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《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVI湖南~近江の歴史とあじさい寺編~<br /><br />コロナ禍で迎えた令和3(2021)年も気がつけば半年を過ぎようとしている。6月といと言えば軽々しく言えることではないが、恒例の〝沖縄慰霊の日〟訪問をする時でもある。平成27(2015)年の〝戦後75年沖縄戦全戦没者追悼式〟参列をきっかけに私の中の〝沖縄戦〟に火がついた。別に沖縄戦を知らなかった訳ではない。私の母方の祖父が沖縄戦で戦死しており、戦没者遺族であることは間違いのないことである。今は亡き母は昭和40年に船で返還前の沖縄に叔母と共に行っている。しかしその後行くことはなかった。叔母も行きたいとは言っているようだが実現はしていない。祖母は行きたいと思いながら亡くなった。<br /><br />孫は幼い頃から旅行好きであった。しかし若かりし頃は海外放浪の旅にハマっていた。中途半端に交通費がかかる沖縄は仕事で訪れた以外では、平成15(2005)年夏にB&#39;zライブが沖縄コンベンションセンターで行われた際に参戦したのが初めてである。以降不定期に数回訪れてはいるが、ただ平和の礎の祖父の名前の前で手を合わせるに過ぎなかった。<br /><br />そんな私に転機が来た。母が亡くなった後に元の生活に戻るには、旅行に行って日常の強制リセットをかけるしかないと考えた。しかし以前のように当日バスチケットを手配してそのまま何処かへと向かう等と言う行き当たりばったりの旅だと、残業すれば行く気すら失せてしまう。ならば飛行機を使って旅する〝計画的な旅行〟をするしかないと考え、その第一弾としてスカイマークを利用した石垣島3泊4日の旅に出た。勿論初めての沖縄離島であったが、石垣島がこんなに手軽に行けることを知り味をしめた私は、八重山諸島全島宿泊コンプリートを目標とし、平成26(2014)年7月の竹富島宿泊を以ってミッションをクリアした。<br /><br />その後平成27(2015)年には4月に宮古島、10月には西表島船浮を訪れたことに加えて6月に初めて〝沖縄慰霊の日〟の追悼式に参列している。追悼式に関心があったという訳ではなく、戦後75年という〝節目の数字〟に何か思うことがあっただけだと記憶している。またしかし平成26(2014)年に鹿屋・知覧と言った〝日本軍の戦争遺構〟を訪れたことから、私の中にあった第二次世界大戦に対する〝意識〟が変わってきた。そのようなことから翌平成28(2016)年には2・4・6月と三度戦争の遺構を訪ねるため沖縄を訪れた。それ以降毎年6月23日の沖縄慰霊の日を挟む前後の日程で沖縄本島を訪れるのが恒例となっていた。<br /><br />しかし昨今のコロナ禍の影響で思うようには訪沖できなくなってきた。昨年令和2(2020)年は緊急事態宣言の解除が6月17日となったことから、希望休を入れていた日であれば旅行手配が間に合わず断念せざるを得なかった。そんなことがあったので、2年ぶりとなる沖縄への旅立ちは例年以上の思い入れがあったことは事実である。しかしGWに沖縄への旅行者が集中しコロナ患者数が激増した。それに加え厄介なことに変異株の罹患も多く、重症者病床は使用率100%を超え非常事態宣言が発令されることとなった。<br /><br />都市部に於ける非常事態宣言は、コロナウィルスワクチン接種が進んだことによるものなのかは素人にはわからないが患者数の減少〝見通し〟がついたとして〝まん延防止等重点措置〟に6月20日付で移行した。しかし日本で唯一患者数の減少が見込めないとして沖縄県のみ緊急事態宣言が継続される。当初の非常事態宣言は6月20日なのは一緒であったが、2週間の延長ということで7月4日まで延長となった。これによりもし6月23日を沖縄で過ごすのであれば、緊急事態宣言下の沖縄へと向かうことが必須となってしまう。私自身コロナワクチンの接種はまだ先のことであり、丸腰で訪沖するかどうかの選択をせねばならない。基礎疾患はないとしても私のようなヘタレにコロナウィルスに罹患する可能性が高い場所へと向かえるような勇気もない。なにより沖縄に於けるコロナ禍は、内地の人間達の渡航によってもたらされたものであり人為的被害以外なにものでもない。人が集まる場所はあるにしても、地方都市のひとつでしかない沖縄は、我が街滋賀と同様受け身の立場で感染者が増加した〝被害者〟的な想いが根強くあると聞く。いくら滋賀県には緊急事態宣言が出されていない都道府県だからとて、沖縄県民からすれば〝内地の人間〟という一括りに当てはめられるだけのことであろう。恒例行事として訪沖したい気持ちはやまやまなのだが、常宿として結構な回数お世話になっているところへ私自身がコロナウィルスの〝キャリア〟になるかも知れない状況下では、迷惑になるとの想いが頭の中から離れなかった。結局6月17日の段階で沖縄県の緊急事態宣言は延長が決定した。元々この時期の旅行には特例のキャンセル規定を設けている航空会社や旅行会社が多く、無手数料でキャンセルが可能となった日に泣く泣く旅行そのものを取り止めることになった。<br /><br />シフト休の場合暦に関係ない休みになるのは当たり前だが、さすがに5連休となると事前に言ったからとて取得が不可能な場合がある。勿論希望は4月中に言ってはいたが、連休を取らせるけれど〝行けなかったから日を改めるはナシね!〟と釘を刺されていた。それは仕方がないが、あらかたの予想通り令和3年度の沖縄行きはおしゃかとなった。そんな経緯で予定のない5連休を取ることになった。さあどのような日々を過ごしたのだろうか…。<br /><br />令和3(2021)年6月22日火曜日<br />6月21~25日まで〝予定のない連休〟を取ることになった。ただ守山勤務時と違い、昼からの出勤で21:00上がりという午後シフトを7ヵ月も続けていると午前中には全くと言って良い程テンションが上がらない。そんな諸事情から敢えて連休初日は普通の休日の如く目覚めるまで寝てから計画を立てることに充てた。行動範囲は基本滋賀県内にはしておくが、この時期の花と言えばやはり〝紫陽花〟となるため、名所を検索すると先日訪れたもりやま芦刈園を除けば湖東・湖北地域になってしまうことを知る。ただ京都でも割と近い距離に三室戸寺や藤森神社があり、行先を絞るのに苦慮する。結局今回の旅のタイトルは〝石仏・石碑・紫陽花の花〟の三本柱に決めただけで、細かい訪問地は決めないことにした。翌22日の昼頃から行動開始し、守山へ髪を切りに行ってからいざ出発にする。<br /><br />我が家のまわりでエンジンをかけたまま駐車していると人の目が辛い。なので一服とナビ設定のためにコンビニへと向かってから出て行くのがいつものこととなっている。ローソン大津大平一丁目店をスタートし守山の駅前を経由する。郵便局で軍資金を調達し先ず向かった先は湖南市三雲の臨済宗妙心寺派の雲照山妙感寺であった。田舎のお寺さんといった感じではあるが、歴史ある建物があることでも知られている。本堂は国指定重要文化財、ご本尊の〝千手観音菩薩坐像〟は湖南市指定文化財、滋賀県指定文化財の妙感寺五輪塔、そして方丈は再建時に後水尾天皇中宮東福門院の水口御殿を下賜されたものを移築したものとなっている。五輪塔は妙感寺の開山開基と言われる微妙大師の墓であるが、建武の三忠臣の一人である万里小路藤房(藤原藤房)卿のものであることは地元では有名な話のようだ。また方丈庭園は青々とした竹林を借景とした静寂な佇まいの石庭と書かれてあったが、この石庭の整備費用は〝MAKUAKEクラウドファンディング〟で集められたことでも知られている。妙感寺のHPにその整備が終わった際にはその〝景色〟を乗せる旨が書かれているが、今のところは更新されてはおらず、実物を見ても整備中なのかどうかもわからない。妙感寺は6年後の令和9(2027)年に開山微妙大師の六五〇年遠忌を控えており、平成時代より寺域の整備をしていると書かれてあった。微妙大師塔所の整備は既に終わっているようで、ひとつひとつ整備を続け大師の六五〇遠忌にすべてが完成すると考えるのが正しいのかも知れない。<br /><br />その方丈庭園の借景のひとつである〝不老の滝〟。不老と書いて〝おいず〟と読むのがまた素晴らしいが、その横を〝三雲城址ハイキングコース〟なる山道が走っている。知る人ぞ知るこの山道には湖南市指定文化財の〝摩崖地蔵菩薩像〟が巨岩に彫られているのである。登山道というレベルではないが足元は決して良いとは言えない山道を歩くこと数分でたどり着くことができる。ただその途中に〝防獣ネット〟が張られており、人間と動物の住居エリアを跨いだ移動であることを思い知らされる。この摩崖地蔵菩薩像は鎌倉時代後期の作と言われており、このあたりにも山岳宗教の修行場があったのではないかと言われている。巨石の真ん中に地蔵尊磨崖佛、そして両脇には2躰の脇侍が彫られている。説明板によると〝地蔵経にいう掌善、掌悪の二童子であろうか〟とあり、この形式を〝近江形式という〟と書かれてあった。この湖南エリアには歴史ある摩崖仏が多く残っており、そのすべてが十人十色の特徴を持っていることが興味深い。地蔵尊と言えば道祖神的な意味合いを感じるが、ことがこの場所からは結び付かないように思う。三雲城下を守っていたのかも知れないが、そんな色々な妄想を膨らませるような穏やかなお顔の地蔵様であった。摩崖仏がある場所には大抵巨石が転がっている。その岩には何か人為的に彫ったようなdéjà vuを感じるのは私だけであろうか。<br /><br />そんな思いを持ちつつ登って来た山道を下りて行く。カメラやスマホをバックに入れ、落とさないようにしてから防獣ネットを潜る。人間が扱うことに労せず獣は通り過ぎることができないとは言われているが、私が不器用過ぎるのであろうか…、行きも帰りもネットを潜らねばならなかった…。妙感寺迄は数百mしか離れてはいないが、その間は昼間でも鬱蒼としている道なので少なからず恐怖心を覚えこともあった。そのため視界が広がった場所で最初に目にする方丈庭園が安心感をもたらせてくれる不思議な感覚を覚える場所でもあった。<br /><br />丁度下山してきたときに住職さんとお会いした。そのことからそろそろ閉門時間だということを知る。本堂は扉が閉められており、千手観音像は拝めないが光の加減が変わったおかげで境内の〝池〟と組み合わせた良い写真が撮れた。最後に方丈を訪れるがここは従来開放されておらず、外観を楽しむのみとなっている。後水尾院天皇中宮東福門院御座之間と書かれた札が掛かっている建物は倉庫のようにも見えなくはない。この水口御殿とは徳川和子(後の東福門院)が後水尾天皇に入内した元和6(1620)年に築かれたものとされており、建立時期には諸説あるが上洛時に徳川秀忠・家光が休憩や宿泊に利用したとの記録があることから、徳川幕府が成立した慶長年間に建立され、元和6年に改修をされたという説が濃厚である。御殿は寛永11(1634)年に水口城が築かれた後に撤去されたとしているが、実際には城と御殿は同じ場所だった訳ではなく、水口御殿跡は水口藩初代藩主となる加藤明友が天和2(1682)年に入部するまで幕府直轄地として管理されていた。妙感寺に於いては本堂と同時期の弘治元(1555)年に大師像を安置した霊殿(開山堂)として再建されてはいるが、織田信長の兵火によって天正年間に焼失している。寛文元(1661)年臨済宗の高僧であった愚堂東寔(ぐどうとうしょく)が再建にするにあたり、天皇家や徳川将軍家から帰依を受けていたことから水口御殿を下賜されることとなったようだ。<br /><br />建物は歴史あるものだが、やはり方丈というものは〝草庵〟の類だということを知る。そして建物前で自撮りを行い、近隣の目的地を探して車を走らせることにした。旧国道1号線の滋賀県道4号線を杣川沿いに南下し矢川橋を渡る。住所は甲賀市甲南町深川市場、甲賀開拓の祖神と言われる矢川神社の近くである。天保13(1842)年に起こった近江天保一揆後150年を迎える平成3(1991)年10月に、命を落とした一揆参加者のことを〝緻密な計画と確固たる信念のもと、悲壮な決意を持って決起した民衆の義挙を永く後世に伝え、郷土の永遠の繁栄を願う〟という趣旨の元で建立された所謂〝天保一揆の碑〟のひとつである。道路脇に車が一台停められるくらいのスペースがあるが、どうも一揆参加者の心にあったであろう〝悲壮感〟が伝わってこないのである。メモリアルならば〝記念碑〟か?と納得のいかないまま交差点角にあり、落ち着いて書いてあることも熟読できないまま次の目的地へと車を走らせることにする。<br /><br />三重県境に近い甲賀市甲賀町滝。無住寺である浄土宗元龍寺がある。近隣の檀家さん達によって管理運営されているようだが、webに掲載されているにも拘らず知名度は低いようである。ここへやって来たのは紫陽花の〝隠れた名所〟のキャッチフレーズに惹かれたためである。ドライブがてらの場合遠方から順に立ち寄って行くのがセオリーだが、閉門時間を加味した結果このようになってしまった。<br /><br />この元龍寺だが滝集落の真ん中に位置しており、ナビ通りに進むとかなり細い道を案内される。時間も時間だったので無理はせず迂回路を探した結果看板を見つけたのであった。写真で見る限り〝田舎の一軒家〟としかわからないが、やはり間違いではなかった(笑)。ただここで大失敗をしでかしてしまう。全景を撮影した後に敷地内に車を停めるのだが、砂利や土のためにタイヤがスリップしてしまう。本来ならばゆっくり前進してバックすれば良いのだが、横着してニュートラルでエンジン回転を上げた後バックギアに変えた勢いで脱出しようとした。目論見は成功したが今度は勢いが付き過ぎてしまい、前輪を側溝にはめてしまうという大失態をしてしまった。勢いがついた分まともに右前輪は宙ぶらりんになっていた。色々試すが脱出出来ずにいると、近所の奥さんが助けに来てくれた。聞き慣れない高いエンジン音が聞こえたからということであった。取り敢えずタイヤに当たるように持って来て頂いた丸太を突っ込むが上手くいかない上に、作業中に背中に電気が走り息が止まる事態になる。手伝って頂いてる手前、背中の痛みを隠しながらなんとか脱出に成功する。せっかく来て頂いたから楽しんで貰いたいとの言葉が暖かく私には感じられた。<br /><br />一悶着あったが無事車を停めて、お寺の裏山へと向かうことにする。無住寺である元龍寺は店の旅行スタッフは勿論地元の方でも知らないという。私自身はwebに掲載されていた紫陽花の〝隠れた名所〟のキャッチコピーに惹かれてやって来た。隠れた名所は正しくその通りである。多分手入れは近隣の檀家さんがしているだろうものだが、やはり見頃は過ぎているようで花が〝満開〟までは行かなかった。確かに見学にお金を徴収しているような施設のように多種多様な紫陽花の花が植えられてられている訳ではない。しかし斜面に咲く花が満開であればさぞ立派なものになることは容易に想像がつく。ガクアジサイ・ヤマアジサイと言ったありふれた種類ではあるが、無造作にではなく隙間を空けて植えられていることから、借景として元龍寺や甲賀の街並みを画像の中に組み込むことが出来る。見頃を過ぎた現在ではこれ以上のものは期待できないが、是非来年コロナの心配をせずに再訪し、隠れた名所とはこのようなものだと拡散できればと思うのであった。勿論車の運転には最新の注意を払い、ご近所さんの手を煩わせないようにすることも忘れないようにして。<br /><br />気がつけば19:00前、まだ夜の帳が下りてはいなかったことから帰路につきながらも立ち寄れるところをプロットする。甲賀市甲南町深川と言えば天保義民メモリアルパークの近くでもあるがだいぶ遠回りをしてやって来た場所は〝天保義民別れの一本松跡〟である。メモリアルパークからだと1km程の距離だが、時間の柵がない場所として先に元龍寺へと立ち寄ったので約20km余分に走ることとなった。<br /><br />天保義民別れの一本松跡は一揆後の取り調べのために深川村の庄屋であった田中安右衛門が水口藩の屯所へと護送される道中、この地迄肉親や身寄、村人らが後を追ってついて来ていたが、これ以上の後追いは許さないと言い安右衛門を裸足にさせて連れて行ったという。草履のみが残された場所に伏して号泣し、見送ったとされる場所である。安右衛門はその後江戸送りとなるが、道中桑名宿に於いて落命し二度と故郷の地を踏むことは無かったという。<br /><br />現在の一本松は二代目で〝天保義民別れの一本松跡〟と言われる由来を正に今に伝えている。伊賀街道は伊賀から水口へと向かう主要街道のひとつであり、深川村から水口への向かうには必ず通る道である。その後江戸送りとなった際には東海道を通り、石部宿に於いて唐丸籠に乗せられた11人の義民は家族・近親者に加え近郷近在の人が集まり最後の面会を哀願したという。最初は認められなかったようであるが、最後に僅かな時間だが許されている。勿論拷問によって風貌が変わり果てた義民達をすぐに誰かを判断できる者もいなかったという。<br /><br />義民所縁の場所として残された〝天保義民別れの一本松跡〟はそんな悲しき歴史を現在に伝える旧跡のひとつである。辺りが真っ暗になった中で道路沿いにぽつんとあることは、気づかずに通り過ぎることも多いと聞く。幸いにも私は気付くことができ手を合わせることが出来た。天保義民所縁の場所として、その歴史的背景を含めた史実を知るために多くの方に訪れて頂きたい場所だと私には思える。<br /><br />天保義民別れの一本松跡を後にして後一箇所立ち寄ることにする。甲賀市水口町北脇、柏木神社からすぐの場所にある姫塚である。関ヶ原の戦いで西軍に属した最後の水口岡山城主長束正家、南宮山に陣取った毛利秀元や長宗我部盛親、安国寺恵瓊らと同様東軍に内通した吉川広家により本戦には参加できず、西軍敗退の報を知るや否や島津軍の撤退をサポートしつつ、水口岡山城を目指していた。城を目前として山岡景友軍に攻められ、弟玄春が捕らえられて処刑される。正家は蒲生氏郷配下から引き取った松田秀宣が殿を務めて時間を稼いだ間に城へと入るが、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉らによって所領安堵と城兵救助の条件をのみ、城から出たところを欺かれて捕縛される。この際城内にいた重臣達も池田勢に捕縛されている。捕らえられた長家と弟長吉と共に近江日野まで逃亡するが、そこで池田勢の追手に捕まり兄弟揃って自害して果てている。この姫塚の主人は徳川四天王の一人本多忠勝の妹であり、長束正家の正妻であった栄子姫である。姫塚の由緒書には身重だった栄子姫は正家自害後に城を脱出し、城下北脇の正家旧臣山本浅右衛門の家に匿われて男子を出産するが、産後の肥立ちが悪く間もなく亡くなったとある。栄子姫を憐れんだ浅右衛門は秘密裏にその遺体を葬り、一個の石を置いて標識としその墓を慰めたとされている。産まれた遺児は浅右衛門に養育され仏道に入り寛永2(1625)年に水口大徳寺の三世還誉上人となった。還誉上人は亡き父母の菩提を弔うために北脇の地にあった地蔵堂を改築し栄照寺と号して長束家の菩提寺としている。また現在地に立つ供養の〝姫塚〟は明治26(1893)年に京都在住一族の花輪氏が建立したものであると書かれていた。<br /><br />水口大徳寺の末寺とした栄照寺は浄土宗自然山栄照寺として現存している。しかし残念ながら長塚家の菩提寺という表記は見当たらなかった。また明治期に一族の花輪某により現在の姫塚が建立されたとあるが、長束正家の長男は関ヶ原の戦い直後に陸奥国大湯村に逃れて土着後に帰農し、生き延びたと言われている。その後子孫が大湯村から花輪へと拠点を移し、南部藩で商人として財を成したようだ。江戸時代末期には南部家に財産接収されるが、その際主人の弟である佐庄伝右エ門なる人物が出奔し、諸国を放浪する。明治維新に対し官軍への武器提供も行った陰の立役者であるが、箱館戦争の終結で幕府の抵抗が終わる頃に京都へと入っており名を花輪正摸(まさのり)と改める。どうやらこの人物が塚の建立者であるようだ。<br /><br />悲劇の姫君である栄子姫であるが、ここに記載されている内容はあくまで差障りのないものになっているように見える。水口岡山城が開城された折攻め込んだ池田勢によって城内の金銀財宝は略奪された。また同時に城下の略奪も起こり阿鼻叫喚の地獄絵図となったことが記録されている。この際に栄子姫も連れ出されて辱めを受け、その姿を見た正家旧臣の山本浅右衛門が姫を庇い家に匿った。その後無事男児を出産するも辱めを受けた精神的なショックもあり、産後の肥立ちが悪く間もなく亡くなったということが顛末のようである。この経緯を知った池田家当主池田輝政は、弟長吉が狼藉を働いた栄子姫が本多忠勝の妹であることを知り真っ青になったという。譜代大名であり家康の腹心である本多忠勝の妹を・・・となればお株上昇中と言えど所詮外様である池田氏がどうなるか?弟長吉がちやほやされている中で必死に証拠隠滅を図ったようだ。そんな努力の結果忠勝が栄子姫のことを知った時には全ての証拠が消されていたと言われている。この辺りの話は創作説もあるようだが、栄子姫を匿い姫の遺児を育てた旧臣山本浅右衛門に対しても〝口止め料〟が支払われていると言われている。その後水口が幕府の直轄地になったからかも知れないが、山本浅右衛門が家臣となった記録はない。おそらくは武家としてではなく一町民として正家・栄子姫の遺児を育てるには十分な財力を持ちながら余生を送ったものと考える。成人した遺児は僧となって、両親の菩提を弔って生きたのであろう。<br /><br />一方で栄子姫への辱めを揉み消し、戦功のみが評価されて播磨姫路藩初代藩主として加増転封となった池田輝政をはじめとする一族総出世を成し遂げた池田氏ではあったが、騙し打ちにした長束正家と乱暴を働いた栄子姫の〝祟り〟に襲われたという。輝政は中風(脳血管障害)になり、一旦は回復するも翌年には死去している。長束正家夫妻を死に至らしめた当事者池田長吉も輝政同様鳥取藩初代藩主として加増転封されるが、死因不詳で輝政と同時期に死去している。他にも池田氏一族では長生きできない系譜が続いたとされている。<br /><br />偶然が続いただけなのかも知れないが、池田氏には他にも〝呪い〟や〝祟り〟といったものが代々伝承されていたとされ、祈祷等が盛んに行われていたことが記述に残されている。ただ明治維新迄早死にすることはあっても血筋としては存続している。途中で滅びているならば〝祟られた一族〟だと言われるかも知れないが、やはり死する様が悲惨だった長束正家と栄子姫の判官贔屓であるのが事実であろう。<br /><br />凄惨な死を迎えた栄子姫であるため、供養塔である姫塚には〝安らかに〟という気持ちを込めて手を合わせたが、塚が建立されている場所というのが工場が隣接する場所であることが残念でならない。日暮れ後に訪れたこともあってから騒音はなかったが、姫塚の写真には必ず工場の資材が写り込んでしまう。碑が建立された明治時代にはなかったのかも知れないが、そのような場所に建立されているのを目の当たりにした私には、なんとかならなかったのかと残念な気持ちが残ることとなった。<br /><br />姫塚前は狭い道路であるために車を駐車すると離合が困難になるために、訪問時には隣接の柏木公園駐車場を利用のことと注意書きがあったのでそれに従った。この柏木神社は飛鳥時代の創建であるが、天正年間に織田信長が当地攻めた際に宝物や古文書は焼失し、楼門は安土の摠見寺に据えられた。そして現在の楼門は日野町の金剛定寺の寺門が据えられたものである。寛永年間に水口城が築かれた折には幕府直轄で城代を置いて管理していたが、その時代から城代が守護神として当社を崇めていたとされている。その後加藤嘉明の孫にあたる加藤明友が2万石の知行で入城し水口藩が成立すると引き継がれ、歴代城主の祈願所として崇拝を受け続けている。明治4(1871)年に村社柏木神社となった後に郷社を経て昭和20(1945)年に県社に加列され現在に至っている。近世に於いては柏木庄十六ヶ村の総社となり、広い範囲で氏子が居たとされている。境内には忠魂碑が建立されており、そのことからも広範囲に於いて長きに渡り鎮守様であり続けていることが理解できよう。残念ながら陽もどっぷり暮れたこの時間に参拝しても見逃してしまうものが多いと思い、次回訪問地と記録して車へと戻ることにする。<br /><br />そう言えば明日の朝用にパンを買ってくるようにと言われていたことを思い出す。栗東水口道路から甲西中央橋を渡り旧国道1号線の滋賀県道4号線を走ること数分でトライアル湖南店に到着する。税込表示のディスカウントストアは大抵のものが手に入り使い勝手が良い。元来の私の行動範囲内には萱野浦にある滋賀大津店だけであったが、前回の安土へと行った際に立ち寄った近江八幡店、郵便局巡りの帰りに立ち寄る彦根店と今回の湖南店以外だと彦根松原店だけを利用していないだけだ。ゆっくり店内を散策したいがもう21:00になっており、所用を済ませると出発する。<br /><br />このまま直帰になるはずだったが、以前から気になっていたにも関わらず訪れることのなかった道の駅こんぜの里りっとうを経由して帰ろうとナビ設定をする。私の感覚では回り道にはならない筈だったが、実際に走ってみるとかなり余分に走っていることに気づく。なぜ道の駅こんぜの里りっとうが気になるかと言えば、栗東ならば守山通勤時に立ち寄れたはずという単純な理由だった。おまけにこの界隈の道の駅で未訪問だったこともひとつある。行ってみてわかったのは、隣接する滋賀日産リーフの森というものが昭和50(1975)年の全国植樹祭跡地だったという事実。ならば幼き頃に来たことがあることを思い出し、夜間には休憩施設にもなれないような暗い場所に長居は無用ということで早々に立ち去った。<br /><br />次こそは自宅と思いきやナビに表示された文字に反応して車を停めた。大野神社はあの〝嵐〟ファンの聖地として一躍有名になった神社である。御祭神が菅原道真公とは意外であったが、真っ暗の中ではその良さすらわからない。まあ場所がわかったので次回陽があるうちに訪れる場所と自分の中で勝手に取り決め、鳥居と社号碑をカメラに収めて出発する。<br /><br />滋賀県道113・2号線を進み京滋バイパス側道経由で石山寺を目指す。この時間に参拝もへったくれもないのであるが、本日撮影したフィルム発送をするために荷物を作り発送するためである。そして石山寺郵便局前ポストに投函して終了だ。そしていつも〝洗車だけ〟しているDr.Driveセルフ瀬田西店に立ち寄りやはり洗車だけをした後、moveクンに食事をさせる。帰り着いたのは23:00頃であった。<br /><br />側溝にハマってしまうという大失態をしてしまったが、その他は無難にまとめて無事帰宅できた。ただ背中を痛めたことで5連休は今日だけの行動になってしまい残り4日間はベッドの上での生活となってしまった。残念だがこういうこともあると言う教訓を今後に活かせれば良いのだろうと割り切った私であった。<br /><br />   《終わり》

《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVI湖南~近江の歴史とあじさい寺編~

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2021/06/22 - 2021/06/22

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《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVI湖南~近江の歴史とあじさい寺編~

コロナ禍で迎えた令和3(2021)年も気がつけば半年を過ぎようとしている。6月といと言えば軽々しく言えることではないが、恒例の〝沖縄慰霊の日〟訪問をする時でもある。平成27(2015)年の〝戦後75年沖縄戦全戦没者追悼式〟参列をきっかけに私の中の〝沖縄戦〟に火がついた。別に沖縄戦を知らなかった訳ではない。私の母方の祖父が沖縄戦で戦死しており、戦没者遺族であることは間違いのないことである。今は亡き母は昭和40年に船で返還前の沖縄に叔母と共に行っている。しかしその後行くことはなかった。叔母も行きたいとは言っているようだが実現はしていない。祖母は行きたいと思いながら亡くなった。

孫は幼い頃から旅行好きであった。しかし若かりし頃は海外放浪の旅にハマっていた。中途半端に交通費がかかる沖縄は仕事で訪れた以外では、平成15(2005)年夏にB'zライブが沖縄コンベンションセンターで行われた際に参戦したのが初めてである。以降不定期に数回訪れてはいるが、ただ平和の礎の祖父の名前の前で手を合わせるに過ぎなかった。

そんな私に転機が来た。母が亡くなった後に元の生活に戻るには、旅行に行って日常の強制リセットをかけるしかないと考えた。しかし以前のように当日バスチケットを手配してそのまま何処かへと向かう等と言う行き当たりばったりの旅だと、残業すれば行く気すら失せてしまう。ならば飛行機を使って旅する〝計画的な旅行〟をするしかないと考え、その第一弾としてスカイマークを利用した石垣島3泊4日の旅に出た。勿論初めての沖縄離島であったが、石垣島がこんなに手軽に行けることを知り味をしめた私は、八重山諸島全島宿泊コンプリートを目標とし、平成26(2014)年7月の竹富島宿泊を以ってミッションをクリアした。

その後平成27(2015)年には4月に宮古島、10月には西表島船浮を訪れたことに加えて6月に初めて〝沖縄慰霊の日〟の追悼式に参列している。追悼式に関心があったという訳ではなく、戦後75年という〝節目の数字〟に何か思うことがあっただけだと記憶している。またしかし平成26(2014)年に鹿屋・知覧と言った〝日本軍の戦争遺構〟を訪れたことから、私の中にあった第二次世界大戦に対する〝意識〟が変わってきた。そのようなことから翌平成28(2016)年には2・4・6月と三度戦争の遺構を訪ねるため沖縄を訪れた。それ以降毎年6月23日の沖縄慰霊の日を挟む前後の日程で沖縄本島を訪れるのが恒例となっていた。

しかし昨今のコロナ禍の影響で思うようには訪沖できなくなってきた。昨年令和2(2020)年は緊急事態宣言の解除が6月17日となったことから、希望休を入れていた日であれば旅行手配が間に合わず断念せざるを得なかった。そんなことがあったので、2年ぶりとなる沖縄への旅立ちは例年以上の思い入れがあったことは事実である。しかしGWに沖縄への旅行者が集中しコロナ患者数が激増した。それに加え厄介なことに変異株の罹患も多く、重症者病床は使用率100%を超え非常事態宣言が発令されることとなった。

都市部に於ける非常事態宣言は、コロナウィルスワクチン接種が進んだことによるものなのかは素人にはわからないが患者数の減少〝見通し〟がついたとして〝まん延防止等重点措置〟に6月20日付で移行した。しかし日本で唯一患者数の減少が見込めないとして沖縄県のみ緊急事態宣言が継続される。当初の非常事態宣言は6月20日なのは一緒であったが、2週間の延長ということで7月4日まで延長となった。これによりもし6月23日を沖縄で過ごすのであれば、緊急事態宣言下の沖縄へと向かうことが必須となってしまう。私自身コロナワクチンの接種はまだ先のことであり、丸腰で訪沖するかどうかの選択をせねばならない。基礎疾患はないとしても私のようなヘタレにコロナウィルスに罹患する可能性が高い場所へと向かえるような勇気もない。なにより沖縄に於けるコロナ禍は、内地の人間達の渡航によってもたらされたものであり人為的被害以外なにものでもない。人が集まる場所はあるにしても、地方都市のひとつでしかない沖縄は、我が街滋賀と同様受け身の立場で感染者が増加した〝被害者〟的な想いが根強くあると聞く。いくら滋賀県には緊急事態宣言が出されていない都道府県だからとて、沖縄県民からすれば〝内地の人間〟という一括りに当てはめられるだけのことであろう。恒例行事として訪沖したい気持ちはやまやまなのだが、常宿として結構な回数お世話になっているところへ私自身がコロナウィルスの〝キャリア〟になるかも知れない状況下では、迷惑になるとの想いが頭の中から離れなかった。結局6月17日の段階で沖縄県の緊急事態宣言は延長が決定した。元々この時期の旅行には特例のキャンセル規定を設けている航空会社や旅行会社が多く、無手数料でキャンセルが可能となった日に泣く泣く旅行そのものを取り止めることになった。

シフト休の場合暦に関係ない休みになるのは当たり前だが、さすがに5連休となると事前に言ったからとて取得が不可能な場合がある。勿論希望は4月中に言ってはいたが、連休を取らせるけれど〝行けなかったから日を改めるはナシね!〟と釘を刺されていた。それは仕方がないが、あらかたの予想通り令和3年度の沖縄行きはおしゃかとなった。そんな経緯で予定のない5連休を取ることになった。さあどのような日々を過ごしたのだろうか…。

令和3(2021)年6月22日火曜日
6月21~25日まで〝予定のない連休〟を取ることになった。ただ守山勤務時と違い、昼からの出勤で21:00上がりという午後シフトを7ヵ月も続けていると午前中には全くと言って良い程テンションが上がらない。そんな諸事情から敢えて連休初日は普通の休日の如く目覚めるまで寝てから計画を立てることに充てた。行動範囲は基本滋賀県内にはしておくが、この時期の花と言えばやはり〝紫陽花〟となるため、名所を検索すると先日訪れたもりやま芦刈園を除けば湖東・湖北地域になってしまうことを知る。ただ京都でも割と近い距離に三室戸寺や藤森神社があり、行先を絞るのに苦慮する。結局今回の旅のタイトルは〝石仏・石碑・紫陽花の花〟の三本柱に決めただけで、細かい訪問地は決めないことにした。翌22日の昼頃から行動開始し、守山へ髪を切りに行ってからいざ出発にする。

我が家のまわりでエンジンをかけたまま駐車していると人の目が辛い。なので一服とナビ設定のためにコンビニへと向かってから出て行くのがいつものこととなっている。ローソン大津大平一丁目店をスタートし守山の駅前を経由する。郵便局で軍資金を調達し先ず向かった先は湖南市三雲の臨済宗妙心寺派の雲照山妙感寺であった。田舎のお寺さんといった感じではあるが、歴史ある建物があることでも知られている。本堂は国指定重要文化財、ご本尊の〝千手観音菩薩坐像〟は湖南市指定文化財、滋賀県指定文化財の妙感寺五輪塔、そして方丈は再建時に後水尾天皇中宮東福門院の水口御殿を下賜されたものを移築したものとなっている。五輪塔は妙感寺の開山開基と言われる微妙大師の墓であるが、建武の三忠臣の一人である万里小路藤房(藤原藤房)卿のものであることは地元では有名な話のようだ。また方丈庭園は青々とした竹林を借景とした静寂な佇まいの石庭と書かれてあったが、この石庭の整備費用は〝MAKUAKEクラウドファンディング〟で集められたことでも知られている。妙感寺のHPにその整備が終わった際にはその〝景色〟を乗せる旨が書かれているが、今のところは更新されてはおらず、実物を見ても整備中なのかどうかもわからない。妙感寺は6年後の令和9(2027)年に開山微妙大師の六五〇年遠忌を控えており、平成時代より寺域の整備をしていると書かれてあった。微妙大師塔所の整備は既に終わっているようで、ひとつひとつ整備を続け大師の六五〇遠忌にすべてが完成すると考えるのが正しいのかも知れない。

その方丈庭園の借景のひとつである〝不老の滝〟。不老と書いて〝おいず〟と読むのがまた素晴らしいが、その横を〝三雲城址ハイキングコース〟なる山道が走っている。知る人ぞ知るこの山道には湖南市指定文化財の〝摩崖地蔵菩薩像〟が巨岩に彫られているのである。登山道というレベルではないが足元は決して良いとは言えない山道を歩くこと数分でたどり着くことができる。ただその途中に〝防獣ネット〟が張られており、人間と動物の住居エリアを跨いだ移動であることを思い知らされる。この摩崖地蔵菩薩像は鎌倉時代後期の作と言われており、このあたりにも山岳宗教の修行場があったのではないかと言われている。巨石の真ん中に地蔵尊磨崖佛、そして両脇には2躰の脇侍が彫られている。説明板によると〝地蔵経にいう掌善、掌悪の二童子であろうか〟とあり、この形式を〝近江形式という〟と書かれてあった。この湖南エリアには歴史ある摩崖仏が多く残っており、そのすべてが十人十色の特徴を持っていることが興味深い。地蔵尊と言えば道祖神的な意味合いを感じるが、ことがこの場所からは結び付かないように思う。三雲城下を守っていたのかも知れないが、そんな色々な妄想を膨らませるような穏やかなお顔の地蔵様であった。摩崖仏がある場所には大抵巨石が転がっている。その岩には何か人為的に彫ったようなdéjà vuを感じるのは私だけであろうか。

そんな思いを持ちつつ登って来た山道を下りて行く。カメラやスマホをバックに入れ、落とさないようにしてから防獣ネットを潜る。人間が扱うことに労せず獣は通り過ぎることができないとは言われているが、私が不器用過ぎるのであろうか…、行きも帰りもネットを潜らねばならなかった…。妙感寺迄は数百mしか離れてはいないが、その間は昼間でも鬱蒼としている道なので少なからず恐怖心を覚えこともあった。そのため視界が広がった場所で最初に目にする方丈庭園が安心感をもたらせてくれる不思議な感覚を覚える場所でもあった。

丁度下山してきたときに住職さんとお会いした。そのことからそろそろ閉門時間だということを知る。本堂は扉が閉められており、千手観音像は拝めないが光の加減が変わったおかげで境内の〝池〟と組み合わせた良い写真が撮れた。最後に方丈を訪れるがここは従来開放されておらず、外観を楽しむのみとなっている。後水尾院天皇中宮東福門院御座之間と書かれた札が掛かっている建物は倉庫のようにも見えなくはない。この水口御殿とは徳川和子(後の東福門院)が後水尾天皇に入内した元和6(1620)年に築かれたものとされており、建立時期には諸説あるが上洛時に徳川秀忠・家光が休憩や宿泊に利用したとの記録があることから、徳川幕府が成立した慶長年間に建立され、元和6年に改修をされたという説が濃厚である。御殿は寛永11(1634)年に水口城が築かれた後に撤去されたとしているが、実際には城と御殿は同じ場所だった訳ではなく、水口御殿跡は水口藩初代藩主となる加藤明友が天和2(1682)年に入部するまで幕府直轄地として管理されていた。妙感寺に於いては本堂と同時期の弘治元(1555)年に大師像を安置した霊殿(開山堂)として再建されてはいるが、織田信長の兵火によって天正年間に焼失している。寛文元(1661)年臨済宗の高僧であった愚堂東寔(ぐどうとうしょく)が再建にするにあたり、天皇家や徳川将軍家から帰依を受けていたことから水口御殿を下賜されることとなったようだ。

建物は歴史あるものだが、やはり方丈というものは〝草庵〟の類だということを知る。そして建物前で自撮りを行い、近隣の目的地を探して車を走らせることにした。旧国道1号線の滋賀県道4号線を杣川沿いに南下し矢川橋を渡る。住所は甲賀市甲南町深川市場、甲賀開拓の祖神と言われる矢川神社の近くである。天保13(1842)年に起こった近江天保一揆後150年を迎える平成3(1991)年10月に、命を落とした一揆参加者のことを〝緻密な計画と確固たる信念のもと、悲壮な決意を持って決起した民衆の義挙を永く後世に伝え、郷土の永遠の繁栄を願う〟という趣旨の元で建立された所謂〝天保一揆の碑〟のひとつである。道路脇に車が一台停められるくらいのスペースがあるが、どうも一揆参加者の心にあったであろう〝悲壮感〟が伝わってこないのである。メモリアルならば〝記念碑〟か?と納得のいかないまま交差点角にあり、落ち着いて書いてあることも熟読できないまま次の目的地へと車を走らせることにする。

三重県境に近い甲賀市甲賀町滝。無住寺である浄土宗元龍寺がある。近隣の檀家さん達によって管理運営されているようだが、webに掲載されているにも拘らず知名度は低いようである。ここへやって来たのは紫陽花の〝隠れた名所〟のキャッチフレーズに惹かれたためである。ドライブがてらの場合遠方から順に立ち寄って行くのがセオリーだが、閉門時間を加味した結果このようになってしまった。

この元龍寺だが滝集落の真ん中に位置しており、ナビ通りに進むとかなり細い道を案内される。時間も時間だったので無理はせず迂回路を探した結果看板を見つけたのであった。写真で見る限り〝田舎の一軒家〟としかわからないが、やはり間違いではなかった(笑)。ただここで大失敗をしでかしてしまう。全景を撮影した後に敷地内に車を停めるのだが、砂利や土のためにタイヤがスリップしてしまう。本来ならばゆっくり前進してバックすれば良いのだが、横着してニュートラルでエンジン回転を上げた後バックギアに変えた勢いで脱出しようとした。目論見は成功したが今度は勢いが付き過ぎてしまい、前輪を側溝にはめてしまうという大失態をしてしまった。勢いがついた分まともに右前輪は宙ぶらりんになっていた。色々試すが脱出出来ずにいると、近所の奥さんが助けに来てくれた。聞き慣れない高いエンジン音が聞こえたからということであった。取り敢えずタイヤに当たるように持って来て頂いた丸太を突っ込むが上手くいかない上に、作業中に背中に電気が走り息が止まる事態になる。手伝って頂いてる手前、背中の痛みを隠しながらなんとか脱出に成功する。せっかく来て頂いたから楽しんで貰いたいとの言葉が暖かく私には感じられた。

一悶着あったが無事車を停めて、お寺の裏山へと向かうことにする。無住寺である元龍寺は店の旅行スタッフは勿論地元の方でも知らないという。私自身はwebに掲載されていた紫陽花の〝隠れた名所〟のキャッチコピーに惹かれてやって来た。隠れた名所は正しくその通りである。多分手入れは近隣の檀家さんがしているだろうものだが、やはり見頃は過ぎているようで花が〝満開〟までは行かなかった。確かに見学にお金を徴収しているような施設のように多種多様な紫陽花の花が植えられてられている訳ではない。しかし斜面に咲く花が満開であればさぞ立派なものになることは容易に想像がつく。ガクアジサイ・ヤマアジサイと言ったありふれた種類ではあるが、無造作にではなく隙間を空けて植えられていることから、借景として元龍寺や甲賀の街並みを画像の中に組み込むことが出来る。見頃を過ぎた現在ではこれ以上のものは期待できないが、是非来年コロナの心配をせずに再訪し、隠れた名所とはこのようなものだと拡散できればと思うのであった。勿論車の運転には最新の注意を払い、ご近所さんの手を煩わせないようにすることも忘れないようにして。

気がつけば19:00前、まだ夜の帳が下りてはいなかったことから帰路につきながらも立ち寄れるところをプロットする。甲賀市甲南町深川と言えば天保義民メモリアルパークの近くでもあるがだいぶ遠回りをしてやって来た場所は〝天保義民別れの一本松跡〟である。メモリアルパークからだと1km程の距離だが、時間の柵がない場所として先に元龍寺へと立ち寄ったので約20km余分に走ることとなった。

天保義民別れの一本松跡は一揆後の取り調べのために深川村の庄屋であった田中安右衛門が水口藩の屯所へと護送される道中、この地迄肉親や身寄、村人らが後を追ってついて来ていたが、これ以上の後追いは許さないと言い安右衛門を裸足にさせて連れて行ったという。草履のみが残された場所に伏して号泣し、見送ったとされる場所である。安右衛門はその後江戸送りとなるが、道中桑名宿に於いて落命し二度と故郷の地を踏むことは無かったという。

現在の一本松は二代目で〝天保義民別れの一本松跡〟と言われる由来を正に今に伝えている。伊賀街道は伊賀から水口へと向かう主要街道のひとつであり、深川村から水口への向かうには必ず通る道である。その後江戸送りとなった際には東海道を通り、石部宿に於いて唐丸籠に乗せられた11人の義民は家族・近親者に加え近郷近在の人が集まり最後の面会を哀願したという。最初は認められなかったようであるが、最後に僅かな時間だが許されている。勿論拷問によって風貌が変わり果てた義民達をすぐに誰かを判断できる者もいなかったという。

義民所縁の場所として残された〝天保義民別れの一本松跡〟はそんな悲しき歴史を現在に伝える旧跡のひとつである。辺りが真っ暗になった中で道路沿いにぽつんとあることは、気づかずに通り過ぎることも多いと聞く。幸いにも私は気付くことができ手を合わせることが出来た。天保義民所縁の場所として、その歴史的背景を含めた史実を知るために多くの方に訪れて頂きたい場所だと私には思える。

天保義民別れの一本松跡を後にして後一箇所立ち寄ることにする。甲賀市水口町北脇、柏木神社からすぐの場所にある姫塚である。関ヶ原の戦いで西軍に属した最後の水口岡山城主長束正家、南宮山に陣取った毛利秀元や長宗我部盛親、安国寺恵瓊らと同様東軍に内通した吉川広家により本戦には参加できず、西軍敗退の報を知るや否や島津軍の撤退をサポートしつつ、水口岡山城を目指していた。城を目前として山岡景友軍に攻められ、弟玄春が捕らえられて処刑される。正家は蒲生氏郷配下から引き取った松田秀宣が殿を務めて時間を稼いだ間に城へと入るが、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉らによって所領安堵と城兵救助の条件をのみ、城から出たところを欺かれて捕縛される。この際城内にいた重臣達も池田勢に捕縛されている。捕らえられた長家と弟長吉と共に近江日野まで逃亡するが、そこで池田勢の追手に捕まり兄弟揃って自害して果てている。この姫塚の主人は徳川四天王の一人本多忠勝の妹であり、長束正家の正妻であった栄子姫である。姫塚の由緒書には身重だった栄子姫は正家自害後に城を脱出し、城下北脇の正家旧臣山本浅右衛門の家に匿われて男子を出産するが、産後の肥立ちが悪く間もなく亡くなったとある。栄子姫を憐れんだ浅右衛門は秘密裏にその遺体を葬り、一個の石を置いて標識としその墓を慰めたとされている。産まれた遺児は浅右衛門に養育され仏道に入り寛永2(1625)年に水口大徳寺の三世還誉上人となった。還誉上人は亡き父母の菩提を弔うために北脇の地にあった地蔵堂を改築し栄照寺と号して長束家の菩提寺としている。また現在地に立つ供養の〝姫塚〟は明治26(1893)年に京都在住一族の花輪氏が建立したものであると書かれていた。

水口大徳寺の末寺とした栄照寺は浄土宗自然山栄照寺として現存している。しかし残念ながら長塚家の菩提寺という表記は見当たらなかった。また明治期に一族の花輪某により現在の姫塚が建立されたとあるが、長束正家の長男は関ヶ原の戦い直後に陸奥国大湯村に逃れて土着後に帰農し、生き延びたと言われている。その後子孫が大湯村から花輪へと拠点を移し、南部藩で商人として財を成したようだ。江戸時代末期には南部家に財産接収されるが、その際主人の弟である佐庄伝右エ門なる人物が出奔し、諸国を放浪する。明治維新に対し官軍への武器提供も行った陰の立役者であるが、箱館戦争の終結で幕府の抵抗が終わる頃に京都へと入っており名を花輪正摸(まさのり)と改める。どうやらこの人物が塚の建立者であるようだ。

悲劇の姫君である栄子姫であるが、ここに記載されている内容はあくまで差障りのないものになっているように見える。水口岡山城が開城された折攻め込んだ池田勢によって城内の金銀財宝は略奪された。また同時に城下の略奪も起こり阿鼻叫喚の地獄絵図となったことが記録されている。この際に栄子姫も連れ出されて辱めを受け、その姿を見た正家旧臣の山本浅右衛門が姫を庇い家に匿った。その後無事男児を出産するも辱めを受けた精神的なショックもあり、産後の肥立ちが悪く間もなく亡くなったということが顛末のようである。この経緯を知った池田家当主池田輝政は、弟長吉が狼藉を働いた栄子姫が本多忠勝の妹であることを知り真っ青になったという。譜代大名であり家康の腹心である本多忠勝の妹を・・・となればお株上昇中と言えど所詮外様である池田氏がどうなるか?弟長吉がちやほやされている中で必死に証拠隠滅を図ったようだ。そんな努力の結果忠勝が栄子姫のことを知った時には全ての証拠が消されていたと言われている。この辺りの話は創作説もあるようだが、栄子姫を匿い姫の遺児を育てた旧臣山本浅右衛門に対しても〝口止め料〟が支払われていると言われている。その後水口が幕府の直轄地になったからかも知れないが、山本浅右衛門が家臣となった記録はない。おそらくは武家としてではなく一町民として正家・栄子姫の遺児を育てるには十分な財力を持ちながら余生を送ったものと考える。成人した遺児は僧となって、両親の菩提を弔って生きたのであろう。

一方で栄子姫への辱めを揉み消し、戦功のみが評価されて播磨姫路藩初代藩主として加増転封となった池田輝政をはじめとする一族総出世を成し遂げた池田氏ではあったが、騙し打ちにした長束正家と乱暴を働いた栄子姫の〝祟り〟に襲われたという。輝政は中風(脳血管障害)になり、一旦は回復するも翌年には死去している。長束正家夫妻を死に至らしめた当事者池田長吉も輝政同様鳥取藩初代藩主として加増転封されるが、死因不詳で輝政と同時期に死去している。他にも池田氏一族では長生きできない系譜が続いたとされている。

偶然が続いただけなのかも知れないが、池田氏には他にも〝呪い〟や〝祟り〟といったものが代々伝承されていたとされ、祈祷等が盛んに行われていたことが記述に残されている。ただ明治維新迄早死にすることはあっても血筋としては存続している。途中で滅びているならば〝祟られた一族〟だと言われるかも知れないが、やはり死する様が悲惨だった長束正家と栄子姫の判官贔屓であるのが事実であろう。

凄惨な死を迎えた栄子姫であるため、供養塔である姫塚には〝安らかに〟という気持ちを込めて手を合わせたが、塚が建立されている場所というのが工場が隣接する場所であることが残念でならない。日暮れ後に訪れたこともあってから騒音はなかったが、姫塚の写真には必ず工場の資材が写り込んでしまう。碑が建立された明治時代にはなかったのかも知れないが、そのような場所に建立されているのを目の当たりにした私には、なんとかならなかったのかと残念な気持ちが残ることとなった。

姫塚前は狭い道路であるために車を駐車すると離合が困難になるために、訪問時には隣接の柏木公園駐車場を利用のことと注意書きがあったのでそれに従った。この柏木神社は飛鳥時代の創建であるが、天正年間に織田信長が当地攻めた際に宝物や古文書は焼失し、楼門は安土の摠見寺に据えられた。そして現在の楼門は日野町の金剛定寺の寺門が据えられたものである。寛永年間に水口城が築かれた折には幕府直轄で城代を置いて管理していたが、その時代から城代が守護神として当社を崇めていたとされている。その後加藤嘉明の孫にあたる加藤明友が2万石の知行で入城し水口藩が成立すると引き継がれ、歴代城主の祈願所として崇拝を受け続けている。明治4(1871)年に村社柏木神社となった後に郷社を経て昭和20(1945)年に県社に加列され現在に至っている。近世に於いては柏木庄十六ヶ村の総社となり、広い範囲で氏子が居たとされている。境内には忠魂碑が建立されており、そのことからも広範囲に於いて長きに渡り鎮守様であり続けていることが理解できよう。残念ながら陽もどっぷり暮れたこの時間に参拝しても見逃してしまうものが多いと思い、次回訪問地と記録して車へと戻ることにする。

そう言えば明日の朝用にパンを買ってくるようにと言われていたことを思い出す。栗東水口道路から甲西中央橋を渡り旧国道1号線の滋賀県道4号線を走ること数分でトライアル湖南店に到着する。税込表示のディスカウントストアは大抵のものが手に入り使い勝手が良い。元来の私の行動範囲内には萱野浦にある滋賀大津店だけであったが、前回の安土へと行った際に立ち寄った近江八幡店、郵便局巡りの帰りに立ち寄る彦根店と今回の湖南店以外だと彦根松原店だけを利用していないだけだ。ゆっくり店内を散策したいがもう21:00になっており、所用を済ませると出発する。

このまま直帰になるはずだったが、以前から気になっていたにも関わらず訪れることのなかった道の駅こんぜの里りっとうを経由して帰ろうとナビ設定をする。私の感覚では回り道にはならない筈だったが、実際に走ってみるとかなり余分に走っていることに気づく。なぜ道の駅こんぜの里りっとうが気になるかと言えば、栗東ならば守山通勤時に立ち寄れたはずという単純な理由だった。おまけにこの界隈の道の駅で未訪問だったこともひとつある。行ってみてわかったのは、隣接する滋賀日産リーフの森というものが昭和50(1975)年の全国植樹祭跡地だったという事実。ならば幼き頃に来たことがあることを思い出し、夜間には休憩施設にもなれないような暗い場所に長居は無用ということで早々に立ち去った。

次こそは自宅と思いきやナビに表示された文字に反応して車を停めた。大野神社はあの〝嵐〟ファンの聖地として一躍有名になった神社である。御祭神が菅原道真公とは意外であったが、真っ暗の中ではその良さすらわからない。まあ場所がわかったので次回陽があるうちに訪れる場所と自分の中で勝手に取り決め、鳥居と社号碑をカメラに収めて出発する。

滋賀県道113・2号線を進み京滋バイパス側道経由で石山寺を目指す。この時間に参拝もへったくれもないのであるが、本日撮影したフィルム発送をするために荷物を作り発送するためである。そして石山寺郵便局前ポストに投函して終了だ。そしていつも〝洗車だけ〟しているDr.Driveセルフ瀬田西店に立ち寄りやはり洗車だけをした後、moveクンに食事をさせる。帰り着いたのは23:00頃であった。

側溝にハマってしまうという大失態をしてしまったが、その他は無難にまとめて無事帰宅できた。ただ背中を痛めたことで5連休は今日だけの行動になってしまい残り4日間はベッドの上での生活となってしまった。残念だがこういうこともあると言う教訓を今後に活かせれば良いのだろうと割り切った私であった。

   《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
44いいね!

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