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“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” <br />オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。<br /><br />期間 : 2015年7月14日(火)〜7月28日(火)15日間の旅<br /><br />参考:2015年”黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”<br />http://4travel.jp/travelogue/11027937<br /><br />7月24日(金)   晴  26.5〜29℃  259km<br />Neckarwestheim ネッカーヴェストハイム =>L?(llsfeld)・A81・A3・B455・L? 251km Eppsteinエップシュタイン=>L?・B455・L? 8km  Kelkheim (Taunus)ケルクハイム・Schlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城<br /><br />*朝食はスズメ蜂(Wespeヴェスペ)に刺された為、ゆっくり起きた。<br />スズメ蜂に刺された場所や蜂の死骸を撮る。<br /><br />写真はWespeヴェスペ

黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅㉖スズメ蜂(Wespeヴェスペ)にタタラレタ!

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2015/07/14 - 2015/07/28

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jijidaruma

jijidarumaさん

“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” 
オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。

期間 : 2015年7月14日(火)〜7月28日(火)15日間の旅

参考:2015年”黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
http://4travel.jp/travelogue/11027937

7月24日(金)   晴  26.5〜29℃  259km
Neckarwestheim ネッカーヴェストハイム =>L?(llsfeld)・A81・A3・B455・L? 251km Eppsteinエップシュタイン=>L?・B455・L? 8km Kelkheim (Taunus)ケルクハイム・Schlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城

*朝食はスズメ蜂(Wespeヴェスペ)に刺された為、ゆっくり起きた。
スズメ蜂に刺された場所や蜂の死骸を撮る。

写真はWespeヴェスペ

旅行の満足度
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
レンタカー
航空会社
ルフトハンザドイツ航空 ANA
旅行の手配内容
個別手配

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  • 写真は古城ホテル リーベンシュタイン城

    写真は古城ホテル リーベンシュタイン城

  • この階の左の部屋には作家のシラーの名が、中央にドイツの詩人 Hoelderlinヘルダーリン、右に私共の部屋にはドイツの詩人ウーラントの名が見える。<br /><br />写真は古城ホテル リーベンシュタイン城内

    この階の左の部屋には作家のシラーの名が、中央にドイツの詩人 Hoelderlinヘルダーリン、右に私共の部屋にはドイツの詩人ウーラントの名が見える。

    写真は古城ホテル リーベンシュタイン城内

  • 遅い朝食でもう誰もホテル客はいない。<br /><br />最後のお客にも親切な小母さんの対応が嬉しい。<br /><br />写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間

    遅い朝食でもう誰もホテル客はいない。

    最後のお客にも親切な小母さんの対応が嬉しい。

    写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間

  • 写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間で親切な小母さんに撮ってもらった。

    写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間で親切な小母さんに撮ってもらった。

  • 写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間・・・いつものパターンで食べる。

    写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間・・・いつものパターンで食べる。

  • 写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間

    写真は古城ホテル リーベンシュタイン城:朝食の間

  • 昨夜はよく見てなかった古城のレストラン内部、テラス、ゴルフ場や周辺、特にSchlosskapelle礼拝堂(16世紀、ルネサンス様式)を見に行く。<br /><br />閉まっていたが、ガラス戸越しに中をのぞいた。顔が描かれた大理石風の円柱、かつての城主の墓碑などが見える。<br /><br />この古城ホテルも結婚式を手掛けているので、礼拝堂の使用はしばしばあるようで、きれいにしていた。<br /><br />写真は古城ホテル リーベンシュタイン城の螺旋階段で朝食の間から部屋に戻る。

    昨夜はよく見てなかった古城のレストラン内部、テラス、ゴルフ場や周辺、特にSchlosskapelle礼拝堂(16世紀、ルネサンス様式)を見に行く。

    閉まっていたが、ガラス戸越しに中をのぞいた。顔が描かれた大理石風の円柱、かつての城主の墓碑などが見える。

    この古城ホテルも結婚式を手掛けているので、礼拝堂の使用はしばしばあるようで、きれいにしていた。

    写真は古城ホテル リーベンシュタイン城の螺旋階段で朝食の間から部屋に戻る。

  • ≪新聞記事によると、この夏の暑さでドイツはスズメ蜂が猛威を振るったらしい。≫<br /><br />産経2015年9月3日の“ベルリン物語”というコラムで宮下日出男特派員が書いた記事を引用すると:<br /><br />今年の夏はドイツ人を悩ませた生き物がある。<br /><br />スズメバチだ。日本のよりずっと小さく、当地では“Wespeヴェスペ”と呼ばれる。専門家によると、冬が短く、春先から暖かい気候が続いたため大発生したのだ。<br /><br />ヴェスペは人間が刺激を与えなければ刺してくることはないという。だからドイツ人も普段は落ち着いたものだ。屋外カフェで食事中の皿に1〜2匹飛んできても慌てず、店のショーケース内の食品にとまっていても気にかけない。<br /><br />だが今年は多くの園児が遠足中に刺されたり、あまりのヴェスペの多さのため、パン屋が露店を一時閉めたりした。車の中から追い出そうとして事故が起きたケースもある。(後略)<br /><br />写真は産経2015年9月3日の“ベルリン物語”というコラム

    ≪新聞記事によると、この夏の暑さでドイツはスズメ蜂が猛威を振るったらしい。≫

    産経2015年9月3日の“ベルリン物語”というコラムで宮下日出男特派員が書いた記事を引用すると:

    今年の夏はドイツ人を悩ませた生き物がある。

    スズメバチだ。日本のよりずっと小さく、当地では“Wespeヴェスペ”と呼ばれる。専門家によると、冬が短く、春先から暖かい気候が続いたため大発生したのだ。

    ヴェスペは人間が刺激を与えなければ刺してくることはないという。だからドイツ人も普段は落ち着いたものだ。屋外カフェで食事中の皿に1〜2匹飛んできても慌てず、店のショーケース内の食品にとまっていても気にかけない。

    だが今年は多くの園児が遠足中に刺されたり、あまりのヴェスペの多さのため、パン屋が露店を一時閉めたりした。車の中から追い出そうとして事故が起きたケースもある。(後略)

    写真は産経2015年9月3日の“ベルリン物語”というコラム

  • スズメバチはハチの中でも比較的大型の種が多く、性質は凶暴かつ好戦的で積極的に刺してくることも多いことで知られる。<br /><br />スズメバチ類は強力な毒を持つものが多く、非常に危険な蜂である。他のハチと同様に、毒針、毒嚢、毒腺は生殖器が変化した物で、刺すのは雌だけである。<br /><br />毒針は鋸状の細かい刃が密生した2枚の尖針が刺針の外側を覆うという構造をしており、この尖針が交互に動くことにより、皮膚のコラーゲン繊維を切断しながら刺さっていく。<br /><br />ミツバチと違い一度刺しても自身が死ぬことはない。刺針の鋸状の刃は、ミツバチのような「返し」状の粗大なものでなく、皮膚のコラーゲン繊維に引っかかって抜けなくなることはないため、毒液が残っている限り何度でも刺してくる。<br /><br />また、毒液は刺して注入するだけでなく、空中から散布することもある。散布された毒液は警報フェロモンの働きをし、仲間を集めて興奮させるため、集団で襲ってくる。<br /><br />呼吸孔から顔へ毒液を飛ばす場合もある。目に入ると失明する他、皮膚に触れると炎症を起こす。<br /><br />特別な装備がなければ早急にその場から離れるのが望ましい。(Wiki)<br /><br />写真はオオスズメバチ

    スズメバチはハチの中でも比較的大型の種が多く、性質は凶暴かつ好戦的で積極的に刺してくることも多いことで知られる。

    スズメバチ類は強力な毒を持つものが多く、非常に危険な蜂である。他のハチと同様に、毒針、毒嚢、毒腺は生殖器が変化した物で、刺すのは雌だけである。

    毒針は鋸状の細かい刃が密生した2枚の尖針が刺針の外側を覆うという構造をしており、この尖針が交互に動くことにより、皮膚のコラーゲン繊維を切断しながら刺さっていく。

    ミツバチと違い一度刺しても自身が死ぬことはない。刺針の鋸状の刃は、ミツバチのような「返し」状の粗大なものでなく、皮膚のコラーゲン繊維に引っかかって抜けなくなることはないため、毒液が残っている限り何度でも刺してくる。

    また、毒液は刺して注入するだけでなく、空中から散布することもある。散布された毒液は警報フェロモンの働きをし、仲間を集めて興奮させるため、集団で襲ってくる。

    呼吸孔から顔へ毒液を飛ばす場合もある。目に入ると失明する他、皮膚に触れると炎症を起こす。

    特別な装備がなければ早急にその場から離れるのが望ましい。(Wiki)

    写真はオオスズメバチ

  • マルハナバチ(丸花蜂)はミツバチに似た種で、刺されると痛いが毒性は薄いと云われる。<br /><br /><br />写真はHummelnマルハナバチ(丸花蜂)

    マルハナバチ(丸花蜂)はミツバチに似た種で、刺されると痛いが毒性は薄いと云われる。


    写真はHummelnマルハナバチ(丸花蜂)

  • 何故、ドイツの装甲戦闘車両に蜂の名を付けたのかよく分からないが、こんなものがある。<br /><br /><ヴェスペ自走榴弾砲・II号ヴェスペ弾薬運搬車><br /><br />Wespeヴェスペ(独語のスズメバチの意味)は、第二次世界大戦中にドイツで開発されたドイツの装甲戦闘車両の自走砲・「II号戦車車台上の18/2型軽野戦榴弾砲」である。<br /><br />性能諸元:全長4.79 m、全幅2.24m、全高2.32m、重量11.48トン、主砲105mm軽榴弾砲(弾薬32発搭載)、副武装7.92mmマウザー・ヴェルケMG34機関銃(弾薬600発搭載)、走行時速40km、走行距離200km、エンジン140馬力、乗員5 名。<br /><br />ヴェスペは1943年の東部戦線で初めて実戦使用され、優れた兵器であることが証明された。<br /><br />写真はPanzerhaubitze_Wespeヴェスペ自走榴弾砲・II号ヴェスペ弾薬運搬車

    何故、ドイツの装甲戦闘車両に蜂の名を付けたのかよく分からないが、こんなものがある。

    <ヴェスペ自走榴弾砲・II号ヴェスペ弾薬運搬車>

    Wespeヴェスペ(独語のスズメバチの意味)は、第二次世界大戦中にドイツで開発されたドイツの装甲戦闘車両の自走砲・「II号戦車車台上の18/2型軽野戦榴弾砲」である。

    性能諸元:全長4.79 m、全幅2.24m、全高2.32m、重量11.48トン、主砲105mm軽榴弾砲(弾薬32発搭載)、副武装7.92mmマウザー・ヴェルケMG34機関銃(弾薬600発搭載)、走行時速40km、走行距離200km、エンジン140馬力、乗員5 名。

    ヴェスペは1943年の東部戦線で初めて実戦使用され、優れた兵器であることが証明された。

    写真はPanzerhaubitze_Wespeヴェスペ自走榴弾砲・II号ヴェスペ弾薬運搬車

  • 気をよくしたアドルフ・ヒトラーはII号戦車の生産全てをヴェスペに回すよう指示を出すほどだった。ヴェスペはより大型の自走榴弾砲であるフンメルと共に機甲師団内の装甲砲兵大隊で運用された。<br /><br />ヴェスペの改修ラインは1943年2月から1944年中頃まで、すなわちソ連軍(赤軍)が工場のあったポーランドを占領するまで稼働し続けた。<br /><br />合計で662門が製造され、それとは別に、武装を持たない弾薬運搬車158輌が製造された。(Wiki)<br /><br />写真は独・II号ヴェスペ弾薬運搬車

    気をよくしたアドルフ・ヒトラーはII号戦車の生産全てをヴェスペに回すよう指示を出すほどだった。ヴェスペはより大型の自走榴弾砲であるフンメルと共に機甲師団内の装甲砲兵大隊で運用された。

    ヴェスペの改修ラインは1943年2月から1944年中頃まで、すなわちソ連軍(赤軍)が工場のあったポーランドを占領するまで稼働し続けた。

    合計で662門が製造され、それとは別に、武装を持たない弾薬運搬車158輌が製造された。(Wiki)

    写真は独・II号ヴェスペ弾薬運搬車

  • <ドイツの装甲戦闘車両の自走砲Hummelnフンメル><br /><br />Hummelnフンメル(独語のマルハナバチの意味)は、全長7.17 mと大型の自走砲で 150mm榴弾砲を搭載している。<br /><br />主にドイツ国防軍により、1943年から終戦まで運用された。<br /><br />フンメルが最初に投入されたのは1943年7月のソ連南西部の“Kurskクルスクの戦い”で、100門近くが運用された。<br /><br />終戦までに714門のフンメルと、150輌の弾薬輸送車が製造された。(Wiki)<br /><br />写真は装甲戦闘車両の自走砲Hummelnフンメル(独語のマルハナバチの意味)

    <ドイツの装甲戦闘車両の自走砲Hummelnフンメル>

    Hummelnフンメル(独語のマルハナバチの意味)は、全長7.17 mと大型の自走砲で 150mm榴弾砲を搭載している。

    主にドイツ国防軍により、1943年から終戦まで運用された。

    フンメルが最初に投入されたのは1943年7月のソ連南西部の“Kurskクルスクの戦い”で、100門近くが運用された。

    終戦までに714門のフンメルと、150輌の弾薬輸送車が製造された。(Wiki)

    写真は装甲戦闘車両の自走砲Hummelnフンメル(独語のマルハナバチの意味)

  • 10:00古城ホテル リーベンシュタイン城を出発する。<br /><br />寝不足で頭も痛いと言う家内に、先が長い旅に不安を感じながらブドウ畑の裾野を再び通り、アウトバーンを目指した。<br /><br />村内で親切な小父さんに道を尋ねると“フランクフルトに行くなら、A81でハイルブロンからヴュルツブルクに抜け、A3でフランクフルトに向かう方が交通量も少なく、渋滞もないだろう。”と勧められた。<br /><br />それに従ったが、確かに地元の方の話は正しく、スムースに目的地に至った。<br /><br />トイレタイムをJagtstalヤグトスタルで取る(Euro1.4=195円)。<br /><br />写真はタウヌスのBurg_Eppstein 1646年に描かれたエップシュタイン城

    10:00古城ホテル リーベンシュタイン城を出発する。

    寝不足で頭も痛いと言う家内に、先が長い旅に不安を感じながらブドウ畑の裾野を再び通り、アウトバーンを目指した。

    村内で親切な小父さんに道を尋ねると“フランクフルトに行くなら、A81でハイルブロンからヴュルツブルクに抜け、A3でフランクフルトに向かう方が交通量も少なく、渋滞もないだろう。”と勧められた。

    それに従ったが、確かに地元の方の話は正しく、スムースに目的地に至った。

    トイレタイムをJagtstalヤグトスタルで取る(Euro1.4=195円)。

    写真はタウヌスのBurg_Eppstein 1646年に描かれたエップシュタイン城

  • もっとも昼食時間も過ぎ、Kelkheim (Taunus)ケルクハイムの隣町、目に入ったEppsteinエップシュタインという小さな町に城址があるらしいので、立ち寄ることにした。<br /><br />写真はエップシュタインの町と城址

    もっとも昼食時間も過ぎ、Kelkheim (Taunus)ケルクハイムの隣町、目に入ったEppsteinエップシュタインという小さな町に城址があるらしいので、立ち寄ることにした。

    写真はエップシュタインの町と城址

  • 写真はエップシュタインの町と城址

    写真はエップシュタインの町と城址

  • もうこの頃にはスズメ蜂の毒を解毒・代謝する必要上、家内のお腹が下り始めていたのだ。<br /><br />その為、昼食時もトイレタイムを十分にとり、小さな旧市街をちょっぴり歩いた程度で、ケルクハイムに向かった。<br /><br />写真はエップシュタインの町と城址、昼食をとったイタリア料理のレストラン・Castellanカステラン

    もうこの頃にはスズメ蜂の毒を解毒・代謝する必要上、家内のお腹が下り始めていたのだ。

    その為、昼食時もトイレタイムを十分にとり、小さな旧市街をちょっぴり歩いた程度で、ケルクハイムに向かった。

    写真はエップシュタインの町と城址、昼食をとったイタリア料理のレストラン・Castellanカステラン

  • <昼食:エップシュタイン・イタリアレストランCastellanカステランで><br /><br />D-65817 Eppstein 、Burgstrasse 34<br />13:45〜14:40  Euro26.5+チップ1.5=28(3,898円)<br /><br />城址の手前にあったテラスレストランで食べた。<br />San Pellegrinoサン ペレグリーノの水Euro2.2、<br />私はノンアルコールのビールEuro3.8、<br /><br />写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストランで

    <昼食:エップシュタイン・イタリアレストランCastellanカステランで>

    D-65817 Eppstein 、Burgstrasse 34
    13:45〜14:40  Euro26.5+チップ1.5=28(3,898円)

    城址の手前にあったテラスレストランで食べた。
    San Pellegrinoサン ペレグリーノの水Euro2.2、
    私はノンアルコールのビールEuro3.8、

    写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストランで

  • リゾットEuro12。家内はオレンジのジュースにトマトのスープEuro8.5と、お腹対策用のオーダーにした。<br /><br />写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストラン・美味しいリゾット

    リゾットEuro12。家内はオレンジのジュースにトマトのスープEuro8.5と、お腹対策用のオーダーにした。

    写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストラン・美味しいリゾット

  • 写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストラン・トマトのスープ

    写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストラン・トマトのスープ

  • ここでもスズメ蜂がオレンジのジュースの匂いに寄ってきた。<br /><br />刺されないように気を付けながら、食事していると、ジュースの中に入り込んだ1匹が溺れて死んだ。<br /><br />そのままジュースを飲まずに囮にすると、合計5匹が同様となった。<br />何やら昨夜の敵討ちか?<br /><br />レストランの娘は“ジュースとスズメ蜂の姿”にびっくりしていたが、気の毒がってジュース代金を無料にしてくれた。<br /><br />写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストラン・オレンジのジュース

    ここでもスズメ蜂がオレンジのジュースの匂いに寄ってきた。

    刺されないように気を付けながら、食事していると、ジュースの中に入り込んだ1匹が溺れて死んだ。

    そのままジュースを飲まずに囮にすると、合計5匹が同様となった。
    何やら昨夜の敵討ちか?

    レストランの娘は“ジュースとスズメ蜂の姿”にびっくりしていたが、気の毒がってジュース代金を無料にしてくれた。

    写真はエップシュタイン:イタリア料理のレストラン・オレンジのジュース

  • 写真はエップシュタイン・城址と木組みの家

    写真はエップシュタイン・城址と木組みの家

  • 写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址とTalkirche谷の教会

    写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址とTalkirche谷の教会

  • <Eppsteinエップシュタインとエップシュタイン城址> : ⑲<br />13:35~15:00<br />http://www.eppstein.de/<br /><br />EppsteinエップシュタインはKelkheim (Taunus)ケルクハイムの隣町で、人口13千人、フランクフルト空港まで20kmで、フランクフルトの通勤圏になる。<br /><br /><br />写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址・・・上がって街の景観を望むのも悪くなかったが、家内の体調もあり諦めた。

    <Eppsteinエップシュタインとエップシュタイン城址> : ⑲
    13:35~15:00
    http://www.eppstein.de/

    EppsteinエップシュタインはKelkheim (Taunus)ケルクハイムの隣町で、人口13千人、フランクフルト空港まで20kmで、フランクフルトの通勤圏になる。


    写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址・・・上がって街の景観を望むのも悪くなかったが、家内の体調もあり諦めた。

  • エップシュタインの見どころは:<br /><br />第一にエップシュタイン城址、夏にはBurgfestspieleブルクフェルトシュピール(城址祝祭演劇祭)が開催される。<br /><br />麓の旧市街には15〜19世紀の美しい木組みの家が立っている。先ほどのイタリアレストランCastellanカステランもその一つである。<br />Talkirche Eppsteinタールキルヒェ(谷の教会)が城址の麓にある。<br /><br />写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址

    エップシュタインの見どころは:

    第一にエップシュタイン城址、夏にはBurgfestspieleブルクフェルトシュピール(城址祝祭演劇祭)が開催される。

    麓の旧市街には15〜19世紀の美しい木組みの家が立っている。先ほどのイタリアレストランCastellanカステランもその一つである。
    Talkirche Eppsteinタールキルヒェ(谷の教会)が城址の麓にある。

    写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址

  • <エップシュタイン城址の歴史><br /><br />10世紀の頃、既に砦のようなものが高さ200mの岩壁上に造られていた。<br />エップシュタイン城に関する最初の文献上の記録が書かれたのは1122年である。<br />この年、神聖ローマ帝国の国境線を守るものとして築城された。<br /><br />13世紀になり、Herren von Eppsteinエップシュタインの騎士が居城とし、城郭を強固なものにした。<br /><br />1492年にエップシュタイン城の半分がLandgrafschaft Hessenヘッセン方伯に売却された。1535年にエップシュタイン家の家系が断絶し、残り半分はGrafen zu Stolbergシュトールベルク伯家に、1581年にはKurmainzマインツ選帝侯領となった。<br /><br />2つの異なる領邦に分裂した城郭のまま1803年まで数世紀の間続いた。<br />この年、Herzogtum Nassauナッサウ公国に、その後 1869年からはOtto Graf zu Stolberg-Wernigerodeオットー・シュトールベルク・ヴェルニゲローデ伯(ドイツ帝国時代の政治家、ビスマルク帝国宰相政権下の副宰相)が所有した。<br /><br />1929年、オットー伯の息子は城址を町に贈与した。<br />第二次世界大戦後、1968年以来、町に依って改修され、現在のような城址の姿を留めている。<br /><br />写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址と町の俯瞰

    <エップシュタイン城址の歴史>

    10世紀の頃、既に砦のようなものが高さ200mの岩壁上に造られていた。
    エップシュタイン城に関する最初の文献上の記録が書かれたのは1122年である。
    この年、神聖ローマ帝国の国境線を守るものとして築城された。

    13世紀になり、Herren von Eppsteinエップシュタインの騎士が居城とし、城郭を強固なものにした。

    1492年にエップシュタイン城の半分がLandgrafschaft Hessenヘッセン方伯に売却された。1535年にエップシュタイン家の家系が断絶し、残り半分はGrafen zu Stolbergシュトールベルク伯家に、1581年にはKurmainzマインツ選帝侯領となった。

    2つの異なる領邦に分裂した城郭のまま1803年まで数世紀の間続いた。
    この年、Herzogtum Nassauナッサウ公国に、その後 1869年からはOtto Graf zu Stolberg-Wernigerodeオットー・シュトールベルク・ヴェルニゲローデ伯(ドイツ帝国時代の政治家、ビスマルク帝国宰相政権下の副宰相)が所有した。

    1929年、オットー伯の息子は城址を町に贈与した。
    第二次世界大戦後、1968年以来、町に依って改修され、現在のような城址の姿を留めている。

    写真はBurg_Eppsteinエップシュタイン城址と町の俯瞰

  • 写真はEppsteinエップシュタインのクリスマス時期・城址と木組みの家

    写真はEppsteinエップシュタインのクリスマス時期・城址と木組みの家

  • 15:00エップシュタインを出て、ケルクハイムの町に入る。<br /><br />ここで4回目の給油。<br />Aral Kelkheim Euro44.6(6,178円)、34.6L、@1.289<br /><br />給油所でホテルの所在地を聞くと、“簡単だよ!この道を戻って左に行くと、案内が出て来るさ!”と言われた。<br /><br />写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城

    15:00エップシュタインを出て、ケルクハイムの町に入る。

    ここで4回目の給油。
    Aral Kelkheim Euro44.6(6,178円)、34.6L、@1.289

    給油所でホテルの所在地を聞くと、“簡単だよ!この道を戻って左に行くと、案内が出て来るさ!”と言われた。

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城

  • Kelkheim (Taunus)ケルクハイム(タウヌス):<br />http://www.kelkheim.de/<br />人口28千人。フランクフルト・アム・マインの北西に隣接する。フランクフルト(10 km 南東)以外の近隣の重要な都市としては、ヴィースバーデン(約 25 km)やマインツ(約 30 km)がある。ケルクハイムは「家具の街」として知られている。<br /><br />Retterswaldレッタースの森に入り、少し行くと視界が広がって、大きな広い牧場に出た。<br /><br />“ケルクハイム(タウヌス)の宝石”と呼ばれるRettershofレッタースホーフという場所に着いたようだ。<br />“Retterは救い主”の意味があるが、元々、この地の古き時代に修道院があった。<br /><br /><br />写真はRetterswaldレッタースの森:Schlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城の案内板

    Kelkheim (Taunus)ケルクハイム(タウヌス):
    http://www.kelkheim.de/
    人口28千人。フランクフルト・アム・マインの北西に隣接する。フランクフルト(10 km 南東)以外の近隣の重要な都市としては、ヴィースバーデン(約 25 km)やマインツ(約 30 km)がある。ケルクハイムは「家具の街」として知られている。

    Retterswaldレッタースの森に入り、少し行くと視界が広がって、大きな広い牧場に出た。

    “ケルクハイム(タウヌス)の宝石”と呼ばれるRettershofレッタースホーフという場所に着いたようだ。
    “Retterは救い主”の意味があるが、元々、この地の古き時代に修道院があった。


    写真はRetterswaldレッタースの森:Schlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城の案内板

  • レッタースホーフはケルクハイム(タウヌス)の一地区Fischbachフィシュバッハの北東に位置する。<br /><br />かつてのベネディクト派修道院で、12世紀から1559年まで女子修道院として活動した。その後は所有者がしばしば変わり、御料地として使用されていた。<br /><br />現在、人気のある行楽地になっている。(後述の歴史参照)<br /><br />写真はRetterswaldレッタースの森:レッタースホーフの牧場

    レッタースホーフはケルクハイム(タウヌス)の一地区Fischbachフィシュバッハの北東に位置する。

    かつてのベネディクト派修道院で、12世紀から1559年まで女子修道院として活動した。その後は所有者がしばしば変わり、御料地として使用されていた。

    現在、人気のある行楽地になっている。(後述の歴史参照)

    写真はRetterswaldレッタースの森:レッタースホーフの牧場

  • 写真はRetterswaldレッタースの森:レッタースホーフの周辺の景観

    写真はRetterswaldレッタースの森:レッタースホーフの周辺の景観

  • 写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城・駐車場

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城・駐車場

  • ホテルはやや高台にあり、レッタースホーフから登っていくと、意外と新しい様子のホテルが出てきた。<br /><br />荷物を降ろし、車は入ってきた道の左にあった駐車場に停めた(15:25)。<br /><br />写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:玄関先のロータリー

    ホテルはやや高台にあり、レッタースホーフから登っていくと、意外と新しい様子のホテルが出てきた。

    荷物を降ろし、車は入ってきた道の左にあった駐車場に停めた(15:25)。

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:玄関先のロータリー

  • 写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテル棟への廊下

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテル棟への廊下

  • ≪⑪⑫7月24日(金)、25日(土)(2泊)<br />Schlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城≫<br /><br />この旅、20番目の城になる。<br /><br />D-65779 Kelkheim 、Rettershof 5 <br />Tel:+49(0)6174 - 290 90 、 Fax:- 25 35 2<br />http://www.schlosshotel-rettershof.de/cms/<br /><br />4星・全35室。No.110はホテルの入口から右手に延びるモダンな建物の一番手前の部屋でした。<br />地上階だが、外から見ると空堀の上に立っているようなので2階にも見える。<br /><br />Euro158x2=316+(朝食12.5x4=50)=366(50,705円)。<br />水2本、浴用ガウン。スリッパあり。<br /><br />2013年にホテル全室を改装したそうで、バルコニー付きの部屋は立派で広く、浴室も広い、バルコニーの向こうはRetterswaldレッタースの森、全体に設備も十分なもので満足だったが、Romatik Hotel に加盟したばかりのホテルにしてはレセプションの応対は少々悪かった。<br /><br />写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋

    ≪⑪⑫7月24日(金)、25日(土)(2泊)
    Schlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城≫

    この旅、20番目の城になる。

    D-65779 Kelkheim 、Rettershof 5
    Tel:+49(0)6174 - 290 90 、 Fax:- 25 35 2
    http://www.schlosshotel-rettershof.de/cms/

    4星・全35室。No.110はホテルの入口から右手に延びるモダンな建物の一番手前の部屋でした。
    地上階だが、外から見ると空堀の上に立っているようなので2階にも見える。

    Euro158x2=316+(朝食12.5x4=50)=366(50,705円)。
    水2本、浴用ガウン。スリッパあり。

    2013年にホテル全室を改装したそうで、バルコニー付きの部屋は立派で広く、浴室も広い、バルコニーの向こうはRetterswaldレッタースの森、全体に設備も十分なもので満足だったが、Romatik Hotel に加盟したばかりのホテルにしてはレセプションの応対は少々悪かった。

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋

  • レッタースホーフ城はフランクフルト空港より西へ25kmの距離にあるKelkheimケルクハイムとKoenigsteinケーニッヒシュタインの間に位置している。<br /><br />タウヌス丘陵(自然公園)のレッタースの森、静かで緑豊かな牧歌的な地域に立つ古城ホテルは12世紀の修道院の敷地内に1885年に建設されたものである。<br />2014年10月よりRomantik Hotelに加盟した。<br /><br />グルメレストランRetter&#39;sはSchlemmer Atlas 12点、ドイツランク2217位。<br />暖炉があるラウンジや広々としたテラス、それにサウナ、ボウリングレーン、テニスコートなどのレジャー施設も備えている。<br /><br />写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋

    レッタースホーフ城はフランクフルト空港より西へ25kmの距離にあるKelkheimケルクハイムとKoenigsteinケーニッヒシュタインの間に位置している。

    タウヌス丘陵(自然公園)のレッタースの森、静かで緑豊かな牧歌的な地域に立つ古城ホテルは12世紀の修道院の敷地内に1885年に建設されたものである。
    2014年10月よりRomantik Hotelに加盟した。

    グルメレストランRetter'sはSchlemmer Atlas 12点、ドイツランク2217位。
    暖炉があるラウンジや広々としたテラス、それにサウナ、ボウリングレーン、テニスコートなどのレジャー施設も備えている。

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋

  • 夕食:レッタースホーフ城・グルメレストランRetter&#39;sレッタースの予約取り消し<br /><br />予定ではここで夕食だったが、家内の体調が悪く、頭痛、腹痛、熱も出て、食欲無し、結局、予約を取り消した。<br /><br />リーベンシュタイン城で頂いたリンゴ1個や日本から持参の煎餅などで私は空腹を満たした。<br /><br />家内の下痢は予想以上にひどく、到着時から一晩中、トイレとベッドを落ち着かない感じで行き来する。<br /><br />その間、私はたまった旅の資料を分類・整理、不要分の破棄に精を出した。<br /><br />夜半、風も強まり、猛烈な雨が降った。<br /><br />行程の後半で体調を崩した家内がここでは2泊できたので、休養できた。<br /><br />写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋のベランダ

    夕食:レッタースホーフ城・グルメレストランRetter'sレッタースの予約取り消し

    予定ではここで夕食だったが、家内の体調が悪く、頭痛、腹痛、熱も出て、食欲無し、結局、予約を取り消した。

    リーベンシュタイン城で頂いたリンゴ1個や日本から持参の煎餅などで私は空腹を満たした。

    家内の下痢は予想以上にひどく、到着時から一晩中、トイレとベッドを落ち着かない感じで行き来する。

    その間、私はたまった旅の資料を分類・整理、不要分の破棄に精を出した。

    夜半、風も強まり、猛烈な雨が降った。

    行程の後半で体調を崩した家内がここでは2泊できたので、休養できた。

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋のベランダ

  • 写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋の浴室

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:ホテルの部屋の浴室

  • <レッタース修道院とレッタース城の歴史><br /><br />1146年、Graf Gerhard von Nueringゲルハルト・ニューリング伯がタウヌスの森の中にベネディクト派のKloster Retters im Taunusレッタース修道院を建てた。 <br />1190〜1360年がKloster修道院の全盛期であったと云う。<br /><br />1559〜1581年、Graf von Stolberg-Koenigsteinシュトルベルグ・ケーニヒスシュタイ伯が、修道院からHofgutホーフグート居城に変えた。 <br />以降16世紀から19世紀の間、城主が変遷する。<br />1581〜1803年、Kurfuerst zu Mainzマインツ選帝侯<br />1806〜1866 年、Herzoeg von Nassauナッソー公爵<br />1866〜1884年、Koenig von Preussenプロイセン王<br />1884〜1885年、独英の貴族 Adelige Frederik Arnold Rodewald zu Feldheimフレデリック・アーノルド・ローデバルト・フェルトハイムが娘のAlice von Dieskauアリス・ディースカウが居住する城館として購入し、Tudorstilテューダー様式の小城に改築した。<br /><br />写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:本館

    <レッタース修道院とレッタース城の歴史>

    1146年、Graf Gerhard von Nueringゲルハルト・ニューリング伯がタウヌスの森の中にベネディクト派のKloster Retters im Taunusレッタース修道院を建てた。 
    1190〜1360年がKloster修道院の全盛期であったと云う。

    1559〜1581年、Graf von Stolberg-Koenigsteinシュトルベルグ・ケーニヒスシュタイ伯が、修道院からHofgutホーフグート居城に変えた。
    以降16世紀から19世紀の間、城主が変遷する。
    1581〜1803年、Kurfuerst zu Mainzマインツ選帝侯
    1806〜1866 年、Herzoeg von Nassauナッソー公爵
    1866〜1884年、Koenig von Preussenプロイセン王
    1884〜1885年、独英の貴族 Adelige Frederik Arnold Rodewald zu Feldheimフレデリック・アーノルド・ローデバルト・フェルトハイムが娘のAlice von Dieskauアリス・ディースカウが居住する城館として購入し、Tudorstilテューダー様式の小城に改築した。

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:本館

  • 1885〜1903 年、アリス・ディースカウの所有となる。<br />1903〜1924 年、ヘッセン王女Sybilleシビレと夫Friedrich Freiherr von Vinckeフリードリヒ・ヴィンケ男爵が所有。<br />1924〜1979年、Felix von Richter-Rettershofフェリックス・リヒター・レッタースホーフと妻Graefin Hertha von Rotkirchヘルタ・ロートキルヒ伯妃が長く所有した。<br /><br />1945〜1953年、米軍に依り接収。<br />1980 年、ケルクハイムの町が所有。<br />1984〜1985年、城館の改装を行い、英国テューダー風の装いになった館にはグルメレストランや美しい庭園を備えている。<br /><br />2012年、Daniela SchwarzダニエラシュバルツとHans-Juergen Laumeisterハンス・ユルゲン・ラウマイスターが所有し、ホテル・レストラン経営を行う。 <br />2013年、更に会議用施設、ホテルの全室に改装を加えた。<br /><br />写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:本館

    1885〜1903 年、アリス・ディースカウの所有となる。
    1903〜1924 年、ヘッセン王女Sybilleシビレと夫Friedrich Freiherr von Vinckeフリードリヒ・ヴィンケ男爵が所有。
    1924〜1979年、Felix von Richter-Rettershofフェリックス・リヒター・レッタースホーフと妻Graefin Hertha von Rotkirchヘルタ・ロートキルヒ伯妃が長く所有した。

    1945〜1953年、米軍に依り接収。
    1980 年、ケルクハイムの町が所有。
    1984〜1985年、城館の改装を行い、英国テューダー風の装いになった館にはグルメレストランや美しい庭園を備えている。

    2012年、Daniela SchwarzダニエラシュバルツとHans-Juergen Laumeisterハンス・ユルゲン・ラウマイスターが所有し、ホテル・レストラン経営を行う。
    2013年、更に会議用施設、ホテルの全室に改装を加えた。

    写真はSchlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城:本館

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この旅行記へのコメント (4)

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  • frau.himmelさん 2016/03/05 22:18:08
    奥さま、大変でしたね。
    jijidarumaさん、こんばんは。

    スズメバチに刺されたって・・・、奥様大変でしたね。
    日本でもスズメバチに刺されるとニュースになるくらいですから、いかばかりかとご案じ申し上げます。
    ホテルが2泊でよかったですね。
    ともかく、体を休めることができますもの。

    旅行記はシュヴァルツヴァルトを過ぎて、いよいよタウナスですね。
    地図を広げながら拝見していますが、フランクフルトのちょっと広域の地図でも地名が確認できるようになりました。
    お名前が挙がっていますケルクハイムやケーニヒシュタイン、エップシュタインなど近郊電車Sバーンで駅名も出てまいりますから、ようやく車なしで私でも行くことができる場所に近づかれました。

    私も今回フランクフルトからほど近いタウナスに行きましたが、ここにはjijidarumaさんはいらっしたのかしら。
    今は内緒にしておきまして、これからの旅行記を楽しみにしています。
    と言いましても、有名な場所ですからすぐお分かりになりますね。

    himmel

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2016/03/06 00:21:42
    RE: 奥さま、大変でしたね。
    himmelさん

    こんばんは。いつもありがとうございます。

    スズメバチの経緯はmerumoさんとのやり取りに書いた通りで、
    医者にもかからずに、何とか自力で回復に努めました。

    家内本人は毒を出してしまえば、後は自然に戻るといった
    B型人間特有!のオタオタしないおおらかさ?でした。
    見守る私は落ち着いていたわけではありませんけど・・・。

    ともあれ、リーベンシュタイン城からケルクハイムまで260km、
    更に2泊後のEssen-Kettwigエッセン・ケットヴィッヒ ・Hotel Schloss Hugenpoet 古城ホテル フーゲンポエト城までの230kmは
    アウトバーンの走行なので、自由に停まれないので、大いに不安でした。

    そんなわけで、フランクフルトの北西、Taunusタウヌスと呼ばれる丘陵地帯は再訪したいものです。

    himmelさんの次の町、楽しみに掲載をお待ちします。
    ありがとうございました。

    jijidaruma

  • merumoさん 2016/03/05 08:34:21
    スズメバチは怖いんですね
    jijidarumaさん
    こんにちわ。やっとタウナスに入ったと思ったらスズメバチに刺されたとか
    その後奥様大丈夫ですか?

    旅行記にタウナスが入っていたので楽しみにしていました。
    妹が住んでいたのは(今もそこに眠っています)タウナスです。
    と言っても今回初めて知りましたが同じタウナスと言っても広いんですね。
    ケルクハイムは知りませんでした。
    妹がいたのはクロンベルグの方でしたから。
    義弟は今はオーバーウルゼルの方に引っ越しました。


    これからも旅行記楽しみにしています。今年もドイツですか?

      merumo

     

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2016/03/05 15:03:57
    スズメバチは怖いんですね
    merumoさん

    こんにちは、いつもご投票いただきありがとうございます。
    コメントもありがとうございます。

    家内は日本で2度、庭木の手入れをしていて、山茶花に巣を作っていたスズメバチにやられました。
    年をおいて、それも同じ場所に巣を作っていたのでした。2度目には駆除業者に蜂の嫌がる薬をまいてもらい、以来そこには蜂も来ません。
    学習していなかった家内も、あれ!と思いますが、当時の顔が膨れ上がった写真を見ると、実に凄いです。
    ですから今回は3度目、ドイツでは初めてでしたが、普通あり得ないことで、どうなる事やらと思いましたが、常備していたものが良かったのでしょう。
    下痢の回復も最低1週間はかかると本人も言っていましたが、その通りで日本に戻ると、体調も万全になりました。2kgほど体重が落ちたと・・・。
    ともあれ、スズメバチの活発な、初夏から夏の季節はもう行けないですね。

    スズメバチに刺されたのはネッカーヴェストハイム (Neckarwestheim)・・バーデン・ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡にあるちいさな村(3500人の人口)にある古城ホテル リーベンシュタイン城で刺されたのです。

    そこら260km離れたタウヌスまで、この日は移動したのです。
    実は何事もなければ、この日はクロンベルクでお茶をして、バート・ホンブルクを観光しようかと予定に組んでいました。
    このあたりは昔も近年も周遊していますから、土地勘はあったのですが、ケルクハイムは初めてでした。
    タウヌスはフランクフルトの奥座敷的な場所ながら、緑濃い、好ましい町が多くて良いですね。
    亡くなられた妹さんご夫婦がクロンベルクに住み、今も義弟の方がオーバーウルゼルに住んでいるのも納得です。

    今年もドイツですが、家内の歯のインプラント手術が予定されていて、日程が決められないのです。秋口にフランケン地方のワイン街道、古城や古城ホテル巡りもどうだろうかと、思案中です。
    merumoさんの行かれたフロイデンベルグは一度も足を延ばしていませんので、ここは行程に入れたいなと考えていますよ。

    2015年の旅は後半、バタバタと終了に向かいます。
    またお立ち寄りください。
    ありがとうございました。

    jijidaruma

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