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《2021. August》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVIII瀬田~身近な歴史探訪編~<br /><br />昨日コロナワクチンの2回目接種を済ませた。一回目の接種の際は左上腕部の〝違和感〟が4日程続いたがそれ以上の副反応は現れなかった。そのことに味を占めて油断していたのもあるが、2回目もその程度だろうとタカを括っていた。しかしその考えは脆くも崩れ去る。今朝明るくなってから目を覚ました瞬間、今までに味わったことのない体調不良。頭痛・関節痛・全身の倦怠感・悪寒等、酷い風邪の症状が全て出てきてしまった。枕元に置いておいた解熱鎮痛剤と消炎鎮痛剤、この症状であれば後者を利用する筈だが後で見ると逆を飲んでいたことが分かった。<br /><br />ほぼ無意識のうちに行動していたようだが、ひとつまわりの二回接種を終えていた同僚達と同じことを〝やっていない〟ことに気付く。38.5℃出た等と聞いてはいたが、それ以前に〝体温〟を測る余裕は全くなかった・・・。取り敢えず二度寝して回復を図る。昼過ぎにはフラつきがなくなってのでダイニングへと向かうが、その時でも37.5℃はあったのは覚えている。やっと落ち着いたと思えば、せっかくの休み故外出したい願望に襲われる。ただ遠方まで出かけて体調不良に悩まされるのも嫌なので、近隣の〝探索〟を掲げて行ったことのない場所を回ることにした。<br /><br />令和3(2021)年8月21日土曜日<br />体調が落ち着いたことに気を良くして出発する。先ずは近江国衙跡。近江国庁(こくちょう)跡、三大寺遺跡とも呼ばれている。滋賀県大津市大江三丁目・大江六丁目・三大寺に所在しており、律令制下の地方行政機関の施設跡であるが、昭和10(1935)年に近江国庁は栗太郡瀬田町大江(現在の大津市大江三丁目)付近であると歴史地理学者によって学会誌に発表されたことに歴史遺産として名称が上がるようになった。奈良時代に始まる律令制下の地方行政の中心地ではあるが、国庁と呼ばれるその時代の遺構は日本全国でもほとんど不明だったこともあり、この近江国庁も具体的位置や構造も詳細不明であり、〝類聚抄(わみょうるいじゅしょう)〟や〝拾芥抄(しゅうがいしょう)〟といった平安時代・南北朝時代にそれぞれ編纂されたた類書(百科事典)によって栗太郡内にあったことが記されていたに過ぎなかったとされている。<br /><br />その発表が裏付けられたのは昭和38(1963)年と昭和40(1965)年に行われた発掘調査により、近江国庁の中枢部が確認されている。敷地は870~970m四方の広さがあり、その南端中央部に東西220m・南北330mの国衙が置かれていたと推測されている。国庁地区の中心部には四方を築地塀で囲まれた内郭(政庁)があり、その広さは東西72.8m・南北は推定109mとわかっている。この政庁の建物は瓦積基壇からなる4軒の瓦葺きの建物から成っており、国庁の中軸線を中心に左右対称に配置されていた。<br /><br />また基壇の上に東西23.0m・南北15.0mと推定される正殿の前殿があり、その後に南北を3m程小さくしたような正殿の後殿があり、廊が付けられている。前殿の両側には南北に長く延びる東西の脇殿が配置されており、基壇の規模は南北48.5m・東西9.2mとなっている。ちなみにこの脇殿も前殿と廊で結ばれている。<br /><br />近江国庁の遺構は前後ふたつの時期に区分されている。前期は奈良時代中頃まで、後期は同時代末から平安時代初期以降に建築されたものと推測されており、国庁自体は10世紀末頃までは存続したと考えられている。<br /><br />この近江国庁跡の発掘調査により地方行政機関の中枢部の様子が明らかにされ、その構造が中央政庁の平城宮の大極殿や朝堂院などを構えるものに似通っており、それらとも共通する機能を持っていることも明らかになっている。この近江国庁という〝日本初〟の古代中世の地方行政機関の発掘で分かったことが参考となり、その後各国の国府の推定地や政庁の構造・変遷が明らかになりつつあり現在に至っている。<br /><br />日本初の発掘となった近江国庁跡は、その貴重性から昭和48(1973)年3月15日に国の史跡名勝天然記念物に指定されている。その後に発掘された周辺の惣山遺跡・青江遺跡・中路遺跡も関連史跡とみなされて平成28(2016)年10月3日に追加指定を受けている。歴史学と言う観点からすると凄い発見なのであろうが、実はこの国庁跡発掘は〝遺跡発掘〟で見つかったというより、団地造成中に〝偶然見つかった〟と地元では言われている。今から約半世紀前に〝びわこ大博覧会〟が滋賀県大津市におの浜一帯の埋め立て地で行われた。その埋め立てるための〝土〟を近隣の山から掘り出して調達し、その跡地を〝公営団地〟として入居者を募集し、大津市人口を増やしたとされる出来事があった。近江国庁跡と言われるこの辺り一帯は、〝神領団地〟という公営住宅を建設するために山を切り崩していた。その過程に於いて国庁跡が見つかったとされている。勿論今ではそんな昔のことを詳細に期している文献もないために詳細もわからないのだが、団地建設用地の一角を国庁跡地として発掘し続けるというものであったらしい。そんな都市伝説があるため、近江国庁跡地を良く知らない者も少なくないのが現実である。というのも私自身すんなりと訪れることができなかった場所であった。<br /><br />この界隈はその昔は団地しかなく難なく訪れることができた場所だと言われている。しかし今では色々な住居が乱立する場所のひとつとなっており、公道なのか私道なのかわからない道を走らねばならないことに注意して欲しい。<br /><br />近江の〝国司〟として赴任したのは藤原仲麻呂、あの恵美押勝の乱を起こして敗死した人物である。仲麻呂にとって近江は祖父・父と三代に渡る拠点であり、物流や人の流れに欠かせない場所としてその権益を一手に握っていたと言われている。彼は近江国司に任ぜられた後、幻の都と言われる〝保良宮〟造営を進めたことでも知られている。孝謙天皇から譲位を受け践祚した第47代淳仁天皇。同時に孝謙天皇は太上天皇(孝謙上皇)となった折、二人の保良宮行幸を実現させている。身内同然の淳仁天皇を巧みに操り、保良宮遷都を実現させようとするが、保良宮で体調を崩した孝謙上皇をあの道鏡が看病したことで治癒して以降孝謙上皇は何時も道鏡に意見を求めるようになる。それに対しそのことを良く思わない淳仁天皇は、何時も意見するようになって行ったとされている。ここに孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂の二大勢力が争うことに繋がって行く。仲麻呂は順調に一族共々出世をするが、後ろ盾の光明皇后の逝去によって以降翳りを見せ始める。それに加えて孝謙上皇が益々道鏡への信任は次第に深まって行き、逆に淳仁天皇と仲麻呂を抑圧するようになっていく。焦った仲麻呂は都に兵力を集めて軍事力を以って政権を奪取しようと画策する。しかしその計画は孝謙上皇側に筒抜けであり、先ず淳仁天皇が中宮院内に幽閉され、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を孝謙上皇側に奪われてしまう。孝謙上皇は勅旨で仲麻呂一族の官位剥奪・藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言する。その後自らの拠点であった近江国庁を目指すが、仲麻呂政権下で虐げられていた吉備真備が孝謙上皇の命を受け仲麻呂追討軍を率いることとなる。近江国庁へのルートを先回りされて遮断されると仲麻呂は琵琶湖を船で渡り、子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図ろうとするが、これも先手を打たれて辛加知は殺害される。越前への主要入口である愛発関(あらちのせき)は、既に仲麻呂追討軍が固関(こげん)していた。逃げる場所は湖西を南下するしかなかった仲麻呂の軍勢は、近江国高島郡勝野で最後の抵抗をするが孝謙上皇の軍勢に攻められて敗北する。仲麻呂は湖に舟を漕ぎ出し逃亡を図るが、追討軍の坂上石楯に捕らえられ斬首された。享年59歳。その際に仲麻呂の一族郎党34名もその地で処刑されている。<br /><br />藤原仲麻呂の乱が鎮圧されると、朝廷内から仲麻呂色が一掃された。淳仁天皇は廃位され淡路島に流罪となりその地で崩御する。享年32歳。淳仁天皇廃位後には孝謙上皇は重祚して第48代称徳天皇となった。一方淡路に流罪となった先帝の下にも通う官人らも多く、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていたことから、危機感をもった称徳天皇は現地の国守に警戒の強化を命じた。亡くなったとされる時にも逃亡を図ったとする記録が残ってはいるが、その結果翌日に院中で亡くなっている。公式には病死となっているが、おそらく暗殺されたとする説が濃厚であり、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。また敵方となった称徳天皇の意向から長らく歴代天皇の一人と認められず、淡路廃帝・廃帝と呼ばれていたが、明治期に諡号が復活し〝第47代淳仁天皇〟と書き改められた。<br /><br />そんな時代背景や国守が赴任していたことは由緒書には書かれてはいない。藤原仲麻呂が近江国庁を離れず、かつ反乱を起こした際に拠点にしようと企んだのは他ならぬ地理の利と経済的事由であることは疑いない史実である。地方政庁発見のきっかけにはなった近江国庁跡ではあるが、この場所にはそんな曰くがあった事を忘れてはいけない。<br /><br />復元された国庁建造物をカメラに収め車へと戻る。次の目的地は大江にある御霊神社である。直線距離にするとたかが知れている距離だが、車で行くには結構遠回りとなる。これは近江国庁跡・御霊神社共々住宅地の中にあるからに他ならない。御霊神社も正面には車を停めるスペースはない。道もクランク状になっているために車を停めると他の車が通るのに支障をきたす。神社沿いに農道擬きがあるので今回はそちらに停めたが、神社を回り込むように進むと裏口のような入口があり、その前は若干道路幅が広くなっており、そちらに停めた方が良いだろう。<br /><br />御霊神社というものは日本全国にあるが、御祭神は様々であるようだ。辞書的な言い方をすれば〝怨霊信仰によって祀られた神社〟という風に書かれている。因みにこの界隈には北大路・鳥居川、そして大江と三社の御霊神社が鎮座している。御祭神はいずれも〝弘文天皇(大友皇子)〟となっているが、これは古代最大の内乱と言われる壬申の乱が起こり、近江朝廷軍を率いた第38代天智天皇の第一皇子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子(第40代天武天皇)率いる大和朝廷の軍勢とが激突したものである。最初こそ優勢に戦いを進めていた近江朝廷軍ではあったが、全国から兵を集めることに失敗し、劣勢を強いられるようになる。そして壬申の乱最後の戦いと言われる〝瀬田橋の戦い〟に於いて近江朝廷軍は敗北し、大友皇子は付近の林に於いて自害した。戦に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造り即位し、第40代天武天皇となる。大友皇子が実際に即位したのかは不明であり、かつ仮に即位していても在位期間は7ヶ月と大変短かったことから長きに渡り歴代天皇として認められなかった。しかし明治期に入り諡号勅定が復活した際、第39代弘文天皇と追号されて歴代天皇の一人となったという経緯がある。実際に父親の天智天皇が逝去した後、自害するまでの期間があまりにも短いことからも、皇族としての扱いも微妙であった。加えて乱に於ける敗者となったことから蔑ろにされがちだったようだが、凄惨な状況下での死亡だったことから天武天皇治世下で起こった様々な出来事が大友皇子の祟りだと考えられた部分もあり、その霊を鎮めるという意向で、大友皇子最後の地となった瀬田橋の近郊に御祭神として大友皇子を祀る御霊神社が造られたと言われている。近江朝最後の天皇である弘文天皇の評判は地元では悪くはなく、寧ろ良い意味で捉えられていることもあり、集落内にひとつずつ設ける〝村社〟として御霊神社がその役割を担うこととなったと伝わっている。それが社格の割に立派な建造物から成り立っていると言われる所以かも知れないが、悲劇の皇子を祀っているには違いないため、時代が違えばまた違った人生だったかも知れないと残念な気持ちになりつつも、ここでは〝安らかにお眠り下さい〟という気持ちで手を合わせる。<br /><br />近場にあれど訪れる機会が無かったふたつの史跡を訪ねて今日のミッションは終えることにする。数時間前にはワクチン接種の副反応でのたうち回っていた私であったのでこれ以上欲張る事をせずに家に帰ることにした。車と歩きで移動した距離は非常に短いが、内容は濃いものだったと自分では思えた。<br /><br />本来ならば〝休養〟のために与えられた今日一日であったが、幸いなことに翌日に持ち越すような体調不良には見舞われなかった。ただ安静にしているだけではこのご時世故身体が鈍るだけだと信じて出歩いた〝近隣史跡〟を巡る旅であったが、まあ自分なりには満足出来るものになったので良しとしよう・・・そんな今日の旅路であった。<br /><br />  《終わり》

《2021. August》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVIII瀬田~身近な歴史探訪編~

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《2021. August》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVIII瀬田~身近な歴史探訪編~

昨日コロナワクチンの2回目接種を済ませた。一回目の接種の際は左上腕部の〝違和感〟が4日程続いたがそれ以上の副反応は現れなかった。そのことに味を占めて油断していたのもあるが、2回目もその程度だろうとタカを括っていた。しかしその考えは脆くも崩れ去る。今朝明るくなってから目を覚ました瞬間、今までに味わったことのない体調不良。頭痛・関節痛・全身の倦怠感・悪寒等、酷い風邪の症状が全て出てきてしまった。枕元に置いておいた解熱鎮痛剤と消炎鎮痛剤、この症状であれば後者を利用する筈だが後で見ると逆を飲んでいたことが分かった。

ほぼ無意識のうちに行動していたようだが、ひとつまわりの二回接種を終えていた同僚達と同じことを〝やっていない〟ことに気付く。38.5℃出た等と聞いてはいたが、それ以前に〝体温〟を測る余裕は全くなかった・・・。取り敢えず二度寝して回復を図る。昼過ぎにはフラつきがなくなってのでダイニングへと向かうが、その時でも37.5℃はあったのは覚えている。やっと落ち着いたと思えば、せっかくの休み故外出したい願望に襲われる。ただ遠方まで出かけて体調不良に悩まされるのも嫌なので、近隣の〝探索〟を掲げて行ったことのない場所を回ることにした。

令和3(2021)年8月21日土曜日
体調が落ち着いたことに気を良くして出発する。先ずは近江国衙跡。近江国庁(こくちょう)跡、三大寺遺跡とも呼ばれている。滋賀県大津市大江三丁目・大江六丁目・三大寺に所在しており、律令制下の地方行政機関の施設跡であるが、昭和10(1935)年に近江国庁は栗太郡瀬田町大江(現在の大津市大江三丁目)付近であると歴史地理学者によって学会誌に発表されたことに歴史遺産として名称が上がるようになった。奈良時代に始まる律令制下の地方行政の中心地ではあるが、国庁と呼ばれるその時代の遺構は日本全国でもほとんど不明だったこともあり、この近江国庁も具体的位置や構造も詳細不明であり、〝類聚抄(わみょうるいじゅしょう)〟や〝拾芥抄(しゅうがいしょう)〟といった平安時代・南北朝時代にそれぞれ編纂されたた類書(百科事典)によって栗太郡内にあったことが記されていたに過ぎなかったとされている。

その発表が裏付けられたのは昭和38(1963)年と昭和40(1965)年に行われた発掘調査により、近江国庁の中枢部が確認されている。敷地は870~970m四方の広さがあり、その南端中央部に東西220m・南北330mの国衙が置かれていたと推測されている。国庁地区の中心部には四方を築地塀で囲まれた内郭(政庁)があり、その広さは東西72.8m・南北は推定109mとわかっている。この政庁の建物は瓦積基壇からなる4軒の瓦葺きの建物から成っており、国庁の中軸線を中心に左右対称に配置されていた。

また基壇の上に東西23.0m・南北15.0mと推定される正殿の前殿があり、その後に南北を3m程小さくしたような正殿の後殿があり、廊が付けられている。前殿の両側には南北に長く延びる東西の脇殿が配置されており、基壇の規模は南北48.5m・東西9.2mとなっている。ちなみにこの脇殿も前殿と廊で結ばれている。

近江国庁の遺構は前後ふたつの時期に区分されている。前期は奈良時代中頃まで、後期は同時代末から平安時代初期以降に建築されたものと推測されており、国庁自体は10世紀末頃までは存続したと考えられている。

この近江国庁跡の発掘調査により地方行政機関の中枢部の様子が明らかにされ、その構造が中央政庁の平城宮の大極殿や朝堂院などを構えるものに似通っており、それらとも共通する機能を持っていることも明らかになっている。この近江国庁という〝日本初〟の古代中世の地方行政機関の発掘で分かったことが参考となり、その後各国の国府の推定地や政庁の構造・変遷が明らかになりつつあり現在に至っている。

日本初の発掘となった近江国庁跡は、その貴重性から昭和48(1973)年3月15日に国の史跡名勝天然記念物に指定されている。その後に発掘された周辺の惣山遺跡・青江遺跡・中路遺跡も関連史跡とみなされて平成28(2016)年10月3日に追加指定を受けている。歴史学と言う観点からすると凄い発見なのであろうが、実はこの国庁跡発掘は〝遺跡発掘〟で見つかったというより、団地造成中に〝偶然見つかった〟と地元では言われている。今から約半世紀前に〝びわこ大博覧会〟が滋賀県大津市におの浜一帯の埋め立て地で行われた。その埋め立てるための〝土〟を近隣の山から掘り出して調達し、その跡地を〝公営団地〟として入居者を募集し、大津市人口を増やしたとされる出来事があった。近江国庁跡と言われるこの辺り一帯は、〝神領団地〟という公営住宅を建設するために山を切り崩していた。その過程に於いて国庁跡が見つかったとされている。勿論今ではそんな昔のことを詳細に期している文献もないために詳細もわからないのだが、団地建設用地の一角を国庁跡地として発掘し続けるというものであったらしい。そんな都市伝説があるため、近江国庁跡地を良く知らない者も少なくないのが現実である。というのも私自身すんなりと訪れることができなかった場所であった。

この界隈はその昔は団地しかなく難なく訪れることができた場所だと言われている。しかし今では色々な住居が乱立する場所のひとつとなっており、公道なのか私道なのかわからない道を走らねばならないことに注意して欲しい。

近江の〝国司〟として赴任したのは藤原仲麻呂、あの恵美押勝の乱を起こして敗死した人物である。仲麻呂にとって近江は祖父・父と三代に渡る拠点であり、物流や人の流れに欠かせない場所としてその権益を一手に握っていたと言われている。彼は近江国司に任ぜられた後、幻の都と言われる〝保良宮〟造営を進めたことでも知られている。孝謙天皇から譲位を受け践祚した第47代淳仁天皇。同時に孝謙天皇は太上天皇(孝謙上皇)となった折、二人の保良宮行幸を実現させている。身内同然の淳仁天皇を巧みに操り、保良宮遷都を実現させようとするが、保良宮で体調を崩した孝謙上皇をあの道鏡が看病したことで治癒して以降孝謙上皇は何時も道鏡に意見を求めるようになる。それに対しそのことを良く思わない淳仁天皇は、何時も意見するようになって行ったとされている。ここに孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂の二大勢力が争うことに繋がって行く。仲麻呂は順調に一族共々出世をするが、後ろ盾の光明皇后の逝去によって以降翳りを見せ始める。それに加えて孝謙上皇が益々道鏡への信任は次第に深まって行き、逆に淳仁天皇と仲麻呂を抑圧するようになっていく。焦った仲麻呂は都に兵力を集めて軍事力を以って政権を奪取しようと画策する。しかしその計画は孝謙上皇側に筒抜けであり、先ず淳仁天皇が中宮院内に幽閉され、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を孝謙上皇側に奪われてしまう。孝謙上皇は勅旨で仲麻呂一族の官位剥奪・藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言する。その後自らの拠点であった近江国庁を目指すが、仲麻呂政権下で虐げられていた吉備真備が孝謙上皇の命を受け仲麻呂追討軍を率いることとなる。近江国庁へのルートを先回りされて遮断されると仲麻呂は琵琶湖を船で渡り、子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図ろうとするが、これも先手を打たれて辛加知は殺害される。越前への主要入口である愛発関(あらちのせき)は、既に仲麻呂追討軍が固関(こげん)していた。逃げる場所は湖西を南下するしかなかった仲麻呂の軍勢は、近江国高島郡勝野で最後の抵抗をするが孝謙上皇の軍勢に攻められて敗北する。仲麻呂は湖に舟を漕ぎ出し逃亡を図るが、追討軍の坂上石楯に捕らえられ斬首された。享年59歳。その際に仲麻呂の一族郎党34名もその地で処刑されている。

藤原仲麻呂の乱が鎮圧されると、朝廷内から仲麻呂色が一掃された。淳仁天皇は廃位され淡路島に流罪となりその地で崩御する。享年32歳。淳仁天皇廃位後には孝謙上皇は重祚して第48代称徳天皇となった。一方淡路に流罪となった先帝の下にも通う官人らも多く、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていたことから、危機感をもった称徳天皇は現地の国守に警戒の強化を命じた。亡くなったとされる時にも逃亡を図ったとする記録が残ってはいるが、その結果翌日に院中で亡くなっている。公式には病死となっているが、おそらく暗殺されたとする説が濃厚であり、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。また敵方となった称徳天皇の意向から長らく歴代天皇の一人と認められず、淡路廃帝・廃帝と呼ばれていたが、明治期に諡号が復活し〝第47代淳仁天皇〟と書き改められた。

そんな時代背景や国守が赴任していたことは由緒書には書かれてはいない。藤原仲麻呂が近江国庁を離れず、かつ反乱を起こした際に拠点にしようと企んだのは他ならぬ地理の利と経済的事由であることは疑いない史実である。地方政庁発見のきっかけにはなった近江国庁跡ではあるが、この場所にはそんな曰くがあった事を忘れてはいけない。

復元された国庁建造物をカメラに収め車へと戻る。次の目的地は大江にある御霊神社である。直線距離にするとたかが知れている距離だが、車で行くには結構遠回りとなる。これは近江国庁跡・御霊神社共々住宅地の中にあるからに他ならない。御霊神社も正面には車を停めるスペースはない。道もクランク状になっているために車を停めると他の車が通るのに支障をきたす。神社沿いに農道擬きがあるので今回はそちらに停めたが、神社を回り込むように進むと裏口のような入口があり、その前は若干道路幅が広くなっており、そちらに停めた方が良いだろう。

御霊神社というものは日本全国にあるが、御祭神は様々であるようだ。辞書的な言い方をすれば〝怨霊信仰によって祀られた神社〟という風に書かれている。因みにこの界隈には北大路・鳥居川、そして大江と三社の御霊神社が鎮座している。御祭神はいずれも〝弘文天皇(大友皇子)〟となっているが、これは古代最大の内乱と言われる壬申の乱が起こり、近江朝廷軍を率いた第38代天智天皇の第一皇子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子(第40代天武天皇)率いる大和朝廷の軍勢とが激突したものである。最初こそ優勢に戦いを進めていた近江朝廷軍ではあったが、全国から兵を集めることに失敗し、劣勢を強いられるようになる。そして壬申の乱最後の戦いと言われる〝瀬田橋の戦い〟に於いて近江朝廷軍は敗北し、大友皇子は付近の林に於いて自害した。戦に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造り即位し、第40代天武天皇となる。大友皇子が実際に即位したのかは不明であり、かつ仮に即位していても在位期間は7ヶ月と大変短かったことから長きに渡り歴代天皇として認められなかった。しかし明治期に入り諡号勅定が復活した際、第39代弘文天皇と追号されて歴代天皇の一人となったという経緯がある。実際に父親の天智天皇が逝去した後、自害するまでの期間があまりにも短いことからも、皇族としての扱いも微妙であった。加えて乱に於ける敗者となったことから蔑ろにされがちだったようだが、凄惨な状況下での死亡だったことから天武天皇治世下で起こった様々な出来事が大友皇子の祟りだと考えられた部分もあり、その霊を鎮めるという意向で、大友皇子最後の地となった瀬田橋の近郊に御祭神として大友皇子を祀る御霊神社が造られたと言われている。近江朝最後の天皇である弘文天皇の評判は地元では悪くはなく、寧ろ良い意味で捉えられていることもあり、集落内にひとつずつ設ける〝村社〟として御霊神社がその役割を担うこととなったと伝わっている。それが社格の割に立派な建造物から成り立っていると言われる所以かも知れないが、悲劇の皇子を祀っているには違いないため、時代が違えばまた違った人生だったかも知れないと残念な気持ちになりつつも、ここでは〝安らかにお眠り下さい〟という気持ちで手を合わせる。

近場にあれど訪れる機会が無かったふたつの史跡を訪ねて今日のミッションは終えることにする。数時間前にはワクチン接種の副反応でのたうち回っていた私であったのでこれ以上欲張る事をせずに家に帰ることにした。車と歩きで移動した距離は非常に短いが、内容は濃いものだったと自分では思えた。

本来ならば〝休養〟のために与えられた今日一日であったが、幸いなことに翌日に持ち越すような体調不良には見舞われなかった。ただ安静にしているだけではこのご時世故身体が鈍るだけだと信じて出歩いた〝近隣史跡〟を巡る旅であったが、まあ自分なりには満足出来るものになったので良しとしよう・・・そんな今日の旅路であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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