梨が知ったら嘆き悲しまれることでしょう。
    青龍寺は密教の聖地には違いありませんが、今や法力も霊力も何もない張りぼての寺に成り下がっていました。何故こんな寺を善通寺の法主は0番札所に命名したのでしょうかね。
    真言宗関係の皆様には青龍寺を復興させるのが悲願だったのでしょうね。それを中国側にうまく利用されたのでしょう。この寺は中国人が崇拝する拝金主義、金満主義が満ち溢れた寺だったという事です。
    そのことは青龍寺だけに限らず産業界でも同様でした。多くの日本企業(特に中小企業)が中国に進出して騙され、工場を取り上げられたり、倒産に追い込まれたりしました。
    中国は共産主義国家なので唯物論国家、宗教は否定され弾圧される対象なのです。
    すでに新疆ウイグル自治区内のイスラム教徒は大弾圧を受け信者は強制収容所に収監されてモスクは閉鎖されています。チベットのラマ教(チベット仏教)も大弾圧を受けダライラマ14世は他国に亡命しました。
    現在仏教だけが表向きは弾圧を受けてはいませんが、中国共産党が成立する以前の仏教のように信仰の自由が認められたいるかは疑問です。
    話を戻しましょう。結局御朱印を受けた人が数人だけであとは誰も何も購入しませんでした。
    予定外の買い物タイムで驚きましたが、全員が芳名帳の記帳が終わるころにはガイドのダンさんは戻っていました。
    帰国後分かった事ですが、正果堂の隣にある売店は通常は閉まっていて、ツアー客が来た時だけ開けるそうです。
    これは一人で青龍寺を訪れた4トラメンバーさんの旅行記を読んだ時に知りました。この方は青龍寺を訪れた時に御朱印をもらいに行ったが御朱印所が分からなかったそうです。それで寺の警備員らしき男性に尋ねると売店まで案内されました。
    売店はいつも閉まっていて日本人のツアー客が来た時だけ開けるのだそうです。
    売店の係員を呼んでくると言われ、しばらく正果堂で待っていると女性の係員がやって来て売店に入れたそうです。
    これは私の推測ですが、ガイドのダンさんが我々を置いて出かけたのは売店の女子従業員を呼びに行ったのではないでしょうか。カモが来たぞって。当然何がしかの報酬が支払われたことは想像するまでも無いことでしょう。
    売店の買い物タイムを終わり引き続き境内を観光です。


  • 青龍寺境内の様子。正果堂を出てガイドの後に従い境内を観光しました。<br />青龍寺には左のような建物や回廊がありましたがどこにも入らず境内の広い庭園を見て回りました。<br />この時我々は境内には青龍寺や恵果空海記念堂があってまだこれらの建物を観光していないことに気づいていませんでした。<br />と言うより皆ガイドのダンさんを信じきっていたんです。<br />ツアー客の信条として異国の観光はガイドが頼り、ガイドから離れると迷子になりかねない危険性があります。ですからガイドの言う通り、ガイドの思うままという現象が起きます。<br />正にこの時の我々がそんな状態でした、ツアーの誰もが本堂や恵果空海記念堂を観光していないことに気づいていなかったのです。<br />私は事前勉強していなかったので恵果空海記念堂の存在さえ知りませんでした。<br />折角思い焦がれた青龍寺に行きながら本堂も恵果空海記念堂、博物館にも寄らず、恵果阿闍梨と空海様の像も見逃しました。<br />私がこれらに気付いたのはこの旅行記を書き起こしてからでした。<br />ガイドや女性店員から四国4県の浄財で記念碑とお堂が建てられ青龍寺を再興できたと聞いていたので正果堂を浄財で建てられたお堂と勘違いしていたんでしょうね。<br />我々はガイドに導かれるままに庭園の中を横切り出口に向かったのでした。<br />私が何故密教の奥義が全て伝授された青龍寺に惹かれるかと言うと、恵果阿闍梨と空海様の出会いが劇的だったからです。しかも恵果阿闍梨は全ての伝授を終えると使命を全うしたかのように命の炎が燃え尽きたからです。<br />ドラマチックとしか言いようのない二人の出会いと別れでした。そのくだりを少し述べてみたいと思います。

    青龍寺境内の様子。正果堂を出てガイドの後に従い境内を観光しました。
    青龍寺には左のような建物や回廊がありましたがどこにも入らず境内の広い庭園を見て回りました。
    この時我々は境内には青龍寺や恵果空海記念堂があってまだこれらの建物を観光していないことに気づいていませんでした。
    と言うより皆ガイドのダンさんを信じきっていたんです。
    ツアー客の信条として異国の観光はガイドが頼り、ガイドから離れると迷子になりかねない危険性があります。ですからガイドの言う通り、ガイドの思うままという現象が起きます。
    正にこの時の我々がそんな状態でした、ツアーの誰もが本堂や恵果空海記念堂を観光していないことに気づいていなかったのです。
    私は事前勉強していなかったので恵果空海記念堂の存在さえ知りませんでした。
    折角思い焦がれた青龍寺に行きながら本堂も恵果空海記念堂、博物館にも寄らず、恵果阿闍梨と空海様の像も見逃しました。
    私がこれらに気付いたのはこの旅行記を書き起こしてからでした。
    ガイドや女性店員から四国4県の浄財で記念碑とお堂が建てられ青龍寺を再興できたと聞いていたので正果堂を浄財で建てられたお堂と勘違いしていたんでしょうね。
    我々はガイドに導かれるままに庭園の中を横切り出口に向かったのでした。
    私が何故密教の奥義が全て伝授された青龍寺に惹かれるかと言うと、恵果阿闍梨と空海様の出会いが劇的だったからです。しかも恵果阿闍梨は全ての伝授を終えると使命を全うしたかのように命の炎が燃え尽きたからです。
    ドラマチックとしか言いようのない二人の出会いと別れでした。そのくだりを少し述べてみたいと思います。

  • 青龍寺の庭園は写真撮影の場所として広く認知されているそうです。<br />この日も2組の写真撮影が園内で行われていました。<br />一人は写真のモデルさん。もう一人は黒い衣装のくの一のモデルさんでした。<br />写真を写したのは御覧のモデルさん。こちらのモデルさんの方が清楚だったからです。<br />さて、ここからは空海様と恵果阿闍梨の出会いから・・・・。<br />空海様は遣唐船に乗り804年8月に福州に上陸、長躯長安を目指して進み長安に入場したのが同804年12月23日、念願の長安入場を果たしましたがすぐには恵果阿闍梨の下にはいきませんでした。<br />長安では直ちにサンスクリット語の言語習得と梵字に磨きをかけかけました。これは密教の習得に必要不可欠だったからでした。<br />本当ならすぐにでも恵果阿闍梨にもとに飛んでいきたい心境だったでしょうが、基礎学力のマスターに務めました。<br />そして805年5月満を持して青龍寺の恵果阿闍梨を訪ねたのでした。<br />ここで有名な話があります。訪ねてきた空海様に対し恵果阿闍梨は初対面の挨拶も早々に「私は以前から貴方が訪ねて来るのを知っていて、いつ訪ねて来るのかと久しく待っていました。今日こうして貴方に相まみえることができてこんなに嬉しい<br />ことは無い。こんなに嬉しいことは無い。」(御請来目録より)と喜ばれたそうです。<br />この時すでに恵果阿闍梨の命の灯は尽きようとしていたのですが、己の命の尽きぬ間にこの青年に密教の奥義の全てを伝授せねばと辛い体に鞭打って「わが命が尽きようとしているのに法を伝えるに相応しい者がいない。若者よよくぞ来られた。急いで香華を整える故、直ちに灌頂壇に入って欲しい」と伝え、直ちに密教の奥義伝授を開始されたのでした。<br />恵果阿闍梨は空海様がすでに修行を完了しており、密教の奥義を伝授するに相応しい優秀な人物だと一目で見抜かれたと伝えられています。<br />そして2,3か月の間に胎蔵界、金剛界両界の秘宝を全て伝授されたのでした。<br />空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂(胎蔵界)、7月に金剛界の灌頂を受ける、8月10日に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、ついには「この世の一切を遍く照らす最上の者」という遍照金剛の灌頂を与えられました。<br />恵果阿闍梨は全てを空海様に託すと12月15日に60歳で亡くなられました。<br />空海様が日本に帰朝されて以降のスーパーマン的ご活躍は皆さんご存知でしょうから以降は割愛します。<br /><br />

    青龍寺の庭園は写真撮影の場所として広く認知されているそうです。
    この日も2組の写真撮影が園内で行われていました。
    一人は写真のモデルさん。もう一人は黒い衣装のくの一のモデルさんでした。
    写真を写したのは御覧のモデルさん。こちらのモデルさんの方が清楚だったからです。
    さて、ここからは空海様と恵果阿闍梨の出会いから・・・・。
    空海様は遣唐船に乗り804年8月に福州に上陸、長躯長安を目指して進み長安に入場したのが同804年12月23日、念願の長安入場を果たしましたがすぐには恵果阿闍梨の下にはいきませんでした。
    長安では直ちにサンスクリット語の言語習得と梵字に磨きをかけかけました。これは密教の習得に必要不可欠だったからでした。
    本当ならすぐにでも恵果阿闍梨にもとに飛んでいきたい心境だったでしょうが、基礎学力のマスターに務めました。
    そして805年5月満を持して青龍寺の恵果阿闍梨を訪ねたのでした。
    ここで有名な話があります。訪ねてきた空海様に対し恵果阿闍梨は初対面の挨拶も早々に「私は以前から貴方が訪ねて来るのを知っていて、いつ訪ねて来るのかと久しく待っていました。今日こうして貴方に相まみえることができてこんなに嬉しい
    ことは無い。こんなに嬉しいことは無い。」(御請来目録より)と喜ばれたそうです。
    この時すでに恵果阿闍梨の命の灯は尽きようとしていたのですが、己の命の尽きぬ間にこの青年に密教の奥義の全てを伝授せねばと辛い体に鞭打って「わが命が尽きようとしているのに法を伝えるに相応しい者がいない。若者よよくぞ来られた。急いで香華を整える故、直ちに灌頂壇に入って欲しい」と伝え、直ちに密教の奥義伝授を開始されたのでした。
    恵果阿闍梨は空海様がすでに修行を完了しており、密教の奥義を伝授するに相応しい優秀な人物だと一目で見抜かれたと伝えられています。
    そして2,3か月の間に胎蔵界、金剛界両界の秘宝を全て伝授されたのでした。
    空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂(胎蔵界)、7月に金剛界の灌頂を受ける、8月10日に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、ついには「この世の一切を遍く照らす最上の者」という遍照金剛の灌頂を与えられました。
    恵果阿闍梨は全てを空海様に託すと12月15日に60歳で亡くなられました。
    空海様が日本に帰朝されて以降のスーパーマン的ご活躍は皆さんご存知でしょうから以降は割愛します。

  • 撮影中のモデルさん。

    撮影中のモデルさん。

  • 撮影中のモデルさん。カメラマンから色々ポーズの指示が飛んでいました。

    撮影中のモデルさん。カメラマンから色々ポーズの指示が飛んでいました。

  • 撮影中のモデルさん。

    撮影中のモデルさん。

  • もう一人のモデルさんは竹林の中で撮影していました。

    もう一人のモデルさんは竹林の中で撮影していました。

  • このポーズで私の撮影は終わりです。ご苦労様でした。<br />広い庭園を抜けると入り口の山門に出ました。<br />青龍寺の本堂や恵果空海記念堂には行きませんでしたが、密教奥義の伝授がなされた青龍寺跡には足を踏み入れたのですから、これで良しとしましょう。<br />当時の建物はもう残っていない訳ですから。ただ不思議なのは同行した添乗員の態度です。<br />ベテラン添乗員という事でしたが、西安の添乗は今回が初めてだったのでしょうか?<br />いえいえ、今までの新疆自治区や敦煌などの添乗ぶりを見ていますと、この添乗が初めてとは思えませんでした。ガイドのダンさんとも中国旅行で何度か一緒に添乗したと話していましたから。<br />だったらガイドのダンさんに青龍寺の本堂や恵果空海記念堂には行かないのかと言って欲しかったですよね。<br />まるで案山子のようでした。その点不満が残りました。

    このポーズで私の撮影は終わりです。ご苦労様でした。
    広い庭園を抜けると入り口の山門に出ました。
    青龍寺の本堂や恵果空海記念堂には行きませんでしたが、密教奥義の伝授がなされた青龍寺跡には足を踏み入れたのですから、これで良しとしましょう。
    当時の建物はもう残っていない訳ですから。ただ不思議なのは同行した添乗員の態度です。
    ベテラン添乗員という事でしたが、西安の添乗は今回が初めてだったのでしょうか?
    いえいえ、今までの新疆自治区や敦煌などの添乗ぶりを見ていますと、この添乗が初めてとは思えませんでした。ガイドのダンさんとも中国旅行で何度か一緒に添乗したと話していましたから。
    だったらガイドのダンさんに青龍寺の本堂や恵果空海記念堂には行かないのかと言って欲しかったですよね。
    まるで案山子のようでした。その点不満が残りました。

  • はーい、再び西安市内です。これから行く先は大雁塔、正式な名称は大慈恩寺です。<br />三蔵法師がインドから持ち帰った大量の経典や仏像を保存するために建てられた塔があるお寺ですね。

    はーい、再び西安市内です。これから行く先は大雁塔、正式な名称は大慈恩寺です。
    三蔵法師がインドから持ち帰った大量の経典や仏像を保存するために建てられた塔があるお寺ですね。

  • 大雁塔の周辺にはバスが止められないので離れた公園の駐車場に駐車し、歩いて寺まで行きました。<br />写真は公園のから大雁塔を写したものです。

    大雁塔の周辺にはバスが止められないので離れた公園の駐車場に駐車し、歩いて寺まで行きました。
    写真は公園のから大雁塔を写したものです。

    大雁塔 建造物

  • 駐車場から寺まで歩いて10分くらいの距離でした。<br />もう大雁塔と寺の入り口である山門が見えています。

    駐車場から寺まで歩いて10分くらいの距離でした。
    もう大雁塔と寺の入り口である山門が見えています。

  • ここが寺の入り口です。兵馬俑も中国人観光客が多かったですが、ここも多いですね。<br />門の扁額には「大慈恩寺」と書かれていました。ガイドブックでは慈恩寺ですがどちらが正しいの?また調べないと・・。<br />調べてみると大慈恩寺に軍配が上がりました。慈恩寺と書かれたものもありましたがWikipedia他多くが大慈恩寺と書かれていましたのでこちらを採用します。<br />当の寺に「大慈恩寺」と書かれているのですから、こちらの方が正しいでしょうね。<br />大慈恩寺は唐の3代皇帝高宗が母の文徳皇后を供養するために648年に再建した寺で、隋時代に創建された無漏寺という寺でした。唐代の伽藍は大きく敷地面積は現在の7倍もあったそうです。現在の敷地面積が3万2300㎡強あるので唐代は大寺院であったことがこれからも分かります。この寺は三蔵法師所縁の寺でもあります。<br />玄奘三蔵法師はインドから帰朝すると当寺の北西にある翻経院で持ち帰った仏典の翻訳に従事しました。持ち帰った経典は76部1335巻にものぼります。<br />翻訳は11年に及びこの間40部余りの経典が漢訳されました。その中には大般若経600巻もありました。<br />652年には玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像の収蔵場所として大雁塔が建てられました。

    ここが寺の入り口です。兵馬俑も中国人観光客が多かったですが、ここも多いですね。
    門の扁額には「大慈恩寺」と書かれていました。ガイドブックでは慈恩寺ですがどちらが正しいの?また調べないと・・。
    調べてみると大慈恩寺に軍配が上がりました。慈恩寺と書かれたものもありましたがWikipedia他多くが大慈恩寺と書かれていましたのでこちらを採用します。
    当の寺に「大慈恩寺」と書かれているのですから、こちらの方が正しいでしょうね。
    大慈恩寺は唐の3代皇帝高宗が母の文徳皇后を供養するために648年に再建した寺で、隋時代に創建された無漏寺という寺でした。唐代の伽藍は大きく敷地面積は現在の7倍もあったそうです。現在の敷地面積が3万2300㎡強あるので唐代は大寺院であったことがこれからも分かります。この寺は三蔵法師所縁の寺でもあります。
    玄奘三蔵法師はインドから帰朝すると当寺の北西にある翻経院で持ち帰った仏典の翻訳に従事しました。持ち帰った経典は76部1335巻にものぼります。
    翻訳は11年に及びこの間40部余りの経典が漢訳されました。その中には大般若経600巻もありました。
    652年には玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像の収蔵場所として大雁塔が建てられました。

    大慈恩寺 寺院・教会

  • 山門を入ると目の前に大雁塔が見えました。<br />寺の敷地は広いのですが、この日は中国人の観光客で一杯でした。<br />大雁塔は玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像を保管するため、唐の3代皇帝高宗に申し出て建立した塔です。<br />現在の塔は7層64mの高さですが建築当初は5層で玄奘自ら造営に携わったようです。<br />最初の塔は表面を磚(煉瓦)で覆っただけの土造りだったため50年で倒壊しました。<br />そのため武則天(則天武后)の統治時代(701年-705年)に全て磚(煉瓦)で造られた10層の塔が建てられました。しかし明代の1556年に地震で頭頂部が崩落したため現在のような7層の塔に改修されました。<br />

    山門を入ると目の前に大雁塔が見えました。
    寺の敷地は広いのですが、この日は中国人の観光客で一杯でした。
    大雁塔は玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像を保管するため、唐の3代皇帝高宗に申し出て建立した塔です。
    現在の塔は7層64mの高さですが建築当初は5層で玄奘自ら造営に携わったようです。
    最初の塔は表面を磚(煉瓦)で覆っただけの土造りだったため50年で倒壊しました。
    そのため武則天(則天武后)の統治時代(701年-705年)に全て磚(煉瓦)で造られた10層の塔が建てられました。しかし明代の1556年に地震で頭頂部が崩落したため現在のような7層の塔に改修されました。

    大雁塔 建造物

  • 大慈恩寺のガイドさんです。名前は憶えていません。<br />ガイドのダンさんから大慈恩寺のガイドはこの女性にしてもらいますと説明がありました。<br />写真では少々お年の行った女性に見えますが、実際は24、25歳くらいの若いガイドさんです。<br />私の写真の写し方が悪かったようですね。

    大慈恩寺のガイドさんです。名前は憶えていません。
    ガイドのダンさんから大慈恩寺のガイドはこの女性にしてもらいますと説明がありました。
    写真では少々お年の行った女性に見えますが、実際は24、25歳くらいの若いガイドさんです。
    私の写真の写し方が悪かったようですね。

  • お寺の説明は大慈恩寺の歴史から。どんな説明があったのかほとんど憶えていません。<br />記憶にあるのは大雁塔には登りませんという事くらいです。大雁塔は古い建物で北西に少し傾いているそうです。これは地下水をくみ上げすぎた為らしいのですが、今でも年々少しずつ傾いているとのことでした。<br />階段数も多いので安全を考慮して本日は登らないようにしたそうです。<br />塔好きの私には残念でした。<br />ガイドさんの説明は鐘楼から。

    お寺の説明は大慈恩寺の歴史から。どんな説明があったのかほとんど憶えていません。
    記憶にあるのは大雁塔には登りませんという事くらいです。大雁塔は古い建物で北西に少し傾いているそうです。これは地下水をくみ上げすぎた為らしいのですが、今でも年々少しずつ傾いているとのことでした。
    階段数も多いので安全を考慮して本日は登らないようにしたそうです。
    塔好きの私には残念でした。
    ガイドさんの説明は鐘楼から。

  • こちらは鼓楼。<br />中を覗いたが何もありませんでした。太鼓は上の階にあるんでしょうけど、上に登るとツアーの皆さんと逸れてしまうのですぐ外に出ました。

    こちらは鼓楼。
    中を覗いたが何もありませんでした。太鼓は上の階にあるんでしょうけど、上に登るとツアーの皆さんと逸れてしまうのですぐ外に出ました。

  • こちらは大雄宝殿、大慈恩寺の本堂です。<br />祀られているのは釈迦如来、大慈恩寺は法相宗なので脇は世親菩薩のようですね。<br />ツアー行順番にお参りしましたよ。お賽銭は元で上げましたが何元あげたのかは覚えていません。

    こちらは大雄宝殿、大慈恩寺の本堂です。
    祀られているのは釈迦如来、大慈恩寺は法相宗なので脇は世親菩薩のようですね。
    ツアー行順番にお参りしましたよ。お賽銭は元で上げましたが何元あげたのかは覚えていません。

    大慈恩寺 寺院・教会

  • 本堂内部の様子。<br />ご本尊は釈迦如来、脇の菩薩は世親菩薩でしょう。

    本堂内部の様子。
    ご本尊は釈迦如来、脇の菩薩は世親菩薩でしょう。

  • 正面から写した釈迦三尊像でいいのでしょうか?<br />法相宗なので釈迦如来の両脇は左が世親菩薩、右が無著菩薩でいい思います。

    正面から写した釈迦三尊像でいいのでしょうか?
    法相宗なので釈迦如来の両脇は左が世親菩薩、右が無著菩薩でいい思います。

  • こちらは第二殿。玄奘三蔵法師が信仰していた弥勒菩薩像がありました。<br />

    こちらは第二殿。玄奘三蔵法師が信仰していた弥勒菩薩像がありました。

  • 中に安置されている弥勒菩薩です。<br />奈良中宮寺の弥勒菩薩半思惟像にお顔が似ていると思いませんか?<br />似てない、ですか?あの時は似てると思ったんですけど写真で見ると似てないような・・・。<br />私はあの時は幻をみていたんでしょうか。

    中に安置されている弥勒菩薩です。
    奈良中宮寺の弥勒菩薩半思惟像にお顔が似ていると思いませんか?
    似てない、ですか?あの時は似てると思ったんですけど写真で見ると似てないような・・・。
    私はあの時は幻をみていたんでしょうか。

  • こちらは観音堂、中は覗きませんでした。

    こちらは観音堂、中は覗きませんでした。

  • 登ることが出来なかった大雁塔の側を進みます。<br />写真中央の赤い建物がチケット売り場でしょうね。折角ここまで来たんだから塔に登りたかったな。<br />後ろ髪を引かれるようにガイドの後に続いて大雁塔を後にしたのですが、この後大雁塔に登れなかった訳が分りました。本当は老朽化して危ないからではなかったのです。

    登ることが出来なかった大雁塔の側を進みます。
    写真中央の赤い建物がチケット売り場でしょうね。折角ここまで来たんだから塔に登りたかったな。
    後ろ髪を引かれるようにガイドの後に続いて大雁塔を後にしたのですが、この後大雁塔に登れなかった訳が分りました。本当は老朽化して危ないからではなかったのです。

    大雁塔 建造物

  • 次に連れてこられたのは歴代の法主の墓でした。<br />ここでも説明があったのですが、どんな話だったのか全く覚えていません。<br />さて、ここでお寺の説明は全て終わりましたとガイドが言うものですから皆で山門に行こうとしたら、ガイドから「皆さんに特別なお話があるます」と投げかけられました。<br />なになに?特別なお話ってなんですか?<br />女性のガイドが流暢な日本語で話します。「実は今日日本からお見えの皆様に、特別にお見せしたい部屋があります。私どもが特別室と呼んでいる部屋ですが、皆様に是非お見せしたい物があります。個人でおいでになったお客様や日本以外の海外のお客様にもお見せしていません。<br />日本のツアーの皆様だけが中に入ることができます。それも今日特別にです。<br />少しお時間を頂くことになりますが目の保養と思って見て頂きたいと思います。<br />それではご案内します。」とのこと。どんな物を見せてくれるんだろうかと半分は興味津々で後を付いて行きました。<br />寺の説明はほとんど憶えていないのに何故かこの時の事だけは今のはっきり覚えています。<br />ある部屋に案内されるとすぐに入り口の扉は閉められました。<br />そして中には2人の美人の女性が待機していました。

    次に連れてこられたのは歴代の法主の墓でした。
    ここでも説明があったのですが、どんな話だったのか全く覚えていません。
    さて、ここでお寺の説明は全て終わりましたとガイドが言うものですから皆で山門に行こうとしたら、ガイドから「皆さんに特別なお話があるます」と投げかけられました。
    なになに?特別なお話ってなんですか?
    女性のガイドが流暢な日本語で話します。「実は今日日本からお見えの皆様に、特別にお見せしたい部屋があります。私どもが特別室と呼んでいる部屋ですが、皆様に是非お見せしたい物があります。個人でおいでになったお客様や日本以外の海外のお客様にもお見せしていません。
    日本のツアーの皆様だけが中に入ることができます。それも今日特別にです。
    少しお時間を頂くことになりますが目の保養と思って見て頂きたいと思います。
    それではご案内します。」とのこと。どんな物を見せてくれるんだろうかと半分は興味津々で後を付いて行きました。
    寺の説明はほとんど憶えていないのに何故かこの時の事だけは今のはっきり覚えています。
    ある部屋に案内されるとすぐに入り口の扉は閉められました。
    そして中には2人の美人の女性が待機していました。

  • その部屋は入り口周辺には写真のような玄奘三蔵法師の姿絵や玄奘が漢訳したであろう経典やシルクロードの地図などがありましたが、部屋の壁全体に掛け軸などの書が掛けられていました。そしてある僧侶姿の男性の写真も。<br />我々は二人の女性の近くに寄る様に勧められるとガイドの女性が掛けられている書や写真などの説明を始めました。<br />要約すると「この部屋に掛けられている掛け軸などは全て先代の法主の筆によるものです。先代は中国では名の知れた有名な書家でした。<br />ここには先代の書を展示しております。先代はボランティアで書いた書を残してくれましたが今回寺の修復費用に充てるため安価でこれらを販売することにしました。<br />ついては今日はおいでいただいた日本の皆様だけに優先的にお見せすることにしましたので気に入った物があればご購入下さい。」実に流暢な日本語だ。この女性は日本にいたんじゃないかな。<br />でもこれは体の良い買い物タイムだ。大慈恩寺お前もか、と思った。<br />中国のお寺さんって商売に余念がなんだね。いやー、驚いた。<br />この時間を取らないといけないから大雁塔には登れなかったんだな。やることが姑息だよ。<br />ここからは売り子のお姉さんのペース。ボランティアならただでしょうによく言うよと思ったが、どんな軸なのか一応見ることにした。<br />3万円から5万円の価格の物が多かったが10万以上の物もかなりあった。<br />我々は格安ツアー客なので最初は3万円程度の掛け軸を勧められた。<br />私が真面目に話を聞いている物だから脈ありと思ったのか次々に掛け軸を勧めて来る。<br />彼女らの殺し文句はこうだ「普通先代の書はこんなに安い値では買えません。即売会などで放出すればこれよりもっと高い値段でもすぐに売り切れます。中国の人ならだれでも先代の書なら一つは家に欲しいと思うのです。それだけ有名です。日本でも家宝になりますよ。あくまでもボランティアで書かれた書なので特別に安くお売りできます。これが外に出るとこんなに安くは買えません。」<br />美味いねえ、買いたくなっちゃうよ。3万なら手頃な値段かもしれないな。なんて考えていたら周りにいたツアーの仲間がいつの間にかいなくなっていた。見ると部屋の後ろに固まって私とガイドとのやり取りを面白そうに見つめていた。いつの間にか皆引き上げて私一人がカモになっていたのだ。添乗員はにやにや笑って助け舟を出そうともしない。おい、添乗員この場をなんとかしろよ。<br />旅行の先輩方から中国の買い物における詐欺又は詐欺まがいの行為は度々聞いていたが、ここの話は聞いた事がなかった。<br />女性たちはここぞとばかりにタッグを組んで攻めて来る。そうした時にあることに気付いた。<br />彼女らがぞんざいに掛け軸を扱っていることにだ・・・。<br />片手は掛け軸の上部を握り、もう一方の手で掛け軸を支えながら軸の端を握っているものだから掛け軸にしわが入ったり、折れ込んだりしているのだ。本当に大切な品であればこんなにもぞんざいな扱いをするはずがない。この様子を見てピンときた。これらの掛け軸は偽物かそれとも印刷だなと。これ、新手の詐欺かな?<br />もう俺腹決めた。絶対に断る。3万円でも高い。<br />「もう結構です。いりません。」と答えるとさっさと皆の所に歩いて行った。<br />そこで添乗員が間髪入れず「さあ皆さん、時間もあれですからもう戻りましょう。これから行くところがまだありますから。」とのたもうた。<br />振り返るともう一人別の女性につかまっていたお爺さんが急ぎ足で我々のところに戻って来た。結局買い物は一人も無しだった。<br />これにて大慈恩寺予期せぬ買い物タイムの巻終わりで御座います。<br />皆さんも騙されないように注意してくださいね。歩きながら「Yさん(私のことです)が熱心に聞いているものだから脈ありって思ったんだろうね。」と誰かが言うと添乗員が「彼らは商売上手でね。買いそうだと目を付けたら離れないですからね。注意しないと。買おうとされているお客さんにダメですよという訳にも行かないし。難しいですよ。」とのたまう。<br />そんなこと早く言ってよ。どうでもいいけど助け舟を早く出して頂戴よと思った。

    その部屋は入り口周辺には写真のような玄奘三蔵法師の姿絵や玄奘が漢訳したであろう経典やシルクロードの地図などがありましたが、部屋の壁全体に掛け軸などの書が掛けられていました。そしてある僧侶姿の男性の写真も。
    我々は二人の女性の近くに寄る様に勧められるとガイドの女性が掛けられている書や写真などの説明を始めました。
    要約すると「この部屋に掛けられている掛け軸などは全て先代の法主の筆によるものです。先代は中国では名の知れた有名な書家でした。
    ここには先代の書を展示しております。先代はボランティアで書いた書を残してくれましたが今回寺の修復費用に充てるため安価でこれらを販売することにしました。
    ついては今日はおいでいただいた日本の皆様だけに優先的にお見せすることにしましたので気に入った物があればご購入下さい。」実に流暢な日本語だ。この女性は日本にいたんじゃないかな。
    でもこれは体の良い買い物タイムだ。大慈恩寺お前もか、と思った。
    中国のお寺さんって商売に余念がなんだね。いやー、驚いた。
    この時間を取らないといけないから大雁塔には登れなかったんだな。やることが姑息だよ。
    ここからは売り子のお姉さんのペース。ボランティアならただでしょうによく言うよと思ったが、どんな軸なのか一応見ることにした。
    3万円から5万円の価格の物が多かったが10万以上の物もかなりあった。
    我々は格安ツアー客なので最初は3万円程度の掛け軸を勧められた。
    私が真面目に話を聞いている物だから脈ありと思ったのか次々に掛け軸を勧めて来る。
    彼女らの殺し文句はこうだ「普通先代の書はこんなに安い値では買えません。即売会などで放出すればこれよりもっと高い値段でもすぐに売り切れます。中国の人ならだれでも先代の書なら一つは家に欲しいと思うのです。それだけ有名です。日本でも家宝になりますよ。あくまでもボランティアで書かれた書なので特別に安くお売りできます。これが外に出るとこんなに安くは買えません。」
    美味いねえ、買いたくなっちゃうよ。3万なら手頃な値段かもしれないな。なんて考えていたら周りにいたツアーの仲間がいつの間にかいなくなっていた。見ると部屋の後ろに固まって私とガイドとのやり取りを面白そうに見つめていた。いつの間にか皆引き上げて私一人がカモになっていたのだ。添乗員はにやにや笑って助け舟を出そうともしない。おい、添乗員この場をなんとかしろよ。
    旅行の先輩方から中国の買い物における詐欺又は詐欺まがいの行為は度々聞いていたが、ここの話は聞いた事がなかった。
    女性たちはここぞとばかりにタッグを組んで攻めて来る。そうした時にあることに気付いた。
    彼女らがぞんざいに掛け軸を扱っていることにだ・・・。
    片手は掛け軸の上部を握り、もう一方の手で掛け軸を支えながら軸の端を握っているものだから掛け軸にしわが入ったり、折れ込んだりしているのだ。本当に大切な品であればこんなにもぞんざいな扱いをするはずがない。この様子を見てピンときた。これらの掛け軸は偽物かそれとも印刷だなと。これ、新手の詐欺かな?
    もう俺腹決めた。絶対に断る。3万円でも高い。
    「もう結構です。いりません。」と答えるとさっさと皆の所に歩いて行った。
    そこで添乗員が間髪入れず「さあ皆さん、時間もあれですからもう戻りましょう。これから行くところがまだありますから。」とのたもうた。
    振り返るともう一人別の女性につかまっていたお爺さんが急ぎ足で我々のところに戻って来た。結局買い物は一人も無しだった。
    これにて大慈恩寺予期せぬ買い物タイムの巻終わりで御座います。
    皆さんも騙されないように注意してくださいね。歩きながら「Yさん(私のことです)が熱心に聞いているものだから脈ありって思ったんだろうね。」と誰かが言うと添乗員が「彼らは商売上手でね。買いそうだと目を付けたら離れないですからね。注意しないと。買おうとされているお客さんにダメですよという訳にも行かないし。難しいですよ。」とのたまう。
    そんなこと早く言ってよ。どうでもいいけど助け舟を早く出して頂戴よと思った。

  • 帰りはもと来た公園まで戻って来たがこれからもう1か所行くところがあるらしい。<br />公園を横切ってがガイドのダンさんの後に付いて行きました。

    帰りはもと来た公園まで戻って来たがこれからもう1か所行くところがあるらしい。
    公園を横切ってがガイドのダンさんの後に付いて行きました。

  • 次は予定されている買い物タイムでした。これは最初から旅程に組み込んであったので問題無し。<br />公園にツアーバスを駐車したまま連続の歩きです。大雁塔から近い場所との事、両側に街路樹がある大きな道の歩道を歩いているとガイドのダンさんが話し始めました。<br />「中国は密告社会だとこの前話しましたよね。街には沢山の監視カメラが仕掛けてあるんですよ。ここは街路樹の通りです。前から〇本目の木の上にカメラがありますが分かりますか?、同じく左側の街路樹にもありますよ。この通りは3本間隔で仕掛けられているんです。」<br />手で指さすと、カメラに映るため言葉で具体的に場所を教えてくれる。<br />日本では防犯カメラだがここでは監視カメラなのだ。さらにもう一言。<br />「皆さん、スマホ持ってますよね。中国はスマホ社会で誰でもスマホを持っていますが、どのスマホにもチップが入っています。これは○○システムと言って瞬時に居場所が分かるものなんです。これが無いスマホは中国にはありません。中国は人口が多すぎて犯罪が起きても犯人を捕まえられないんです。そこで犯人の居場所を特定するためにチップがスマホにも入れてあるんです。中国人は皆防犯のためと知っていてチップ入りのスマホを買っています。」とのことだった。<br />でも防犯じゃなくて監視のためにも使えるのだ。このチップはその人の居場所だけでなくその人の行動の全てやスマホの情報まで見れるらしい。<br />つまり中国人は24時間公安に監視されている監視社会だ。防犯だけでなく党に対する危険分子の摘発にも威力を発揮しているそうだ。中国では本当の意味での自由は無い。<br />こうこうする内に買い物タイムの絨毯店に到着した。<br />店舗はビルの3階(だったと思うが4階だったかな、よく覚えていない)、入り口に「良心堂」と大きく表示されていた。<br />旅程には「西安良心堂手織絨毯店」とある。<br /><br /><br />

    次は予定されている買い物タイムでした。これは最初から旅程に組み込んであったので問題無し。
    公園にツアーバスを駐車したまま連続の歩きです。大雁塔から近い場所との事、両側に街路樹がある大きな道の歩道を歩いているとガイドのダンさんが話し始めました。
    「中国は密告社会だとこの前話しましたよね。街には沢山の監視カメラが仕掛けてあるんですよ。ここは街路樹の通りです。前から〇本目の木の上にカメラがありますが分かりますか?、同じく左側の街路樹にもありますよ。この通りは3本間隔で仕掛けられているんです。」
    手で指さすと、カメラに映るため言葉で具体的に場所を教えてくれる。
    日本では防犯カメラだがここでは監視カメラなのだ。さらにもう一言。
    「皆さん、スマホ持ってますよね。中国はスマホ社会で誰でもスマホを持っていますが、どのスマホにもチップが入っています。これは○○システムと言って瞬時に居場所が分かるものなんです。これが無いスマホは中国にはありません。中国は人口が多すぎて犯罪が起きても犯人を捕まえられないんです。そこで犯人の居場所を特定するためにチップがスマホにも入れてあるんです。中国人は皆防犯のためと知っていてチップ入りのスマホを買っています。」とのことだった。
    でも防犯じゃなくて監視のためにも使えるのだ。このチップはその人の居場所だけでなくその人の行動の全てやスマホの情報まで見れるらしい。
    つまり中国人は24時間公安に監視されている監視社会だ。防犯だけでなく党に対する危険分子の摘発にも威力を発揮しているそうだ。中国では本当の意味での自由は無い。
    こうこうする内に買い物タイムの絨毯店に到着した。
    店舗はビルの3階(だったと思うが4階だったかな、よく覚えていない)、入り口に「良心堂」と大きく表示されていた。
    旅程には「西安良心堂手織絨毯店」とある。


  • 店の中に入ってすぐに右の壁に掛けられていたシルクロードの絨毯。これはでかい、綺麗で豪華でした。<br />これ確か日本円で130万円でした。<br />店舗の奥に入ると店主の挨拶があり鉄観音茶が我々に振舞われました。<br />添乗員とこの店主は親しいらしい。多分西安の旅行ではお決まりのコースとしてツアー客をここに連れて来ているようだった。

    店の中に入ってすぐに右の壁に掛けられていたシルクロードの絨毯。これはでかい、綺麗で豪華でした。
    これ確か日本円で130万円でした。
    店舗の奥に入ると店主の挨拶があり鉄観音茶が我々に振舞われました。
    添乗員とこの店主は親しいらしい。多分西安の旅行ではお決まりのコースとしてツアー客をここに連れて来ているようだった。

  • 店主の話だとバブル時代には多くの日本人ツアー客が西安に来てこの店で絨毯を買い上げてくれたらしい。<br />30万程度の絨毯がバンバン売れていたそうだ。バブル崩壊後は日本人の財布の紐が固くなり高額商品は中々売れないらしい。<br />高額な商品なので右から左という訳には行かないだろうができれば安価な品物でいいので買い求めてほしい。難しいお客様は目の保養をしてここでゆっくり休んで欲しいとのことだった。<br />二つの寺の買い物とは大違い。この店主はよく分かっていらっしゃる。我々は格安旅行の阪急トラピックス、クリスタルハートのツアー客じゃないと売れないだろうなと思います。<br />

    店主の話だとバブル時代には多くの日本人ツアー客が西安に来てこの店で絨毯を買い上げてくれたらしい。
    30万程度の絨毯がバンバン売れていたそうだ。バブル崩壊後は日本人の財布の紐が固くなり高額商品は中々売れないらしい。
    高額な商品なので右から左という訳には行かないだろうができれば安価な品物でいいので買い求めてほしい。難しいお客様は目の保養をしてここでゆっくり休んで欲しいとのことだった。
    二つの寺の買い物とは大違い。この店主はよく分かっていらっしゃる。我々は格安旅行の阪急トラピックス、クリスタルハートのツアー客じゃないと売れないだろうなと思います。

  • これは98万円、さすがに織りが緻密。高価な絨毯だと私のような素人でも一目で分かります。

    これは98万円、さすがに織りが緻密。高価な絨毯だと私のような素人でも一目で分かります。

  • こちらは38万円。バブル期には売れ筋商品だった価格帯の絨毯。

    こちらは38万円。バブル期には売れ筋商品だった価格帯の絨毯。

  • 18万円の絨毯。一番安い絨毯だったと記憶しています。<br />値段相応の品物という印象でした。やはりいいものはいい。100万円前後の絨毯は素晴らしかった。ですが我々は格安ツアーの参加者です。絨毯を購入した人は一人もいませんでした。

    18万円の絨毯。一番安い絨毯だったと記憶しています。
    値段相応の品物という印象でした。やはりいいものはいい。100万円前後の絨毯は素晴らしかった。ですが我々は格安ツアーの参加者です。絨毯を購入した人は一人もいませんでした。

  • 本日の観光を全て終えていよいよ夕食です。<br />夕食会場は餃子が有名な西安の名店とのこと、中国最後の夕食ですのでいやが上にもバスの中は盛り上がりました。<br />しかしそれに水を差したのが急に降り出した雨。<br />大雁塔を観光した時に天候が崩れてきたので一雨降るかなと危惧していましたが、観光が終わるまでは降りませんでした。<br />そう意味においては良かったのですが、最後まで行天気であって欲しかったですね。<br />写真は明代城壁の永寧門です。

    本日の観光を全て終えていよいよ夕食です。
    夕食会場は餃子が有名な西安の名店とのこと、中国最後の夕食ですのでいやが上にもバスの中は盛り上がりました。
    しかしそれに水を差したのが急に降り出した雨。
    大雁塔を観光した時に天候が崩れてきたので一雨降るかなと危惧していましたが、観光が終わるまでは降りませんでした。
    そう意味においては良かったのですが、最後まで行天気であって欲しかったですね。
    写真は明代城壁の永寧門です。

    永寧門 (南門) 建造物

  • 雨は降り止みません。

    雨は降り止みません。

    明代城壁 史跡・遺跡

  • 雨は益々激しく降り注いでいますが、観光が全て終わっていたので良かったです。<br />次の旅行記は西安最後の夕食から一人で出かけた夜景観光です。<br />訪問頂きありがとうございました。

    雨は益々激しく降り注いでいますが、観光が全て終わっていたので良かったです。
    次の旅行記は西安最後の夕食から一人で出かけた夜景観光です。
    訪問頂きありがとうございました。

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