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《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXV湖南後編~花と近江の歴史~<br /><br />≪前編より続く≫<br /><br />令和3(2021)年6月8日火曜日<br />閉館時間となったもりやま芦刈園を後にして、次の目的地へと走って行く。守山市内なのでそれほど時間はかからないが、生憎通勤時間と被ってしまい、場所によっては少し渋滞をしていた。日暮れまでの時間を考慮して探した目的地は〝第一なぎさ公園〟。ここは菜の花畑で知られている場所であるが時期が違う。では何のため?となるのかも知れないが、この時期ハマヒルガオが群生しているという。移動距離は知れているが、行ってからとんでもないことに気づいた。GWにBBQ等で〝密〟を作らないようにするために湖岸にある駐車場が全て閉鎖となった。勿論そのことは知ってはいたが、まさか継続となっていることは思いもよらなかった。<br /><br />仕方がないので公園脇の道路に車を停めさせてもらい、ささっと湖岸へと歩いて行く。うぁ~という景色を期待していたが、すぐに?マークが頭の周りに出てくる結果となった。確かに咲いているのは確かではあるが、砂浜に咲く〝花〟を探さなければいけないことに気付く。勘違いをしていたようで、よく見ると〝育成中〟との表示がされていた。つまり一旦枯れてしまったハマヒルガオを復活させようとの目論みのようだ。朝顔を小振りにしたようなハマヒルガオの花、私が子供の頃にはどこにでも咲いていた記憶があるが、今はそういう訳ではないようだ。ヒルガオ科ヒルガオ属の多年草であるハマヒルガオは典型的な海浜植物であり、淡水域で咲くことは大変珍しいと言われている。琵琶湖岸に咲くことは即ち琵琶湖が海と繋がっていた〝名残り〟だとされ、一旦はかなりの数が減ったが保護することによって群生地と戻ることを狙っているようである。ただ時間などによっては人が集まる場所と化すようで、〝立入禁止〟と書かれている他に通路として〝石〟が置かれているにも拘らず砂浜に残る足跡が痛々しい。特に今年はコロナ禍によって行くことができる場所が限られていることから人が集まるために、歩道に於いて離合するには困難な幅しかないことから砂浜に出てしまうのかも知れない。ここにハマヒルガオ群生林が復元されると、比良山系・琵琶湖、そしてハマヒルガオという〝滋賀らしい風景〟が戻ってくるのに違いないので、時間はかかるのかも知れないがいつの日かそんな景色をカメラに収めることができることを期待して次の目的地へと向かうことにする。<br /><br />湖周道路と国道8号線を経由して野洲市三上へと向かう。三上山裏登山口の入口にあるのは天保義民碑である。天保13(1842)年に起こった近江天保一揆首謀者の野洲郡三上村の庄屋で、一揆の責任により江戸送りとなり獄死した土川平兵衛を義民として崇められ、明治維新後に正式に義民と認められたことによって作られた平兵衛神社(保民祠)や天保義民碑、天保の熱(ほとおり)という解説板、平兵衛が江戸送りになる際に石部宿で詠んだ辞世の句〝人のため 身を罪とがに 近江路を 別れて急ぐ 死出の旅立ち〟が刻まれた一揆150年記念で埋めらた2042年の200年に向けたタイムカプセルがある。一揆の歴史を綴る記録には栗太郡や野洲郡に関する参加者リストが残っていないという。その中で三上村庄屋として土川平兵衛の記録と功績が残っていることからも、一揆がなければ農民達の生活に大きな影響があったことを後世に伝えるべく石碑に刻んだに違いないことが伝わって来る。江戸時代には許すべからずの一揆ではあったが、この近江天保一揆が天保の改革を断行した水野忠邦の失脚に繋がったことは有名ではある。そして土川平兵衛他一揆の主導者が義民として認められたのは一揆後四半世紀の後明治維新を迎えてからということにはやるせない気持ちを覚えてしまう。現在では自らの命を顧みず、一揆を成功させた人物として義民碑の建立をはじめとする史跡に名を残している義民達。存命中は公には評価されなかったが、安らかに永遠の眠りについて欲しいと思った私であった。<br /><br />天保義民碑に手を合わせた後思うところがあり、三上山裏登山口の防獣柵を開けて歩いて行く。妙見堂という名になにかあると思い歩き始めたのだが、健脚ではない者向けの裏登山道でも結構歩き辛い。暫く歩くと表・裏の登山道の分岐に至るが、木が生い茂っている場所故時間の割には暗いように見える。分岐を表登山道側に歩いて行けばさほど時間を要せずに行けたようだが、無理して事故に繋がることは避けたいという思いから諦めることにした。実はこの話には裏話があり妙光山と妙見堂を勘違いしていた。結果オーライではあるが、あのまま進んで行っていれば〝磨崖仏は何処?〟となっていたに違いない。時間的な余裕がなければ正しい判断すらできなくなることを改めて知った。<br /><br />野洲の天保義民碑を訪れたので次は湖南市三雲の天保義民之碑へと向かうはずであった。このあたりの場所は車のナビには表示がない。そのためスマホナビを利用するのだが、道中湖南市立岩根小学校付近で〝磨崖不動明王像〟の表示を見つけた。徐々にではあるが夜の帳が下りて来ている現実から行先を変更してこちらを訪ねることにした。<br /><br />集落内の狭い道を通り過ぎると、これまた狭い林道を走ることになる。特に狭い道だからと言って苦手感はないが、道路の広さを考えると下手すれば来た道をバックで戻らなければならないかもと心配になる。走ること数分で磨崖不動明王像の由来文が書かれた少し広めの場所に到着する。暗くなりつつある時間だったことから、磨崖仏に至る参道に掛けられたチェーンが〝自動車通行止め〟と勝手に解釈してしまい、急いで磨崖仏の足元に向かって歩いて行った。巨岩に彫られた巨大な不動明王像、彫られたのが江戸時代とされており、界隈の磨崖仏と比べるとかなり歴史が浅い。場所的に岩山にぽつんと不動明王像がある様子なので、修験道に関わる物だと言われている。しかし〝怒り〟の表情が伝わって来る像で、江戸時代の物と言われると〝近江天保一揆〟所縁のものではないかと考えても不思議ではない。天保年間に義民を讃えることなど大っぴらにできることではなかった。そんなご時世だったが故に、役人が来ない場所に怒りを込めた磨崖不動明王像を彫ったとしても不思議ではない。この辺りは推測の域を超えるものではないが、詳細もわかっていないことから考えても〝間違い〟とも言い切れない。史実はどうなのかはわからないが、そんなインスピレーションを私は感じたのであった。<br /><br />像の下にある祠と不動明王像に手を合わせ、また機会があれば必ず訪れると報告し、もと来た道を戻って行く。一旦車へと戻るが入口のチェーンの意味は?という疑問が残りwebで調べてみる。そこで初めて落石があったことにより通行止めにされたことを知る。しまった…と思ったが後の祭り。基本この辺りは電波状況が悪く、落石のことまで表示されなかったという事が顛末である。渓谷を挟んだ道路からも見ることができると書かれていたため、現在駐車している場所から少し車を進め、渓谷越しに磨崖仏不動明王像を眺める。肉眼では見えるのだがスマホやカメラのファインダー越しだとよくわからない暗さになり、一か八かの〝記録写真〟を撮って車へと戻る。先述したUターンは出来ないのでそのままバックで進み、駐車スペースでスイッチターンをして方向転換をし、行きに上って来た林道を下って行く。花園集落に出て県道27号線を経て国道1号線栗東水口道路へと進む。本来ならばひたすら栗東水口道路を進めば、上鈎交差点で国道1号線に入ることができ一本道なのであるが、moveクンのナビは必ず石部大橋を渡ったところで右折し、県道4号線を進めと表示される。ナビの言うまま走ったが、後にスマホナビで確認するとやはり栗東水口道路を石部大橋で直進するルートで間違いないようだった。<br /><br />いずれのルートでも帰り道には違いないのでそのまま進む。道中夕食の購入を言われていたことを思い出し、現在パチンコ屋となった以前のケイヨーD2栗東店駐車場に車を停めてスマホを弄る。牛丼屋のカレーというオーダーだったので帰り道の店舗を探す。検索結果は〝松弁〟、つまり松屋南草津店がヒットしたのでこちらにする。web予約もできPayPayによる事前支払いも可能だったので、全てを済ませ店舗に向かう。瀬田と並んで〝若者の街〟である南草津には私も知らない店も沢山ある。ちょっと遅れたが無事にピックアップを済ませラストランに挑む。野路中央から京滋バイパスへと入れば後はいつも通りの道。途中行きに立ち寄ったミニストップ大津石山寺3丁目店でタバコを購入し先を急ぐ。21:00少し過ぎに自宅に到着した。<br /><br />やや無理がある紫陽花と義民碑、磨崖仏巡りであったが無事終了できた。暗さゆえにデータの少ない場所は補完するために再訪の必要性ありだが、まあ天気と休みの絡みを相談してまた改めて行こうと考えている。<br /><br />  《終わり》

《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXV湖南後編~花と近江の歴史~

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2021/06/08 - 2021/06/08

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《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXV湖南後編~花と近江の歴史~

≪前編より続く≫

令和3(2021)年6月8日火曜日
閉館時間となったもりやま芦刈園を後にして、次の目的地へと走って行く。守山市内なのでそれほど時間はかからないが、生憎通勤時間と被ってしまい、場所によっては少し渋滞をしていた。日暮れまでの時間を考慮して探した目的地は〝第一なぎさ公園〟。ここは菜の花畑で知られている場所であるが時期が違う。では何のため?となるのかも知れないが、この時期ハマヒルガオが群生しているという。移動距離は知れているが、行ってからとんでもないことに気づいた。GWにBBQ等で〝密〟を作らないようにするために湖岸にある駐車場が全て閉鎖となった。勿論そのことは知ってはいたが、まさか継続となっていることは思いもよらなかった。

仕方がないので公園脇の道路に車を停めさせてもらい、ささっと湖岸へと歩いて行く。うぁ~という景色を期待していたが、すぐに?マークが頭の周りに出てくる結果となった。確かに咲いているのは確かではあるが、砂浜に咲く〝花〟を探さなければいけないことに気付く。勘違いをしていたようで、よく見ると〝育成中〟との表示がされていた。つまり一旦枯れてしまったハマヒルガオを復活させようとの目論みのようだ。朝顔を小振りにしたようなハマヒルガオの花、私が子供の頃にはどこにでも咲いていた記憶があるが、今はそういう訳ではないようだ。ヒルガオ科ヒルガオ属の多年草であるハマヒルガオは典型的な海浜植物であり、淡水域で咲くことは大変珍しいと言われている。琵琶湖岸に咲くことは即ち琵琶湖が海と繋がっていた〝名残り〟だとされ、一旦はかなりの数が減ったが保護することによって群生地と戻ることを狙っているようである。ただ時間などによっては人が集まる場所と化すようで、〝立入禁止〟と書かれている他に通路として〝石〟が置かれているにも拘らず砂浜に残る足跡が痛々しい。特に今年はコロナ禍によって行くことができる場所が限られていることから人が集まるために、歩道に於いて離合するには困難な幅しかないことから砂浜に出てしまうのかも知れない。ここにハマヒルガオ群生林が復元されると、比良山系・琵琶湖、そしてハマヒルガオという〝滋賀らしい風景〟が戻ってくるのに違いないので、時間はかかるのかも知れないがいつの日かそんな景色をカメラに収めることができることを期待して次の目的地へと向かうことにする。

湖周道路と国道8号線を経由して野洲市三上へと向かう。三上山裏登山口の入口にあるのは天保義民碑である。天保13(1842)年に起こった近江天保一揆首謀者の野洲郡三上村の庄屋で、一揆の責任により江戸送りとなり獄死した土川平兵衛を義民として崇められ、明治維新後に正式に義民と認められたことによって作られた平兵衛神社(保民祠)や天保義民碑、天保の熱(ほとおり)という解説板、平兵衛が江戸送りになる際に石部宿で詠んだ辞世の句〝人のため 身を罪とがに 近江路を 別れて急ぐ 死出の旅立ち〟が刻まれた一揆150年記念で埋めらた2042年の200年に向けたタイムカプセルがある。一揆の歴史を綴る記録には栗太郡や野洲郡に関する参加者リストが残っていないという。その中で三上村庄屋として土川平兵衛の記録と功績が残っていることからも、一揆がなければ農民達の生活に大きな影響があったことを後世に伝えるべく石碑に刻んだに違いないことが伝わって来る。江戸時代には許すべからずの一揆ではあったが、この近江天保一揆が天保の改革を断行した水野忠邦の失脚に繋がったことは有名ではある。そして土川平兵衛他一揆の主導者が義民として認められたのは一揆後四半世紀の後明治維新を迎えてからということにはやるせない気持ちを覚えてしまう。現在では自らの命を顧みず、一揆を成功させた人物として義民碑の建立をはじめとする史跡に名を残している義民達。存命中は公には評価されなかったが、安らかに永遠の眠りについて欲しいと思った私であった。

天保義民碑に手を合わせた後思うところがあり、三上山裏登山口の防獣柵を開けて歩いて行く。妙見堂という名になにかあると思い歩き始めたのだが、健脚ではない者向けの裏登山道でも結構歩き辛い。暫く歩くと表・裏の登山道の分岐に至るが、木が生い茂っている場所故時間の割には暗いように見える。分岐を表登山道側に歩いて行けばさほど時間を要せずに行けたようだが、無理して事故に繋がることは避けたいという思いから諦めることにした。実はこの話には裏話があり妙光山と妙見堂を勘違いしていた。結果オーライではあるが、あのまま進んで行っていれば〝磨崖仏は何処?〟となっていたに違いない。時間的な余裕がなければ正しい判断すらできなくなることを改めて知った。

野洲の天保義民碑を訪れたので次は湖南市三雲の天保義民之碑へと向かうはずであった。このあたりの場所は車のナビには表示がない。そのためスマホナビを利用するのだが、道中湖南市立岩根小学校付近で〝磨崖不動明王像〟の表示を見つけた。徐々にではあるが夜の帳が下りて来ている現実から行先を変更してこちらを訪ねることにした。

集落内の狭い道を通り過ぎると、これまた狭い林道を走ることになる。特に狭い道だからと言って苦手感はないが、道路の広さを考えると下手すれば来た道をバックで戻らなければならないかもと心配になる。走ること数分で磨崖不動明王像の由来文が書かれた少し広めの場所に到着する。暗くなりつつある時間だったことから、磨崖仏に至る参道に掛けられたチェーンが〝自動車通行止め〟と勝手に解釈してしまい、急いで磨崖仏の足元に向かって歩いて行った。巨岩に彫られた巨大な不動明王像、彫られたのが江戸時代とされており、界隈の磨崖仏と比べるとかなり歴史が浅い。場所的に岩山にぽつんと不動明王像がある様子なので、修験道に関わる物だと言われている。しかし〝怒り〟の表情が伝わって来る像で、江戸時代の物と言われると〝近江天保一揆〟所縁のものではないかと考えても不思議ではない。天保年間に義民を讃えることなど大っぴらにできることではなかった。そんなご時世だったが故に、役人が来ない場所に怒りを込めた磨崖不動明王像を彫ったとしても不思議ではない。この辺りは推測の域を超えるものではないが、詳細もわかっていないことから考えても〝間違い〟とも言い切れない。史実はどうなのかはわからないが、そんなインスピレーションを私は感じたのであった。

像の下にある祠と不動明王像に手を合わせ、また機会があれば必ず訪れると報告し、もと来た道を戻って行く。一旦車へと戻るが入口のチェーンの意味は?という疑問が残りwebで調べてみる。そこで初めて落石があったことにより通行止めにされたことを知る。しまった…と思ったが後の祭り。基本この辺りは電波状況が悪く、落石のことまで表示されなかったという事が顛末である。渓谷を挟んだ道路からも見ることができると書かれていたため、現在駐車している場所から少し車を進め、渓谷越しに磨崖仏不動明王像を眺める。肉眼では見えるのだがスマホやカメラのファインダー越しだとよくわからない暗さになり、一か八かの〝記録写真〟を撮って車へと戻る。先述したUターンは出来ないのでそのままバックで進み、駐車スペースでスイッチターンをして方向転換をし、行きに上って来た林道を下って行く。花園集落に出て県道27号線を経て国道1号線栗東水口道路へと進む。本来ならばひたすら栗東水口道路を進めば、上鈎交差点で国道1号線に入ることができ一本道なのであるが、moveクンのナビは必ず石部大橋を渡ったところで右折し、県道4号線を進めと表示される。ナビの言うまま走ったが、後にスマホナビで確認するとやはり栗東水口道路を石部大橋で直進するルートで間違いないようだった。

いずれのルートでも帰り道には違いないのでそのまま進む。道中夕食の購入を言われていたことを思い出し、現在パチンコ屋となった以前のケイヨーD2栗東店駐車場に車を停めてスマホを弄る。牛丼屋のカレーというオーダーだったので帰り道の店舗を探す。検索結果は〝松弁〟、つまり松屋南草津店がヒットしたのでこちらにする。web予約もできPayPayによる事前支払いも可能だったので、全てを済ませ店舗に向かう。瀬田と並んで〝若者の街〟である南草津には私も知らない店も沢山ある。ちょっと遅れたが無事にピックアップを済ませラストランに挑む。野路中央から京滋バイパスへと入れば後はいつも通りの道。途中行きに立ち寄ったミニストップ大津石山寺3丁目店でタバコを購入し先を急ぐ。21:00少し過ぎに自宅に到着した。

やや無理がある紫陽花と義民碑、磨崖仏巡りであったが無事終了できた。暗さゆえにデータの少ない場所は補完するために再訪の必要性ありだが、まあ天気と休みの絡みを相談してまた改めて行こうと考えている。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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