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《2021. March》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXI湖北後編~時代に翻弄された武将達~<br /><br />  《前編より続く》<br />姉川の戦いは先ず三田に陣取った朝倉軍が先制攻撃を仕掛けることによって戦いの幕が切って落とされる。徳川勢に対峙した朝倉景紀・前波新八郎ら6,000の兵が徳川勢に攻め掛かり、それに呼応する様に徳川勢の一・二番隊である酒井忠次・小笠原長忠率いる2,000の兵が応じた。<br /><br />初めは数に勝る朝倉勢が優勢で酒井・小笠原隊はじりじりと後退するが、その後方に陣取っていた石川数正隊が奮戦して盛り返し激戦となった。これを野村に陣取って遠望した浅井勢も朝倉に後れを取るなとばかりに奮い立ち、浅井四翼のひとりとして名高い猛将磯野丹波守員昌が先鋒として凄まじい勢いで襲いかかり、信長の先鋒坂井政尚をあっという間に壊滅させた。その後も快進撃を続けた磯野隊は一時は織田信長本隊近くにまで迫ったが、後に控えていた織田方の稲葉通朝・氏家卜全・安藤守就らが押し返し、その後朝倉軍を敗走させた徳川家康の増援も加わったことから形成は逆転し、浅井方も総崩れとなり敗走する。織田軍本陣に迫る磯野員昌は〝員昌の姉川十一段崩し〟という逸話を残すも三方からの攻撃にさすがに耐えられず、重囲を突破して居城の佐和山城へと撤退する。この戦いぶりに流石の信長も肝を冷やしたとみられ、後に小谷城の戦いに於ける情報戦で磯野員昌を寝返らせることに成功し、浅井家滅亡の要因のひとつを作り出している。<br /><br />敗走した浅井朝倉連合軍だが、信長は深追いすることはしていない。急峻な崖に囲まれた小谷城を勢いで攻めたとしても、むやみに自軍の被害を増やすだけであると考えていたようだ。それより小谷城を孤立させた方が得策だと考え、横山城を攻略している。城主であった大野木秀俊は降伏して城を明け渡し、代わって木下秀吉が城番として入り、浅井氏攻略の拠点として使われることとなる。<br /><br />敗戦をきした浅井朝倉連合軍ではあったが、まだ織田軍に対する抵抗勢力としては余力を残しており、近江・越前にて比叡山や石山本願寺の僧兵や一向一揆衆と手を結び、攻防戦を繰り広げていた。それによって被った織田軍の被害は大きく、信長の実弟織田信治や森可成・坂井政尚等の重臣が討死を遂げている。その報復として悪名高き〝比叡山を焼き討ち〟をしたことは有名なことであるが、武力のみで浅井朝倉連合軍を打ち破るのは困難だとし、情報戦で内部分裂を図ろうとする。佐和山城主の磯野員昌が、織田方に内通しているという風説を流す。浅井長政はこれを信じ、員昌からの物資補給の要請を悉く無視をした。兵糧の備蓄に不安を持った員昌は信長に降る。猛将としての評価は織田方でもされており、宇佐山城の代わりに近江高島の地を与えられる。織田信長宿将が琵琶湖を取り巻くように配置されていた時代だったが故に員昌の処遇は破格の待遇だったと言われている。<br /><br />浅井家家臣団の結束が崩れる中、姉川の戦い2年後の元亀3(1572)年には、再び信長軍が北近江に来襲する。その際も浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し、一族内での意見統制が取れていない中、朝倉義景本人自ら15,000の兵を率いて近江に駆けつける。その後足利義昭の要請を受けた武田信玄が甲斐国を立つ。後に三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍を打ち破り、徳川家康は命からがら本拠地浜松城に逃げ帰ったとされる。徳川方への援軍として北近江にあった織田方主力は美濃へと移動し、その隙を縫って長政は虎御前山の羽柴隊に攻撃を仕掛けるが撃退されてしまう。この辺りは諸説あるが三方ヶ原の戦いに於ける織田方援軍は、岐阜城の留守居役だった佐久間信盛が率いた3,000の兵だったとされる。徳川本隊は8,000だったと言われているため、織田徳川連合軍11,000では30,000もの武田軍に太刀打ちできる訳もない。それに信長も信玄とまともに戦うような〝博打〟を打つとも考え難い。結局のところ織田軍主力部隊の移動とは言え、美濃の防戦要員レベルのことであり、北近江包囲網は緩めることはしていないと判断して間違いはないであろう。浅井の背後には朝倉がいる。そんな状況下でみすみす突破口を作ることはしなかった。つまり攻めはしないが守るには十分の兵力は残されており、それ故に浅井方が虎御前山の羽柴秀吉の砦を攻めたとして勝ち目はなかっただろうと考えて間違いはない。<br /><br />また浅井朝倉連合軍も足並みが揃わない。雪が降る時期になると、兵の疲弊と積雪を理由にして兵を越前にへと撤収する。そのことを知った武田信玄は激怒し、出兵を促す書状を朝倉義景に送ったらしいが、義景は黙殺したという。その仕打ちに対し一時進軍を止めた信玄であったが、2カ月後には再び兵を進め徳川領にある野田城を攻め落としている。勢いに乗って進軍すると思われた竹で軍であったがその後兵を進めることはなかった。その上に攻略した野田城にも大した兵力も置かずに甲州に向かって撤収している。武田信玄は労咳を患っていたとされ、その病状が悪化したことによる退却だと言われている。しかし甲州へと戻る道中信濃国で信玄は亡くなった。そもそも野田城攻めの最中にすでに病状は悪化していたとされ、それ故に守備兵すら満足に置かずに撤退を始めたことが理由とされている。信玄の死は遺言により伏せられたとされている。しかし大軍に囲まれたために開城した自領の二俣城・野田城を奪還するために兵を出した徳川家康は、武田方の抵抗は殆ど受けることがなかったと記録しているものが残っているため、それが徳川方・織田方に伝わったことから信玄の死を死を知ることになり、東からの反勢力に対する危惧が無くなったことから全勢力を北近江に向けることが可能になったとしている。<br /><br />天正元(1573)年夏に信長は30,000の兵を率い北近江へと攻め上る。浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し、義景は20,000の兵を率いて駆けつけるが、浅井家中でも寝返りが相次いでいたことから援軍は無理と判断し越前への撤退をし始める。しかし信長からすれば後詰勢力の朝倉勢が無くなれば、浅井家の本拠地である小谷城を攻略することが容易になるために撤退する朝倉勢を追撃した。元来兵力の問題は当然あったが、朝倉家中でも離反が相次いでいたこともあり、近江越前の境である利根坂に於いて織田軍に追討を受けた際には反撃する余力もなく、兵は逃げ惑い戦いらしい戦いすらさせて貰えず敗戦をきしている。勿論朝倉側にも中には踏み止まって織田勢を押し返す等奮闘した者も居たには居たが、足並みが揃わないまま朝倉氏本家の軍事中核を担っていた重臣達多数が討ち死にを遂げ、朝倉義景は数十人の手勢とともに命からがら一乗谷に辿り着いている。しかし織田方の大軍は追従の手を緩めず一乗谷へと攻め上る。既に形勢不利となっていた義景につく者も居らず、一門の朝倉景鏡が進めるままに景鏡の本拠地である越前大野郡に手勢を連れて移動した。景鏡は朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺の僧兵を頼りに体制を立て直すとして義景を連れ出しているが、既に平泉寺の勢力も織田方と内通しており義景につく者もなかったと言われている。更に景鏡も織田方に寝返ることは決めており、仮の宿所とした六坊賢松寺に居る義景を景鏡の手勢が取り囲んだ。そうなれば義景にとって既に打つ手は残っておらず、近習らが奮戦・討ち死にする中で朝倉義景は自刃して果てた。享年41歳であった。義景を騙し討ちにした景鏡は、義景の首級と捕縛した義景の母親(高徳院)・妻子・近習を信長に差し出して降伏を許される。しかし翌年には義景を裏切り織田方についた桂田長俊・富田長繁の勢力争いから発展した越前一向一揆の標的とされ、平泉寺に籠るものの討ち死にを遂げている。まさに血で血を洗う内輪揉めであったが、結果として何も残せないまま戦国大名朝倉氏は滅亡し時代の藻屑と消えたのであった。<br /><br />朝倉氏が滅亡すれば浅井氏は孤立するしかなかった。朝倉義景を自刃に追い込んでから僅か1週間後、信長軍は小谷城攻めの拠点とする虎御前山の陣地に戻って来た。難攻不落の山城であった小谷城だったが、浅井長政が籠る本丸と父久政が守る小丸の間にある京極丸を羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急斜面から急襲しこれを陥落させた。これにより浅井長政・久政親子を繋ぐ曲輪は分断され、京極丸が陥落した同日に秀吉軍に攻められた小丸は落城、800の兵で応戦した久政ではあったが多勢に無勢で破れ去ることとなり久政は自刃する。残るは長政の本丸のみとなるが、信長も義弟であることに加え、若かりし頃から猛将として佐々木氏や六角氏と争いを繰り広げて来た〝武将浅井長政〟を〝残す〟ために一方的に攻めることはせずに幾度となく降伏の使者を送っていたとされている。しかし長政は悉く拒否する。信長としてもこれ以上はどうすることも出来ず遂には本丸攻めを開始する。浅井長政以下500の兵が守っており、善戦したものの兵力の差をどうすることもできなかった。落城を覚悟した長政は、妻のお市の方と浅井三姉妹の娘達に使者をつけて秀吉の元へと送った後、本丸の袖曲輪にある重臣赤尾清綱の屋敷にて弟政元と赤尾清綱と共に自害して果てた。享年29才。長政自刃後程なくして本丸も陥落し、浅井亮政から三代60年続いた小谷城と戦国大名浅井氏はここに滅亡し、歴史を閉じることとなった。<br /><br />その後小谷城と浅井領は秀吉に与えられることとなる。しかし琵琶湖から離れている小谷城を秀吉は嫌い、長浜の地に居城を構築している。その際に残った小谷城の遺構は移設されて長浜城の一部となっている。また小谷城攻めに構築した虎御前山の砦は、浅井氏が滅びたことにより役目を終え、小谷城落城の翌年に廃城となっている。<br /><br />僅か1年しか利用されなかった虎御前山陣地ではあるが、小谷城との距離は最短で500mしか離れていない。そんな場所に群がる敵の大軍を見た浅井長政・久政親子の心境は、計り知れないものがあっただろうと推測する。<br /><br />虎御前山は小谷城に対して直接攻めるのに〝距離〟と〝場所〟の利点がある訳だがどうやらそれだけではなさそうである。というのが小谷城の戦いから遡ること200年前には〝八相山の戦い〟の戦場になっている。南北朝時代に起こった〝観応の擾乱〟の終結とされる戦のひとつで、足利尊氏・直義兄弟が激突したものである。戦いに敗れた直義は敦賀に幽閉されたのち殺害されたとされる。<br /><br />勿論伝承の部分があるため、この戦いが兄弟の最終決戦ではなかったと現在では言われており、薩埵峠(さったとうげ)の戦いの勝敗で決したと言う説が濃厚となっている。また直義最後の地とされる場所も敦賀ではなく鎌倉だと言うこともほぼ間違いない史実となっている。この辺りは旧虎姫町説では八相山の戦いを取り上げたいのであろうが、史実と異なっている以上否定されても仕方のないことだとは思う。<br /><br />しかし南北朝・戦国時代に繰り広げられた二度の大きな戦いが、なぜこの地を戦場とすることとなったのであろうか?小谷城の場合は攻める城がそこにあったからだろうが、八相山の戦いに於いては足利尊氏とその嫡男・義詮が挟撃してくることを悟った直義が、自派の基盤である北陸・信濃を目指して移動して行く途中にこの八相山で挟撃されることとなった。このあたりは文献により解釈が異なっており、これと言った決め手がないのが事実である。直義軍は最終目的地を鎌倉としていたようだが、八相山の戦いで敗れ敦賀で死去したという説もあれば、鎌倉まで逃亡できたものの薩埵峠の戦いで敗れて降伏し、幽閉されている際に死去したとも言われている。<br /><br />熾烈な戦いが繰り広げられた姉川古戦場だが、一般的に言われている場所は浅井方が陣を敷いた〝野村〟集落の一角としている。現在では〝姉川古戦場〟を書かれた看板と石碑群が残っているに過ぎない。しかし周辺には桜並木が整備され名所のひとつとしても知られている。<br /><br />また小谷城跡も浅井長政・久政親子の他重臣や多くの兵が命を散らした場所ではあるが、城跡を巡る山道にはやはり桜が植えられており、戦死者慰霊に一役買っているように感じる。ただ軽登山ルートと侮っていたため、大手道入口から小谷山山頂部に位置する大嶽城址迄の2.4km、標高差400mの山道を走破することが出来ず本丸跡迄1.3km、標高差250mで日没リタイアとなってしまった。残り1.1kmを勢いに任せて行こうとも考えたのだが、道中の看板に書かれていた〝熊に注意〟の文字が頭から離れなかったために引き返した。駐車場は大手口入口にある大きなものと、数台ならば停められる小谷城中腹駐車場(金吾丸跡)がある。時間のこともあり今回は中腹駐車場を利用できたが、この界隈には小谷城戦国歴史記念館や小谷寺、お市の隠れ湯を謳う須賀谷温泉等浅井家所縁の施設も多いため、朝の早い時間から行動すれば守る浅井方の小谷城、攻める織田方の虎御前山、記念館では歴史に触れて、最後に須賀谷温泉でひとっ風呂というようなハイキングコースを組むこともできる。ヘタレの私自身あまり城郭巡りなどするタイプではないが、景色はともかく戦国時代の大規模な遺構に咲くサクラはなかなか趣きを感じさせるものであった。走破できなかった部分は心残りではあるが、旅が普通にできる時になれば是非ともチャレンジしてみたいと思う。<br /><br />熊に出会さないように本丸跡から7分で車へと戻って来た。あたりも暗くなっており、林道を車で下りて行き、大手口入口駐車場まで戻って来て一服休憩を取る平成23(2011)年の大河ドラマ〝江-姫たちの戦国〟放映記念碑が建立されているなど、ブームだった頃の遺構が残っている。ジュースを飲みながら本日撮影したフィルムを梱包し発送の準備をする。19時までであれば当日発送は可能だが、時間的にも無理だったためポスト投函することにした。<br /><br />小谷城址を後にし、長浜市から湖周道路を走って行く。このあたりは地元ではないが、いつも給油に利用する彦根のカインズモールを最初に目指す。値段は確かに安いように思うがついでに洗車もしておく。車を吹き上げているうちにカインズも閉まったようだ。スタンドの隣にはスタバもあり、久しぶりに「アイスキャラメルマキアート!グランデ!!」と行きたかったが、外食禁止の旅路ゆえ我慢して帰路につく。途中ローソン野洲菖蒲店に立ち寄って一息入れるが、その際に店内ポストに現像依頼の封筒を投函する。<br /><br />色々な道を利用して帰宅はできるのだが、久しぶりに湖周道路を走って行くことにした。家チカのローソン大津大平一丁目店に立ち寄ってタバコを購入する。そして数分後には自宅に到着。今回も無事に帰って来られたことに感謝してこの章を終わりにする。次はどこへ行こうかと考えながら…。<br /><br />  《終わり》

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《2021. March》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXI湖北後編~時代に翻弄された武将達~

  《前編より続く》
姉川の戦いは先ず三田に陣取った朝倉軍が先制攻撃を仕掛けることによって戦いの幕が切って落とされる。徳川勢に対峙した朝倉景紀・前波新八郎ら6,000の兵が徳川勢に攻め掛かり、それに呼応する様に徳川勢の一・二番隊である酒井忠次・小笠原長忠率いる2,000の兵が応じた。

初めは数に勝る朝倉勢が優勢で酒井・小笠原隊はじりじりと後退するが、その後方に陣取っていた石川数正隊が奮戦して盛り返し激戦となった。これを野村に陣取って遠望した浅井勢も朝倉に後れを取るなとばかりに奮い立ち、浅井四翼のひとりとして名高い猛将磯野丹波守員昌が先鋒として凄まじい勢いで襲いかかり、信長の先鋒坂井政尚をあっという間に壊滅させた。その後も快進撃を続けた磯野隊は一時は織田信長本隊近くにまで迫ったが、後に控えていた織田方の稲葉通朝・氏家卜全・安藤守就らが押し返し、その後朝倉軍を敗走させた徳川家康の増援も加わったことから形成は逆転し、浅井方も総崩れとなり敗走する。織田軍本陣に迫る磯野員昌は〝員昌の姉川十一段崩し〟という逸話を残すも三方からの攻撃にさすがに耐えられず、重囲を突破して居城の佐和山城へと撤退する。この戦いぶりに流石の信長も肝を冷やしたとみられ、後に小谷城の戦いに於ける情報戦で磯野員昌を寝返らせることに成功し、浅井家滅亡の要因のひとつを作り出している。

敗走した浅井朝倉連合軍だが、信長は深追いすることはしていない。急峻な崖に囲まれた小谷城を勢いで攻めたとしても、むやみに自軍の被害を増やすだけであると考えていたようだ。それより小谷城を孤立させた方が得策だと考え、横山城を攻略している。城主であった大野木秀俊は降伏して城を明け渡し、代わって木下秀吉が城番として入り、浅井氏攻略の拠点として使われることとなる。

敗戦をきした浅井朝倉連合軍ではあったが、まだ織田軍に対する抵抗勢力としては余力を残しており、近江・越前にて比叡山や石山本願寺の僧兵や一向一揆衆と手を結び、攻防戦を繰り広げていた。それによって被った織田軍の被害は大きく、信長の実弟織田信治や森可成・坂井政尚等の重臣が討死を遂げている。その報復として悪名高き〝比叡山を焼き討ち〟をしたことは有名なことであるが、武力のみで浅井朝倉連合軍を打ち破るのは困難だとし、情報戦で内部分裂を図ろうとする。佐和山城主の磯野員昌が、織田方に内通しているという風説を流す。浅井長政はこれを信じ、員昌からの物資補給の要請を悉く無視をした。兵糧の備蓄に不安を持った員昌は信長に降る。猛将としての評価は織田方でもされており、宇佐山城の代わりに近江高島の地を与えられる。織田信長宿将が琵琶湖を取り巻くように配置されていた時代だったが故に員昌の処遇は破格の待遇だったと言われている。

浅井家家臣団の結束が崩れる中、姉川の戦い2年後の元亀3(1572)年には、再び信長軍が北近江に来襲する。その際も浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し、一族内での意見統制が取れていない中、朝倉義景本人自ら15,000の兵を率いて近江に駆けつける。その後足利義昭の要請を受けた武田信玄が甲斐国を立つ。後に三方ヶ原の戦いで織田徳川連合軍を打ち破り、徳川家康は命からがら本拠地浜松城に逃げ帰ったとされる。徳川方への援軍として北近江にあった織田方主力は美濃へと移動し、その隙を縫って長政は虎御前山の羽柴隊に攻撃を仕掛けるが撃退されてしまう。この辺りは諸説あるが三方ヶ原の戦いに於ける織田方援軍は、岐阜城の留守居役だった佐久間信盛が率いた3,000の兵だったとされる。徳川本隊は8,000だったと言われているため、織田徳川連合軍11,000では30,000もの武田軍に太刀打ちできる訳もない。それに信長も信玄とまともに戦うような〝博打〟を打つとも考え難い。結局のところ織田軍主力部隊の移動とは言え、美濃の防戦要員レベルのことであり、北近江包囲網は緩めることはしていないと判断して間違いはないであろう。浅井の背後には朝倉がいる。そんな状況下でみすみす突破口を作ることはしなかった。つまり攻めはしないが守るには十分の兵力は残されており、それ故に浅井方が虎御前山の羽柴秀吉の砦を攻めたとして勝ち目はなかっただろうと考えて間違いはない。

また浅井朝倉連合軍も足並みが揃わない。雪が降る時期になると、兵の疲弊と積雪を理由にして兵を越前にへと撤収する。そのことを知った武田信玄は激怒し、出兵を促す書状を朝倉義景に送ったらしいが、義景は黙殺したという。その仕打ちに対し一時進軍を止めた信玄であったが、2カ月後には再び兵を進め徳川領にある野田城を攻め落としている。勢いに乗って進軍すると思われた竹で軍であったがその後兵を進めることはなかった。その上に攻略した野田城にも大した兵力も置かずに甲州に向かって撤収している。武田信玄は労咳を患っていたとされ、その病状が悪化したことによる退却だと言われている。しかし甲州へと戻る道中信濃国で信玄は亡くなった。そもそも野田城攻めの最中にすでに病状は悪化していたとされ、それ故に守備兵すら満足に置かずに撤退を始めたことが理由とされている。信玄の死は遺言により伏せられたとされている。しかし大軍に囲まれたために開城した自領の二俣城・野田城を奪還するために兵を出した徳川家康は、武田方の抵抗は殆ど受けることがなかったと記録しているものが残っているため、それが徳川方・織田方に伝わったことから信玄の死を死を知ることになり、東からの反勢力に対する危惧が無くなったことから全勢力を北近江に向けることが可能になったとしている。

天正元(1573)年夏に信長は30,000の兵を率い北近江へと攻め上る。浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し、義景は20,000の兵を率いて駆けつけるが、浅井家中でも寝返りが相次いでいたことから援軍は無理と判断し越前への撤退をし始める。しかし信長からすれば後詰勢力の朝倉勢が無くなれば、浅井家の本拠地である小谷城を攻略することが容易になるために撤退する朝倉勢を追撃した。元来兵力の問題は当然あったが、朝倉家中でも離反が相次いでいたこともあり、近江越前の境である利根坂に於いて織田軍に追討を受けた際には反撃する余力もなく、兵は逃げ惑い戦いらしい戦いすらさせて貰えず敗戦をきしている。勿論朝倉側にも中には踏み止まって織田勢を押し返す等奮闘した者も居たには居たが、足並みが揃わないまま朝倉氏本家の軍事中核を担っていた重臣達多数が討ち死にを遂げ、朝倉義景は数十人の手勢とともに命からがら一乗谷に辿り着いている。しかし織田方の大軍は追従の手を緩めず一乗谷へと攻め上る。既に形勢不利となっていた義景につく者も居らず、一門の朝倉景鏡が進めるままに景鏡の本拠地である越前大野郡に手勢を連れて移動した。景鏡は朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺の僧兵を頼りに体制を立て直すとして義景を連れ出しているが、既に平泉寺の勢力も織田方と内通しており義景につく者もなかったと言われている。更に景鏡も織田方に寝返ることは決めており、仮の宿所とした六坊賢松寺に居る義景を景鏡の手勢が取り囲んだ。そうなれば義景にとって既に打つ手は残っておらず、近習らが奮戦・討ち死にする中で朝倉義景は自刃して果てた。享年41歳であった。義景を騙し討ちにした景鏡は、義景の首級と捕縛した義景の母親(高徳院)・妻子・近習を信長に差し出して降伏を許される。しかし翌年には義景を裏切り織田方についた桂田長俊・富田長繁の勢力争いから発展した越前一向一揆の標的とされ、平泉寺に籠るものの討ち死にを遂げている。まさに血で血を洗う内輪揉めであったが、結果として何も残せないまま戦国大名朝倉氏は滅亡し時代の藻屑と消えたのであった。

朝倉氏が滅亡すれば浅井氏は孤立するしかなかった。朝倉義景を自刃に追い込んでから僅か1週間後、信長軍は小谷城攻めの拠点とする虎御前山の陣地に戻って来た。難攻不落の山城であった小谷城だったが、浅井長政が籠る本丸と父久政が守る小丸の間にある京極丸を羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急斜面から急襲しこれを陥落させた。これにより浅井長政・久政親子を繋ぐ曲輪は分断され、京極丸が陥落した同日に秀吉軍に攻められた小丸は落城、800の兵で応戦した久政ではあったが多勢に無勢で破れ去ることとなり久政は自刃する。残るは長政の本丸のみとなるが、信長も義弟であることに加え、若かりし頃から猛将として佐々木氏や六角氏と争いを繰り広げて来た〝武将浅井長政〟を〝残す〟ために一方的に攻めることはせずに幾度となく降伏の使者を送っていたとされている。しかし長政は悉く拒否する。信長としてもこれ以上はどうすることも出来ず遂には本丸攻めを開始する。浅井長政以下500の兵が守っており、善戦したものの兵力の差をどうすることもできなかった。落城を覚悟した長政は、妻のお市の方と浅井三姉妹の娘達に使者をつけて秀吉の元へと送った後、本丸の袖曲輪にある重臣赤尾清綱の屋敷にて弟政元と赤尾清綱と共に自害して果てた。享年29才。長政自刃後程なくして本丸も陥落し、浅井亮政から三代60年続いた小谷城と戦国大名浅井氏はここに滅亡し、歴史を閉じることとなった。

その後小谷城と浅井領は秀吉に与えられることとなる。しかし琵琶湖から離れている小谷城を秀吉は嫌い、長浜の地に居城を構築している。その際に残った小谷城の遺構は移設されて長浜城の一部となっている。また小谷城攻めに構築した虎御前山の砦は、浅井氏が滅びたことにより役目を終え、小谷城落城の翌年に廃城となっている。

僅か1年しか利用されなかった虎御前山陣地ではあるが、小谷城との距離は最短で500mしか離れていない。そんな場所に群がる敵の大軍を見た浅井長政・久政親子の心境は、計り知れないものがあっただろうと推測する。

虎御前山は小谷城に対して直接攻めるのに〝距離〟と〝場所〟の利点がある訳だがどうやらそれだけではなさそうである。というのが小谷城の戦いから遡ること200年前には〝八相山の戦い〟の戦場になっている。南北朝時代に起こった〝観応の擾乱〟の終結とされる戦のひとつで、足利尊氏・直義兄弟が激突したものである。戦いに敗れた直義は敦賀に幽閉されたのち殺害されたとされる。

勿論伝承の部分があるため、この戦いが兄弟の最終決戦ではなかったと現在では言われており、薩埵峠(さったとうげ)の戦いの勝敗で決したと言う説が濃厚となっている。また直義最後の地とされる場所も敦賀ではなく鎌倉だと言うこともほぼ間違いない史実となっている。この辺りは旧虎姫町説では八相山の戦いを取り上げたいのであろうが、史実と異なっている以上否定されても仕方のないことだとは思う。

しかし南北朝・戦国時代に繰り広げられた二度の大きな戦いが、なぜこの地を戦場とすることとなったのであろうか?小谷城の場合は攻める城がそこにあったからだろうが、八相山の戦いに於いては足利尊氏とその嫡男・義詮が挟撃してくることを悟った直義が、自派の基盤である北陸・信濃を目指して移動して行く途中にこの八相山で挟撃されることとなった。このあたりは文献により解釈が異なっており、これと言った決め手がないのが事実である。直義軍は最終目的地を鎌倉としていたようだが、八相山の戦いで敗れ敦賀で死去したという説もあれば、鎌倉まで逃亡できたものの薩埵峠の戦いで敗れて降伏し、幽閉されている際に死去したとも言われている。

熾烈な戦いが繰り広げられた姉川古戦場だが、一般的に言われている場所は浅井方が陣を敷いた〝野村〟集落の一角としている。現在では〝姉川古戦場〟を書かれた看板と石碑群が残っているに過ぎない。しかし周辺には桜並木が整備され名所のひとつとしても知られている。

また小谷城跡も浅井長政・久政親子の他重臣や多くの兵が命を散らした場所ではあるが、城跡を巡る山道にはやはり桜が植えられており、戦死者慰霊に一役買っているように感じる。ただ軽登山ルートと侮っていたため、大手道入口から小谷山山頂部に位置する大嶽城址迄の2.4km、標高差400mの山道を走破することが出来ず本丸跡迄1.3km、標高差250mで日没リタイアとなってしまった。残り1.1kmを勢いに任せて行こうとも考えたのだが、道中の看板に書かれていた〝熊に注意〟の文字が頭から離れなかったために引き返した。駐車場は大手口入口にある大きなものと、数台ならば停められる小谷城中腹駐車場(金吾丸跡)がある。時間のこともあり今回は中腹駐車場を利用できたが、この界隈には小谷城戦国歴史記念館や小谷寺、お市の隠れ湯を謳う須賀谷温泉等浅井家所縁の施設も多いため、朝の早い時間から行動すれば守る浅井方の小谷城、攻める織田方の虎御前山、記念館では歴史に触れて、最後に須賀谷温泉でひとっ風呂というようなハイキングコースを組むこともできる。ヘタレの私自身あまり城郭巡りなどするタイプではないが、景色はともかく戦国時代の大規模な遺構に咲くサクラはなかなか趣きを感じさせるものであった。走破できなかった部分は心残りではあるが、旅が普通にできる時になれば是非ともチャレンジしてみたいと思う。

熊に出会さないように本丸跡から7分で車へと戻って来た。あたりも暗くなっており、林道を車で下りて行き、大手口入口駐車場まで戻って来て一服休憩を取る平成23(2011)年の大河ドラマ〝江-姫たちの戦国〟放映記念碑が建立されているなど、ブームだった頃の遺構が残っている。ジュースを飲みながら本日撮影したフィルムを梱包し発送の準備をする。19時までであれば当日発送は可能だが、時間的にも無理だったためポスト投函することにした。

小谷城址を後にし、長浜市から湖周道路を走って行く。このあたりは地元ではないが、いつも給油に利用する彦根のカインズモールを最初に目指す。値段は確かに安いように思うがついでに洗車もしておく。車を吹き上げているうちにカインズも閉まったようだ。スタンドの隣にはスタバもあり、久しぶりに「アイスキャラメルマキアート!グランデ!!」と行きたかったが、外食禁止の旅路ゆえ我慢して帰路につく。途中ローソン野洲菖蒲店に立ち寄って一息入れるが、その際に店内ポストに現像依頼の封筒を投函する。

色々な道を利用して帰宅はできるのだが、久しぶりに湖周道路を走って行くことにした。家チカのローソン大津大平一丁目店に立ち寄ってタバコを購入する。そして数分後には自宅に到着。今回も無事に帰って来られたことに感謝してこの章を終わりにする。次はどこへ行こうかと考えながら…。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
  • 姉川古戦場跡を訪れる。

    姉川古戦場跡を訪れる。

    姉川古戦場 名所・史跡

    浅井の軍勢が陣取った場所である。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 正面〝姉川戦死者之碑〟新庄直知揮毫。<br />右手前に〝元亀庚午古戦場〟碑。

    正面〝姉川戦死者之碑〟新庄直知揮毫。
    右手前に〝元亀庚午古戦場〟碑。

  • 春風や<br /> 麦の中行く<br />    水の音<br />   木導<br /><br />木導(もくどう1666-1723)<br />通称直江作右衛門光任 別号阿山人禄高<br />百五十石の彦根藩士 芭蕉の門人<br />「風俗文選犬注解」の作者列伝に「芭門の英才なり 師翁奇異の逸物と称す」と記されている<br />また芭蕉はこの句を「木導が春風 景曲第一の句也 後代手本たるべし」と称賛し褒美に「かげろういさむ花の糸口」という脇をつけたと伝えられている<br />前記書によればこの句上の五言「姉川や」と冠したり翁「春風や」と直されし也 姉川は江州にて麦によろしきところなりと<br /> 当時 この姉川の中州で 地元野村農民が麦を作り播州までもきこえ人気があったと伝えられている<br /> 元禄の彦根藩川除奉行木導の功績を慕い俳人としての奇才をたたえ郷土の歴史と文化の顕彰のため句碑を建立するものである<br /><br />        平成十年三月<br />          浅井町<br />          野村区

    春風や
     麦の中行く
        水の音
       木導

    木導(もくどう1666-1723)
    通称直江作右衛門光任 別号阿山人禄高
    百五十石の彦根藩士 芭蕉の門人
    「風俗文選犬注解」の作者列伝に「芭門の英才なり 師翁奇異の逸物と称す」と記されている
    また芭蕉はこの句を「木導が春風 景曲第一の句也 後代手本たるべし」と称賛し褒美に「かげろういさむ花の糸口」という脇をつけたと伝えられている
    前記書によればこの句上の五言「姉川や」と冠したり翁「春風や」と直されし也 姉川は江州にて麦によろしきところなりと
     当時 この姉川の中州で 地元野村農民が麦を作り播州までもきこえ人気があったと伝えられている
     元禄の彦根藩川除奉行木導の功績を慕い俳人としての奇才をたたえ郷土の歴史と文化の顕彰のため句碑を建立するものである

            平成十年三月
              浅井町
              野村区

  • 姉川古戦場跡を取り巻く桜並木。

    姉川古戦場跡を取り巻く桜並木。

  • 姉川古戦場跡を取り巻く桜並木。

    姉川古戦場跡を取り巻く桜並木。

  • 姉川古戦場跡を取り巻く桜並木。

    姉川古戦場跡を取り巻く桜並木。

  • この姉川古戦場跡とされている場所は、姉川を挟んで浅井軍が陣を敷いた場所だった。

    この姉川古戦場跡とされている場所は、姉川を挟んで浅井軍が陣を敷いた場所だった。

  • 〝元亀元年庚午六月二十八日 為人没者建立〟と刻まれていた。<br /><br />慰霊碑裏にも花が手向けられている。

    〝元亀元年庚午六月二十八日 為人没者建立〟と刻まれていた。

    慰霊碑裏にも花が手向けられている。

  • 長浜レトロバス姉川古戦場と言うバス停は存在しない。現在姉川を渡る野村橋は、劣化のため車両通行不可となっている。

    長浜レトロバス姉川古戦場と言うバス停は存在しない。現在姉川を渡る野村橋は、劣化のため車両通行不可となっている。

  • 姉川には桜が咲き、その奥には国道365号線新野村橋が通っている。

    姉川には桜が咲き、その奥には国道365号線新野村橋が通っている。

  • 良く見るこの景色は国道365号線と県道に挟まれた農道からしか見えないものであった。

    良く見るこの景色は国道365号線と県道に挟まれた農道からしか見えないものであった。

  • 小谷山中腹駐車場まで車で進む。<br /><br />サンデードライバーにはお勧めしない道であるが…。

    小谷山中腹駐車場まで車で進む。

    サンデードライバーにはお勧めしない道であるが…。

  • 小谷城番所跡。<br />小谷城主要部への入り口に位置する。通常番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側の石垣上に一段高い平地がある。現在北谷から登る林道(自家用車なら通行可)は、この番所跡まで通じている。<br />

    小谷城番所跡。
    小谷城主要部への入り口に位置する。通常番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。北側の石垣上に一段高い平地がある。現在北谷から登る林道(自家用車なら通行可)は、この番所跡まで通じている。

  • 小谷城番所跡、図面。

    小谷城番所跡、図面。

  • 山城だということがわかる道…。

    山城だということがわかる道…。

    小谷城跡 名所・史跡

  • 景色は素晴らしい。

    景色は素晴らしい。

  • 小谷城御茶屋跡。<br />番所のすぐ上にある曲輪で、縦一列につながる主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。<br />〝御茶屋〟という風雅な名前には似つかない軍事施設である。

    小谷城御茶屋跡。
    番所のすぐ上にある曲輪で、縦一列につながる主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。
    〝御茶屋〟という風雅な名前には似つかない軍事施設である。

  • 小谷城御茶屋跡、図面。

    小谷城御茶屋跡、図面。

  • 御馬屋・馬洗池。

    御馬屋・馬洗池。

  • 小谷城、馬洗池。<br />馬洗池は湧水ではないが、実際は城内の飲料水を確保するための溜池であったと考えられており、往時は年中水が絶えなかったといわれている。またここは西隣に土塁で囲った馬屋があって北の柳の馬場に通じており、馬関係の一画であった。

    小谷城、馬洗池。
    馬洗池は湧水ではないが、実際は城内の飲料水を確保するための溜池であったと考えられており、往時は年中水が絶えなかったといわれている。またここは西隣に土塁で囲った馬屋があって北の柳の馬場に通じており、馬関係の一画であった。

  • 小谷城、御馬屋跡。<br />三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。本丸の前面にあり、本丸を守るための曲輪である。ここから清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。<br /><br />三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。本丸の前面にあり、本丸を守るための曲輪である。ここから清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。<br />

    小谷城、御馬屋跡。
    三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。本丸の前面にあり、本丸を守るための曲輪である。ここから清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。

    三方を高い土塁で囲まれた曲輪である。本丸の前面にあり、本丸を守るための曲輪である。ここから清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。

  • 御馬屋跡、図面。

    御馬屋跡、図面。

  • 小谷城址を囲む景色。本来ならばこのように見える筈だが…。

    小谷城址を囲む景色。本来ならばこのように見える筈だが…。

  • 霞がかかっておりこのような景色であった…。

    イチオシ

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    霞がかかっておりこのような景色であった…。

  • 小谷城、首居石。<br />黒金門跡の手前にあり、天文2(1533)年1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺し首をここに晒したと伝えられている。

    小谷城、首居石。
    黒金門跡の手前にあり、天文2(1533)年1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺し首をここに晒したと伝えられている。

  • 小谷城、赤尾美作守屋敷址。<br />浅井氏の重臣赤尾氏(赤尾 清綱(あかお きよつな))の屋敷跡と伝えられている。赤尾曲輪を設けて在番し、城内に居館を持つのを許されていることからもその信頼の厚さが窺われる。浅井長政最後の地となった場所であり、長政の弟政元と共に自害したと伝わっている。<br />

    小谷城、赤尾美作守屋敷址。
    浅井氏の重臣赤尾氏(赤尾 清綱(あかお きよつな))の屋敷跡と伝えられている。赤尾曲輪を設けて在番し、城内に居館を持つのを許されていることからもその信頼の厚さが窺われる。浅井長政最後の地となった場所であり、長政の弟政元と共に自害したと伝わっている。

  • 黒金門跡。<br />黒金門は大広間に設けられた重要な門で、中央に石段が敷かれている。ここを通って本丸に入るのであるが『黒金門』と呼ばれていることより、鉄を打ち付けた扉の門であったと考えられている。

    黒金門跡。
    黒金門は大広間に設けられた重要な門で、中央に石段が敷かれている。ここを通って本丸に入るのであるが『黒金門』と呼ばれていることより、鉄を打ち付けた扉の門であったと考えられている。

  • 小谷城、大広間跡。<br />別名〝千畳敷〟と呼ばれ長さ約85m・幅約35mで前面に高さ4mの石垣が積まれている大広間跡は、建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。<br />

    小谷城、大広間跡。
    別名〝千畳敷〟と呼ばれ長さ約85m・幅約35mで前面に高さ4mの石垣が積まれている大広間跡は、建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。

  • 史跡小谷城址碑は、昭和4(1929)年の建立であった。

    史跡小谷城址碑は、昭和4(1929)年の建立であった。

  • 桜馬場跡<br />桜馬場跡は御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く二段からなっていて〝小谷城跡之碑(昭和4(1929)年建立)〟と〝浅井氏及家臣供養塔(昭和47(1972)年建立)〟が建てられている。

    桜馬場跡
    桜馬場跡は御馬屋跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く二段からなっていて〝小谷城跡之碑(昭和4(1929)年建立)〟と〝浅井氏及家臣供養塔(昭和47(1972)年建立)〟が建てられている。

  • 桜馬場跡、図面。

    桜馬場跡、図面。

  • 浅井家家臣供養塔は昭和47(1972)年建立であった。後方に立つ顕彰碑は建立時期不明…。

    浅井家家臣供養塔は昭和47(1972)年建立であった。後方に立つ顕彰碑は建立時期不明…。

  • 昭和47(1972)年建立の浅井氏及家臣供養塔。

    昭和47(1972)年建立の浅井氏及家臣供養塔。

  • 本丸・大広間、図面。

    本丸・大広間、図面。

  • 小谷城、本丸石垣。

    小谷城、本丸石垣。

  • 石垣の隣に建てられてあった石碑。<br /><br />下部が削られているが、本丸・大広間跡と刻まれていたのだろうか…。

    石垣の隣に建てられてあった石碑。

    下部が削られているが、本丸・大広間跡と刻まれていたのだろうか…。

  • 小谷城、本丸跡。<br />江戸時代中期の小谷城絵図に〝天守共 鐘丸共〟と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物があったことが想定される。<br />

    小谷城、本丸跡。
    江戸時代中期の小谷城絵図に〝天守共 鐘丸共〟と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物があったことが想定される。

  • 小谷城、本丸跡。

    小谷城、本丸跡。

  • 小谷城、本丸跡。

    小谷城、本丸跡。

  • 小谷城、本丸跡の桜。

    小谷城、本丸跡の桜。

  • 余裕の自撮りを楽しむたかティムさん。因みに辺りはかなり暗くなっている。

    余裕の自撮りを楽しむたかティムさん。因みに辺りはかなり暗くなっている。

  • 小谷城、本丸跡の桜のラストショット。本日令和3(2021)年3月29日18:17は既に日の入り時刻を過ぎている。クマが出ると書かれていたのでヘタレの頭には〝恐怖〟の二文字しか残っていない。だから急いで下山する…。<br /><br />

    小谷城、本丸跡の桜のラストショット。本日令和3(2021)年3月29日18:17は既に日の入り時刻を過ぎている。クマが出ると書かれていたのでヘタレの頭には〝恐怖〟の二文字しか残っていない。だから急いで下山する…。

  • 車が置いてある場所に戻って来た。時刻は18:24になっていた。ちなみに3月29日の長浜の日の入り時刻は18:16、日の入り後に急いで山から下りて来た私…。

    車が置いてある場所に戻って来た。時刻は18:24になっていた。ちなみに3月29日の長浜の日の入り時刻は18:16、日の入り後に急いで山から下りて来た私…。

  • 国指定史跡 小谷城址<br /> 小谷城は、戦国乱世の大永4年(1504年)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573年)までの50年間、浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。<br /> また、この城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあってひとしお旅情をそそるものがあろう。小谷城は、北国街道中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都へと通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。 城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸金吾丸・番所・御茶屋・御馬屋・馬洗池・桜馬場・黒金御門・大広間・本丸・中ノ丸・刀洗池・京極丸・小丸 と続き、海抜395メートルの山王丸を頂とする。山腹には赤尾屋敷・御局屋敷・大野木屋敷を始め、削平地・竪掘等遺構は全山に埋めている。更に主峰大嶽・六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籟のみが、昔の悲劇を物語っている。                                      昭和51年10月 湖北町教育委員会 <br /><br />(注)松籟(しょうらい)=松のこずえに吹く風のこと。 

    国指定史跡 小谷城址
     小谷城は、戦国乱世の大永4年(1504年)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573年)までの50年間、浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
     また、この城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあってひとしお旅情をそそるものがあろう。小谷城は、北国街道中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都へと通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。 城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸金吾丸・番所・御茶屋・御馬屋・馬洗池・桜馬場・黒金御門・大広間・本丸・中ノ丸・刀洗池・京極丸・小丸 と続き、海抜395メートルの山王丸を頂とする。山腹には赤尾屋敷・御局屋敷・大野木屋敷を始め、削平地・竪掘等遺構は全山に埋めている。更に主峰大嶽・六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籟のみが、昔の悲劇を物語っている。                                      昭和51年10月 湖北町教育委員会

    (注)松籟(しょうらい)=松のこずえに吹く風のこと。 

  • 2011年の大河ドラマ浅井三姉妹〝江-姫たちの戦国〟放映記念碑。

    2011年の大河ドラマ浅井三姉妹〝江-姫たちの戦国〟放映記念碑。

  • ENEOSジェイクエスト彦根店で給油と洗車。<br /><br />リッター144円は安い方かな?

    ENEOSジェイクエスト彦根店で給油と洗車。

    リッター144円は安い方かな?

  • スターバックス・コーヒー カインズモール彦根店。<br /><br />「アイスキャラメルマキアート!」と行きたいところだが、外食は我慢我慢…。

    スターバックス・コーヒー カインズモール彦根店。

    「アイスキャラメルマキアート!」と行きたいところだが、外食は我慢我慢…。

  • ベイシア彦根店も閉店したようなので帰るとする。

    ベイシア彦根店も閉店したようなので帰るとする。

  • ローソン野洲菖蒲店に立ち寄って一服する。

    ローソン野洲菖蒲店に立ち寄って一服する。

  • いつものローソ大津大平一丁目店に到着。今日も無事に帰って来られました。

    いつものローソ大津大平一丁目店に到着。今日も無事に帰って来られました。

    京阪バス (大津エリア) 乗り物

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