2024/12/20 - 2024/12/20
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FUKUJIROさん
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この旅行記のスケジュール
2024/12/20
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白髮神社に参拝
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秩父街道吾野宿
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中村屋跡(酒屋の房次郎)
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顔振峠
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平九郎茶屋で蕎麦を食べる
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越辺川起点の碑
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渋澤平九郎自決の地
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熊野神社に参拝
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全洞院に参拝
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澁澤平九郎の墓
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渋澤平九郎埋首之碑
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この旅行記スケジュールを元に
飯能市内での仕事を終えたところで、次の仕事まで時間が空いてしまったので自由行動です。
前々から気になっていた渋澤平九郎が歩いた最期の道を辿ってみることにしました。渋澤平九郎は、弘化4年(1847年)11月7日に下手計村(現在の埼玉県深谷市)の尾高家に尾高惇忠や千代の弟として生まれました。姉千代は後に渋澤栄一と結婚しています。
その渋澤栄一が慶応3年(1867年)に第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる徳川昭武に随行してパリ万国博覧会の視察に外遊する際、万一の時に士分を継がせるために平九郎を見立て養子にしました。
幕臣の養子となった平九郎は、従兄弟の渋澤成一郎や兄の惇忠と行動を共にし、彰義隊を経て振武軍に加わり、飯能戦争では幹部として戦いましたが、あっけなく敗れたしまいました。
飯能から敗走する途中で成一郎らとはぐれてしまい、一人奥武蔵の山中を逃走しました。吾野あたりから顔振峠を越えて黒山村(現在の越生町)にたどり着いたところで新政府軍に見つかり、奮戦虚しく慶応4年5月23日(1868年7月12日)自刃しました。享年20歳。156年前の出来事です。
その3ヶ月後の10月23日(明治元年旧9月8日)に明治と改元しました。
以下は参考になる旅行記です。
◆飯能戦争について学んだ飯能市立博物館を訪問した記録もどうぞご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11714389
◆天覧山に登ったときの記録もどうぞご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11722259
◆埼玉県の偉人・渋澤栄一翁のふる里をめぐったときの旅行記もご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/11684974
https://4travel.jp/travelogue/11685613
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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吾野宿は、古い歴史のある秩父街道の宿場です。紀州の吉野材と並ぶ良質木材とされる西川材の産地であり、宿場に沿って流れる高麗川によって江戸に運ばれました。
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元禄13年に、坂石村から分郷して、秩父街道に沿って民家29戸が生活する馬継の宿場でした。ほとんどの家が絶えることなく、現在も暮らしているそうです。
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街道から少し奥に真っ赤な鳥居が見えます。
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鳥居の扁額は「白鬚大明神」です。
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手水舎。自然石を削った水鉢です。
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すぐ脇を西武池袋線の電車が走っていました。
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西武池袋線の下には小さな隧道、軽自動車がギリギリ通過していました。
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隧道の反対側。この細い道は、古くからある道のようで、顔振峠へ続く旧道のようです。
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これから向かう顔振峠(こうぶりとうげ)は、飯能から逃げてきた渋澤平九郎がたどり着いた場所で、その後の命運を分けたところです。
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狛犬(阿像)。紀元二千六百年を祝して昭和15年(1940年) に建立されました。
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狛犬(吽像)は、顔が痛んでいます。
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白髮神社(しらひげじんじゃ)拝殿。
御祭神は清寧天皇、猿田彦命の二柱です。
この後の山道の安全を祈願しました。
あまり聞いたことのない清寧(せいねい)天皇ですが、雄略天皇の第三皇子で母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。生来の白髪から白髪命(しらかのみこと)と呼ばれました。
雄略天皇23年8月に、天皇崩御。翌年正月に第22代天皇として清寧天皇が即位しました。
ただし、在位期間が約4年間と短く、后妃も皇子女もいないこと等から実在や即位を疑う説があります。 -
御本殿。
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秩父街道吾野宿には大正期の古民家が立ち並んでいます。平成23年度に埼玉県景観モデル地区に指定されています。
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中村屋跡。
振武軍は飯能戦争に際して、万一撤退する場合には秩父に再結集することを決めていました。
戦いで被弾した渋澤成一郎は尾高惇忠に抱えられて秩父街道を敗走していました。その時に一行を匿ったのが酒屋の房次郎(中村屋)でした。
成一郎たちは数日間身を潜めた後、すでに新政府軍が待ち構えているであろう秩父は諦めて、上州・伊香保へ逃れました。
この赤いトタン屋根の家が中村屋跡で、建物は当時のままのようです。 -
顔振峠へ向かいます。
国道299号線と県道越生長沢線の交差点です。
直進すると顔振峠へ続く山道です。
渋澤平九郎の逃走経路は不明ですが、新政府軍から逃れるために、人が通らないような山道を登ったと思われます。 -
交差点から右側には吾野トンネル(西出口)が見えます。
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県道越生長沢線。
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山道を鋭角に折り返します。
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地元の方の供養塔など。
普門品一万巻供養塔(中央左)。 -
吾野駅から登ってくる山道です。
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県道越生長沢線を横切って顔振峠へ向かう山道。
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埼玉県入間郡毛呂山町から秩父市に至る奥武蔵グリーンラインに出ました。
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奥武蔵グリーンラインの顔振峠(標高530m)に立つ木碑。
かつてFUKUJIROは、もう少し北の飯盛峠や刈場坂峠あたりを走り回り、たびたび車中泊をしていました。標高が低いものの夏の夜でも気温が下がります。寝袋は必須です。 -
登ってきた山道もかつては吾野宿と越生村を結ぶ交通の要衝でした。
鎌倉時代には、奥州に逃れる義経一行が通過し、景色の美しさに振り返ったと伝えられています。峠の名前の由来になっています。 -
顔振峠から南西方向の景色。
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平九郎茶屋。
渋澤成一郎や尾高惇忠らと逸れてしまった平九郎は、山中を敗走し、顔振峠の茶屋に立ち寄りました。
平九郎は茶屋の女性に秩父方面への逃げ道を教わったものの、危険を感じたのでしょうか、刀を預けて黒山(越生町)方面へ下りて行ったと云います。 -
茶屋は当時からこの峠にあったそうで、後に平九郎茶屋と称しています。
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渋澤平九郎を祀っています。
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店の主人の加藤ツチ子さんは、逃走中の渋沢平九郎に道を教えた女性のお孫さんです。
孫と言ってもFUKUJIROよりもかなり年長の方でした。 -
お蕎麦が名物らしいので、山菜そば(800円)をいただきました。
さて、平九郎の後を追ってみましょう。 -
奥武蔵グリーンラインを下ると、越生町のハイキングマップがありました。
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さらに山道を下ります。
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単調な下り坂を進むと、道端に石碑が見えました。
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一級河川越辺川(おっぺがわ)起点の碑。
荒川水系入間川の支流で延長 35.8[1] km -
道路から下の覗いて見たら、これが越辺川の源流みたいです。
越辺川の語源については、「越生の辺りを流れる川」から来ているという説や、北海道乙部町の「乙部」と同様にアイヌ語の「オ・ト・ウン・ペッ(o-to-un-pet 下流の方に沼のある川)」に由来するという説などがあります。 -
さらに下ると、建物が見えてきました。
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新政府軍は振武軍の退路を絶ち、徹底的に敗残兵狩りを行っていました。
山道を下りてきた平九郎は、平地に出たところで気が緩んだのかも知れません。 -
新政府軍の広島藩神機隊監察・藤田高之一隊と遭遇しました。敵方3人に小刀で応戦しましたが、右肩を斬られ、足に銃弾を受けてしまいました。
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「渋澤平九郎自決の地」の碑は、梅園青年団と八基村(現深谷市)青年団の呼びかけで、昭和29年に建立されました。
題字は渋澤栄一の孫、渋沢敬三氏。裏には埼玉県文化財専門委員山口平八撰文の平九郎の生涯が刻まれています。 -
ようやく黒山までたどり着いた平九郎でしたが、逃げられないとわかった平九郎は、自害を決意しました。
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川岸の岩に座ると、観念の自刃を遂げています。この岩は「自刃岩」と呼ばれています。
新政府軍はその場で首を切り取り、亡骸を放置して引き上げました。 -
崖下の顔振川は、平九郎の血を江戸湾まで流したことでしょう。
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渋澤平九郎自決の地からわずか400mでこの看板を見つけ、車を駐めました。
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駐車場の南側には熊野神社がありました。
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黒山熊野神社に参拝します。
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御神木の杉。
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神社は高台にあるようです。
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右側に狛犬吽像。
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左側に狛犬阿像。なかなか厳めしい顔をしています。
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黒山熊野神社は、応永年間(1394~1428年)に箱根権現社の別当だった相馬掃部介時良入道山本坊栄円が開山しました。
御祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱ですが、一説には平将門を祀っていたとも云われます。
昭和60年1月、不審火により焼失し、昭和62年に再建された社殿です。 -
扁額は熊野神社。
古くから鎮守様と親しまれていましたが、明治5年社号を熊野神社に改めました。明治40年に黒山内にあった八雲神社、愛宕神社、榛名神社、神明神社を合祀しました。 -
駐車場から道路を挟んだ東側に全洞院の参道があります。
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岩松山 全洞院(ぜんとういん)は、曹洞宗の寺で、室町時代の創建と伝わります。
喜州善欣が開山しました。
平安時代(西暦800年頃)初頭、修験者達の寺として創建され、後に太田道真・道灌父子によって中興された龍穏寺の末寺になります。 -
本堂の前には明治維新の頃に一時的に住職を務めていた、俳人の松野自得が詠んだ「白梅の ある夜飛びゆき 星となる」の句碑があります。
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越生七福神めぐりの一つ、布袋尊が祀られています。
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全洞院本堂。無住のため、閉ざされています。
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新政府軍は渋澤平九郎の首だけを持ち去り、遺体は放置していました。
黒山の人々は、名前もわからない青年の亡骸を全洞院に埋葬し、脱走の勇士「だっそさま」として祀りました。 -
境内の奥、高台に埋葬されました。
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明治6年、渋澤栄一翁は平九郎の遺骸を東京・谷中の渋澤家の墓地に改葬、その後「澁澤平九郎の墓」が建てられました。
この墓石も明治6~7年(1873~4年)頃、栄一翁の命によってに建てられました。 -
明治32年、栄一翁は尾高惇忠とともに振武軍が本陣を置いた飯能の能仁寺を参詣後、越生の生絹仲買商・島野伊右衛門宅(現金子家住宅)に投宿。翌日、平九郎自決の地と墓を詣で、全泂院で法要を行いました。解説板の写真を複写。
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位牌には「俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山にて討死」と記されていました。
遺体が平九郎であると判明したのは、討死から10数年後のことでした。解説板の写真を複写。 -
越生駅前に建つ法恩寺に来ました。正面が越生駅西口。
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法恩寺の黒門。
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松渓山 法恩寺の扁額。
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越生分署・越生交番所跡の碑。
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明治20~30年代の絵図を見ると、境内のすぐ前に扇町屋警察署・越生分署が新築された様子がわかります。本堂はじめ諸堂宇の屋根が茅葺きの様子も分かります。
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法恩寺の中門。正徳元年(1711年)建立。中門及び鐘楼は、明治34年の火災で焼失を免れました。
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鐘楼は、享保6年(1721年)に建立されました。
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門の外に馬頭尊供養塔。
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門の外に別の馬頭尊供養塔。
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中門を潜った境内の全景。
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法恩寺(ほうおんじ)本堂。
奈良時代の天平10年(738年)、行基が法相宗の寺院として創建しました。
鎌倉時代の建久3年(1192年)に天台宗に改めて再興、室町時代の応永5年(1398年)に真言宗に改宗しました。
天正19年(1591年)に、徳川家康から寺領として朱印地二十石が与えられました。
現在の本堂は昭和14年建立。
御本尊は木造金剛界大日如来座像です。像高は65cm、宝冠を載せ、法衣をまとい、智挙印を結んでいます。 -
本堂の前に梵鐘が置かれています。昭和29年3月彼岸とあります。
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この砂場は、四国八十八霊場をまわり、それぞれからお砂を持ち帰った夫妻が奉納したものです。
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この足形の下に砂を奉安したもので、四国霊場を一度にお参りしたのと同じ功徳があるそうです。
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弘法大師像。
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報恩殿。葬儀や法要、清めの席として利用できます。
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成野有月の句碑。
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鐘楼。
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阿彌陀堂。元禄12年(1699年)の記録によれば、「右大将源頼朝公之建立観音堂、火災を恐れて堂地を三十三間余移す也、この堂の本尊は上宮(聖徳)皇太子御正作の十一面観世音の立像也、16世秀弁の時、何日か化失して無くし、是非無く新仏彌陀如来を安置す、これより観音堂を呼ぶに彌陀堂と号すこと年久し」。
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池と宝庫。
国指定の重要文化財「絹本著色釈迦三尊及阿難迦葉像」や「絹本著色高野明神像・丹生明神像」をはじめ、数多くの宝物や文化財が収蔵されています。 -
越生七福神めぐりの恵比寿様が祀られています。
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墓地へ続く階段があります。
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階段の中ほどに、渋澤平九郎埋首之碑が建っています。昭和39年建立。
新政府軍は、自刃した渋澤平九郎の首を刎ね、今市村(現在の越生町)に晒しました。その後、今市村の横田佐平と島野喜兵衛が密かに首を法恩寺に埋葬しました。 -
庫裏。
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岩壁の前に建つ十三重塔。
この岩壁は宝永4年(1707年)から足掛け4年の歳月をかけ、檀家の衆が協力して山を切り開いたもので、幅三間、長さ三十一間とあります。高さは約4m。9千余人が作業に当たったものです。 -
参拝を終えて、渋澤平九郎の無念を忍びつつ長屋門から退出しました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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