2019/11/24 - 2019/11/24
30位(同エリア995件中)
ウェンディさん
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秋が深まる霜月
旅友のきなこさんと古都・明日香の里を、のんびりとサイクリングで巡りました。
飛鳥を旅先にセレクトした理由は、明日香村に潜む数多くの歴史ミステリーに惹かれたから。
“日本書紀”にも飛鳥の歴史について記されていますが、その記述は時の権力者に寄せた内容で史実とは異なる部分があるのでは、と言われています。
キトラ古墳に眠るのは誰なのか。
猿石は何を私たちに伝えようとしているのか。
乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿は、本当に悪の権現だったのか。
緩やかな時が流れる斑鳩の里を、いんぐりもんぐりと旅してきました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 新幹線 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
イチオシ
明日香旅の旅立ちは何故か、湖の畔。
その理由は、日曜日の朝に私がいたのが琵琶湖だったから。
実は、11月末に職場の全国研修会が滋賀県であり、その宿泊地が琵琶湖の湖畔だったのだ。
今回の研修は職場総員参加の研修だったため平日での開催は難しく、研修の日程は週末の土日。
しかも、その研修に参加してもその2日分の代休は与えない(研修に参加すると研修のある土日前後の5日間、計12日間休みなしの日々となる)というオニ条件つき研修だった。
そして、その研修に参加するかしないかは、職員個人の自由判断に任されていた。
(写真:夜明け前の琵琶湖の湖畔)琵琶湖 自然・景勝地
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フルで二週間、職場から離れる機会がないのは身体的にも精神的にも堪える・・・よね。
はじめは、そんな疲れるためだけに行くような研修は不参加として、土日は家でのんびりと体を休める方が良いだろうと思っていたのだが、色々と考えた末に路線変更し、研修に参加することにした。
どうして、研修への参加を決めたのかって?
ソレは、私が土日が潰される研修にも律儀にクソ真面目に出席する社畜だから?
そんなわけはないだろう。
研修の宿泊地は琵琶湖で、朝に少しだけ早起きすれば、関東からの日帰り旅は厳しい関西エリアの観光地にだって足を伸ばすことができる。
更に、研修の拘束時間は日曜日の朝まで。
つまり、土曜日の研修+懇親会に真面目に参加して一晩ぐっすりと眠れば、翌日の日曜の朝からは自由の身。
日曜日は紅葉真っ盛りの京都や大阪で遊んだり、ちょっと足を伸ばして奈良にだって行くことができる。
そう・・・
会社が京都までの往復新幹線代を負担してくれる今回の研修は、ある意味、私にとっては美味しい存在だったのだ。
(写真:懇親会時の夕食。見た目は豪華だが、京料理らしさは感じられない残念タイプ)おごと温泉 温泉
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そんなこんなで、日曜日の夜明け前に宿を出発した私は、朝の8時半過ぎには奈良の飛鳥駅(写真)へと到着していた。
200円のおまけ付き♪お得な近鉄の飛鳥周遊切符 by ウェンディさん飛鳥駅 駅
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この日1日の私のターゲットは奈良県の明日香村。
飛鳥文化が栄えた地だ。
明日香村は高校の修学旅行で来たことはあるのだが、団体旅行の女子高生なんて今も昔も大して変わらないモノ。
友人同士のおしゃべりに夢中で、何処を観光したか、そこで何を学ぶかなんて全く気にもしていないし、まして覚える気も努力も無い生き物だ。
かつての私自身もそんな生物だったので、残念ながら修学旅行の京都・奈良の記憶は友人と楽しく3日間を過ごした・・・という位しか覚えていない。
(写真:今から数十年前の女子高生!)
しかし、今回の私は違う。
どうしても逢いたいモノがあり、この明日香の地を選んで、ここへとやってきた。 -
明日香のエリアはそんなに広くはなく、朝からの1日があれば、それなりにあちこちを見て回ることができる。
徒歩でも車でも自転車でもその観光方法は色々と選択肢があるのだが、機動力があり、効率が良い観光手段が自転車で、私たちもレンタサイクルを利用した。 -
飛鳥駅前にはいくつかレンタルショップがあるが、私のセレクトは橿原神宮駅前での乗り捨て可能な“明日香レンタサイクル”(http://k-asuka.com/)。
レンタル代金は↓で、乗り捨て料金は+200円。
更にHPに割引クーポンQRコードがあり、スマホを見せれば1台つき200円割引で利用できる。
〔自転車レンタル料金〕
普通車:平日900円、土日祭日1000円
電動自転車:1500円(月~日 同料金)
最初は普通車を借りるつもりでいたのだが、レンタル屋のおじさんのお勧めは電動自転車。
明日香村は登り坂も多いので、絶対に電動がお勧めと力説された。
で、実際に自転車観光をした私たちの意見も、電動で良かった!というモノ。
特にキトラ古墳へと足を伸ばす場合にはひたすら坂道をぐいぐい登る道なので、電動自転車が必須だった。
(写真は旅友撮影) -
自転車をレンタルして、観光案内所で行きたい場所の大雑把な位置関係を頭に入れたら、さぁ、飛鳥の世界へと漕ぎ出そう!
レンタル屋さんで貰った地図に、この日の動き方を入れてみた。
飛鳥駅を9時過ぎに出発して、橿原神宮前駅へと帰着したのが14:40。
もっとたくさん観光できるかと思っていたのだが、それぞれのポイントが面白すぎて、結局、行くことができたのは、この8カ所だけだ。 -
最初の目的地であるキトラ古墳へは、飛鳥駅から自転車で10分。
ひたすら登り道を漕いで行く。(これは電動自転車でないと、かなりツライ!)
キトラ古墳は1983年(昭和58年)にその内部に色鮮やかな壁画が発掘された古墳で、発掘された当初は高松塚に続く飛鳥時代の王族の古墳か!と大きな話題となった。
キトラ古墳が見つかった当時は、高松塚古墳の二の舞にならぬ様、できるだけヒトが石室内に立ち入らぬように調査を行ったそうだが、それでも、いったん外気に触れて湿度と様々な細菌が侵入してしまった古墳石室内の壁画劣化は予測以上のスピードで進み、その石室壁画の切り出し・保存作業には、私たち一般人の想像を絶する苦労があったと言われている。
そして、現在のキトラ古墳は、石室に埋葬された方の永久の眠りを妨げぬよう、飛鳥時代と同じ方法で封印され、小さな丘として存在している。白紙と2Bの鉛筆を忘れずに by ウェンディさん国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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キトラ古墳は、今はただの小さな丘。
それが、現在の姿だ。
元々、古墳とは昔に亡くなられた方のお墓であり、面白半分に扱うべき場所ではない。
でも、ヒト族は欲の塊。
知らないことは知りたいし、知るために調査だって、研究だって、なんだってやる。
そして、その研究成果の集大成がキトラ古墳の麓にあるキトラ壁画資料館”四神の館“に展示されている。 -
”四神の館“の目玉は、キトラ古墳の石室の内部を精巧に再現した復元模型。
キトラ古墳の石室のサイズは幅1m、奥行き2.4m、高さ1.2m。
その石室内部すべてをフォトマッピングと呼ばれる技術を用いてスキャンして電子的に記録し、得られた画像を陶板に焼き付けて仕上げたそうだ。
このフォトマッピング手法は陶板美術館として知られる徳島県の大塚美術館と類似した方法だが、キトラ古墳におけるその精査精度は大塚美術館の何倍も細かい。 -
そして、その復元された陶板石室の中へと見学者は入ることができる。
石室は狭く小さいため、1回に入れるヒトの数はせいぜい3名。
私たちは朝一番に訪れたので、並ぶことなく石室内部を見学できた。
まず石室に入ると、正面(北壁)に見えてくるのが、亀と蛇が絡み合う姿で“玄武”と呼ばれる文様だ。
写真上が実際のキトラ古墳の亀、下が研究者により補足線が足された飛鳥時代当時の線刻画(推測全体画)となる。 -
キトラ古墳が作られた飛鳥時代、五行思想と呼ばれる自然哲学の考え方が中国で流行しており、キトラ古墳も当時の流行に乗り遅れることなく、その五行思想を石室内壁画に取り入れている。
五行思想では東西南北の各方位には色があり、その色を纏った聖獣神の四神が守護しているとされていた。
北壁に描かれた玄武も聖獣神の一つで、玄武が守るのは北方向だ。
写真では玄武のサイズ感はわかりにくいと思うが、その大きさは小さく、女性の掌の中に玄武がすっぽりと入ってしまうほどに小さい。
この玄武の姿は、蛇と亀が不老長寿の仙薬を奪い合い睨みあっている姿を表現していると言われ、すぐお隣の高松塚古墳や正倉院の宝物の一つである十二支八卦鏡などにも、そのデザインを見ることができる。
(写真:屋外に設置してある乾拓板。紙を置き、鉛筆でこすると四神の姿が浮かび上がる。
キトラ古墳へと行くときには、大きめの紙と芯の軟らかい鉛筆を忘れずに!) -
石室の西壁に描かれているのが白虎で、両足を大きく突き出した白い虎の姿だ。
白虎が守るのは西方向で、キトラ古墳の白虎像がユニークなのは、虎の頭の方向が北(玄武:亀)の方向を向いているという点だ。
高松塚古墳などからも白虎の壁画は見つかっているが、こちらは白虎が南(朱雀)方向を向いていて、当時の流行を考えると白虎の頭は高松塚方式の南を向くのがノーマルな描き方だったらしい。 -
イチオシ
石室の北面を守護する亀と、西面を守護する虎。
実はこの2匹の動物の絵が、キトラ古墳のキトラという名前の由来となったとする説がある。
キトラ古墳の存在は、江戸時代よりもずっと昔にキトラ古墳が盗掘され、その石室壁に穴が空けられた当初から、このあたりの畑を耕す村人達には、当たり前の存在だったらしい。
農民達は小高い丘の中腹にある不思議な石の小部屋の存在と、石の小部屋の中には亀と虎が描かれているのを知っていた。
だから、その昔の農民達はキトラ古墳のあるエリアを亀虎(キトラ)と呼んでいた。
長い年月が経過し、農民達の口承の中で亀と虎の漢字は失われ、キトラという音だけが残り、現代へと伝わったのがキトラという地名だそうだ。陶板・復元石室は見逃せない! by ウェンディさんキトラ古墳壁画体験館 四神の館 美術館・博物館
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石室の東壁を守護するのは青龍。
残念ながらキトラ古墳の青龍の姿は、石室内へと入り込んだ泥のせいでキトラ古墳発掘当時にはほぼ消えかけていて、絵として分かるのは赤く長い舌先部分のみで、現在は高松塚古墳に描かれている青龍の姿から、その全身像を想像するしかない。 -
石室の扉(南)を守護するのは朱(赤)の鳳凰である朱雀。
この朱雀の絵は、高松塚古墳では見ることができない。
朱雀は石室の入口を守る石扉に描かれていて、その石扉は盗掘者がまず最初に破壊する場所。
高松塚古墳の石扉はボロボロに粉砕され、朱雀の絵はすべて崩れてしまっていた。
キトラ古墳では盗掘者が意図せずに石扉の下部分を崩して侵入してくれたお陰で、朱雀の絵は翼が少し欠けるだけの被害で済んだ。 -
亀・虎・龍・鳳凰の四神の姿は非常に有名なので知っている方も多いと思うのだが、キトラ古墳で四神以上に価値があるのが、石室天井に描かれた日月像(にちがつぞう)と呼ばれる天文図。
この天文図も五行思想と同様に中国から輸入されてきた天帝思想の一部なのだが、本家本元の中国ではこの時代の天文図はひとつも残されておらず、世界中で現存するのはキトラ古墳のこの壁画だけだ。
天文図では朱色で内軌・天の赤道・外軌が同心円状に描かれ、黄道が中心を北西にずらした形で描かれている。
描かれている天文図は、現在を生きる私たちに一般的なギリシア神話に由来する星座の形とは異ってはいるが、北斗七星や天狼星(シリウス)、オリオン座の三つ星などは同じ配置に描かれていて、その観測精度は非常に高い。
(写真:資料館でわかりやすく拡大展示となった天文図) -
写真は実際の石室内の天文図で、一等星などの明るい星は金箔で表し、陰陽の原理に基づいて太陽と月が東西に描かれていて、墓に横たわる故人が夜空を見上げ、生きていた頃の郷愁に浸れるようになっていたらしい。
そしてこの天文図の描かれた天井の形もキトラ古墳では特徴的な形をしている。
通常、古墳の石室は角張った四角い天井(平天井)であることが多いのだが、キトラ古墳の天井はRがかかったアーチ型(ドーム型)。
これは、キトラ古墳の建築当時に中国から輸入されてくる古墳建築の流行を取り入れた為にドーム天井となったと言われているが、本家本元の中国では、このドーム型天井古墳の流行期間は非常に短かかったそうだ。 -
この1枚の写真は、天文図に関する蛇足の話。
キトラ古墳の天文図の星の配置、夏と冬の南北の星の位置からこの天文図の図案が最初に作られた年代と場所を計算すると、紀元前650年の中国の北緯34度付近(中国の長安)で作られたと計算される。
紀元前650年といえば日本はまだ縄文時代から弥生時代への過渡期で、竪穴式住居で生活していた時代。
その頃の中国には正確な星空の測量技術があったとは驚きで、二国間のその文化の差は甚だしい・・・。
と書くと、中国の人々に大喜びされそうだが、最近の研究の結果、紀元前650年の長安での計測結果に基づく天文図とは言い切れない。
その理由となるのが、キトラ古墳石室の天井形状であるドーム天井。
キトラ古墳の石室天井はドーム型のため、天文図のその全体バランスは壁画画家の感性でデフォルメされ、見栄え重視で描かれた可能性もある。
また、一部の研究家により、星位置の間違いも指摘されていて、この天文図の星暦から観測年代を導くのは間違っているという意見もある。
とはいうものの、間違えている星の位置を修正して図案のデザイン時期を再計算したとしても紀元前400年位となるらしいので、やはり当時の中国の長安での文化は素晴らしく発展していたといえるのだろう。 -
キトラのお話はまだまだ話し足りないが、もっと詳しく知りたい方は是非、現地へ足を運んでみて欲しい。
現地ボランティアの方に話をうかがえば、激レアでディープな物語を聞けるかもしれない。
キトラ古墳の最後の話は、キトラ古墳が誰の為に作られた墓なのか。
キトラ古墳が発見された時、その古墳の内部は荒らされ、杉材で作られた棺も、その中で眠っていた故人の骨もすべてが盗掘者により粉々に粉砕された状態で、石室の内部か見つかったのは成人男子の骨片と木屑だけだった。
それだけの条件から埋葬された人物を特定するのは難しいのだが、それでもかなり人物は絞り込まれてきている。
埋葬された候補者は3人
候補者1:天皇家のサラブレッド、天武天皇(大海人皇子)の息子で、斉明天皇の孫の高市皇子
候補者2:朝鮮・百済の正当な王位継承者である百済王昌成
候補者3:竹取物語にも登場する時の右大臣である安倍御主人(あべのみうし)
ここからは、私の勝手で、うっすら浅い根拠に基づいた消去法で被葬者を推測してみる。
まず最初に候補者から消えるのは、候補者2の百済王昌成。
当時、百済人は全体に大柄な人物が多く、奥行きが2.4mしかないキトラ石室内に置く杉の木棺には大柄な百済人の体は収まりきれなかっただろう(膝を曲げれば入るだろうけど)。 -
そして、次に消えるのが候補者3:右大臣であった安倍御主人。
安倍御主人は竹取物語(かぐや姫物語)の登場人物のモデルとなった実在の人で、物語の中ではかぐや姫に火鼠の皮衣を要求されたのだが、自分では探しに行かず、財力にものを言わせ大陸まで部下を買い付けに行かせ、結局、偽物をつかまされた人物だ。
本人の人物像が竹取物語そのものだとは思わないが、虚栄心が強く、自分では動かない人物だったのだろうと想像できる。
そういうヒトは、もっと大きな古墳を要求するだろう。
最後に残ったのが、候補者1の高市皇子。
彼は天武天皇の息子でありながらも、その王位継承権の順位は低く、天皇となれなかった人物だ。
天皇家の血を引くという意味では、最も候補者として上位ではないかと思うが、私の頭の中には、もう一人、別の妄想被葬・候補者がいる。
私の妄想候補者は、弓削皇子(ゆげのみこ)。
弓削皇子は天武天皇の息子で、学者肌の人物だったといわれ、万葉集にも八首が収録されている。
政治には積極的には首は突っ込まなかった弓削皇子だが、たった1回、とある会議で余計な一言を発言してしまい、その3年後に死去(他殺か自殺か自然死かは不明)している。
もし、彼の26歳での死が暗殺であった場合、弓削皇子の恨みの念は強くこの世に残ったことだろう。
キトラ古墳では、その棺も被葬者もバラバラの骨片になって発見されている。
もしも、もしも・・・
もしも、棺桶と埋葬されている人物を粉々に破壊したのが後世の盗掘者ではなく、彼の暗殺を命じた人物で、不意打ちにより殺された弓削皇子の怨霊による祟りを恐れ、皇子が怨霊として復活することがないように始めから全てを粉砕して墓を閉じたとしたならば・・・
キトラ古墳に埋葬されたのが弓削皇子ということもあり得るのではないのかな。
キトラ古墳や高松塚古墳から出土した遺体の一部をDNA鑑定したのかどうかは知らないが、多分、現在の技術力を考えれば、もう既に鑑定済みで更に詳しい埋葬候補者像が確定しかけているのではないかと思う。
しかし、それらが世間に公表されないのは、どうしてなのか?
日本の神々の血を継承するとされる一族に関する公表すべきではない何かが明らかになってしまうから・・・などと推測するのは裏読みのしすぎかな。 -
キトラ古墳で1時間近くを遊んだ私たちが次に向かったのは、高松塚古墳。
高松塚古墳とキトラ古墳の距離は直線距離で1kmほどだが、自転車の場合は小山を回り込むので、移動時間は10分弱。
高松塚古墳もキトラ古墳と同じ飛鳥時代の古墳だが、時代が20~30年ほど異なっていて、先に作られたのがキトラ古墳で、高松塚古墳は後の時代に作られた。
両古墳とも正確な年代までは明らかになってはいないが、高松塚古墳が藤原京時代の694年~710年、石室壁画に唐の文化の影響を受けていないキトラ古墳は遣唐使が帰京する前の704年以前に作られたのではないかと推測できる。
キトラ古墳と高松塚古墳の違いは、奥行きの深さで、キトラ古墳の石室の寸法は幅x奥行きx高さで1mx2.4mx1.2m、高松塚古墳では1mx2.7mx1.1mと採寸されていて高松塚では奥行きが少し深い(つまり、キトラよりも20cmくらい身長の高いヒトが埋葬されていた可能性を示す)。
キトラ古墳とは異なり、高松塚古墳では骨格の分かる人骨も見つかっていて、鑑定の結果、40歳~60歳の当時としてはかなり大柄な男性だと判明している。白紙と2Bの鉛筆を忘れずに by ウェンディさん国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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また、高松塚古墳の石室の内装にもキトラ古墳との違いがある。
亀・虎・龍・鳳凰の四神が描かれている点は二つの遺跡で同じだが、高松塚古墳の壁画はキトラに比べて豪華絢爛。
高松塚古墳では、飛鳥美人と言われる、頬がふっくらとした切れ長の目の女性達が大勢描かれ、埋葬された方は、死後もそんな生活を望んでいたらしい。
また、天井に描かれた天文図も異なり、高松塚の天文図は平面的に描かれ、ある意味、キトラよりも手抜き感があることは否めない。 -
古墳本体の違いではないが、高松塚とキトラ古墳では、発見後のその複製壁画の作り方にも違いがある。
キトラ古墳は前述したようにPCとカメラを駆使したフォトマッピング技術を用いて陶板複製を施したが、高松塚古墳の場合は、なんと手作業プロジェクト。
当時の第一線で活躍していた平山郁夫氏などの日本画家が復元プロジェクト・リーダーである前田青邨氏の鎌倉アトリエに集合し、高松塚古墳壁画の修復画の作成に取り組んだそうだ。
基本的には忠実に模写をしたそうだが、若干の復元的な描写も施されたと記録には残されている。
(写真:高松塚古墳の白虎/飛鳥駅前の高松塚橋にて) -
高松塚古墳の被葬者だが、その候補者は数が多くて未だ絞り切れていないそうだ。
しかし、飛鳥美人の絵が描かれていること、キトラよりも墳墓のサイズが大きいことから、キトラ古墳の被葬者よりは地位が上位で、更に身長が当時の日本男性にしてはかなり大柄である可能性が強く、天皇の系統以外にも、渡来人の王族の可能性も捨てきれない。
(写真:高松塚古墳の青龍/飛鳥駅前の高松塚橋にて)
参考情報:高松塚古墳壁画館の入場料:大人300円で、2020年度版のガイドブックの記載よりも値上がりしていた。 -
高松塚古墳の次に向かったのが、欽明天皇寮。
聖徳太子のおじいさんにあたる天皇のお墓だ。
欽明天皇の時代は、百済から仏教が初めて日本へと伝来してきた頃で、先ほどまで見学していたキトラや高松塚古墳よりも更に時代が遡った西暦500年代の頃なのだが、私たちがこの場所へと来た理由は、聖徳太子のお爺さんのお墓参りではない。
欽明天皇陵に隣接する宮内庁管理の吉備姫王墓に用があったのだ。
さらに、真の目的は吉備姫の王墓の敷地内に置かれている“猿石”と呼ばれる意図的に彫刻された群像達。不思議な古代の石像がある by ウェンディさん吉備姫王墓 名所・史跡
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猿石は、欽明天皇陵墓の近くの田畑から掘り出された石像。
どうして欽明天皇のお墓の近くで見つかったのか、いつの年代に彫られた石像なのかなど、未だその全てが謎に包まれているのが、猿石だ。
日本へ初めて渡ってきた渡来人をデザインした石像とする説もあるが、ソレを裏付ける証拠は見つかってはいない。 -
イチオシ
現在見つかっている猿石4体には名前がつけられていて、法師、男、女、山王権現と呼び分けられている。
この中でも山王権現(写真)の姿は特徴的で、その彫刻には男性に特徴的な器官が彫り込まれて、見るからに男性と分かる。 -
また、女(写真)と名付けられた猿石は笑っている口が耳まで裂け、まるでワニを擬人化したかのような顔。
猿石(女)の胸のあたりにはだらりと垂れ下がった左の乳房らしきモノがあることが分かるが、それをもって、女との名前がついたのだろうか。
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唯一、名前と石像の雰囲気が一致しているのは温和な表情の法師(写真)。
手を胸の前で組み、ニコニコと笑っている表情は、僧そのものだ。 -
そしてこれらの猿石は、私が明日香を訪れた目的の1つでもある。
写真は猿石の山王権現を先ほどの写真とは反対の角度から見たモノだが、かねてからこの山王権現の猿石があるモノに似ていると、私は思っていた。猿石 名所・史跡
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山王権現に似ているあるモノとはメキシコの片田舎にあるオルメカ文明で発見された石像(写真)で、Abuelita(スペイン語でおばあちゃんの意味)と名付けられている石像だ。
2016年にメキシコへと渡った私はこの石像:Abuelitaに会い、その石肌に触れてきた。 -
オルメカ文明は紀元前1200年頃始まり、紀元前200年頃に忽然と姿を消した文明で、文字を持たなかったオルメカ文明の詳細はメキシコでもほとんど解明されておらず、謎に包まれたまま。
Abuelita石像の製造理由も、その年代も大雑把に紀元前1000年頃としか分かっていない。
一方の日本の猿石は時代的には欽明天皇前後(6世紀:500年頃)だろうと推測されているので、メキシコと日本の2種類の石像の間には1500年ほどの時間の隔たりがある。
しかし、二つの石像の顔の作りには共通点が多い。
厚く腫れぼったい唇、団子状の鼻、そして頭に被る帽子の飾りなど・・・。
ヒトを模した石像なのだから、パーツが似ているのは当然だという意見は十分に承知しているが、地球の正反対にある年代の異なる二つの文化:オルメカ文明と飛鳥文化の共通点。
どこかにこの二つのエリアをつなぐミッシング・リングがないものかと、思ってしまう。
(写真:メキシコ、オルメカ遺跡のAbuelitaを正面から) -
今回、初めて飛鳥時代の猿石を自分の目で見たが、猿石について色々と調べた際に、現在見つかっている猿石の一部は裏表に二つの顔を有する二面石であると知った。
吉備姫王墓内に置かれた猿石は一方向のみしか見ることができないが、実は私たちから見えていない裏側にもう一つの顔がある。
この二面石の特徴はメキシコの石像にはなく、飛鳥の猿石に固有の特徴だ。 -
猿石をじっくりと観察していたら、あっという間に時刻はお昼近く。
この日のランチは石舞台遺跡でピクニック・ランチしよう♪と決めていたので、自転車を石舞台古墳に向けて走らせていたのだが、その途中で亀石に遭遇したので、自転車を降りて亀さんにご挨拶。
この巨大な亀の姿の亀石も、猿石同様に利用目的も時代も明らかになっていない石像で、おそらく飛鳥時代に彫られたのではないかと推測されている。亀石の隣の売店でランチを仕入れよう♪ by ウェンディさん亀石 名所・史跡
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亀石で自転車を降りたので、その隣にある農家の方が野菜などを直売する売店にふらりと立ち寄ったら、そのお店が大当たり。
小さな袋に入れられたプチトマトやフェイジョアの実、飛鳥みかんなどが100円均一で売られていて、その価格の安さと鮮度の良さに、即、ランチ用に購入。
更に店番のおばさんがいる店内には古代米で作った手作りおにぎりや草餅もあり、ついでにそれらもお買い上げ。
本日のランチは二人分で700円也。
女性との二人旅は、こんな買い物すら楽しい。 -
売店の棚には、初めて見る野菜“シカク豆”があった。
友人曰く、関西ではサラダとかに入れて普通に食べているという話だったが、多分、私はシカク豆がサラダに入っているのをまだ食べたことはない。
家が近いのだったら、珍しいシカク豆を買って帰るのだけどね。 -
そして、亀石絡みの写真で衝撃的なモノを1つ。
亀石の向かいの稲が刈り取られた田んぼに、バラバラ殺人事件が発生していた。
いくら明日香が古墳地帯で昔からこのあたり全体が墳墓だったとしても、さすがコレはないよね。
夜中に車のヘッドライトに照らし出されたコイツらを見つけたら、心臓が止まりそうになるくらい驚くに違いない。 -
石舞台に向かう途中で、橘寺の脇を通過。
橘寺は、敷地内の厩で穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのこうじょ)が産気づき、聖徳太子(厩戸皇子)を産んだ場所に建立されたお寺で、時間があれば立ち寄りたかったのだが、午前中にキトラ古墳や猿石で予定以上に楽しんでしまった為にタイムアウト。
その外観だけをチラ見して、先へと進む。橘寺 寺・神社・教会
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12時半にようやく本日のランチ場所の石舞台古墳へと到着し、先ほどの亀石の売店で買った地元のおばちゃんお手製のおにぎりと飛鳥野菜でお昼休憩。
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11月の連休の日曜日だというのに、石舞台古墳の芝生広場はそんなにヒトの数の多くなく、ゆったり・のんびりとした雰囲気だった。
京都の喧噪が嘘のような、穏やかな空気が流れていた。 -
お腹がくちたら、再び飛鳥のミステリー探検へ。
向かったのは石舞台古墳。
大きなモノで77トンにもなる石を組み合わせて作られた巨大な石室古墳だ。
その昔、この岩の上で女に化けた狐が舞を踊ったことから石舞台と名付けられてはいるが、その実は、歴史書の日本書紀に記載のある蘇我馬子の墓だと言われている。白紙と2Bの鉛筆を忘れずに by ウェンディさん国営飛鳥歴史公園 公園・植物園
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蘇我馬子と言えば、聖徳太子と推古天皇とタッグを組んで、日本への仏教浸透にその人生を費やした人物で、人望も力もあった馬子の存在無くしては、日本で最初の女帝であった推古天皇の36年の在位もなかったかもしれない。
それだけの人物であった馬子故に、その墓は巨大だ。
この日の午前中に訪れたキトラ古墳や高松塚古墳は、お棺を1つ入れてしまうだけで一杯一杯の大きさだったが、石舞台古墳の馬子の石室は、その高さだけでも倍以上あり、石室内の総空間で比べたらキトラの10倍以上の大きさとなるだろう。 -
石室の床には雨水を流すための溝が掘られ、石室内に収納された方の体が石室内に籠もった湿度で痛まなくするような工夫も施されていた。
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イチオシ
大きな墓であるのは時の豪族の長の墓なので納得なのだが、どうして馬子の墓はその石室が土で覆われていないのか。
キトラや高松塚古墳の石室は山の土の中から発見されているのに、何故に馬子の石室は土が無くなり、石がむき出しの状態となっていたのか。
その理由には諸説あるようだが、私は皇極天皇の息子の中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)の仕業だとする説を支持したい。
飛鳥時代の蘇我家は蘇我稲目→馬子→蝦夷→入鹿と4代にわたり天皇をサポートする大臣職を務めたのだが、入鹿が暗殺される事件:乙巳(いっし)の変で、蘇我家の家運は尽きた。
乙巳の変での首謀暗殺者が、中大兄皇子と中臣鎌足で、彼らは政治に深く食い込んだ蘇我一族を厭い、蘇我入鹿を殺した後も蘇我の一族郎党を殺し続け、死体を切り刻み、塩漬けにしたと言われている。
そんなことをするお二人なのだから、馬子の墓を暴き、土を取り除き、埋葬遺体を引きずり出すことだって躊躇無く行っただろう。
江戸時代に畑を開墾するために馬子の墳墓の土を使ったとする説もあるが、昔から墓だと言われている場所の土を畑に転用するお百姓さんは、いたのだろうか。
普通に考えるならば墓地の土を畑に使うだなんて、縁起が悪いと思うに違いない。
参考情報:石舞台古墳の入場料:大人300円で、2020年度版のガイドブックの記載よりも値上がりしていた。 -
蘇我馬子の墓の後も、蘇我氏に縁のある場所;飛鳥宮へと向かう。
飛鳥宮には皇極天皇(推古天皇の息子の奥様)時代に飛鳥板蓋宮という宮があり、その場所が、蘇我一族が滅ぶきっかけとなったクーデター:乙巳(いっし)の変が起きた場所だ。 -
蘇我一族は頭の切れる一族で、天皇の信頼も厚く、歴代の天皇のブレインとしても働いてきた一族だと称されている。
馬子、蝦夷の代までは彼らは天皇の手足となり働いていたのだが、入鹿の代へと変わるとその風向きが少し変わってきた。
世間には蘇我に反発する空気が漂い始め、聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を次期天皇に推す声が強まってきたのだ。
もし、この空気感が流れ出した頃、蘇我の一族を牛耳っていたのが蝦夷だったら事を丸く収めたのだろうが、大臣職はすでに息子の入鹿へと変わっていた。
頭は良かったが、未だ若く経験も未熟だった入鹿は、山背大兄王が謀反を起こすように仕向け、謀反に失敗した彼を自殺へと追いやった。
こうなってくると、世間は自殺した山背大兄王の味方となり、蘇我入鹿は、暗殺者である中大兄皇子と中臣の鎌足の手によって斬り殺されてしまった。虫ご飯(ムシゴハン)の始まりの場所 by ウェンディさん飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡
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今から1400年前、この場所:飛鳥板蓋宮で起きたクーデターである乙巳の変。
乙巳の変により政治の流れは大きく天皇サイドへと移り、中大兄皇子と中臣鎌足がその実権を握り、中大兄皇子の母の斉明天皇(皇極天皇と同一人物)と共に律令国家の礎を築いた。
蘇我入鹿が殺された乙巳の変は大化の改新の始まりの出来事とも言われ、小学校の社会科の教科書でも大化の改新は645年(ムシゴハン)として語呂合わせで覚えさせられるので、ムシゴハンの単語は覚えている方も多いと思う。
歴史に”仮に”とか”もしも”という仮定はあり得ないのだが、
もしも蘇我入鹿がもう少し思慮深い人物で、聖徳太子の息子をうまく陰で操れていたならば、蘇我の歴史は変わっていたのかもしれない。 -
明日香での最後の訪問の地は、飛鳥寺。
ここは蘇我馬子、推古天皇、聖徳太子が仏教伝来を推進するために日本で初めて建立した仏教寺院だ。
そして飛鳥寺には、先ほどまで私たちがいた飛鳥板蓋宮で暗殺された蘇我入鹿の首塚がある。 -
飛鳥板蓋宮の皇極天皇の御前で、天皇の息子(中大兄皇子)に切りつけられた入鹿。
入鹿は天皇の膝元までにじり寄り、何故自分がこのような場所で殺されなければならないのか。自分はどんな悪いことをしたのだ・・・と天皇に問うたそうだ。
蘇我入鹿を切りつけたのは、自分の息子の中大兄皇子。
皇極天皇は血を流す入鹿と血塗られた刀を持つ息子を交互に眺め、何も言わずに席を立ち、奥へと戻られてしまった。
つまり部下の入鹿ではなく血の繋がりのある息子を、天皇は選んだというわけだ。
多分、母の愛が勝ったのだろう。
天皇に見捨てられた入鹿はその場で首を刎ねられたのだが、その首は怨念をはらみ空へと舞い上がり、祖父の蘇我馬子が建立に尽力した飛鳥寺に落ちたと伝えられている。
その首が飛んできた場所が、飛鳥板蓋宮から500mほど離れた此処:蘇我入鹿の首塚だ。イルカの首がポンと跳んだ!? by ウェンディさん蘇我入鹿首塚 名所・史跡
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イチオシ
飛鳥寺の大仏、釈迦如来座像は日本最古の仏像。
建立された当時は仏像の全身を金箔が覆い、まばゆいばかりの輝きだったらしい。
飛鳥大仏の別名を持つこの仏像は飛鳥寺に最初にお座りになってから、その場所をまったく動いていなく、飛鳥時代からずっと、この場所に座り続けている。
1400年前の推古天皇、聖徳太子、そして孫が暗殺された蘇我馬子も私たちと同じ場所に座り、飛鳥大仏に祈ったそうだ。日本初の女性の天皇・推古天皇と同じ目線で・・・ by ウェンディさん安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会
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飛鳥大仏のお顔は右から見ると厳しい表情、左から見ると柔和な表情に見える。
立つ場所を変えて仏像のお顔を拝見すると、確かに左右のその表情には差がある。
名工の鞍作止利(くらつくりのとり)の手により生まれ出た飛鳥大仏。
私の勝手な推測だが、鞍作止利はわざと表情を左右で変えたのではないだろうか。
お寺に参拝した方が最初に目にするのは厳しめのお顔。
仏像の前に座り、お経を唱え、心拍数を落ち着けることにより、優しい柔和なお顔が感じられるようになれば、それはもう仏の御心。
祈れば救われる・・・ではないが、祈ることによりストレスが解消され、仏の穏やかな顔を拝見することにより心落ちつけば、祈ったヒトは霊験あらたか・・・とか感じるかもしれない。 -
イチオシ
友人と巡った飛鳥、斑鳩の里。
歴史を遡る形で、持統天皇の時代から聖徳太子のお爺さんの欽明天皇の時代までを歩き、その移ろいを感じてきた。
日本最古の歴史書である日本書紀は、時の権力者であった天武天皇によりその作製が開始されたと言われている。
日本書紀は歴史書なのである程度は史実に従って書かれているのだが、権力者に都合の悪い事実や出来事はカットしたり、中身を少しだけ都合の良い形に変えられてもいる。
しかし、現代に生きる私たちが日本の歴史の始まりを知ろうと思ったら、そのよりどころは文字として残された書物が頼り。
何が本当で、なにがねじ曲げられた真実なのか。 -
旅行記の最後に・・・
タイトルで使った言葉:“いんぐりもんぐり”について
“いんぐりもんぐり”の言葉は、この旅で私が初めて耳にした日本語で、飛鳥寺への道を教えていただいた明日香村のお爺さんの言葉です。
その意味は、くねくねと蛇のように曲がりくねった様子を表し、その活用形の一例は「この道を“いんぐりもんぐり“行ったら・・・」になります。
最近ではあまり使われない古語のようですが、斑鳩の古都と韻を踏んだ“いんぐりもんぐり”の言葉がとてもマッチしていて、気に入りました。
だから、タイトルにも使わせて貰い、その意味は「歴史を行ったり来たりしながら巡る飛鳥」的な雰囲気。
お気に入りの言葉です。
写真は今回の飛鳥旅で京都-飛鳥駅の往復に利用した近鉄の周遊切符“古代ロマン飛鳥日帰り切符”で、京都からの飛鳥エリアへの1日周遊価格は1960円。
特典として200円の金券が付属します。
金券は高松塚古墳などの施設入場券の支払いやバス料金に利用でき、1960円の価格は京都-飛鳥駅の往復の電車代と同金額なので、京都駅を起点とする旅ならば買って損はない切符。
飛鳥エリアを丸1日、あちこち動き回る旅人にはお勧めの切符です。
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この旅行記へのコメント (5)
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- mistralさん 2019/12/15 10:07:35
- ロマンあふれる地で。
- ウェンディさん
お久しぶりです。
飛鳥の旅行記、歴史書を読むような感覚で拝読しました。
実は私も昨年末からお正月にかけて奈良へ旅をした折に訪問しました。
事前の準備もなく、中学校レベルの知識どまりでの飛鳥訪問でしたので
表面をかすっただけで終わったような旅となりましたが、
古代史をもう少し勉強してから再訪したいと思いました。
飛鳥は、地元の方もおっしゃってましたが、京都を旅して
更に奈良へ、そこでも飽きたらなくなった人が辿り着くような地の
空気感が漂っている、とのこと。
時が流れ、史実として残っているものはあったとしても
こんな事が実は起こっていたのではないか、事実は闇に葬り去られた
のではないか、などなど、想像をたくましくしたくなる地ですね。
ウェンディさんの旅行記を拝読して、また行ってみたくなりました。
mistral
- ウェンディさん からの返信 2019/12/15 16:28:55
- RE: ロマンあふれる地で。
mistralさん こんにちは。
明日香(飛鳥)は、現代にありながらも1500年前の時の流れがそのまま感じられる不思議な土地。
もともとはキトラ古墳の発掘現場を自分で見たいとの思いから生まれた今回の旅企画でしたが、事前に飛鳥文化を勉強しなおしたことでキトラ以外にも、非常に興味深い旅になりました。
mistralさんがコメントくださったように「こんな事が実は起こっていたのではないか、事実は闇に葬り去られたのではないか・・・」という話はまだまだ飛鳥にはたくさんありそうです。
例えば今回の旅行記でほとんど触れなかった聖徳太子。
何でもできて、頭が良くって、何人もの話を一度に聞けて・・・と子供向けの本にある聖徳太子のイメージ像は、後の時代(天智天皇の統治時代)に創作された可能性があります。
聖徳太子=超天才的頭脳を持った皇子のイメージが最初に世に出たのは、天皇(蘇我入鹿を殺した中大兄皇子)が編纂を命じた歴史書の中のこと。
歴史書はあくまでも天智天皇の息がかかった文書であり、天智天皇の母である斉明天皇はまるで神がかり女(天智天皇は母のことが好きではなかった)的に記されていますし、蘇我一族に関しては功績はほとんど記さずに悪いことメインに残しています。
現在では、聖徳太子が行ったとされている功績のある事業の中には蘇我馬子・蝦夷が行ったモノも含まれていて、でも、天皇サイドとしては蘇我家の功績を認めたくないばかりに聖徳太子が行ったと敢えて記したとされる説もあるようです。
また、猿石や亀石についてもペルシア文明との繋がりも指摘されていて(松本清張さんの本より)、次に訪れたときにも。今回とはまた異なる視点で遺跡を見られるのではないかという気がしています。
時を超えて私たちを惹きつける何かを、飛鳥は持っているのですね。
ウェンディ
- mistralさん からの返信 2019/12/15 17:15:11
- RE: RE: ロマンあふれる地で。
- ウェンディさん
返信いただきありがとうございました。
> 聖徳太子=超天才的頭脳を持った皇子のイメージが最初に世に出たのは、天皇(蘇我入鹿を殺した中大兄皇子)が編纂を命じた歴史書の中のこと。
> 歴史書はあくまでも天智天皇の息がかかった文書であり、天智天皇の母である斉明天皇はまるで神がかり女(天智天皇は母のことが好きではなかった)的に記されていますし、蘇我一族に関しては功績はほとんど記さずに悪いことメインに残しています。
> 現在では、聖徳太子が行ったとされている功績のある事業の中には蘇我馬子・蝦夷が行ったモノも含まれていて、でも、天皇サイドとしては蘇我家の功績を認めたくないばかりに聖徳太子が行ったと敢えて記したとされる説もあるようです。
聖徳太子のスーパーヒーローぶりは、あまりにスーパー過ぎていて
ちょっと信じがたい部分もありますね。
> また、猿石や亀石についてもペルシア文明との繋がりも指摘されていて(松本清張さんの本より)、次に訪れたときにも。今回とはまた異なる視点で遺跡を見られるのではないかという気がしています。
他の方から寄せられたコメントで
「火の路」という本、私も興味を抱きました。
取り寄せて読んでみようかとおもっています。
色々な所に、またまた興味がわき起こり、再訪したくなる地は
増える一方です。
mistral
-
- マリオットさん 2019/11/28 07:41:22
- 懐かしい石群
- 初めまして、マリオットです。
飛鳥と石の写真を見て、松本清張の小説を読んだことを思い出しました。飛鳥にある石と斉明天皇を素材に、ゾロアスター教なども絡めた新設歴史推理の様な話でした。
読んだ後にこの辺りの酒船石、猿石、石舞台、鬼の雪隠など石巡りをしました。懐かしく思い出したのと、キトラ古墳は見学したことがなく行ってみたくなりました。
- ウェンディさん からの返信 2019/11/28 22:59:50
- Re: 懐かしい石群
- マリオットさん はじめまして
コメントをありがとうございます。
松本清張さんの小説、気になったから調べてみました。
1973年に出版された火の路(ひのみち)で、ドラマ化されてもいるのですね。
明日香の謎にゾロアスター教の聖地であるイランのヤズドが関わっているようで、私も興味がわいたので、読んでみたいと思います。
でも、きっと読んでしまったら、またすぐに明日香村へと旅をしたくなってしまうのかもしれません。
キトラ古墳の資料館は古墳や古代史の好きな方にはお勧めで、中にいるボランティアの説明員さんが博識で,質問をすれば色々と教えてくれます。
是非、明日香を再訪時には立ち寄ってみてくださいね。
ウェンディ
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