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1963年のアメリカ映画、『ローマの休日』で、オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所です。今回のイタリア旅行の前に、久し振りにCDで観賞しました。ヘプバーン(1929~1993年)は、本当に魅力のある歴史的大女優でした。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

2013秋、イタリア旅行記2(23/53):9月28日(4):ローマ(4):スペイン広場、オベリスク、船の泉水

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2013/09/24 - 2013/10/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

1963年のアメリカ映画、『ローマの休日』で、オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所です。今回のイタリア旅行の前に、久し振りにCDで観賞しました。ヘプバーン(1929~1993年)は、本当に魅力のある歴史的大女優でした。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

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  • スペイン広場の奥、ミニャネッリ広場にあるコロンナ(柱)です。12月8日の聖マリア無原罪のお宿りの祝日には、このコロンナにローマ教皇が花輪をかける行事があるようです。これは19世紀、ローマ教皇の『ピウス9世(在位:1846~1878年)』の命により設置されたものです。『コロンナ・デッラ・インマコラータ(無原罪の聖母の柱)』と呼ばれています。この写真では後ろ向きの姿になりましたが、マリア様の右手には花輪が掛かっていました。

    スペイン広場の奥、ミニャネッリ広場にあるコロンナ(柱)です。12月8日の聖マリア無原罪のお宿りの祝日には、このコロンナにローマ教皇が花輪をかける行事があるようです。これは19世紀、ローマ教皇の『ピウス9世(在位:1846~1878年)』の命により設置されたものです。『コロンナ・デッラ・インマコラータ(無原罪の聖母の柱)』と呼ばれています。この写真では後ろ向きの姿になりましたが、マリア様の右手には花輪が掛かっていました。

  • 『コロンナ・デッラ・インマコラータ(無原罪の聖母の柱)』の下部のズームアップ光景です。毎年12月8日の行事は、消防士がはしご車を使って花輪を捧げる(交換する)セレモニーが1923年以来続いていて、1953年からはローマ教皇が臨席するようになったとされます。台座のプレートには、このマリア像がローマ教皇の『ピウス9世』により設置されたことが記されていました。

    『コロンナ・デッラ・インマコラータ(無原罪の聖母の柱)』の下部のズームアップ光景です。毎年12月8日の行事は、消防士がはしご車を使って花輪を捧げる(交換する)セレモニーが1923年以来続いていて、1953年からはローマ教皇が臨席するようになったとされます。台座のプレートには、このマリア像がローマ教皇の『ピウス9世』により設置されたことが記されていました。

  • 更にズームアップした、『コロンナ・デッラ・インマコラータ』の下部の像の光景です。この塔は、『無原罪の御宿り教義宣言』から3年後の1857年に建てられました。下部にある4人の像は、モーセ、イザヤ、ダビデ王、エゼキエルの預言者とのネット情報もありました。例えばエゼキエルは、旧約聖書に登場する紀元前6世紀頃のバビロン捕囚時代のユダヤ人の預言者です。

    更にズームアップした、『コロンナ・デッラ・インマコラータ』の下部の像の光景です。この塔は、『無原罪の御宿り教義宣言』から3年後の1857年に建てられました。下部にある4人の像は、モーセ、イザヤ、ダビデ王、エゼキエルの預言者とのネット情報もありました。例えばエゼキエルは、旧約聖書に登場する紀元前6世紀頃のバビロン捕囚時代のユダヤ人の預言者です。

  • ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教など多くの宗教において、最重要な預言者の一人とされるモーゼ(モーセ)についての紹介です。子供の頃に観たチャールトン・ヘストン主役の『十戒』は、今も鮮明に記憶に残っています。旧約聖書の『出エジプト記』などに著され、紀元前16世紀または紀元前13世紀頃に活躍したと推測されています。古代イスラエルの民族指導者で、ヤハウェを神としました。

    ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教など多くの宗教において、最重要な預言者の一人とされるモーゼ(モーセ)についての紹介です。子供の頃に観たチャールトン・ヘストン主役の『十戒』は、今も鮮明に記憶に残っています。旧約聖書の『出エジプト記』などに著され、紀元前16世紀または紀元前13世紀頃に活躍したと推測されています。古代イスラエルの民族指導者で、ヤハウェを神としました。

  • 次は、イザヤの紹介です。イザヤは旧約聖書に登場する預言者です。古代イスラエルに存在したユダ王国(紀元前10世紀~紀元前6世紀)の預言者とされます。ユダ王国は、エジプトと結んでバビロニアと対抗しようという企てが露見したため、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちが首都バビロニアへ連行される、『バビロン捕囚』が起きました。

    次は、イザヤの紹介です。イザヤは旧約聖書に登場する預言者です。古代イスラエルに存在したユダ王国(紀元前10世紀~紀元前6世紀)の預言者とされます。ユダ王国は、エジプトと結んでバビロニアと対抗しようという企てが露見したため、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちが首都バビロニアへ連行される、『バビロン捕囚』が起きました。

  • 最後に紹介の預言者は、古代イスラエルのダビデ王(在位:紀元前1000~紀元前961年頃)です。羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に就くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間君臨しました。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場する預言者です。

    最後に紹介の預言者は、古代イスラエルのダビデ王(在位:紀元前1000~紀元前961年頃)です。羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に就くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間君臨しました。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場する預言者です。

  • 映画『ローマの休日』ではヘプバーンが演じるアン王女が、スペイン階段でジェラートを食べているシーンがありますが、2004年に制定された条例によって、スペイン広場とトレヴィの泉での飲食は禁止されています。スペイン広場は、間近にあるスペイン大使館に因んで命名されました。『スパーニャ広場』とも呼ばれます。(ウィキペディア)

    映画『ローマの休日』ではヘプバーンが演じるアン王女が、スペイン階段でジェラートを食べているシーンがありますが、2004年に制定された条例によって、スペイン広場とトレヴィの泉での飲食は禁止されています。スペイン広場は、間近にあるスペイン大使館に因んで命名されました。『スパーニャ広場』とも呼ばれます。(ウィキペディア)

  • 『スペイン広場』には、右上に見えるトリニタ・ディ・モンティ教会へと続くトリニタ・ディ・モンティ階段、通称『スペイン階段』があります。 この138段の階段は、著名な彫刻家の『アレッサンドロ・スペッキ』によって設計もしくは施工されたようですが、はっきりとした情報は見つかりませんでした。横から見ると、波を打つような魅力的な造りの階段です。(同上)

    『スペイン広場』には、右上に見えるトリニタ・ディ・モンティ教会へと続くトリニタ・ディ・モンティ階段、通称『スペイン階段』があります。 この138段の階段は、著名な彫刻家の『アレッサンドロ・スペッキ』によって設計もしくは施工されたようですが、はっきりとした情報は見つかりませんでした。横から見ると、波を打つような魅力的な造りの階段です。(同上)

  • 『スペイン階段』の正式名称は『スカリナータ・ディ・トリニタ・ディ・モンティ(Scalinata di Trinità dei Monti)』とされます。1725年にフランス外交官の寄付で完成しました。階段の上にはフランス教会の『トリニタ・ディ・モンティ(Chiesa della Trinit_ dei Monti)』が建っています。ゴシック様式のこの教会は1502年に制作が始まり、16世紀末に完成しました。(アーモイタリア)

    『スペイン階段』の正式名称は『スカリナータ・ディ・トリニタ・ディ・モンティ(Scalinata di Trinità dei Monti)』とされます。1725年にフランス外交官の寄付で完成しました。階段の上にはフランス教会の『トリニタ・ディ・モンティ(Chiesa della Trinit_ dei Monti)』が建っています。ゴシック様式のこの教会は1502年に制作が始まり、16世紀末に完成しました。(アーモイタリア)

  • 当時は丘の上のこの教会と下のスペイン広場は崖で区切られていてき、行き来は大変だったようです。そこでフランス側の寄付で、ここに大使館があったスペインとフランスの両国間の平和を願って1725年に大階段が建設されました。これで崖の下と上が繋がりました。(同上)、いろいろな情報がありましたが、この情報が一番確かそうでした。イタリア在住の日本人の方の旅行案内です。

    当時は丘の上のこの教会と下のスペイン広場は崖で区切られていてき、行き来は大変だったようです。そこでフランス側の寄付で、ここに大使館があったスペインとフランスの両国間の平和を願って1725年に大階段が建設されました。これで崖の下と上が繋がりました。(同上)、いろいろな情報がありましたが、この情報が一番確かそうでした。イタリア在住の日本人の方の旅行案内です。

  • 中央に見えるのが、『サルスティアーノ・オベリスク』です。スペイン階段の上のトリニタ・ディ・モンティ広場に建っています。『世界に現存するエジプトのオベリスクは30本とされ、その内の13本がローマにあります。(ウィキペディア)』、このオベリスクが、その内の1本です。その背後に見えるのが、『トリニタ・ディ・モンティ(Trinità dei Monti)教会です。『トリニタ』は『三位一体(さんみいったい)』、『モンティ』は『丘』の意味です。キリスト教での『三位一体』とは、『父(神)と子(キリスト)と聖霊は、一つの神が三つの姿となって現れたものであるという考え方』を指します。しかし、キリスト教内の各教派において、聖霊についての捉え方・考え方には、共通する部分と異なる部分があり、非キリスト教の立場では論じにくい問題です。

    イチオシ

    中央に見えるのが、『サルスティアーノ・オベリスク』です。スペイン階段の上のトリニタ・ディ・モンティ広場に建っています。『世界に現存するエジプトのオベリスクは30本とされ、その内の13本がローマにあります。(ウィキペディア)』、このオベリスクが、その内の1本です。その背後に見えるのが、『トリニタ・ディ・モンティ(Trinità dei Monti)教会です。『トリニタ』は『三位一体(さんみいったい)』、『モンティ』は『丘』の意味です。キリスト教での『三位一体』とは、『父(神)と子(キリスト)と聖霊は、一つの神が三つの姿となって現れたものであるという考え方』を指します。しかし、キリスト教内の各教派において、聖霊についての捉え方・考え方には、共通する部分と異なる部分があり、非キリスト教の立場では論じにくい問題です。

  • 更に近づいて眺めた、『サルスティアーノ・オベリスク』と、『トリニタ・ディ・モンティ教会』の光景です。オッリスクは、ピンチョの丘の辺りにあったサルスト庭園の土中から発見されましたので、『サルスティアーノ・オベリスク』と呼ばれています。1789年に教皇ピウス6世によってここに移されました。因みに1789年は、『フランス革命(1789年7月14日~1795年8月22日)』が始まった年です。サルスティウスの庭園は、ローマ皇帝の私有地で、競技場や神殿のような公的な場所ではなかったようです。

    更に近づいて眺めた、『サルスティアーノ・オベリスク』と、『トリニタ・ディ・モンティ教会』の光景です。オッリスクは、ピンチョの丘の辺りにあったサルスト庭園の土中から発見されましたので、『サルスティアーノ・オベリスク』と呼ばれています。1789年に教皇ピウス6世によってここに移されました。因みに1789年は、『フランス革命(1789年7月14日~1795年8月22日)』が始まった年です。サルスティウスの庭園は、ローマ皇帝の私有地で、競技場や神殿のような公的な場所ではなかったようです。

  • 『サルスティアーノ・オベリスク』の最先端部分のズームアップ光景です。ブロンズ製らしい十字架や飾りがありました。このオベリスクが見つかったとされる庭園は、現在の在ローマ日本大使館から徒歩1分ほどにあり、『サッルスティウス庭園(Holti Sallustiani)』として遺跡になっています。紀元前1世紀のローマの政治、歴史家の ガイウス・サッルスティウス・クリスプスが造り、後にローマ皇帝の別荘となっていました。イタリア式庭園やフランス式庭園の原型となる庭園が存在しました。庭園内には、散歩中に日差しや雨から避けるための木々や噴水、温泉施設、神殿などがあり、彫刻像が配置され、ギリシャから運ばれたものまでありました。

    『サルスティアーノ・オベリスク』の最先端部分のズームアップ光景です。ブロンズ製らしい十字架や飾りがありました。このオベリスクが見つかったとされる庭園は、現在の在ローマ日本大使館から徒歩1分ほどにあり、『サッルスティウス庭園(Holti Sallustiani)』として遺跡になっています。紀元前1世紀のローマの政治、歴史家の ガイウス・サッルスティウス・クリスプスが造り、後にローマ皇帝の別荘となっていました。イタリア式庭園やフランス式庭園の原型となる庭園が存在しました。庭園内には、散歩中に日差しや雨から避けるための木々や噴水、温泉施設、神殿などがあり、彫刻像が配置され、ギリシャから運ばれたものまでありました。

  • 『サルスティアーノ・オベリスク』の最先端部分の飾りは、推測ですが、この場所に設置される時に、台座などとともに付加されたように見えました。このヒエログリフの碑文は、エジプトで刻まれたオリジナルではなく、紀元1~2世紀頃のローマ帝国時代にコピーされたとする説もあるようです。といっても2千年近くも前のことですから、その真偽を確認するのは難しそうです。

    『サルスティアーノ・オベリスク』の最先端部分の飾りは、推測ですが、この場所に設置される時に、台座などとともに付加されたように見えました。このヒエログリフの碑文は、エジプトで刻まれたオリジナルではなく、紀元1~2世紀頃のローマ帝国時代にコピーされたとする説もあるようです。といっても2千年近くも前のことですから、その真偽を確認するのは難しそうです。

  • 同じく、『サルスティアーノ・オベリスク』に刻まれたヒエログリフの碑文のズームアップ光景です。『ヒエログリフ(hieroglyph:聖刻文字、神聖文字)は、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの一つです。エジプトの遺跡に多く記されていて、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられています。しかし、その後読み方は忘れ去られてしまい、19世紀になって、『ロゼッタ・ストーン』の解読以降に読めるようになりました。『ロゼッタ・ストーン』の所有権争いは、イギリス、フランスとエジプトの間で決着がついていませんが、大英博物館で見ることが出来ます。元々の所有者はエジプトだったことだけは確かです。

    同じく、『サルスティアーノ・オベリスク』に刻まれたヒエログリフの碑文のズームアップ光景です。『ヒエログリフ(hieroglyph:聖刻文字、神聖文字)は、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの一つです。エジプトの遺跡に多く記されていて、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられています。しかし、その後読み方は忘れ去られてしまい、19世紀になって、『ロゼッタ・ストーン』の解読以降に読めるようになりました。『ロゼッタ・ストーン』の所有権争いは、イギリス、フランスとエジプトの間で決着がついていませんが、大英博物館で見ることが出来ます。元々の所有者はエジプトだったことだけは確かです。

  • スペイン階段の途中から眺めた、『サルスティアーノ・オベリスク』と、『トリニタ・ディ・モンティ教会』の光景です。『ヒエログリフ』についての補足です。初めて解読に成功したのは、19世紀のフランス人学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンとされます。彼はキルヒャーの収集した資料を研究し、ロゼッタ・ストーンの解読を行うことで読み方を解明しました。これが突破口になり、その後も研究が進んだため、現代ではヒエログリフは比較的簡単に読むことができるようです。

    スペイン階段の途中から眺めた、『サルスティアーノ・オベリスク』と、『トリニタ・ディ・モンティ教会』の光景です。『ヒエログリフ』についての補足です。初めて解読に成功したのは、19世紀のフランス人学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンとされます。彼はキルヒャーの収集した資料を研究し、ロゼッタ・ストーンの解読を行うことで読み方を解明しました。これが突破口になり、その後も研究が進んだため、現代ではヒエログリフは比較的簡単に読むことができるようです。

  • トリニタ・ディ・モンティ広場の片隅の光景です。作品に日傘をかけて日焼けを防ぎ、その傍らでスケッチに余念のない方がいました。フランスやイタリアでは、風景画のスケッチや絵葉書を買い求めたことがあります。この場所からはローマの市街が眺望できました。諸プ面、やや左側に大きなドーム屋根が見えていました。

    トリニタ・ディ・モンティ広場の片隅の光景です。作品に日傘をかけて日焼けを防ぎ、その傍らでスケッチに余念のない方がいました。フランスやイタリアでは、風景画のスケッチや絵葉書を買い求めたことがあります。この場所からはローマの市街が眺望できました。諸プ面、やや左側に大きなドーム屋根が見えていました。

  • トリニタ・ディ・モンティ広場から遠望した、ドーム屋根のズームアップ光景です。ヴァチカン市国のサン・ピエトロ寺院の建物のようでした。地図で確認しますと、スペイン広場からは、ほぼ西側に位置します。ヴァチカン市国については、この後、少し詳しく紹介します。ヴァチカンは、ローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば『総本山』です。ヴァチカンの統治者は教皇です。国籍は、聖職に就いている間に限り与えられます。

    トリニタ・ディ・モンティ広場から遠望した、ドーム屋根のズームアップ光景です。ヴァチカン市国のサン・ピエトロ寺院の建物のようでした。地図で確認しますと、スペイン広場からは、ほぼ西側に位置します。ヴァチカン市国については、この後、少し詳しく紹介します。ヴァチカンは、ローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地、いわば『総本山』です。ヴァチカンの統治者は教皇です。国籍は、聖職に就いている間に限り与えられます。

  • 『スペイン階段』の途中から眺めたローマ市街光景です。次に見学に向かったのは、階段の上り口に位置する『船の泉水』です。この泉水の彫刻作品は、1629年にローマ教皇のウルバヌス8世(在位:1623~1644年)』により、彫刻家の『ピエトロ・ベルニーニ(1562~1629年)』と『ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598~1680年)』の親子に注文されました。

    『スペイン階段』の途中から眺めたローマ市街光景です。次に見学に向かったのは、階段の上り口に位置する『船の泉水』です。この泉水の彫刻作品は、1629年にローマ教皇のウルバヌス8世(在位:1623~1644年)』により、彫刻家の『ピエトロ・ベルニーニ(1562~1629年)』と『ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598~1680年)』の親子に注文されました。

  • 同じく、『スペイン階段』の途中から眺めた階段上り口付近の光景です。人だかりがしている場所が、『船の泉水』な場所のようでした。ベルニーニは、テヴェレ川が1598年に氾濫した際に、一艘の舟がこの場所まで流れ着いたという話から、この形を発想したようです。この洪水の際には、ローマ教皇の『クレメンス8世(在位:1592~1605年)』が広場を横切る際に船を利用したとされます。

    同じく、『スペイン階段』の途中から眺めた階段上り口付近の光景です。人だかりがしている場所が、『船の泉水』な場所のようでした。ベルニーニは、テヴェレ川が1598年に氾濫した際に、一艘の舟がこの場所まで流れ着いたという話から、この形を発想したようです。この洪水の際には、ローマ教皇の『クレメンス8世(在位:1592~1605年)』が広場を横切る際に船を利用したとされます。

  • スペイン広場の中央、スペイン階段の下にある『船の泉水』の光景です。『小舟の噴水』や『バルカッチャの噴水』とも呼ばれます。1629年に『ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598~1680年)』によって造られました。『ベル二ーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた』と賞賛された、バロック芸術の巨匠です。(ウィキペディア)

    イチオシ

    スペイン広場の中央、スペイン階段の下にある『船の泉水』の光景です。『小舟の噴水』や『バルカッチャの噴水』とも呼ばれます。1629年に『ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598~1680年)』によって造られました。『ベル二ーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた』と賞賛された、バロック芸術の巨匠です。(ウィキペディア)

  • スペイン階段の下にある『船の泉水』のズームアップ光景です。古代遺跡が残る古き都ローマは、彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していきました。人々は彼の作品を『芸術の奇跡』と絶賛しました。その功績は、1984年から1999年まで発行された50000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣の裏面に肖像が採用されていました。(同上)

    スペイン階段の下にある『船の泉水』のズームアップ光景です。古代遺跡が残る古き都ローマは、彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していきました。人々は彼の作品を『芸術の奇跡』と絶賛しました。その功績は、1984年から1999年まで発行された50000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣の裏面に肖像が採用されていました。(同上)

  • 『船の泉水』の付近から眺めたローマ市街の光景です。全て石畳が敷かれた広場になっていました。中央やや右手に、右向きの矢印で地下鉄駅を記した赤い標識がありました。スペイン広場の地下鉄最寄り駅は、スペインを意味する地下鉄A線のスパーニャ駅になるようです。

    『船の泉水』の付近から眺めたローマ市街の光景です。全て石畳が敷かれた広場になっていました。中央やや右手に、右向きの矢印で地下鉄駅を記した赤い標識がありました。スペイン広場の地下鉄最寄り駅は、スペインを意味する地下鉄A線のスパーニャ駅になるようです。

  • 『Roma Capitale]のタイトルがあった説明看板の光景です。写真を基にしたようなイラスト画には、一番手前に『船の泉水』、『スペイン階段』と、その先に『トリニタ・ディ・モンティ教会』が描かれていました。右側が『スペイン階段』の中見出しがあった英文の説明文でした。1623年から1626年にかけて、『フランシスコ・デ・サンチェス(1693~1740年)』のプロジェクトによって建設されたことや、この場所に『フォンタナ・デッラ・バルカッチャ(古いはしけの噴水)』が、ピエトロ・ベルニーニと彼の息子のジャン・ロレンツォにより、1627~1629年に建設されたことも紹介されていました。

    『Roma Capitale]のタイトルがあった説明看板の光景です。写真を基にしたようなイラスト画には、一番手前に『船の泉水』、『スペイン階段』と、その先に『トリニタ・ディ・モンティ教会』が描かれていました。右側が『スペイン階段』の中見出しがあった英文の説明文でした。1623年から1626年にかけて、『フランシスコ・デ・サンチェス(1693~1740年)』のプロジェクトによって建設されたことや、この場所に『フォンタナ・デッラ・バルカッチャ(古いはしけの噴水)』が、ピエトロ・ベルニーニと彼の息子のジャン・ロレンツォにより、1627~1629年に建設されたことも紹介されていました。

  • 南国ムードを漂わせていた椰子の並木の光景です。大ヒットした1953年製作のアメリカ映画、『ローマの休日』は、主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン、ウィリアム・ワイラーが製作・監督しました。日本でも繰り返しTV放映されるなど、人気が続きました。ローマ観光には、ネット上でも、この作品を引用したコメントが今も絶えません。その映画のあらすじと魅力について、まとめて紹介しておきます。

    南国ムードを漂わせていた椰子の並木の光景です。大ヒットした1953年製作のアメリカ映画、『ローマの休日』は、主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン、ウィリアム・ワイラーが製作・監督しました。日本でも繰り返しTV放映されるなど、人気が続きました。ローマ観光には、ネット上でも、この作品を引用したコメントが今も絶えません。その映画のあらすじと魅力について、まとめて紹介しておきます。

  • 『ローマの休日』のあらすじの紹介です。『イタリアのローマを表敬訪問した、ヘプバーン演じる某国の王女アンと、彼女が滞在先から飛び出し一人でローマ市内に出たとき知り合った、グレゴリー・ペック演じる新聞記者との1日の恋を描いています。スペイン広場、トレヴィの泉や真実の口などローマの名だたる観光スポットが登場します』(ウィキペディア)

    『ローマの休日』のあらすじの紹介です。『イタリアのローマを表敬訪問した、ヘプバーン演じる某国の王女アンと、彼女が滞在先から飛び出し一人でローマ市内に出たとき知り合った、グレゴリー・ペック演じる新聞記者との1日の恋を描いています。スペイン広場、トレヴィの泉や真実の口などローマの名だたる観光スポットが登場します』(ウィキペディア)

  • 『当時新人だったヘプバーンは、本作により1953年のアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞しました。このほか衣裳のイーディス・ヘッドが「最優秀衣裳デザイン賞」を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが「最優秀原案賞」をそれぞれ受賞しています。ただし、ただし、本作の脚本は実際にはダルトン・トランボが執筆したものでした』(同上)

    『当時新人だったヘプバーンは、本作により1953年のアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞しました。このほか衣裳のイーディス・ヘッドが「最優秀衣裳デザイン賞」を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが「最優秀原案賞」をそれぞれ受賞しています。ただし、ただし、本作の脚本は実際にはダルトン・トランボが執筆したものでした』(同上)

  • 『当時のマッカーシー旋風による赤狩りでトランボはハリウッドを追われていたため、名義を借用していました。1970年、全米脚本家組合から功労賞を送られました。これは「ブラックリスト」に載せられたトランボへの「和解」を意味しました。アカデミー賞選考委員会は、本人死後の1993年にトランボへ改めて「1953年最優秀原案賞」を贈呈しました』(同上)

    『当時のマッカーシー旋風による赤狩りでトランボはハリウッドを追われていたため、名義を借用していました。1970年、全米脚本家組合から功労賞を送られました。これは「ブラックリスト」に載せられたトランボへの「和解」を意味しました。アカデミー賞選考委員会は、本人死後の1993年にトランボへ改めて「1953年最優秀原案賞」を贈呈しました』(同上)

  • 『ペックとワイラーは新人ヘプバーンの女優としての力量を引き出すために腐心しました。真実の口のシーンの撮影では、2人は一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じ、ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せました。この自然な演技は、2人を十分満足させるものであり、1テイクでOKが出ました』(同上)

    『ペックとワイラーは新人ヘプバーンの女優としての力量を引き出すために腐心しました。真実の口のシーンの撮影では、2人は一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じ、ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せました。この自然な演技は、2人を十分満足させるものであり、1テイクでOKが出ました』(同上)

  • この日の昼食です。旅行案内には『カプリチョーザと本場ピザ』のお店と紹介されていました。『カプリチョーザ(capricciosa)』は、イタリア語で『気まぐれ』を意味するようです。イタリア料理のメニューで使われる際は、『シェフにおまかせ』の意味に使われるようです。最初は白ワインにしました。

    イチオシ

    この日の昼食です。旅行案内には『カプリチョーザと本場ピザ』のお店と紹介されていました。『カプリチョーザ(capricciosa)』は、イタリア語で『気まぐれ』を意味するようです。イタリア料理のメニューで使われる際は、『シェフにおまかせ』の意味に使われるようです。最初は白ワインにしました。

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