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2024年から新しい一万円札の肖像に描かれることになった渋澤栄一翁の生誕地である埼玉県深谷市を訪問しました。<br />渋澤栄一翁は埼玉県生まれの最も偉大な方ではありますが、これまであまり馴染みがない方が多かったかも知れません。<br />「クレヨンしんちゃん(埼玉県春日部市)」に知名度で負けていた渋澤翁でしたが、今年2021年はNHK大河ドラマ「青天に衝け」の主人公として全国に知れ渡り、そして、新一万円札の顔になるのですから、地元深谷市をはじめ埼玉県全体が盛り上がっているのです(個人の感想です)。<br />午前中、県北に仕事で行った帰りに「論語の里」に立ち寄りました。<br />コロナ禍のため、帰宅後2週間以上経過し感染していないことを確認してから旅行記を公開しています。

埼玉県の偉人・渋澤栄一翁のふる里をめぐる(1)

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2021/04/03 - 2021/04/03

42位(同エリア365件中)

旅行記グループ 埼玉の旅

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FUKUJIRO

FUKUJIROさん

2024年から新しい一万円札の肖像に描かれることになった渋澤栄一翁の生誕地である埼玉県深谷市を訪問しました。
渋澤栄一翁は埼玉県生まれの最も偉大な方ではありますが、これまであまり馴染みがない方が多かったかも知れません。
「クレヨンしんちゃん(埼玉県春日部市)」に知名度で負けていた渋澤翁でしたが、今年2021年はNHK大河ドラマ「青天に衝け」の主人公として全国に知れ渡り、そして、新一万円札の顔になるのですから、地元深谷市をはじめ埼玉県全体が盛り上がっているのです(個人の感想です)。
午前中、県北に仕事で行った帰りに「論語の里」に立ち寄りました。
コロナ禍のため、帰宅後2週間以上経過し感染していないことを確認してから旅行記を公開しています。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩

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  • 関越自動車道で花園ICを目指しましたが、いつもの出口渋滞が発生していたため、寄居PAのスマートインターチェンジから出ました。<br />今年、令和3年3月28日からは上り線側の寄居PAでも出口・入口の利用ができるようになり、とても便利になりました(下り線のスマートICを利用)。

    関越自動車道で花園ICを目指しましたが、いつもの出口渋滞が発生していたため、寄居PAのスマートインターチェンジから出ました。
    今年、令和3年3月28日からは上り線側の寄居PAでも出口・入口の利用ができるようになり、とても便利になりました(下り線のスマートICを利用)。

  • 旧渋沢邸「中の家」の看板を発見。<br />深谷の市街地からだと車で15分くらいです。

    旧渋沢邸「中の家」の看板を発見。
    深谷の市街地からだと車で15分くらいです。

  • 旧渋沢邸「中の家」には、かなり大きな駐車場(無料)がありました。

    旧渋沢邸「中の家」には、かなり大きな駐車場(無料)がありました。

  • ちょっと汚れていますが、「ふっかちゃん」の消火栓を発見しました。<br />深谷市には何度も来てますが、初めて見ました。

    ちょっと汚れていますが、「ふっかちゃん」の消火栓を発見しました。
    深谷市には何度も来てますが、初めて見ました。

  • 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門。

    旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門。

  • 旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門。

    旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門。

  • 渋澤栄一翁は天保11年(1840年)にこの地で生まれました。

    渋澤栄一翁は天保11年(1840年)にこの地で生まれました。

  • 旧渋沢邸「中の家」。正門を入ると、正面が母屋、右に土蔵が建っています。建物には入れませんが、敷地内を無料で観覧できます。

    旧渋沢邸「中の家」。正門を入ると、正面が母屋、右に土蔵が建っています。建物には入れませんが、敷地内を無料で観覧できます。

  • 南向きに建つ旧渋沢邸「中の家」の母屋。<br />中の家を継いだ妹夫婦が明治28年に建てました。<br />屋根に「煙出し」と呼ばれる高窓を付けた養蚕特有の家屋です。

    南向きに建つ旧渋沢邸「中の家」の母屋。
    中の家を継いだ妹夫婦が明治28年に建てました。
    屋根に「煙出し」と呼ばれる高窓を付けた養蚕特有の家屋です。

  • 正門を入ると、すぐ左に渋澤栄一の青年像がありました。<br />台座には「Eiichi in Paris 1867」とあります。徳川慶喜の異母弟・徳川昭武に随行してパリ万国博覧会(慶応3年=1867年)に行った際の像です。

    正門を入ると、すぐ左に渋澤栄一の青年像がありました。
    台座には「Eiichi in Paris 1867」とあります。徳川慶喜の異母弟・徳川昭武に随行してパリ万国博覧会(慶応3年=1867年)に行った際の像です。

  • 母屋の室内。

    母屋の室内。

  • 母屋の室内。

    母屋の室内。

  • 母屋の室内。

    母屋の室内。

  • 80歳代の渋澤栄一翁をモデルにしたアンドロイドがいました。<br />ときどき頭を動かしていました。

    80歳代の渋澤栄一翁をモデルにしたアンドロイドがいました。
    ときどき頭を動かしていました。

  • 母屋。お庭側から。

    母屋。お庭側から。

  • 母屋北側の土蔵。栄一翁が生まれた頃の渋澤家は、養蚕、藍玉生産の他に質屋も営んでいました。

    母屋北側の土蔵。栄一翁が生まれた頃の渋澤家は、養蚕、藍玉生産の他に質屋も営んでいました。

  • 敷地北側の竹林。<br />青淵(せいえん)公園の桜が満開でした。

    敷地北側の竹林。
    青淵(せいえん)公園の桜が満開でした。

  • 竹林と桜。日本人で良かったと思う瞬間です。

    竹林と桜。日本人で良かったと思う瞬間です。

  • 青淵とは、渋澤翁の雅号です。

    青淵とは、渋澤翁の雅号です。

  • 敷地の東北側の建物。今も使われているようでした。

    敷地の東北側の建物。今も使われているようでした。

  • 渋沢平九郎追懐碑。<br />尾高惇忠翁の末弟で、渋澤栄一翁の養子となった渋沢平九郎が、慶応4年(1868年)の飯能戦争で敗死。養父である渋澤栄一翁によって書かれました。

    渋沢平九郎追懐碑。
    尾高惇忠翁の末弟で、渋澤栄一翁の養子となった渋沢平九郎が、慶応4年(1868年)の飯能戦争で敗死。養父である渋澤栄一翁によって書かれました。

  • 晩香渋沢翁招魂碑(右)。渋澤栄一翁の父、渋沢市郎右衛門の招魂碑。<br />先妣渋沢氏招魂碑(左)。母、渋沢えいの招魂碑。

    晩香渋沢翁招魂碑(右)。渋澤栄一翁の父、渋沢市郎右衛門の招魂碑。
    先妣渋沢氏招魂碑(左)。母、渋沢えいの招魂碑。

  • 土蔵。敷地東側に2棟の土蔵が建っています。

    土蔵。敷地東側に2棟の土蔵が建っています。

  • 土蔵内部。米倉として使われていたようです。

    土蔵内部。米倉として使われていたようです。

  • 東門を出ると、隣接して麺屋忠兵衛があります。<br />昼時を過ぎてましたが、かなり待ち時間が必要そうでした。

    東門を出ると、隣接して麺屋忠兵衛があります。
    昼時を過ぎてましたが、かなり待ち時間が必要そうでした。

  • 創業明治38年とあり、渋澤栄一翁が帰郷した際には立ち寄ったこともあるそうです。渋澤栄一翁は、好きな食べ物は(深谷の)煮ぼうとうと答えていました。

    創業明治38年とあり、渋澤栄一翁が帰郷した際には立ち寄ったこともあるそうです。渋澤栄一翁は、好きな食べ物は(深谷の)煮ぼうとうと答えていました。

  • 「中の家」の東門。

    「中の家」の東門。

  • 敷地南東に建つ副屋。

    敷地南東に建つ副屋。

  • 明治44年築の副屋。お店と呼ばれていたようで、藍玉の取引などに使われていたようです。

    明治44年築の副屋。お店と呼ばれていたようで、藍玉の取引などに使われていたようです。

  • 「中の家」の塀。和風の塀に煉瓦が使われていました。<br />ただし、深谷産の煉瓦かどうかは不明です。

    「中の家」の塀。和風の塀に煉瓦が使われていました。
    ただし、深谷産の煉瓦かどうかは不明です。

  • 稲荷社。「中の家」のすぐ西側に建っています。

    稲荷社。「中の家」のすぐ西側に建っています。

  • 稲荷社。

    稲荷社。

  • 龍の彫刻と稲荷社の扁額。

    龍の彫刻と稲荷社の扁額。

  • 稲荷社内部の御本殿。

    稲荷社内部の御本殿。

  • 「中の家」から5分ほどで行けますと聞いたので、歩いて諏訪神社に向かいます。

    「中の家」から5分ほどで行けますと聞いたので、歩いて諏訪神社に向かいます。

  • 左側の建物が気になったので、立ち寄りました。

    左側の建物が気になったので、立ち寄りました。

  • 薬師堂。

    薬師堂。

  • 薬師堂の脇には、水戸藩烈士弔魂碑。天狗党浪士2名が葬られた地で大正7年に渋沢栄一翁の撰・書により建立されました。

    薬師堂の脇には、水戸藩烈士弔魂碑。天狗党浪士2名が葬られた地で大正7年に渋沢栄一翁の撰・書により建立されました。

  • 弔魂碑の隣に建つ石地蔵。安政7年、(渋澤分家)東の家3代目の渋沢宗助らにより建立されました。

    弔魂碑の隣に建つ石地蔵。安政7年、(渋澤分家)東の家3代目の渋沢宗助らにより建立されました。

  • 薬師堂に隣接して石塔がありました。

    薬師堂に隣接して石塔がありました。

  • 薬師堂の南側には渋沢家代々の墓が並んでいました。<br />ただ、渋澤栄一翁の墓は台東区の谷中霊園にあります。

    薬師堂の南側には渋沢家代々の墓が並んでいました。
    ただ、渋澤栄一翁の墓は台東区の谷中霊園にあります。

  • 諏訪神社に近づきました。

    諏訪神社に近づきました。

  • 諏訪神社の社号碑と参道。

    諏訪神社の社号碑と参道。

  • 一の鳥居。

    一の鳥居。

  • 参道の右側に、渋澤親子威徳顕彰碑があります。<br />善光寺貫主の大僧正都築玄妙が題額「以和為貴」を記し、渋澤栄一翁の義弟で「中の家」を継いだ渋澤市郎とその子・元治と治太郎の功績が綴られています。

    参道の右側に、渋澤親子威徳顕彰碑があります。
    善光寺貫主の大僧正都築玄妙が題額「以和為貴」を記し、渋澤栄一翁の義弟で「中の家」を継いだ渋澤市郎とその子・元治と治太郎の功績が綴られています。

  • 石灯籠。

    石灯籠。

  • 石灯籠を過ぎて左手に、宮城遙拝所の碑が建っています。

    石灯籠を過ぎて左手に、宮城遙拝所の碑が建っています。

  • 二の鳥居。木製の鳥居です。

    二の鳥居。木製の鳥居です。

  • 二の鳥居に掲げられている扁額。

    二の鳥居に掲げられている扁額。

  • 参道の右に御神木。

    参道の右に御神木。

  • 諏訪神社。旧血洗島村の鎮守で、この拝殿は渋澤翁が寄進しました。<br />ご祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)です。

    諏訪神社。旧血洗島村の鎮守で、この拝殿は渋澤翁が寄進しました。
    ご祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)です。

  • 社殿の左に渋澤翁喜寿記念碑があります。

    社殿の左に渋澤翁喜寿記念碑があります。

  • 渋澤翁喜寿記念碑。

    渋澤翁喜寿記念碑。

  • お社があったような場所です。

    お社があったような場所です。

  • 社殿の裏に見えた大福院(真言宗智山派のお寺)の桜。

    社殿の裏に見えた大福院(真言宗智山派のお寺)の桜。

  • ご本殿。

    ご本殿。

  • 天満宮。社殿右にありました。

    天満宮。社殿右にありました。

  • 扁額が下に置いてありました。

    扁額が下に置いてありました。

  • 駐車場に戻り、トイレを利用しました。

    駐車場に戻り、トイレを利用しました。

  • トイレの中にも農具の展示がありました。<br />右は水田に水を汲み上げるための水車、左は糸車。

    トイレの中にも農具の展示がありました。
    右は水田に水を汲み上げるための水車、左は糸車。

  • これは繭毛羽取り機というものらしい。<br />トイレの中までしっかり展示しているので驚きました。

    これは繭毛羽取り機というものらしい。
    トイレの中までしっかり展示しているので驚きました。

  • 渋沢栄一記念館に移動しました。大きな駐車場があります。<br />青淵公園内を歩いても「中の家」から15分くらいです。

    渋沢栄一記念館に移動しました。大きな駐車場があります。
    青淵公園内を歩いても「中の家」から15分くらいです。

  • 渋沢栄一記念館。平成7年11月11日(渋澤翁の祥月命日)に開館しました。

    渋沢栄一記念館。平成7年11月11日(渋澤翁の祥月命日)に開館しました。

  • 遺墨や写真などの資料が展示されていますが、館内は撮影禁止でした。

    遺墨や写真などの資料が展示されていますが、館内は撮影禁止でした。

  • 撮影禁止に戸惑っていたら、コミュニティバスがやって来ました。<br />平日も含めて初めて見ました。

    撮影禁止に戸惑っていたら、コミュニティバスがやって来ました。
    平日も含めて初めて見ました。

  • 館内が撮影できないので、記念館の裏に回ります。

    館内が撮影できないので、記念館の裏に回ります。

  • 渋澤栄一翁の像です。

    渋澤栄一翁の像です。

  • 渋澤栄一翁の像です。

    渋澤栄一翁の像です。

  • 正面から、渋澤栄一翁の像です。かつては深谷駅前に立っていましたが、「顔と身体のバランスが悪い」とか「なんとなく北某国っぽい」とか批判が多く、記念館の開館に合わせて移されたそうです。

    正面から、渋澤栄一翁の像です。かつては深谷駅前に立っていましたが、「顔と身体のバランスが悪い」とか「なんとなく北某国っぽい」とか批判が多く、記念館の開館に合わせて移されたそうです。

  • お顔のアップ。調べてみたら、この銅像は大正2年(1913年)に「男爵渋沢青淵先生寿像」として作られましたが、昭和63年に深谷駅前広場に建立する際に大きさを変えています。その際に全体のバランスがおかしくなってしまったようです。

    お顔のアップ。調べてみたら、この銅像は大正2年(1913年)に「男爵渋沢青淵先生寿像」として作られましたが、昭和63年に深谷駅前広場に建立する際に大きさを変えています。その際に全体のバランスがおかしくなってしまったようです。

  • 記念館では、アンドロイドとして現代に甦った渋澤翁の講演を拝聴することができます。こちらの渋澤翁は70歳代のイメージになっているそうです。

    記念館では、アンドロイドとして現代に甦った渋澤翁の講演を拝聴することができます。こちらの渋澤翁は70歳代のイメージになっているそうです。

  • この日は「道徳経済合一説」についてお話しをいただきました。<br />渋澤翁の「論語と算盤」の中核となっているお話しです。

    この日は「道徳経済合一説」についてお話しをいただきました。
    渋澤翁の「論語と算盤」の中核となっているお話しです。

  • 最後まで写真を撮っていた私に手を振っていただきました。<br />表題の写真で手がブレているのはそのためです。<br />写真が多くなったので、2編に分けました。続きもどうぞご覧ください。<br />ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

    最後まで写真を撮っていた私に手を振っていただきました。
    表題の写真で手がブレているのはそのためです。
    写真が多くなったので、2編に分けました。続きもどうぞご覧ください。
    ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

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