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長崎の世界文化遺産、端島炭鉱跡の紹介です。現在は軍艦島の名前が広く使われているようです。台風被害の影響で、現在は上陸禁止になっていますが、周囲を回りながらの見学でも、十分にその歴史的価値が感じられます。

2019暮、福岡と長崎の名所(18/23):12月10日(5):軍艦島(1):長崎港から端島炭鉱跡へ

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2019/12/08 - 2019/12/10

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

長崎の世界文化遺産、端島炭鉱跡の紹介です。現在は軍艦島の名前が広く使われているようです。台風被害の影響で、現在は上陸禁止になっていますが、周囲を回りながらの見学でも、十分にその歴史的価値が感じられます。

交通手段
観光バス 新幹線
  • 観光バスで、端島見学のためにフェリーターミナルで向かう途中での撮影です。2019年9月22日(日)に長崎県に接近した台風17号の通過に伴い、見学施設に損壊があり、上陸者の安全が確保できないため、端島への上陸は9月23日(月)から停止され、旅行当日も上陸禁止が継続していました。

    観光バスで、端島見学のためにフェリーターミナルで向かう途中での撮影です。2019年9月22日(日)に長崎県に接近した台風17号の通過に伴い、見学施設に損壊があり、上陸者の安全が確保できないため、端島への上陸は9月23日(月)から停止され、旅行当日も上陸禁止が継続していました。

  • 長崎港を出港して、端島に向かう途中の、船首に向かって左手方面の光景です。まだ、港湾施設の一部などが見えている光景にです。長崎港から南西約20kmの海上に位置する島で、片道40分ほどの距離です。

    長崎港を出港して、端島に向かう途中の、船首に向かって左手方面の光景です。まだ、港湾施設の一部などが見えている光景にです。長崎港から南西約20kmの海上に位置する島で、片道40分ほどの距離です。

  • 長崎港を出発し、端島が見えてきました。現在は『軍艦島』の呼び名が多く使われるようですから、この後は、『軍艦島』の呼び名で紹介します。また、説明を簡単にするため、現在見えている長辺を『東面』その反対側の長辺を『北面』、船首のように中央が尖った右側の短辺を『北面』、左側の短辺を『南面』と呼ぶことにします。実際には、北面が東に、南面が西に振れています。

    イチオシ

    長崎港を出発し、端島が見えてきました。現在は『軍艦島』の呼び名が多く使われるようですから、この後は、『軍艦島』の呼び名で紹介します。また、説明を簡単にするため、現在見えている長辺を『東面』その反対側の長辺を『北面』、船首のように中央が尖った右側の短辺を『北面』、左側の短辺を『南面』と呼ぶことにします。実際には、北面が東に、南面が西に振れています。

  • 少しズームアップした、軍艦島の『東面』の光景です。ここで、軍艦島の歴史を簡単に紹介します。ウィキペディアの6期に分けた歴史記述を参照しました。<br /><第一期:原始的採炭期(1810~1889年):その1><br />端島の名に起源は不明ですが、『正保国絵図』には『はしの島』、『元禄国絵図』には『端島』、『天保国絵図』にも『端島』とあります。

    少しズームアップした、軍艦島の『東面』の光景です。ここで、軍艦島の歴史を簡単に紹介します。ウィキペディアの6期に分けた歴史記述を参照しました。
    <第一期:原始的採炭期(1810~1889年):その1>
    端島の名に起源は不明ですが、『正保国絵図』には『はしの島』、『元禄国絵図』には『端島』、『天保国絵図』にも『端島』とあります。

  • 写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。左側が南面方面です。<br /><第一期:原始的採炭期(1810~1889年):その2><br />江戸時代後期の文化7年(1810年)頃、軍艦島で石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行っていました。発見者は不明とされます。領地を巡って争いも起きましたが、ごく小規模に露出炭を採炭する程度でした。

    写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。左側が南面方面です。
    <第一期:原始的採炭期(1810~1889年):その2>
    江戸時代後期の文化7年(1810年)頃、軍艦島で石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行っていました。発見者は不明とされます。領地を巡って争いも起きましたが、ごく小規模に露出炭を採炭する程度でした。

  • 写真は、軍艦島の『東面』の中央付近のズームアップ光景です。<br /><第一期:原始的採炭期(1810~1889年):その3><br />1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました。36mの第1竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことです。

    写真は、軍艦島の『東面』の中央付近のズームアップ光景です。
    <第一期:原始的採炭期(1810~1889年):その3>
    1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました。36mの第1竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことです。

  • 写真は、軍艦島の『東面』の北端付近のズームアップ、船首の姿です。<br />&lt;第二期:納屋制度期(1890~1914年):その1&gt;<br />1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者だった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡し、端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となりました。

    写真は、軍艦島の『東面』の北端付近のズームアップ、船首の姿です。
    <第二期:納屋制度期(1890~1914年):その1>
    1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者だった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡し、端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となりました。

  • 写真は、同じ場所から撮影した軍艦島の全容です。<br />&lt;第二期:納屋制度期(1890~1914年):その2&gt;<br />端島譲渡後は、第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって、端島炭鉱の出炭量は、高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長しました。この頃には社船の『夕顔丸』が就航しました。

    写真は、同じ場所から撮影した軍艦島の全容です。
    <第二期:納屋制度期(1890~1914年):その2>
    端島譲渡後は、第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって、端島炭鉱の出炭量は、高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長しました。この頃には社船の『夕顔丸』が就航しました。

  • 写真は、同じ場所から少しズームアップした中央部分の光景です。<br />&lt;第二期:納屋制度期(1890~1914年):その3&gt;<br />製塩・蒸留水機設置に伴う飲料水供給開始(1891年。1935年に廃止)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、1897年から1931年に、島の周囲が段階的に埋め立てられました。

    写真は、同じ場所から少しズームアップした中央部分の光景です。
    <第二期:納屋制度期(1890~1914年):その3>
    製塩・蒸留水機設置に伴う飲料水供給開始(1891年。1935年に廃止)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、1897年から1931年に、島の周囲が段階的に埋め立てられました。

  • 写真は、軍艦島近くの小島の光景です。無人島のようです。<br />&lt;第二期:納屋制度期(1890~1914年):その4&gt;<br />1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。高島同様、端島でも労働争議が度々起こりました。

    写真は、軍艦島近くの小島の光景です。無人島のようです。
    <第二期:納屋制度期(1890~1914年):その4>
    1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。高島同様、端島でも労働争議が度々起こりました。

  • 写真は、霞んで見える対岸の光景です。<br />&lt;第二期:納屋制度期(1890~1914年):その5&gt;<br />先ほど紹介した『納屋制度』とは、明治期の筑豊炭田における雇用制度で、坑夫は会社ではなく納屋に所属する間接雇用制度です。厳しい掟があり、その掟に従わないものは納屋頭による制裁が加えられました。タコ部屋とも呼ばれました。

    写真は、霞んで見える対岸の光景です。
    <第二期:納屋制度期(1890~1914年):その5>
    先ほど紹介した『納屋制度』とは、明治期の筑豊炭田における雇用制度で、坑夫は会社ではなく納屋に所属する間接雇用制度です。厳しい掟があり、その掟に従わないものは納屋頭による制裁が加えられました。タコ部屋とも呼ばれました。

  • 写真は、軍艦島の東面の北端と、右手に見える対岸の光景です。<br />&lt;第二期:納屋制度期(1890~1914年):その6&gt;<br />納屋制度期における軍艦島の生活は、前借の弱身に自由を奪われ厳しいものでした。端島における納屋制度の廃止は、高島よりも遅かったとされますが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となりました。

    写真は、軍艦島の東面の北端と、右手に見える対岸の光景です。
    <第二期:納屋制度期(1890~1914年):その6>
    納屋制度期における軍艦島の生活は、前借の弱身に自由を奪われ厳しいものでした。端島における納屋制度の廃止は、高島よりも遅かったとされますが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となりました。

  • 写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その1&gt;<br />納屋制度の廃止、三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅『30号棟』が建設されました。

    写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その1>
    納屋制度の廃止、三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には、日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅『30号棟』が建設されました。

  • 写真は、少しズームアップした軍艦島の『東面』の南端付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その2&gt;<br />この年には大阪朝日新聞が端島の外観を『軍艦とみまがふ』と報道し、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦『土佐』に似ているとして『軍艦島』と呼んでいます。

    写真は、少しズームアップした軍艦島の『東面』の南端付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その2>
    この年には大阪朝日新聞が端島の外観を『軍艦とみまがふ』と報道し、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦『土佐』に似ているとして『軍艦島』と呼んでいます。

  • 写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その3&gt;<br />『軍艦島』の通称は、大正時代頃から用いられるようになったとみられます。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てでした。

    写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その3>
    『軍艦島』の通称は、大正時代頃から用いられるようになったとみられます。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てでした。

  • 写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その4&gt;<br />RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止され、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年には端島から納屋制度が全廃されました。

    写真は、軍艦島の『東面』の南端のズームアップ光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その4>
    RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止され、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年には端島から納屋制度が全廃されました。

  • 写真は、『東面』のズームアップ光景です。赤いレンガの建物が見えます。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その5&gt;<br />しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も劣悪でした。例えば、1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかったようです。

    イチオシ

    写真は、『東面』のズームアップ光景です。赤いレンガの建物が見えます。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その5>
    しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も劣悪でした。例えば、1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかったようです。

  • 写真は、『東面』の排水溝(廃棄物処理?)らしい施設のズームアップ光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その6&gt;<br />一方で、後に建設された坑外夫向けの16号~20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りでした。端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化の建物に反映されていました。

    写真は、『東面』の排水溝(廃棄物処理?)らしい施設のズームアップ光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その6>
    一方で、後に建設された坑外夫向けの16号~20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りでした。端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化の建物に反映されていました。

  • 写真は、白い灯台が見える、『東面』の中央部付近のズームアップ光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その7&gt;<br />端島炭鉱は、良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。それを支える労働者のための福利厚生も、早いスピードで整えられるようになりました。

    写真は、白い灯台が見える、『東面』の中央部付近のズームアップ光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その7>
    端島炭鉱は、良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。それを支える労働者のための福利厚生も、早いスピードで整えられるようになりました。

  • 写真は、白い灯台と桟橋付近が見える、『東面』の中央部付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その8&gt;<br />1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていました。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、『星を頂いて入坑し、星を頂いて出坑する』とも揶揄されました。

    写真は、白い灯台と桟橋付近が見える、『東面』の中央部付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その8>
    1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていました。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、『星を頂いて入坑し、星を頂いて出坑する』とも揶揄されました。

  • 写真は、『東面』の中央部、やや左寄り方面の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その9&gt;<br />1916年(大正5年)以降から少年及び婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために、朝鮮人労働者の使役が開始されました。1939年(昭和14年)からは、朝鮮人労働者の集団移入が本格化しました。

    写真は、『東面』の中央部、やや左寄り方面の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その9>
    1916年(大正5年)以降から少年及び婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために、朝鮮人労働者の使役が開始されました。1939年(昭和14年)からは、朝鮮人労働者の集団移入が本格化しました。

  • 写真は、『東面』中央部の波止場付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その10&gt;<br />最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始されました。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたと言われます。

    写真は、『東面』中央部の波止場付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その10>
    最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始されました。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたと言われます。

  • 写真は、近くから撮影した『東面』中央部の波止場付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その11&gt;<br />第二次大戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者や、その遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて、訴訟を起こしました。

    写真は、近くから撮影した『東面』中央部の波止場付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その11>
    第二次大戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者や、その遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて、訴訟を起こしました。

  • 写真は、近くから撮影した『東面』中央部の波止場付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その12&gt;<br />この訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しました。

    写真は、近くから撮影した『東面』中央部の波止場付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その12>
    この訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しました。

  • 写真は、近くから撮影した『東面』中央部の波止場付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その13&gt;<br />1939年(昭和14年)には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出しました。戦時中の1941年(昭和16年)から始まった『産業報国戦士運動』の結果、石炭出炭量が最盛期を迎え、1941年には約41万トンの年間最大量を出炭しました。

    写真は、近くから撮影した『東面』中央部の波止場付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その13>
    1939年(昭和14年)には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出しました。戦時中の1941年(昭和16年)から始まった『産業報国戦士運動』の結果、石炭出炭量が最盛期を迎え、1941年には約41万トンの年間最大量を出炭しました。

  • 写真は、『東面』中央部の付近の、世界遺産要件の古い石垣の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その14&gt;<br />戦時中の時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年~1945年の『火葬認可証下付申請書』によれば、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人と記録されています。

    イチオシ

    写真は、『東面』中央部の付近の、世界遺産要件の古い石垣の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その14>
    戦時中の時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年~1945年の『火葬認可証下付申請書』によれば、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人と記録されています。

  • 写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近とその背後の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その15&gt;<br />朝鮮人や中国人だけでなく、日本人も相当な人数が死んでいます。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3333人ですから、住人の4割近くが死んだ計算になります。

    写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近とその背後の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その15>
    朝鮮人や中国人だけでなく、日本人も相当な人数が死んでいます。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3333人ですから、住人の4割近くが死んだ計算になります。

  • 写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その16&gt;<br />1945年(昭和20年)6月11日、アメリカの潜水艦『ティランテ』が、停泊していた石炭運搬船『白寿丸』を魚雷で攻撃し撃沈しましたが、このことは『米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ』という噂話になりました。

    写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その16>
    1945年(昭和20年)6月11日、アメリカの潜水艦『ティランテ』が、停泊していた石炭運搬船『白寿丸』を魚雷で攻撃し撃沈しましたが、このことは『米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ』という噂話になりました。

  • 写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近の光景です。<br />&lt;第三期:産業報国期(1914~1945年):その17&gt;<br />1945年(昭和20年)には、高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没しました。1945年に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残ります。

    写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近の光景です。
    <第三期:産業報国期(1914~1945年):その17>
    1945年(昭和20年)には、高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没しました。1945年に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残ります。

  • 写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近の水中の遺構の光景です。<br /><第四期:復興・近代化期(1945~1964年):その1&gt;<br />終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減しました。ただし、終戦の混乱期と言うこともあり、端島の人口データはあまり当にならないようです。

    写真は、近くから撮影した『東面』波止場付近の水中の遺構の光景です。
    <第四期:復興・近代化期(1945~1964年):その1>
    終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減しました。ただし、終戦の混乱期と言うこともあり、端島の人口データはあまり当にならないようです。

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