2019/03/08 - 2019/03/15
32位(同エリア415件中)
ポポポさん
夕方からはアブシンベル神殿の光と音のショーを見学しました。
翌日は早朝にアブシンベル神殿を訪れ大神殿尾内部を観光しました。大神殿はラムセス2世が太陽神ラー・ホルアクティに捧げた神殿ですが、内部はラムセス2世を賛美するレリーフで溢れていました。
さらにこの神殿の造られた意図はラムセス2世を神として崇めることでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
3月10日、旅行3日目アブシンベルの夕方です。
昼過ぎにアブシンベルのホテルに到着しましたが、午後はOPツアーのナセル湖遊覧以外は観光がないためホテルでブラブラしていました。
そして夕方アブシンベル神殿の前で行われる「光と音のショー」を見るためにホテルを出発、夕方5時45分に現地に到着しました。
アブシンベル神殿の入場口ではセキュリティー検査を受けて中に入りますが、ギザのピラミッドのような物々しい警戒感はありませんでした。
入り口を入るとまず目に着くのが写真の景色です。ここはアブシンベル神殿の丁度裏側の様子。人工的に造られた丘の上に切り分けられた石を組み上げてできた岩山です。
この岩山は実はセメントで造られた人工ドームです。神殿自体は約1000個の石のブロックに切り分けられてここに移築されましたが、神殿の母体となる岩山の躯体はセメントで造られたドームなのです。
写真中央の入り口が神殿のある岩山の内部への入り口ですが、ここから内部へ入っても神殿に通じている訳ではありません。この入り口は人口ドームのメンテナンスの入り口で、人口ドームの内部や再構築した石積みを見ることができるそうです。
わざわざこの入り口から岩山の内部に入るツアーもありますので、興味のある方は参加されてみたらいかがでしょうか。
写真の岩山を取り巻くように遊歩道が整備されていて、そこを先に進むとアブシンベル神殿が見えきます。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
アブシンベル神殿が見えました。この時の興奮と感動はマックスでした(笑)。いやー、この時の感激は今も忘れることができません。
中学生の頃TVのニュース映像で何度も見たのがアスワンハイダムの底に沈むアブシンベル神殿を1000個以上の石のブロックに切断し丘の上に移築する作業風景でした。
完成した神殿の映像を見ながらいつかは本物を見てみたいと思っていましたが、とても実現できそうもない願望だと半ば諦めていたのです。
当時は飛行機でエジプトに行くなんて夢のまた夢だったからです。しかし、それが現実になった。この景色が見えた瞬間は「イヤッホー。」と叫びたいくらいでした(笑)。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
アブシンベル神殿の大神殿です。4体のラムセス2世像が圧巻でした。
ではここで簡単にアブシンベル神殿を説明しておきましょう。
アブシンベル神殿は世界遺産アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群の構成遺産の一つです。太陽神ラー・ホルアクティを祭神とする大神殿とハトホル女神を祭神とするネフェルタリのために建てられた小神殿から構成されています。
1813年スイス人ブルクハルトが土地の人の案内でアブシンベル神殿を発見しました。
神殿は強い北風に吹かれて舞う砂に3/4が埋もれていたそうです。
そして初めて神殿の中に入ったのがイタリア人探検家ベルツォーニです。砂をかき分けかき分けて神殿の入り口を見つけたのが1815年のことでした。
そして時が流れて1960年になるとアスワンハイダムの計画が浮上しました。
計画ではアブシンベル神殿をはじめヌビアの遺跡群はダムの湖底に沈むことになっていました。これらの遺跡を救うために立ち上がったのがユネスコです。1960年3月8日ユネスコは遺跡の救済を各国に呼びかけ、世界60カ国の援助を得てヌビア遺跡群を安全な場所に移設する計画が始動しました。1968年にダムが完成して水没してしまう前に救出するためでした。
移設工事は1964年から始まりました。アブシンベル神殿の像や彫刻はいくつものブロックに切り分けられ、クレーンやトラックで200m離れた高台の神殿再建予定地に運ばれて再び組み立てられました。こうして4年の歳月をかけて見事に高台に移築されたのが現在のアブシンベル神殿です。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
この救済をきっかけに人類共通の遺産を守ろうという機運が高まり世界遺産が創設されました。
さて、アブシンベル神殿は新王国19王朝の王ラムセス2世により紀元前1300年頃に建てられました。
ラムセス2世は国を統治するために自らを太陽神ラーの子と名乗り多くの神殿を建てましたが、その中の最高傑作と呼ばれるのがアブシンベル神殿です。
アブシンベル神殿は大小2つの左岸をくり貫いて造られた岩窟神殿ですが、詳しい説明は翌朝の神殿内部観光の時に譲ります。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
アブシンベル神殿大神殿。入り口にはラムセス2世の4体の象が並んでいます。この時間はすでに内部観光は終了し入り口は閉じられていました。
アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
どこから上ったか不明ですが会場となる岩山の上に一匹の犬が姿を現しました。
ショーが始まる時間には姿を消しましたが野良犬でしょうか。 -
さて、音と光のショーの観覧席はアブシンベル神殿の大神殿前、ナセル湖畔に設けられていました。
私は写真を撮りながら歩いていたので、ツアーの列の後ろの方にいました。観覧席に到着すると先頭の方を歩いていた人たちがすでに最前列に陣取っていました。
私は映像を見るのに最前列は適していないと判断しました。何故なら最前列では岩山との距離が近いために映像がぼやけて見難いとだろと思ったからです。それで後の方の席に行こうとすると添乗員から待ったがかかりました。
ショーが終わると暗くなり道に迷う恐れがあるため、皆同じところに固まって見るようにとの指示でした。
不承不承ではありましたが添乗員の指示に従って最前列に腰かけショーを見ることにしました。
ショーの開始時には大神殿と小神殿がライトアップされ、ショーが始まりました。
音声は観覧する人数の多い国の言語で行われます。それ以外の国の人は音声ガイドが手渡されるそうですが、当日は幸いなことに日本語の音声でした。
こうしていよいよ音と光のショーが始まりました。音と光のショー 劇場・ホール・ショー
-
大神殿と小神殿は基本ライトアップされた状態でしたが、場面場面で照明が消されたり、写真のような色の照明に変化しました。映像の投影は小神殿の左側の岩壁に映し出されましたが、私が危惧したように最前列に座ったため映像がぼやけて見にくかったです。
映像はプロジェクションマッピングではないため、画像の質も内容も今一で期待外れでした。
わざわざ料金を支払って見るほどの内容でもありません。事前にラムセス2世やアブシンベル神殿の事前学習をした方なら全く新鮮さは無く、新たな発見もない内容の乏しいものなのでお勧めしません。音と光のショー 劇場・ホール・ショー
-
ただどんな内容だったか記憶に残る程度で記述しておきます。
冒頭プロローグ部分はアブシンベル神殿の発見と、アスワンハイダムの建設で湖底に沈む危機に際してユネスコによって救済されたことが説明されました。
次はラムセス2世の治世とネフェルタリ王妃とのこと。
そしてヒッタイトとの衝突、カデシュの戦い、その後のヒッタイトとの抗争と人類史上初めての平和条約の締結。
「我が名を知らしめるため多くの神殿を建て、そこに我が名と我が事績を記そう。」最後はこの様な目的で多くの神殿や建物が建てられたことが述べられました。
大よそこの様な内容だったと思います。
写真はショーの途中で照明の色が帰られた時に写したものですが、かなり暗いなかだったので2枚ともブレてしまいました。
写真のできは悪いですがどんな雰囲気だったか感じていただきたいので掲載しました。
なお岩壁に写された映像はピントがぼけた映像だったので写真は写しませんでした。音と光のショー 劇場・ホール・ショー
-
小神殿のライトアップ。
アブ シンベル小神殿 建造物
-
大神殿のラムセス2世像。左側の2体です。
右のラムセス像は上半身の像がありませんが、これは地震で倒壊したそうです。
頭も上半身も像の足元に転げ落ちていました。 -
中央の神は太陽神「ラー・ホルアクティ」です。
-
右の2体のラムセス2世像。
-
音と光のショーが終わると再び大神殿入り口の4体のラムセス像がライトアップされました。
ショーは約40分、これからホテルに戻って夕食です。音と光のショー 劇場・ホール・ショー
-
大神殿のライトアップ。
-
4体のラムセス像のアップ。
音と光のショー 劇場・ホール・ショー
-
大神殿のラムセス像を斜め方向から眺める。
-
斜め方向から眺めたラムセス像のアップ。
下から照明を当てるとラムセス像の目が不気味でした。 -
ラムセス像の足の脇に立つネフェルタリ像が人形のようです。
-
左側2体のラムセス像。
-
これがライトアップされたラムセス像の見納めです。
遊歩道沿いには明かりが灯り、ライトアップされた明かりに神殿の像が照らされているため添乗員が言ったほど道は暗くはありませんでした。
しかし遊歩道の外は歩かないようにしてください。明かりがあるとはいえやはり夜道なので昼間ほど明るくはありません。遊歩道を外れると石がゴロゴロしているため躓く恐れがあります。 -
アブシンベル神殿からホテルまでツアーバスに乗って戻りました。
ホテルに戻ると直ちに食事でした。我々のツアーの他に日本人ツアー客が1団体、個人客が数グループいらっしゃいましたが皆さん音と光のショーに参加されていたようです。
さて、夕食はビュッフェスタイルでしたがこれまた写真がありません。
写真の撮り忘れではなく、またもやカメラの不具合で写っていません。このホテルの料理は美味しかったので食事の写真がないのは残念です。
食事が終わり部屋に戻る時に眺めたプールの夜景の写真です。セティ アブ シンベル ホテル ホテル
-
照明に照らされたブルーのプールが綺麗でした。
セティ アブ シンベル ホテル ホテル
-
照明がプールに映り込み、なかなか綺麗でしたよ。
-
夜空の月がプールの水面に月影を宿し、吹き来る風もなく静寂なアブシンベルの夜。
行き交う人もなくてただ一人佇んでいました。 -
夜はロマンチックです。ここは若い時に来ればよかった。今は枯れススキとなった初老の男性が一人佇むのみ。これじゃいくら景色が良くても絵にならないなあ。
セティ アブ シンベル ホテル ホテル
-
プール側の様子。エジプトの一番南がアブシンベル、スーダンとの国境の町ですが暑くなくてとても涼しい夜でした。
砂漠地帯は夜冷え込み場所によっては氷点下になる所もあるそうですが、アブシンベルでは冷え込むことは無く心地良いくらいでした。 -
セティアブシンベルホテルの夜は静寂そのものでした。
セティ アブ シンベル ホテル ホテル
-
明けて3月11日、旅行4日目の朝です。ナセル湖の朝日と早朝のアブシンベル神殿を観光するため当日は朝5時半にホテルを出発しました。
アブシンベル神殿に到着したのは5時48分ですが、朝日はまだ上っていませんでした。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
アブシンベル神殿大神殿の入り口に並ぶ4体のラムセス2世像。
この4体の像はラムセス2世の生涯を現しています。一般的には左から若い順に並んでいると説明されているものが多いのですが、これは大いなる間違いです。
この象はラムセス2世の人生の節目を現している像で、左から3番目の像は生まれた時に命名されたラムセス・メリアモンと呼ばれていた時期のもので、最も若い時の像です。
次に左から2番目の像は二国の王と呼ばれる象です。ラムセス2世が王になった時に二国の王と呼ばれていたのでそれを現している像です。
そして一番左の像は異国の太陽と呼ばれる像です。これはラムセス2世が戦に明け暮れて異国を支配した時を表す像です。最後に一番右の像は「アトゥムに愛されしラムセス」と呼ばれる像で、この像が最も年齢の高い時期の像です。それぞれラムセス2世の節目の時期の象がここに造られていて、各像にはそれぞれの節目の像の名前が記されているそうです。
「アトゥム神」はエジプト神話の天地創造の神、オシリス神やセト神などのエジプト九柱の神々の筆頭格で最高神です。その神に愛されたとの表現はラムセス2世が王の中の王と呼ばれる所以です。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
4体の像の中央にあるのが太陽神「ラー・ホルアクティ」。この神殿が太陽神「ラー・ホルアクティ」に捧げられたことであることを示しています。
「ラー・ホルアクティ」は太陽神ラーと天空と太陽の翼の神ホルスが集合した神です。ホルス神は様々な神と集合していてホルアクティは地平線のホルスという意味です。光の神として毎日東から西へと地平を渡り太陽神ラーと同一視されていました。 -
「ラー・ホルアクティ」のアップです。
太陽円盤をいただきハヤブサの頭をした姿で描かれているのが太陽神「ラー・ホルアクティ」の立像です。太陽神の左右には正義の神「アマト」の小像を捧げるラムセス2世のレリーフが彫られていました。
この様子からもこの神殿が太陽神「ラー・ホルアクティ」に捧げられたことが分かります。
我々は一旦大神殿の前に集合し、ガイドのアラーさんから大・小神殿の見所の説明を受けました。
と言うのもガイドは神殿の内部に入れないからです。内部のレリーフについては出国前に目を通していましたが、アラーさんからこのレリーフはどの場所に有ってどの様なレリーフなのかと説明を受けると、自分の記憶とごっちゃになってしまって混乱してしまいました。
ともかく絶対に見たかったカデシュの戦いのレリーフは見逃すまいと思いました。
アラーさんの説明が終わると自由行動になりましたが与えられた時間は僅か30分、この間に2つの神殿と朝日を観光しないといけません。正直言って全然時間が足りませんでした。
ここは1時間くらい貰ってじっくり見たかった。 -
まずは上る朝日の鑑賞、早朝上る朝日に照らされると神殿は真っ赤に染まります。この写真を事前に見ていたので、燃えるような神殿を一目見たいと思っていました。
さて、こちらはナセル湖畔。こちらが東側、もう間もなく日の出です。 -
アブシンベル神殿内の至聖所には2月22日と10月22日に朝日が真っ直ぐに差し込み神々の像を照らします。
そのため神殿は東向きにに建てられているのです。
さて6時7分、太陽が上り始めました。 -
同6時7分、太陽が半分顔を出しました。
-
3月11日6時8分、完全に太陽が顔を出しました。新しい日が昇ります。
エジプトの朝日は上る時間がとても速かった。 -
太陽が昇りだすと一挙に明るくなりました。ご来光ではないけれど、ご来光に似た感動が押し寄せました。
-
6時9分、東の空が赤く染まって行きます。振り返り見た神殿はまだ赤くなっていません。赤くなるにはまだ5分以上はかかりそうです。
とその時、「太陽ばかり見ていると神殿の中が見れないよ。」とアラーさんから声がかかりました。
神殿の中に入ると赤い神殿は見れないがやむを得ない。神殿の内部を見に来たのだから・・・。後ろ髪を引かれそうになりながら神殿の方に向かいました。 -
神殿入り口にあるヒエログリフの碑文。
神殿の来歴、ラムセス2世の事績が書かれてあるそうですが、剥落した部分が多い碑文でした。 -
神殿の入り口。
-
大神殿は昇る朝日を浴びてやや赤く色づいてきましたが、真っ赤になるには今少し時間がかかりそうでした。
入り口の両脇のラムセス2世座像の入り口際に立つ像は王妃ネフェルタリ像です。ラムセス2世座像の足元には子供たちの像がありました。
さらに座像の前にはハヤブサの像が立ち並んでいます。
左から2番目のラムセス2世像の頭部は地震で崩落し足元に転がっています。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
地震で崩落したラムセス2世像の頭部。耳が見えていました。
-
崩落した頭部のアップです。
-
右のラムセス2世座像の側面にある「向かい合う二人のハピ神」というレリーフ。
このレリーフは上エジプトと下エジプトを象徴する二人のハピ神が向き合って引き合っている姿で表わされた上下エジプトの統一を表現しているそうです。
ハピ神の右の像はネフェルタリ像。
なお、このレリーフの下部、ヒエログリフの下には綱で数珠繋ぎにされたヌビアの捕虜のレリーフがあったのですが、この写真はありません。
間違いなく写したのですが、またもやカメラの不具合で写真が撮れていませんでした。
入り口にいる係員に入場チケットと写真撮影券を提示し確認を受けて内部に入場します。
神殿の入場券は200EGP(1400円)、撮影券は300EGP(2100円)です。撮影料金が異常に高いのはエジプトくらいだと思います。
ガイドのアラーさんは、べらぼうに高い撮影料を払うよりは10ドルでアブシンベル神殿のガイドブック(写真集)を購入した方がいいと言って、ガイドブックの購入を勧めていました。 -
アブシンベル神殿の入場チケット200EGPとカメラ券300EGPです。
入場料よりもカメラの撮影料の方が高いのです。エジプトの物価と比較するとかなり高い金額でした。 -
中に入るとオシリス神の形をした8体のラムセス2世像がお出迎え。
この神殿は太陽神ラー・ホルアクティに捧げられた神殿ですが、実際はラムセス2世が神になろうとしている神殿なのです。
その一例がこのオシリス神のポーズをとるラムセス2世像。
4体のラムセス像が2列になって互いに向き合うように立ち並んでいます。その中央が太陽の光が通る道、この道に光が差し込み奥の至聖所にある神々の像に当たるように造られています。
この8体の像がある部屋は大列柱室と呼ばれています。またこの部屋はラムセス2世の栄華と栄光を称賛する部屋でもあり、室内の壁には栄光のレリーフが施されていました。
天井は羽を広げたハゲワシの姿をしたネクべト女神が描かれています。
朝日が至聖所を照らすのは2月22日と10月22日です。3月11日の朝日は至聖所を避けて左側に差し込んでいることが写真から分ります。アブ シンベル大神殿 城・宮殿
-
オシリス神のポーズをしたラムセス2世像。
奥の壁にはレリーフが施されています。 -
オシリス神のポーズをとるラムセス2世像。
背後の柱にはヒエログリフが、壁にはレリーフが彫られていました。 -
大列柱室のラムセス2世像。
-
大列柱室の左側の壁にカデシュの戦いのレリーフが描かれています。
カデシュの戦いとは紀元前1286年頃のシリアの覇権と利権を賭けてエジプトとヒッタイトが争った戦いです。正式な軍事記録に残された最も古い戦いであり、史上初の大戦車戦が行われたことでも有名な戦いでした。
エジプトは新王国18王朝時代に勢力をパレスチナ・シリア方面に伸ばし絶頂期を迎えました。
しかしアメンホテプ4世が強大になり過ぎた神官たちの勢力を削ごうとして内政に力を入れた時期、台頭したヒッタイトによってパレスチナ、シリアの属領を奪われてしまいました。
その後19王朝のセティ1世(ラムセス2世の父親)は失われたエジプトの版図を復活させようとシリアに積極的に遠征を行い、再び拡張政策を取るようになりました。
シリアは昔から「肥沃な三日月地帯」と呼ばれていて、陸路や海路を握る交通や貿易の要衝の地であったため歴史的にこの地を巡って幾度となく戦いが繰り広げられました。
カデシュはエジプトとヒッタイトの勢力圏が交わる場所にありました。オロンテス川の流域にある交通の要衝で両国が争奪の焦点とした城郭都市です。セティ1世のシリア遠征ではヒッタイトの支配下にあった重要な貿易拠点であるカデシュを攻め落としエジプトの支配下に置きましたが、エジプトの支配は長続きせずラムセス2世がファラオになった頃にはカデシュは再びヒッタイトの支配下に戻っていました。
ラムセス2世は治世4年目にしてシリアに軍事遠征を開始しました。反抗的な諸都市を平定し国境付近に居住するアムル人にエジプト政権を樹立させカデシュ進行の足掛かりとつけることに成功しました。
エジプトとヒッタイトとのにらみ合いが続く中、ヒッタイトの新たな王となったムワタリはこの間、軍事力の増強に力を注いでいました。
ヒッタイトは歴史上最初に鉄器を使用した国でメソポタミアでは当時最強の軍事国家でした。こうしたなか満を持してついにムワタリが動きます。全土に大動員をかけ、大軍を編成して南下したのでした。
「ムワタリ動く」の報は直ちにラムセス2世に届きました。ラムセス2世はこれを宿敵ヒッタイト撃破の好機と捉えてすぐさま2万名に及ぶ大兵力をかき集めました。
彼は出身地ごとに軍を分けそれに外国人傭兵を加えた5000人ずつの4つの軍団をこの時作りました。そして軍団にはそれぞれアメン、ラー、プハタ、セトという神の名を付けました。これは神の名の下に戦うことを求められたと考えられています。この他に王直属の親衛隊の戦車部隊数百両が王と行動を共にしていました。
エジプト軍の特徴は各軍団が重装歩兵、軽装歩兵、弓兵、戦車兵で構成されており、単一兵科ではなく諸兵科連合による師団編成をしていたことです。軍団司令官がその軍団を把握し、ラムセス2世の命令だけではなく軍団司令官の判断で臨機応変の軍事行動ができるようにしたのです。
第一次世界大戦前の各国陸軍が行っていた師団編成をすでに紀元前1274年のこの時代に行っていたとは驚くべきことでした。
この編成の長所は軍団(師団)単位で会戦ができ千変万化する戦場の変化に柔軟に対応できることですが、短所は軍の侵攻速度が遅いことです。
一方ヒッタイトは単一兵科でムワタリの命令で全軍が行動します。ヒッタイトはこの時代の機動兵科であるチャリオット(戦車)部隊を前線に出し、一気に突撃して敵軍を粉砕する戦法でした。
但し混乱する戦場では刻々変化する戦況にムワタリの命令が的確に伝わり難いという最大の欠点を内包していました。
一方両国の主力兵器である戦車(チャリオット)にも運用などで差がありました。
エジプトの戦車は2人乗り(御者と弓兵)で弓で戦う弓騎兵のような運用です。
2人乗りなので軽量で小回りが利き軽快な動きができます。、また飛び道具を使用するので敵戦車部隊が接近するまでに敵部隊を叩くことができます。
一方ヒッタイトの戦車は3人乗り(御者と槍兵と盾持ち)で敵軍に突っ込み槍で戦う重騎兵。エジプト軍よりは身軽さでは劣るものの攻撃力や突破力はエジプト軍をしのぎ破壊力は抜群でした。
両軍の戦力はエジプト軍が戦車2500両、兵員2万人、ヒッタイトは戦車3500両、兵員は1万8000人と1万9000人の2個軍団でした。
ヒッタイトは戦車ではエジプト軍を約1000両上回り、歩兵はエジプト軍の約2倍という大軍勢でした。
こうしてラムセス2世は治世5年目にしてカデシュをヒッタイトから奪取しようと勇んで出撃しましたが、ヒッタイトのムワタリは大軍勢でエジプト軍を待ち受けていたのです。 -
写真はラムセス2世の「カデシュの戦い」の場面。2頭立ての戦車に乗り強弓をつがえて敵を狙い撃とうとしています。
二重写しになった王の向こう側にはアメン神が同じ姿勢で重なっており、王がいつもアメン神とともにあるのだという事をこのレリーフで伝えています。
この壁画を良く見て下さい。馬の脚は4本で描かれていますね。「4本の足を描くことでスピード感を見事に表現している」とか「この時代にすでにアニメ的手法が取り入れられていて馬の動きを表現している」とかいう説明が非常に多く見受けられます。
4トラメンバーさんの旅行記にもそう書かれているのですが、それらは全て間違いです。
その人たちはチャリオット(戦車)の仕組みを理解されていないのではないでしょうか。戦車は馬が2頭立てです。1頭立てでは馬に負荷がかかり過ぎて途中で潰れてしまうからです。
エジプトもヒッタイトも馬は2頭立ての戦車でした。目を凝らして見ると馬の尾は2本描かれています。
そのためこのレリーフの4本の脚は馬の奥にもう一頭馬がいることを表現しているのです。
さて、「カデシュの戦い」の続きですが・・・。ラムセス2世は兵站線を確保しつつカデシュに向かいましたがその途中、外国人傭兵のみを各軍団から集めて新たに1個軍団を編成し、軍団長にネアリムを任命しました。
そしてネアリム軍団は別動隊として地中海沿岸経由でカデシュを目指すように命じられました。
このネアリム軍団がカデシュの戦いの後半戦の帰趨を握ることになろうとは命令したラムセス2世さえも思っていなかったでしょう。
こうしてカデシュに向けて進軍していたエジプト軍ですが途中でヒッタイト兵を捕縛しました。捕まえた捕虜に尋問を行ったところ自白により「ヒッタイトの軍は未だ遠くの離れたアレッポにいる」という情報を入手することができました。ヒッタイト軍はまだカデシュより遠い北100㎞の地点にいるという情報です。
これを聞いたラムセス2世はヒッタイト軍がカデシュに到着しないうちにカデシュを占領しようと急進撃を命令、ラムセス2世の本隊とアメン軍団は強行軍に次ぐ強行軍でカデシュの10㎞手前の地点に到着し、ここを宿営地として翌朝の決戦に備えたのでした。ところがアメン軍と本隊が行軍を急いだため後続のラー軍団以下の軍団との距離が大幅に開いてしまい、野営した時はアメン軍団と本隊は一時的に孤軍の状態に陥っていたのです。
カデシュはオロンテス川の側の丘陵の上にあります。ヒッタイト軍はこの町を囲む土塁の中に司令部を開設してこれに偽装を施して隠し、主力部隊は丘陵の反対側に潜ませてエジプト軍からは見えないように配置し、偽情報を掴ませて罠を仕掛け手ぐすね引いて待ち構えていたのです。
そしていよいよ機が熟した決戦の朝、エジプト軍の斥候がヒッタイト軍の捕虜を捕まえて尋問するとヒッタイト兵は驚くべきことを自白しました。
「ヒッタイトの王はすでに戦闘態勢を整えてカデシュに到着し、丘の向こう側で待ち伏せしている。その数は砂粒よりも多し。」戦慄すべき内容です。この時初めて罠にかかったことをラムセス2世は悟りました。
この時丘の向こう側から砂塵が巻き起こり、隠されたヒッタイトの主力戦車部隊が姿を現して後続のラー軍団の側面に突進して来ました。
オロンテス川を渡河する最中だったラー軍団は夜を日に継いでアメン軍団に追いつこうと強行軍で疲れきったところを2500両もの戦車軍団に襲われたたものですからたまりません。なすすべもなく壊滅しました。
精鋭を誇ったエジプトの軍団は戦闘隊形が整っていなかったこともあって短時間で壊滅したのです。
初戦に勝利したヒッタイトの戦車軍団は宿営地を蹂躙し、返す刀でエジプトの本隊とアメン軍団に突進しました。精鋭部隊のエジプト兵は浮足立って大混乱に陥り、逃走するエジプト兵は数知れず、アメン軍団は壊走を始めました。
ラムセス2世はすぐさま後続のプタハ軍団に伝令を送りラー軍団の壊滅とアメン軍団の危機を通報し急いで救援に駆け付けるように命令しました。
さて、ここからがラムセス2世の真骨頂、神がかり的な戦いが始まります。
ラムセス2世が混乱の中掌握できたのは親衛隊の一部の数百名のみ。この小部隊でヒッタイト軍の包囲を突破すると自分の戦車に飛び乗りました。強弓を手にして仁王立ちになり「我にはアメン神が付いておられる。勝利を信じて我に続け!」と怒号を発し、猛然と敵戦車部隊に突進していきました。手には2メートルもあろうかという強弓が握られています。彼は弓の名手でもあり通常の弓の射程外から敵兵を射ることを得意としていました。しかも百発百中だったとか・・・。
彼が標的にしたのが戦車を操る御者です。御者を射抜けば敵戦車の機動力を封じることができます。後ろに続く親衛隊兵士に「敵戦車の御者を狙え、御者を射殺せ。」と命じました。遠距離からラムセス2世の矢が次々に敵戦車の御者に命中して行きます。
エジプト軍の戦車は2人乗りですばしこく動き回るためヒッタイト軍はラムセス2世の戦車を捉えることができません。王は矢を射ながら戦場を駆け回りヒッタイト軍の手薄な部分を必死で探し回りました。そこで目にしたのがアメン軍団の宿営地で略奪に勤しんでいた敵戦車の―部隊。この機を逃してなるものか、これを反抗の好機と捉えたラムセス2世は部下を呼び寄せ残存兵力を結集して一極集中で敵戦車兵に襲い掛かりました。これによりようやく勢いを盛り返すことに成功しました。僅か数百名の小部隊が2500両のヒッタイト軍を押し返し始めたのです。こうして絶体絶命の危機を脱しましたがエジプト軍の奮闘もここまで、周囲にいた親衛隊やアメン軍の兵士は皆打ち取られてしまいラムセス2世だけがただ一人戦場の真っただ中に敵兵の返り血を浴びて孤立していたのです。
もはや絶体絶命のピンチ、ラムセス2世は風前の灯でしたがこれを救ったのはムワタリだったのかもしれません。
ムワタリがヒッタイト軍の全軍の指揮権を掌握していたのでヒッタイトには各集団を率いる部隊指揮官は存在しませんでした。そのため各部隊が臨機応変に行動することができません。この場合ヒッタイトの各部隊に命じられていたのはエジプト軍を壊滅せよとの命令でした。
ムワタリからはその後の命令は受けていません。実は戦場が砂塵で覆われていたためムワタリには戦況の把握が困難だったそうです。そのためラムセス2世が孤軍となり一人で孤立していた時にヒッタイト兵は略奪にいそしんでいたと記録されているそうです。
果たしてそうでしょうか?誰が考えても敵国の王がただ一人で戦場に孤立し援軍が無い状況下にあれば、戦勝首欲しさに王を撃ちに行くはずです。
王が敵兵の真っ只中で無事でいられたのは数百名の屈強な親衛隊兵士に守られていたからではないでしょうか。こう想像する方が自然だと思います。
ちなみにエジプトの公式記録には王を賛美するため、ラメセス2世は戦車に乗って単騎でヒッタイト軍に突っ込み獅子奮迅の戦いをしたと記されているそうです。
多分に誇張されているため割り引いて見る必要はありますが、小部隊を率いて敵の大部隊と互角に戦ったであろう事は称賛に価すると思います。 -
舞い上がった砂塵が風に吹かれて戦場が見渡せるようになると、ムワタリは孤立しているラムセス2世を発見、周囲に付き従う部隊がいないと判断すると一気に決着をつけるべく予備兵力として待機させていた1000両の戦車部隊に出撃を命じました。目指すは敵大将の首一つ・・。号令一下砂塵を巻き上げてラムセス2世の方に殺到する戦車部隊の姿を見てムワタリは勝利を確信していました。
部下を叱咤激励し何とか壊滅を食い止めていたラムセス2世ですが、オロンテス川の対岸に上がった大砂塵を見て嘆息しました。「神は我を見捨てたもうたか」と。手持ちの兵力では抗うこともできない大兵力です。
もはやこれまでかと覚悟を固めたその時に奇跡が起こりました。ヒッタイトの戦車部隊の反対側西方向から傭兵で編成されたネムリア軍団が突然出現したのです。
ネムリアは戦慣れした優れた将軍でした。軍団を3部隊に分け、左翼の歩兵部隊を敵戦車部隊にぶつけて足止めし、中央集団で王と傷ついた親衛隊とアメン軍団尾残存兵を収容。右翼の戦車集団で略奪に忙しい敵戦車軍団の主力を蹴散らしました。
そこに遅れていたプハタ軍団が到着、ネムリア軍団と共同戦線を構築してヒッタイトの予備戦車部隊を撃破。敵戦車部隊はオロンテス川を渡って対岸に逃げて行きました。援軍の登場でエジプト軍は救われたのです。
ラムセス2世は勝ちに乗じてプタハ軍団を主力として追撃を命じましたが、ヒッタイトの歩兵部隊が橋頭堡を築いていたためこれを突破することができず、大損害を受けて撃退されてしまいました。
一方プハタ軍の後に続いていたセト軍団はヒッタイトの別動隊に捕捉され戦場に間に合いませんでした。
その後遅れて到着したセト軍団を加えて再三攻撃を仕掛けましたがオロンテス川河畔の橋頭堡はびくともしません。
こうして戦線は膠着、互いに食料が不足し軍団の維持にも支障をきたすようになりムワタリ王から停戦の打診がありました。ラムセス2世がこれを受け入れたため戦争はここで一旦終結、ラムセス2世はエジプトに撤退しました。しかしヒッタイトとエジプトの戦いはこの後何年も続きました。
この戦いから15年くらい過ぎた時にようやくラムセス2世はヒッタイト王ハットゥシリ3世と平和条約を結びました。この平和条約は成文化されたもので世界最初の平和条約と言われています。以後2国は友好国となりラムセス2世はヒッタイトの王女を娶りました。
さて勝ったのはどちらでしょうか?
お互い痛み分けというのが今までの一般的な評価でしたが、近年の研究でより詳しい戦況が明らかになるにつれてエジプト側の大惨敗だったという事実が明らかになってきました。
ラムセス2世は戦略目標を達成することができずシリアの領地を獲得することはできませんでした。カデシュの奪回を放棄した時点でエジプトの敗北でしょう。エジプト軍は2軍団が壊滅し、残り1軍団も大打撃を受けています。傭兵軍団の活躍で何とか全軍が壊滅することだけは免れたという状況です。
一方ヒッタイトのムワタリ王は何度もエジプト軍壊滅の好機がありながらその好機を逃し、長蛇を逸してしまいました。
しかし、軍勢の大半を温存できたことや領地を奪われるこちなくエジプト軍を追い払ったことは客観的に見てヒッタイト軍の勝利でしょう。
ただ、オロンテス川を渡河してきたプハタ軍に大損害を与えて撃退した時点で、なぜ全軍で追撃をしなかったのか、これが不思議でなりません。この時ヒッタイトには無傷の歩兵3万7000人と1000から1500両の戦車が残っていたはずです。
一方エジプト軍は3軍団がほぼ壊滅状態で全軍満身創痍の状態でした。戦えばまずヒッタイトの勝利は間違いなかったはずなんですが・・・。
ラムセス2世の鬼神如き戦ぶりに恐れをなしたのでしょうか?疑問が残ります。
さて、写真左のレリーフは作戦会議を行っている場面、右はカデシュの戦いで両軍の戦車が激突する場面です。 -
カデシュの戦い作戦会議の場面のアップです。
カデシュの戦いで疑問に残ることがもう一つ。カデシュの戦いではエジプト軍は敗北したにもかかわらず、何故ラムセス2世は王の中の王と讃えられ後世まで英雄として伝えられたかということです。
それは、ラムセス2世が帰国後、敗戦を隠蔽して大勝利と宣伝したからです。そのために勝利を祝う建造物やレリーフ、ラムセス2世を賛美する祝いの詩など多くのものを作らせています。
カデシュの戦いの記録はヒッタイトに残された記録に比べて内容が大幅に誇張さています。カデシュの戦いは戦況を正確に記すべきところ愛国心を刺激する英雄の物語に仕立てあげられたのです。ラムセス2世の英雄伝は神殿や葬祭殿の壁を飾る壁画が奉納されて人々の目に触れることで益々神格化されていきました。
本来敗戦は教訓として次の戦に生かすべきですが、英雄物語に仕立て上げられたため戦訓や教訓としては全く活用されませんでした。
そのため旧来の戦法に固執したエジプト軍はその後敗戦によりオリエントの覇者から転落することになります。 -
ヌビア兵の捕虜を踏みつけ打ち据えるラムセス2世。レリーフの兵士はヌビア兵と記述されているものが多いので前例に倣いましたが、ここの壁にはカデシュの戦いのレリーフが描かれているので、この兵士はヒッタイトではないかと思います。
-
進軍するラムセス2世。
-
進軍するラムセス2世とエジプト軍。
-
同じ場面のレリーフ。エジプト軍は上下2段に渡って描かれています。
-
大列柱室の奥にある前室の様子です。この部屋には4本の柱があり、柱には神々から祝福を受けるラムセス2世が描かれているそうです。
柱の奥のレリーフは太陽の船を運ぶ神官たち。左側の柱に描かれているのはホルス神からアンク(生命)を貰うラムセス2世。アンクを貰うことで死後復活が約束されます。 -
太陽の船の部分をアップにしました。ファラオの魂は死後太陽神ラーの魂と共にこの船に乗り、黄泉の国を12時間航行して再び太陽神ラーとともに再生するのです。
-
柱に描かれたラムセス2世。
-
反対側の柱に描かれた壁画です。
奥の壁にもレリーフがありますが、激しく破損していて判別できませんのでアップにしてみましょう。 -
レリーフのアップです。右の人物はラムセス2世。そして左は・・・。
何かを担いでいる多くの人の足と下半身、そして担いでいる物は何・・・、これも太陽に船です。
この船にラムセス2世の魂が乗る様子を表しているようです。するとこの前室はラムセス2世の死後再生を現した部屋なのか・・。
死後再生したラムセス2世は果たしてどこに行くのか?どうなるのか?
そして前室のその先は何? -
前室のその先にあるのが至聖所です。至聖所とは神々がおわす所。
右からラー・ホルアクティ神、神格化されたラムセス2世、アメン・ラー神、プタハ神です。神格化されたラムセス2世は神と同格であることを表しています。
アメン・ラーは国家神。アメン神もラー神も共に太陽神でアメン神は元々テーベの土着神。ラー神と合体してアメン・ラーとなったことで神格が上昇、創造神としての性格も併せ持つようになりました。新王国時代には国家神として大いに崇められました。
プタハ神は創造神の一人で鍛冶や職人の守護神、冥界を司る神でもあります。
この至聖所には御覧のように神殿の入り口から太陽の光が差し込んで来ますが一番左にあるプタハ神には光が当っていません。これはプタハ神が冥界を支配する神だという理由からです。
この至聖所には1年に2回上る朝日が差し込み神々を照らす日があります。それが2月22日と10月22日です。春分の日と秋分の日だともラムセス2世の誕生日と即位した日とも言われています。
古代エジプト暦は太陽暦を使用しており、しかも1年を365日としているため現在のグレゴリオ暦とほぼ同じだそうです。そうであれば春分の日は3月21日、秋分の日は9月23日ですから、朝日が差し込む日と一致しません。
よって春分の日と秋分の日に上る朝日が当たるという説は間違いだという事が分かりました。
それでは誕生日と即位した日という説はどうでしょうか。
ガイドのアラーさんの説明では神殿が移設する以前に朝日が当たっていた日は2月21日と10月21日、移設の時に設置角度が僅かにずれたため現在は2月22日と10月22日が朝日の差し込む日になりました。
そして2月21日はラムセス2世の誕生日で同時に収穫の日(収穫祭の日)、10月21日はラムセス2世が即位した日で種蒔きの日(種蒔き祭の日)だそうです。そのためラムセス2世の誕生日と即位の日に朝日が差し込み神々を照らすそうです。
朝日は最初ラムセス2世の像を照らし、その後光は順にラー・ホルアクティ、アメン・ラーへと移って消えて行くと言われていますが、実際は最初にラムセス2世像を照らし、次にラー・ホルアクティを照らして消えて行きます。
結果アメン・ラーとプタハ神には光は当たりません。
光の性質から考えて一旦右に移動した光が今度は左に移動するとは考え難いと思います。
朝日が最初にラムセス2世に当たるのは、ラムセス2世が神になったことを示すためです。そのために1年に2回朝日を浴びるのです。朝日を浴びるのはラムセス2世が神になったことを知らせるための巧みな仕掛けだったのです。そしてこの神殿はラー・ホルアクティに捧げられた神殿ではなく、実態はラムセス2世が神になるための神殿だったのです。
まさに神となったラムセス2世に捧げられる神殿がアブシンベル神殿だったのです。
そして神殿の造りそのものがラムセス2世が神になるプロセスを表現したものだったのです。 -
至聖所の前の前室に描かれたレリーフです。このレリーフはラムセス2世が玉座に座る国家神アメン・ラーに貢物として捕虜を差し出す場面が描かれています。
ここではラムセス2世とアメン・ラーとの間には段差があり、まだ神々とラムセス2世は同格ではないことを表しています。至聖所に近づくにつれてその差は縮まり最後の至聖所でラムセス2世は神格化され、神々と同格の地位になるのです。ラムセス2世が神となったことを示すために彼の像は1年に2回朝日を浴びます。
なお、レリーフでアメン・ラー神の右隣りは妻のムト神です。 -
こちらは太陽神ラーに貢物の捕虜を差し出すラムセス2世のレリーフです。前室にあるこのレリーフでもラムセス2世と神々の間には差があることを段差で表しています。
-
前室で至聖所に最も近い部分の様子。周囲の壁には神々に供物を捧げるラムセス2世の姿が描かれていました。
-
知恵の神トト神に供物を捧げるラムセス2世。
-
国家神・王の守護神アメンに貢物を捧げるラムセス2世。
-
太陽神ラーに貢物を捧げるラムセス2世。
-
前室の壁のレリーフ。太陽神ラーとラムセス2世。
壁のヒエログリフには当時の色が一部残っています。 -
前室の壁には太陽の船も描かれていました。
-
大列柱室に戻ります。以下のレリーフは大列柱室の右壁に描かれていたレリーフです。
まずはリビアの捕虜を打ち据えるラムセス2世のレリーフ。この部屋の左壁にはカデシュの戦いの英雄的シーンが描かれていました。右壁にもラムセス2世の勇猛さが描かれています。 -
ミン神に供物を捧げるラムセス2世。中央に描かれているのがミン神です。
ミン神は豊穣の神、子孫繁栄の神です。男性器を屹立させた姿で描かれていてインパクトがありすぎ、多くのエジプトの神々の中で一度見たら忘れるはずの無い神です。
こんな神様もいるのかとビックリしました。(笑)
一番左は母なる女神ハトホル神です。 -
またもやミン神登場。ミン神に供物をささげるラムセス2世のレリーフです。
レリーフの中央部分が破損していますが、勃起した性器でミン神だとすぐに分かりました。 -
図書室です。左右の台の上にパピルスが置かれていました。
-
倉庫です。壁には神々に供物を捧げるレリーフが描かれていることから穀物倉庫ではないかと考えられています。
-
神々に供物を捧げている様子。左2枚はラー・ホルアクティ、奥はホルス神です。
-
神々に供物を捧げる民。太陽神ラーとラー・ホルアクティ。
-
神殿右奥にある倉庫です。壁面は供物を捧げるレリーフで埋められていました。
-
右は太陽神ラー・ホルアクティと知識の神トト神に祝福されるラムセス2世。
左はアメン神とホルス神に祝福されるラムセス2世。 -
神々に供物を捧げるレリーフの一部分。
-
同じく倉庫の壁に描かれた貢物を捧げているレリーフ。
-
太陽神ラーに貢物を捧げているレリーフ。
以上でアブシンベル神殿大神殿の旅行記は終わりです。次回はラムセス2世の王妃ネフェルタリに捧げられた小神殿の旅行記を予定しています。
エジプトの旅行記に訪問いただきありがとうございました。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
エジプトナイル川クルーズの旅
-
前の旅行記
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズ 4 アスワンからアブシンベルへ
2019/03/08~
アブ・シンベル
-
次の旅行記
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズ 6 アブシンベル小神殿
2019/03/08~
アブ・シンベル
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のエジプトナイル川クルーズの旅 1
2019/03/08~
カイロ
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のエジプトナイルクルーズの旅 2 ギザの三大ピラミッド
2019/03/08~
ギザ
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズ 3 サッカラとダハシュールのピラミッド
2019/03/08~
サッカーラ
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズ 4 アスワンからアブシンベルへ
2019/03/08~
アブ・シンベル
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズ 5 アブシンベル大神殿
2019/03/08~
アブ・シンベル
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズ 6 アブシンベル小神殿
2019/03/08~
アブ・シンベル
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 7 アスワンでクルーズ船に乗船する
2019/03/08~
アスワン
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 8 ナイルの真珠イシス神殿 その1
2019/03/08~
アスワン
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 9 ナイルの真珠イシス神殿 その2
2019/03/08~
アスワン
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 10 ナイル川河岸に係留されたクルーズ船
2019/03/08~
アスワン
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 11 アスワンハイダム
2019/03/08~
アスワン
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 12 香油店でのショッピングと切りかけのオベリスク
2019/03/08~
アスワン
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 13 コム・オンボに向けてクルーズ船出航す
2019/03/08~
アスワン
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 14 コム・オンボ神殿
2019/03/08~
コム・オンボ
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 15 古代エジプト神話決戦の地エドフに建つホルス神殿
2019/03/08~
エドフ
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 16 エジプトの一般道は悪路だった
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 17 ルクソールのカルナック神殿①
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙された最悪のナイル川クルーズの旅 18 ルクソールのカルナック神殿②
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 19 ルクソール西岸は死者の町① メムノンの巨像から王家の...
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 20 ルクソール西岸は死者の町②王家の谷の観光
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 21 ルクソール西岸は死者の町③ツタンカーメンの謎の死とミ...
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 22 トトメス3世に破壊されたハトシェプスト女王の葬祭殿
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 23 エジプト美術の最高峰ネフェルタリ王妃の墓
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 24 夜のルクソール神殿観光
2019/03/08~
ルクソール
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 25 クルーズ最後の夜はベリーダンスとタンヌーラダンス、そ...
2019/03/08~
カイロ
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 26 エジプト考古学博物館 1(前編)
2019/03/08~
カイロ
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 27 エジプト考古学博物館 2(後編)
2019/03/08~
カイロ
-
旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 28 あっという間の1週間、いよいよ帰国の途に・・・。
2019/03/08~
カイロ
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
-
セティ アブ シンベル ホテル
4.05
この旅行で行ったスポット
アブ・シンベル(エジプト) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ エジプトナイル川クルーズの旅
0
83