2015/07/14 - 2015/07/28
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jijidarumaさん
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“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。
期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅
参考:2015年”黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
http://4travel.jp/travelogue/11027937
<ライン川を越えて、フランス・シュトラースブルク観光へ>
第五日:7月18日(土) 晴 25.5℃~31℃ 69km
Oberkirchオーベルキルヒ =>B28 (Appenweierアッペンバイヤー)・E52 39km フランス・Strassburgシュトラースブルク=>E52(Appenweierアッペンバイヤー)・B28 30km Oberkirchオーバーキルヒ・Romatik Hotel Zur Oberen Lindeロマンチックホテル オーベレ・リンデ
写真はアルザスの伝統家屋が密集したPetite_Franceプチット・フランス地区
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
*起床6:00。朝食(8:00〜8:40)は少しゆっくりと昨夜と同じテラスで摂った。
朝方は曇り空、昨夜の大雨のせいで少し過ごし易い空気だが、それでも25.5℃になっていた。いつもの庭園散歩(〜8:50)をして、9時15分にホテルを出発した。
写真はテラスで朝食。 -
写真は庭園から見たロマンチックホテル オーベレ・リンデのテラスレストラン
-
写真はロマンチックホテル オーベレ・リンデの部屋のベランダで
-
今日はライン川を越えて、フランス・シュトラースブルクに向かう。
昨日の大雨の名残があり、B28の道路は少々濡れたままだ。土曜日の為か、車もまだ少なく、予想より早く、シュトラースブルクの町に入った。
写真はアルザス地方の地図 -
≪Strassburgシュトラースブルク(仏語・Strasbourgストラスブール)≫
10:20〜15:45
フランス北東部、アルザス地方第一の都市であり、ドイツ語で「街道の町」の意味があり、ライン川左岸に河川港を抱える交通の要衝として栄えてきた。(シュトラースブルク港は年に1000万トンもの商品が行き来する、フランス第2の河川輸送港だと云う。)
そのライン川の支流がIll (Elsass)イル川で、全長217kmのイル川はアルザス平野を流れているが、このイル川の名はアルザスの語源となっていると云う。
即ち、ドイツ語のElsassエルザスとは『イル川の流れる土地』(Pays de l’Ill)を意味しているとのことだ。
写真はシュトラースブルクの紋章:フランスの北東部に位置するロレーヌ地域圏を支配したロレーヌ公(仏:duc de Lorraine)またはロートリンゲン公(独:Herzog von Lothringen)の紋章に似ているが、それは黄金地に赤の斜線、斜線内に銀色の3羽の鷲がデザイン化されている。 -
かつてはドイツの神聖ローマ帝国に属したが、近世初頭に30年戦争でのドイツの混乱に乗じてフランスが侵略して併合する。
以降、ドイツとフランスが領有権を争った土地として有名である。言語や文化の上ではドイツ系であるといえるが、1944年以降、政治的にはフランスに属する。
第二次大戦後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、欧州評議会や欧州人権裁判所、またEUの欧州議会の本会議場を擁し、ベルギーのブリュッセルと共にEUの象徴的な都市の一つとなっている。人口272千人。
http://www.de.strasbourg.eu/de/home-de/
写真は1493年のストラスブールの眺め -
いつも感じるが、ドイツと異なり、フランスは道路標識が見にくく、急に中心の標識が消えてしまい、中心に行き着くのに余計な道を走った。
シュトラースブルクの旧市街に入るつもりが、間違ってメッツ方面行きのアウトバーンに乗ってしまい、次の出口で降りた。
またそこから、国道を旧市街に向かうとチョンボをしたから9kmは余分に走ったようだ。
幸い、目に付いたOpera Broglieオペラ劇場の駐車場(Euro16=2,228円)に入れた。ここからはカテドラル(大聖堂)も近いのだ。
写真はカテドラル(大聖堂) -
大聖堂広場には迷うことなく着いた。
最初にやることはラ・メゾン・カメルゼル邸のレストランの予約である。
幸い12時の昼食を予約できた。
この日は土曜日、広場には地元の人はともかく、時間と共に観光客が続々と増えだして広場を行き来するのも大変でした。やはりここの予約をしておいて良かった。
写真:ラ・メゾン・カメルゼル邸が真っ黒い姿で立っている。 -
お昼までの時間、カテドラル前の広場を左に行く。
横丁には木組みの家や、洒落たホテル、レストラン『Le Gruber』(ル・グリュベール・11 r Maroquin)、市の鳥コウノトリの人形を飾る土産物屋など、寄ってみたい場所だと思いつつ、覗きながら運河に向かって歩く。イル川沿いの運河観光船もあって、観光客が長い列になって待っている。
バロック様式のPalais de Rohan パレ デ ロアン宮殿(装飾博物館・ボザール美術館・考古学博物館の3つの博物館がある)まで行くと、丁度良い時間になり、広場に戻った。
広場周辺を見て、まず大聖堂に入る。
写真はカテドラル前の木組みの家 -
写真はカテドラル前の横丁・・・真っすぐ行くとイル川にでる。
-
写真は木組みも目立つ横丁
-
≪カテドラル・Liebfrauenmuenster zu Strassburg(Cathe’drale Notre-Dame-de-Strasbourgノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂)≫
10:40〜11:15
アルザス地方のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈やライン川の反対側にある黒い森からも見えるというが、まだ一度も見ていない。ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって外観が薄茶色を呈している。
観光本ではバラ色、ピンク色をしていると云うのだが、どう見ても外壁は汚染されているようだ。
Ill (Elsass)イル川の運河に囲まれた旧市街地区は地盤が弱いため高さ142mの尖塔が片方しかない。その為か、その昔見た時は大きいなと思ったが、ドイツの左右にそろった尖塔を持つゴシック建築を多く見てしまうと、それほどには見えない。
写真はカテドラルの入口 -
写真はカテドラル内のパイプオルガン
-
写真はステンドグラス
-
写真は本聖壇
-
聖堂内の見どころはステンドグラスのバラ窓:
聖堂中央のファサードに大きなバラ窓(特にゴシック建築におけるステンドグラスで作られた円形の窓の事を言う。)が見られ、模様と色彩がじつに美しい。
写真はバラ窓 -
からくり時計(Horloge astronomique天文時計):
聖堂内には人の人生を表現したからくり時計(天文時計・18世紀)がある。
からくり時計の高さは18m、8階建ての構造で、毎日12時半には上部キリストの前を12使徒が行進し、ニワトリが歌う。6〜18時までは15分おきに死者の骸骨が現れる。
時計の前は観光客で徐々にいっぱいになる。12時半に動き出すからくり時計が目的のようだったが、そこまで見る気もなく、退散した。
天使の柱 (Pilier des anges):
天文時計の傍にはゴシック彫刻の名作と称される“最後の審判”の様子が表現された支柱がある。
写真は天文時計 -
写真はしたからくり時計
-
写真は天文時計
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写真はステンドグラス
-
写真はステンドグラスのバラ窓
-
第二次世界大戦中、シュトラースブルク大聖堂は独仏両陣営から象徴とみなされていた。
ヒトラーは1940年6月28日にシュトラースブルクを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。
これに対し、仏軍のフィリップ・ルクレール将軍は1941年3月1日、「クフラの誓約」として「シュトラースブルク大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、武器を置かない」と誓った。
また、ドイツ軍はシュトラースブルク大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。
戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還したと云う。大聖堂にはこうしたエピソードに事欠かない。
写真は横手から見るカテドラル -
再びやってきた横丁。
写真は隣の木組みの家にそぐわないが、美しい。 -
木組みの家や、洒落たホテル、レストラン『Le Gruber』(ル・グリュベール・11 r Maroquin)、市の鳥コウノトリの人形を飾る土産物屋など、寄ってみたい場所だと思いつつ、覗きながら運河に向かって歩く。
写真はホテル、レストラン -
イル川沿いの運河観光船もあって、観光客が長い列になって待っている。
写真は運河観光船 -
写真はイル川沿いの運河
右手にパレ デ ロアン宮殿がある。 -
バロック様式のPalais de Rohan パレ デ ロアン宮殿(装飾博物館・ボザール美術館・考古学博物館の3つの博物館がある)まで行くと、丁度良い時間になり、広場に戻った。
写真はPalais_Rohan_Strasbourgパレ デ ロアン宮殿 -
写真は歴史を感じさせるラ・メゾン・カメルゼル邸
ラ・メゾン・カメルゼル邸はシュトラースブルク大聖堂の前に、煤で黒ずんだかのような独特の姿を見せている。
1571年に建てられたルネサンス様式の古い木造建築で町一番の家として有名である。75枚の窓と豪華な装飾を持つ4階建て(屋根裏部屋を加えると6階か!)の家で、レストランのフレスコ画と木彫装飾が美しい。
木彫装飾は中世時代、ギリシャ・ローマ時代、聖書の一部などのシーンを掘り込んだものと云う。 -
≪昼食:Restaurant・Haus Kammerzell(Maison Kammerzell
ラ・メゾン・カメルゼル邸)≫
Strasbourg 、Muensterplatz
12:00〜13:30 Euro72.3+チップ2.7=75(10,314円)
http://www.maison-kammerzell.com/
12時にカメルゼル邸に戻り、レセプションで名前を告げると、さっきは生意気そうな予約係だったがちゃんと予約されていた。
2階という事で古めかしい階段を上がる。有名人の写真が螺旋状の階段の壁に掲げられ、途中にロープ1本が垂れさがっている。確か給仕スタッフたちがこれを利用して一気に階段を下りたと聞いたが、私もぶら下がってみる。
写真は螺旋状の階段と掲示された写真など -
写真:階段の途中にロープ1本が垂れさがっている。
確か給仕スタッフたちがこれを利用して一気に階段を下りたと聞いたが、私もぶら下がってみる。 -
予約席は奥中央の窓際席で大聖堂がよく見えました。12時の段階ではまだ席はだいぶ空いていたが、帰る頃には満席になっていた。人気が高いのがうかがわれる。
XXX
カメルゼル邸は1904年からは田舎風高級レストランとして営業しており、今日ではシュトラースブルクでも最もシックなレストランの代表格になっている。
1階はワイン酒場と称したレストランで、15世紀、典型的な中世の円天井や尖りアーチの窓、素晴らしいフレスコ画が見られる。
2階は昼・夕食用のメインレストラン、今日の予約席はこちらで、大聖堂がよく見えました。
3階は3つの小広間と、家族のプライベートな催しに利用できる10〜60席の広間がある。
4階は“アーチストの広間”と付属した食前酒を楽しむ小間がある。レストランの厨房。
5階はその昔のパンフレットの絵に依ると屋根裏部屋で、食料品の倉庫になっているようだ。
6階はこちらも屋根裏部屋で、洗濯・干し場になっている様子だ。
写真は昼食のメニュー -
飲み物:
ビール(アルコール無し)0.3Lx2=Euro9、水Vittel0.5L=Euro3.8の合計12.8
料理:
ご当地名物の3品料理Menu Hallebardierメニュー・ハルベルト(鉾槍とか仏海軍の艦艇名にあるのだが、なぜメニューの名前なのか分からない。)にしました。
アルザス料理は昼食にしては量が多かったが、美味でした。
写真は奥中央の窓際席 -
写真は壁絵のある間
-
とりわけワインボトルの底を切り取って、窓ガラスとしてはめ込んだのであろう窓は美しく、何処のものか分からないが、紋章がいくつも窓ガラスの上部に飾られていた。
写真は紋章のある部屋 -
写真は紋章のある部屋、大聖堂が左手に見える
-
前菜:
私はEntenpastete mit Pistazien、Mirabellenmarmelade mit Zimt
カモのピスタチオ入りテリーヌに、シナモン付きミラベルプラム(西洋スモモ)のジャム添え。
写真は美味しかった前菜 -
前菜:
家内はLauchsalat “Adeline”、(Rezept von Frau Baumann)
ネギのサラダ「アデリーン風(レシピはバウマン夫人」、トマト添え。
写真は前菜のサラダ -
メイン:
Lachsruecken gebraten “?・ la Plancha”Ratatouille、Reistoertchen mit Kraeutern
私はサーモンのムニエル「ラ・プランチャー(鉄板焼き)」パスタ載せ、ラタトゥイユ(野菜煮込み)、ハーブ入りのライスタルトレット、カリカリに焼いたベーコン、トマト添え。
写真はメインのサーモンのムニエル -
メイン:
Strassburger Sauerkraut(8 Sorten Fleisch und Wurstwaren)
家内は名物のシュトラースブルクのザワークラウト料理(8種のハムやソーセージ)。
見るからに量が多く、味は美味しかったが、ちょっと残すことになった。
いつもは魚料理を家内が注文し、肉料理は私が注文するのが普通だが、今日は反対になったから、適当に名物と交換して食べた。
写真は見た目でお腹がいっぱいになる! -
デザート:
Obstkuchen der Saison gereicht mit Eis
季節の果物にアイスクリーム添え。
写真は地のままのデザート。 -
尚、確か2度目の駐在時の1984年1月2日、年末年始の休みにシュトラースブルクを訪ねています。町中で食べた焼き栗はアツアツで美味しかった。
夕食をカメルゼル邸のレストラン・3階小広間(私共4人家族の個室になっていました)で食べました。ワインボトルの底を切り取って、窓ガラスとしてはめ込んだ素敵な部屋で、頂いた夕食は正月の特別料理だったのか、名物料理を食べたのか、記憶に残っていません。当時(39歳)のアルバムを見たのですが、残念ながら分かりませんでした。
XXX
写真はアルバムからスキャンしたもので、若かった家内と13歳の長女 -
写真は髪も黒く、若かった私と11歳の次女
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写真はラ・メゾン・カメルゼル邸:パテ・テリーヌ
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写真はラ・メゾン・カメルゼル邸のレセプションに架かっていた絵
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写真はイル川の川岸
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食後は有名なPetite_France小フランスと称する旧市街の地区を歩きます。
最初は間違っている川の運河に沿って左に歩き、どうもおかしいと地図を見直して、右に戻った。
グーテンベルク広場からグーテンベルク通り、グラン・リュを通り、旧市街に至る。
写真はグーテンベルク広場 -
写真はプチット・フランス
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≪アルザスの伝統家屋が密集したPetite_Franceプチット・フランス≫
13:40〜15:30
Petite_France小フランス地区はライン川の支流イル川が細かく4本に分岐して入り組んでいる中洲にある旧市街で、木組み建築(ドイツ語でFachwerkhausファッハヴェルクハウス、フランス語でColombagesコロンバージュ)の家並みが密集した地帯になっている。
写真は木組み建築が連なる景色は美しい。 -
写真はプチット・フランス
-
写真はプチット・フランス
-
お茶の代わりにアイスクリーム(チョコ・バニラ:Euro3.4=473円)を旧市街で。
写真はこの町のチョコ・バニラは高い。 -
写真はプチット・フランス
この運河の左右の地域が有名らしく、混雑していた。 -
写真:プチット・フランスは運河と木組みの家
-
小さな旧市街にもRue du Bain-aux-Plantes通りの名とか、Pont du Faisan橋の名とか、勿論あるのだが、結局覚えられないもので、歩いた通りの美しい木組みの家の姿に、只々感激するばかりだった。
大きな都市の一角にこうした旧市街が残っているのは実に興味深いものだ。
シュトラースブルクの古い町並みが最もよく保存されている地区として、1988年に世界遺産に登録された。
写真はプチット・フランス -
写真はプチット・フランス
-
写真はプチット・フランス
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この旅行記へのコメント (2)
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- 一歩人さん 2015/11/08 01:45:53
- 若かかりしあの頃が懐かしいです
- こんにちわ。
南欧旅行でドイツに立ち寄った頃を
思い出しました。旅行記で間に昔のお写真が
あると思い出も格別ですよね。
気持ちは今もかわらないのですけれど。
目は霞んでますが、みえます。
当時はベトナム戦争だったか、
フランクフルトのビアガーデンで
ベトナムから帰ってきたというアメリ人と
隣り合わせで飲みました。
あれから40年、安保法制や難民問題と
近頃の話題をきくにつけ、平和願望えを
ますます強く感じます。
ありがとうございました。
失礼しま〜す。
- jijidarumaさん からの返信 2015/11/08 12:16:29
- RE: 若かかりしあの頃が懐かしいです
一歩人さん
おはようございます。ご投票とコメントありがとうございました。
ハイ、私も若かかりしあの頃が懐かしく、いつも思い出しています。
何度もドイツや周辺国を訪れますと、あの時にそういえばここにを訪れていたとか、思いながら歩くことも多いです。
ベトナム戦争の終盤に至った1974年に初めてドイツの地を踏みましたから、もう40年の昔ですね。
東西ドイツの分離体制、米ソの冷戦下といった難しい世界の様相でした。
ドイツ赤軍派(その創立も日本の赤軍派に影響されたと云う)が1970年代から1998年まで活動している時期にダブるように駐在していましたから、
西ドイツ経営者連盟会長(日本でいえば、経団連会長)シュライヤーが誘拐され、殺害されたことや、1977年10月にはルフトハンザ航空181便ハイジャック事件を起こすが、ソマリアのモガディシュに着陸したところを西ドイツ政府によって派遣された特殊部隊GSG-9によって急襲され、乗客人質全員を救出された事など・・・
時にはアウトバーンを降りると、そこに自動小銃を構えた警察官たちがいたこともありました。
年末年始の小旅行で訪れたシュトラースブルクのレストランでは美味しい食事を楽しんでいますが、この頃は1980年代の半ばであり、赤軍派の活動も下火に向かった頃になります。
南欧旅行と言えば、きっと耳にされた”忘れな草”の歌があるかもしれませんね。
ありがとうございました。
jijidaruma
忘れな草の悲恋伝説
http://4travel.jp/travelogue/10858571?lid=notice_vote_travelog
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