2022/03/30 - 2022/03/30
33位(同エリア2134件中)
FUKUJIROさん
- FUKUJIROさんTOP
- 旅行記346冊
- クチコミ132件
- Q&A回答95件
- 383,213アクセス
- フォロワー273人
この旅行記スケジュールを元に
川越に住んで27年、喜多院門前通りが通勤路でした。朝に夕に、毎日毎日この道を通り、移り変わる喜多院の景色を見てきました。こんな日がずーっと続くと思い込んでいましたが、会社がこの夏に移転することとなり、もう少ししたら電車通勤をすることになりました。
喜多院(きたいん)の桜を見るのも26回目ですが、この季節にお参りした記憶がありません。今行かないでどうする?という思いから半休をもらい、一人でお花見をしました。
この歳になって思い出すのは、昔会社の大先輩が「桜を見るのはあと何回だろう」と呟いたことです。その大先輩は今でもご健在で、ときとき便りをもらいます。
そんな感傷に浸りながら、喜多院とその界隈を歩いて回りました。
川越喜多院の歴史は古く、まだこの近くまで入り江が迫っていた奈良時代(近くに貝塚もあります)に、仙芳仙人が法力により海水を押しのけた地に尊像を安置したと伝わります。
平安時代になり、淳和天皇の勅命により天長7年(830年)慈覚大師円仁により無量寿寺が創建されました。その後、永仁4年(1296年)伏見天皇が尊海僧正に再興させたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りしました。さらに後奈良天皇は「星野山」の勅額を下しました。
無量寿寺には、仏地院(中院)、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)と3つの支院がありましたが、慶長4年(1599年)に天海僧正(慈眼大師)が北院に入り、寺号を喜多院と改めました。喜多院の正式な名称は星野山 無量寿寺 喜多院といいます。
それまでは中院が無量寿寺の中心的な存在でしたが、天海僧正の権勢によって、その地位を喜多院に譲ることとなりました。
寛永15年(1638年)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そのとき3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山にあった別殿を川越に移築し、客殿、書院としました。この建物は現在も家光公誕生の間、春日局化粧の間として残っています。また、移築に際して新河岸川を利用して資材を運んだことから、新河岸川の整備が進み、江戸と川越を結ぶ舟運の発達に繋がりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
PR
-
喜多院に隣接して大きな明星駐車場があります。
1日500円と安いのですが、欠点は16:30で閉鎖することです。 -
私は、成田山川越別院にある駐車場を利用しました。最近タイムズ成田山川越別院という有料駐車場に変わり、平日なら24時間500円、24時間入出庫可能なのでとても利用しやすくなりました。
-
タイムズ成田山川越別院の真向かいには川越歴史博物館があります。
こちらは自由に写真を撮れるそうです。 -
成田山川越別院の入り口です。
コロナ禍以前は出入り自由で、以前から地元の方には好きなときに好きなだけ駐めてもいいよと有り難い言葉をいただいていたものの、正直駐めにくかったのです。 -
成田山さんの桜を見ながら、喜多院の裏手へ進みます。
-
てんぬまさんでお昼を食べます。
「てんぬま」は創業40年の天ぷら屋さんです。 -
喜多院の裏手に位置しています。店内は余り広くなく、コロナの感染対策で人数制限しているので、ちょっと入りにくいかも。カウンターが5席、座敷に1卓です。奥にも部屋があるようですが、入ったことがないので不明。
-
店舗前には駐車場もありますが、時間を少しずらして来た方が良いでしょう。
-
野菜天丼をいただきました。1,100円です。
人気のてんぬま天丼は2,000円。丼じゃないのもあります。 -
とても美味しかったです。ご飯も全部食べてしまいました。
-
法龍弁財天。喜多院へ行く途中にありました。
-
茶そば寿庵 喜多院店。川越名所「時の鐘」を模したお店です。
新富町本店は明治38年創業です。河越抹茶を使った茶そばが有名です。
茶そばがダメな方(私)は、かつて杉浦日向子さんが「川越で一番美味しい」と言った「はすみ」まで歩きましょう。約500mです。 -
成田山から喜多院に向かう参道です。
いつも賑やかですが、この道は北参道です。 -
これより喜多院の境内です。ここで写真を撮る人も多いです。
-
皆さん素通りしますが、この一角には幾つかの石碑が建っています。
-
参道の脇、少し高いところに、「歌塚」と彫られた石碑があり、周囲にいくつかの石碑が並んでいます。
-
裏には3つの歌が刻まれています。
「山松の 木間にみゆる 白雲の 動ぬ色や 棲なるらむ 」裕満(南院65代住職)
「何事も 疎くなる世に 秋の夜も 月のみ我を 見すてさりけり」白翁(南町の宮岡氏)
「鐘の声も 聞こえぬ山の おお雪に 朝とあくれは 日は暮れにけり」保美(川越の頭取名主安斎) -
寛政3年建立の松尾芭蕉の句碑です。
「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」
石柱は上部に丸い穴が開いており、月をかたどっているのか、それとも月を見るための穴でしょうか。
元来この碑は、龍池弁財天にあったそうです。 -
大きな岩には、ようく見ないと分かりませんが、東丁の句「秋風や 直なるゆえに 道さびし」と彫られています。
-
大正11年11月吉日建之とあるが、詳細はわかりません。
-
この石碑には、線描きで仏画が彫られています。
-
良くわかりませんが、地元の偉い方を讃えた石碑です。
-
参道の桜。
-
喜多院の境内みやげ品店。昭和47年に開業した公認のお店です。
お花見の時季だったので屋台がたくさん出ていました。 -
喜多院の境内マップがありました。これが一番わかりやすいので、喜多院に来る方はプリントすることをお薦めします。
-
多宝塔。埼玉県指定有形文化財です。
多宝塔は、川越大火の翌年、寛永16年(1639年)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。老朽化のため、大きく改造されて明治43年(1910年)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
昭和48年に解体修理を実施し、現在の場所に復元しました。 -
総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、下層は方形、上層は円形、その上に方形造りの屋根があり、江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。
-
多宝塔に鎮座する法界定印を結ぶ釈迦如来像と合掌する多宝如来像。
-
多宝塔と桜。
-
多宝塔と桜。
-
水琴窟という札がありましたが、水は出ていませんでした。
-
これは何だか分かりませんでした。
-
3代将軍徳川家光公誕生の間と春日局化粧の間の見学は有料です。
現在、江戸城紅葉山の遺構は皇居に残っていませんので、500円は安いです。 -
庫裏。江戸城紅葉山の別殿を移築したもので国指定重要文化財です。
渡り廊下で客殿と書院につながっている庫裏は、現在拝観の入口となっています。
桁行10間、梁間4間の母屋に、裄行東4間、西3間、梁間3間の食堂、それに玄関及び広間が付いています。 -
本堂に繋がる渡り廊下と庫裏を繋いでいる場所です。
-
建物内部は撮影禁止です。
-
内部を拝観します。建物内は撮影禁止ですが、縁側から外の景色は撮影できます。
客殿から望む「紅葉山庭園」は遠州流庭園で三つの縁石、丸・菱形・四角が見事に調和した整然とした庭で、家光公お手植えの枝垂れ桜(二代目)も見事です。 -
紅葉山庭園。
-
紅葉山庭園。
-
春日局が使用していた「化粧の間」のイラスト看板。
-
書院奥庭の「曲水の庭」は遠州流の枯山水書院式平庭で、関東好みの爽快さと品位が保たれています。
-
曲水の庭。
-
書院と客殿と庫裡の間にある石を配した坪庭。
-
客殿 (徳川家光公誕生の間)。国指定重要文化財。
家光公がここで生まれたということから、「徳川家光公 誕生の間」と呼ばれています。
桁行8間、梁間5間の入母屋作りで柿葺(こけらぶき)。12畳半2室、17畳半2室、10畳2室があります。 -
庫裏と慈恵堂(本堂)は渡り廊下で繋がっていて、そのまま慈恵堂に入ることができるのですが、それを知らずに戻ってしまう方が多くいます。
慈恵堂の中は撮影できませんが、落ち着いて参拝することができます。 -
慈恵堂(本堂)の北側面。県指定有形文化財。
比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀っている堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ばれます。 -
御神木。慈恵堂の北側面の手前には樹齢約350年の「天海僧正お手植えの槇」が植えられています。
-
御神木。「天台宗では神仏習合といい、神様と仏様を同じく礼拝しています」とありました。
-
軒先にあった鐘。正安二年の銅鐘ではありません。
-
喜多院の紋がある防火水桶。
-
多宝塔と桜。
-
境内に立つ案内表示。
-
手水。双龍の口からお水が出ています。
-
慈恵堂。県指定有形文化財です。
比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀っていて、喜多院の本堂としての役割を果たしています。
堂宇中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りしています。
喜多院は古くから「川越のお大師さま」と呼ばれていますが、喜多院のお大師さまは慈恵大師良源さまで、1月3日にお亡くなりになったところから元三大師(がんざんだいし)とも呼ばれています。 -
慈恵堂。桁行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。
川越大火の翌年、寛永16年(1639年)10月に再建されました。昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。 -
慈恵堂。通常は外から参拝しますが、書院と客殿を拝観すると、堂内で参拝できます。
-
本堂の扁額「潮音殿」。
昔、広くて静かなお堂の中で正座しているとザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたそうで、いつしか潮音殿と呼ばれたということです。
古来、喜多院の近くまで海が迫っていたことは、近くにある貝塚などからわかっており、何か関係があるのかも知れません。 -
大黒天。慈恵堂の隣に建ち小江戸川越七福神の一つになっています。昭和10年築。
大黒天は古代インドの闇黒の神で、仏教では戦闘神ですが、大国主命との混同から糧食財宝が授かる神として信仰されています。
「くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝む」と大福利益が得られるそうで、ただ拝んでも福が来るわけではないようです。 -
境内の桜。
-
山門脇の「五百羅漢」は、日本三大羅漢の一つに数えられています。
天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の約50年間に建立されました。 -
五百羅漢さま。有料エリアですが、書院と客殿の拝観と共通券になっています。
柵には、丸に二引き両の紋があります。 -
十大弟子、十六羅漢をはじめとする533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体の仏様が鎮座しています。
-
喜多院の五百羅漢さまは、川越北田島(喜多院から北東に3kmほどの地区)に住んでいた志誠(しじょう)という人物の発願と言われています。
志誠は約40体の羅漢製作に立ち会った後に亡くなり、修行僧慶厳と澄音祐賢の二人が志誠の遺志を継いで浄財を集めながら製作を続けました。川越はもとより、江戸、上州から野州にかけて多く人々が作り出した五百羅漢さまです。 -
五百羅漢の入り口です。いつも無人ですが、悪い事をしたら仏罰が当たりますので、皆さん半券を入れています。
-
五百羅漢。川越市指定史跡です。
羅漢とは阿羅漢の略称で、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者という意味です。 -
中央高座の大仏は釈迦如来、脇侍に文殊・普腎の両菩薩が鎮座しています。
-
中央高座の釈迦如来坐像。
-
向かって左の高座には阿弥陀如来がいます。
-
向かって右の高座には地蔵菩薩がいます。元来、右手には錫杖を持っていましたが、失われています。
-
お酒を酌み交わす羅漢さまに見えますが、本当は燈明用の油を分けているお姿とのことです。
-
こちらは二人で看板のようなものを見せています。
-
険しい顔で読書かな。
-
龍を背負っている羅漢さま。
-
子供連れでしょうか。
-
マッサージを受けている羅漢さま。
-
木魚を叩く羅漢さま。
-
523体の羅漢さま、その中には自分にそっくりな羅漢さまがいるらしい・・・。
自分に似ている羅漢さまがいるはずと思いじっくりと見て回りました。この垂れ目具合が私にそっくりです。 -
木遣塚と太子堂。五百羅漢の脇にあります。
木遣とは、建築用材に用いる大木を運ぶ時、大勢の力を合わせて引く歌のことです。
「川越鳶組合は 近隣鳶組合と計り ここ喜多院太子堂の聖地に木遣塚を建設し その由来を記し先祖の偉業を讃えると同時に鳶の伝統の保持と新時代に即応した業界の発展を祈念しようとするものである」との説明。 -
喜多院太子堂。
太子堂は弘化4年3月に末寺混合院境内地に創建され、明治以後廃寺にともない日枝神社境内に移し、更に明治42年3月には現在の多宝塔建立地に移築、そして昭和47年11月、川越鳶組合によりこの地に立派な六角太子堂として再興したものです。 -
慈眼堂古墳。
慈眼堂が建っている場所は、7世紀後半に造られたとみられている前方後円墳(慈眼堂古墳)です。喜多院創建の200年ほど前の古墳です。 -
古墳上に立つ慈眼堂(開山堂)は慈眼大師天海僧正を祀っています。川越大火前は、この場所に東照宮が建っていましたが、東照宮の移転により、大火から7年後の正保2年(1645年)に慈眼堂が建てられました。
-
慈眼堂。国指定重要文化財です。
慈眼大師天海僧正をお祀りしている御堂です。開山堂とも呼ばれています。
天海僧正は、寛永20年(1643年)10月2日上野寛永寺において入寂されました。正保2年(1645年)に徳川家光公の命によりこの御堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されました。
建物は、桁行3間、梁間3間の比較的小さな御堂で、屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造り、本瓦葺です。 -
慈眼堂のお厨子。この内に天海僧正の木像が安置されており、慈眼堂に附指定されて重用文化財となっています。
天海僧正は、家光公に対し「気はながく 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして こころひろかれ」と詠んだそうですが、家光公は48歳で亡くなりました。 -
慈眼堂の裏には喜多院歴代住職の墓所があります。墓所内には入ることはできません。
-
天海僧正墓碑。墓所の中央には「南天慈眼大師」と刻まれた大きな墓碑があります。
墓所内には、僧侶の墓塔として使われる無縫塔が立ち並んでいますが、その中に「暦応の古碑」と「延文の板碑」という二つの古い石板碑があります。写真左の板碑が延文の板碑、暦応の古碑は天海僧正墓碑の真後ろに隠れています。 -
少し斜めから写すと、右側に暦応の古碑(板碑)が見えました。
板碑は、鎌倉時代~室町時代前期に死者を供養するためにつくられたもので、関東には広く分布していますが、埼玉県は板碑の宝庫です。 -
暦応の古碑(りゃくおうのこひ)。埼玉県指定史跡です。
暦応5年(1342年)建立。緑泥片岩製、高さ232Cm 幅62Cmです。
上部には、板碑ならではの種子(梵字)が刻まれ、下部には、無量寿寺歴代の住職48名の法名が刻まれています。歴代の住職の名前を知る資料は、この板碑以外に存在しないことから、とても貴重なものです。 -
延文の板碑。川越市有形文化財です。
室町時代の延文3年(1358年)に建てられ、高さ276cm、最大幅69.4cm、厚さ9cmと川越市では最大の板碑です。
上部には阿弥の種子キリークを彫り、下部にはこの板碑を奉じたと推定される修行僧や尼の名前が刻まれています。 -
慈眼堂古墳から西を見ると、どろぼう橋が見えます。
-
慈眼堂古墳からから本堂の南側面。
-
慈眼堂古墳から東に見える建物は鐘楼門です。
もともと慈眼堂古墳には東照宮が建てられていましたので、その山門だったとする説もあります。
さて、古墳を降りましょう。 -
苦ぬき地蔵尊。慈恵堂の左側には、鮮やかな幟旗が立っています。
昭和32年(1957年)に慈恵堂の改装を記念して、個人の方が奉納して以来60年以上信仰されています。 -
苦ぬき地蔵尊は、全ての苦しみを抜き取ってくれるお地蔵さんです。
-
どろぼう橋。慈眼堂古墳から見えた橋です。本川越駅から歩いてくると、住宅街を抜けてどろぼう橋を渡るのが近道です。私も初詣のときは、混雑を避けるためにこの橋を渡っています。
昭和47年にコンクリート橋 になりました。今は空堀になっていますが、喜多院の堀に架かる橋です。 -
慈恵堂(本堂)の後方に回ると、石を積み上げた塀に囲まれた「松平大和守家廟所」があります。
明和4年(1767年)から慶応2年(1866年)まで川越藩主(城主)をつとめた7代の藩主のうち、川越で没した5代の墓所となっています。 -
松平大和守家は、徳川家康公の次男・結城秀康の子である直基を藩祖とする家系です。
-
門柱脇に石碑が無い亀跌があります。
-
墓所門。切妻造本瓦葺、扉は連子風窓を設け飾金具を施した桟唐戸。
川越藩主を務めた松平大和守家は前橋藩から転封となり、七代99年にわたって17万石を領していました。そして幕末は前橋藩に再度転封となっています。 -
喜多院には5代朝矩(ともなり)、6代直恒、7代直温(なおのぶ)、8代斉典、そして10代直候(なおよし)の墓所があります。9代典則は、明治になってから亡くなったため、谷中霊園に埋葬されました。
-
鐘楼門(内側)。慈眼堂古墳から見えていましたが、鐘楼門は往時の喜多院境内のほぼ中央にあり、真正面には東照宮がありました。
鐘楼門は、裄行3間、梁間2間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。
現在は閉じられていますが、下層正面中央に両開扉を設け、上層は中央に花頭窓を設け、両脇に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾っています。
建築年代は不詳ながら、国指定重要文化財です。 -
「鷹」の彫物で色鮮やかな極彩色仕上げです。
-
喜多院七不思議の故事によると、境内の鳩が鐘楼門の屋根で遊んでいると、彫刻だと思っていた鷹が羽を広げて襲ってきました。それ以来鳩は決して鐘楼門には近寄らなくなったといいます。
-
鐘楼門(外側)。国指定重要文化財です。
上層には、元禄15年(1702年)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。上層にある胴鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられています。
また、かつてはこの鐘楼門の向かい側に喜多院の本地堂がありました。
慶応4年(1868年)に勃発した上野戦争で上野・寛永寺の根本中堂(本堂)が焼失してしま、このため、寛永15年(1638年)に建てられた喜多院の本地堂を明治12年に寛永寺に移築したのです。寛永寺に行った際にはぜひ思い出してください。 -
上層には花頭窓を設け、その両脇に極彩色仕上げの雲竜の彫物を飾っています。江戸の名工・左甚五郎の作と言われています。
-
極彩色仕上げの雲竜の彫物。
-
さて、鐘楼門から外に出て、山門に回ってきました。
-
行幸啓記念碑。山門前には、天皇陛下・皇后陛下、スウェーデン国王陛下・王妃陛下の行幸啓記念碑があります。
平成19年(2007年)3月28日、喜多院をご訪問・ご視察された際の記念碑です。 -
天海大僧正の像。喜多院を中興した天海僧正は喜多院第27世住職。慈眼大師。徳川家康公の絶大な信頼を得、顧問的な存在となり、その後も秀忠公、家光公に仕えました。
慶長17年(1612年)、天海僧正の進言により家康公は無量寿寺の再興を認め、喜多院を関東天台宗の本山と定めて天海僧正の在住を招請しました。これを受け、以後、関東の天台宗寺院はすべて喜多院・天海僧正のもとに属することとなったのです。
108歳まで生きた天海大僧正は、寛永20年(1643年)10月2日、上野にある東叡山寛永寺にて入寂され、それから5年後に朝廷から「慈眼大師」の諡号を賜いました。
朝廷から賜る大師号としては7人目、史上最後の大師様となりました。 -
行幸啓記念碑。こちらは、昭和52年(1977年)に現上皇、上皇后両陛下が皇太子殿下・同妃殿下として行啓された時の記念碑です。
-
白山権現。喜多院山門前の小さなな築山に祀られています。
-
白山権現(白山神社)。慈覚大師円仁が喜多院を創健する際、白山神社を祀ったと伝えられています。喜多院と同じく天長7年(830年)の創健です。
-
喜多院山門。境内の東にあり、正門です。
-
山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門で、屋根は切妻造り本瓦葺き。
棟札を見ると寛永9年(1632年)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639年)の川越大火で焼失を免れた唯一最古の建造物です。国指定重要文化財。 -
山門から慈恵堂(本堂)へ向かう道には両側に屋台が出ていました。
こんな盛況は久しぶりのことです。 -
山門(内側)。
-
喜多院番所。埼玉県有形文化財です。
山門を入って右側に接続して建っている番所です。
お寺に何故か番所があります。喜多院は江戸幕府のご朱印地だったことから警備や見張りのために設置されたのではと推測されています。番所の遺構としては埼玉県内で唯一のものです。 -
喜多院門前通り。山門から東へ延びる道路です。私の通勤路でした。
左側に見える鳥居が日枝神社です。日枝神社に参拝してから、ここから右(南)へ進んで仙波東照宮や中院を訪ねることにしましょう。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
埼玉の旅その2
-
飯能市立博物館で飯能戦争を学び、能仁寺に詣でました
2021/10/02~
飯能
-
孫と一緒、あけぼの子どもの森公園と智光山公園をハシゴしました。
2021/10/24~
飯能
-
天覧山からの眺望と能仁寺の庭園
2021/11/13~
飯能
-
令和4年の初詣は、埼玉県で最初に県庁が置かれた岩槻で九寺参りをしました
2022/01/08~
岩槻
-
お茶好きな人も歴史好きな人も楽しめる入間市博物館(お茶の博物館)
2022/02/16~
狭山・入間
-
2月22日は「竹島の日」、私は所沢航空記念公園に行きました&アンリ・ファルマン機にMerci !
2022/02/22~
所沢
-
嫌味な住職に脅された都幾川山中の天台宗・慈光寺
2022/02/23~
小川・嵐山
-
入間市の街を歩いて120年前の西洋館を見学しました
2022/03/05~
狭山・入間
-
茶場碑を探して入間の社寺を参拝しました
2022/03/12~
狭山・入間
-
川越大師・喜多院の桜を愛でるとき
2022/03/30~
川越
-
川越大師・喜多院から中院界隈を歩きましょう
2022/03/30~
川越
-
高麗川の巾着田でお花見して、川越水上公園でもお花見しました
2022/04/02~
日高・鶴ヶ島・坂戸
-
羊山公園の芝桜と長瀞の宝登山をサクッと観光しました
2022/04/29~
秩父
-
日本一大きい板碑を展示する埼玉県立歴史と民俗の博物館を見学しました
2022/10/07~
大宮
-
「武蔵の小京都」小川町はファッションセンターしまむら発祥の地です
2022/10/26~
小川・嵐山
-
令和5年の初詣は、久喜市の愛宕神社と菖蒲神社に参拝しました
2023/01/04~
幸手・久喜・栗橋
-
花手水のお寺として親しまれている川越・最明寺を参拝しました
2023/03/04~
川越
-
故本田美奈子さんが愛した故郷朝霞市を歩き、出雲大社埼玉分院に参拝しました
2023/03/21~
新座・朝霞・和光・志木
-
孫と一緒に東武動物公園へ行きました。(桜の写真を追加しました)
2023/04/01~
蓮田・白岡
-
さいたまスーパーアリーナでディズニー・オン・アイスを見てきたよ
2023/09/17~
さいたま新都心
-
「翔んで埼玉2」公開、さいたま市立漫画会館でパタリロ王と記念撮影
2023/09/30~
大宮
-
4年ぶりに完全復活した川越まつりを観光
2023/10/14~
川越
-
千代田区の心法寺に参拝してから、さいたま新都心~大宮まで歩き、埼玉県最低山の浅間山に登頂しました
2023/10/23~
大宮
-
2024年の初詣は浦和の玉蔵院に参拝し、埼玉県知事公館の庭を見学しました
2024/01/03~
浦和
-
異業種交流会で鉄道博物館(大宮)を見学しました(1/2)
2024/02/15~
大宮
-
異業種交流会で鉄道博物館を見学しました(2/2)
2024/02/15~
大宮
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
川越(埼玉) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 埼玉の旅その2
0
117