2019/12/08 - 2019/12/10
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旅人のくまさんさん
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軍艦島(端島)の見学の後、フェリーで10分ほどの高島に移動しました。軍艦島より広い敷地を持つこの島に、端島炭鉱と高島炭鉱を合わせた展示館などが設けてありました。どちらも、世界文化遺産の構成要件を持つ島です。
- 交通手段
- 観光バス 船 新幹線
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世界遺産の構成遺産として、『高島炭鉱』と『端島炭鉱』が記された観光案内地図の光景です。主体は、高島内の紹介でした。現在地が『高島港ターミナル』付近に記されていました。『端島炭鉱(軍艦島)』の見学を終えて、高島にフェリーが係留されたフェリー・ターミナルです。
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『デイゴ(梯梧)』
マメ科デイゴ属の落葉高木
分布:インドやマレー半島が原産です。日本では沖縄県が北限です。
特徴:春から初夏にかけて赤い花が咲きます。
その他:根本や根からも芽が出るので人家の庭には適さないようです。 -
高島炭鉱は、長崎県長崎市高島(旧西彼杵郡高島町)にあった、日本有数の炭鉱です。日本最古の大手資本による採鉱で栄えましたが、1986年(昭和61年)11月27日をもって閉山されました。高島炭鉱の歴史は、1695年(元禄8年)に平戸藩松浦郡江迎の五平太が石炭を発見したことが始まりとされます。
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イチオシ
『岩崎弥太郎之像』の光景です。『岩崎弥太郎(1835~1955年)』は、日本の実業家で、三菱財閥の創業者で初代総帥です。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物です。土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれました。『地下浪人(じげろうにん)』は、土佐藩における身分の一種です。上士身分の浪人と区別して、40年以上郷士身分であった者が、郷士身分を他者に譲り、浪人となって、地域に居付いた者を地下浪人と呼びました。岩崎家は、甲斐武田家の当主武田信光の五男岩崎信隆(武田七郎)が、甲斐国山梨東郡(東八代郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を本拠に岩崎氏を称し、家紋も武田菱に由来するという伝承があ利ます。
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『岩崎弥太郎之像』の説明プレートの光景です。平製16年(2004年)12月に建てられた高島町名のプレートです。かつての所有者の三菱マテリアル社長による銘板揮毫で、立像の製作者は日展会員の山崎和國でした。長崎市の風頭公園内にある坂本龍馬の銅像も制作した彫刻家です。弥太郎が巨利を得たのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことです。
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『岩崎弥太郎之像』の頭部のズームアップ光景です。各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ました。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎です。今でいうインサイダー取引でした。(ウィキペディア)
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『高島節』のタイトルがあった石碑の光景です。かつて長崎県長崎市の高島炭鉱で歌われていたという『高島節』です。『島と名が附きゃ どの島も可愛いまして まして 高島 なお可愛い』の歌詞に『アラショカ ショカネ』の囃子が続きます。
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『岩崎弥太郎と高島』のタイトルがあった説明看板の光景です。高島炭鉱は、幕末の1868年に佐賀藩とトーマス・グラバーが共同出資で採掘を始め、国内初の立坑(北渓井抗)を開削しまし。明治に入り佐賀藩から後藤象二郎が買い上げ操業を開始し、英国人鉱山技師エラスムス・ガウワーが近代化を試みるがうまくいかず、この前後の1873年に官営となりました。
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かつての高島炭鉱の現在の光景です。金網内に主要施設らしいものが保存されていました。1881年、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎率いる三菱財閥に権益が譲られ、本格的に採掘が開始されました。以来、近郊の伊王島・端島の炭鉱とともに西彼杵炭田の一角として1世紀以上に亘って日本のエネルギー経済を支え続けました。
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『軍艦島模型』の表示があった吹き抜けの建物光景です。軍艦島観光のフェリーで説明された方が、この模型も説明してくれました。軍艦島観光のツアーを再考しているのは、長崎市の㈱シーマン商会です。
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ここからは、『軍艦島模型』の紹介です。軍艦島の紹介では、を『北面』、手前の短辺を『南面』、奥の短辺を『北面』、右側の長辺を『東面』、左側の長辺を『西面』と呼んで説明しました。実際には、『北面』が少し東側に、『南面』が少し西側に傾いています。
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『南面』側から眺めた、軍艦島のズームアップ光景です。白い建物は、当時の最先端の鉄筋コンクリート造りの高層アパート、茶色の屋根が炭鉱施設の建物になるようです。鉄塔のような高い建造物は、立坑の関連施設のようです。
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同じく、『南面』側から眺めた、軍艦島のズームアップ光景です。先程よりは、模型の東側に移動しての撮影です。港湾施設は、『西面』よりも波が穏やからしい『東面』に集中しているようでした。
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『東面』からズームアップした軍艦島の光景です。中央部分に海に突き出した桟橋が見えています。手前に係留されている船は、石炭運搬船ではなく、客船のフェリーのようです。
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イチオシ
波止場付近のズームアップ光景です。ベルトコンベアーを使って、直積に石炭を積み込む石炭運搬船の光景になるようです。石炭がバラ積されているようでした。ベルコトンベアーの先に山積みされた石炭も模型になっていました。
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『北面』の東寄りから眺めた軍艦島の光景です。右端が、堤防が軍艦の船首のように見える部分です。自然の地形で残った、堤防内の岩山は省略された模型でした。真っ白な高層アパート群が主役の模型です。
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高島炭鉱の歴史年表です。左端が、元禄8年(1695年)の石炭発見から、明治10年(1877年)の第1回勧業博への高島炭鉱模型の出品、中央が明治11年(1878年)の工夫暴動から、大正5年(1916年)の蒸気巻から電気巻への変換、右端が大正6年(1917年)の海底ケーブル1号線の敷設と、昭和61年(1986年)の炭鉱閉山までの歴史でした。
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『高島炭鉱と関わりがある人々』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左上の写真が、『トーマス・ブレーク・グラバー(1838~1907年)』、右上が佐賀藩の高島石炭方の『松林源蔵(1825~1875年)』、右下が長崎海軍伝習所教官の『カッテンディーケー』です。江戸時代に、石炭と水を蒸気の力で運ぶことを勧めた人です。
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『高島炭鉱と関わりがある人々』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左側の写真が『岩崎弥太郎(1835~1955年)』、右側の写真が『後藤象二郎(1838~1897年)』です。どちらも土佐藩士の出身です。三菱マークの謂れも説明されていました。土佐藩主の山内家の『三葉柏』に因みます。
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『曙(あけぼの)』と題されたブロンズ像です。高島町出身・日展会員の山崎和國氏の寄贈品であることが表示されていました。先に紹介した、『岩崎弥太郎之像』の作者です。
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岩石標本の紹介です。この標本には、『塊炭(かいたん)』の表示がありました。石炭の大きな塊で、直径4センチ以上のものを指します。『黒いダイヤ』とも呼ばれたことが説明されていました。砕けて細かくなったものは、『粉炭(こずみ・こなずみ)』と呼ばれます。
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『松岩(まついわ)』の説明プレートがあった岩石標本の光景です。説明文には、地中に埋没した樹木(根、樹、節等)です。非常に硬く、石炭採掘の支障になるようです。『ボタ』と呼ばれることも説明されていました。
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『燃石(もえいし)』のタイトルがあった岩石標本です。権現山中腹の南側斜面から、赤山にかけて見付かる赤い色の石です。砂岩がベースの石ですが、赤色になった理由は、太古の火山活動など、いくつかの説が紹介されていました。
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この岩石標本も、『燃石(もえいし)』として展示されていたようです。石炭のように燃えそうな雰囲気の岩石ではないようです。
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『骸炭(がいたん:コークス)』の標本展示光景です。火力が強く、無煙の多孔質の燃料です。三菱では、選炭後の残滓でコークスを作り、電化が普及するまでの燃料として家庭に配っていたようです。通称は、『ガラ』です。
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『骸炭(がいたん:コークス)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。石炭を蒸し焼きにしてできた燃料です。戦後長らく、家庭用の燃料として使われました。良質のコークスは、今も精錬や鍛冶に使用されているようです。
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坑内外で使用された設備や道具類の展示です。高島炭鉱では、明治の初めは坑内で馬を使って運搬させていたようですが、酸欠で斃れる石で、次第に機械力が採り入れられたようです。1903年(明治36年)にエンドレスロープが導入され、機関車の導入、1936年(昭和11年)のベルトコンベアの導入へと進みました。
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同じく、坑内外で使用された設備や道具類の展示光景です。『安全対策』のタイトルがあった安全用具の数々です。説明文の中見出しは、『通期の確保』、『ガス・炭塵爆発と対策』、『環境対策』でした。1961年(昭和36年)に西ドイツからガス抜き方が導入され、1968年(昭和43年)には、救命器携帯が義務付けられています。
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イチオシ
左上の図面は、高島や端島を中心にした『地形・地質図』、右上が、『高島炭鉱坑内外図』、テーブルの上の模型が、高島炭鉱の坑道の縮尺模型です。
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壁に展示されていた図面のズームアップ光景です。右半分の『高島炭鉱坑内外図』には、採掘済みの部分が空色で表示され、採掘計画区域が赤色、埋蔵が確認された『新区域』が濃い青色で表示されていました。すべての採掘を終えての閉山ではなかったようです。
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