2019/06/11 - 2019/06/18
294位(同エリア1655件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2019/06/11
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ホテルのレストランで朝食
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バスでの移動
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一号抗
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武士俑
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秦軍最強の先鋒部隊
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修復中の兵馬俑
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この旅行記スケジュールを元に
西安に帰ってきました。シルクロードの旅最後の観光地は西安市です。西安市と言えば秦の始皇帝の地下軍団、兵馬俑の観光です。
兵馬俑は発掘した年月により1号抗、2号抗、3号抗と別れていますが、もっとも大規模な兵馬俑が一番最初に発見された1号抗です。
今回の旅行記は1号抗の様子をお送りします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
おはようございます。6月17日旅行7日目です。実質的に今日が観光の最終日となります。
西安の観光地を一日かけて観光する予定で、今日の観光の目玉は兵馬俑坑博物館、正式名称は秦始皇兵馬俑博物館といいます。
写真は早朝の西安市内の様子。日は射しているのに鈍よりした空で青空は見えません。まるで春霞がかかったように視界が不良です。中国名物PM2.5か吹き荒れているのでしょうか?
まさか西安でPM2.5に合うとは思わなかったのでマスクは持ってこなかった。
今は天候回復を祈るばかり、先に朝食を食べに行こう。 -
ホテルのレストランは1階。
今日は朝から夕方まで目一杯観光が組まれているが、その割にはこの日の朝食は小食だった。
私にしては本当に少ないな。そろそろ旅の疲れが出た頃だったのかな?
中国ではお粥は欠かさなかった。消化が良くて塩分控えめで健康食だった。 -
朝食は朝7時から。昨夜は、と言うよりは夜中の3時前に就寝したため熟睡できなかった。朝7時前には7時前にはもう目が覚めてしまった。
そのためレストランには一番乗り。だからレストランも客の姿が少ない。私以外は中国人観光客だった。 -
同じくレストランの様子。
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皇城豪門酒店(旧日航ホテル)の外観。西安市の中央にある鐘楼まで歩いて10分強の距離だったので、城内の観光には便利なホテルだった。
9時15分にホテルを出発。長安城の東門(長楽門)を抜けて北東にある始皇帝陵に向かった。 -
長楽門を通り抜けたところを車窓から写す。
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市内の高層賃貸マンション群が並ぶ。すでに9時56分だが日が射してこない。
相変わらず鈍よりした天気だがけっして曇り空ではない。太陽は出ているが何かが日差しを遮っているのである。やはりPM2.5のようだ。 -
さらにバスは北東へ。現在10時20分、まだ始皇帝陵は見えてこない。
さて、今日の現地ガイドはダンさん(漢字は分からない)。新疆ウイグル自治区のガイド胡さんとはウルムチ空港でお別れした。
西安のガイドダンさんは観光初日に西安を案内してくれたガイドさんだ。
西安空港から敦煌空港に飛ぶ前にナイフなどの危険物を預かってくれたのもこのガイドさんだった。 -
ダンさんは日本観光の中国人ツアーに同行する日本語ガイドとして長年中国人観光客を日本に連れてきたが、現在は中国観光の日本人ツアー現地ガイドとして働いている。
中国人の中では日本通のガイドだそうだ(添乗員の話)。
そのためか現在の中国共産党の言論統制や共産党政権化の監視体制など公安が耳にすれば目を剥くような際どい話も我々に話してくれた。
話の節々から想像するに純粋な共産党員ではなさそうだった。 -
さて、ガイドのダンさんお話を聞いているうちに始皇帝陵が見えてきた。
我々の観光では始皇帝陵の下車観光は含まれていなかったので、車窓から観光した。秦の始皇陵 史跡・遺跡
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バスは兵馬俑坑博物館に到着。
駐車場から博物館のゲートまでは道の両側に土産物店や飲食店が延々と続いていた。
中国人はゲテモノ好きだ。蛇でもトカゲでも犬でも何でも食べる。写真はそのような店の一つ。サソリの串焼き店だった。サソリは小さいが生きていた。
我々が通りかかるとサソリを何匹か手のひらに乗せて「どうだお前ら、こんなことができるか?」とドヤ顔で言っているような感じで見せつけてきた。
いくらサソリが小さくても刺される危険があるだろうに、よくやるもんだと呆れ顔で見ていた。 -
しばらく歩くと秦始皇兵馬俑博物館のゲートが見えてきた。
このゲートでチケットを見せて入場する。なを、ゲートの右側に無料トイレがあるのでここで済ませおこう。秦始皇帝陵博物院 (兵馬俑) 史跡・遺跡
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博物館の入場ゲート。このゲートから入場すると1号抗、2号抗、3号抗、文物陳列庁が見れるが一号抗までかなりの距離がある。
ゲートから1号抗までカートで行くことができるので、ここは迷わずカートに乗ろう。カートは無料で乗れる。秦始皇帝陵博物院 (兵馬俑) 史跡・遺跡
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秦始皇兵馬俑博物館の入場券。1号抗から文物陳列庁までこのチケット1枚で見れる。
各抗の入り口でチケットの提示を求められるのでチケットは無くさないようにしよう。 -
写真は3号抗の建物。1号抗の建物はまだ先にある。
秦始皇帝陵博物院 (兵馬俑) 史跡・遺跡
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1号孔が見えてきた。
この建物の中にあるのが一番最初に発見された兵馬俑だ。秦始皇帝陵博物院 (兵馬俑) 史跡・遺跡
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1号抗の建物の入り口である。
建物内部に入る前に秦始皇兵馬俑坑の概略を説明しておきたい。兵馬俑は日本のTV番組でも何度となく放映されているため皆さんはよくご存じだと思う。そのため簡単に述べておきたい。
俑とは古代中国で死者の墓に埋葬される物で被葬者の死後の霊魂が生活するために作られたものである。人馬や家屋や生活用具などで、殉葬の習慣が廃止されてこれに代わる物として埋葬されるようになった。
兵馬俑とは兵士や軍馬を形どって埋葬した陶器のことである。秦始皇帝陵博物院 (兵馬俑) 史跡・遺跡
-
兵馬俑が発見されたのは1974年3月29日、秦始皇陵の西1500mの地点にある臨潼県西揚村の農民6人(楊志発、楊文学、楊培彦ら)が干ばつ対策のため井戸掘りを開始したところ農民の一人楊志発が降り下ろした鍬の刃が何か硬い物に当たった。
鍬が当たった部分的にはぽっかり穴が開いていたので何かの壺かと思い堀り進めると、首が取れ片足が無い陶製の実物大の兵士像が掘り出された。少し離れた所で作業していた別の農民は銅製の何かを見つけ志発産の方へ放り投げた。それは銅製の弩だった。
農民たちは掘り出した物が何か分からず処分に苦慮して臨潼県の文化博物館に持ち込むことにした。
3台のリアカーに陶辺の破片や兵士像、銅製の弩や弓矢を積み込んで数キロの道のりを運んで博物館に持ち込んだ。
持ちこまれた博物館では発掘現場の保護と陶俑の修復を指示しただけで上級部署への報告を怠った。
文化博物館に兵馬俑が持ち込まれたところまでは第一発見者楊志発の発掘時の証言とそれに基づく日本のTV報道と現地ガイドダンさんの説明は同じだが、博物館の対応以降から楊志発の証言の内容と博物館趙康民の証言が食い違ってくる。
写真は1号抗正面最前列から写した兵馬俑坑の全景写真。広大な広さの遺跡を覆う巨大なドーム型天井を持つ建物のスケールに度肝を抜かれた。
4列縦隊の隊列が整然と並んでいる姿は正に始皇帝の地下軍団と呼ばれるに相応しい。
当日の観光客は建物両側に設けられた通路を埋め尽くすほどに大混雑していた。まず入り口から兵馬俑が見える最前列までたどりつくのが至難の業だった。
居並ぶ中国人観光客を搔き分け搔き分けやっとの思いで最前列に辿り着いたのだった。秦始皇帝陵博物院 (兵馬俑) 史跡・遺跡
-
博物館館長趙康民の証言では「農民が持参したのは井戸掘り作業中に出土した秦時代の煉瓦だった。趙館長は届け出た農民と一緒にその足で井戸のある場所まで向かった。しかし現場は荒廃していて破片がバラバラに見つかった。頭部の一部が木の上に架けられていたり、胴体が畑に立ててあったりした。
趙館長は現場を片付けた後、陶辺や立て掛けられていた兵俑を3台のリヤカーに回収し、博物館の作業場まで運んだ。
その日の夜のうちに発掘したすべての部品を分類別に並べて修復作業に取り掛かった。破片の断面を水で洗い接着剤でくっ付け、破損個所は石膏で補った。こうして3日のうちに2体を修復し、最初の兵士の俑を秦武士俑と命名した。
趙館長の手記にはこのように記載されていた。
一方第一発見者楊志発の証言は当初は博物館員が保存と陶俑の修復を指示しただけだったが、その後持ち込んだ陶俑を博物館長が鑑定した結果秦王朝時代のものと判明し、国宝級の物だという事が分かった。我々は官庁からリヤカー3台分の手間賃として30元(約450円)貰った。と言う風に変わっている。
楊は高齢だったため発見時の記憶と趙館長の修復時の報道が混同してしまったのではないかと思う。現地ガイドの説明はあくまで発見時の楊志発氏らの証言と同じだった。
どちらの証言、手記が正しいのか分からないが、楊志発が第一発見者であることは疑いが無いようで、国からもそのように認められたそうだ。
これ以後の動きは楊志発氏らは関与していないため博物館館長趙康民の手記による・・。
2体の修復が完了した後偶然にも新華社の記者が博物館を訪れた。その記者に秦時代の武士俑で秦始皇帝陵の武士像の副葬坑であると説明した。
同年6月に記事になると中央の指導者が関心を示した。7月袁仲一、趙康民らから成る秦俑考古チームが編成され、発見現場の1号抗の試掘が行われ、2号抗、3号抗を発見した。
中央から左側の兵馬俑と左側通路の観光客の様子。左側通路を進んでいる観光客を見て頂きたい。横幅の広い通路だが観光客がびっしり並んでいる様子が分かると思う。
通常であれば現地ガイドがツアー客を場所場所に集めて遺跡の説明をするのだが、この日は中国人観光客が多くて一つの場所に我々を集めることは不可能と判断。
「皆さんトラベルイヤホンのスイッチを入れたままにして私の説明を聞いて下さい。私の姿を見失っても慌てずにゆっくり出口方向に移動してください。私は出口の所で皆さんを待っていますので、そこで再集合しましょう。イヤホンの音量が小さくなり声が聞きにくくなったら私と離れすぎています。距離を縮めて下さい。」
そう言い残すと各自が自由行動。自分のペースで説明を聞きながら出口を目指すことになった。 -
1号抗の広さは東西230m、南北62m、総面積1万4200㎡の中に兵馬俑が6000体発見され、現在まで約2000体が発掘された。発掘されたのは総数の1/3に当たる。
兵士俑は身長が1.8mで38列に並んで配置されている。俑は着色して埋葬されていたが掘り出されて外気に触れると急速に着色が劣化することが分ったので、現在では新たな発掘はされていない。
着色顔料の劣化を防ぐ方法が確立したら発掘を再開始するそうだ。 -
私の記憶なので少し曖昧なところがあるが、兵馬俑発見当時の俑の色は黒かったように記憶に残っている。
これは秦の軍隊が黒色の鎧や衣で組織されていたと当時のTVで報道されていた記憶があるからだ。
しかし着色が退化した現在では当時の陶土の色が分ってきた。写真で見ると同じ色の陶土ではない。
陶土には赤い地層があったことが分る。兵俑も赤い陶土の物や黒っぽい陶土、赤と黒土が混ざった物などカラフルだった。
陶土の質の違いで兵俑の色が異なるほかにもう一つ色の異なる理由がある。
それは秦が滅亡した時に兵馬俑は大火で焼かれているからだ。秦滅亡時に楚の項羽が兵馬俑に火をかけた。その証拠は焼けた柱や土や兵馬俑そのものだ。
兵馬俑は露天に身をさらしていた訳ではなく、もともと屋根のあった建物の中にあった。それに項羽の軍勢が火を放った。陶土を焼き上げて製作された兵馬俑は劫火に耐えたが俑の表面は変色したのだ。
しかし劫火に焼かれた兵馬俑を一体誰が埋めたのかその疑問が今も残る。兵馬俑は史記にも記録が無く、始皇帝の生前に作られたのか死後なのか、それすらも定かでは無く今も永遠の謎である。
しかも兵馬俑は掘り出された時には着色されていたことが分かっている。とすると火をかけられた後に着色し直して、いずれかの手によって埋められたと考えるのが順当であろう。作られた時期は不明でも埋められたのは秦滅亡後であることが推測できる。 -
4列に整列した武士俑のアップ。列の後ろに見えるのは発掘途中の兵馬俑。
ガイドのダンさんの話では現在発掘は中止されているため、これ以上掘り進めることはないそうだ。
秦始皇帝の地下軍団は1号抗から3号抗までで約8000体が発見されたが、どれとして同じ顔は無いそうだ。
1号抗に埋葬された武士俑は歩兵で構成された始皇帝軍団の主力部隊である。
秦の軍団は黒衣の軍団と呼ばれ、軍装が黒色で統一されていたと言われている。
この黒衣の軍団で戦国時代最強と言われるのが白起将軍が率いた軍団だった。
白起将軍は昭襄王(秦王政の曾祖父)時代の将軍で寡兵で敵の大軍を次々に打ち破り秦の領土拡大に大変貢献した人物。智謀を兼備した名将だったが降伏した敵兵を何十万も殺戮するという残忍性も併せ持っていたため他国から恐れられた将軍である。寡兵で趙の45万の大軍に大勝した長平の戦いが特に有名。
始皇帝時代の秦の軍団は黒一色ではなく兵種によって他の色が使用されていたことが分かっている。 -
武士俑の後ろには発掘が中断されている遺跡があった。
すでに色が脱色している兵馬俑は逐次掘り起こして修復するようである。 -
武士俑のアップ。
この武士俑(兵士俑)は歩兵だが鎧を付けていない。武士俑は平均身長1.8m、軍団の主力で兵馬俑坑で最も多く出土している。
武士俑は戦袍を着た武士俑(戦袍武士俑)と鎧を着た武士用(鎧武士俑)に分けられる。写真は戦袍武士俑だがその後列に鎧武士俑が並ぶ。
これらの武士俑は手に武器を持った状態で埋葬されていたが、2000年以上の眠りから覚めた時には武器の木製部分は朽ち果てていた。 -
鎧武士俑の隊列。
兵馬俑は武士俑の他に御手俑(御者俑)、立射俑、跪射俑、騎兵俑、将軍俑などの俑が発見されている。
その中で珍しいのが将軍俑である。発見された2700体強の内わずかに10体弱だという。隊列の中から見分けるのは至難の業だが幸いなことに2体目にすることができた。
2号抗の陳列エリアでガラスケースに収められて展示されていたのだ。
修復の跡も無い完璧な将軍俑だった。将軍俑は写真に写しているのでその時に触れてみたい。
兵馬俑は衣服や鎧、立ち姿によって区別されるが、髪型や冠によって階級が区別されるそうだ。
ガイドのダンさんがイヤホンガイドで説明していたがツアーの写真班は常に最後尾を移動していたため、ダンさんがどの俑を説明しているのか判別できなかった。 -
皆さんに見て頂きたい。この圧倒的な光景を、このスケールを。実物じゃないと実感が湧かないと思うが、よくぞこれほどの物を作ったものだと感嘆する。
秦始皇帝の権力は絶大なり。彼の権力を推し量る物は兵馬俑だけではない。秦の都咸陽に造営した阿房宮殿。阿房宮は楚の項羽によって火をかけられたが燃え尽きるのに3か月も要した広大な宮殿だったと言われている。
そして度肝を抜かれるのが秦の始皇帝陵。受刑者や奴隷、地方からかき集めた賦役の人夫延べ70万人を動員して40年の歳月をかけて造られた始皇帝の墓である。
陵墓は地下宮殿として造られ、兵馬俑は地下宮殿を守るために作られたと考えられている。
通路の人だかりをご覧いただきたい。中国人の観光客で内部はごった返していた。 -
2000年の眠りから覚めた地下軍団の兵士達。
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鎧武士俑の兵士達。
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こちらは戦袍武士俑の兵士達。
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こちらは顔の黒い武士俑達。
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1号抗最前列から見た兵馬俑の様子。
当日は中国人観光客で大混雑だった。人混みをかき分けかきわけて、最前列を確保するのは至難の業。このようにしてようやく撮れたのがこの写真と先程の入り口正面から写した写真だ。
兎に角すごい迫力にびっくりした。 -
我々は正面入り口から左側通路に移動して出口に向かって通路を歩いて行った。
写真で見えているのは右側通路の人混み。
左通路から右側通路へと1号抗は一周して見ることができるのだが、我々は時間の都合で半周しか見れなかった。
時間が許す方は是非一周回って見て頂きたいと思います。 -
各溝には4列縦隊で武士俑が配置されているが、写真のように3列と4列と言う具合に並びが不自然な溝もあった。
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こちらは整然と4列に並ぶ武士俑。
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アップにすると結構首の無い武士俑があることが分かる。
兵馬俑は発掘時に修復するので首の無い武士俑は発掘以前に盗掘されて持ち出されたのではないかと考えられている。 -
4列縦隊が基本形だが2列縦隊の隊列もあった。
これは秦の軍団の体型を伝えるもので、中央部分が4列の縦隊、左翼と右翼は2列縦でここには弓隊や弩兵が配置されます。前方は4列の横隊で先鋒部隊。最も屈強な兵士が配置された。 -
戦袍武士俑のアップ。髪の結い方も個々で微妙に違うそうだ。
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秦軍最強と謳われた前列の先鋒部隊。鎧を付けていないので捕虜となった囚人部隊と言う説もあるが、戦闘意欲の乏しい囚人部隊を先鋒部隊として配置することは無いだろうと思われる。
なざなら最前線の部隊が崩れると軍団全体が総崩れになる恐れがあるからだ。日本の合戦でも先陣を承るのはその軍団の最強部隊が常なので、中国も同様の配置であると考えられる。
では何故鎧を付けていないのか?という疑問が生じるが、鎧を付けない方が身軽であること。また鎧を付けるまでも無く屈強の兵士であることを相手の兵士に知らしめ威圧するためと考えられている。
兎に角秦の先鋒部隊は強かったそうです。 -
秦軍最強部隊のアップ。
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最強部隊は4列横隊で軍団の最前列に並ぶ。
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前衛部隊の後ろに詰めているのは騎馬隊かな。
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騎馬の後ろには再び武士俑が待機している。そのためこの馬は騎馬隊ではなく歩兵の指揮官が乗る馬と考えられる。
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戦袍武士俑と武士俑の隊列。
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4列横隊の戦袍武士俑。
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秦軍の主力部隊である歩兵の堂々たる隊列。
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鎧武士俑のアップ。
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真横から眺めた秦軍の主力部隊。首の無い武士俑が結構あることが分かる。
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武士俑のアップ。こうして見ると楚の項羽軍に火をかけられた兵馬俑をいったい誰が色付けして溝の中に埋めたのかと興味が湧く。
秦の始皇帝は万里の長城や咸陽宮、阿房宮の造営、巨大な始皇帝陵の造営、南北を結ぶ大運河の建設や多くの軍用道路を作ったが、この工事に多くの国民が強制的に使役された。農業の主要な担い手であった男性が何年も強制的に使役に徴発されたため、全国に怨嗟の替えが満ちた。始皇帝の死後全国に反乱の火の手が上がったわけであるが、このように憎まれていた始皇帝の地下軍団をわざわざ土に埋めた奇特な民が本当にいたのだろうか。それも10人20人の少人数ではない。
兵馬用の規模と埋められていた溝の深さから数千人から万人に及ぶ作業員が必要だったはずである。これが兵馬俑のいまだ解決されていない歴史上のミステリーなのだ。 -
武士俑のアップ。手にはそれぞれ武器を持っていたが長年土中に埋められていたため武器の木部の部分は朽ち果ててしまい現在のような姿で掘り出された。
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首の無い武士俑は哀れを誘う。多分体の周辺に首だけ落ちていたはずだが、それが無いとなると盗掘されて持ち出された可能性が高い。
現に博物館の趙館長が西揚村の畑を訪れた時には兵馬俑の首が木の枝にかけてあったり、胴体が畑に立ててあったりしていた。兵馬俑の第一発見者は楊志発になっているがガイドのダンさんの話ではに西揚村には兵馬俑の第一発見者だと名乗る農民が幾人もいるそうだ。彼らは私設博物館を作り、彼らが掘り出した兵馬俑が最初に発見された兵馬俑だと申し立てて、見学者に見せているらしい。
ちなみに楊志発氏が発掘した兵馬俑の第一号は秦始皇博物館にあるわけではなく臨潼県文化博物館に保管されている。 -
武士俑のアップ。
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武士俑のアップ。
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第一号抗の後ろ側部分まで来ると雰囲気が違う兵馬俑が並べられていた。
これらの兵馬俑は掘り出された後で修復された兵馬俑である。胸に識別の札を掛け並べられていた。
ここからは兵馬俑の修復作業がなされているブースである。 -
修復中の武士俑たち。
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修復中の兵馬俑のアップ。修復中の兵馬俑は比較的黒色の俑が多い。中にはオレンジ色に近い俑もあるがこれらは項羽の軍勢によって火をかけられたためと考えられている。
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修復中の俑には首の無い物が多かった。
ここに展示されている俑は修復の過程を観光客に分かり易く示すために展示されている。 -
修復中の兵馬俑のアップ。顔が焼けただれた俑もあった。
体の修復が終われば顔も修復されるのだろう。 -
首だけでなく手が掛けている俑も見られるが、これらはまだ修復中の物と考えられる。
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修復中の武士俑。
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同じく修復中の武士俑。
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こちらは壊れた武士俑を接着剤で接着させているところ。接着した俑はゴムバンドで強く締め付けられていた。
ここは欠けた陶片をつなぎ合わせて俑を修復させる場所だった。 -
修復作業の途中の様だが作業員は一人もいない。
ここはあくまで博物館の展示スペースで、修復作業工程を観光客に見せるために設置された物だ。なので作業員はいなかったのだ。
一号抗の途中であるが一旦ここで区切って次回は2号抗、3号抗の展示を紹介したいと思います。
訪問下さり有難うございました。
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