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福岡県と長崎県の名所巡りです。福岡県は金印が見付かった志賀島だけで、長崎の世界遺産巡りが主体です。その世界遺産巡りは、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺跡』と、『明治遺産の産業遺産』の数々です。長崎市では、平和記念像も見学しました。

2019暮、福岡と長崎の名所(1/23):12月8日(1):新幹線で小倉へ、志賀島、金印公園

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2019/12/08 - 2019/12/10

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旅人のくまさん

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福岡県と長崎県の名所巡りです。福岡県は金印が見付かった志賀島だけで、長崎の世界遺産巡りが主体です。その世界遺産巡りは、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺跡』と、『明治遺産の産業遺産』の数々です。長崎市では、平和記念像も見学しました。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 新幹線の名古屋駅構内の光景です。電光表示板には、乗車する『のぞみ97号』、7時6分発が表示されていました。終点は博多駅、時間に余裕をもって乗車できる、名古屋始発の列車でした。

    新幹線の名古屋駅構内の光景です。電光表示板には、乗車する『のぞみ97号』、7時6分発が表示されていました。終点は博多駅、時間に余裕をもって乗車できる、名古屋始発の列車でした。

  • 名古屋始発の『のぞみ97号』の車内光景です。目的地の小倉駅到着予定は10時11分、約3時間の乗車時間です。スピードは速い新幹線ですが、のんびりと列車の旅を楽しむことが出来ました。

    名古屋始発の『のぞみ97号』の車内光景です。目的地の小倉駅到着予定は10時11分、約3時間の乗車時間です。スピードは速い新幹線ですが、のんびりと列車の旅を楽しむことが出来ました。

  • 定刻の10時11分に小倉駅に到着しました。その新幹線駅構内の光景です。小倉駅からは、出迎えの観光バスに乗車しての観光名所巡りです。最初に向かったのは、天明4年(1784年)に国宝の金印が見付かった志賀島(しかのしま)です。

    定刻の10時11分に小倉駅に到着しました。その新幹線駅構内の光景です。小倉駅からは、出迎えの観光バスに乗車しての観光名所巡りです。最初に向かったのは、天明4年(1784年)に国宝の金印が見付かった志賀島(しかのしま)です。

  • 振り返って眺めた、JR小倉駅の出入口付近の光景です。志賀島の農民、甚兵衛が大石の下から見つけた金印は、『漢委奴国王印(かんのわのなのこくおう)』の文字が刻まれ、教科書にも記載されている国宝です。オリジナルの金印は、福岡市立博物館に保存されています。

    振り返って眺めた、JR小倉駅の出入口付近の光景です。志賀島の農民、甚兵衛が大石の下から見つけた金印は、『漢委奴国王印(かんのわのなのこくおう)』の文字が刻まれ、教科書にも記載されている国宝です。オリジナルの金印は、福岡市立博物館に保存されています。

  • 『志賀島』は、古代日本の中国大陸・朝鮮半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていました。また島内にある志賀海(しかうみ)神社は、綿津見三神(わたつみさんしん)を祀り、全国の綿津見(わたつみ)神社の総本宮です。写真は、博多湾の光景です。

    『志賀島』は、古代日本の中国大陸・朝鮮半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていました。また島内にある志賀海(しかうみ)神社は、綿津見三神(わたつみさんしん)を祀り、全国の綿津見(わたつみ)神社の総本宮です。写真は、博多湾の光景です。

  • 写真のピントが合いませんでしたが、堤防のような施設は、博多湾か、博多港の港湾施設の一部になるようです。左端に白い灯台のようなものが見えました。志賀島に向かうバスの、進行方向の左手側の光景です。

    写真のピントが合いませんでしたが、堤防のような施設は、博多湾か、博多港の港湾施設の一部になるようです。左端に白い灯台のようなものが見えました。志賀島に向かうバスの、進行方向の左手側の光景です。

  • 『志賀島(しかのしま)』への到着です。福岡県福岡市東区に所属する島で、博多湾の北部に位置しています。かつては島でしたが、現在は『海の中道』により陸続きです。 砂州により本土と陸続きになった『陸繋島』とされます。

    『志賀島(しかのしま)』への到着です。福岡県福岡市東区に所属する島で、博多湾の北部に位置しています。かつては島でしたが、現在は『海の中道』により陸続きです。 砂州により本土と陸続きになった『陸繋島』とされます。

  • 手元の地図(2012年版)を参照しますと、志賀島の南に位置する能古島の東側は博多湾、西側が福岡湾になっていましたが、纏めて『博多湾』と表記します。また、志賀島と糸島半島の西島を結んだ先に『玄界島』があり、その北の先が玄界灘になります。博多港の航路は、能古島の北から、玄界島の南に集中しているようです。

    手元の地図(2012年版)を参照しますと、志賀島の南に位置する能古島の東側は博多湾、西側が福岡湾になっていましたが、纏めて『博多湾』と表記します。また、志賀島と糸島半島の西島を結んだ先に『玄界島』があり、その北の先が玄界灘になります。博多港の航路は、能古島の北から、玄界島の南に集中しているようです。

  • 『漢委奴国王金印初光之處(所)』の文字が刻まれた、大きな石標の光景です。『従二位勲一等侯爵・黒田長政書』の落款がありました。金印が発見された場所は、長い間確定していませんでしたが、大正時代の初め頃に、九州考古学の父ともいわれる九州大学の中山平次郎博士が現在の金印公園の場所を、古老や諸資料から金印が発掘された『叶(かな)の崎』と推定しました。

    『漢委奴国王金印初光之處(所)』の文字が刻まれた、大きな石標の光景です。『従二位勲一等侯爵・黒田長政書』の落款がありました。金印が発見された場所は、長い間確定していませんでしたが、大正時代の初め頃に、九州考古学の父ともいわれる九州大学の中山平次郎博士が現在の金印公園の場所を、古老や諸資料から金印が発掘された『叶(かな)の崎』と推定しました。

  • 麓から見上げた『金印公園』の光景です。南側斜面が公園として整備されていました。昭和48年に九州大学が、平成元年と5年には福岡市教育委員会がこの付近の調査を行いましたが、金印に関係する遺構は発見されていません。また古記録の調査でも、出土地や発見者について疑義が出されており、金印出土の謎はいまだ解決されていません。

    イチオシ

    麓から見上げた『金印公園』の光景です。南側斜面が公園として整備されていました。昭和48年に九州大学が、平成元年と5年には福岡市教育委員会がこの付近の調査を行いましたが、金印に関係する遺構は発見されていません。また古記録の調査でも、出土地や発見者について疑義が出されており、金印出土の謎はいまだ解決されていません。

  • 同じく、麓から見上げた『金印公園』の光景です。長い石垣は、緩やかなスロープの登り道にするためで、ほかに石段を登るコースも整備されていました。先程の写真で紹介した石段です。

    同じく、麓から見上げた『金印公園』の光景です。長い石垣は、緩やかなスロープの登り道にするためで、ほかに石段を登るコースも整備されていました。先程の写真で紹介した石段です。

  • 石段を登った先から眺めた海側の光景です。志賀島の南に見える島は、『能古島(のこのしま)』になるようです。福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいます。手元の地図(2012年版)を見ますと、『能古島』の概ね左側が博多湾、右側が福岡湾になっていましたが、既述のように『博多湾』に表記を統一しておきます。

    石段を登った先から眺めた海側の光景です。志賀島の南に見える島は、『能古島(のこのしま)』になるようです。福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいます。手元の地図(2012年版)を見ますと、『能古島』の概ね左側が博多湾、右側が福岡湾になっていましたが、既述のように『博多湾』に表記を統一しておきます。

  • 金印公園から眺めた、南側に見える海の光景です。左端に見えるのが『能古島』、中央奥に見えるのが、『玄海島』になるようです。『玄海島』の先が玄界灘、手前が博多湾になるようです。

    金印公園から眺めた、南側に見える海の光景です。左端に見えるのが『能古島』、中央奥に見えるのが、『玄海島』になるようです。『玄海島』の先が玄界灘、手前が博多湾になるようです。

  • 『金印公園案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。漢委奴国王印がむつかった場所を記念した公園であることが、日本語を含めた4か国語で紹介されていました。この看板があった現在地は、長い石段を登った『いこいの広場』になります。

    『金印公園案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。漢委奴国王印がむつかった場所を記念した公園であることが、日本語を含めた4か国語で紹介されていました。この看板があった現在地は、長い石段を登った『いこいの広場』になります。

  • 『金印」のタイトルがあった説明パネルの光景です。金印が見付かった場所は、『石碑から海に向かって右斜め前』と紹介されていました。漢委奴国王印は、西暦57年に中国の『後漢』王朝から『倭』とよばれた日本に存在した『奴国の王』に贈られたものです。 中国の史書『後漢書』に光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に印綬を与えたことが記載されています。

    『金印」のタイトルがあった説明パネルの光景です。金印が見付かった場所は、『石碑から海に向かって右斜め前』と紹介されていました。漢委奴国王印は、西暦57年に中国の『後漢』王朝から『倭』とよばれた日本に存在した『奴国の王』に贈られたものです。 中国の史書『後漢書』に光武帝(こうぶてい)が倭奴国王に印綬を与えたことが記載されています。

  • 『漢委奴国王』印を拡大したブロンズ印の光景です。印鑑ですから浦文字になっていますが、右端から『漢』の1文字、中央が『委奴』の二文字、左端が『国王』の二文字です。

    イチオシ

    『漢委奴国王』印を拡大したブロンズ印の光景です。印鑑ですから浦文字になっていますが、右端から『漢』の1文字、中央が『委奴』の二文字、左端が『国王』の二文字です。

  • 東側から眺めた、金印公園の中の『展望広場』の光景です。中国の歴史書『後漢書』に、弥生時代に最も栄えた国の一つで、福岡平野にあった奴国の王が、後漢の都・洛陽に使節を派遣し、光武帝から贈られたのが、この地で発見された金印とされます。洪武帝(紀元前5年~57年)は、後漢王朝(25~220年)の初代皇帝です。

    東側から眺めた、金印公園の中の『展望広場』の光景です。中国の歴史書『後漢書』に、弥生時代に最も栄えた国の一つで、福岡平野にあった奴国の王が、後漢の都・洛陽に使節を派遣し、光武帝から贈られたのが、この地で発見された金印とされます。洪武帝(紀元前5年~57年)は、後漢王朝(25~220年)の初代皇帝です。

  • レプリカの金印像の光景です。空中に浮かんだような映像になりました。写真には撮影していませんが、裏面を見せるための工夫だったようです。出土した金印は、昭和41年(1966)、岡崎敬・九大名誉教授が正確な計測を行い、高さ2.236cm。印面の長さは2.34cmで、その後中国内でも同じ大きさの金印が出土したこともあり、現在ではほぼ本物と考えられています。

    レプリカの金印像の光景です。空中に浮かんだような映像になりました。写真には撮影していませんが、裏面を見せるための工夫だったようです。出土した金印は、昭和41年(1966)、岡崎敬・九大名誉教授が正確な計測を行い、高さ2.236cm。印面の長さは2.34cmで、その後中国内でも同じ大きさの金印が出土したこともあり、現在ではほぼ本物と考えられています。

  • 『金印って何でしょう?』のタイトルがあった、『金印』の説明パネルの光景です。金印は、この公園の近くで発見されたもので、中国の『後漢書』では、西暦57年に『後漢』王朝から弥生時代のこの地方の小国、『奴国』の王に贈られたものと紹介されていました。左の 写真は金印の外観と寸法など、右は押印された文字の紹介です。

    『金印って何でしょう?』のタイトルがあった、『金印』の説明パネルの光景です。金印は、この公園の近くで発見されたもので、中国の『後漢書』では、西暦57年に『後漢』王朝から弥生時代のこの地方の小国、『奴国』の王に贈られたものと紹介されていました。左の 写真は金印の外観と寸法など、右は押印された文字の紹介です。

  • 『実際にどんな風に使われていたの?』のタイトルがあった、『金印』の説明パネルの光景です。金印は、大切な公文書や荷物の封印として用いられたこのが、写真入りで紹介されていました。封印用の粘土(封泥)に押すためのもので、陰刻になっています。つまみ(鈕・ちゅう)は蛇がとぐろを巻いた姿で、ひもを通す孔(あな:鈕孔・ちゅうこう)には紫色のひも(綬・じゅ)が結ばれていたようです。

    『実際にどんな風に使われていたの?』のタイトルがあった、『金印』の説明パネルの光景です。金印は、大切な公文書や荷物の封印として用いられたこのが、写真入りで紹介されていました。封印用の粘土(封泥)に押すためのもので、陰刻になっています。つまみ(鈕・ちゅう)は蛇がとぐろを巻いた姿で、ひもを通す孔(あな:鈕孔・ちゅうこう)には紫色のひも(綬・じゅ)が結ばれていたようです。

  • 『神話と悠久の島』のタイトルがあった、『志賀島』の説明パネルの光景です。『志賀島』は、博多港の玄関口に位置し、海上交通の要衝に当たるため、航海術に長けた古代海女族の『安曇(あずみ)』氏の発祥の地と紹介され、万葉集にも詠われていることなどが紹介されていました。

    『神話と悠久の島』のタイトルがあった、『志賀島』の説明パネルの光景です。『志賀島』は、博多港の玄関口に位置し、海上交通の要衝に当たるため、航海術に長けた古代海女族の『安曇(あずみ)』氏の発祥の地と紹介され、万葉集にも詠われていることなどが紹介されていました。

  • 『志賀島の文化財を見に行こう』のタイトルがあった、『志賀島』の説明パネルの光景です。4枚の写真と紹介文のタイトルは、左上から時計回りに、『志賀海神社』、『志賀海神社山誉祭』、『蒙古塚』と『火焔塚』です。

    『志賀島の文化財を見に行こう』のタイトルがあった、『志賀島』の説明パネルの光景です。4枚の写真と紹介文のタイトルは、左上から時計回りに、『志賀海神社』、『志賀海神社山誉祭』、『蒙古塚』と『火焔塚』です。

  • 『志賀島』と『金印』を説明したパネルが並んだ展示光景です。手前2枚が『金印』、奥の2枚が『志賀島』の説明パネルです。右下に、設置者の『福岡市』の名前が記されていました。

    『志賀島』と『金印』を説明したパネルが並んだ展示光景です。手前2枚が『金印』、奥の2枚が『志賀島』の説明パネルです。右下に、設置者の『福岡市』の名前が記されていました。

  • 1979年5月に締結された、福岡市と中国広東省の広州市との友好都市締結の記念詩碑の光景です。締結後1周年を記念した記念碑で、詩碑は広州市の揚尚昆市長によるものです。『揚尚昆(1907~1998年)』は、文化大革命期の1965年に失脚し、1978年までの12年間監禁されましたが、同年に名誉回復し、1979年9月に中央委員として復活し、国家主席も務めました。1989年6月の天安門事件では、はじめ武力壇圧には反対の立場でしたが、トウ小平の決意が固いと知ると、国家主席としての権限で戒厳令を発令しました。中国国内での文化大革命に対する見解は定まったものの、天安門事件に関しては、いまだ収束していないようです。

    1979年5月に締結された、福岡市と中国広東省の広州市との友好都市締結の記念詩碑の光景です。締結後1周年を記念した記念碑で、詩碑は広州市の揚尚昆市長によるものです。『揚尚昆(1907~1998年)』は、文化大革命期の1965年に失脚し、1978年までの12年間監禁されましたが、同年に名誉回復し、1979年9月に中央委員として復活し、国家主席も務めました。1989年6月の天安門事件では、はじめ武力壇圧には反対の立場でしたが、トウ小平の決意が固いと知ると、国家主席としての権限で戒厳令を発令しました。中国国内での文化大革命に対する見解は定まったものの、天安門事件に関しては、いまだ収束していないようです。

  • 揚尚昆による碑文の解説パネルです。碑文の日本語読みは、『帯水横陳(たわ)り 両市相望む 友諠永恒なり』と紹介されていました。簡潔な表現の碑文ですが、後の揚尚昆主席が、文化大革命期での名誉回復を遂げた直後の碑文として、歴史的価値もあるようです。<br />

    揚尚昆による碑文の解説パネルです。碑文の日本語読みは、『帯水横陳(たわ)り 両市相望む 友諠永恒なり』と紹介されていました。簡潔な表現の碑文ですが、後の揚尚昆主席が、文化大革命期での名誉回復を遂げた直後の碑文として、歴史的価値もあるようです。

  • 志賀島の南の沖に見える島は、『能古島(のこのしま)』になるようです。福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいます。福岡市民の身近な行楽地として親しまれているようです。福岡では屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所と紹介されていました。

    イチオシ

    志賀島の南の沖に見える島は、『能古島(のこのしま)』になるようです。福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいます。福岡市民の身近な行楽地として親しまれているようです。福岡では屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所と紹介されていました。

  • ツワブキの群生光景です。『ツワブキ(石蕗)』は、キク科の常緑多年草で、日本・東アジアを原産とします。茎などは、食用にもなります。ツワ、イシブキ、イソブキなどの別名を持ちます。漢字表記の『石蕗』は、イシブキに因むのかも知れません。

    ツワブキの群生光景です。『ツワブキ(石蕗)』は、キク科の常緑多年草で、日本・東アジアを原産とします。茎などは、食用にもなります。ツワ、イシブキ、イソブキなどの別名を持ちます。漢字表記の『石蕗』は、イシブキに因むのかも知れません。

  • 漢文の文字が読み取りにくくなっていましたが、末尾に『郭沫若』の落款が読み取れました。『郭沫若(1892~1978年)』は、中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、考古学者で、歴史研究者です。原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたります。1914年に日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業しました。

    漢文の文字が読み取りにくくなっていましたが、末尾に『郭沫若』の落款が読み取れました。『郭沫若(1892~1978年)』は、中華民国、中華人民共和国の政治家、文学者、考古学者で、歴史研究者です。原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたります。1914年に日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州帝国大学医学部を卒業しました。

  • 郭沫若の詩碑の訳文を記したパネルです。郭沫若は、九州帝大の医学部時代(1918~1923年)、志賀島をよく散歩したことが紹介され散ました。この詩碑は、1955年に詠んだ七言絶句を、18年経過した1974年に自書したものであることも紹介されていました。

    郭沫若の詩碑の訳文を記したパネルです。郭沫若は、九州帝大の医学部時代(1918~1923年)、志賀島をよく散歩したことが紹介され散ました。この詩碑は、1955年に詠んだ七言絶句を、18年経過した1974年に自書したものであることも紹介されていました。

  • 石碑類が立ち並んだ金印公園の中の『交流広場』の光景です。先ほど紹介した、揚尚昆揮毫の石碑や、金属プレートに記された郭沫若の漢詩碑などです。邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる金印は『親魏倭王』とされ、まだ見つかっていませんが、魏の後継国の晋に返還されたとの説もあります。

    石碑類が立ち並んだ金印公園の中の『交流広場』の光景です。先ほど紹介した、揚尚昆揮毫の石碑や、金属プレートに記された郭沫若の漢詩碑などです。邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる金印は『親魏倭王』とされ、まだ見つかっていませんが、魏の後継国の晋に返還されたとの説もあります。

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