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《2021.November》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXXII湖東三山~紅葉の百済寺編~<br /><br />気が付けば11月を迎えた。あと1ヶ月半すれば年を越す。適当にどこかへ行っているようにも思わなくはないが、取り上げる題材が〝花〟で纏まっていることを踏まえると〝ネタ切れ〟感が生半可ではない。いくつものタイトルの中に紛れ込むことはあったとしても、私の中での〝花〟はアクセント、つまり旅の記録の中で取り上げるレベルでしかない。今年に限って言うならば、コロナ禍での外出規制や人が集まる〝密〟の状況に対する〝防衛策〟として、野外で行われる人の集まらない場所というカテゴリーで訪れる場所を唐突に決めて行った。そんな背景から計画的な〝旅路〟となったものはほとんどなく、地図を見ながら訪れる場所を変えていくような場当たり的な旅が続いていたように思う。<br /><br />猛暑の中マスクをして外出し、汗をダラダラかきながら過ごしていた今年の夏。それがあっという間に上着を必要とする季節に代わってしまった。今年は桜の見頃が例年に比べて著しく早く、適当な時期に出かけたと思いきや既に散った後ということを体験した。それに加えて我が街滋賀県の〝緊急事態宣言〟発令の煽りを食らい、勤務時間の一部カットが行われた。その結果〝旅費〟を絞り出すことが困難になった時期もあり、泊りがけで出かけたのは、誕生日の日に受験した試験を大阪まで受けに行ったこと1回に留まっている。<br /><br />そんな先行きの明るくない現実をいつも嫌になるほど痛感しながらもどこかへ…という気持ちはどうしても出て来るのが私の性分。新聞に〝紅葉情報〟が掲載されたことをきっかけに連休を利用して〝チョイ旅〟に出かけることにした。行先は湖東三山のひとつ天台宗釈迦山百済寺に決める。確か所在が愛知郡愛東町だったと思いきや、あの良くわからない〝東近江市〟に吸収されたようである。百済寺は名神高速道路を走る〝ハイウェイバス〟の停留所が本線内にあるため、意外なところで有名な場所でもある。しかし百済寺バス停はあってもインターがある訳ではないので、百済寺に向かうには八日市インターで下りて国道307号線を走って行くルートが最も早い。別に急ぐ旅路ではないので下道を走って向かうが、我が家から向かうルートは参考にする〝地図〟でそれぞれ違うように書かれている。行きと帰りを変えてみようとルートをチョイスし、いつもの通りウダウダいつつ出発する。<br /><br />令和3(2021)年11月10日水曜日<br />一応離れた場所を目指すと考えていたので早めに起きる。出発は昼過ぎになったがいつもの通りローソン大津大平1丁目店に立ち寄り、一服の後ナビを設定して本格的に出発する。ナビによっては〝信楽経由〟を示すものもあったが、ここは定石のルートを選択する。1時間程度走ると〝御上神社〟前に到着し、一息を入れる。大きな駐車場は御神神社参拝客用ではあるが、三上山登山時にもこの駐車場を利用する旨が書かれており、外回りの休憩所を含めた〝寛大な利用〟ができる場所となっている。<br /><br />改めて国道8号線を走って行くが、途中一か所立ち寄りたいところがあったために寄り道をする。近江八幡市にある〝野田町コスモス畑〟がそれであるが、ここは滋賀県イチのコスモスの名所として知られている場所である。開催個所は毎年少しずつ異なるようだが凡そ滋賀県道28号線と近江鉄道万葉あかね線の間の休耕田を利用してコスモスが育てられている。ちなみに〝コスモス畑〟を見に行ったのは1ヶ月前の10月10日、その時に守山ではほぼ見頃を迎えていた。近江八幡が若干北東に位置するとはいえ…見頃はとうに終わっていた。勢いはなくとも〝咲いている〟ことは生命力の強い花であることを示すものであり、その〝草の根根性〟はいつも見習わなければ…と思うヘタレの私であった。この野崎町コスモス園であるが、見頃を迎える頃には近隣に駐車スペースがなく、JR近江八幡駅近辺のコインパーキングを利用して歩くか若しくは近江鉄道に乗車して武左駅から歩くかと書かれている。しかし行ったことがある職場の同僚は、車は停めなくてもゆっくり進みながら見れるよ~と言っていた。実際どっちが正しいのかを検証すると、確かに車を止めるスペースはない。コスモス畑内を走る農道は農道であって車が容易く離合できる幅もない。既に時機を逸しているためそれ程住民の方々もシビアになっておられないこともあるのであろうが、住宅に面する道路には駐車禁止の立て看板とコーンが置かれていた。守山では地域で駐車場を用意しているために行くことに対し深く考える必要もないが、こちらはある程度の下調べをしていった方が良いように思える場所であった。<br /><br />ただ訪れているもの好きは私だけなので、車を停めては写真を撮ってを繰り返し、15分程の滞在の後出発する。ここは距離優先の順路を選択し、八日市の市街地を経由して旧愛知郡愛東町へと入っていく。この辺りの地名は本当にややこしい。元来大津エリアの住民は〝我らが琵琶湖!〟というわりには、湖周を走らず逢坂山を越えて琵琶湖の水の提供を受けている京都・大阪へと向かう。それ故に琵琶湖の南に住みながら〝湖南エリア〟に加えて貰えない。湖南エリアといえば草津・栗東・守山・野洲・石部・甲西・水口辺りまでを指すと〝滋賀県民〟はいうようだが、確かにそうだと思うことが多い。竜王・近江八幡・東近江・愛荘・多賀辺りが湖東エリアで彦根・米原を飛ばして長浜が湖北、高島から大津市堅田付近までを湖西とする〝近江地区分類〟は、根っからの滋賀県民ならば間違いなく答えられることである。私自身大津に住んで長いのは事実ではあるが、生まれは京都市だ。高校で京都に舞い戻ってから後は東京・仙台と放浪した。外出するのは基本好きなのであるが、その時は飛行機と夜行バスで移動する。つまりそれなりの移動距離を伴う外出が多い。琵琶湖一周が約200kmあることはあまり知られてはいない事実である。しかしこの距離感は滋賀県民でも県内他エリアに移動するのに時間を要する理由となる。おまけに車を利用しなければ交通の便は頗る悪い。そんな理由から元々行くことがなかった近江八幡・八日市を中核とする湖東エリア、それが平成の大合併で〝東近江市〟という漠然とした地名になってしまうと、これから向かう先がどこにあるのか?から調べなければならない面倒な時間を費やすこととなる。今回の目的地である湖東三山百済寺であるが、元々は愛知郡(えちぐん)愛東町大字百済寺丁323という住所が、東近江市百済寺町323と変わった。またハイウェイバス名神高速線に〝百済寺BS〟がある。本線上にある高速バス専用のバス停であるが、歩行者はバス停を降りて約2km(20分)で百済寺に到着できるが、車の場合手前の八日市ICか先の湖東三山SITを利用することになる。高速バスの〝百済寺〟を知っていると知識が邪魔をして現在地がわからなくなってしまう。こう言った〝位置関係〟を理解するまでに色々と変わることが多過ぎて行く旅毎に〝何かが違う〟と感じる不思議なところでもある。それらの理由により実際の距離以上に感じる湖東三山百済寺には訪れた記憶がない。まあ幸いなことに今では〝カーナビ〟というものがあるので、細かな間違いはしたものの無事に目的地に到着することが出来た。<br /><br />駐車場にはやはり他府県ナンバーが目立っていた。いちゃもんをつける暇もないので入口へと向かう。三文と呼ばれる〝赤門〟はまた別の場所にあるはずだが、その参道は工事中との記載があり、なおかつそちらを潜って上がってくることはできないようだ。南庭を通り受付にて入山料600円を支払うと先ず庭園から拝観する。本坊庭園は阿弥陀如来様を祀る喜見院前に広がる滋賀県最大級とされる寺社庭園である。この庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園で現代鈍穴流(どんけつりゅう)の作法で作庭されている。とくに聖徳太子の願文に〝一宿を経るの輩は必ず一浄土に生る〟とあるが、これにちなんでこの庭も東の山には弥陀観音勢至の三尊をはじめ各菩薩に見たてて石を配している。これらの巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川から集められたものを組み合せて作庭されており、その他庭内には中世の石造品の残欠も多く見られる。本坊庭園は別名〝天下遠望の名園〟と称されており、西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で広大なパノラマ展望を望め、さらに往時には西方880km先には〝百済国〟が存在した。庭園内にある展望台〝遠望台〟では百済からの渡来人が母国を偲ぶ気持ちに触れることができ両国の深い交流関係が蘇ってくる。現在でも登録有形文化財の書院前に広がる池や紅葉、借景としての岩山、そして遠望台とコンパクトな作りながら風情が感じられる場所は、評判通り百済寺イチの場所であることに疑う余地の無い場所であった。<br /><br />遠望台を過ぎで参道に合流する。山寺らしく脚力の無い方向けに傾斜の緩やかな〝脇参道〟が設けられている。ヘタレにとっては楽して参拝できるのにこしたことはないが、見た目ではそれ程キツいものではなさそうだと判断し、表参道を登って行く。途中の仁王門には作家の五木寛之氏が願掛けをした〝大草鞋〟がある。またこの表参道を戦国時代に宣教師として来日していたルイスフロイスが〝天国への階段〟と例え、かの織田信長は安土城の〝本参道〟を造成する際の参考にしたという。16世紀初頭に時の近江守護六角高頼と守護代伊庭貞隆との勢力争いで灰燼に帰し、一時は復興するものの織田信長と六角義賢の争いに於いて百済寺が義賢を支援したとして、付近の寺院共々焼き討ちされている。信長が本能寺の変で横死すると堀秀政が仮本堂を建立したことに始まり、徳川の世の中になって寺領を安堵されたことで勢いを取り戻した。よって現存する建物の多くは江戸時代に再建されたものであり、推古天皇の時代に聖徳太子によって開山された頃の物は残存してはいない。勿論百済寺自体史料上の初見が平安中期の寛治3(1089)年ということからも聖徳太子の創建伝承がどこまで史実を反映したものかという点では疑問視されている。ただ百済寺という〝名称〟から考えると渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高いとは考えられている。また近江の天台宗寺院の多くが反信長の立場を取ったことから焼き討ちされたことも百済寺とて例外ではない。しかしその信長が自身の集大成として建立した〝安土城〟に焼き討ちをした百済寺の仕様を取り入れていることは興味深いことである。六角義賢が籠った鯰江城の他に出城としていた百済寺城が寺院に置かれ、城郭寺院の様子を呈していた。百済寺の焼き討ちの際に百済寺城も煤塵に帰したが、石垣等その遺構が残されており往時を偲ぶことができるのは興味深いことである。<br /><br />そんなことを考えながら阿吽の金剛力士像に睨まれながら参道を登って行く。左手に弁財天が見える頃には本堂が視認出来る。江戸時代初期の再建であるが、国の重文指定を受けている。収められている三体の仏像はいずれも旧愛東町現東近江市の重文指定を受けている。うち十一面観世音菩薩(植木観音)と呼ばれる半世紀に一度ご開帳される秘仏であり、聖徳太子が掘ったと伝わるものである。ただ実際には奈良時代のものとされており、伝承の域を超えるものではない。他は室町時代の作と伝わっており、本堂内で拝むことが可能である。百済寺自体に建造物が建立されている場所がそれ程広くはない上に数も少なく、ひとつの堂宇に収められている仏像の存在感が凄く大きなものに私自身にはそう思えた。<br /><br />本堂脇には三所権現社がある。本堂と同時期の建立とされ、熊野三山の主祭神を祀っており、東近江市の指定建造物となっている。境内マップには堂宇跡として幾つか記載はされているが、実際に向かう道路は歩けるのかどうか不明な部分があり、現存する建造物を参拝するだけに今回は留めておく。本堂脇には鐘楼もある。現在の梵鐘は3代目であり、昭和30(1955)年の鋳造のものである。初代は信長焼討ちの際に持ち帰られ、江戸時代に鋳造された2代目は先の大戦で供出している。このようなところにも第二次世界大戦の傷跡が残っていることを忘れてはならないと改めて思う。<br /><br />千年菩提樹は樹齢は推定約千年。この菩提樹は山号にちなんで古来より〝仏陀の聖樹〟として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えられてあったが天正元年4月7日に惜しくも信長の焼き討ちに遭い幹まで焼損した。幸いにも熱が根まで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っているそうだ。中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当しており、菩提樹の生命力の強さを今に伝えている。<br /><br />現本堂付近には百済寺城の他明らかに歴史ある石塔が建立されている。ひとつひとつ丁寧に見て回りたいようにも思うが、どうやら落ち葉掃除が始まったようなので下山して行く。石垣には百済寺城の遺構が残っている理由が書かれていた。信長が百済寺を焼き討ちした際、百済寺城も焼失している。通常であれば安土城造成の折に石垣を築くために落とした城の石垣を運ぶ〝石曳き〟が行われるのだが、百済寺城の石垣は比較的小さな石で出来ていたためにそのままにされたそうだ。六角義賢の出城だった百済寺城の石垣はそんな理由から元あった場所で見ることができる。<br /><br />そんな石垣に囲まれた参道を降りて行くと石仏の〝弥勒菩薩半跏石像(みろくはんかせきぞう)〟が見えてくる。座高1.75m・全高3.3mの石像は、百済寺の寺宝である秘仏金銅製弥勒像が普段は見ることができないために平素のお参りとして拡大したものとして平成8(2000)年のミレニアムを記念して建立されたものだと由緒書に刻まれていた。<br /><br />紅葉が始まったばかりの百済寺参道を降りて行く。表門は受付隣にあり、一見すると入口のようにも見えるが実は出口である。この辺りは私の思い違いもあるかも知れないが、赤門へと続く表参道は閉鎖されていたように記憶している。この百済寺は駐車場を利用すると必然的に通用門から南庭、そして受付を経て現本坊喜見院の庭園・遠望台から入山するようになっている。参拝後に表門を通過し下って行けば赤門に辿り着くような順路になっているようだ。しかし災害復旧が進んでいないのかも知れないが、境内マップに書かれているようには行かないように思われる。時間のこともあり今日のところは〝行ける場所〟のみ回ることにして終わりにする。<br /><br />南庭では444年前に途絶えた幻の酒〝百済寺樽〟を復活させて販売している。信長に焼き討ちされた際に途絶えてしまったようだが、4世紀半を経て復活したことは〝街おこし〟の一環に十分なりうる物のように感じた。私自身も〝限定物〟には弱いのだが、顔は〝呑兵衛〟そのものと評されるが全くの下戸であり、一年あたりのアルコール消費量が0mlというのも珍しくない。という訳で何事もなかった様に歩いて行き、駐車場へと戻って来た。<br /><br />すぐに出発するかと思いきや、駐車場脇にも名物があると言うことで立ち寄ってみる。長寿桜は10月から長ければ2月頃迄花が咲く〝寒緋桜〟の様だが、先程まで紅葉を見て来たことからの変化の様に少し顔が緩んでしまう。寒空に映える〝桜〟の花をカメラの機能に任せて撮影し、勢いで参拝をして一服はおろか飲み物も口にしていないことに気づき、コーヒーを片手に一服する。他府県ナンバーは早めに出て行く様で残っていた駐車車両は滋賀ナンバーが多かった。<br /><br />百済寺駐車場を出て方向上は帰路に就く。百済寺本町バス停付近で〝百済寺〟と刻まれた石碑を見つけカメラに収める。参道のひとつかと思いきやそうでもないようだ。元々この界隈の地域名〝百済寺本町〟というものも、往年の百済寺の敷地は大変広かったことから地名に〝百済寺○○〟と残したことに理由があるようだ。<br /><br />車に戻り走らせる。向かった先は再訪となる〝道の駅あいとうマーガレットステーション〟である。地元産物を販売するのは同じではあるが、県内道の駅では和洋折衷の物がバランス良く揃っている様に見える。私自身日帰り旅では土産物は買わない主義だが、湖東エリアならではのある〝商品〟はついつい買ってしまう傾向がある。知る人ぞ知る〝赤こんにゃく〟。派手好きの織田信長が広めたとされる物であるが、見たことがない方は必ず頬が緩んでしまうものでもある。売り場で見つけたので当たり前のように買ってみた。ただ持って帰ったところまーさんにダメ出しをされる。味付きの方が良かったと・・・。まあもうひとつ付け加えるならば製造場所は大津市であった。言っちゃ悪いが料理をしない者にはわからないことなんだから。<br /><br />またここ道の駅あいとうマーガレットステーションは、季節外れの〝花〟が見られる場所としても知られている。今のシーズンだとそれが〝ひまわり〟になる。夏のひまわりと比較すると小振りな物である〝秋ひまわり〟の花。しかし集まって花が咲く様は正に〝ミニチュア版ひまわり園〟そのものである。5本200円で切り取って持ち帰ることもできる様だが、やはりここはひまわり園として目を楽しませて貰うだけにしておく。<br /><br />営業時間が18:00というと道の駅では遅くまで営業している方だと思うが、さすがにその時間が過ぎ、多くの観光客が出発するのに合わせ、私も出発する。本日撮影したネガフィルムを発送するためにゆうゆう窓口のある郵便局に立ち寄りを考えるが国道307号線経由で帰ろうとすると水口郵便局が適当な場所の様だ。水口なんてと思っていたのは昔のこと。さすがに甲賀市の中心としてそこそこの混雑はしていた。定形外郵便にて発送しようとすると、まさかの〝規格外〟と言われる。勿論そのあたりはちゃんと測っているので、3cm超えていないことを測って貰う。こういうところはちゃんと言わなければ損をする。<br /><br />発送を済ませると再び国道307号線に戻り、西へと向かう。この辺りの道は良く分からないが新名神高速道路の開通で付け替えられた感がある。信楽インターを越えたところにある信楽高原鉄道紫香楽宮址駅に立ち寄って一息つくが、ここに立ち寄ったのはとある場所を確認する意味もあった。平成3(1991)年5月14日に起こった〝信楽高原鐵道列車衝突事故〟の慰霊碑を確認するためだ。知っている方は〝わかりやすい場所〟だというが私は知らない。紫香楽宮趾駅から徒歩7分と書かれていた。しかし生憎雨が降って来てしまった。カーナビにはその場所は記されてはいない。故にスマホナビを起動するが元々駐車場が設けられていないと書かれている。おまけに夜の闇が眺望を遮るために〝ココ〟という場所がわからない。仕方なしに2回程隣を通過し、何かの〝碑〟があることを確認できたので、3回目の正直でガードレールの隙間に車を頭から入れてハザードを炊く。理由を知らない方からはガードレールにぶつかったのかと思われる状態になっていたが、構わずに歩いて行く。雨が降っていたことから詳細を確認せずに手を合わせ、碑をカメラに収めて車に戻った。42名の死者が出た凄惨な鉄道事故ではあるが、30年と言う月日が事故を風化させることに危惧するとの新聞記事があったことから行程に組み込んだが、まさかの〝慰霊碑〟を見落としてしまい、慰霊碑建立の由来文と犠牲者記名碑のみカメラに収めるという失態を犯してしまった。慰霊碑は貴生川駅方面に向かう線路側に建立されている。当時国鉄時代の車両〝キハ58〟と信楽高原鉄道のレールバス〝SKR200〟型が正面衝突し、車両価格を安く上げたレールバスの脆さが鈍重、つまり頑丈な1960年代に製造されたキハ58に正面衝突した際の〝潰れ方〟が人命軽視とされ、旧国鉄を引き継いだ〝第三セクター〟会社の抱える〝資本問題〟が取り出さされた事故でもあった。事故の詳細については割愛するが、犠牲者に対する〝補償問題〟でも長年に渡り揉めに揉めて、信楽高原鉄道自体の存続問題にまで発展している。記録のために立ち寄った私なんぞは〝興味本位〟と取られるのかも知れないが、この場所が地図上にも取り上げられていないことも不思議に思え、実際に立ち寄った次第である。<br /><br />取り敢えず場所の特定はできたので改めて昼間に訪れることを心に留めて帰路につく。国道307号線を走る予定だったが、台風の被害による滋賀県道大津信楽線の代行ルートとして新名神高速道路の信楽インターと草津田上インター間が無料開放されているのを思い出し、そのルートを走ることにした。いくら夜で道が空いているとは言ってもあくまで一般道、スピードはそれなりにしか出すことはできない。その点ではさすが高速道路だけあってあっという間に草津田上インターに到着する。仮に瀬田東インターまで有料区間を走ったとしても、草津JCT迄迂回するルートになれば一般道の方が距離も近く時間もかからない。そんなルートを経由して無事自宅に帰って来られた。さすがに湖東三山迄足を伸ばせば走行距離は100kmを超えた。久しぶりに〝走った〟感がある今回の百済寺紅葉巡りの旅であった。<br /><br />  《終わり》

《2021.November》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXXII湖東三山~紅葉の百済寺編~

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《2021.November》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXXII湖東三山~紅葉の百済寺編~

気が付けば11月を迎えた。あと1ヶ月半すれば年を越す。適当にどこかへ行っているようにも思わなくはないが、取り上げる題材が〝花〟で纏まっていることを踏まえると〝ネタ切れ〟感が生半可ではない。いくつものタイトルの中に紛れ込むことはあったとしても、私の中での〝花〟はアクセント、つまり旅の記録の中で取り上げるレベルでしかない。今年に限って言うならば、コロナ禍での外出規制や人が集まる〝密〟の状況に対する〝防衛策〟として、野外で行われる人の集まらない場所というカテゴリーで訪れる場所を唐突に決めて行った。そんな背景から計画的な〝旅路〟となったものはほとんどなく、地図を見ながら訪れる場所を変えていくような場当たり的な旅が続いていたように思う。

猛暑の中マスクをして外出し、汗をダラダラかきながら過ごしていた今年の夏。それがあっという間に上着を必要とする季節に代わってしまった。今年は桜の見頃が例年に比べて著しく早く、適当な時期に出かけたと思いきや既に散った後ということを体験した。それに加えて我が街滋賀県の〝緊急事態宣言〟発令の煽りを食らい、勤務時間の一部カットが行われた。その結果〝旅費〟を絞り出すことが困難になった時期もあり、泊りがけで出かけたのは、誕生日の日に受験した試験を大阪まで受けに行ったこと1回に留まっている。

そんな先行きの明るくない現実をいつも嫌になるほど痛感しながらもどこかへ…という気持ちはどうしても出て来るのが私の性分。新聞に〝紅葉情報〟が掲載されたことをきっかけに連休を利用して〝チョイ旅〟に出かけることにした。行先は湖東三山のひとつ天台宗釈迦山百済寺に決める。確か所在が愛知郡愛東町だったと思いきや、あの良くわからない〝東近江市〟に吸収されたようである。百済寺は名神高速道路を走る〝ハイウェイバス〟の停留所が本線内にあるため、意外なところで有名な場所でもある。しかし百済寺バス停はあってもインターがある訳ではないので、百済寺に向かうには八日市インターで下りて国道307号線を走って行くルートが最も早い。別に急ぐ旅路ではないので下道を走って向かうが、我が家から向かうルートは参考にする〝地図〟でそれぞれ違うように書かれている。行きと帰りを変えてみようとルートをチョイスし、いつもの通りウダウダいつつ出発する。

令和3(2021)年11月10日水曜日
一応離れた場所を目指すと考えていたので早めに起きる。出発は昼過ぎになったがいつもの通りローソン大津大平1丁目店に立ち寄り、一服の後ナビを設定して本格的に出発する。ナビによっては〝信楽経由〟を示すものもあったが、ここは定石のルートを選択する。1時間程度走ると〝御上神社〟前に到着し、一息を入れる。大きな駐車場は御神神社参拝客用ではあるが、三上山登山時にもこの駐車場を利用する旨が書かれており、外回りの休憩所を含めた〝寛大な利用〟ができる場所となっている。

改めて国道8号線を走って行くが、途中一か所立ち寄りたいところがあったために寄り道をする。近江八幡市にある〝野田町コスモス畑〟がそれであるが、ここは滋賀県イチのコスモスの名所として知られている場所である。開催個所は毎年少しずつ異なるようだが凡そ滋賀県道28号線と近江鉄道万葉あかね線の間の休耕田を利用してコスモスが育てられている。ちなみに〝コスモス畑〟を見に行ったのは1ヶ月前の10月10日、その時に守山ではほぼ見頃を迎えていた。近江八幡が若干北東に位置するとはいえ…見頃はとうに終わっていた。勢いはなくとも〝咲いている〟ことは生命力の強い花であることを示すものであり、その〝草の根根性〟はいつも見習わなければ…と思うヘタレの私であった。この野崎町コスモス園であるが、見頃を迎える頃には近隣に駐車スペースがなく、JR近江八幡駅近辺のコインパーキングを利用して歩くか若しくは近江鉄道に乗車して武左駅から歩くかと書かれている。しかし行ったことがある職場の同僚は、車は停めなくてもゆっくり進みながら見れるよ~と言っていた。実際どっちが正しいのかを検証すると、確かに車を止めるスペースはない。コスモス畑内を走る農道は農道であって車が容易く離合できる幅もない。既に時機を逸しているためそれ程住民の方々もシビアになっておられないこともあるのであろうが、住宅に面する道路には駐車禁止の立て看板とコーンが置かれていた。守山では地域で駐車場を用意しているために行くことに対し深く考える必要もないが、こちらはある程度の下調べをしていった方が良いように思える場所であった。

ただ訪れているもの好きは私だけなので、車を停めては写真を撮ってを繰り返し、15分程の滞在の後出発する。ここは距離優先の順路を選択し、八日市の市街地を経由して旧愛知郡愛東町へと入っていく。この辺りの地名は本当にややこしい。元来大津エリアの住民は〝我らが琵琶湖!〟というわりには、湖周を走らず逢坂山を越えて琵琶湖の水の提供を受けている京都・大阪へと向かう。それ故に琵琶湖の南に住みながら〝湖南エリア〟に加えて貰えない。湖南エリアといえば草津・栗東・守山・野洲・石部・甲西・水口辺りまでを指すと〝滋賀県民〟はいうようだが、確かにそうだと思うことが多い。竜王・近江八幡・東近江・愛荘・多賀辺りが湖東エリアで彦根・米原を飛ばして長浜が湖北、高島から大津市堅田付近までを湖西とする〝近江地区分類〟は、根っからの滋賀県民ならば間違いなく答えられることである。私自身大津に住んで長いのは事実ではあるが、生まれは京都市だ。高校で京都に舞い戻ってから後は東京・仙台と放浪した。外出するのは基本好きなのであるが、その時は飛行機と夜行バスで移動する。つまりそれなりの移動距離を伴う外出が多い。琵琶湖一周が約200kmあることはあまり知られてはいない事実である。しかしこの距離感は滋賀県民でも県内他エリアに移動するのに時間を要する理由となる。おまけに車を利用しなければ交通の便は頗る悪い。そんな理由から元々行くことがなかった近江八幡・八日市を中核とする湖東エリア、それが平成の大合併で〝東近江市〟という漠然とした地名になってしまうと、これから向かう先がどこにあるのか?から調べなければならない面倒な時間を費やすこととなる。今回の目的地である湖東三山百済寺であるが、元々は愛知郡(えちぐん)愛東町大字百済寺丁323という住所が、東近江市百済寺町323と変わった。またハイウェイバス名神高速線に〝百済寺BS〟がある。本線上にある高速バス専用のバス停であるが、歩行者はバス停を降りて約2km(20分)で百済寺に到着できるが、車の場合手前の八日市ICか先の湖東三山SITを利用することになる。高速バスの〝百済寺〟を知っていると知識が邪魔をして現在地がわからなくなってしまう。こう言った〝位置関係〟を理解するまでに色々と変わることが多過ぎて行く旅毎に〝何かが違う〟と感じる不思議なところでもある。それらの理由により実際の距離以上に感じる湖東三山百済寺には訪れた記憶がない。まあ幸いなことに今では〝カーナビ〟というものがあるので、細かな間違いはしたものの無事に目的地に到着することが出来た。

駐車場にはやはり他府県ナンバーが目立っていた。いちゃもんをつける暇もないので入口へと向かう。三文と呼ばれる〝赤門〟はまた別の場所にあるはずだが、その参道は工事中との記載があり、なおかつそちらを潜って上がってくることはできないようだ。南庭を通り受付にて入山料600円を支払うと先ず庭園から拝観する。本坊庭園は阿弥陀如来様を祀る喜見院前に広がる滋賀県最大級とされる寺社庭園である。この庭は東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園で現代鈍穴流(どんけつりゅう)の作法で作庭されている。とくに聖徳太子の願文に〝一宿を経るの輩は必ず一浄土に生る〟とあるが、これにちなんでこの庭も東の山には弥陀観音勢至の三尊をはじめ各菩薩に見たてて石を配している。これらの巨石は旧本坊庭園とさらに百済寺山内の谷川から集められたものを組み合せて作庭されており、その他庭内には中世の石造品の残欠も多く見られる。本坊庭園は別名〝天下遠望の名園〟と称されており、西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で広大なパノラマ展望を望め、さらに往時には西方880km先には〝百済国〟が存在した。庭園内にある展望台〝遠望台〟では百済からの渡来人が母国を偲ぶ気持ちに触れることができ両国の深い交流関係が蘇ってくる。現在でも登録有形文化財の書院前に広がる池や紅葉、借景としての岩山、そして遠望台とコンパクトな作りながら風情が感じられる場所は、評判通り百済寺イチの場所であることに疑う余地の無い場所であった。

遠望台を過ぎで参道に合流する。山寺らしく脚力の無い方向けに傾斜の緩やかな〝脇参道〟が設けられている。ヘタレにとっては楽して参拝できるのにこしたことはないが、見た目ではそれ程キツいものではなさそうだと判断し、表参道を登って行く。途中の仁王門には作家の五木寛之氏が願掛けをした〝大草鞋〟がある。またこの表参道を戦国時代に宣教師として来日していたルイスフロイスが〝天国への階段〟と例え、かの織田信長は安土城の〝本参道〟を造成する際の参考にしたという。16世紀初頭に時の近江守護六角高頼と守護代伊庭貞隆との勢力争いで灰燼に帰し、一時は復興するものの織田信長と六角義賢の争いに於いて百済寺が義賢を支援したとして、付近の寺院共々焼き討ちされている。信長が本能寺の変で横死すると堀秀政が仮本堂を建立したことに始まり、徳川の世の中になって寺領を安堵されたことで勢いを取り戻した。よって現存する建物の多くは江戸時代に再建されたものであり、推古天皇の時代に聖徳太子によって開山された頃の物は残存してはいない。勿論百済寺自体史料上の初見が平安中期の寛治3(1089)年ということからも聖徳太子の創建伝承がどこまで史実を反映したものかという点では疑問視されている。ただ百済寺という〝名称〟から考えると渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高いとは考えられている。また近江の天台宗寺院の多くが反信長の立場を取ったことから焼き討ちされたことも百済寺とて例外ではない。しかしその信長が自身の集大成として建立した〝安土城〟に焼き討ちをした百済寺の仕様を取り入れていることは興味深いことである。六角義賢が籠った鯰江城の他に出城としていた百済寺城が寺院に置かれ、城郭寺院の様子を呈していた。百済寺の焼き討ちの際に百済寺城も煤塵に帰したが、石垣等その遺構が残されており往時を偲ぶことができるのは興味深いことである。

そんなことを考えながら阿吽の金剛力士像に睨まれながら参道を登って行く。左手に弁財天が見える頃には本堂が視認出来る。江戸時代初期の再建であるが、国の重文指定を受けている。収められている三体の仏像はいずれも旧愛東町現東近江市の重文指定を受けている。うち十一面観世音菩薩(植木観音)と呼ばれる半世紀に一度ご開帳される秘仏であり、聖徳太子が掘ったと伝わるものである。ただ実際には奈良時代のものとされており、伝承の域を超えるものではない。他は室町時代の作と伝わっており、本堂内で拝むことが可能である。百済寺自体に建造物が建立されている場所がそれ程広くはない上に数も少なく、ひとつの堂宇に収められている仏像の存在感が凄く大きなものに私自身にはそう思えた。

本堂脇には三所権現社がある。本堂と同時期の建立とされ、熊野三山の主祭神を祀っており、東近江市の指定建造物となっている。境内マップには堂宇跡として幾つか記載はされているが、実際に向かう道路は歩けるのかどうか不明な部分があり、現存する建造物を参拝するだけに今回は留めておく。本堂脇には鐘楼もある。現在の梵鐘は3代目であり、昭和30(1955)年の鋳造のものである。初代は信長焼討ちの際に持ち帰られ、江戸時代に鋳造された2代目は先の大戦で供出している。このようなところにも第二次世界大戦の傷跡が残っていることを忘れてはならないと改めて思う。

千年菩提樹は樹齢は推定約千年。この菩提樹は山号にちなんで古来より〝仏陀の聖樹〟として崇められ、旧本堂の前庭であるこの地に植えられてあったが天正元年4月7日に惜しくも信長の焼き討ちに遭い幹まで焼損した。幸いにも熱が根まで及ばなかったために、幹の周囲から再び蘇って今日に至っているそうだ。中央の空洞部(直径80cm)は焼き討ち当時の幹の直径に相当しており、菩提樹の生命力の強さを今に伝えている。

現本堂付近には百済寺城の他明らかに歴史ある石塔が建立されている。ひとつひとつ丁寧に見て回りたいようにも思うが、どうやら落ち葉掃除が始まったようなので下山して行く。石垣には百済寺城の遺構が残っている理由が書かれていた。信長が百済寺を焼き討ちした際、百済寺城も焼失している。通常であれば安土城造成の折に石垣を築くために落とした城の石垣を運ぶ〝石曳き〟が行われるのだが、百済寺城の石垣は比較的小さな石で出来ていたためにそのままにされたそうだ。六角義賢の出城だった百済寺城の石垣はそんな理由から元あった場所で見ることができる。

そんな石垣に囲まれた参道を降りて行くと石仏の〝弥勒菩薩半跏石像(みろくはんかせきぞう)〟が見えてくる。座高1.75m・全高3.3mの石像は、百済寺の寺宝である秘仏金銅製弥勒像が普段は見ることができないために平素のお参りとして拡大したものとして平成8(2000)年のミレニアムを記念して建立されたものだと由緒書に刻まれていた。

紅葉が始まったばかりの百済寺参道を降りて行く。表門は受付隣にあり、一見すると入口のようにも見えるが実は出口である。この辺りは私の思い違いもあるかも知れないが、赤門へと続く表参道は閉鎖されていたように記憶している。この百済寺は駐車場を利用すると必然的に通用門から南庭、そして受付を経て現本坊喜見院の庭園・遠望台から入山するようになっている。参拝後に表門を通過し下って行けば赤門に辿り着くような順路になっているようだ。しかし災害復旧が進んでいないのかも知れないが、境内マップに書かれているようには行かないように思われる。時間のこともあり今日のところは〝行ける場所〟のみ回ることにして終わりにする。

南庭では444年前に途絶えた幻の酒〝百済寺樽〟を復活させて販売している。信長に焼き討ちされた際に途絶えてしまったようだが、4世紀半を経て復活したことは〝街おこし〟の一環に十分なりうる物のように感じた。私自身も〝限定物〟には弱いのだが、顔は〝呑兵衛〟そのものと評されるが全くの下戸であり、一年あたりのアルコール消費量が0mlというのも珍しくない。という訳で何事もなかった様に歩いて行き、駐車場へと戻って来た。

すぐに出発するかと思いきや、駐車場脇にも名物があると言うことで立ち寄ってみる。長寿桜は10月から長ければ2月頃迄花が咲く〝寒緋桜〟の様だが、先程まで紅葉を見て来たことからの変化の様に少し顔が緩んでしまう。寒空に映える〝桜〟の花をカメラの機能に任せて撮影し、勢いで参拝をして一服はおろか飲み物も口にしていないことに気づき、コーヒーを片手に一服する。他府県ナンバーは早めに出て行く様で残っていた駐車車両は滋賀ナンバーが多かった。

百済寺駐車場を出て方向上は帰路に就く。百済寺本町バス停付近で〝百済寺〟と刻まれた石碑を見つけカメラに収める。参道のひとつかと思いきやそうでもないようだ。元々この界隈の地域名〝百済寺本町〟というものも、往年の百済寺の敷地は大変広かったことから地名に〝百済寺○○〟と残したことに理由があるようだ。

車に戻り走らせる。向かった先は再訪となる〝道の駅あいとうマーガレットステーション〟である。地元産物を販売するのは同じではあるが、県内道の駅では和洋折衷の物がバランス良く揃っている様に見える。私自身日帰り旅では土産物は買わない主義だが、湖東エリアならではのある〝商品〟はついつい買ってしまう傾向がある。知る人ぞ知る〝赤こんにゃく〟。派手好きの織田信長が広めたとされる物であるが、見たことがない方は必ず頬が緩んでしまうものでもある。売り場で見つけたので当たり前のように買ってみた。ただ持って帰ったところまーさんにダメ出しをされる。味付きの方が良かったと・・・。まあもうひとつ付け加えるならば製造場所は大津市であった。言っちゃ悪いが料理をしない者にはわからないことなんだから。

またここ道の駅あいとうマーガレットステーションは、季節外れの〝花〟が見られる場所としても知られている。今のシーズンだとそれが〝ひまわり〟になる。夏のひまわりと比較すると小振りな物である〝秋ひまわり〟の花。しかし集まって花が咲く様は正に〝ミニチュア版ひまわり園〟そのものである。5本200円で切り取って持ち帰ることもできる様だが、やはりここはひまわり園として目を楽しませて貰うだけにしておく。

営業時間が18:00というと道の駅では遅くまで営業している方だと思うが、さすがにその時間が過ぎ、多くの観光客が出発するのに合わせ、私も出発する。本日撮影したネガフィルムを発送するためにゆうゆう窓口のある郵便局に立ち寄りを考えるが国道307号線経由で帰ろうとすると水口郵便局が適当な場所の様だ。水口なんてと思っていたのは昔のこと。さすがに甲賀市の中心としてそこそこの混雑はしていた。定形外郵便にて発送しようとすると、まさかの〝規格外〟と言われる。勿論そのあたりはちゃんと測っているので、3cm超えていないことを測って貰う。こういうところはちゃんと言わなければ損をする。

発送を済ませると再び国道307号線に戻り、西へと向かう。この辺りの道は良く分からないが新名神高速道路の開通で付け替えられた感がある。信楽インターを越えたところにある信楽高原鉄道紫香楽宮址駅に立ち寄って一息つくが、ここに立ち寄ったのはとある場所を確認する意味もあった。平成3(1991)年5月14日に起こった〝信楽高原鐵道列車衝突事故〟の慰霊碑を確認するためだ。知っている方は〝わかりやすい場所〟だというが私は知らない。紫香楽宮趾駅から徒歩7分と書かれていた。しかし生憎雨が降って来てしまった。カーナビにはその場所は記されてはいない。故にスマホナビを起動するが元々駐車場が設けられていないと書かれている。おまけに夜の闇が眺望を遮るために〝ココ〟という場所がわからない。仕方なしに2回程隣を通過し、何かの〝碑〟があることを確認できたので、3回目の正直でガードレールの隙間に車を頭から入れてハザードを炊く。理由を知らない方からはガードレールにぶつかったのかと思われる状態になっていたが、構わずに歩いて行く。雨が降っていたことから詳細を確認せずに手を合わせ、碑をカメラに収めて車に戻った。42名の死者が出た凄惨な鉄道事故ではあるが、30年と言う月日が事故を風化させることに危惧するとの新聞記事があったことから行程に組み込んだが、まさかの〝慰霊碑〟を見落としてしまい、慰霊碑建立の由来文と犠牲者記名碑のみカメラに収めるという失態を犯してしまった。慰霊碑は貴生川駅方面に向かう線路側に建立されている。当時国鉄時代の車両〝キハ58〟と信楽高原鉄道のレールバス〝SKR200〟型が正面衝突し、車両価格を安く上げたレールバスの脆さが鈍重、つまり頑丈な1960年代に製造されたキハ58に正面衝突した際の〝潰れ方〟が人命軽視とされ、旧国鉄を引き継いだ〝第三セクター〟会社の抱える〝資本問題〟が取り出さされた事故でもあった。事故の詳細については割愛するが、犠牲者に対する〝補償問題〟でも長年に渡り揉めに揉めて、信楽高原鉄道自体の存続問題にまで発展している。記録のために立ち寄った私なんぞは〝興味本位〟と取られるのかも知れないが、この場所が地図上にも取り上げられていないことも不思議に思え、実際に立ち寄った次第である。

取り敢えず場所の特定はできたので改めて昼間に訪れることを心に留めて帰路につく。国道307号線を走る予定だったが、台風の被害による滋賀県道大津信楽線の代行ルートとして新名神高速道路の信楽インターと草津田上インター間が無料開放されているのを思い出し、そのルートを走ることにした。いくら夜で道が空いているとは言ってもあくまで一般道、スピードはそれなりにしか出すことはできない。その点ではさすが高速道路だけあってあっという間に草津田上インターに到着する。仮に瀬田東インターまで有料区間を走ったとしても、草津JCT迄迂回するルートになれば一般道の方が距離も近く時間もかからない。そんなルートを経由して無事自宅に帰って来られた。さすがに湖東三山迄足を伸ばせば走行距離は100kmを超えた。久しぶりに〝走った〟感がある今回の百済寺紅葉巡りの旅であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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