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《2021. March》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXI湖北前編~虎御前山の桜~<br /><br />今年になってからの滋賀編がVol5となった。旅費がないのもあるが、やはり大手を振って県外へと出歩けないのが一番の理由である。コロナ禍の外出規制をしたりしなかったりすることが、どの程度患者数の増減に繋がっているのかはメディア報道されている一般論しかわからないが、徹底しない限り患者数の減少に繋がらないのであれば、個人の自主性に任せて自然の流れで結果を見る他ないようにも思える。下手に規制をすることでその反動によって外出が増え、結果として罹患者数が増えるイタチごっこを繰り返しているようにしか思えない。<br /><br />最前線の医療従事者の方々には本当に頭の下がる思いだが、官僚はもとより多くの都道府県知事や市区町村長のその場凌ぎの言い訳には閉口する。それをコロナ禍終息に向けての対策と言えるのであろうか?また飲食店での感染が指摘されている中で新たに第二弾のGoTo Eatを始めるのが経済を回すことに繋がるのであろうか?付与率を減らしたからとてニーズはある。三段階に分けて抽選するとは言うが、個々の括りで抽選結果を知らせるとしても当選時期に限らず〝購入期限〟は一律6月25日となっている。日本人はなんでもギリギリが好きな民族だと思う。本来3月31日に終わるマイナポイントの申請を最終日に問い合わせる者の多いこと。あれは国の施策であり、紐づける会員カードの選択は個人の自由である。よって問い合わせ窓口も市町村役場と書かれているにも拘らず店舗に聞いてくる。言っちゃ悪いがスマホ操作に自信がなければ自分でできる訳がない。一応郵便局で紐付けの手続きはできるが、レベルがバラバラであり、某郵便局では局員が「良くわからないので」と断るケースもある。一応断っておくが石山駅前郵便局と大津栄町郵便局ではない。嫌な顔をせず簡単にやってくれたとの意見を聞いている。<br /><br />脱線したがマイナポイントのケースを含め自分自身で〝責任を持つ〟と言う姿勢が日本人には必要だと思えてならない。自分の判断で行動しコロナにかかれば自己責任だという意識を植え付ける良い機会ではないかと思う。<br /><br />私のこじつけ流儀では、外出しても飲食店には入らない。なのでGoTo Eatも必要ない。計画無しにぶらりと出掛けて歩き回り帰ってくるだけである。今回選んだ湖北地区の虎御前山は、滋賀県下でも桜の名所のひとつとされている場所だ。まだ満開の報は入っていないが、それ故に密にはなっていないだろうと判断した。さあ判断は合っていたのか間違っていたのか?今回の旅物語を始めるとしよう。<br /><br />令和3(2021)年3月29日火曜日<br />いつもながら午後勤明けの休みなので昼からの出勤となる。目的地を湖北にするならば高速利用をすれば良いのだが、お気楽旅なので一般道を利用する。国道1号線から8号線を走るルートは約80km。通常ならば1時間半程度だが、意外に混雑しており2時間を要した。途中クスリのアオキ宮司店に立ち寄って飲み物を購入し虎御前山の駐車場に到着する。<br /><br />虎御前山とは長者にみそめられ、妻となった〝お虎〟の秘話に由来する。近隣でも美人で有名だったお虎が道に迷い世々開(せせらぎ)長者に助けられた縁で嫁いだ物語であるが、その後身籠るものの産まれてきたのは15匹の小蛇だったという。あまりの出来事に失望したお虎は、山の東の女性(みせ)が渕(ふち)に身を投げてしまう。小蛇は成年を迎える頃には人間の姿となり、近隣集落の庄屋として村々を治めたと言われている。そんな悲劇の女性であるお虎を〝虎御前〟と人々は呼ぶ様になり、いつしか所縁の山を〝虎御前山〟と称す様になり現在に至っている。またこの伝承は旧町名の〝虎姫〟の由来ともなっており、地方公共団体名として唯一〝虎〟の文字が入っていることから、阪神ファンが必勝祈願に訪れる〝虎神殿〟が駅前に設置されていることでも知られている。<br /><br />虎御前山の伝承は悲劇的な物語であるが、史実として大きな戦いの禅譲戦場となったことも知る者も多いであろう。南北朝時代足利尊氏と弟直義が争った八相山の戦い、観応の擾乱の終結とされてはいるが八相山の戦いが兄弟の最終戦だという説は今では疑問視されている。敗戦後敦賀で幽閉された直義は毒殺されたというものが八相山の戦いの顛末だと由来書きには書かれているが、実は駿河国薩埵峠(さったとうげ)の戦いの勝敗で決したと言う説が濃厚となっている。また直義最後の地とされる場所も敦賀ではなく鎌倉だと言うこともほぼ間違いない史実となっている。この辺りは旧虎姫町説では八相山の戦いの重要性を説きたいのであろうが、史実と異なっている以上否定されても仕方のないことであるように思う。<br /><br />また浅井氏が滅亡した姉川の戦いに始まる小谷城の戦い。詳細は後編に記載するが小谷城迄2km程の距離に位置する虎御前山には織田信長をはじめとする軍勢が砦を構えている。浅井氏と同盟関係にある朝倉義景を先に滅ぼし、孤立させた浅井軍を数に勝る兵を注ぎ込んで久政・長政親子を自害に追い込み滅亡させたことは、大河ドラマでも取り上げられており知る人も多いであろう。<br /><br />そんな乱世を彷彿させる遺構も楽しみに山登りを始めようとするが、矢合神社の階段を登り始めた際に隣の坂を降りて来る車を発見。奥まで行けるのかとヘタレはすぐさま車に戻り出発する。どうやら虎御前山公園迄は車で行くことができるようだ。<br /><br />虎御前山にはドコモのアンテナが立っている。その整備用に設けられた道路のようだが、以前その手前広場に県立のキャンプ場があったらしい。旧虎姫町や湖北町が長浜市に合併吸収される際に移管する話もあったようだが、認められず取り壊しになったようだ。訪れなければ知らなかったことだが、市県民税の無駄遣いには本当に閉口する。道路は虎御前山公園で終わりとなっているが、少し先には四国八十八之内四十五番札所岩屋寺がある。何故四国八十八ケ所と調べたら江戸時代に四国八十八ケ所巡礼が大変だったことから、近江国内で八十八ケ所を定めたことに由来するそうだ。霊場巡りには色々あることは聞いてはいたが、近江四国八十八ケ所は初めて知った。<br /><br />御堂内の弘法大師像に手を合わせて辺りを歩く。虎御前山公園は展望台に加え小谷城攻めに参戦した丹羽長秀の砦跡がある。山頂南側にある場所であるが、曲輪を含め往時を偲ぶものは何も残ってはいない。キャンプ場開設前はどうだったのかは知らないが、元々あった古墳を利用して砦を築いた史実からもわかるように砦跡自体が遺跡でもある。無計画に壊して石碑だけを残すのではなく、史跡として残すように努力して欲しいと思う。元々キャンプ場として開発したが、維持できないから解体し、田圃アート用の展望台だけの公園兼陣地跡では寂し過ぎると私は思う。<br /><br />虎御前山の砦跡は南北に繋がるように設けられており、ドコモのアンテナ付近から北側にも残っているのだが、北側に下りてしまうと戻って来るのが大変だと思い、時間の都合で北半分は後日の楽しみとして車に戻り一旦麓の駐車場に戻ることにした。<br /><br />車を置いて再び歩き出す。延喜式内社の論社である矢合神社は〝江州浅井郡八相山鎮座八相社〟とされており、古くから〝八相さん〟と呼ばれていた。社伝によれば寛文年間まで弓矢の神事が伝えられており、正月10日に盛んに矢を射たとされている。この矢の行き交う様の〝矢合い〟と八相の訓読〝やあい〟とが交錯して現社名が生ずるに至ったと言われている。<br /><br />戦国時代元亀年間までは元鳥居山という所に大鳥居が、山麓に成道寺という神宮寺があったがいずれも信長の兵火に遭い烏有に帰している。その後天明2年に現社殿を再建し、神社一帯の山を虎御前山と呼び保安林に指定されている。明治9(1876)年村社に列し、同41(1908)年神饌幣帛料供進社に指定されている。<br /><br />古くから当地は水利に恵まれなかったので、主祭神を始め境内社の岩上神社祭神浅井姫命、更らには世々開長者の伝説や清水清介翁の祭祀など水利に関わる祭儀が多いことで知られている。しかし戦場となったふたつの戦跡の遺構は、ほとんどと言っても過言ではない位残されてはいない。南北朝期の八相山の戦いは勿論、小谷城攻めの際の陣屋跡も古墳を利用して構築したという伝承と、石碑が残っているだけに過ぎずパッと見ただけでは陣屋跡とはわからないものとなっている。矢合神社境内に伝わる蜂谷頼隆・多賀貞能陣屋跡も然りで唯一〝古墳が利用された〟ことがわかるだけになっており、それは残念にしか思えないことであった。<br /><br />そして矢合神社の鳥居を潜る。境内に鐘楼があることを不思議に思うが、奈良時代には小谷山にあったと言われる大嶽寺十ヶ寺のひとつとして八相山成道寺というお寺がありその名残と言われている。拝殿・本殿の他に境内社として岩上神社・稲荷社があり、矢合の由来らしい〝矢を射る〟像が奉納されていた。矢合神社境内の桜はちょうど見頃を迎えており、風情とまでは言えないが境内に華を添えているように見えた私であった。<br /><br />矢合神社境内を散策し車へと戻る。虎御前山の麓を回り込むように走り、虎御前神社へと向かう。本来ならば南東に向かってから北上するルートになる筈だが、ナビの示す通りに走ったところ細い道を走った後に小谷城SIT前を通るルートを辿る。かなりの遠回りをしたがなんとか到着し、早速参拝するために石段を上がって行く。<br /><br />やはり創建等は不詳であるが紀伊熊野大社から分霊を八井山に奉斎し、熊野別所神宮と称したと伝えられている。元亀年間信長の兵火に遭い社殿古記録など烏有に帰したため、村民達の手によって現在地に社殿を再建し、熊野大権現と称えて信奉し、明治12(1879)年神社明細帳届出の際に鎮座地の虎御前山の地名を以って社号とし、虎御前神社として現在に至っていると由来書きには書かれてあった。<br /><br />神社入口に〝虎御前神社〟の社標がある。階段中央部に石鳥居が立っており、一番奥に拝殿・本殿が鎮座する。一見すると急な階段のように見えるのだが、新しく作られたもののようで歩き易かった。拝殿自体の扉が閉まっていたという投稿が多いが、少なくとも私が訪れた時は開いており、手を合わせることは出来た。<br /><br />この神社から虎御前山北半分にある小谷城攻めのために設けられた砦跡に行くことができるように書かれていたが、見た感じでは本殿より先の道が無いようだったので、道に迷う覚悟もないために参道を下りていくことにする。木々が繁っていることもあり、眺望が良いという訳でもないが意外にも桜の花が咲いている〝景色〟は見ることができるため穴場的な〝花見会場〟になり得る場所のようにも思う。駐車場は特にないため邪魔にならない場所に車を停めていた。そんな後ろめたさもあったために神社参道入口付近の桜をカメラに収めると出発することにする。<br /><br />県道を暫く走って国道365号線に入る。旧北国脇往還として五街道に次ぐ重要な道であった通りである。姉川を渡る新野村橋手前で旧道に入り老朽化で車両通行止めとなっている野村橋手前が次の目的地〝姉川古戦場跡〟となる。道路沿いには桜が咲き誇り〝桜の並木道〟そのものになってはいるが、550年前にはこの場所に浅井軍8,000名が陣取っていた場所である。<br /><br />  《後半に続く》

《2021. March》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXI湖北前編~虎御前山の桜~

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2021/03/29 - 2021/03/29

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《2021. March》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXI湖北前編~虎御前山の桜~

今年になってからの滋賀編がVol5となった。旅費がないのもあるが、やはり大手を振って県外へと出歩けないのが一番の理由である。コロナ禍の外出規制をしたりしなかったりすることが、どの程度患者数の増減に繋がっているのかはメディア報道されている一般論しかわからないが、徹底しない限り患者数の減少に繋がらないのであれば、個人の自主性に任せて自然の流れで結果を見る他ないようにも思える。下手に規制をすることでその反動によって外出が増え、結果として罹患者数が増えるイタチごっこを繰り返しているようにしか思えない。

最前線の医療従事者の方々には本当に頭の下がる思いだが、官僚はもとより多くの都道府県知事や市区町村長のその場凌ぎの言い訳には閉口する。それをコロナ禍終息に向けての対策と言えるのであろうか?また飲食店での感染が指摘されている中で新たに第二弾のGoTo Eatを始めるのが経済を回すことに繋がるのであろうか?付与率を減らしたからとてニーズはある。三段階に分けて抽選するとは言うが、個々の括りで抽選結果を知らせるとしても当選時期に限らず〝購入期限〟は一律6月25日となっている。日本人はなんでもギリギリが好きな民族だと思う。本来3月31日に終わるマイナポイントの申請を最終日に問い合わせる者の多いこと。あれは国の施策であり、紐づける会員カードの選択は個人の自由である。よって問い合わせ窓口も市町村役場と書かれているにも拘らず店舗に聞いてくる。言っちゃ悪いがスマホ操作に自信がなければ自分でできる訳がない。一応郵便局で紐付けの手続きはできるが、レベルがバラバラであり、某郵便局では局員が「良くわからないので」と断るケースもある。一応断っておくが石山駅前郵便局と大津栄町郵便局ではない。嫌な顔をせず簡単にやってくれたとの意見を聞いている。

脱線したがマイナポイントのケースを含め自分自身で〝責任を持つ〟と言う姿勢が日本人には必要だと思えてならない。自分の判断で行動しコロナにかかれば自己責任だという意識を植え付ける良い機会ではないかと思う。

私のこじつけ流儀では、外出しても飲食店には入らない。なのでGoTo Eatも必要ない。計画無しにぶらりと出掛けて歩き回り帰ってくるだけである。今回選んだ湖北地区の虎御前山は、滋賀県下でも桜の名所のひとつとされている場所だ。まだ満開の報は入っていないが、それ故に密にはなっていないだろうと判断した。さあ判断は合っていたのか間違っていたのか?今回の旅物語を始めるとしよう。

令和3(2021)年3月29日火曜日
いつもながら午後勤明けの休みなので昼からの出勤となる。目的地を湖北にするならば高速利用をすれば良いのだが、お気楽旅なので一般道を利用する。国道1号線から8号線を走るルートは約80km。通常ならば1時間半程度だが、意外に混雑しており2時間を要した。途中クスリのアオキ宮司店に立ち寄って飲み物を購入し虎御前山の駐車場に到着する。

虎御前山とは長者にみそめられ、妻となった〝お虎〟の秘話に由来する。近隣でも美人で有名だったお虎が道に迷い世々開(せせらぎ)長者に助けられた縁で嫁いだ物語であるが、その後身籠るものの産まれてきたのは15匹の小蛇だったという。あまりの出来事に失望したお虎は、山の東の女性(みせ)が渕(ふち)に身を投げてしまう。小蛇は成年を迎える頃には人間の姿となり、近隣集落の庄屋として村々を治めたと言われている。そんな悲劇の女性であるお虎を〝虎御前〟と人々は呼ぶ様になり、いつしか所縁の山を〝虎御前山〟と称す様になり現在に至っている。またこの伝承は旧町名の〝虎姫〟の由来ともなっており、地方公共団体名として唯一〝虎〟の文字が入っていることから、阪神ファンが必勝祈願に訪れる〝虎神殿〟が駅前に設置されていることでも知られている。

虎御前山の伝承は悲劇的な物語であるが、史実として大きな戦いの禅譲戦場となったことも知る者も多いであろう。南北朝時代足利尊氏と弟直義が争った八相山の戦い、観応の擾乱の終結とされてはいるが八相山の戦いが兄弟の最終戦だという説は今では疑問視されている。敗戦後敦賀で幽閉された直義は毒殺されたというものが八相山の戦いの顛末だと由来書きには書かれているが、実は駿河国薩埵峠(さったとうげ)の戦いの勝敗で決したと言う説が濃厚となっている。また直義最後の地とされる場所も敦賀ではなく鎌倉だと言うこともほぼ間違いない史実となっている。この辺りは旧虎姫町説では八相山の戦いの重要性を説きたいのであろうが、史実と異なっている以上否定されても仕方のないことであるように思う。

また浅井氏が滅亡した姉川の戦いに始まる小谷城の戦い。詳細は後編に記載するが小谷城迄2km程の距離に位置する虎御前山には織田信長をはじめとする軍勢が砦を構えている。浅井氏と同盟関係にある朝倉義景を先に滅ぼし、孤立させた浅井軍を数に勝る兵を注ぎ込んで久政・長政親子を自害に追い込み滅亡させたことは、大河ドラマでも取り上げられており知る人も多いであろう。

そんな乱世を彷彿させる遺構も楽しみに山登りを始めようとするが、矢合神社の階段を登り始めた際に隣の坂を降りて来る車を発見。奥まで行けるのかとヘタレはすぐさま車に戻り出発する。どうやら虎御前山公園迄は車で行くことができるようだ。

虎御前山にはドコモのアンテナが立っている。その整備用に設けられた道路のようだが、以前その手前広場に県立のキャンプ場があったらしい。旧虎姫町や湖北町が長浜市に合併吸収される際に移管する話もあったようだが、認められず取り壊しになったようだ。訪れなければ知らなかったことだが、市県民税の無駄遣いには本当に閉口する。道路は虎御前山公園で終わりとなっているが、少し先には四国八十八之内四十五番札所岩屋寺がある。何故四国八十八ケ所と調べたら江戸時代に四国八十八ケ所巡礼が大変だったことから、近江国内で八十八ケ所を定めたことに由来するそうだ。霊場巡りには色々あることは聞いてはいたが、近江四国八十八ケ所は初めて知った。

御堂内の弘法大師像に手を合わせて辺りを歩く。虎御前山公園は展望台に加え小谷城攻めに参戦した丹羽長秀の砦跡がある。山頂南側にある場所であるが、曲輪を含め往時を偲ぶものは何も残ってはいない。キャンプ場開設前はどうだったのかは知らないが、元々あった古墳を利用して砦を築いた史実からもわかるように砦跡自体が遺跡でもある。無計画に壊して石碑だけを残すのではなく、史跡として残すように努力して欲しいと思う。元々キャンプ場として開発したが、維持できないから解体し、田圃アート用の展望台だけの公園兼陣地跡では寂し過ぎると私は思う。

虎御前山の砦跡は南北に繋がるように設けられており、ドコモのアンテナ付近から北側にも残っているのだが、北側に下りてしまうと戻って来るのが大変だと思い、時間の都合で北半分は後日の楽しみとして車に戻り一旦麓の駐車場に戻ることにした。

車を置いて再び歩き出す。延喜式内社の論社である矢合神社は〝江州浅井郡八相山鎮座八相社〟とされており、古くから〝八相さん〟と呼ばれていた。社伝によれば寛文年間まで弓矢の神事が伝えられており、正月10日に盛んに矢を射たとされている。この矢の行き交う様の〝矢合い〟と八相の訓読〝やあい〟とが交錯して現社名が生ずるに至ったと言われている。

戦国時代元亀年間までは元鳥居山という所に大鳥居が、山麓に成道寺という神宮寺があったがいずれも信長の兵火に遭い烏有に帰している。その後天明2年に現社殿を再建し、神社一帯の山を虎御前山と呼び保安林に指定されている。明治9(1876)年村社に列し、同41(1908)年神饌幣帛料供進社に指定されている。

古くから当地は水利に恵まれなかったので、主祭神を始め境内社の岩上神社祭神浅井姫命、更らには世々開長者の伝説や清水清介翁の祭祀など水利に関わる祭儀が多いことで知られている。しかし戦場となったふたつの戦跡の遺構は、ほとんどと言っても過言ではない位残されてはいない。南北朝期の八相山の戦いは勿論、小谷城攻めの際の陣屋跡も古墳を利用して構築したという伝承と、石碑が残っているだけに過ぎずパッと見ただけでは陣屋跡とはわからないものとなっている。矢合神社境内に伝わる蜂谷頼隆・多賀貞能陣屋跡も然りで唯一〝古墳が利用された〟ことがわかるだけになっており、それは残念にしか思えないことであった。

そして矢合神社の鳥居を潜る。境内に鐘楼があることを不思議に思うが、奈良時代には小谷山にあったと言われる大嶽寺十ヶ寺のひとつとして八相山成道寺というお寺がありその名残と言われている。拝殿・本殿の他に境内社として岩上神社・稲荷社があり、矢合の由来らしい〝矢を射る〟像が奉納されていた。矢合神社境内の桜はちょうど見頃を迎えており、風情とまでは言えないが境内に華を添えているように見えた私であった。

矢合神社境内を散策し車へと戻る。虎御前山の麓を回り込むように走り、虎御前神社へと向かう。本来ならば南東に向かってから北上するルートになる筈だが、ナビの示す通りに走ったところ細い道を走った後に小谷城SIT前を通るルートを辿る。かなりの遠回りをしたがなんとか到着し、早速参拝するために石段を上がって行く。

やはり創建等は不詳であるが紀伊熊野大社から分霊を八井山に奉斎し、熊野別所神宮と称したと伝えられている。元亀年間信長の兵火に遭い社殿古記録など烏有に帰したため、村民達の手によって現在地に社殿を再建し、熊野大権現と称えて信奉し、明治12(1879)年神社明細帳届出の際に鎮座地の虎御前山の地名を以って社号とし、虎御前神社として現在に至っていると由来書きには書かれてあった。

神社入口に〝虎御前神社〟の社標がある。階段中央部に石鳥居が立っており、一番奥に拝殿・本殿が鎮座する。一見すると急な階段のように見えるのだが、新しく作られたもののようで歩き易かった。拝殿自体の扉が閉まっていたという投稿が多いが、少なくとも私が訪れた時は開いており、手を合わせることは出来た。

この神社から虎御前山北半分にある小谷城攻めのために設けられた砦跡に行くことができるように書かれていたが、見た感じでは本殿より先の道が無いようだったので、道に迷う覚悟もないために参道を下りていくことにする。木々が繁っていることもあり、眺望が良いという訳でもないが意外にも桜の花が咲いている〝景色〟は見ることができるため穴場的な〝花見会場〟になり得る場所のようにも思う。駐車場は特にないため邪魔にならない場所に車を停めていた。そんな後ろめたさもあったために神社参道入口付近の桜をカメラに収めると出発することにする。

県道を暫く走って国道365号線に入る。旧北国脇往還として五街道に次ぐ重要な道であった通りである。姉川を渡る新野村橋手前で旧道に入り老朽化で車両通行止めとなっている野村橋手前が次の目的地〝姉川古戦場跡〟となる。道路沿いには桜が咲き誇り〝桜の並木道〟そのものになってはいるが、550年前にはこの場所に浅井軍8,000名が陣取っていた場所である。

  《後半に続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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