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《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXIV近江八幡~安土の花の名所を訪ねる筈が…編~<br /><br />月日の経つのは本当に早いと最近痛に思えて来た。暖かくなる頃にはコロナ禍も終息していると考えていた年末年始、まさか恒例の沖縄行きの詳細を煮詰める筈の6月を迎えたが、相変わらず見通しが立っていない。おまけに肝心な沖縄県に緊急事態宣言が出されている。当面の期間は6月20日迄となっている。遡ること1年前、全都道府県に出された緊急事態宣言の解除が6月17日だったように思う。6月21日出発の沖縄行きは可能のように思われたが、結局段取りがつかず沖縄行きは諦めるを得なかった。しかし記録では6月22・23の両日でハルのお供で石川県の郵便局巡りへ行っている。マスクは着用しているものの、外食を含めた〝いつものパターン〟で出掛けたようなので、一般的には外出は許されていたのであろう。暫くは放置されていた時期にあのGoToトラベルが発令された。滋賀県内に至っては〝滋賀旅クーポン〟を利用すればただ同然で宿泊できるような時期もあった。<br /><br />滋賀旅は利用しなかったが10月にはGoToトラベルを最大限に利用して、夜行のフェリーに始まり小豆島と備前市に宿泊し走り回っている。お土産は地域振興券を利用し、いつもならば結構な額となるものがこれもまたほとんど出費にならなかった。35%の割引が効くのであれば、普段は1人分の宿泊費に近い金額で2人分が賄える、正に棚ぼたそのものだった。しかしコロナ感染者の増加からGoToトラベルも中止される。滋賀旅は段々と条件が悪くなりつつあるが続いていた。確かに旅行代金が安くなることはありがたい限りではあるが、無ければ無いで今まで通りの旅をするだけだ。ただGoToの恩恵はコロナ感染者に最も近い立場で接している医療従事者の皆様には、ほぼ関係ないものでしかなかった。万が一にも自分自身が感染し、感染していない者にうつしてしまうことを非常にシュールに受け止めていた。我が家にもひとり看護師がいるが、半分冗談で何処かへ行くと言おうものならば鉄拳制裁が待ち構えている。加えて我が家の〝箱入りジジイ〟が罹患すると死ぬでと冗談なのか本気なのかはともかく、外出すること自体を諦めなければならないようになってきた。<br /><br />そんなご時世が続きコロナ罹患者が緊急事態宣言を出されて減ったと思えば、解除後にまた増加するといったいたちごっこの応酬である。今年のGWは緊急事態宣言が出されていたにも関わらず沖縄旅行は人気だったという。しかしそれがきっかけとなり、コロナ感染者の増加により沖縄県に緊急事態宣言が出された。当初6月20日迄という予想だったので、最悪行きの飛行機はノーマルを購入し、帰りはマイルを使えば大丈夫だと皮算用をしていた。しかし患者数の減少には至らず延長を繰り返した結果が8月22日迄となってしまった。<br /><br />基本私の沖縄旅は2泊は宿泊先が決まっている。どちらも昨年の同時期には宿泊客を取ってはいなかった。一時2泊以上という条件付きで宿泊を募ってはいたが、こういった条件下では1泊のみのリピーターが多いと中々希望通りの条件はのめないと言われてしまうことも多いらしい。なぜ2泊以上にするかと言えば、ひとりの宿泊客に対し除菌・清掃に掛かる手間が追いつかないという現実がある。苦肉の策として出している最小限の条件である。しかしOTA経由で宿泊予約を受け付けてはいない以上、口コミに頼るしかない状況下では圧倒的に不利なのはいうまでもない。最終的には宿泊予約自体を受け付けない状況になってしまっており、この点も私の沖縄旅のコンセプトに於いて大きなマイナスとなってしまうことなので、目的を削っているうちに〝今行くのか?〟と自問自答することになってしまう。<br /><br />最終的に6月20日迄の緊急事態宣言が延長されることを知った段階で、今年の沖縄旅は中止にした。ただ実際にはGWからの患者数の遷移を見ていても改善していないことは5月末にはわかっていた。おそらく中止になるだろうという予測から、例年ならばプランニングのために家に籠りっきりとなるはずが、ネタ集めの近場へのTripに気が向いてしまっていた。<br /><br />そんな先行きが見えないことから近場への〝日帰り旅〟を敢行する。場所は新聞で読んだ〝なんじゃもんじゃ〟の銘木がある近江八幡市安土町の沙沙貴神社であった。今年は例年になく〝花〟を求める旅が相対的に増えいる。それはそれで良いのだが、今年に限って言えば例年になく開花が早いために、見頃の時期を逸してしまい何のために行ったのやら・・・という旅も少なからず経験している。そんな反省はいつもするのだがすぐに忘れるのが私の悪い癖。第一目的地を選んだ後は行き当たりばったりのいつものパターンは変わらない。そんな思いを持ちながら出掛けた結果はどうなったのか?それでは〝《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXIV安土~花の名所を訪ねる筈が…編~〟を始めるとしよう。<br /><br />令和3(2021)年6月2日水曜日<br />単発の休みである今日。なんとなく出掛けようと思い昼から車を走らせる。最近お決まりのローソン大津大平1丁目店に立ち寄って一服した後ナビをセットする。行先は近江八幡市の安土町、昔の蒲生郡安土町とする。<br /><br />渋滞に巻き込まれる可能性はあるが、迂回すると距離も延びるため、素直に国道1・8号線を走って行く。案の定栗東付近で渋滞していたが大したものでもなく、その後は快調に走って行けた。<br /><br />安土の市街に入り向かった先は沙沙貴神社であった。その名の通り全国の佐々木さんの氏神さまと呼ばれている神社は、宇多天皇に始まる宇多源氏、その子孫がこの地に来て名乗った佐々木源氏他分家した後に丸亀藩主となる京極氏、近江守護職となった六角氏等の天皇家に繋がる佐々木氏発祥の地とされているようだ。分家して他の姓を名乗った血筋もあり、どれだけ多くの方々が当てはまるのか正直わからないようだが、神社が言っている名字だけでも結構たくさんあるようだ。<br /><br />そんな佐々木さん所縁の神社だが、佐々木一族ではない部外者の私が訪れた理由は新聞に掲載されていた〝なんじゃもんじゃ〟の花を見に来たのである.駐車場に車を停めてすぐの場所に植えられている〝巨木〟はすぐにわかったが、感動ではなくため息が出てしまった。宇治平等院で見かけたなんじゃもんじゃの木は、白い花が咲いており、なんじゃもんじゃの木だと思わなくてもつい見入ってしまうものだった。しかし目の前の巨木には花は付いていなかった。一言でいうならば〝花の時期〟は既に終わっていたのである。確か新聞で確認したのは5月初旬の頃。元々植物の知識がない私は、一ヶ月も花が咲いていると勘違いをしていたのであった。後で確認すると5月10日頃には〝花は終盤に差し掛かっている〟と書かれているので、それから3週間後に行ったならば結果は…となって当たり前であった。無知から出た結果ゆえに仕方がない。来年蝋梅と共に時期を確認して訪れようと思う。<br /><br />気持ちを入れ替えて参拝に向かうことにする。立派な石鳥居に社号碑、石燈籠までの全てが立派なものだ。その近くに打たれている石柱には京極氏の〝平四つ目〟の家紋が浮き上がっている。元々は〝隅立て四つ目結紋〟だったと言われているが、丸亀藩主京極高朗が本殿・権殿・拝殿・楼門などが再建された際に変わったとされている。平安・鎌倉時代の様式で再建された建物は滋賀県指定の有形指定文化財に指定され現在に至っている。また鳥居手前には〝花の神社〟らしく〝近江百華苑〟の〝証明〟のようなものが掲げられていた。<br /><br />鳥居を潜ってすぐに巨木の断面が置かれている。樹齢250年と言われる欅の木であるが、平成30(2018)年9月4日の台風21号の被害を受けて倒れてしまった。他にも甚大な被害を受けた沙沙貴神社の建造物ではあったが、令和2(2020)年までの復旧工事の末元通りになっている。伐採するしか方法がなかった檜の巨木であるが、残せるところは残そうという意図のもと断面を残しているようである。<br /><br />倒れても残される巨木にその存在の大きさを感じつつ歩いて行く。石燈籠と平四つ目の石柱の多さに、復興に尽力した京極高朗の偉大さを感じずにはいられない。散策路の突き当たりには由緒碑が建立されている。その奥には学問の聖木と言われる〝楷の木〟が植っていた。結構由緒ある樹木があるなと思ってはいたが、どうやら沙沙貴神社=近江百華苑=植物の神社と考えても間違いではないことを知り納得する。その他にも朴の木やなんじゃもんじゃの立派な木々が植えられている。散策路に戻って歩いて行くが、鬱蒼とした木々に覆われた石燈籠が立ち並ぶ参道は、歴史ある神社そのものだと感じさせるものであった。<br /><br />突き当たりには楼門が聳えている。京極高朗が再現したもののひとつで、滋賀県登録有形文化財の指定を受けている。その楼門脇には〝出会いの椙檜〟前にある男石と女石を目を閉じて触ることができれば、縁結びのご利益が得られると言われている。まあこの辺りは方法は違うが似たものはよくある縁結び祈願の鉄板であろう。その横を通り過ぎて西回廊に沿って歩いて行く。沙沙貴神社の特徴かも知れないが、散策路と近江百華苑という〝植物園〟が複雑に入り組んでおり、なかなか一筋書きでは進めない。なんじゃもんじゃ、藤といった樹木が養成中のものも含めてたくさん植えられている。花がメインの神社ゆえ、歩き方を間違えないようにしないと見落とす可能性が高いので注意が必要だ。<br /><br />そしていよいよ楼門を潜る。真正面には拝殿がある。それを取り囲むように東西の回廊がある。これも京極高朗が再建し寄進したものだという。滋賀県の重要文化財指定を受けているだけあり素晴らしいものである。あまり知識がないので一般論とはなってしまうが、法隆寺や東大寺と同じように厳か感が漂っている。<br /><br />境内と言って良いのだろうか回廊の中には手水舎がある。尤もコロナ対策で水は流されてはいなかった。中心には拝殿が設けられているのだが、本殿の幅が結構広いためにカメラに収めるには拝殿の手前より後ろでないと全景が撮れなかった。狭いという印象はないためこの回廊内のスペースには色々なものが圧縮されるように建立されているように感じた。社務所の前には十二支所縁の御守りが描かれていた。その後ろには歴史ある石燈籠とさざれ石がある。蝋梅の木て書かれている古木があるが勿論今は花の時期ではなく〝葉をつけた木々〟と化していた。<br /><br />本殿裏には十二支の動物の石像がある。それぞれの隙間には京極家の平四つ目が刻まれた石柱が建てられている。やはりこれも京極高朗の寄進なのかと思うのだが、十二の動物の石像が並ぶとこんなに長いものになるのかと改めて思う。十二支個々に全てを撮影したとしても記録にしかならないために我が家所縁の〝卯〟〝戌〟〝申〟のみをここに記録しておくことにする。<br /><br />その隣には境内社が立ち並ぶ。手前から祇園社、愛宕社、加茂社、稲荷社、小童神社となっている。境内社の斜めには八角神殿なる新しい建物があり、なんでもこちらひとつにお参りすると〝8ヶ所〟のお参りになると言われている。コロナ禍の影響かも知れないが少し味気ないように思える。<br /><br />本殿の並びは立派である。手前の滋賀県指定有形指定文化財の権殿。拝本殿との間には中門があり、その奥には〝磐境(いわさか)〟と呼ばれる願掛け場所がある。勾玉が神様となり物事の弥栄を祈る場所となっている。その前方には乃木希典お手植えの松、乃木さんのお言葉が刻まれている石碑がある。佐々木高綱の末裔である乃木希典は沙沙貴神社を崇拝し、ちょくちょくと参拝していたようだ。明治39(1906)年6月28日の参拝の折にこの松を植えたと記載されていた。乃木将軍と言えば人情の厚い人物とされており、この〝乃木さんの言葉〟は彼の人格そのもののように思える。人を敬うことを説いているが、なかなか簡単にできることではない。当たり前のことかも知れないが今の荒んだ世の中には一番必要とされている考えではとふと思った私であった。<br /><br />なにかひとつの願い事が叶うという磐境に願掛けをして、隣の拝殿・本殿へと向かう。本殿は十二支干支の庭から後方は確認できるが、沙沙貴さんではない私は正攻法の拝殿からお参りするだけにしておく。拝殿前には御祭神について刻まれている碑があった。少彦名神(すくなひこなのかみ)はささげの豆の鞘に乗っかり海を渡ったと伝わっている。大毘古神(おおひこのかみ)は古代都からの主要道のひとつ北陸道を守護された四道将軍のひとりであり、ご子孫の沙沙貴山君がササキの庄の地名につながっているとされている。仁徳天皇(鷦鷯尊:おおさきのすめらみこと)は日本の第16代天皇で難波宮から治めている国々の様子を見ていたと言われる。日本最大の御陵を作った天皇ではあるが功績から聖帝と呼ばれた名君で、家々から煙が上がっていない様子を見て民衆の貧窮を知り課税と労役を取り止めたという逸話の他大規模な治水工事を指揮したと伝えられている。第59代宇多天皇(うだのすめらみこと)と天皇第八皇子敦實親王(あつみのみこ)は宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖とされている人物である。<br /><br />そんな感じで境内を参拝し、境内マップで確認した〝なんじゃもんじゃの木〟へと向かう。沙沙貴神社に於いてはなんじゃもんじゃの木は珍しいものではなく至る所に植えられている。そのためメディアに取り上げられる樹木がどれなのかがわかりづらいところがある。調べた結果車を停めている東参道付近に〝石柱〟隣に植えられていることを知る。しかしその場所に行っても〝満開の白い花〟は見当たらない。あるのは立派な古木だけであった。場所が違うのかと画像データを探してみるが、場所は間違ってはいない。実はここで私が大きな勘違いをしていることに気付く。つまり5月中旬の満開の報は当然その時のことであり、訪れた6月2日は3週間後のことであった。つまり花の見頃を通り過ぎ、残っていた花も全て散ってしまった時期に訪れているだけに過ぎないことを知った。花の命は短いことを知りながら都合良く解釈をしていた私の痛恨のミスである。しかしどれだけ悔やんだとしても花が元に戻ることはない。凡人の私には当たり前だがなすすべがない。ここまで来たのに~と思っても後のまつり。仕方がないので来年の開花情報を目をかっぽじいて見て訪れる日を早急に決めようと心の中で思った。呆気なく安土まで足を伸ばしたのっけからくじかれてしまった。なのでもう一度境内内で記録漏れをしていなかったか再度確認するために歩きそれが終わってから車に戻った。<br /><br />せっかく安土迄やって来た上に目的だったなんじゃもんじゃの花は終わっていたと来た。なんの実績もなしに帰るのも…という思いから立ち寄り地を考える。安土とくれば安土城跡と深く考えずに行き先を決めてみた。安土城と来れば織田信長であるが、元来の戦国時代の城とは違い戦いに於いて攻め辛い様に狭くて入り組んだ道からなる城内や城下町とは違うはずであった。諸説あるが〝天下布武〟の銘の下全国統一を成し遂げ、今後戦う必要がない時代を迎える〝象徴〟として築かれた安土城。城内は勿論城下町も楽市楽座が効果的にできるように太くてわかりやすい道となっていたと言われている。ただJR線路を渡る踏切や道路整備が進んだ現在、意外に目的地まですんなり向かえる様な道にはなっていないのが現実だ。沙沙貴神社から安土城跡に向かう道のりも真っ直ぐとはいかない上によく似た幅員の道があったりと、勘違いをすると辿り着かない可能性もある道路も少なくはない。加えて城下町内の施設に向かうには、結構狭い道を走らねばならない上に駐車場もない。安土の城下町巡りには〝レンタサイクル〟が一番と観光案内所だけでなく訪れた方々の記録にも同様に言われている理由がやっとわかった気がした。<br /><br />今回は車であるために城下町散策は諦め、安土城へと直接向かうことにする。見覚えのある〝安土城址〟の石標は昭和2(1927)年に内務省によって建立されている。その後昭和3(1928)年には滋賀県が史蹟安土城址の管理団体に指定され、その後の調査整備にあたっている。昭和25(1950)年には文化財保護法施行に伴い〝史跡安土城址〟となり、昭和27(1952)年には特別史跡に指定され現在に至っている。平成元(1989)年から平成21(2009)年迄〝調査整備20年計画〟を開始し、城内の道路や通路沿いに築造された家臣の邸宅や天皇行幸を目的に作られたとされる内裏の清涼殿を模した本丸御殿等の当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣の修復工事が行われた。最終的には滋賀県の予算の関係で延期されることなく調査は終わるが、調査できたのは史跡指定面積の20%に留まっている。もし仮に調査事業を継続し、全域の調査を行うには50~100年の年数が必要と言われており、現時点では〝将来に委ねる〟という名目で放置されている。この時期の滋賀県知事といえば〝もったいない〟と新幹線栗東新駅やダム工事などを凍結した嘉田さんである。しかし知事を退いた後に治水工事の必要性が判明し、払う必要のなかった〝違約金〟を県民の納めた税金から支払わせた〝無駄遣い〟をさせた張本人である。インフラ構築を〝もったいない〟というのであれば、史跡調査ならば将来のためという理由で続ければ良かったと思えてならない。目先のことしか考えられなかったために全てが中途半端になってしまったのだろうと確信する。そんな背景で今後発掘調査がなされるかどうかは不透明ではあるが、できれぱ発掘調査は再開して貰いたいと切に願う。<br /><br />安土城跡一周拝観は所要時間45~90分となっており、管理は摠見寺・一般社団法人安土山保勝会が行っている。臨済宗妙心寺派遠景山摠見寺というものが正式名称とあるが、この摠見寺、信長が安土城を築城した際に造られたものとされているが、創建時に住んでいた尭照法印を正式な住持とは認めておらず、信長死後に住持となった正仲剛可を開山として今日に至っている。摠見寺創建にあたり信長は近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したと伝えられており、その代表的なものが現在重文指定を受けている二王門や三重塔などが挙げられている。江戸中期には仁王門・方丈・書院・庫裡・三重塔・鎮守社等を含めた22棟の建物が存在したと伝えられているが、嘉永7(1854)年の火災により、方丈・書院・庫裡など主要な建物が焼失し、その後伝徳川家康邸跡に仮本堂を建立し、現在に至っている。<br /><br />この摠見寺であるが元来は特別の宗教に属さなかったと言われている。結局は信長の死後に織田伊勢守家織田信安の子である剛可正仲を開祖とする。彼の死後一時的に父である信安(玉甫)が寺を継ぐ。期間は不明だが数年間住職代わりをしていたが彼の死後、信包の子(寿圭)が織田信雄の仲介で2代目住職となった。この際に妙心寺の住職であった寿圭が新住職となったことから、臨済宗妙心寺派の寺院となったという説が濃厚であり、時代的には大坂夏の陣で豊臣家が滅びた後の元和3(1617)年頃と言われている。そして寿圭の死後は跡目争いが起こり、織田信包の孫にあたる愚門と江戸東禅寺の開山である嶺南崇六が争論をおこす。最終的には幕府の裁決によって織田一族の愚門が後継者に選ばれることとなる。以降江戸時代を通じて歴代の住職は織田家の一族から選ばれることになるが、その際に宇陀松山藩(後に丹波国柏原藩)藩主の養子となることが条件となったようだ。<br /><br />現在では織田家の血縁者という文言は摠見寺の紹介に於いて書かれてはいないようだ。しかし安土城跡の管理業務を行っている施設はここ摠見寺であり、安土城跡は勿論のこと安土城に纏わる貴重な品々の管理もやはり摠見寺が行っている。言い方は良くないが安土城の遺構発掘に於いて〝摠見寺〟が大きな影響力を持ち、実質的な入山管理が宗教法人である寺院が行っている以上、損益の絡みが出るために遺構発掘に対し、県や市等が積極的に話を進めようとしない旨の論説が記されていた。これをどう取るかは個人の自由ではあるが、確かに税金によって進められ、出土した遺構を〝管理者〟が金銭と受け取って見せると言われればいい気はしないであろう。このあたりの話は宗教が絡むと必ずややこしくなるといった〝理論〟になってしまわないように、安土城の付帯施設である摠見寺には摠見寺の入山料を、また安土城跡には地方公共団体か若しくは三セクの管理者を置き、それぞれに〝維持費〟を得られるシステムを講じるなど今後の発掘に於ける〝かかる費用〟とそれを〝取り戻す収益〟を明確に区別する必要があると思われる。坊主丸儲けという言葉は悪いが、やはりそう思っている者も少なくはない今日、少しでも歴史を日の光の下に晒し、研究に繋げ史実の解明に繋げて貰いたいと思う私の思いは間違っているのだろうか…。既に入山時間を過ぎて目の前に竹で作られた門扉が閉められていることに、少し悲しい思いをした私であった。<br /><br />夏至間近と言ってもさすがに陽は傾いて来たので次の目的地を目指すことにする。浄土宗金勝山浄厳院は天正5(1577)年に織田信長が近江國栗太郡(現・栗東市)の浄土宗金勝山阿弥陀寺の僧である浄厳坊明感を安土に招いたことに歴史を発する。明感を開山とし金勝山阿弥陀寺を移設する形で浄土宗金勝山浄厳院を建立した。元来この地には室町時代の正平年間(1346~1370)に近江守護の六角氏頼が母の菩提のために建立したとされる律宗寺院慈恩寺威徳院が存在し六角氏の菩提寺となっていたが、戦国時代に兵火に罹って焼失し廃寺となっていた。その跡地の一角に浄厳院を建立した訳だが、ここに信長が他寺院から奪い取って来た本堂や本尊を移したことが寺伝に記されている。本堂は近江國多賀の興隆寺の弥勒堂を、本尊阿弥陀如来坐像は犬上郡甲良町下之郷にあった二階堂宝蓮院をそれぞれ破壊した折に手に入れたものであるそうだ。信長らしい寺院の復興手段ではあると思うが、元々の威徳院を蔑ろに考えていた訳でもないようだ。というのも現在の浄厳院の正式名称は、浄土宗金勝山慈恩寺浄厳院と言い、慈恩寺のいう“寺社名”はしっかりと残っていることからもわかる気がする。<br /><br />この浄厳院だが安土城から少し離れており、町外れの場所にあったと記録されている。ある意味信長の手によって復興を遂げた寺院のひとつであるが、信長時代を象徴する出来事が起こった場所でもある。天正7(1579)年の浄土宗と法華宗の宗論である“安土宗論(あづちしゅうろん)”若しくは安土問答と称される“問答”の会場となった場所である。宗教の話に善悪や勝負もないために詳細は割愛するが、要は浄土宗の僧侶が安土で説法をしていた際に、法華宗の信徒が議論をふっかけたところあっさりかわされ、法華宗の僧侶を連れて来ればお相手しましょうということになった。それぞれの宗派の名だたる僧侶が安土に集まるという騒ぎは大きくなり、信長の耳にも届くことになる。信長自身は自らの得になることでもないために、宗論開催には消極的であり、両者の仲裁に入ったとされている。またことを荒立てない様に申し伝えたが、浄土宗側が順応の意志を示したことに対し、法華宗側は“こちらが負ける理由がない”と突っぱねたとされている。そのため面子を潰された形になってしまったことが法華宗側に対し悪印象を持たれてしまうことになったようだ。実際宗論の中で答える事が出来なかった“問い”で勝負が決まり、宗論に至るきっかけを作った宗徒と僧侶のひとりが斬首された。比叡山延暦寺をはじめとする大規模な寺院の焼き討ちを続けた信長ではあるが、特定の宗教に対して嫌悪感を持っていた訳ではなく、むしろ“兵力”を持ち自分に歯向かって来る“敵”としての“集団”を潰していただけに過ぎないことが良くわかる。特に近江の国に於いては多くの寺社に兵火を放ったことで、残虐さが言われている節はあるが、実際にはあくまで敵対する相手を滅ぼそうとした戦国時代に於ける戦いの“ひとつ”であったに過ぎないのである。そんな信長の考えを念頭に於いて考えれば違和感を感じるレベルではないことも理解できる。自らの拠点とした安土の街に於ける騒動を一刀両断にして解決した信長の想いがなんとなくわかったように感じた私であった。<br /><br />そんなこんなで本日の参拝&見学を終え帰路につく。先ずは丸亀うどん近江八幡店に立ち寄って、今晩の夕食を仕入れる。次に近江八幡郵便局に立ち寄って本日撮影したフィルムを発送する。以前ならばゆうゆう窓口の開いている時間に発送すれば、その日の発送の扱いとなってはいたのだが、今では18?00頃以降に窓口に差し出した場合は翌日の発送となるようだ。少しでも早く現像を終えてデータ化された画像をみてみたいのだが、運送業のドライバー不足の問題が絡むこと故仕方がない。道中にあったTRIAL近江八幡店にも立ち寄って軽く見ては回るが、日用品を数点購入しただけで出発する。そしてラストラン。自宅までは約23km、小一時間の道のりだが安全第一の運転で走って行く。陽がどっぷりと暮れた9時前に自宅に到着。急遽思い立って出発した安土へのShort Tripは終わりを告げた。<br /><br />  《終わり》

《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXIV近江八幡~安土の花の名所を訪ねる筈が…編~

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2021/06/02 - 2021/06/02

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《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXIV近江八幡~安土の花の名所を訪ねる筈が…編~

月日の経つのは本当に早いと最近痛に思えて来た。暖かくなる頃にはコロナ禍も終息していると考えていた年末年始、まさか恒例の沖縄行きの詳細を煮詰める筈の6月を迎えたが、相変わらず見通しが立っていない。おまけに肝心な沖縄県に緊急事態宣言が出されている。当面の期間は6月20日迄となっている。遡ること1年前、全都道府県に出された緊急事態宣言の解除が6月17日だったように思う。6月21日出発の沖縄行きは可能のように思われたが、結局段取りがつかず沖縄行きは諦めるを得なかった。しかし記録では6月22・23の両日でハルのお供で石川県の郵便局巡りへ行っている。マスクは着用しているものの、外食を含めた〝いつものパターン〟で出掛けたようなので、一般的には外出は許されていたのであろう。暫くは放置されていた時期にあのGoToトラベルが発令された。滋賀県内に至っては〝滋賀旅クーポン〟を利用すればただ同然で宿泊できるような時期もあった。

滋賀旅は利用しなかったが10月にはGoToトラベルを最大限に利用して、夜行のフェリーに始まり小豆島と備前市に宿泊し走り回っている。お土産は地域振興券を利用し、いつもならば結構な額となるものがこれもまたほとんど出費にならなかった。35%の割引が効くのであれば、普段は1人分の宿泊費に近い金額で2人分が賄える、正に棚ぼたそのものだった。しかしコロナ感染者の増加からGoToトラベルも中止される。滋賀旅は段々と条件が悪くなりつつあるが続いていた。確かに旅行代金が安くなることはありがたい限りではあるが、無ければ無いで今まで通りの旅をするだけだ。ただGoToの恩恵はコロナ感染者に最も近い立場で接している医療従事者の皆様には、ほぼ関係ないものでしかなかった。万が一にも自分自身が感染し、感染していない者にうつしてしまうことを非常にシュールに受け止めていた。我が家にもひとり看護師がいるが、半分冗談で何処かへ行くと言おうものならば鉄拳制裁が待ち構えている。加えて我が家の〝箱入りジジイ〟が罹患すると死ぬでと冗談なのか本気なのかはともかく、外出すること自体を諦めなければならないようになってきた。

そんなご時世が続きコロナ罹患者が緊急事態宣言を出されて減ったと思えば、解除後にまた増加するといったいたちごっこの応酬である。今年のGWは緊急事態宣言が出されていたにも関わらず沖縄旅行は人気だったという。しかしそれがきっかけとなり、コロナ感染者の増加により沖縄県に緊急事態宣言が出された。当初6月20日迄という予想だったので、最悪行きの飛行機はノーマルを購入し、帰りはマイルを使えば大丈夫だと皮算用をしていた。しかし患者数の減少には至らず延長を繰り返した結果が8月22日迄となってしまった。

基本私の沖縄旅は2泊は宿泊先が決まっている。どちらも昨年の同時期には宿泊客を取ってはいなかった。一時2泊以上という条件付きで宿泊を募ってはいたが、こういった条件下では1泊のみのリピーターが多いと中々希望通りの条件はのめないと言われてしまうことも多いらしい。なぜ2泊以上にするかと言えば、ひとりの宿泊客に対し除菌・清掃に掛かる手間が追いつかないという現実がある。苦肉の策として出している最小限の条件である。しかしOTA経由で宿泊予約を受け付けてはいない以上、口コミに頼るしかない状況下では圧倒的に不利なのはいうまでもない。最終的には宿泊予約自体を受け付けない状況になってしまっており、この点も私の沖縄旅のコンセプトに於いて大きなマイナスとなってしまうことなので、目的を削っているうちに〝今行くのか?〟と自問自答することになってしまう。

最終的に6月20日迄の緊急事態宣言が延長されることを知った段階で、今年の沖縄旅は中止にした。ただ実際にはGWからの患者数の遷移を見ていても改善していないことは5月末にはわかっていた。おそらく中止になるだろうという予測から、例年ならばプランニングのために家に籠りっきりとなるはずが、ネタ集めの近場へのTripに気が向いてしまっていた。

そんな先行きが見えないことから近場への〝日帰り旅〟を敢行する。場所は新聞で読んだ〝なんじゃもんじゃ〟の銘木がある近江八幡市安土町の沙沙貴神社であった。今年は例年になく〝花〟を求める旅が相対的に増えいる。それはそれで良いのだが、今年に限って言えば例年になく開花が早いために、見頃の時期を逸してしまい何のために行ったのやら・・・という旅も少なからず経験している。そんな反省はいつもするのだがすぐに忘れるのが私の悪い癖。第一目的地を選んだ後は行き当たりばったりのいつものパターンは変わらない。そんな思いを持ちながら出掛けた結果はどうなったのか?それでは〝《2021. June》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのXXIV安土~花の名所を訪ねる筈が…編~〟を始めるとしよう。

令和3(2021)年6月2日水曜日
単発の休みである今日。なんとなく出掛けようと思い昼から車を走らせる。最近お決まりのローソン大津大平1丁目店に立ち寄って一服した後ナビをセットする。行先は近江八幡市の安土町、昔の蒲生郡安土町とする。

渋滞に巻き込まれる可能性はあるが、迂回すると距離も延びるため、素直に国道1・8号線を走って行く。案の定栗東付近で渋滞していたが大したものでもなく、その後は快調に走って行けた。

安土の市街に入り向かった先は沙沙貴神社であった。その名の通り全国の佐々木さんの氏神さまと呼ばれている神社は、宇多天皇に始まる宇多源氏、その子孫がこの地に来て名乗った佐々木源氏他分家した後に丸亀藩主となる京極氏、近江守護職となった六角氏等の天皇家に繋がる佐々木氏発祥の地とされているようだ。分家して他の姓を名乗った血筋もあり、どれだけ多くの方々が当てはまるのか正直わからないようだが、神社が言っている名字だけでも結構たくさんあるようだ。

そんな佐々木さん所縁の神社だが、佐々木一族ではない部外者の私が訪れた理由は新聞に掲載されていた〝なんじゃもんじゃ〟の花を見に来たのである.駐車場に車を停めてすぐの場所に植えられている〝巨木〟はすぐにわかったが、感動ではなくため息が出てしまった。宇治平等院で見かけたなんじゃもんじゃの木は、白い花が咲いており、なんじゃもんじゃの木だと思わなくてもつい見入ってしまうものだった。しかし目の前の巨木には花は付いていなかった。一言でいうならば〝花の時期〟は既に終わっていたのである。確か新聞で確認したのは5月初旬の頃。元々植物の知識がない私は、一ヶ月も花が咲いていると勘違いをしていたのであった。後で確認すると5月10日頃には〝花は終盤に差し掛かっている〟と書かれているので、それから3週間後に行ったならば結果は…となって当たり前であった。無知から出た結果ゆえに仕方がない。来年蝋梅と共に時期を確認して訪れようと思う。

気持ちを入れ替えて参拝に向かうことにする。立派な石鳥居に社号碑、石燈籠までの全てが立派なものだ。その近くに打たれている石柱には京極氏の〝平四つ目〟の家紋が浮き上がっている。元々は〝隅立て四つ目結紋〟だったと言われているが、丸亀藩主京極高朗が本殿・権殿・拝殿・楼門などが再建された際に変わったとされている。平安・鎌倉時代の様式で再建された建物は滋賀県指定の有形指定文化財に指定され現在に至っている。また鳥居手前には〝花の神社〟らしく〝近江百華苑〟の〝証明〟のようなものが掲げられていた。

鳥居を潜ってすぐに巨木の断面が置かれている。樹齢250年と言われる欅の木であるが、平成30(2018)年9月4日の台風21号の被害を受けて倒れてしまった。他にも甚大な被害を受けた沙沙貴神社の建造物ではあったが、令和2(2020)年までの復旧工事の末元通りになっている。伐採するしか方法がなかった檜の巨木であるが、残せるところは残そうという意図のもと断面を残しているようである。

倒れても残される巨木にその存在の大きさを感じつつ歩いて行く。石燈籠と平四つ目の石柱の多さに、復興に尽力した京極高朗の偉大さを感じずにはいられない。散策路の突き当たりには由緒碑が建立されている。その奥には学問の聖木と言われる〝楷の木〟が植っていた。結構由緒ある樹木があるなと思ってはいたが、どうやら沙沙貴神社=近江百華苑=植物の神社と考えても間違いではないことを知り納得する。その他にも朴の木やなんじゃもんじゃの立派な木々が植えられている。散策路に戻って歩いて行くが、鬱蒼とした木々に覆われた石燈籠が立ち並ぶ参道は、歴史ある神社そのものだと感じさせるものであった。

突き当たりには楼門が聳えている。京極高朗が再現したもののひとつで、滋賀県登録有形文化財の指定を受けている。その楼門脇には〝出会いの椙檜〟前にある男石と女石を目を閉じて触ることができれば、縁結びのご利益が得られると言われている。まあこの辺りは方法は違うが似たものはよくある縁結び祈願の鉄板であろう。その横を通り過ぎて西回廊に沿って歩いて行く。沙沙貴神社の特徴かも知れないが、散策路と近江百華苑という〝植物園〟が複雑に入り組んでおり、なかなか一筋書きでは進めない。なんじゃもんじゃ、藤といった樹木が養成中のものも含めてたくさん植えられている。花がメインの神社ゆえ、歩き方を間違えないようにしないと見落とす可能性が高いので注意が必要だ。

そしていよいよ楼門を潜る。真正面には拝殿がある。それを取り囲むように東西の回廊がある。これも京極高朗が再建し寄進したものだという。滋賀県の重要文化財指定を受けているだけあり素晴らしいものである。あまり知識がないので一般論とはなってしまうが、法隆寺や東大寺と同じように厳か感が漂っている。

境内と言って良いのだろうか回廊の中には手水舎がある。尤もコロナ対策で水は流されてはいなかった。中心には拝殿が設けられているのだが、本殿の幅が結構広いためにカメラに収めるには拝殿の手前より後ろでないと全景が撮れなかった。狭いという印象はないためこの回廊内のスペースには色々なものが圧縮されるように建立されているように感じた。社務所の前には十二支所縁の御守りが描かれていた。その後ろには歴史ある石燈籠とさざれ石がある。蝋梅の木て書かれている古木があるが勿論今は花の時期ではなく〝葉をつけた木々〟と化していた。

本殿裏には十二支の動物の石像がある。それぞれの隙間には京極家の平四つ目が刻まれた石柱が建てられている。やはりこれも京極高朗の寄進なのかと思うのだが、十二の動物の石像が並ぶとこんなに長いものになるのかと改めて思う。十二支個々に全てを撮影したとしても記録にしかならないために我が家所縁の〝卯〟〝戌〟〝申〟のみをここに記録しておくことにする。

その隣には境内社が立ち並ぶ。手前から祇園社、愛宕社、加茂社、稲荷社、小童神社となっている。境内社の斜めには八角神殿なる新しい建物があり、なんでもこちらひとつにお参りすると〝8ヶ所〟のお参りになると言われている。コロナ禍の影響かも知れないが少し味気ないように思える。

本殿の並びは立派である。手前の滋賀県指定有形指定文化財の権殿。拝本殿との間には中門があり、その奥には〝磐境(いわさか)〟と呼ばれる願掛け場所がある。勾玉が神様となり物事の弥栄を祈る場所となっている。その前方には乃木希典お手植えの松、乃木さんのお言葉が刻まれている石碑がある。佐々木高綱の末裔である乃木希典は沙沙貴神社を崇拝し、ちょくちょくと参拝していたようだ。明治39(1906)年6月28日の参拝の折にこの松を植えたと記載されていた。乃木将軍と言えば人情の厚い人物とされており、この〝乃木さんの言葉〟は彼の人格そのもののように思える。人を敬うことを説いているが、なかなか簡単にできることではない。当たり前のことかも知れないが今の荒んだ世の中には一番必要とされている考えではとふと思った私であった。

なにかひとつの願い事が叶うという磐境に願掛けをして、隣の拝殿・本殿へと向かう。本殿は十二支干支の庭から後方は確認できるが、沙沙貴さんではない私は正攻法の拝殿からお参りするだけにしておく。拝殿前には御祭神について刻まれている碑があった。少彦名神(すくなひこなのかみ)はささげの豆の鞘に乗っかり海を渡ったと伝わっている。大毘古神(おおひこのかみ)は古代都からの主要道のひとつ北陸道を守護された四道将軍のひとりであり、ご子孫の沙沙貴山君がササキの庄の地名につながっているとされている。仁徳天皇(鷦鷯尊:おおさきのすめらみこと)は日本の第16代天皇で難波宮から治めている国々の様子を見ていたと言われる。日本最大の御陵を作った天皇ではあるが功績から聖帝と呼ばれた名君で、家々から煙が上がっていない様子を見て民衆の貧窮を知り課税と労役を取り止めたという逸話の他大規模な治水工事を指揮したと伝えられている。第59代宇多天皇(うだのすめらみこと)と天皇第八皇子敦實親王(あつみのみこ)は宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖とされている人物である。

そんな感じで境内を参拝し、境内マップで確認した〝なんじゃもんじゃの木〟へと向かう。沙沙貴神社に於いてはなんじゃもんじゃの木は珍しいものではなく至る所に植えられている。そのためメディアに取り上げられる樹木がどれなのかがわかりづらいところがある。調べた結果車を停めている東参道付近に〝石柱〟隣に植えられていることを知る。しかしその場所に行っても〝満開の白い花〟は見当たらない。あるのは立派な古木だけであった。場所が違うのかと画像データを探してみるが、場所は間違ってはいない。実はここで私が大きな勘違いをしていることに気付く。つまり5月中旬の満開の報は当然その時のことであり、訪れた6月2日は3週間後のことであった。つまり花の見頃を通り過ぎ、残っていた花も全て散ってしまった時期に訪れているだけに過ぎないことを知った。花の命は短いことを知りながら都合良く解釈をしていた私の痛恨のミスである。しかしどれだけ悔やんだとしても花が元に戻ることはない。凡人の私には当たり前だがなすすべがない。ここまで来たのに~と思っても後のまつり。仕方がないので来年の開花情報を目をかっぽじいて見て訪れる日を早急に決めようと心の中で思った。呆気なく安土まで足を伸ばしたのっけからくじかれてしまった。なのでもう一度境内内で記録漏れをしていなかったか再度確認するために歩きそれが終わってから車に戻った。

せっかく安土迄やって来た上に目的だったなんじゃもんじゃの花は終わっていたと来た。なんの実績もなしに帰るのも…という思いから立ち寄り地を考える。安土とくれば安土城跡と深く考えずに行き先を決めてみた。安土城と来れば織田信長であるが、元来の戦国時代の城とは違い戦いに於いて攻め辛い様に狭くて入り組んだ道からなる城内や城下町とは違うはずであった。諸説あるが〝天下布武〟の銘の下全国統一を成し遂げ、今後戦う必要がない時代を迎える〝象徴〟として築かれた安土城。城内は勿論城下町も楽市楽座が効果的にできるように太くてわかりやすい道となっていたと言われている。ただJR線路を渡る踏切や道路整備が進んだ現在、意外に目的地まですんなり向かえる様な道にはなっていないのが現実だ。沙沙貴神社から安土城跡に向かう道のりも真っ直ぐとはいかない上によく似た幅員の道があったりと、勘違いをすると辿り着かない可能性もある道路も少なくはない。加えて城下町内の施設に向かうには、結構狭い道を走らねばならない上に駐車場もない。安土の城下町巡りには〝レンタサイクル〟が一番と観光案内所だけでなく訪れた方々の記録にも同様に言われている理由がやっとわかった気がした。

今回は車であるために城下町散策は諦め、安土城へと直接向かうことにする。見覚えのある〝安土城址〟の石標は昭和2(1927)年に内務省によって建立されている。その後昭和3(1928)年には滋賀県が史蹟安土城址の管理団体に指定され、その後の調査整備にあたっている。昭和25(1950)年には文化財保護法施行に伴い〝史跡安土城址〟となり、昭和27(1952)年には特別史跡に指定され現在に至っている。平成元(1989)年から平成21(2009)年迄〝調査整備20年計画〟を開始し、城内の道路や通路沿いに築造された家臣の邸宅や天皇行幸を目的に作られたとされる内裏の清涼殿を模した本丸御殿等の当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣の修復工事が行われた。最終的には滋賀県の予算の関係で延期されることなく調査は終わるが、調査できたのは史跡指定面積の20%に留まっている。もし仮に調査事業を継続し、全域の調査を行うには50~100年の年数が必要と言われており、現時点では〝将来に委ねる〟という名目で放置されている。この時期の滋賀県知事といえば〝もったいない〟と新幹線栗東新駅やダム工事などを凍結した嘉田さんである。しかし知事を退いた後に治水工事の必要性が判明し、払う必要のなかった〝違約金〟を県民の納めた税金から支払わせた〝無駄遣い〟をさせた張本人である。インフラ構築を〝もったいない〟というのであれば、史跡調査ならば将来のためという理由で続ければ良かったと思えてならない。目先のことしか考えられなかったために全てが中途半端になってしまったのだろうと確信する。そんな背景で今後発掘調査がなされるかどうかは不透明ではあるが、できれぱ発掘調査は再開して貰いたいと切に願う。

安土城跡一周拝観は所要時間45~90分となっており、管理は摠見寺・一般社団法人安土山保勝会が行っている。臨済宗妙心寺派遠景山摠見寺というものが正式名称とあるが、この摠見寺、信長が安土城を築城した際に造られたものとされているが、創建時に住んでいた尭照法印を正式な住持とは認めておらず、信長死後に住持となった正仲剛可を開山として今日に至っている。摠見寺創建にあたり信長は近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したと伝えられており、その代表的なものが現在重文指定を受けている二王門や三重塔などが挙げられている。江戸中期には仁王門・方丈・書院・庫裡・三重塔・鎮守社等を含めた22棟の建物が存在したと伝えられているが、嘉永7(1854)年の火災により、方丈・書院・庫裡など主要な建物が焼失し、その後伝徳川家康邸跡に仮本堂を建立し、現在に至っている。

この摠見寺であるが元来は特別の宗教に属さなかったと言われている。結局は信長の死後に織田伊勢守家織田信安の子である剛可正仲を開祖とする。彼の死後一時的に父である信安(玉甫)が寺を継ぐ。期間は不明だが数年間住職代わりをしていたが彼の死後、信包の子(寿圭)が織田信雄の仲介で2代目住職となった。この際に妙心寺の住職であった寿圭が新住職となったことから、臨済宗妙心寺派の寺院となったという説が濃厚であり、時代的には大坂夏の陣で豊臣家が滅びた後の元和3(1617)年頃と言われている。そして寿圭の死後は跡目争いが起こり、織田信包の孫にあたる愚門と江戸東禅寺の開山である嶺南崇六が争論をおこす。最終的には幕府の裁決によって織田一族の愚門が後継者に選ばれることとなる。以降江戸時代を通じて歴代の住職は織田家の一族から選ばれることになるが、その際に宇陀松山藩(後に丹波国柏原藩)藩主の養子となることが条件となったようだ。

現在では織田家の血縁者という文言は摠見寺の紹介に於いて書かれてはいないようだ。しかし安土城跡の管理業務を行っている施設はここ摠見寺であり、安土城跡は勿論のこと安土城に纏わる貴重な品々の管理もやはり摠見寺が行っている。言い方は良くないが安土城の遺構発掘に於いて〝摠見寺〟が大きな影響力を持ち、実質的な入山管理が宗教法人である寺院が行っている以上、損益の絡みが出るために遺構発掘に対し、県や市等が積極的に話を進めようとしない旨の論説が記されていた。これをどう取るかは個人の自由ではあるが、確かに税金によって進められ、出土した遺構を〝管理者〟が金銭と受け取って見せると言われればいい気はしないであろう。このあたりの話は宗教が絡むと必ずややこしくなるといった〝理論〟になってしまわないように、安土城の付帯施設である摠見寺には摠見寺の入山料を、また安土城跡には地方公共団体か若しくは三セクの管理者を置き、それぞれに〝維持費〟を得られるシステムを講じるなど今後の発掘に於ける〝かかる費用〟とそれを〝取り戻す収益〟を明確に区別する必要があると思われる。坊主丸儲けという言葉は悪いが、やはりそう思っている者も少なくはない今日、少しでも歴史を日の光の下に晒し、研究に繋げ史実の解明に繋げて貰いたいと思う私の思いは間違っているのだろうか…。既に入山時間を過ぎて目の前に竹で作られた門扉が閉められていることに、少し悲しい思いをした私であった。

夏至間近と言ってもさすがに陽は傾いて来たので次の目的地を目指すことにする。浄土宗金勝山浄厳院は天正5(1577)年に織田信長が近江國栗太郡(現・栗東市)の浄土宗金勝山阿弥陀寺の僧である浄厳坊明感を安土に招いたことに歴史を発する。明感を開山とし金勝山阿弥陀寺を移設する形で浄土宗金勝山浄厳院を建立した。元来この地には室町時代の正平年間(1346~1370)に近江守護の六角氏頼が母の菩提のために建立したとされる律宗寺院慈恩寺威徳院が存在し六角氏の菩提寺となっていたが、戦国時代に兵火に罹って焼失し廃寺となっていた。その跡地の一角に浄厳院を建立した訳だが、ここに信長が他寺院から奪い取って来た本堂や本尊を移したことが寺伝に記されている。本堂は近江國多賀の興隆寺の弥勒堂を、本尊阿弥陀如来坐像は犬上郡甲良町下之郷にあった二階堂宝蓮院をそれぞれ破壊した折に手に入れたものであるそうだ。信長らしい寺院の復興手段ではあると思うが、元々の威徳院を蔑ろに考えていた訳でもないようだ。というのも現在の浄厳院の正式名称は、浄土宗金勝山慈恩寺浄厳院と言い、慈恩寺のいう“寺社名”はしっかりと残っていることからもわかる気がする。

この浄厳院だが安土城から少し離れており、町外れの場所にあったと記録されている。ある意味信長の手によって復興を遂げた寺院のひとつであるが、信長時代を象徴する出来事が起こった場所でもある。天正7(1579)年の浄土宗と法華宗の宗論である“安土宗論(あづちしゅうろん)”若しくは安土問答と称される“問答”の会場となった場所である。宗教の話に善悪や勝負もないために詳細は割愛するが、要は浄土宗の僧侶が安土で説法をしていた際に、法華宗の信徒が議論をふっかけたところあっさりかわされ、法華宗の僧侶を連れて来ればお相手しましょうということになった。それぞれの宗派の名だたる僧侶が安土に集まるという騒ぎは大きくなり、信長の耳にも届くことになる。信長自身は自らの得になることでもないために、宗論開催には消極的であり、両者の仲裁に入ったとされている。またことを荒立てない様に申し伝えたが、浄土宗側が順応の意志を示したことに対し、法華宗側は“こちらが負ける理由がない”と突っぱねたとされている。そのため面子を潰された形になってしまったことが法華宗側に対し悪印象を持たれてしまうことになったようだ。実際宗論の中で答える事が出来なかった“問い”で勝負が決まり、宗論に至るきっかけを作った宗徒と僧侶のひとりが斬首された。比叡山延暦寺をはじめとする大規模な寺院の焼き討ちを続けた信長ではあるが、特定の宗教に対して嫌悪感を持っていた訳ではなく、むしろ“兵力”を持ち自分に歯向かって来る“敵”としての“集団”を潰していただけに過ぎないことが良くわかる。特に近江の国に於いては多くの寺社に兵火を放ったことで、残虐さが言われている節はあるが、実際にはあくまで敵対する相手を滅ぼそうとした戦国時代に於ける戦いの“ひとつ”であったに過ぎないのである。そんな信長の考えを念頭に於いて考えれば違和感を感じるレベルではないことも理解できる。自らの拠点とした安土の街に於ける騒動を一刀両断にして解決した信長の想いがなんとなくわかったように感じた私であった。

そんなこんなで本日の参拝&見学を終え帰路につく。先ずは丸亀うどん近江八幡店に立ち寄って、今晩の夕食を仕入れる。次に近江八幡郵便局に立ち寄って本日撮影したフィルムを発送する。以前ならばゆうゆう窓口の開いている時間に発送すれば、その日の発送の扱いとなってはいたのだが、今では18?00頃以降に窓口に差し出した場合は翌日の発送となるようだ。少しでも早く現像を終えてデータ化された画像をみてみたいのだが、運送業のドライバー不足の問題が絡むこと故仕方がない。道中にあったTRIAL近江八幡店にも立ち寄って軽く見ては回るが、日用品を数点購入しただけで出発する。そしてラストラン。自宅までは約23km、小一時間の道のりだが安全第一の運転で走って行く。陽がどっぷりと暮れた9時前に自宅に到着。急遽思い立って出発した安土へのShort Tripは終わりを告げた。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
30いいね!

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