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《2021.August》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVII湖南~歴史探訪編Ⅱ~<br /><br />紫陽花巡りで訪れた湖南・甲賀エリア。コロナワクチン接種のために彦根を訪れた以外に外出すらしていないことにふと気付く。周知の事実となっているコロナ罹患患者数の増加だが、ここまでになると人のことをいうことではないことに流石に気付かされる。そこで今更ながら〝自衛とは〟等ということを考えるようになった。仕事以外で戯れないのは一人上手の私の性、一人でほっつき歩くことは新鮮な空気に触れていた方が空気の澱んだ集団内にいるより遥かマシだと思うようになった。<br /><br />取り敢えず髪を切りに行ってからスタートする。野洲の磨崖仏も捨て難いが雨が続いていたことから地盤が緩んでいるため、山歩きは控えることにした。<br /><br />田舎街から守山を経由して湖南市に向かう。車載ナビの機能の限界だと思うが、殆どの立ち寄り地点が特定できない。そこでデータをインプットしておいた〝スマホナビ〟を今回も利用する。以前にも通った記憶がある道を走りつつ、最初の目的地である廃少菩提寺跡へと到着する。車を停めて徒歩で向かうがたいした時間はかからない。道路に面した家々の裏に国の重文指定を受けている〝廃少菩提寺石造多宝塔〟は建立されていた。奈良時代の華厳宗の高僧良辨によって開山された〝少菩提寺〟。室町時代には37の里坊が立っていたとされており、繁栄を極めていたようだ。しかし戦国時代になり織田信長の戦って敗れた近江守護職六角氏の兵により焼き討ちされ、廃寺となり現在に至っている。少菩提寺に対し大菩提寺は栗東市にある金勝山金勝寺をそのように呼んでいたようだ。しかし戦国時代に火災で焼失し、往時の規模を失うこととなる。後年徳川家康により寺領を寄進されもしたが、往年の規模を取り戻すことはなかった。<br /><br />そんな大菩提寺ではあるが、廃寺となったなった少菩提寺よりもはマシであろう。廃少菩提寺跡には閻魔像・多宝塔・地蔵尊等数多くの摩崖仏が残されてはいるが、あくまで〝跡地〟にあることには変わらず、それぞれが孤立して残っているようにしか見えないのが残念である。<br /><br />廃少菩提寺跡の石塔・石仏群に参った後、隣接地にある菩提禅寺を訪れる。黄檗宗の寺院として江戸中期に創建された菩提禅寺は、元々少菩提寺の阿弥陀堂跡に建立されたと言われている。本堂の本尊阿弥陀如来立像は国重要文化財に指定されており、このご本尊は少菩提寺に祀られていたものであるが、偶々兵火を免れることができ、藤原期の作品として約1000年を経過しているものとされている。少菩提寺に収められていた仏像として現存する最古のものであると言われており、その歴史的価値の高さは評価されて現在に至っている。宗派は違うが廃少菩提寺跡地であることの証拠として、石塔周辺に置かれていた石の地蔵さまが一体が、菩提禅寺本堂前に鎮座している。寺院としては直接の関係はないようだが、廃寺となったなったもののその地域に於ける〝信仰心〟は今なお引き継がれていることに歴史のロマンを感じる場所であった。<br /><br />菩提寺付近を歩いた後車を水口方面に走らせる。北脇の柏木神社は再訪の場所となるが、明るい内に訪れようと企画した。先ずは参拝者駐車場に車を停めて姫塚を先に訪れる。関ヶ原の戦いに於いて西軍に属し、敗退した岡山水口城主長束正家。その正妻である栄子姫の供養塔が姫塚である。栄子姫については先述しているのでここでは省くが、切腹して果てた正家の意向もあり身重のまま城を脱出し、家臣宅で男子を産んだものの産後の肥立が悪く命を落としている。哀れに思う家臣ではあったが徳川の時代になりつつある中で、敗軍の将の正室の供養塔をあからさまに建立することはできなかった。そのため、亡骸を埋めた場所に目印になるように石を置き、菩提を弔ったとされている。明治期になり一族の縁者が改めて供養塔を建立したものが姫塚として今に伝わるものとなっている。それ故に碑が建立されて150年しか経過はしてはいないが、表面に彫り込まれた文字が風化してしまっており、享年39歳で亡くなったことなど僅かばかりしか判読できなかったことは残念であった。<br /><br />その後に柏木神社の境内を訪れた。江戸時代にこの地に置かれた水口藩の藩主が崇拝したと伝わる歴史ある神社である。敷地内には忠魂碑が建立されていることからも、周辺集落の崇拝を受けてきたことが伝わってきた。<br /><br />だいぶ陽が傾いて来たが南下を続け甲南町迄向かった。天保義民別れの一本松跡も再訪だが、日暮れ後の訪問だったためにやって来た。近江天保一揆の折に水口城に連れて行かれる一揆主導者の一人である深川村庄屋の田中安右衛門を見送ろうと集落の民が集まった場所である。縄を掛けられ罪人として扱われる田中安右衛門を肉親・身寄・村人達はその後を追いかけるように歩いて来たが、この一本松迄来たところ〝これ以上の追従は許さない〟と捕吏の長が言い放つ。その後裸足で連れて行かれた安右衛門だが、履いていた草履をこの場所に置いて行かされたと言う。主を失った草履が哀れにも残された姿を見て、地に頭をつけつつ視界から安右衛門が消えるまで号泣したと言う〝血別の跡〟でもある。その後石部宿にて江戸に護送されるために唐丸籠11丁に乗せられていた〝義民〟に対し家族・近親者に加え近郷近在の人が集まり最後の面会を哀願した。幕府より評定所留役関源之進が捕吏の長として随行していたが、当初〝面会等まかりならん〟としていたらしいが、後に〝一揆を起こそうものならばこうなるぞ〟と〝見せしめ〟のために面会を認めたとされている。しかし過酷な拷問に加え半年間で一度も入浴さえ許されなかった囚人扱いの義民達を即座に見分けることはできなかった。籠の中からか細い声を振り絞り妻子の名前を呼んで初めて顔と名前が一致したと言う。それを知った身内達は唐丸籠に縋り付いて泣き伏したと記録には残っている。多くの民衆が一本松で平伏して見送った田中安右衛門は、江戸への道中桑名宿で命を落とし、石部宿での面会が今生の別れとなった。<br /><br />現在植っている一本松は二代目のものだと伝わっている。道路沿いの一画に〝天保義民別れの一本松跡〟と刻まれた石碑と由緒書、そして松があるだけのものでしかなく、隣接する道路も結構飛ばせる道であるがために、この史跡を知らない者が多いと聞く。明治維新を迎え天保義民として崇められるようになった近代史に於ける〝史跡〟だと言うことを多くの現代人に知って貰い、歴史の〝闇〟について考えて貰いたいとふと思う。<br /><br />辺りが暗くなり始めたので先を急ぐことにする。湖南市三雲にある〝天保義民之碑〟を目指して走って行った。JR草津線三雲の西側に位置する伝芳山にそれは建立されている。駐車場は広いものがあるのだが、時間も時間なので碑の付近まで車で移動することにした。この三雲にある天保義民之碑は、義民顕彰碑としては最も早い明治31(1898)年に建立されたものである。碑は約120年という時間を過ごして来ただけあり、風格も兼ね備えているものであった。しかしその月日の流れによる経年劣化から〝耐震構造〟の問題があるために、入口には柵が建てられむやみやたらとは入れなくなっている。鉄製の扉は鎖で繋がれてはいるものの、人間であれば容易に外すことはできるため、碑の参拝には問題はない。またこの場所は〝藤棚〟があることでも知られており、今年春に検索した〝花の名所〟として訪問リストに加えてはいた。最終的には時間の都合で陽が暮れてからしか訪れることができないという理由から先延ばしになっていた場所でもある。<br /><br />例年10月15日に慰霊祭が執り行われているため、そこそこの手入れはされているだろうと甘く考えていたのは失敗だった。雑草もかなり伸びており、連日の雨で足場もあまり良くはなかった。碑の前方両脇に石燈籠が建立されてはいるが、倒壊防止のためだろうかネットが掛けられていた。花の時期も終わった藤棚は知っていればともかく、知らなければ判別するのも難しいように思える。またこの時期ならではということとして〝蚊〟の大群と戦わなければならない。我が家の敷地内にある〝専用喫煙所〟は水道の近くにあり、雨水が溜まりやすいことからボウフラが以上発生している。ボウフラが多いということは成虫の蚊が多いのは当たり前だが、この場所も同じような状態になっている。碑の背面には建立時の情報が刻まれているだろうとは思うものの、蚊の大群に対抗出来るほどタフではない。一応訪問はできたので〝再訪候補地〟として記録しておき、今日のところはここまでにしておくことにした。<br /><br />この天保義民之碑の手前にはトイレが設けられている。この場所伝芳山はハイキングコースとしても知られており、休憩施設としての設備は整っている。もっともも照明のスイッチがわからないため、真っ暗な中で用を出せるかどうかと言った〝現実的問題〟はあるとは思われるが・・・。<br /><br />という場所場所に立ち寄って本日のミッションは終了し帰宅の途に着く。旧東海道迄降りて来た場所に〝横田の渡し常夜灯〟がある。移設されているので〝ここ〟だとは言えないのだが、その昔野洲川を渡る〝横田の渡し〟が東海道に存在した。街道を往来する旅人の〝目安〟になる〝常夜灯〟をここ三雲と対岸の泉に建立された。両者を混同しているものも散見されるが、泉のものを〝横田渡常夜灯〟として区分していることが多いようだ。三雲の〝横田の渡し常夜灯〟は元来上流200mのところにあったものを移設したものである。常夜灯として十把一絡げにしているようにも思えるが、作られた年代も50年違うなど背景も異なっており、その辺りを踏まえて区別した方が良いと私は思う。<br /><br />東海道を少し北上するとJR草津線三雲駅がある。少し前までは昭和の香り漂うローカル駅舎であったが、平成29(2017)年に現在の橋上駅舎が完成し、滋賀県都市部の駅舎と寸分違わないものに生まれ変わっている。急速に大都市圏のベッドタウン化した湖南市の中核駅として乗降客も多いのだが、駅からの交通の便は決して良くはないため、自家用車での送迎で列車到着時には多くの自家用車が狭いロータリーにひしめいていた。密は嫌いな私は新駅舎の姿だけをカメラに収め、早々に出発する。その後トライアル湖南店でミネラルウォーターを箱買いしてラストランに挑む。いつも頭にはありながら実行に移せていない石部大橋から新国道1号線を走るルートを今回も失念し、いつもの道を自宅へと向かう。<br /><br />もう少し早めに出発すれば余裕で回れるであろうコースをまた廻りきれなかった。三度目の正直になるかどうかは今の私にはわからない。神のみぞ知ることと責任転嫁してこの旅を締め括ることにする。<br /><br />  《おわり》

《2021.August》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVII湖南~歴史探訪編Ⅱ~

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2021/08/18 - 2021/08/18

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《2021.August》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXVII湖南~歴史探訪編Ⅱ~

紫陽花巡りで訪れた湖南・甲賀エリア。コロナワクチン接種のために彦根を訪れた以外に外出すらしていないことにふと気付く。周知の事実となっているコロナ罹患患者数の増加だが、ここまでになると人のことをいうことではないことに流石に気付かされる。そこで今更ながら〝自衛とは〟等ということを考えるようになった。仕事以外で戯れないのは一人上手の私の性、一人でほっつき歩くことは新鮮な空気に触れていた方が空気の澱んだ集団内にいるより遥かマシだと思うようになった。

取り敢えず髪を切りに行ってからスタートする。野洲の磨崖仏も捨て難いが雨が続いていたことから地盤が緩んでいるため、山歩きは控えることにした。

田舎街から守山を経由して湖南市に向かう。車載ナビの機能の限界だと思うが、殆どの立ち寄り地点が特定できない。そこでデータをインプットしておいた〝スマホナビ〟を今回も利用する。以前にも通った記憶がある道を走りつつ、最初の目的地である廃少菩提寺跡へと到着する。車を停めて徒歩で向かうがたいした時間はかからない。道路に面した家々の裏に国の重文指定を受けている〝廃少菩提寺石造多宝塔〟は建立されていた。奈良時代の華厳宗の高僧良辨によって開山された〝少菩提寺〟。室町時代には37の里坊が立っていたとされており、繁栄を極めていたようだ。しかし戦国時代になり織田信長の戦って敗れた近江守護職六角氏の兵により焼き討ちされ、廃寺となり現在に至っている。少菩提寺に対し大菩提寺は栗東市にある金勝山金勝寺をそのように呼んでいたようだ。しかし戦国時代に火災で焼失し、往時の規模を失うこととなる。後年徳川家康により寺領を寄進されもしたが、往年の規模を取り戻すことはなかった。

そんな大菩提寺ではあるが、廃寺となったなった少菩提寺よりもはマシであろう。廃少菩提寺跡には閻魔像・多宝塔・地蔵尊等数多くの摩崖仏が残されてはいるが、あくまで〝跡地〟にあることには変わらず、それぞれが孤立して残っているようにしか見えないのが残念である。

廃少菩提寺跡の石塔・石仏群に参った後、隣接地にある菩提禅寺を訪れる。黄檗宗の寺院として江戸中期に創建された菩提禅寺は、元々少菩提寺の阿弥陀堂跡に建立されたと言われている。本堂の本尊阿弥陀如来立像は国重要文化財に指定されており、このご本尊は少菩提寺に祀られていたものであるが、偶々兵火を免れることができ、藤原期の作品として約1000年を経過しているものとされている。少菩提寺に収められていた仏像として現存する最古のものであると言われており、その歴史的価値の高さは評価されて現在に至っている。宗派は違うが廃少菩提寺跡地であることの証拠として、石塔周辺に置かれていた石の地蔵さまが一体が、菩提禅寺本堂前に鎮座している。寺院としては直接の関係はないようだが、廃寺となったなったもののその地域に於ける〝信仰心〟は今なお引き継がれていることに歴史のロマンを感じる場所であった。

菩提寺付近を歩いた後車を水口方面に走らせる。北脇の柏木神社は再訪の場所となるが、明るい内に訪れようと企画した。先ずは参拝者駐車場に車を停めて姫塚を先に訪れる。関ヶ原の戦いに於いて西軍に属し、敗退した岡山水口城主長束正家。その正妻である栄子姫の供養塔が姫塚である。栄子姫については先述しているのでここでは省くが、切腹して果てた正家の意向もあり身重のまま城を脱出し、家臣宅で男子を産んだものの産後の肥立が悪く命を落としている。哀れに思う家臣ではあったが徳川の時代になりつつある中で、敗軍の将の正室の供養塔をあからさまに建立することはできなかった。そのため、亡骸を埋めた場所に目印になるように石を置き、菩提を弔ったとされている。明治期になり一族の縁者が改めて供養塔を建立したものが姫塚として今に伝わるものとなっている。それ故に碑が建立されて150年しか経過はしてはいないが、表面に彫り込まれた文字が風化してしまっており、享年39歳で亡くなったことなど僅かばかりしか判読できなかったことは残念であった。

その後に柏木神社の境内を訪れた。江戸時代にこの地に置かれた水口藩の藩主が崇拝したと伝わる歴史ある神社である。敷地内には忠魂碑が建立されていることからも、周辺集落の崇拝を受けてきたことが伝わってきた。

だいぶ陽が傾いて来たが南下を続け甲南町迄向かった。天保義民別れの一本松跡も再訪だが、日暮れ後の訪問だったためにやって来た。近江天保一揆の折に水口城に連れて行かれる一揆主導者の一人である深川村庄屋の田中安右衛門を見送ろうと集落の民が集まった場所である。縄を掛けられ罪人として扱われる田中安右衛門を肉親・身寄・村人達はその後を追いかけるように歩いて来たが、この一本松迄来たところ〝これ以上の追従は許さない〟と捕吏の長が言い放つ。その後裸足で連れて行かれた安右衛門だが、履いていた草履をこの場所に置いて行かされたと言う。主を失った草履が哀れにも残された姿を見て、地に頭をつけつつ視界から安右衛門が消えるまで号泣したと言う〝血別の跡〟でもある。その後石部宿にて江戸に護送されるために唐丸籠11丁に乗せられていた〝義民〟に対し家族・近親者に加え近郷近在の人が集まり最後の面会を哀願した。幕府より評定所留役関源之進が捕吏の長として随行していたが、当初〝面会等まかりならん〟としていたらしいが、後に〝一揆を起こそうものならばこうなるぞ〟と〝見せしめ〟のために面会を認めたとされている。しかし過酷な拷問に加え半年間で一度も入浴さえ許されなかった囚人扱いの義民達を即座に見分けることはできなかった。籠の中からか細い声を振り絞り妻子の名前を呼んで初めて顔と名前が一致したと言う。それを知った身内達は唐丸籠に縋り付いて泣き伏したと記録には残っている。多くの民衆が一本松で平伏して見送った田中安右衛門は、江戸への道中桑名宿で命を落とし、石部宿での面会が今生の別れとなった。

現在植っている一本松は二代目のものだと伝わっている。道路沿いの一画に〝天保義民別れの一本松跡〟と刻まれた石碑と由緒書、そして松があるだけのものでしかなく、隣接する道路も結構飛ばせる道であるがために、この史跡を知らない者が多いと聞く。明治維新を迎え天保義民として崇められるようになった近代史に於ける〝史跡〟だと言うことを多くの現代人に知って貰い、歴史の〝闇〟について考えて貰いたいとふと思う。

辺りが暗くなり始めたので先を急ぐことにする。湖南市三雲にある〝天保義民之碑〟を目指して走って行った。JR草津線三雲の西側に位置する伝芳山にそれは建立されている。駐車場は広いものがあるのだが、時間も時間なので碑の付近まで車で移動することにした。この三雲にある天保義民之碑は、義民顕彰碑としては最も早い明治31(1898)年に建立されたものである。碑は約120年という時間を過ごして来ただけあり、風格も兼ね備えているものであった。しかしその月日の流れによる経年劣化から〝耐震構造〟の問題があるために、入口には柵が建てられむやみやたらとは入れなくなっている。鉄製の扉は鎖で繋がれてはいるものの、人間であれば容易に外すことはできるため、碑の参拝には問題はない。またこの場所は〝藤棚〟があることでも知られており、今年春に検索した〝花の名所〟として訪問リストに加えてはいた。最終的には時間の都合で陽が暮れてからしか訪れることができないという理由から先延ばしになっていた場所でもある。

例年10月15日に慰霊祭が執り行われているため、そこそこの手入れはされているだろうと甘く考えていたのは失敗だった。雑草もかなり伸びており、連日の雨で足場もあまり良くはなかった。碑の前方両脇に石燈籠が建立されてはいるが、倒壊防止のためだろうかネットが掛けられていた。花の時期も終わった藤棚は知っていればともかく、知らなければ判別するのも難しいように思える。またこの時期ならではということとして〝蚊〟の大群と戦わなければならない。我が家の敷地内にある〝専用喫煙所〟は水道の近くにあり、雨水が溜まりやすいことからボウフラが以上発生している。ボウフラが多いということは成虫の蚊が多いのは当たり前だが、この場所も同じような状態になっている。碑の背面には建立時の情報が刻まれているだろうとは思うものの、蚊の大群に対抗出来るほどタフではない。一応訪問はできたので〝再訪候補地〟として記録しておき、今日のところはここまでにしておくことにした。

この天保義民之碑の手前にはトイレが設けられている。この場所伝芳山はハイキングコースとしても知られており、休憩施設としての設備は整っている。もっともも照明のスイッチがわからないため、真っ暗な中で用を出せるかどうかと言った〝現実的問題〟はあるとは思われるが・・・。

という場所場所に立ち寄って本日のミッションは終了し帰宅の途に着く。旧東海道迄降りて来た場所に〝横田の渡し常夜灯〟がある。移設されているので〝ここ〟だとは言えないのだが、その昔野洲川を渡る〝横田の渡し〟が東海道に存在した。街道を往来する旅人の〝目安〟になる〝常夜灯〟をここ三雲と対岸の泉に建立された。両者を混同しているものも散見されるが、泉のものを〝横田渡常夜灯〟として区分していることが多いようだ。三雲の〝横田の渡し常夜灯〟は元来上流200mのところにあったものを移設したものである。常夜灯として十把一絡げにしているようにも思えるが、作られた年代も50年違うなど背景も異なっており、その辺りを踏まえて区別した方が良いと私は思う。

東海道を少し北上するとJR草津線三雲駅がある。少し前までは昭和の香り漂うローカル駅舎であったが、平成29(2017)年に現在の橋上駅舎が完成し、滋賀県都市部の駅舎と寸分違わないものに生まれ変わっている。急速に大都市圏のベッドタウン化した湖南市の中核駅として乗降客も多いのだが、駅からの交通の便は決して良くはないため、自家用車での送迎で列車到着時には多くの自家用車が狭いロータリーにひしめいていた。密は嫌いな私は新駅舎の姿だけをカメラに収め、早々に出発する。その後トライアル湖南店でミネラルウォーターを箱買いしてラストランに挑む。いつも頭にはありながら実行に移せていない石部大橋から新国道1号線を走るルートを今回も失念し、いつもの道を自宅へと向かう。

もう少し早めに出発すれば余裕で回れるであろうコースをまた廻りきれなかった。三度目の正直になるかどうかは今の私にはわからない。神のみぞ知ることと責任転嫁してこの旅を締め括ることにする。

  《おわり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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