2015/07/14 - 2015/07/28
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jijidarumaさん
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“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。
期間 : 2015年7月14日(火)〜7月28日(火)15日間の旅
参考:2015年”黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
http://4travel.jp/travelogue/11027937
7月22日(水) 晴 23.5〜33.5℃ 193km
Rottweilロットバイル=>B463 23km(Balingenバリンゲン)・L?10km Lautlingenラウトリンゲン=>L?10km(Balingenバリンゲン)・B27 22km(Moessingenメッシンゲン)=>L?23km Sonnenbuehl-Erpfingenゾンネンビュール・エルプフィンゲン・Romatik Hotel & Restaurant Hirschロマンチックホテル ヒルシュ
写真はBamberg:Nina von Lerchenfeld und Claus Schenk Graf von Stauffenberg im Sommer 1933 als Verlobte婚約中(1933年夏)の、クラウス・シュタウフェンベルグ伯爵とニーナ・レルヒェンフェルト男爵令嬢
クラウス23歳の誕生日に1930年11月15日、Nina Freiin von Lerchenfeldニーナ・フォン・レルヒェンフェルト男爵令嬢と婚約し、1933年9月に連隊勤務地のバンベルクで挙式した。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
<英雄クラウス・シュタウフェンベルグ伯爵一家が過ごした伯爵家累代の居城を訪れる>
ロットバイルから13:20、B463を戻り、バリンゲン経由で33kmの Lautlingenラウトリンゲンには14時に着いた。ほぼ予定の時間通りに来ているがこれは珍しいことでもある。この日の最後はこれも是非、是非ともに来たかった場所だ。
写真はラウトリンゲンの紋章 -
Lautlingenラウトリンゲン:
14:00〜15:40
http://www.albstadt.de/
http://www.albstadt.de/museen/stauffenberg
黒い森にも近いシュヴェービッシュ・アルプ地方に人口1800人のLautlingenラウトリンゲンの小さな村(人口44千人のStadt Albstadtアルプシュタットの一地区)がある。
この村の中心に立つラウトリンゲン城はかつてシュタウフェンベルグ伯爵一族が累代の居城とした所であり、ナチス・ドイツに対する抵抗運動の英雄Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シュタウフェンベルグ伯爵一家が1942年の夏、休暇を過ごした写真がある。
写真はLautlingenラウトリンゲンの俯瞰
中央右手にラウトリンゲン城、中央横に走るのがB463の国道。駐車場は中央の森の中にあるが見えない。 -
ドイツの旅では、“Das Rosenwunderバラの奇蹟”で知られる聖女エリザベート、美貌で名高いオーストリア・ハンガリー帝国の皇妃エリザベート、あるいはザクセン王アウグスト強王の愛妾であったコーゼル伯爵夫人(49年間、85歳で死ぬまで幽囚された)といった女性たちに加えて、
ナチス・ドイツ抵抗運動のシンボルとなったシュタウフェンベルク伯爵についても興味を持って、その事跡を巡る事が多かった。
写真は駐車場から歩いてくると、ラウトリンゲン城の入口になる。 -
シュタウフェンベルク伯の事績を知り、以前から
Querfurt/ Loderslebenクエルフルト・ロダースレーベンにあるSchloss Loderslebenロダースレーベン城、
Bambergバンベルクの旧市庁舎にある銘板、
Heiligenstadtハイリゲンシュタッド(聖なる町)郊外に立つSchloss Greifensteinグライフェンシュタイン城、
Berlinベルリン・ドイツ抵抗運動記念館、
Jettingen-Scheppachイェッティンゲン・シェップパッハのクラウス伯生誕の地Schloss Jettingenイェッティンゲン城などを訪ねてきた。
以来、シュタウフェンベルグ伯爵一家が1942年の夏、休暇を過ごしたSchloss Lautlingenラウトリンゲン城も訪れてみたいものと思っていた。
写真はラウトリンゲン城の入口 -
<Stauffenberg-Schlossシュタウフェンベルグ伯爵一族の城>
この旅⑯番目の城
ラウトリンゲン城はStauffenberg-Gedenkstaetteシュタウフェンベルグの記念の地
D-72459 Albstadt‐Lautlingen 、Am Schloss 1
Tel:07431/763103 Mi, Sa, So, Fei 14-17 Uhr und nach Vereinbarung
1907年11月15日はクラウス・フォン・シュタウフェンベルグ伯爵が誕生してから100年になる年で、その生誕100周年を記念して、かつての村の役所の部屋であったラウトリンゲン城の建物内に“シュタウフェンベルクの部屋”が設けられている。
写真はラウトリンゲン城の本館・博物館 -
その展示室にはヒトラー暗殺計画であるOperation “Walkuere”ワルキューレ作戦(1944年7月20日)や、伯爵の刑死後、ナチス政権の下で厳しい状況に置かれてきた家族の歴史などが展示されている。
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写真は2015.07.22.Lautlingen_Tafel_Schloss_Baugeschichte_1794年当時のラウトリンゲン城の図
普通に思われる城の形状とは異なっているようだ。 -
写真はラウトリンゲン城やシュタウフェンベルグ伯爵家の説明版
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写真はラウトリンゲン城やシュタウフェンベルグ伯爵家の説明版
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1904年、グライフェンシュタイン城で行われた、父母アルフレートとカロリーネの結婚式の写真。
1905年、1908年、1910年、1911年、1913年、母カロリーネとベルトルトとアレクサンダーの双子とクラウスたち幼年期の写真。面白いことに母カロリーネの趣向で子供たちは女の子のような髪形をしている。いずれもラウトリンゲン城で。
1918年、父母と三人の息子たちの写真。この頃になると民族風の装いをした男の子だ。
1930年、バンベルクで知り合い、婚約したクラウスとニーナの写真。
シュタウフェンベルグ伯爵の胸像、写真、記念硬貨、記念切手、ヒトラー総統とクラウス、狼の巣などを見て、
最後に校外学習にきていたGymnasiumギムナジウムの生徒たちと、当時のドイツの戦いやシュタウフェンベルグ伯爵に関する記録映画を30分鑑賞した。
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写真はクラウス・シュタウフェンベルグ伯爵 -
写真は婚約中(1933年夏)の、クラウス・シュタウフェンベルグ伯爵とニーナ・レルヒェンフェルト男爵令嬢
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写真は1904年、Schloss Greifenstein グライフェンシュタイン城で行われた、父母アルフレートとカロリーネの結婚式の写真。
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写真は1905年、1908年、1910年、1911年、1913年、母カロリーネとベルトルトとアレクサンダーの双子とクラウスたち幼年期の写真。面白いことに母カロリーネの趣向で子供たちは女の子のような髪形をしている。いずれもラウトリンゲン城で。
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写真は1911年、1913年、幼年期の写真。いずれもラウトリンゲン城で。
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写真は1918年、父母と三人の息子たちの写真。この頃になると民族風の装いをした男の子だ。
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写真は1930年、バンベルクで知り合い、婚約したクラウスとニーナの写真。
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写真はStauffenberg Familieシュタウフェンベルグ伯爵一家
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写真は記念硬貨、記念切手、
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写真はヒトラー総統とクラウス、狼の巣など
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写真はシュタウフェンベルグ伯爵の胸像、写真、
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写真は女の子のような髪形をしている兄弟の絵とシュタウフェンベルグ伯爵の胸像、
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写真は城内展示室を見て、最後に校外学習にきていたGymnasiumギムナジウムの生徒たちと、当時のドイツの戦いやシュタウフェンベルグ伯爵に関する記録映画を30分鑑賞した。
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長くなるが、もう一度彼らの家族史を見てみよう。
<英雄クラウス・フォン・シュタウフェンベルグ伯爵一家の歴史>
父Alfred Schenk Graf von Stauffenberg(1860〜1936年)アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国(ドイツ南西部)ラウトリンゲンの領主、ヴュルテンベルク国軍の少佐であった。
また1908年からはヴュルテンベルク国王ヴィルヘルム2世のシュトゥットガルトの宮殿で侍従長として仕えた。この為、一家はその時期、シュトゥットガルトで暮らした。
母Caroline(geb. Graefin von Uexkuell-Gyllenband ・1875〜1957年)カロリーネはオーストリア・ハンガリー帝国陸軍中佐Alfred Richard August Graf von Uexkuell-Gyllenbandアルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル・ギレンバント伯爵の娘であり、1904年5月30日にアルフレートと結婚した。
カロリーネの母Valerieヴァレリエの祖父はプロイセン参謀本部の創設者の一人であるプロイセン陸軍元帥August Wilhelm Antonius Graf Neidhardt von Gneisenauナイトハルト伯アウグスト・ヴィルヘルム・アントニウス・フォン・グナイゼナウであった。
写真はClaus Stauffenberg クラウス・シュタウフェンベルグ伯爵・切手 -
長閑な農村にある小さなラウトリンゲン城で、シュタウフェンベルグ伯爵とその兄弟(彼は男兄弟3人の3番目)が幼児期や、青少年時代を過ごした。
彼らが子供の頃に親しんだ場所は父の公邸があった王都シュトゥットガルト、ラウトリンゲン城、またイェッティンゲン城、アーメルディンゲン城、グライフェンシュタイン城といった親族の居城である。
クラウスは1907年11月15日に双子として生まれた。双子の弟Konradコンラートが生まれて直ぐ死んだ為、二組の四人兄弟のクラウス本人は三男になる。
兄に1905年3月15日生まれのBertholdベルトルトとAlexanderアレクサンダーの双子がいる。
写真はドイツでよくみられるブナの大木が城内に立つ。
その門から出ると、シュタウフェンベルグ伯爵などを顕彰する礼拝堂や一族の墓がある。 -
23歳の誕生日・1930年11月15日にNina Freiin von Lerchenfeldニーナ・フォン・レルヒェンフェルト男爵令嬢と婚約した。
彼女の父Gustav Freiherr von Lerchenfeldグスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵はかつてバイエルン王家の侍従長だった人で、クラウスが所属する第17騎兵連隊(バイエルン・バンベルク)の将校をよく持て成していたと云う。その縁で二人は知り合うことになった。
1933年9月に連隊勤務地のバンベルクで挙式した。
妻ニーナとの間に5人の子供をもうけた。
長男Bertholdベルトルト、次男Heimeranハイメラン、三男Franz-Ludwigフランツ・ルートヴィヒ、長女Valerieヴァレリエ、次女Konstanzeコンスタンツェである。
写真は礼拝堂前で -
彼は大学では文学を志したが、結局、軍人の道を選んだ。
ヒトラー政権下で起こった、ユダヤ人襲撃事件(1938年11月の「水晶の夜」)でのナチスの行為を嫌悪し、ユダヤ人政策と宗教弾圧に反感をもったと云う。
1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校による、ヒトラー暗殺事件;その指揮を執ったシュタウフェンベルク大佐の“爆弾による暗殺”は様々な要因から、爆発したものの、ヒトラーは軽傷を負っただけで、失敗に終わった。
この為、ワルキューレ作戦によるクーダター計画も殆ど為すことなく事件は終焉した。
写真は毎年7月20日(ワルキューレ作戦:ヒトラー暗殺実行作戦の日)に行われる記念祭。今日22日は二日遅れになる。敬意と共に花が手向けられ、絶えることが無いようだ -
事件後のヒトラー派による弾圧は激しく、暗殺に関わった軍関係者などは徹底的に糾明され、日付が替わった7月21日、大佐ら首謀者4名は早々と銃殺刑に処せられた。
ナチス政府の憎しみは抵抗者の中でも特に貴族に向い、その憎しみが最も向けられたのがシュタウフェンベルク伯爵家であった。
内務大臣ハインリヒ・ヒムラーは「シュタウフェンベルク伯爵家は一人残らず根絶やしにせねばならない」と言ったと云う。
伯爵家の財産は全て接収され、シュタウフェンベルクを名乗ることまで禁じられた。
写真はシュタウフェンベルク伯爵家の墓 -
写真はシュタウフェンベルク伯爵家の墓:父母と兄弟
-
“反逆者”シュタウフェンベルクの夫人とその長男ベルトルトは敗戦までの間、強制収容所に入れられ、幼かった子どもたちは児童施設に収容されている。
Nina Schenk Graefin von Stauffenbergニーナ伯爵夫人は8月17日に子供たちと切り離され、クラウスの母であるカロリーネと共に、Konzentrationslager Ravensbrueckラーフェンスブリュック強制収容所(ドイツ東部・メクレンブルク地方Fuerstenbergフュルステンベルク市の近くにあった)に収容された。
ニーナ夫人は当時身重で、クラウスの刑死後、1945年1月に末娘・次女コンスタンツェを収容所で出産した。
子供たちはBad Sachsaバート・ザクサ(ゲッティンゲンから東に50km、ハルツの南部)にあったナチスの養護施設に送られ、再教育を受けた。
1945年4月にバート・ザクサはアメリカ軍により解放され、8月になって漸くニーナ夫人は子供たちと再会できた。
写真は英雄クラウス・シュタウフェンベルグ伯爵のシュタウフェンベルグ礼拝堂内部 -
写真は礼拝堂内部の墓碑:前後して処刑されたクラウスと兄Bertholdベルトルト
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Justizvollzugsanstalt Rottweilロットバイル刑務所の外壁に掲げられたニーナ伯爵夫人虜囚記念碑の写真を見て気付いたのだが、今日訪れたロットバイルには1861年に刑務所が設立されていました。
この地方では1847年にVillingen-Schwenningen、1876年にHechingen、1905年にOberndorfに順次刑務所が置かれたそうです。
1944年7月20日、アドルフ・ヒットラー暗殺の失敗した後、ニーナ伯爵夫人はその直後に逮捕され、短い間だったがロットバイル刑務所に収容されていたという。ここの刑務所の外壁に記念碑が掲げられている。
写真はGedenktafel an der Aussenmauer des Rottweiler Gefaengnisses
_Graefin_v._Stauffenbergニーナ夫人が事件後逮捕され、ロートバイル刑務所に一時収容されていたとする記念碑 -
尚、同様に逮捕されたNikolaus Graf von Uexkuell-Gyllenbandニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵(クラウス・シュタウフェンベルグ伯爵の母方の叔父。経済人:1877〜1944年)もヒットラー暗殺未遂事件に関与した罪でロットバイル刑務所に収容され、その後、ベルリンに送られ、同地で1944年9月13日に処刑された。
写真はNikolaus Graf von Uexkuell-Gyllenbandニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵 -
Nikolaus Graf von Uexkuell-Gyllenbandニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵とIda Graefin von Uexkuell-Gyllenband イダ・ユクスキュル・ギレンバント伯妃の墓と記念碑もラウトリンゲンにある。
(ユクスキュル家は、ドイツ騎士修道会に参加して封土を得た男爵家で、13世紀まで遡るバルト・ドイツきっての名家である。ユクスキュルは現在のラトビアに属する。)
写真はニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵の顕彰碑・墓とイダ・ユクスキュル・ギレンバント伯妃の墓 -
写真はニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵の顕彰碑・墓とイダ・ユクスキュル・ギレンバント伯妃の墓
こちらにも敬意と共に花が手向けられ、絶えることが無いようだ。 -
写真はニコラウス・ユクスキュル・ギレンバント伯爵の顕彰碑・墓
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写真はClaus Stauffenberg ・Bambergバンベルク旧市庁舎の顕彰碑と集まり
旧市庁舎 (バンベルク) 建造物
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厳しい時代を生き延びたニーナ夫人は大佐の分まで更に長生きし、余生をおくっていたドイツ南部Bambergバンベルクの北30kmのKirchlauterキルヒラウターで、2006年4月2日に92歳で死去した。
彼女の生涯はドイツ語の表現でしばしばDie starke Frau Nina Schenk Graefin von Stauffenberg毅然とした(精神の強い)ニーナ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵夫人と称されている。
長男Berthold Maria Schenk Graf von Stauffenbergベルトルト・マリア・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は後にドイツ連邦軍の陸軍大将に進んだ。三男フランツ・ルートヴィヒはドイツ議会及び欧州議会の議員となった。
収容所で生まれた次女Konstanze von Schulthess-Rechbergコンスタンツェ・フォン・シュルテス‐レヒベルクは1965年以来チューリッヒに在住する。
2008年に母ニーナの伝記を出版し、ドイツでベストセラーとなった。
写真はNina von Stauffenberg feierte 2003 ihren 90. Geburtstag mit 43 Nachkommen im unterfraenkischen Kirchlauter.
下フランケン・キルヒラウター:2003年、43名の親族の参加があったにニーナ夫人90歳の誕生日。
ニーナ夫人の左に立つは次女コンスタンツェか、 -
第二次大戦後の1970年、シュタウフェンベルグ家はラウトリンゲンの村にラウトリンゲン城を売却し、現在はAlbstadtアルプシュタットの町(ラウトリンゲンは町の一地域)所有になっている。
ここにシュタウフェンベルグ礼拝堂が作られ、今も毎年7月20日(ワルキューレ作戦:ヒトラー暗殺実行作戦の日)には記念祭が催されるそうだ。
写真はKirchlauter・Bayernキルヒラウター・バイエルンにあるニーナ夫人の墓碑 -
ラウトリンゲン城内郷土博物館の管理者らしき女性は“イエルの楽器コレクション”のことを私の父のコレクションと言っていたが、ギムナジウム(日本の中高 一貫校に相当する学校)の生徒たちを引率して、シュタウフェンベルグ伯爵一族の記念墓やシュタウフェンベルグ礼拝堂なども説明していた。
私共は楽器コレクションの見学をしてから、こちらにやって来たので戻ってくるのに出会った。一緒に説明を聞ければ良かったのだが。
XXX
写真は博物館の管理者らしき女性とギムナジウムの生徒さんたちが車座になって、多分、歴史のおさらいをしていたのでしょう。 -
“Sammlung Jehleイエルの楽器コレクション”:
ラウトリンゲン城の建物上階には、更に“イエルの楽器コレクション”の展示があった。
大きなパイプオルガンから、小さな鍵盤楽器、Cembaloチェンバロや古いアコーデオンのようなもの、Zitherチターという弦楽器、グランド型のピアノ、面白いのは音楽を奏でる人たちを描いた扉付きのフォルテピアノ、ピアノ工房などを順次見て回った。
それらは弦楽器、木金管楽器、鍵盤楽器を主にしたイエルの個人的なコレクションである。
1970年の半ば以降、このコレクションはアルプシュタットの町の所有となっている。
写真はチェンバロ -
イエルの楽器コレクション”の蒐集者であったMartin Friedrich Jehleマルティン・フリードリヒ・イエル(1914〜1982年)はアルプシュタット出身のKlavierbaumeisterピアノ制作のマイスターでした。
彼はPianofortefabrikフォルテピアノ(注;ドイツではハンマークラヴィーアといい、おおよそ1700年頃から、19世紀初頭までのピアノを指す。19世紀半ば以降のピアノはモダンピアノという。)工場の創業者(1949〜1981年)であり、音楽歴史家(楽器)、音楽関連の著作者、コンサート主宰者であった。
写真はチェンバロ -
写真はハンマークラヴィーア
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写真は面白いのは音楽を奏でる人たちを左右にきれいに描いたSchrankfluegel戸棚翼付きのフォルテピアノ(ハンマークラヴィーア)
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“イエルの楽器コレクション”の中には貴重な17世紀のCembaloチェンバロ、1783年製*J. A. Steinシュタイン のHammerklavierハンマークラヴィーア(Fortepianoフォルテピアノ)、18世紀後期のSchrankfluegel戸棚翼付きのフォルテピアノが蒐集されている。
コレクションは音楽の歴史的にも異なる時代と文化的な地域から30以上の楽器が蒐集されたもので、また、歌と合唱曲集、それらの初版、手書きの楽譜、印刷された楽譜、音楽教科書、原稿と手紙など、歴史的価値のあるものが蒐集されていると云う。
写真はパイプオルガン -
*Johann Andreas Stein ヨハン・アンドレアス・シュタイン(1728〜1792年)はMozartモーツァルトにとって最も重要なFortepianoフォルテピアノの製作者の一人であった。
ハイデルスハイムのオルガン制作の家に生まれ、シュツットガルト近くのJ.A. Silbermann ジルバーマンに師事した。1751年、独立してアウクスブルクに彼の工房を開いた。
シュタイン41歳の時には700ものフォルテピアノの製作をしたと云う。
1770年までに、彼はオルガン奏者として、オルガンとフォルテピアノの製作者として良く知られるようになっていた。
1777年、アウクスブルクにモーツァルトが演奏旅行にやってきた際、彼はシュタインの才能を認め、その年の10月22日、3人の独奏者(モーツァルト、アウクスブルク大聖堂のオルガン奏者Demmlerデムラー、およびシュタイン)が演奏した三重協奏曲の公演で、シュタインのFortepianoフォルテピアノを使ったのだ。
モーツァルトはシュタインのフォルテピアノの素晴らしさに感銘し、其の事を彼の父あての手紙に書いたと伝えられている。
・・・・・
XXX
写真はハンマークラヴィーア -
写真は蓄音機、アコーデオンのようなもの
-
写真はチターという弦楽器、古いアコーデオンのようなもの、
33.5℃の暑さを記録したラウトリンゲンを15:40に走り出し、55kmの距離をバリンゲン、メッシンゲンと通過し、ロマンチックホテル ヒルシュには16:30に帰った。
・・・・・・・・・・・・・・
番外編参照:
≪1944年7月20日:映画・ワルキューレ作戦Operation ”Walkuere“について≫
http://4travel.jp/travelogue/10873685
≪1944年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件の実行者:クラウス・シュタウフェンベルク伯爵≫
http://4travel.jp/travelogue/10872284
≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与した人たち≫
http://4travel.jp/travelogue/10871148
≪1944年7月20日:”反逆者”シュタウフェンベルグ伯爵夫人と子供たちのその後≫
http://4travel.jp/travelogue/10874582
≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟≫
http://4travel.jp/travelogue/10965241
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2015年ドイツの夏:黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2016/01/31 21:48:55
- 興味深く拝見させていただきました。
- jijidarumaさん、こんばんは。
ヒトラー暗殺事件のシュタウフェンベルク大佐のことを、こんなにも深く掘り下げて研究していらっしゃるjijidarumaさんに本当に頭が下がります。
じっくりと大変興味深く拝見させていただきました。
私もあそこに挙げていらっしゃる関連の施設にはいくつか行ったことがありますが、バンベルクの銘碑、ベルリン・ベンドラー地区にある抵抗運動記念館、それに7月20日の暗殺に失敗した将校たちのお墓があるベルリンの墓地くらいです。
彼が生まれたお城、彼が結婚して住んだ城、彼の両親や親せきのことなど、いろいろお調べになって、訪れていらっしゃるjijidarumaさん、本当に素晴らしいです。
23歳で彼は結婚したのですね。
まだ若々しい未来ある青年将校だったシュタウフェンベルクの婚約者と写った写真、女の子のようだった子供時代の写真、面白く拝見しました。
そういえば、ベンドラーの抵抗記念館には、彼が負傷して治療のために帰省した地で家族と一緒に写っている写真がありましたが、あれはラウトリンゲン城だったのでしょうか。
7月20日にはシュタウフェンベルクに関係のある地では記念式典が開催されているのですね。
ドイツの良心と言われるシュツフェンベルク大佐のことを、私もこれからも機会があれば調べてみたいと思っています。
ありがとうございました。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2016/02/01 12:21:50
- RE: 興味深く拝見させていただきました。:ラウトリンゲン城
- himmelさん
おはようございます。
ご投票と、コメントを頂きありがとうございました。
himmelさんと同じように”旅には拘りがあってよい”と思っていますが、
念願のラウトリンゲン城を訪ねることが出来たのは良かったです。
ただ思っていた以上に資料が少ないなと感じました。あれだけ徹底してナチス政権から嫌われただけに、やむないものと思われましたが。
himmelさんもバンベルクの銘碑、ベルリン・ベンドラー地区にある抵抗運動記念館、それに7月20日の暗殺に失敗した将校たちのお墓があるベルリンの墓地等を訪れた由、ドイツの歴史の一片を彩ったシュタウフェンベルク大佐の事績はやはり興味深いものですね。
ドイツ抵抗運動記念館は夕方だった所為で、短時間の見学になってしまったので、又見に行きたいとは思っています。
あまりベルリンの町が好きでないのが、ネックですけど^^。
短時間で撮った写真の中にシュタウフェンベルク大佐の結婚式、少年となった兄弟3人と両親の写真、子供と遊ぶ大佐の写真があります。バンベルクでの結婚式を別にして、後の二枚や治療のために帰省した地で家族と一緒に写っている写真もラウトリンゲン城でしょうね。
さて、一族の支配地はバイエルン王国とヴュルテンベルク王国の一部にあり、以下の古城群があります。*印は訪ねた城、まだ訪ねたい城が残っていますね(笑)。下記のガイスリンゲン城などは今回の旅の行程にあったのに、見過ごしました。
Schloss Jettingenイェッティンゲン城*、
Schloss Wilflingenヴィルフリンゲン城、
Schloss Amerdingenアーメルディンゲン城、
Risstissen Schloss Stauffenbergリスシュティッセン城、
Schloss Lautlingenラウトリンゲン城*、
Stauffenbergschloss Geislingen ガイスリンゲン城(bei Balingen ・Zollernalbkreis)、
Schloss Greifensteinグライフェンシュタイン城*(フレンキッシェ・シュヴァイツ地方)等の居城です。
今年の旅も企画はこれからですが、himmelさんは如何ですか?
私の方は同人誌の原稿も先週、監修者に送付でき、漸く、
次回の旅を考えることが出来そうです。
ザックリ言えば、フランケン地方を巡る旅ですが、さて!
前述した古城群がその地域にあれば訪ねたいものです。
jijidaruma
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