2015/06/02 - 2015/06/02
35位(同エリア172件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1484冊
- クチコミ1138件
- Q&A回答73件
- 2,683,689アクセス
- フォロワー151人
デルフト2日目の朝はまず「旧教会」の見学から始めました。ここでの見どころはやっぱりフェルメールのお墓でしょうか。また古くは無いようですがステンドグラスも見応えがありました。その後はデルフト市内南側のフェルメールの「デルフトの眺望」が描かれたというポイントまで足を伸ばしました。何となくあぁここなのかという思いでしたが、デン・ハーグで本物の絵を前にするとやはり感慨深いものがありました。その足で駅まで戻り、ロッテルダムの「ボイスマン・ファン・ベーニンゲン美術館」を見学して午後2時過ぎにデルフトに戻りました。ホテルで一休みして「プリンセンホフ博物館」に行きましたが、ここがデルフトでは一番良かったです。オランダ王家の成り立ちや王家がオラニエ公ウィレム1世から現代まで続いていることについて非常に細かく紹介されていました。いろいろ本を読んでから旅行に来ていましたが、文章を読むより肖像画や絵画で見たほうが分かりやすいと思いました。断片的だったものが繋がっていくような気がしました。そしてこの後に新教会でウイレム1世の棺を見ると感慨深いものがありました。そしてビデオではベアトリクス前女王のご主人の葬儀と納棺の様子が流れていました。この教会の下に地下納骨堂があることも驚きの1つでした。オランダを旅行するにはデルフトでこの博物館と新教会は絶対に外せないなと思いました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 タクシー 徒歩 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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デルフト到着の翌日はロッテルダムへ戻らなければならないのですが、「ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館」の開館時間が遅いので「旧教会」の見学を先に済ませてしまいます。
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イチオシ
裕福なジャン・デ・ウィッターの家にはこれでもかというほどの紋章が飾られています。
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この家は16世紀のデルフトで最も豊かな家でした。1572年以降は所有者が何度も変わっていて、1645年には市に買い取られています。正面のファサードには多数の小さい怪物の姿があります。屋根の上の塔には人魚をモチーフにした美しく金メッキした風見を備えています。
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イチオシ
壁の上に陶器で出来た騎士像が置かれています。猫と戦うのでしょうか。
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「旧教会」に到着しました。1240年に造られたこの教会は特徴的な斜塔があります。大時計を赤い獅子が掲げています。
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写真で見るとパースがかかって曲がっていますが、実際の塔も全体に右に曲がっています。
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教会は美しく修復されていますが、1548年に造られた美しい彫刻の説教壇と27のステンドグラスが印象に残ります。
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教会としての役目を終えているのか小さい祭壇しかありません。
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床には墓碑が彫られています。日本人の感覚だと踏んでは申し訳ないと思いますが、気にすることはありません。
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柱の傍のレリーフは歩く人が少ないので摩耗が無いので元々の姿を残しています。
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文字が摩耗して全く読めない墓標もあります。
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最後の審判の時に祭壇側へ起き上れるような向きにお墓は設けられています。祭壇に向かった中心線上に残っていたお墓は…。
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「ヨハネス・フェルメール 1632-1675」と彫られてあります。
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そんなに古いステンドグラスのようには見えませんでした。こちらは手に禁断の木の実を持ったアダムとイブの姿があります。リンゴの木には蛇が絡まっています。
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イエスを中心に王道十二星座と足元には2匹の魚が描かれています。
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妻は椅子に座って見学が終わるのを待っています。
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堕天使の墜落では天使がラッパを吹いて悪魔たちを追いやっています。
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こちらにもフェルメールの墓碑がありました。
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旧約聖書の物語が描かれたステンドグラスの上段は「初子殺し」で下の段は「バベルの塔」の場面のようです。
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イエスと徴税人レビの物語の場面のようです。
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こちらは「バベルの塔」ですね。天上の雲の中から手が伸びていますが、神の怒りを表しているのでしょう。
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十戒が書かれた石板を持つモーセの姿もあります。1から10までを表すローマ数字が見えます。
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自転車に乗った少年のステンドグラスは近代のものですね。朝一番では見学者の姿も無く妻と2人で教会を貸切で見学出来ました。
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そのまま市庁舎と鐘楼のあるマルクト広場まで出ます。
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街中で売っていた木靴は昔は全部手描きされていたのでしょうが、現在は絵柄はデカール(シール)を貼っただけです。本物の手描きを探しましたが全く見つかりませんでした。
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1618年に「市役所」は壁の一部を残して焼け落ちたそうです。建築家ヘンドリック・デ・カイザーは、市役所を建て直すよう依頼されました。 古い塔と壁の残りを用いて対称形のデザインで新しい市役所を設計することができ、1620年に市役所の再建は完了します。
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13世紀後半に出来たゴシック様式の塔と焼け残った壁を上手く利用されていると思います。また塔の部分は刑務所として使われ拷問所と刑務所は今も残っているそうです。オラニエ公ウィレム1世の暗殺者バルタザール・ジェラードはここで審議されむごい方法で処刑されたと知ると感慨深いものがあります。
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「新教会」の鐘楼は尖塔の部分を残して工事中という非常に残念な状態でした。
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広場の周囲には同じような3階建て+屋根裏部屋の建物が並んでいます。周囲の建物が低いので広場は広く感じ、鐘楼は高く感じます。
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イチオシ
木彫りで手彩色されたチューリップはこれだけの本数があると壮観です。
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一度ホテルまで戻ってきました。運河沿いに建つ「グランド・カナル・ホテル」は家庭的で気持ちの良いホテルでした。
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デルフト駅の先へ進んでみます。トタンで囲われたその名もポンテ・ヴェッキオ。フィレンツェの本家とはえらい違いです。
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フェルメールの「デルフトの眺望」が描かれたであろう場所です。
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1人だけですが河岸に立つおばさんのエキストラも用意しました。
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エキストラのおばさん!振り返ってはだめです。
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デルフトの旧駅舎は非常に立派です。現在はフェンスで囲われていて近づくことは出来ません。
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こんな感じの素晴らしい建物でした。多分保存されるのだと思います。
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そしてその横には新しいデルフト駅です。この後ロッテルダムの「ボイマンズ・ファン・ベーニンゲン美術館」を見学しに向かいます。
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ロッテルダムから戻りました。本当は美術館とキンデルダイクの風車を昨日見学するはずでしたが、ロッテルダム到着が月曜日だったので1日ずらすことになりました。そのためにデルフトの観光が半日減ってしまい運河クルーズや街巡りできない場所も出来てしまいました。街中に取り残された風車が痛々しいです。子供の頃「ちいさいおうち」という絵本を初めて読んだ時のような気分です。
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ホテルは駅に近いので一度戻りました。昔の建物を利用しているのがよく分かります。2階には休憩スペースがあり、滞在中はワインやコーヒーが自由に飲めます。
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フロントの上が吹き抜けになっています。
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朝食はこちらのレストランでいただけますが、夜は営業していないようでした。
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さすがに自転車の国なので修理屋さんも多く見掛けました。
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デルフトは観光の町でもありますが、生活も密着しているので運河沿いは駐車場になっているのが少々残念です。
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デルフトから自家用車が排除出来たら更に美しい街になるでしょうね。ブリュージュが地下駐車場を造って街中から自家用車を減らしたようになれば良いと思います。
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ベルギーとオランダでよく見掛けた水鳥の巣です。白鳥もカモもちょうど子育ての時期でした。
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DIYの店に木地のままの木靴が売っていたので買う事にしました。塗装した物も綺麗でしたが、余計なシールが貼ってあるので買う気がしませんでした。ちょうど16
センチのものがあったので決めましたが、帰国後に4歳の姪に履いてもらったらちょうど良い寸法でした。 -
オランダでよく見掛けたチーズ屋さんは試食が出来るので見つける度に店に入っていました。最終的に何度もお世話になったのでアムステルダムの店でかなりの買い物をしましたが持って帰るのは重たかったです。
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店の中で生乳をかき混ぜてチーズを作っています。
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こちらでは木製のチューリップも大量購入しました。4本5ユーロと造りの割には安いお値段です自宅用に12本買った後に想像しました。「家に来た母と姪に持っていかれる…。」追加で母に4本と姪のために4本買い足しました。これは大正解でした。先ほど買った木靴を壁に立て掛けてチューリップを差し込むととても綺麗でした。
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アムステルダム近郊のアルクトマールではお祭りでこれを担いで走るレースがあるのを思い出しました。
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ブリュージュやアントワープで買い物をいっぱいして落ち着いていた購買欲が、オランダに入ったらまた全開しそうです。
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「プリンセンホフ博物館」に来ました。元々は1403年に設立された修道院でしたが、1572年から84年に掛けてオラニエ公ウィレム1世の住居になります。1584年の皇太子の暗殺によって、総督や大使や他の重要な客のための住居として使われました。
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1698年には布織工のギルドのために使われ、貿易商や薬剤師のギルドとしても使われたようです。 1925年にデルフト議会の完全な所有に戻った後に修復作業が行われます。 1947年以降は地方の博物館として成り立っています。 オラニエ公のウィレム1世が最後の夕食を楽しんだ有名な弾痕のある部屋は別に、歴史的な絵画や調度品を見ることが出来ます。
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ウィレム1世は八十年戦争勃発時の中心人物で、オランダ独立国家(ネーデルラント連邦共和国)の事実上の初代君主です。「沈黙公」として知られていますが、これは反乱直前の時期の旗幟鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には誰にでも愛想がよく非常におしゃべりであったそうです。
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「オラニエ公のウィレムの死の肖像」
暗殺された直後の姿でしょうね。この博物館のキャプションを読んでいるとオランダの歴史を辿っていることに気付きます。 -
スペインとの戦いが続く中の1584年7月10日にウィレムはこの館でフェリペの賞金目当てのフランス人のカトリック教徒バルタザール・ジェラールによって暗殺されます。昼食を取るために2階の書斎から1階へ下りようとしたウィレムは、突然現れた暗殺者から3発の銃弾を浴びせられ、「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられています。階段の壁にはその時の弾痕が今も残されています。
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「オラニエ公ウィレム1世の肖像」
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「22歳のウィレム1世の肖像」
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この辺りからこのプリンセンホフ博物館が凄い場所だと感じ始めました。ガイドブックを読んでもそんなに大した事の無いような記述しかありません。
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「カール5世の肖像」
父からハプスブルク家の血を受け継いで神聖ローマ皇帝になっていますが、生まれはフランドルのヘン(現在のゲント)なので、母語は当時のフランドル貴族の公用語だったフランス語でした。カール5世はフランス人の血を色濃く引いているわけではありませんが、フランスとパリをこよなく愛していたそうで、フランス社交界でも「シャルル・カン」として知られていたそうです。 -
「フェリペ2世の肖像」
スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した王で、絶対主義の代表的君主の1人です。彼の治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパから中南米とアジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大しています。 -
しかしその栄光の時代も1588年のアルマダ海戦の敗北や、長期にわたるオランダ独立戦争である八十年戦争など膨大な戦費で財政が破綻していきます。
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「王座のアルバ公」
1568年にアルバ公がエグモント伯を処刑する場面です。 -
アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドは1567年フェリペ2世よりネーデルラント総督に任ぜられ、恐怖政治をおこないオランダの独立戦争の端を開いたといわれます。
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王座の後ろでは悪魔が王冠を持って笑っているようです。
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ネーデルラントは自治権をもった17の地方からなる連合体でしたが、16世紀初めにカール5世がカルロス1世としてスペイン国王に即位するとこの地域を継承し統治を開始します。やがてカルロス1世は新教を弾圧しはじめます。
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1567年7月にアルバ公が率いる軍隊がネーデルラントに進入します。
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彼は反乱の指導者を「血の法廷」にかけて、多数の貴族や市民を処刑します。
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鉄の首輪を科せられた女性たちは17の自治州を表したものでしょうか。足元にそれぞれの州の紋章をたずさえています。
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「聖像破壊」
ヘンドリック・ファン・ステーンウィック
ウィレム1世はフィリップ2世が主張した異教徒の残忍な迫害に愕然とします。1566年に偶像破壊主義運動がフランドルで起こり、それらは抑えがたい情熱のようにオランダの全域に広がります。 -
16世紀の宗教改革で原理主義的なプロテスタントがキリストや聖人の画像は偶像に相当するとして教会に飾ることを禁じます。プロテスタントの教会には今でも十字架以外ほとんど何も飾られていない観光客には面白味のないものになっています。
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日本で言うところの廃仏毀釈といったところでしょう。この時にどれだけの美術品が失われたかと思うと恐ろしい話です。
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「アルバ公爵の肖像」
アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドの肖像です。 -
「オステンドの包囲」
八十年戦争においてスペインからの独立を支持したオステンドは1601年から1604年までの1172日間スペイン軍に包囲され、解放されるまでに15万人以上の死傷者を出します。第1次世界大戦中はドイツ軍に占領されUボート基地があったためにイギリス海軍の攻撃も受けています。表現主義絵画の画家ジェームス・アンソールはここに生まれ、その生涯のほとんどをオステンドで暮らしたように、現在は北海沿いの一大リゾート地になっているそうです。 -
「オランダ騎兵隊とスペイン歩兵連隊の間の戦い」
パウルス・ファン・ヒレガート
フェリペ2世の軍は経験豊かで非情な軍隊から構成されていました。反乱軍はこれらの王室の軍隊によって退けられていました。 -
都市を占領することは両軍にとって非常に重要な問題です。八十年戦争の間このような騎兵隊と反乱軍の野戦は繰り広げられていたのでしょう。
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「オランジェ家ウィリアムと兄弟の肖像」
左上がウィレム1世で3人の弟と一緒の肖像画です。ナッサウ家の弟達も兄と共に戦争に加わっており、多くは先立って命を落としたそうです。
4人の弟たちのローデウェイクはモーケル・ヘイデの戦で戦死し、アドルフは独立戦争初期にハイリヘルレーの戦で戦死し、ヘンドリックもモーケル・ヘイデの戦で戦死しています。 -
キャプションを読んでいくと本当にここがオランダの国家樹立にとって大切な場所だと感じてきます。
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ブツブツだった自分の知識が繋がっていく高揚感を感じました。
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「オランジェ公ウィレムの寓意」
この絵はオランダの国の成り立ちにおけるオランジェ公ウィリアム1世の役割を表しています。勝利の行列は象に曳かれる車に乗った甲胄を着ているウィレムを称えています。その前の車には死の床のウィレムを表し、隣立つ黒い甲冑の3人は先に亡くなった彼の弟たちです。 -
天から舞い降りる天使たちは花輪やオランジェを意味するオレンジの花輪を持って彼の功績を讃えています。
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「ユリアナ女王の肖像」
現国王のおばあさんでウィルヘルミナ女王とメクレンブルク公ハインリヒ(ヘンドリック)の娘としてハーグで生まれています。1937年にリッペ=ビーステルフェルト公ベルンハルトと結婚し1938年に長女ベアトリクス王女を出産します。その後もイレーネ王女、マルフリート王女、クリスティーナ王女が誕生し、4人の娘に恵まれました。 -
「ベアトリクス女王の肖像」
ベアトリクス・ウィルヘルミナ・アルムハルト・ファン・オラニエ=ナッサウが本名です。その名前に歴史を感じます。2013年に息子さんに王位を譲っています。その後はまた王女に戻るのですね。 -
オランダの歴史を学ぶには持って来いの場所だと思いました。本を読むより展示されている絵画を読み解いていく方がはるかに勉強になります。
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「アーケードから望むデルフトの眺望」
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想像上のアーケードからの眺めですが、現在とあまり変わらに風景だったことが分かります。昔は市内に風車まであったのですね。
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「ウインドウの母と子」
ヘンドリック・ファン・デル・バーグ -
ヘンドリックはピーテル・ファンホーホの義理の兄弟です。女性と子供の立ち位置が部屋の中から表を眺めているような感じがします。
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「石膏のキューピッド像のある静物画」
ジャック・ド・クラゥ -
五十のなかばに差し掛かるとヴァニタスの意味する「人生の空しさの寓意」に惹かれてきます。今回の旅では特にそう感じました。
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「部屋のインテリア」
ピート・クレイマー -
窓際の棚には明の陶器と壁にはインドネシアの影絵ワヤン・クリッの操り人形が掛けられています。オランダと植民地だったインドネシアの繋がりを想像させます。
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こういった解剖の授業の絵は発注されて描かれたものだと思いますが、当時の流行だったのでしょうね。
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こちらでは脳の解剖をしてます。
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「ウィレム・ファン・デル・メールの解体授業」
医者のウィレム・ファン・デル・メールとその仲間たちの集団肖像画です。冬の季節には旧教会で毎週のように解剖の勉強が行われていたそうです。燭台のロウソクは香りがあり、死体の悪臭を感じさせないために置かれていました。糸と針の入ったボールは死体の腹部の近くに置かれます。 -
肖像画の部屋。
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一対の肖像画に目が止まりました。
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「ウィレム・デ・ランゲの肖像」
ウィレム・デ・ラングはデルフトの民事法の公証人で、デルフトの芸術のための重要人物だったそうです。 -
「マリア・ピニャクールの肖像」
ウィレム・デ・ラングは1625年にマリアと結婚します。彼のコレクションにはレンブラントやディーラー、ハンス・ヨルダーンスが含まれ、ヨハネス・フェルメールの絵も持っていたそうです。 -
「デルフト市庁舎」
現在と変わらない風景のようです。自転車が走っていないのと、左手のチーズ屋が無いこと以外は。 -
「デルフトの旧教会の風景」
これも電線が無い事と運河沿いに停められた車が無いこと以外は現在と変わりません。 -
アール・ヌーヴォーの時代のタイル看板も印象深いです。
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館内を案内してくれるプロジェクションマッピングも面白かったです。
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17世紀のデルフトタイルです。オランダでスズ釉陶器の生産がもっとも盛んだったのは、1640年から1740年のことで、1640年ごろから個人のモノグラムや工房の意匠に、デルフト陶器が使用されるようになっていきます。画家だけでなく絵付けを行う陶芸職人も参加を義務付けられていた芸術家ギルドである聖ルカ組合には、1610年から1640年にかけて10名の陶芸職人が登録され、1651年から1660年にかけて9名の陶芸職人が登録されています。
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古いデルフト陶器のコレクションがありました。これも大変見応えのあるものでした。オランダ黄金時代にはオランダ東インド会社によって、17世紀初頭の中国磁器がオランダに大量に輸入されています。オランダにもたらされた中国磁器の優れた品質と精密な絵付けが、デルフトの陶器職人にも大きな影響を与えています。
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明の万暦帝が1620年に死去し、中国磁器のヨーロッパへの輸入が途絶えるとデルフトではその模倣品の制作をするようになります。ヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」にも、この時期のデルフト陶器の皿が描かれています。
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古くて良い陶器を見てしまうと現代のデルフト陶器にはあまり魅力を感じませんでした。何より値段が高すぎます。
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ポルトガルのカルダス・ライーニャのボルダロ社の陶器を思い出しました。
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この非常に精巧に造られた陶器は非常に魅力的でした。
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モチーフは中国的で菊の花や霊芝が描かれています。京焼の陶芸作家三浦竹泉の作品のようでもありました。
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思いがけないプリンセンホフ博物館の充実した見学でした。そしてその興奮は新教会まで続きます。
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ベルギーとオランダでよく見掛けたカオナシと呼んでいた水鳥は「千と千尋の神隠しのカオナシ」か「エヴァンゲリオン」の使徒のようでもあります。和名はオオバンという水鳥ですが、その名前が分かったのはロンドン旅行へ行った時でした。
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お土産にキャンドルホルダーを幾つか買いました。
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運河の水は濁っているようでしたが水中の水草が見えていました。つつじの花も綺麗に咲いていました。
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フェルメールセンターには入りませんでした。フェルメールのコピー作品は池袋西武のギャラリーで観たことがありました。
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「新教会」の見学です。旧教会でレシートを貰ってあったので、ここではお金は払いません。後期ゴシックの十字形のバシリカは1383年から1510年に建設されています。 塔は火事と稲妻による火事で2回も再建されています。 108.75メートルの塔はオランダで2番目に高い教会の塔で、1番はユトレヒトの塔だそうです。 イコノクラスムによって当初ローマカトリック教会でしたが、1572年にプロテスタントの教会になりました。 1654年の火薬店の爆発によって中世のステンドグラス窓は失われ、1927年以降新しいウインドウに変わります。これらの多くの主題はオランジェ家の人々です。この教会で最も大きくて最も有名な霊廟はオランジェ公ウィレム1世のものです。そして王族の歴代の霊廟はこの記念碑の下にあります。
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オランダの皇族の最終的な休息所として使われ、葬儀の際はこの巨大な石の板が退かされて地下の霊廟に入ることが出来ます。ウィレム1世が亡くなった後と、その息子が亡くなった時にスペイン人の霊廟はオランジェ家の霊廟に変えられたそうです。
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イチオシ
オランジェ公ウィレム1世の霊廟です。バロック風の美しい白大理石が印象的です。
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彼はドイツの町で生まれて11才で所有地を相続します。 そして51歳で暗殺されることになります。
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オランジェ公ウィレム1世は生涯で4回結婚したそうです。18才でアンナ・バン・エグモントと結婚しましたが1558年に死別します。 1561年にアンナ・バン・サクセンと結婚しましす。この女性は不貞を働き結婚は離婚で終わります。1575年シャーロット・デ・ブルボンと3回目の結婚をし、4回目はルイーズ・デ・コリニーと結婚しました。彼より長生きして1620年に亡くなります。4回の結婚で12人の子供に恵まれたそうです。
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スペインのフェリペ2世は1580年にウィレム1世の暗殺を企てます。フェリペは暗殺者に25000枚の金貨を支払います。幾度かの失敗の後にバルタザル・ジェラードは2丁の拳銃を買って、食堂の近くの階段でウィレム1世を暗殺します。階段には弾痕が残っていました。
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静かに横たわる大理石のオランジェ公ウィレム1世の姿です。
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イチオシ
1584年の彼の死後に新教会に埋葬されますが、数年後に国父のためには不十分と考えられ改葬されます。 1614年にアムステルダムの建築家で彫刻家のヘンドリック・デ・カイザーは、新しい霊廟を設計するよう依頼されました。彼は柱で支えられた天蓋を死の床の上に横たわる大理石像の上に造りました。 彼の足の近くに愛犬の姿があります。主人の亡くなった後は2度と食べ物を口にしなかったそうです。
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回廊のステンドグラスにもウィレム1世の姿を見ることが出来ます。
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精緻な紋章も描かれています。
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白馬にまたがった姿も再現されています。
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一番最近にこの扉が開けられたのはベアトリクス前女王の王配であるクラウス・フォン・アムスベルクが亡くなった時で、その様子のビデオが教会内で流されていました。クラウス・フォン・アムスベルクはドイツ人だったうえに少年時代はヒトラー・ユーゲントに所属していた経歴もあり、オランダ国民から非難されたこともあったそうですが、後に国民の広い人気を集めるようになったそうです。
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地下の模型が置かれてありました。
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この階段の部分に巨大な黒い石板が置かれている訳です。デルフトに来たらまずプリンセンホフ博物館へ行き、その後に新教会へ来ることをお薦めします。アムステルダムの国立美術館でもウィレム1世の肖像画や霊廟の大理石彫刻のテラコッタ模型を見ることが出来ます。足元にたたずむ愛犬のテラコッタを見たときは感動しました。
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デルフトの観光もこれで終わりです。ロッテルダムとデルフトが非常に近い距離にあると知って驚き、そしてその町の違いにも驚かされました。
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運河沿いの家の地下レストランまで水位が10センチくらいしか無くて気になります。多分何度も水害には遭っているのでしょう。
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煉瓦の壁に貼られたデルフトタイルの横には。
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同じ形の魚市場が残っていました。でも持ち帰れない観光客には買えません。
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ホテルの位置が駅前だったのもあり、結果的にはデルフトに2泊して良かったと思います。月曜日にロッテルダム観光になってしまい、美術館に行くために翌日に戻る必要が出来て観光の時間が減ってしまったのは残念なことで、ここでの運河クルーズは楽しめませんでした。旅はデン・ハーグへと続きます。
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旅行記グループ 2015 ベルギー・オランダの旅(2)
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