2019/06/11 - 2019/06/18
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ポポポさん
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敦煌観光の2日目は今回の旅行のハイライト敦煌莫高窟です。
莫高窟は直接観光できるわけではなく、まずデジタルセンターに行って2本の映画を見て、そこから出発する無料のシャトルバスに乗って行きます。
石窟は一般窟と特別窟に分かれているので両方見る場合はそれぞれチケットを手配する必要があります。
莫高窟は戦後大規模に修復されたため、ほとんどすべての外壁がセメントで固められています。ゴツゴツした岩肌感が無く違和感がしますが、内部の壁画や塑像は素晴らしいです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ショッピング
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
6月13日、旅行3日目です。
今日の観光のハイライトは敦煌莫高窟。早朝の出発(7時40分)なので朝が早い。
朝食は6時30分からだったので、朝食の写真はこの1枚だけ。あとは明日という事にしておきます。
ホテルの朝食は西安のホテルと代り映えがしない。大体どこのホテルもこんなものだった。
あ、でもこのスープは美味しかった。 -
ツアーバスに乗って来たここは莫高窟ビジターセンター。漢字では莫高窟数字展示中心と書く。
敦煌莫高窟の見学は予約制で直接莫高窟に行っても中には入れない。なのでここで時間予約をして入場券を買うらしい。(個人で観光される方の場合)。
さて、何故莫高窟に行く前にここに来るかと言うと、ここで2本の映画を見てからじゃないと入れないようになっている。
建物の中に入ると普通のスクリーンが2か所、さらに360度全方位のスクリーンが2か所あってそれぞれのスクリーンで合計2本の映画を見る。上映時間はそれぞれ20分だった。いわゆる映像で見るオリエンテーションといったところだ。
外国人は自国の言語が聞けるレシーバーが無料で借りられる。
1本目の映像はシルクロードの成り立ちと歴史。2本目は莫高窟石窟内部の壁画や塑像の紹介。
この映像では別料金でしか入れない特別窟の内部の映像が出て来るのでしっかり見ておきたい。 -
上映が終わると団体ごとに集合し、無料のシャトルバスに乗車して敦煌莫高窟に向かう。
敦煌莫高窟北区の石窟群と鳴沙山が見えるのはバスの右車窓側。どうせ座るなら右車窓の方がいいと思う。 -
敦煌の町を出ると見えてくるのが鳴沙山と砂漠。
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荒涼たる砂漠が延々と続いて行くが、鳴沙山の山容が少しずつ大きくなってくるので莫高窟に向かっていることが分る。
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鳴沙山の東壁が近くに見えてきた。
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東壁に沿って走ると石窟が見えてきた。
ここは莫高窟の北区石窟群で僧侶や石工や絵師たちの宿舎の跡。いわゆる莫高窟の壁画などはほとんど見られない。 -
遠くからなので小さな穴がボコボコ開いているようにしか見えないが、中はそれなりの居住区間が確保されているそうだ。
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北区には相当な数の石窟が見られた。僧侶が生活した石窟の中には即身成仏のための窟もあったそうだ。その石窟は入り口を閉ざし入り口の上部に呼吸用の小さな穴だけがあいていたらしい。
そんな石窟もいくつかあるのだが、現在は北区石窟群の中には入れない。 -
北の石窟のアップ。
バスは大泉河にかかる石橋の手前で駐車。ここからは石橋を渡って莫高窟の入り口に向かった。 -
鳴沙山の麓を流れている大泉河という川である。
訪れた時は完全に干上がってしまって水の一滴も流れていなかった。
元々は水が流れていた川だが伏流水であるため夏期には全く水が無いそうだ。
この石橋を渡って莫高窟に向かった。 -
こうして見ると大泉河は結構広い。
左岸の上に見えるのはストゥーパのようだ。 -
こちらは橋の右側の景色。北の石窟群が見える。
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石窟群をアップにしてみた。
この石窟に僧侶や絵師、石工たちが住み着いていた訳だが、近くで見ると大きな洞窟なのかもしれない。 -
石橋を渡った所だ。木立が建ち並びその脇に石窟が並んでいた。
さて敦煌莫高窟は千仏洞と呼ばれていた。
ここに石窟が初めて造られたのは五胡十六国時代の366年、前秦の僧侶楽僔がこの地で金色に輝く光を見て、千仏が現れたようであったことから一つの石窟を開いたことに始まる。
さらに東からやってきた法良禅師が楽僔の窟の隣に石窟を造ったことで広まっていった。
現在楽僔や法良禅師が開いた石窟は見つかっておらず、現存する最も古い時代の石窟は5世前半の北涼時代である。
そのため莫高窟の石窟は北涼、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋、西夏、元の十時代一千年に渡って造営され続けてきたのだ。
その後明時代には石窟の造営はなかったが、清・中華民国時代には修復が行われた。
しかし、その修復は主に石窟内部の壁画や塑像で石窟の外部には及ばなかった。これらの補修は第二次世界大戦後の敦煌文物研究所主導による大修理工事まで待たなければならなかったのだ。 -
現在の莫高窟は石窟の外壁が修復されていた。そのため石窟の入り口や壁は直線的でいかにも人工的に造られたように感じたが、これは修復過程で元の姿を再現できなかったためであろう。
清朝末期欧米や日本の探検家が敦煌に訪れた時には、長年の風や風に巻かれた砂にさらされて石窟の入り口は無残な状況に置かれていた。
鳴沙山東山麓のもろい礫岩をくり抜いて造られた自然の庇は摩耗し、内部の塑像は直射日光にさらされていたのだ。
イギリスの探検家オーレル・スタインは石窟の庇に当たる前室が外壁の摩耗や崩壊のためになくなり、内陣の壁画が外から丸見えになっているのもが多いと報告している。
こんな状況なので急いで修復の手を入れなければならなかったが、大修理工事が始まったのは1963年だった。
それから4年かけて困難を極めた作業が行われた。内部の塑像や壁画を守るために人口の庇を取り付けなければならないが、セメントを塗り重ねて張り出しては周囲の石と調和がとれないのだ。そのためセメントに鳴沙山の青味がかった荒い粒の礫岩を混ぜて自然に近い色を出したそうだ。
この修理の時に現在見られる手すりや階段、道路が新たに造られたのである。これらが今目にする莫高窟の外部の様子なのだ。せめて外壁部分は表面に凸凹を設けてより自然の岩壁に見えるような工夫をしてほしかった。
莫高窟はこれらの工夫が無くすべての壁はまっ平の垂直に造られているため、人為的な工作物に見えてしまう。
どうしてもインドのアジャンタ石窟と比較してしまうのは私だけだろうか・・・。
莫高窟という先入観が無ければ1Kアパートのようにも見えてしまうだろう。
さて、莫高窟の石窟は現在492窟である。そのうち塑像や壁画が確認できているものが484窟、この内40窟が観光用に開放されている。莫高窟に造られた石窟の総数は1000を超えたと考えられているのでその半数が失われたことになる。
その原因は色々あるだろうが砂に埋もれてしまったり、構造上強度が足らずに後につぶれてしまったものも多いようだ。その一因が通路に便利なように石窟の壁に穴を開けて、石窟の中を通路にしてしまったこと。これは参拝に訪れた信者が通行に便利なようにとされたものだが、壁をぶち抜くことで石窟の強度が弱まってしまったのだ。
この時の大修復で壁に開けられた穴は全てふさがれた。莫高窟 史跡・遺跡
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ところで、このように脆い礫岩の壁にどのようにして壁画が描かれたのだろうか?
それは次のようになっていた。
石窟が崩れ落ちないように壁と天井を壁土でしっかり塗り固めた。次にその表面を白土で化粧仕上げし、その上に壁画を描いたそうだ。 -
莫高窟の案内板。
莫高窟やその他の施設の配置が示されていた。 -
九層楼入り口の案内表示。
莫高窟の入り口は九層楼正面にあるので、その案内だ。写真右の列は中国人観光客が並ぶ列。我々が訪れた時間帯は中国人観光客が少なかった。
中国人観光客が多い時は写真の矢印の所まで列を並ぶ人であふれているそうだ。
我々外国人はここには並ばずに直接進めばいい。
今日は中国人観光客が少ないようだ。 -
以前は莫高窟の入り口だった牌楼。(第二牌楼)
現在は通路の脇に配置されていた。莫高窟 史跡・遺跡
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第二牌楼を別の角度から。牌楼の色は塗り替えられたようだ。
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莫高窟には写真のような大きな構えの石窟もある。石窟入り口の上部には壁画の一部が見られる。
これは石窟の庇が今よりも前に張り出していたのであろう。風砂の浸食により岩の庇が無くなり、修復時に内部の壁画がむき出しになっていたと考えられる。
大修復時には露出した壁画の保護まではできなかったのだろう。
このように露出した壁画は各所で見られる。 -
修復され、余りにも変わり過ぎた莫高窟。
莫高窟は1963年の大修理の後も度々修理が行われている。 -
莫高窟のシンボル的建物九層楼だ。この建物は石窟でここは第96窟。石窟の壁に9層の建物が建て掛けられているという訳だ。
この建物は43m、北大仏殿と呼ばれていて内部には34.5mの弥勒大仏が鎮座している。
石窟の大部分をこの仏像が占めているので、ここでは下から見上げるように鑑賞する。
莫高窟の入り口は九層楼の右寄りにある。
外国人観光客は外で担当のガイドを待つらしい。ガイドがやってきたら、担当のガイドと一緒に入場するんだそうだ。
我々は先に入場して中でガイドと待ち合わせすることになっていたので九層楼の前で莫高窟のガイドを待った。莫高窟 史跡・遺跡
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莫高窟のガイドは敦煌文物研究所の専門研究員が担当する。それ以外の者がガイドすることは認められていない。
写真は九層楼のアップ。近くによると見上げるような建物だ。莫高窟 史跡・遺跡
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入場口から写した九層楼の写真。九層楼の左右の壁の色が鳴沙山の礫岩の壁の色とは違うので、一瞥して修復の箇所が分る。
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莫高窟の入場チケット。
このチケットで一般窟のうち公開されている40窟から5~6窟が見学できる。
我々はこの他に特別窟という別料金で入れる石窟のうち45窟と57窟を見学することになっている。
一般窟は研究員のガイドがその日の込み具合などを勘案して独自に選んで説明してくれるそうだ。そのためこの窟に入りたいなどという要望は取り上げてもらえないらしい。
石窟の内部は写真撮影禁止だった。そのため内部の壁画や塑像の写真は無い。それから石窟の内部は薄暗い所が多い。内部では照明が少ない石窟があるのでライトを持参した方が良い。これは莫高窟では必携だと思う。
ガイドが内部をライトで照らして案内してくれるが、その箇所以外は暗くて見えないのだ。
専門研究員のガイドもライトを持参された人は明かりをつけて見て下さいと言っていた。 -
入場してしばらくして専門研究員のガイドがやってきた。
莫高窟のガイドは背の高いヨウケンさん。漢字は聞いていないのでどんな字かが分からない。福岡の大学に留学していた時に日本語を覚えたそうだ。
日本から帰国して現在の研究所に就職した。年齢は29歳、日本語が話せることから日本人専門ガイドとして活躍している。
但し彼が話す日本語は分かりにくかった。博多弁や九州弁が混じっている訳ではないが意味不明な言葉があり、理解に苦しんだ。
日本語は敦煌のガイド陳さんの方が遥かに上手だった。 -
我々は九層楼の96窟から見学した。石窟の入り口には扉があり、全ての入り口の扉は施錠されていて、研究員のガイドが開錠しない限り中に入れないようになっている。
さて、この石窟は観光客が必ず見学するため、入れ替え式になっていた。中に観光客が入っている場合は出てくるまでしばらく待たなければならなかった。
そのため、待ち時間に入り口の横に彫られた浮彫の写真を撮った。 -
木製のレリーフ。
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入り口の上に飾られたレリーフ。
096の数字は石窟の番号だ。このように番号を振られた石窟が484窟ある。番号が振られた石窟は壁画や塑像がある窟だ。 -
入り口左右の窓枠の周囲にもレリーフが飾られている。
莫高窟の文化財は壁画と塑像であり、木製のレリーフがあるのは96窟だけだと思う。 -
96窟の近くにある記念碑。莫高窟が全国重点文物保護単位に指定されたことを記念したもの。
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九層楼より左側(南側)の石窟群。
九階層の見学が終わるとガイドは左に向いて歩き始めた。次は南側の石窟を漢学するようだ。 -
九層楼の左側の石窟群。3階の上部の岩壁に残された壁画の一部。
庇が破壊されたことによりむき出しになってしまった壁画の一部。大修理の時に石窟内部に取り込むことができなかったのだろう。
このようなむき出しの壁画があちこちに見られた。 -
壁画のアップ。今もなお壁画の色が残っていた。
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こちらは右側の壁画のアップ。
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南側の方の石窟は観光客が少ないようだ。
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南側の石窟群と九層楼。この辺りの石窟は3階層になっていた。
たまたまだったのかもしれないが、丁度この時には観光客が少なかった。 -
南側の石窟には石窟内部の様子や壁画の修復の様子を説明したパネルが掲示されていた。
一方北側の石窟ではこのような説明のパネルは見られなかった。 -
130窟の説明パネル。この窟は南大仏と呼ばれ高さ26mの弥勒大仏が安置されている。
周囲の壁には写真のような壁画が描かれているようだ。写真で見るととても立派な壁画である。
私は観光した石窟の番号を控えておりその中に130窟があったが、この写真を見る限り入った記憶が無い。この大仏は莫高窟で有名な大仏なので、ガイドがその説明をしたおりに番号を書き留めたのかもしれない。 -
これは148窟の涅槃像。寝ころび仏陀とも呼ばれている塑像だ。
148窟は我々が観光した窟である。個人窟と呼ばれている窟で、貴族や裕福な商人が一族の安寧を願って私費を投じて造らせたものだ。
この石窟の内部は薄暗く、そのため壁画の色あせも無かった。ガイドが照らす光に浮き上がる壁画はとても素晴らしかったので記憶によく残っている。 -
148窟の次は112窟へ。一旦九層楼の方に戻ります。
130窟を過ぎると2階層の石窟が続く。
この並びに112窟はあった。112窟で説明を受けたのが反禅琵琶だ。確か釈尊を取り巻く楽師の一人に反禅琵琶を奏でる奏者が描かれていたのだ。
壁画には沢山の楽師が描かれているので見ただけでは判別できない。そう思ったところにガイドがライトを当てて説明してくれた。
この体制で琵琶を弾くことはまず不可能。この絵は絵師の遊び心で描かれたものだと考えられているとのこと。多分そうだろうと私も納得した。 -
九層楼(96窟)を過ぎるたところから北側の石窟となる。この辺りの石窟は3階層だ。
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むき出しの礫岩の岩壁には壁画の一部が残っていた。
壁の大部分の壁画は風砂で削り取られてしまったのだろう。ほとんど判別できないがわずかに当時の色を残す壁画があった。 -
壁画のアップ。姿形ははっきりしないが飛天と思われる衣の一部や足(?)と思われるものが描かれている。
形は不明ながら色彩ははっきり残っているのが嬉しい。
この窟も自然の庇が崩落して内部の壁画がむき出しになっていたのであろう。もっと早く修復の手が入ればあるいは助かった壁画だったのかもしれない。 -
今我々は2層目の通路を歩いている所。次に行くのは何番目の石窟だろうか?
行き先は案内してくれるガイドまかせ。
一般窟はガイドの判断次第だが、研究員が得意とする窟に案内するのではないだろうか・・・。
もう1年も前のことなのでどんな窟だったのか印象的な窟以外は憶えていない。
またある窟と別の窟の壁画が頭の中で混じりあい、こんがらがってしまう。
記憶も曖昧だ。年は取りたくないなあ。莫高窟 史跡・遺跡
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ここは3階層から下に下りる途中の様子。
北魏時代の石窟259靴を見た後だと思うが、そのあと3層の石窟を訪ねたと思う。
控えていないので何番の窟か不明だが、それを見た後に階段を降りたと思う。莫高窟 史跡・遺跡
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259窟は北魏時代の窟で、北魏時代の特徴である交脚仏があった。
交脚とは両足を開いて胡坐のように体の前で足を組んでいる姿のこと。このような姿をした仏様は北魏時代以外にはないのだ。
この石窟では東洋のモナリザと呼ばれる有名な仏があるのだが塑像だったか壁画だったのかどうしても思い出せない。
東洋のモナリザと言うからにはどんなに素晴らしい仏様(観音菩薩だったかも)かと思ったら、見て見るとそうでもなかったような気もする。
だから記憶に残らなかったのかもしれない。足を交差した仏様の方なら憶えているのだが・・・。 -
この写真を写した後、我々は1階まで下りた。
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この窟にも壁画があった。階段を降りる途中で振り向いて写した写真だ。
出来上がった当時の石窟では今よりも庇は随分前に出ていたようだ。石窟入り口上部の庇がぼっこり崩れているためこれ以上の修復は不可能だったらしい。 -
次は55窟。いままで見学した石窟の中で最も大きな石窟だった。石窟の入り口の高さからも大きさが想像できるというものだ。
天井にも周囲の壁にも沢山の飛天が描かれていたが、中央の仏様がどんな姿だったかは全く覚えていない。ガイドの説明は飛天を中心にしたものだったが、一族の手で行われる葬儀の様子とか一族で仏を礼拝する様子などの壁画が描かれていたようにも記憶している。但し最近とみに記憶力が劣っているため別の石窟の壁画かもしれない。
なお、この窟は天井が高いので、LEDの発光ライトは必携だ。 -
ここからは特別窟の見学。特別窟とは別料金を支払って見学できる石窟のことで料金は150元(2670円)と200元(3560円)に分かれている。
我々のツアーでは見学料が200元する45窟と57窟を見学することになっていた。
ちなみに150元で見学できるのは156窟、217窟、254窟、322窟。200元で見学できるのは45窟、57窟、158窟、220窟、275窟、321窟である。
この内人気なのが45窟と57窟で、日本のでは45窟と57靴の見学を組み込んでいるツアーが多いようだ。
という事で今から57窟を見学する。 -
写真正面の石窟が57窟だ。2階に57窟の表示があるので2階から入る様にも思われるが、入り口は1階にある。
今丁度ガイドのヨウさんが皆を待っているところだ。特別窟は1グループずつ入場するので、先に入ったグループが出てくるまで待たなければならないのだ。
さて57窟、写真が無いのでイメージが湧かないと思うが、この窟は美人窟と呼ばれている。
内部の南壁に描かれた樹下説法図とよばれる壁画に描かれた観音菩薩が余りにも美しいので今では美人窟と呼ばれている。
この窟をそう呼ばしめたのが日本画家の巨匠平山郁夫画伯だ。平山画伯は仏教伝来の道でもあるシルクロードを旅し、シルクロードを描き続けた。
シルクロードの取材は150回を超え、莫高窟も幾度となく訪れた。その時に目にしたのが57窟の観音菩薩だった。
平山画伯はこの観音菩薩に魅せられて、以降シルクロードを訪れた時は必ず57窟の観音菩薩に見入ったそうだ。そしていつの間にか57窟は美人窟と呼ばれるようになったらしい。
実際目にすると確かに美しい。この観音菩薩は女性として描かれていることがはっきり分かる。装身具も緻密に描かれていて金色が一部残っていた。一見の価値ありなのでネットで見て下さい。ネットで調べればヒットします。 -
次に向かったのが同じく特別窟の45窟だった。
-
45窟の前に到着。
ガイドのヨウさんの隣にもう一人男性がいるが、この男性も研究所の専門研究員で特別窟の鍵を持っているのだ。 -
ガイドのヨウさんは特別窟の鍵を持っていないため、特別窟の鍵を持っている別の研究員に鍵を開けてもらっているところ。
さて、この45窟は仏教文化が円熟期を迎えた唐時代の石窟の中でも最高の出来と称される塑像が7体並んでいる。
壁画も素晴らしいのだが、この窟はなんといっても塑像がメインだ。
中央に釈迦如来の座像を配し、左右に3体ずつの塑像が並ぶ。二仏弟子、二菩薩、二天王という唐様式の配置だった。右の仏弟子は迦葉といい釈迦十大弟子の一人、左は同じく十大弟子の阿難である。邪鬼を踏みつける天王は日本で見られる四天王を彷彿とさせた。この塑像で最も素晴らしいのが2体の脇侍菩薩だ。
女性のように艶やかなしなを作ったポーズ、微笑みをたたえた美しい顔、豊満で艶やかな姿態は見る者を引き付けて止まない。
これらの塑像は翌日訪れた敦煌博物館に復元展示されていた。その写真を撮ってきたのでその時の旅行記を見て頂きたい。 -
さて、特別窟を見学したら残すところ後一窟になった。
その窟は第17窟、井上靖の小説「敦煌」で描かれた蔵経洞だ。 -
17窟に到着したが他のグループが見学中のため、彼らが出てくるまで外で待つことになった。
という事はこの石窟はさほど広い窟ではなさそうだ。この時はその程度の認識で、この窟が蔵経洞と呼ばれる有名な窟とは露ほどもしらなかった。
蔵経洞は「敦煌」の小説や映画で知っていたが、この窟がその蔵経洞とは知らなかったのだ。もちろんこれは旅行前の事前勉強が不足していた事に起因する。 -
前のグループが出て来たので入れ替わりに我々のグループが中に入る。
この時16・17と言うプレートを見て頭の中の何かがはじけた。「石窟の中にまた窟がある?これはひょっとして映画敦煌の中に出た沢山の経文が隠されていたというあれか。あの小さな隠し部屋か?」と。
そして中に入るとそれは確信に変わった。16窟の中に小さな17窟があったのだ。
それは16窟の須弥壇に向かう通路の右側の壁にあった。
ここで発見された文書や経文が世に言う敦煌文書だ。文書と言うから書き物だけかと思うが、経文や文書の他に白布に包まれた経巻、刺繍や絵画、仏具などが天井までびっしり詰まっていた。
敦煌文書が発見されたのは1900年の5月、発見したのは道教の道士で莫高窟に住みついていた王圓籙(おう・えんろく)だった。
王圓籙が敦煌文書を発見する下りは諸説あって、今となればどれが本当か分からないがともかく王圓籙が隠された扉を見つけてこじ開けると耳洞と呼ばれる第二の部屋があった(現在の17窟だ)のだ。その小さな部屋には天井までびっしりと古文書が積まれていた。その数なんと数万点という量だ。彼はこのようにして世紀の大発見をしたのだが、現在の中国では「敦煌を売った男」と呼ばれ蔑まれている。
それは彼が僅かな金銭で大量の歴史的文書を欧州の探検家たちや日本の大谷探検隊に売ったからだ。
しかし、それだけで発見者の王さんが貶められるのは筋違いのような気もするのだ。もし王さんが敦煌文書を発見しなければまだ敦煌の名は世界に轟いていないかもしれない。また当時莫高窟の存在は清国内でも忘れられた存在だったので、莫高窟の発見が遅れ、内部の壁画や塑像がさらに劣化していたかもしれない。
そう考えれば敦煌文書を発見したことが大きな功績なのだ。
さらに王さんは敦煌文書の一部を携えて役所に発見したことを届け出ている。文盲の王さんには貴重な文書であることが分からないのは当然だが、文字が読める役人にはその重要さが分からなかったのだ。役人は「封をして保管するように」との指示を出しただけだった。この役人の目が節穴だったため貴重な文書は大量に海外に流出してしまったのだ。
敦煌の近くから大量の古文書が出たという噂は次第に町の周囲にも広がり、それを聞きつけて莫高窟にやって来たのがイギリスのスタインやフランスのペリオだった。
この2人が敦煌文書を国外に持ち出した元凶で罪が重い。スタインは警戒していた王圓籙を言葉巧みに懐柔して17窟に案内させ、騙して僅か馬蹄銀4枚で膨大な敦煌文書を持ち出すことに成功した。持ち出した古文書や古美術は29の大きな箱に詰められロンドンに送られた。スタインが持ち帰った文書は玉石混交で絵画や経文等は6000巻、そのほかに1辺の紙切れなどもあったので、その数1万点を超えるといわれている。
次にやって来たのがフランスのペリオだ。彼は敦煌文書にとって恐るべき人物だった。語学の天才で中国語も流暢に話せた。さらにスタインと違って漢文が読め、中国古典の読解力はずば抜けていたという。
その彼が膨大な古文書に目を通し、価値の高い文物のみ選んで持ち帰ったのが5000巻だった。さらにペリオは北京その他で敦煌文書の一部を公開したため中国の学会におおきな衝撃を与えた。
慌てたのは清朝末期の中国政府だった。直ちに蘭州の総督に敦煌文書の保全と北京への送付を命じた。結果敦煌知事が残る8600余点の敦煌文書を北京に送ったがこれには落ちがあった。
なんと北京への輸送の途中に多くの文書が盗まれたのだ。盗むように命じたのは清朝政府高官だった。
敦煌文書はスタインがごっそりイギリスに持ち去り、ペリオが丹念に選んでフランスに持ち出しその残りカスを北京に運んだが、その中でもいいものは政府高官がちょろまかしたのだ。したがって中国に残ったのは役に立たない物ばかりだった。
その後空になった蔵経洞を訪ねたのが日本の大谷探検隊だった。実に間が悪いとはこのことだ。
折角訪れたのにお宝は空なのだ。悲嘆に暮れていたところに降って湧いたような話が転がり込んできた。
探検隊の吉川小一郎氏が王圓籙に会うと無いはずの経典がまだあるというのだ。
王はただのネズミではなかった。県の役人が来る前に目立たぬようにかなりの分量を他の所に移して隠し持っていたのだ。
吉川氏は王と親しくなることによって1000点ほどの経巻や写本を買い取ることに成功した。
その2年後に莫高窟を訪れたのがロシアの探検家オルデンブルグ。彼も王に接触し多数の文書を手に入れた。彼は詳しい報告を残していないが持ち帰った文書類は1万点とも言われている。また彼は莫高窟の壁画を剥ぎ取りロシアに持ち帰った。
現在はエルミタージュ美術館で剥ぎ取られた壁画を見ることができる。
そして最後に真打が登場。最も悪辣な方法で莫高窟の壁画を剥ぎ取った男だ。彼の名はアメリカのウォーナー。最も美しいといわれていた第320窟他唐代の数窟の壁画を1924から1925年にかけて化学薬品を使ってはぎ取った。320窟などは広い壁画の一番美しい場面にぽっかりと空白の部分がある。そこがウォーナーによってはぎとられた部分だ。
剥ぎ取られた壁画は合計26面、そのほかに盛唐時代の塑像数体も持ち去った。
剥ぎ取られた壁画の後は修復不可能な状態に置かれていて無残な姿をさらしている。
前置きが長くなったのでこの辺で17窟の印象について少し書いておきたい。
17窟の中には入れないので16窟の通路から中を見るようになっている。
窟の内部は狭く現在は洪べんという僧の塑像が置かれていた。洪べんは第16窟の開基の僧であり17窟は開山堂として造られた。これに対し17窟は洪べんの死に際して作られた像を納める御影堂として造られたとする説もある。
像の左右には木が描かれその下に人物画描かれていた。これは樹下供養者図と呼ばれているそうだ。 -
さて、後先になったがなぜそれほど敦煌文書は世紀の大発見と言われるのだろうか?
それほど貴重な経文だったのだろうか?これを解くヒントは古文書ということだ。それも10世紀以前の古文書で、現在では見ることができない唐代の古書や古い経典、それも漢文だけではなくチベット語、サンスクリット語、クチャ語、ホータン語、西夏文字などわんさかでてきたのである。
中国ではすでに失われていた書物や経典、仏教以外には景教や道教、ゾロアスター教に関する物、中国の古典・教科書・辞典の類なども含まれていた。
これらは中国学や仏教学の研究にとっては宝庫ともいえるものだった。
当時(清朝末期)中国古典研究の教材は最も古い物でも宋時代のもので、それ以前の文書や書物は消滅していた。ところが敦煌文書はほとんどがそれよりも古い時代の物だったのでとても貴重な文書ということになる。
中国では王朝が変わる毎に前の王朝の遺物は(宝物は別として)全て破却された。地上に造られた建物と文化財はことごとく破壊してきたのだ。中国では二十五の王朝が次ぎ次ぎと興亡し、さらに異民族が侵入しては国を興した。その時前王朝の文物はことごとく破壊しつくすというのが中国王朝の常識だったのだ。
ついでに言うと破壊されたのは文物だけではない。前王朝の宮廷人や貴族、その使用人や宦官、後宮の女官、宮廷につかえていた使用人、兵士などが殺された。
王朝が変わる度におよそ20万人もの命が毎回失われたといわれている。中国では死罪になればその罪は九族に及び、完全に一族の血脈を断たれるのだ。
前王朝の血脈であれば尚更である。しかしこれを聞いて残酷だと思ってはいけない。中国では極当たり前に行われていたことなのだ。
なぜなら前王朝の血脈を残すとその者を担いで反乱が起きるかもしれないからだ。
では何故敦煌文書が扉の奥に隠されていたのだろうか。
井上靖の小説「敦煌」では西夏軍の侵攻から経文や文書等を守るために小さな耳洞に押し込み、壁を塗って隠したことになっている。
この説は今まで有力な説だったが辻褄が合わない部分がある。それは西夏が敬虔な仏教信者の国であったという事だ。そんな国が仏教の経典を焼き払うだろうか?
それともう1点。17窟がある第16窟は西夏時代に(敦煌が西夏の支配下にあった時に)造られている。
敦煌の人達が西夏軍の侵攻を恐れて17窟に文書を押しこめようとしても、肝心の石窟はまだ出来ていなかったのである。つまり今までそうだろうと信じられてきた説は明らかに誤りなのである。そのため近年次のような説が唱えられている。それは・・
「敦煌文書を17窟に隠したのは西夏だ。もしくは西夏時代に西夏の主導で行われたのだ」と。
この時期西夏の西方にはイスラム教国のカラハン王朝が起こり、次第に東進していたのです。いずれ西夏はイスラム教国に侵略されるという危機が迫りつつあった。
イスラム教国家であれば仏教関係の物を破却することは十分考えられるのだ。私はこの説の方が説得力があると思っている。
話が飛んでしまったが、第16窟と17窟が莫高窟の最後の見学地だったので、入り口の九層楼に戻ることになった。 -
3階層の石窟。セメントで固めていない礫岩の壁には壁画が残っているようなのでアップにしたのだが、壁画の色が薄くてはっきり分らなかった。
もっとアップにすればよかったと思う。 -
ここにも壁画がある。
これらの壁画は風砂にさらされて色が落ち、いずれ見えなくなってしまうんだろうな。
そう考えるとこの地は早く訪れるに越したことはなざそうだ。 -
この壁にも壁画が残っていた。
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角度を変えて見ると壁画が良く分かる。
この壁画も消えてなくなる運命か。そう思っても今の状態が修復の限界だそうで、これ以上はどうにもなりそうもない。
九階層の出口まで戻ると、ここでガイドのヨウさんとはお別れ。「ありがとうございました。」と皆で挨拶。
これからはガイドの陳さんにバトンタッチ。 -
次にガイドの陳さんに連れられてきたのは書籍や絵画の土産物店。
写真はその前に立っていた飛天の像。 -
土産物店に展示してあった観音菩薩3体像。中央の観音菩薩の顔は第57窟の脇侍観音菩薩に似せて描かれていた。
豪華な装身具も壁画に似ている。多分模写絵を基に描いたのだろうが顔の傾きは壁画と異なりオリジナルのもの。
この店には敦煌の模写絵、掛け軸、有名な先生の肉筆画や墨絵、ガイドブック、筆や硯などわんさかあったが買う気にはならんかった。
まずガイドブックはカラーと白黒印刷で200元(約3600円)と300元(約5300円)。日本で同様の冊子と比較すると中国の方が少し高いのかなと思った。
共にA4判の日本語版、値段の違いはページ数の差だった。
日本の写真集と異なり色のむらなどがあり品質が劣る。製版技術の差かな。
これなら日本で敦煌の写真集を買った方がいい。
有名な先生の絵は高い。絵の横に先生の略歴などが書かれていたけど漢文で分からない。一番安くても日本円で30万円だったので中国では名のある画家なのかもしれない。
買い物時間は15分くらい。この後の予定があるので買い物は早めに終えてシャトルバスの乗り場に向かった。 -
大泉河を渡った莫高窟の対岸は墓地になっていた。
スツゥーパのように見える小さな塔は僧侶の墓だそうだ。 -
莫高窟の石碑。石碑の後ろの山裾や右には大小の墓があった。
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鳴沙山と向かい合う三危山。
この山の麓にも僧侶たちの墓があった。ガイドの陳さんの説明がなかったので見逃したが、大泉河の岸辺には敦煌文書を発見した王圓籙の墓があったそうだ。
これから行かれる方はどうぞ見逃さないようにしてください。
これで莫高窟の旅行記を終わります。次回は玉門感関、漢代長城、陽関を予定しています。
今回も訪問下さりありがとうございました。
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