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王家の谷の観光、次は若くして亡くなった謎の少年王ツタンカーメンの王墓です。<br />ツタンカーメン王は僅か10歳で即位し、19歳で亡くなったと考えられています。死因は今も分かりません。<br />王自身の生涯やその時代については長い間謎に包まれていましたが、20世紀後半から同時代の建造物や墓が発見されるようになってようやく秘密のベールが1枚づつ?がされるようになりました。<br />そんなミステリアスな王の墓にはいりました。詳細は旅行記で・・・。<br />

旅行会社の誇大広告に騙されたナイル川クルーズの旅 21 ルクソール西岸は死者の町③ツタンカーメンの謎の死とミイラに残された謎  

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2019/03/08 - 2019/03/15

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ポポポ

ポポポさん

王家の谷の観光、次は若くして亡くなった謎の少年王ツタンカーメンの王墓です。
ツタンカーメン王は僅か10歳で即位し、19歳で亡くなったと考えられています。死因は今も分かりません。
王自身の生涯やその時代については長い間謎に包まれていましたが、20世紀後半から同時代の建造物や墓が発見されるようになってようやく秘密のベールが1枚づつ?がされるようになりました。
そんなミステリアスな王の墓にはいりました。詳細は旅行記で・・・。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • KV26、ツタンカーメン王の墓です。<br />墓の入り口にはツタンカーメン王の正式名称「トゥト・アンク・アメン」の名前があります。<br />ツタンカーメン王はツタンカーテン(正式名称はトゥト・アンク・アテン)という名前の王子として誕生しました。<br />父は人類史上初めて一神教崇拝の宗教改革を断行したアクエンアテン王(アメンヘテプ4世)です。<br />当時は国家神アメンとその祭礼を行う神官団の地位が著しく上昇していました。神官団は寄付によって強大な経済力を持ち、王位継承や政策にまで干渉し王と対等の力を持つまでになっていたのです。<br />この神官団の影響力を排除しようとしたのがアメンヘテプ4世です。<br />神官団の力を抑えるためにエジプト史上初の宗教改革を実施し、太陽神アテンを唯一の神としました。<br />自らはアクエンアテン(アテンに有益なもの)と改名し、都をテーベからアケト・アテン(現在のアマルナ)へ遷都しました。<br />アメンヘテプ4世の治世はアマルナ文化と呼ばれる文化を生むなど独特の進化を始めましたが、王が宗教改革に熱中するあまりに対外政策が消極的になりました。<br />結果シリアのミタンニ王国はヒッタイトの属国となり、今までエジプトの支配下にあったシリア・パレスティナ地域は異民族の侵入や都市国家間の抗争で混乱に陥りました。<br />一方国内においては一神教のアテン信仰は民衆には受け入れられず反発を招き、アクエンアテン王の死と共に急速に衰退していきました。<br />このような混迷期に即位したのがツタンカーメン王です<br /><br />

    KV26、ツタンカーメン王の墓です。
    墓の入り口にはツタンカーメン王の正式名称「トゥト・アンク・アメン」の名前があります。
    ツタンカーメン王はツタンカーテン(正式名称はトゥト・アンク・アテン)という名前の王子として誕生しました。
    父は人類史上初めて一神教崇拝の宗教改革を断行したアクエンアテン王(アメンヘテプ4世)です。
    当時は国家神アメンとその祭礼を行う神官団の地位が著しく上昇していました。神官団は寄付によって強大な経済力を持ち、王位継承や政策にまで干渉し王と対等の力を持つまでになっていたのです。
    この神官団の影響力を排除しようとしたのがアメンヘテプ4世です。
    神官団の力を抑えるためにエジプト史上初の宗教改革を実施し、太陽神アテンを唯一の神としました。
    自らはアクエンアテン(アテンに有益なもの)と改名し、都をテーベからアケト・アテン(現在のアマルナ)へ遷都しました。
    アメンヘテプ4世の治世はアマルナ文化と呼ばれる文化を生むなど独特の進化を始めましたが、王が宗教改革に熱中するあまりに対外政策が消極的になりました。
    結果シリアのミタンニ王国はヒッタイトの属国となり、今までエジプトの支配下にあったシリア・パレスティナ地域は異民族の侵入や都市国家間の抗争で混乱に陥りました。
    一方国内においては一神教のアテン信仰は民衆には受け入れられず反発を招き、アクエンアテン王の死と共に急速に衰退していきました。
    このような混迷期に即位したのがツタンカーメン王です

  • 「トゥト・アンク・アメン(アムン)」(アメン神の生きた似絵と言う意味)の以前の名前は「トゥト・アンク・アテン」(アテン神の生きた似絵と言う意味)でした。<br />ツタンカーメンが即位したのは僅か10世の時、そして亡くなったのは19歳であったと推定されています。<br />即位したツタンカーメン王は混乱に陥った秩序を回復させるために王都をアケトアテンからメンフィスに移し、一神教から従来の多神教の信仰を復活させました。<br />その折名前を「トゥト・アンク・アテン」に改名したのです。(ツタンカーテンからツタンカーメンに改名。)<br />ツタンカーメン王が行ったのはアマルナ時代に閉鎖されていた各地の神殿を再開させ、アクエンアテン王の治世に破壊された神殿や神像を修復するとともに神殿の増築や神像の製作を精力的に行いました。<br />しかしツタンカーメン王は幼かったので、実際に国を動かしたのはアクエンアテン時代から重臣だった神官アイと将軍ホルエムヘブだったと考えられています。<br />神官アイはツタンカーメンの摂政で王の後見人として宮廷で大きな影響力を持っていました。ツタンカーメンの次の王にアイが即位しています。<br />ホルエムヘブは大将軍で軍の総司令官、王の代理人として実質的な行政の最高責任者でした。彼はアイの死後、国王に即位しています。<br />ツタンカーメン王の概略はこの程度にして王墓に入りましょう。

    「トゥト・アンク・アメン(アムン)」(アメン神の生きた似絵と言う意味)の以前の名前は「トゥト・アンク・アテン」(アテン神の生きた似絵と言う意味)でした。
    ツタンカーメンが即位したのは僅か10世の時、そして亡くなったのは19歳であったと推定されています。
    即位したツタンカーメン王は混乱に陥った秩序を回復させるために王都をアケトアテンからメンフィスに移し、一神教から従来の多神教の信仰を復活させました。
    その折名前を「トゥト・アンク・アテン」に改名したのです。(ツタンカーテンからツタンカーメンに改名。)
    ツタンカーメン王が行ったのはアマルナ時代に閉鎖されていた各地の神殿を再開させ、アクエンアテン王の治世に破壊された神殿や神像を修復するとともに神殿の増築や神像の製作を精力的に行いました。
    しかしツタンカーメン王は幼かったので、実際に国を動かしたのはアクエンアテン時代から重臣だった神官アイと将軍ホルエムヘブだったと考えられています。
    神官アイはツタンカーメンの摂政で王の後見人として宮廷で大きな影響力を持っていました。ツタンカーメンの次の王にアイが即位しています。
    ホルエムヘブは大将軍で軍の総司令官、王の代理人として実質的な行政の最高責任者でした。彼はアイの死後、国王に即位しています。
    ツタンカーメン王の概略はこの程度にして王墓に入りましょう。

  • ツタンカーメン王墓は特別窟のため入場は別料金です。<br />カメラの撮影券があっても内部の写真撮影は禁止でした。スマホの撮影も禁止です。<br />(現在ではスマホの撮影のみ無料で可、但しフラッシュ撮影は不可です。)<br />ガイドは中に入れないため、入り口の前に設置された案内板の前でアランさんから説明がありました。<br />王墓は1922年11月4日にイギリスの考古学者ハワード・カーターによって発見されましたが、この王墓が発見されるまではツタンカーメン王の存在はほとんど知られていませんでした。<br />なぜなら古代の王名表から名前が削除され、彼が行った数々の事績はその後王となったホルエムヘブによって復興碑などの名前が乗っ取られホルエムヘブに書き換えられてしまったからです。<br />さらにホルエムヘブはツタンカーメン王やアイ王が造営したカルナックの神殿などの記念建造物を破壊し、自らが建築した塔門の基礎や詰め石にしました。<br />ツタンカーメンは復興事業としてカルナック神殿に数多くのアメン神像を作っていますがそれらも全てホルエムヘブの名前に改ざんされています。<br />こうしてエジプトの歴史からツタンカーメンの存在が抹消され、3000年の時を経て蘇ったのでした。<br />写真は墓の内部の様子です。<br />王墓の内部は階段を降りていくと前室があり、そこを右に進むと玄室が、左に進むとツタンカーメンのミイラがあります。<br />ミイラはカイロのエジプト考古学博物館のミイラ室に収められるはずですが、ツタンカーメンのミイラは度重なる検査で切り刻まれてボロボロになり、もう動かすことができないためここに保管されているそうです。<br />玄室の壁には壁画がありますがそのうち特に強調されていたのが12匹のヒヒの壁画。この壁画は必ず見て下さいとのこと・・・。<br />アムドゥアの書に書かれている冥界の12時間を聖なるヒヒで表したものですが、アランさんのたどたどしい日本語では聞いていても分からない。<br />そのうち左隣の方から流暢な日本語が聞こえてきました。そちらの方に目を向けると別の日本人ツアーのガイドが説明を始めたところでした。<br />それからはアランさんの説明はそっちのけで耳を左の方に傾け、流ちょうな日本語を話すガイドの説明に集中しました。<br />アランさんには悪いのですが、おかげさまで王墓の内部の様子がよく分かりました。

    ツタンカーメン王墓は特別窟のため入場は別料金です。
    カメラの撮影券があっても内部の写真撮影は禁止でした。スマホの撮影も禁止です。
    (現在ではスマホの撮影のみ無料で可、但しフラッシュ撮影は不可です。)
    ガイドは中に入れないため、入り口の前に設置された案内板の前でアランさんから説明がありました。
    王墓は1922年11月4日にイギリスの考古学者ハワード・カーターによって発見されましたが、この王墓が発見されるまではツタンカーメン王の存在はほとんど知られていませんでした。
    なぜなら古代の王名表から名前が削除され、彼が行った数々の事績はその後王となったホルエムヘブによって復興碑などの名前が乗っ取られホルエムヘブに書き換えられてしまったからです。
    さらにホルエムヘブはツタンカーメン王やアイ王が造営したカルナックの神殿などの記念建造物を破壊し、自らが建築した塔門の基礎や詰め石にしました。
    ツタンカーメンは復興事業としてカルナック神殿に数多くのアメン神像を作っていますがそれらも全てホルエムヘブの名前に改ざんされています。
    こうしてエジプトの歴史からツタンカーメンの存在が抹消され、3000年の時を経て蘇ったのでした。
    写真は墓の内部の様子です。
    王墓の内部は階段を降りていくと前室があり、そこを右に進むと玄室が、左に進むとツタンカーメンのミイラがあります。
    ミイラはカイロのエジプト考古学博物館のミイラ室に収められるはずですが、ツタンカーメンのミイラは度重なる検査で切り刻まれてボロボロになり、もう動かすことができないためここに保管されているそうです。
    玄室の壁には壁画がありますがそのうち特に強調されていたのが12匹のヒヒの壁画。この壁画は必ず見て下さいとのこと・・・。
    アムドゥアの書に書かれている冥界の12時間を聖なるヒヒで表したものですが、アランさんのたどたどしい日本語では聞いていても分からない。
    そのうち左隣の方から流暢な日本語が聞こえてきました。そちらの方に目を向けると別の日本人ツアーのガイドが説明を始めたところでした。
    それからはアランさんの説明はそっちのけで耳を左の方に傾け、流ちょうな日本語を話すガイドの説明に集中しました。
    アランさんには悪いのですが、おかげさまで王墓の内部の様子がよく分かりました。

  • ツタンカーメ王の王墓は唯一未盗掘の王墓と書かれていることが多いのですが、墓の内部の痕跡から2度盗掘されたことが分かっています。そのためほぼ未盗掘の王墓と記述する方が正しいでしょう。ただし幸いにもミイラを入れた棺には手が付けられず、副葬品も多くは無事だったようです。<br />ではどのようなも荷が盗まれたのでしょうか。埋葬時に神官が残した埋葬品の目録から宝石類の40%、純金の指輪などの装身具、当時大変貴重で高価だったガラス製品の大部分、香油や軟膏類でした。<br />墓には再度の盗掘を防ぐように入り口の通路は詰石で埋め尽くされ封鎖石と封鎖壁が直されて封印がなされたそうです。<br />写真は玄室に収められていた石棺と三重の棺に納められ黄金のマスクを被っていたツタンカーメンのミイラ。<br />石棺はさらに四重の黄金の厨子に納められていて、この厨子はカイロのエジプト考古学博物館で見ることができます。

    ツタンカーメ王の王墓は唯一未盗掘の王墓と書かれていることが多いのですが、墓の内部の痕跡から2度盗掘されたことが分かっています。そのためほぼ未盗掘の王墓と記述する方が正しいでしょう。ただし幸いにもミイラを入れた棺には手が付けられず、副葬品も多くは無事だったようです。
    ではどのようなも荷が盗まれたのでしょうか。埋葬時に神官が残した埋葬品の目録から宝石類の40%、純金の指輪などの装身具、当時大変貴重で高価だったガラス製品の大部分、香油や軟膏類でした。
    墓には再度の盗掘を防ぐように入り口の通路は詰石で埋め尽くされ封鎖石と封鎖壁が直されて封印がなされたそうです。
    写真は玄室に収められていた石棺と三重の棺に納められ黄金のマスクを被っていたツタンカーメンのミイラ。
    石棺はさらに四重の黄金の厨子に納められていて、この厨子はカイロのエジプト考古学博物館で見ることができます。

  • 写真は内部で発見された副葬品の数々。<br />4000点とも5000点とも言われるツタンカーメンの副葬品は前室、玄室、宝庫、付属室の4室に分散して収納されていました。<br />写真は各部屋に収納されていた副葬品の写真です。<br />アランさんの説明が終わると以後は自由行動ですが観光時間は順番待ちでした。<br />王墓内部の写真撮影は厳禁なので、これ以降の写真はありません。しかし、内部の壁画などは写真が無いと理解しにくいと思いますので、TVで放映された映像を借用しました。

    写真は内部で発見された副葬品の数々。
    4000点とも5000点とも言われるツタンカーメンの副葬品は前室、玄室、宝庫、付属室の4室に分散して収納されていました。
    写真は各部屋に収納されていた副葬品の写真です。
    アランさんの説明が終わると以後は自由行動ですが観光時間は順番待ちでした。
    王墓内部の写真撮影は厳禁なので、これ以降の写真はありません。しかし、内部の壁画などは写真が無いと理解しにくいと思いますので、TVで放映された映像を借用しました。

  • 入り口から中に入ると下に降りる階段が続いていました。<br />TVの映像は写真の人物は王墓内を見学すると言う形式で進んで行きますが、玄室内のすべての壁画が撮影されている訳ではありません。<br />従って放映された壁画の画像のみ掲載しました。

    入り口から中に入ると下に降りる階段が続いていました。
    TVの映像は写真の人物は王墓内を見学すると言う形式で進んで行きますが、玄室内のすべての壁画が撮影されている訳ではありません。
    従って放映された壁画の画像のみ掲載しました。

  • 階段を降りたところが前室です。ここから右に進むと写真のような壁画が見えてきました。<br />前室の先には写真のような柵が取り付けてあるのでこれより先には進めません。<br />柵の先に見えているのが玄室に置かれていた石棺です。この映像では見えませんが石棺の外部の四隅には古代エジプト神話の4女神、イシス・ネスティフ・セルケト・ネイトの姿が彫刻されています。<br />階段から前室に下りてまず感じたのは王墓がとても小さくて狭いこと。<br />王の墓にしては余りにもお粗末でした。先程来たラメセス9世の王墓と比べると雲泥のさでした。<br />なお、TVの映像では石棺の蓋が覆われていましたが我々が観光した時は蓋は取り払われていて、中に収められて黄金の第一の王棺を見ることができました。

    階段を降りたところが前室です。ここから右に進むと写真のような壁画が見えてきました。
    前室の先には写真のような柵が取り付けてあるのでこれより先には進めません。
    柵の先に見えているのが玄室に置かれていた石棺です。この映像では見えませんが石棺の外部の四隅には古代エジプト神話の4女神、イシス・ネスティフ・セルケト・ネイトの姿が彫刻されています。
    階段から前室に下りてまず感じたのは王墓がとても小さくて狭いこと。
    王の墓にしては余りにもお粗末でした。先程来たラメセス9世の王墓と比べると雲泥のさでした。
    なお、TVの映像では石棺の蓋が覆われていましたが我々が観光した時は蓋は取り払われていて、中に収められて黄金の第一の王棺を見ることができました。

  • 写真は王墓玄室の北側の壁画です。玄室の壁画は発掘からほぼ100年経つと湿気や観光客が持ち込む埃や二酸化炭素などで壁画に茶色い斑点が発生しました。そのため2009年から10年かけて修復され、2019年の2月にようやく終了しました。<br />それは我々が観光した丁度一月前、何の情報も無しにたまたま3月の旅行に応募したのですが、修復されたばかりの綺麗な壁画を見ることができました。<br />印象は非常に美しい。書籍や写真で見る以上に色が鮮やかでした。<br />本当にラッキーでした。<br />

    写真は王墓玄室の北側の壁画です。玄室の壁画は発掘からほぼ100年経つと湿気や観光客が持ち込む埃や二酸化炭素などで壁画に茶色い斑点が発生しました。そのため2009年から10年かけて修復され、2019年の2月にようやく終了しました。
    それは我々が観光した丁度一月前、何の情報も無しにたまたま3月の旅行に応募したのですが、修復されたばかりの綺麗な壁画を見ることができました。
    印象は非常に美しい。書籍や写真で見る以上に色が鮮やかでした。
    本当にラッキーでした。

  • 北面の壁画の右、東面にはオシリス神をかたどった棺を臣下が引いて行く葬送の場面が描かれていました。この壁画は映像がありません。<br />王墓のメインの壁画はこの北面の壁画です。<br />ここには3様のツタンカーメン王が描かれていて、右はオシリス神の姿をしたツタンカーメンに口開けの儀式を行っている神官アイ。中央はかつらと鉢巻、白い腰布を身に着けて左手に生命の象徴であるアンクと棍棒、右手に王杖を持った王が天界の神ヌト女神から健康と生命を与えられています。<br />一番左の3人の壁画は左から冥界の最高神オシリス、ツタンカーメン王、王のカー(霊魂)です。カーに付き添われたツタンカーメン王がオシリス神に迎え入れられている場面が描かれています。<br />南面の壁には両脇のネスティス女神とアヌビス神に迎えられた王の姿が描かれていますがこの映像もありません。<br />写真はTVの録画画面を写したため、色のにじみなどがあり鮮明ではありませんが、実際の壁画はとても綺麗で鮮明でした。<br />この壁画で注目すべきは神官で摂政のアイです。アイは次の王に即位していますがツタンカーメン王のミイラ作成、納棺、埋葬の最高執行責任者でした。<br />アイが自らツタンカーメン王のミイラに新たな命を吹き込む「口開けの儀式」を行う事で、アイの王位継承が正当化されたのでした。<br /><br />

    北面の壁画の右、東面にはオシリス神をかたどった棺を臣下が引いて行く葬送の場面が描かれていました。この壁画は映像がありません。
    王墓のメインの壁画はこの北面の壁画です。
    ここには3様のツタンカーメン王が描かれていて、右はオシリス神の姿をしたツタンカーメンに口開けの儀式を行っている神官アイ。中央はかつらと鉢巻、白い腰布を身に着けて左手に生命の象徴であるアンクと棍棒、右手に王杖を持った王が天界の神ヌト女神から健康と生命を与えられています。
    一番左の3人の壁画は左から冥界の最高神オシリス、ツタンカーメン王、王のカー(霊魂)です。カーに付き添われたツタンカーメン王がオシリス神に迎え入れられている場面が描かれています。
    南面の壁には両脇のネスティス女神とアヌビス神に迎えられた王の姿が描かれていますがこの映像もありません。
    写真はTVの録画画面を写したため、色のにじみなどがあり鮮明ではありませんが、実際の壁画はとても綺麗で鮮明でした。
    この壁画で注目すべきは神官で摂政のアイです。アイは次の王に即位していますがツタンカーメン王のミイラ作成、納棺、埋葬の最高執行責任者でした。
    アイが自らツタンカーメン王のミイラに新たな命を吹き込む「口開けの儀式」を行う事で、アイの王位継承が正当化されたのでした。

  • TVの映像では特別許可を受けた取材班が柵から玄室内に下りて壁画を撮影しています。<br />壁画の主人公はツタンカーメン王のはずですが、肩にヒョウの毛皮をかけたアイの姿が奇異な感じがしました。わざわざ目立つようなヒョウの毛皮を描かなくてもいいのにと・・。これはアイの指示なのか?<br />一説にはこの壁画が描かれた時にはアイはすでに王に即位していて、アイ王の命令で壁画が作成されたのではないかと考えられています。<br />後で詳しく述べたいと思いますが、ツタンカーメン王の暗殺説ではアイが犯人だと推測する説があり、以前はこの説が有力でした。この説に立てばアイが目立つように衣装にわざわざ工夫を凝らしたのかもしれません。<br />

    TVの映像では特別許可を受けた取材班が柵から玄室内に下りて壁画を撮影しています。
    壁画の主人公はツタンカーメン王のはずですが、肩にヒョウの毛皮をかけたアイの姿が奇異な感じがしました。わざわざ目立つようなヒョウの毛皮を描かなくてもいいのにと・・。これはアイの指示なのか?
    一説にはこの壁画が描かれた時にはアイはすでに王に即位していて、アイ王の命令で壁画が作成されたのではないかと考えられています。
    後で詳しく述べたいと思いますが、ツタンカーメン王の暗殺説ではアイが犯人だと推測する説があり、以前はこの説が有力でした。この説に立てばアイが目立つように衣装にわざわざ工夫を凝らしたのかもしれません。

  • しかし一番目を引くのは壁の中央やや右、白いオシリス神の姿で描かれたツタンカーメン王でしょう。<br />オシリス神は白い衣装で描かれていることが多いので結果的にツタンカーメン王の方が目立って見えました。

    しかし一番目を引くのは壁の中央やや右、白いオシリス神の姿で描かれたツタンカーメン王でしょう。
    オシリス神は白い衣装で描かれていることが多いので結果的にツタンカーメン王の方が目立って見えました。

  • 次にツタンカーメンの王墓がなぜ小さいのかを考えてみましょう。<br />ガイドのアランさんの説明では、王は即位した時から自らの墓を掘り始めるが、ツタンカーメンは早く亡くなったので小さな墓しかできなかったということでした。<br />しかし調べて見るとそうではないことが分かりました。<br />ツタンカーメンの墓は18王朝の典型的な王墓の形式には符合せず、規模や構造から考えて貴族の墓として造られたと考えられています。<br />当然王の墓は造営の途中で未完成だったので急遽完成した貴族の墓があてがわれたと考えるのが現在の主流です。<br />ではその貴族とは誰でしょうか。それは王の後見人で摂政のアイです。アイの墓はすでにこの時には出来上がっていました。<br />彼は埋葬の最高執行責任者でしたから、どこに埋葬しようとも彼の思うままでした。さらにアイ王として即位していたのなら尚更です。<br />そしてアイ自らはツタンカーメンの王墓として掘り進められていた墓に埋葬されたのでした。<br />さて、石棺の蓋を見て下さい。中央付近から2枚に割れていますが、カーターが石棺を発見した時すでに亀裂が入っていたそうです。<br />そして蓋を開ける作業中に蓋は2枚に割れてしまいました。ですから石棺発見当時はこのような状況だったということです。<br />蓋を開けると黄金の棺が現れました。その棺の上にはオリーブと矢車草の花輪が飾られていました。第二の棺の上にも同様の花輪が飾られていたそうです。<br />カーターはこの花束を見て、「埋葬されたどんなに美しい副葬品よりも美しかった。我々はこの花束が夫に先立たれた少女の妃が二つの王国(上下エジプト)を代表した若々しい王にささげた最後の贈り物と考えたい」と「ツタンカーメンの発掘記」に記しています。

    次にツタンカーメンの王墓がなぜ小さいのかを考えてみましょう。
    ガイドのアランさんの説明では、王は即位した時から自らの墓を掘り始めるが、ツタンカーメンは早く亡くなったので小さな墓しかできなかったということでした。
    しかし調べて見るとそうではないことが分かりました。
    ツタンカーメンの墓は18王朝の典型的な王墓の形式には符合せず、規模や構造から考えて貴族の墓として造られたと考えられています。
    当然王の墓は造営の途中で未完成だったので急遽完成した貴族の墓があてがわれたと考えるのが現在の主流です。
    ではその貴族とは誰でしょうか。それは王の後見人で摂政のアイです。アイの墓はすでにこの時には出来上がっていました。
    彼は埋葬の最高執行責任者でしたから、どこに埋葬しようとも彼の思うままでした。さらにアイ王として即位していたのなら尚更です。
    そしてアイ自らはツタンカーメンの王墓として掘り進められていた墓に埋葬されたのでした。
    さて、石棺の蓋を見て下さい。中央付近から2枚に割れていますが、カーターが石棺を発見した時すでに亀裂が入っていたそうです。
    そして蓋を開ける作業中に蓋は2枚に割れてしまいました。ですから石棺発見当時はこのような状況だったということです。
    蓋を開けると黄金の棺が現れました。その棺の上にはオリーブと矢車草の花輪が飾られていました。第二の棺の上にも同様の花輪が飾られていたそうです。
    カーターはこの花束を見て、「埋葬されたどんなに美しい副葬品よりも美しかった。我々はこの花束が夫に先立たれた少女の妃が二つの王国(上下エジプト)を代表した若々しい王にささげた最後の贈り物と考えたい」と「ツタンカーメンの発掘記」に記しています。

  • さて玄室の北壁から西壁に目を移すとそこにはアランさんが良く見てほしいと言っていた冥界の書、アムドゥア(死後の世界の様子)の書の場面が描かれていました。<br />特に注目したいのは12匹の聖なるヒヒです。<br />

    さて玄室の北壁から西壁に目を移すとそこにはアランさんが良く見てほしいと言っていた冥界の書、アムドゥア(死後の世界の様子)の書の場面が描かれていました。
    特に注目したいのは12匹の聖なるヒヒです。

  • 聖なる12匹のヒヒは、夜の航海に出発する太陽神のために西の地平線にある冥界への門を開く役割を演じるとともに、太陽神と諸神、太陽神を守護するファラオが冥界に巣くう邪悪なる者と戦う夜の12時間を表しています。<br />ヒヒの上部に描かれているのは復活を象徴するスカラベのケプリ神を乗せた聖船。その右は左からマアト女神、一人置いてホルス神、シュウ神のカー、ネヘス神です。

    聖なる12匹のヒヒは、夜の航海に出発する太陽神のために西の地平線にある冥界への門を開く役割を演じるとともに、太陽神と諸神、太陽神を守護するファラオが冥界に巣くう邪悪なる者と戦う夜の12時間を表しています。
    ヒヒの上部に描かれているのは復活を象徴するスカラベのケプリ神を乗せた聖船。その右は左からマアト女神、一人置いてホルス神、シュウ神のカー、ネヘス神です。

  • 次にツタンカーメンのミイラがある場所へ。ミイラは玄室の反対側、全室の左隅に置かれていました。<br />このミイラの特徴は全身真っ黒だという事。原因はミイラが自然発火して燃えてしまったためという説があります。当時のミイラは腐敗を防ぐために自然発火しやすい亜麻仁油を塗って油が乾いた時点で包帯を巻いていました。しかしツタンカーメンの場合は納棺を急ぐあまり油が完全に乾く前に包帯が巻かれ自然発火したと考えられています。<br />そのほかにもツタンカーメンのミイラには不自然な点が多いのです。<br />1 王のミイラはオシリス神と同じように胸に前で両手を交差させる形で埋葬されるがツタンカーメンは腹部の付近に置かれていた。(王のミイラでは有り得ないこと)<br />2 再生のために必ず必要な心臓が取り除かれていた。心臓が無いと死者は再生できません。最後の審判とも言うべき儀式で永遠の命を与えられるかどうかの決め手になる臓器なのです。<br />3 肋骨と胸骨が何本も折れていた。中には切断された骨もあった。  <br />以上のような不自然な状態のミイラとなったツタンカーメン王の死因は一体何だったのか?現在でも死因は分かっていません。<br />2005年ザヒ・ハワスの指揮の下に行われたCTスキャン調査では頭部に致命的な外傷の跡は無く他殺の可能性は少なくなりました。<br />そして2010年10月エジプト考古局長ザヒ・ハワスを中心としたエジプト調査チームがおこ精細なCTスキャン調査とDNA鑑定で新たな事実が判明しました。<br />これによると王のミイラには両親の近親結婚による虚弱体質や内反足の異常や認められました。さらに左足の大腿骨が死ぬ前5日ごろに骨折していたことが判明しました。<br />結果ハワスはツタンカーメン王は杖なしでは歩くことができない虚弱な王で戦車にも乗れなかったと結論づけています。事実副葬品の中には使用していた杖が多数見つかっています。<br />さらに王のミイラからマラリア原虫のDNAが見つかりマラリアに感染していたことが判明した。よって死因は近親結婚により元々病弱な体で衰弱していた所にマラリアの発作か足の骨折が加わり死に至ったと結論付けました。<br />しかしこれでは心臓が失われていること、肋骨と胸骨が折れていたことの説明がつきません。マラリアは当時エジプトに蔓延していて一度かかれば抗体ができるそうです。子供の頃に多くかかるそうなのでマラリア原虫のDNAが見つかってもそれが死の原因とは決めつけられないそうです。<br />この点を指摘されるとハワスは戦闘の時に負傷して命を落としたと反論しましたが、これでは持論の虚弱体質で戦もできないとの説と矛盾します。<br />そこで今では少数になりましたがアイによる暗殺設も捨てがたいのです。<br />ツタンカーメンが死んで誰が一番得をしたか? 誰が考えても次の王となったアイでしょう。<br />彼は埋葬の最高責任者であり、彼の命令で納棺師はツタンカーメン王のミイラを製作しました。彼の命令があればミイラ作りの最中に心臓を抜き取ることも肋骨や胸骨を折ったり切断することも可能です。<br />CTスキャンの結果では毒殺の有無は判定できません。アイが骨折した左足に治療薬だと言って毒薬を塗り込んだなら簡単に暗殺できたはずです。<br />次にアイが暗殺者だとして動機を考えてみましょう。<br />ツタンカーメンの父はアクエンアテン(アメンヘテプ4世)で、アクエンアテンの正妃はネフェルティティです。そしてネフェルティティはアイの娘です。(現在ネフェルティティはアイの娘ではないという説もあります。)<br />ネフェルティティはアクエンアテンと共同統治者でしたが、宗教改革とその後の復帰による内外の大混乱期に亡くなったため王妃にふさわしい葬儀が行われませんでした。混乱の最中多神教に復帰することに尽力した娘の功績が後を継いだツタンカーメンの功績とされたことへの親としての怒りが爆発、権力の奪取以外に娘の名誉回復も含めて暗殺に傾いたのではないでしょうか。<br />私としてはこの筋書きが一番すっきりすると思うのですが皆さんはどうでしょうか。<br />簡単な旅行記にするはずがいつの間にか力が入ってしまいました。エジプトではこの時代が一番ミステリアスで想像を掻き立てられます。まだまだツタンカーメンに纏わる話しはいくつもあるのですが、後はエジプト考古学博物館に収納されている副葬品の中で記述したいと思います。<br />次はハトシェプスト女王の葬祭殿を予定しています。<br /><br /> 

    次にツタンカーメンのミイラがある場所へ。ミイラは玄室の反対側、全室の左隅に置かれていました。
    このミイラの特徴は全身真っ黒だという事。原因はミイラが自然発火して燃えてしまったためという説があります。当時のミイラは腐敗を防ぐために自然発火しやすい亜麻仁油を塗って油が乾いた時点で包帯を巻いていました。しかしツタンカーメンの場合は納棺を急ぐあまり油が完全に乾く前に包帯が巻かれ自然発火したと考えられています。
    そのほかにもツタンカーメンのミイラには不自然な点が多いのです。
    1 王のミイラはオシリス神と同じように胸に前で両手を交差させる形で埋葬されるがツタンカーメンは腹部の付近に置かれていた。(王のミイラでは有り得ないこと)
    2 再生のために必ず必要な心臓が取り除かれていた。心臓が無いと死者は再生できません。最後の審判とも言うべき儀式で永遠の命を与えられるかどうかの決め手になる臓器なのです。
    3 肋骨と胸骨が何本も折れていた。中には切断された骨もあった。  
    以上のような不自然な状態のミイラとなったツタンカーメン王の死因は一体何だったのか?現在でも死因は分かっていません。
    2005年ザヒ・ハワスの指揮の下に行われたCTスキャン調査では頭部に致命的な外傷の跡は無く他殺の可能性は少なくなりました。
    そして2010年10月エジプト考古局長ザヒ・ハワスを中心としたエジプト調査チームがおこ精細なCTスキャン調査とDNA鑑定で新たな事実が判明しました。
    これによると王のミイラには両親の近親結婚による虚弱体質や内反足の異常や認められました。さらに左足の大腿骨が死ぬ前5日ごろに骨折していたことが判明しました。
    結果ハワスはツタンカーメン王は杖なしでは歩くことができない虚弱な王で戦車にも乗れなかったと結論づけています。事実副葬品の中には使用していた杖が多数見つかっています。
    さらに王のミイラからマラリア原虫のDNAが見つかりマラリアに感染していたことが判明した。よって死因は近親結婚により元々病弱な体で衰弱していた所にマラリアの発作か足の骨折が加わり死に至ったと結論付けました。
    しかしこれでは心臓が失われていること、肋骨と胸骨が折れていたことの説明がつきません。マラリアは当時エジプトに蔓延していて一度かかれば抗体ができるそうです。子供の頃に多くかかるそうなのでマラリア原虫のDNAが見つかってもそれが死の原因とは決めつけられないそうです。
    この点を指摘されるとハワスは戦闘の時に負傷して命を落としたと反論しましたが、これでは持論の虚弱体質で戦もできないとの説と矛盾します。
    そこで今では少数になりましたがアイによる暗殺設も捨てがたいのです。
    ツタンカーメンが死んで誰が一番得をしたか? 誰が考えても次の王となったアイでしょう。
    彼は埋葬の最高責任者であり、彼の命令で納棺師はツタンカーメン王のミイラを製作しました。彼の命令があればミイラ作りの最中に心臓を抜き取ることも肋骨や胸骨を折ったり切断することも可能です。
    CTスキャンの結果では毒殺の有無は判定できません。アイが骨折した左足に治療薬だと言って毒薬を塗り込んだなら簡単に暗殺できたはずです。
    次にアイが暗殺者だとして動機を考えてみましょう。
    ツタンカーメンの父はアクエンアテン(アメンヘテプ4世)で、アクエンアテンの正妃はネフェルティティです。そしてネフェルティティはアイの娘です。(現在ネフェルティティはアイの娘ではないという説もあります。)
    ネフェルティティはアクエンアテンと共同統治者でしたが、宗教改革とその後の復帰による内外の大混乱期に亡くなったため王妃にふさわしい葬儀が行われませんでした。混乱の最中多神教に復帰することに尽力した娘の功績が後を継いだツタンカーメンの功績とされたことへの親としての怒りが爆発、権力の奪取以外に娘の名誉回復も含めて暗殺に傾いたのではないでしょうか。
    私としてはこの筋書きが一番すっきりすると思うのですが皆さんはどうでしょうか。
    簡単な旅行記にするはずがいつの間にか力が入ってしまいました。エジプトではこの時代が一番ミステリアスで想像を掻き立てられます。まだまだツタンカーメンに纏わる話しはいくつもあるのですが、後はエジプト考古学博物館に収納されている副葬品の中で記述したいと思います。
    次はハトシェプスト女王の葬祭殿を予定しています。

     

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