2019/12/08 - 2019/12/10
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旅人のくまさんさん
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世界文化遺産の端島上陸のためには、風や波などの安全基準を満たしていることが条件になります。長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいますが、現在は、台風被災の影響で上陸禁止になっています。
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写真は、近くから撮影した『東面』中央付近の波止場付近の外壁光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):その2>
1945年(昭和20年)10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年(昭和23年)にGHQにより輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還により1948年以降に人口が急激に増加し、住宅不足が深刻化しました。 -
イチオシ
写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近の外壁と水中遺跡の光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):3>
この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われました。1946年には端島炭鉱労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、益々転入者が増えました。賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えました。 -
写真は、近くから撮影した、ベルトコンベア跡らしいと水中遺跡の光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):4>
遊び場にブランコが設置され、島に住みやすくなりました。特に1955年(昭和30年)の海底水道開通により、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど、生活環境は著しく改善されました。 -
写真は、近くから撮影した、ベルトコンベア跡らしいと水中遺跡の光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):5>
島内には三つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別がありましたが、これも労働組合結成直後に起きた差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていきました。 -
写真は、近くから撮影した、崖の上に建つ端島神社の光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):6>
しかし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれました。住宅に関しては歴然とした階級社会でした。単身坑夫らの共同住宅には、海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る『塩降街』がありました。 -
写真は、近くから撮影した、赤煉瓦の家と、その背後の集合住宅の光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):7>
人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人となり、人口密度は83600人/km2と世界一を誇り、東京特別区の9倍以上に達しました。この活況に、常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていました。 -
写真は、軍艦島の『東面』の北方面にかけての光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):8>
役場や、小中学校のほか、病院、寺院の『泉福寺』、映画館の『昭和館』、理髪店、美容院、パチンコ屋、雀荘、社交場(スナック)の『白水苑』などがあり、島内において、ほぼ完結した都市機能を有していました。 -
写真は、軍艦島の『東面』の北端付近の光景です。
<第四期:復興・近代化期(1945~1964年):9>
島内に火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園はなく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に、端島の住民のためのものが建設されました。1951年には坑内でガス突出事故が発生しました。 -
写真は、軍艦島の『東面』の中央から南方向にかけての光景です。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):1>
1960年(昭和35年)以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行、いわゆるエネルギー革命により衰退しました。特に1964年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小され、これ以降人口が急速に減少しました。 -
イチオシ
写真は、崖の上に建つ端島神社の光景です。左後方に白い灯台も見えます。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):2>
しかし端島炭坑は1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発されて持ち直し、人口は減ったものの機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となりました。また、空き部屋の2戸を1戸に改造するなど、住宅環境も改善されました。 -
写真は、廃墟住宅が立ち並ぶ、軍艦島の『東面』の中央付近の光景です。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):3>
端島の住民アンケート調査を行った長崎造船大学によれば、この時期の端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評されました。 -
写真は、軍艦島の『東面』の中央付近から、南端にかけての光景です。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):4>
しかし、1970年(昭和45年)代以降のエネルギー政策の影響を受け、1970年に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表しました。その後数百万トンの石炭を残したまま1974年(昭和49年)1月15日に閉山しました。 -
写真は、軍艦島の『東面』の中央付近から、北端にかけての光景です。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):5>
閉山時に約2000人まで減っていた住民は全て島を離れ、4月20日の連絡船の『最終便』で、端島の最後を見届けた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝の各氏、片寄氏の友達の作家の小松左京氏らの離島をもって、端島は無人島となりました。 -
写真は、軍艦島の『東面』の中央付近の光景です。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):6>
その後は、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年(昭和49年)末まで続きました。かつて大学教授で、建築家の片寄俊秀氏(1938~)のブログでは、小松左京氏を軍艦島に誘ったのは、片寄氏(以下敬称略)でした。 -
写真は、軍艦島の『東面』の中央付近の光景です。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):7>
片寄は、『職住近接』、『シビル・ミニマム充足』、『住宅問題解消』の三つの実現をもって、この時期の端島を『理想郷』とも評しましたが、最終的に鉱山は閉山となり、全国に散らばった元坑員の再就職の苦労も取材しました。 -
写真は、軍艦島の『東面』のほぼ全体の光景です。右端は『北面』です。
<第五期:石炭衰退・閉山期(1964~1974年):8>
片寄は、『端島において外見的に実現していた「理想郷」そのものが、真に人間が要求するものではなかったことを証明しているのではないか』と、厳しい見方もしています。 -
イチオシ
写真は、軍艦島の『北面』付近のズームアップ光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):1>
閉山前より京都大学の西山夘三教授や、片寄をはじめとする西山研究室の人々によって、主に『住まい』の面からの調査が行われていましたが、島全体が三菱の私有地であり、部外者に対しては常に監視の目があったようです。 -
写真は、軍艦島の『北面』付近のズームアップ光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):2>
長崎造船大学の教授となった片寄は、京大の西山教授に代わって1970年5月から1974年の閉山までにかけて端島の生活を詳細に調べ上げました。しかし、住人らは戦時中の『闇』の部分を語ろうとはしなかったようです。 -
写真は、軍艦島の『東面』から『北面』にかけての光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):3>
片寄は、軍艦島の充足した生活とされる『光』の部分だけでなく、戦時中の『圧制ヤマ』と呼ばれる奴隷労働や、中国人・朝鮮人の強制労働の実態といった『闇』の部分も明らかにし、論文を纏めました。 -
写真は、軍艦島の少し東側から眺めた『北面』の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):4>
片寄は、『軍艦島の生活環境』(1974年)として論文をまとめ上げ、雑誌『住宅』(日本住宅協会、1974年5月号~7月号)に掲載されました。この論文は、西山研究室の研究の一環とみなされました。 -
写真は、軍艦島の『北面』のズームアップ光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):5>
西山の撮影した写真・論文とともに『軍艦島の生活<1952/1970>:住宅学者西山夘三の端島住宅調査レポート』に纏められました。しかし、『暗い時代のことをほじくり出さないで欲しい』との元住民の板挟みで、片寄は研究を中断しました。 -
写真は、軍艦島の『北面』の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):6>
閉山後には、東京電機大学名誉教授で建築家の阿久井喜孝(1930~)の調査により、建築の方面からも光が当てられました。その結果、端島の建築には鉱山の技術が使われていることが明らかにされました。 -
写真は、更にズームアップした軍艦島の『北面』の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):7>
高浜村端島支所の跡地から戦時中の日本人・中国人・朝鮮人の死亡者が記された『火葬認可証付申請書』が発見され、記録作家の『林えいだい(1933~2017年)の調査により、端島炭坑の『闇』の部分にも光が当てられました。 -
写真は、『北面』から少し離れた場所を回り、『西面』に向かう途中の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):8>
戦時中の端島の朝鮮人坑夫の足取りに関しては、1992年に『林えいだい』により、『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』として纏められました。林氏は、アリラン文庫を主宰しました。 -
写真は、『北面』から少し離れた場所を回り、『西面』に向かう途中の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):9>
林えいだいは、福岡県田川郡採銅所村(現・香春町)生まれ。神主だった実父は、脱走してきた朝鮮人炭鉱労働者を匿い、特高警察に検挙され、拷問の後間もなく死去しました。この事件が、ジャーナリストとしての原点となったとされます。 -
写真は、『北面』から『西面』にかけてのズームアップ光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):10>
2000年代より、近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されています。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上りますが、無人化以来、建物の崩壊が進んでいます。 -
写真は、『北面』から『西面』に向かう途中の対岸の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):11>
端島は、三菱マテリアルが所有していましたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡されました。その所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承されました。 -
写真は、『北面』から『西面』に向かう途中の小島の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):12>
建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていました。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介されました。 -
写真は、『北面』から『西面』に向かう途中の北面と対岸の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):13>
2008年に長崎市で『長崎市端島見学施設条例』と『端島への立ち入りの制限に関する条例』が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになりました。 -
写真は、逆光で見難い写真になりましたが、『西面』の光景です。
<第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年~):14>
解禁後の1か月で4,601人が上陸しました。その後も、1年間で59,000人、3年間で275,000人と好調でした。上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件です。長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいます。
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