2013/09/24 - 2013/10/02
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旅人のくまさんさん
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マルフィ海岸は、世界一美しい海岸と形容され、1997年に世界文化遺産に登録されました。30キロほどの海岸の中心になるのが、アマルフィの旧市街です。海と山に挟まれた狭隘な地域ですが、歴史は古く、海岸線のネックレスの中で光り輝く宝石のような街です。
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映画のタイトルにもなった『アマルフィ(Amalfi)』という地名は、この土地の開祖がメンフィ(Menfi)という場所を経由して辿り着いたことからアメンフィ(Amenfi)と呼ばれ、それが後になって現在のアマルフィに変わったという説があります』(Amenfi Coast)、この後、アマルフィの歴史の紹介ですが、『アマルフィ公国』の時代は既に紹介しましたので、その前史と、公国が滅びた後の紹介です。
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『西暦337年にローマ皇帝コンスタンティヌス大帝(270~337年)が崩御した後、ローマ貴族たちが船でコンスタンティノープルを目指していましたが、嵐で漂流してこの土地に流されてきました。船旅の継続が困難であると判断した彼らは、海からの攻撃に対して防御に適した丘の上を拠点としてを農耕を主とした生活を始めました。徐々に集落の規模は大きくなり、今日のアマルフィにも人々が移り住むようになりました。そして時は流れて839年、アマルフィはベネヴェントやサレルノを拠点としていたランゴバルド族との紛争を切り抜けて、アマルフィ共和国としての独立を勝ち取りました』(Amenfi Coast)、アマルフィ公国の前史の紹介でした。
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『アマルフィは、1075年に共和国としての歴史に幕を下ろし、ノルマン人ロベルトの統治下に置かれました。統治後も、地中海交易の権益は保たれていましたが、1131年にルジェーロ2世がシチリア王国に従属した後は、ノルマン朝の政策によって東ローマとの通称交易が禁じられ、その特権や商館等をヴェネツィアに明け渡すことになりました』(同上)
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『アマルフィの交易範囲は南イタリア沿岸部のみに縮小されました。さらに1135年と1137年にピサの侵攻を受け、アマルフィは大きな打撃を受けました。しかし、12世紀から13世紀に、市街と建築の再構築、航海技術や貿易の整備を行い、再び賑わいを取り戻すようになります。この頃、フラヴィオ・ジョイアはヨーロッパ初となる羅針盤を使用した航海法、また近代でも評価の高い最古の海事法典アマルフィ海法などが整備されました』(同上)
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『その後は19世紀に至るまで、ナポリ王国と南イタリアを取り巻く政権争いの影響を受けることになります。アンジュー、アラゴン、フランス、スペインと政権が変わるなか、14世紀から16世紀までは封建制の時代が続き、ペストの流行や、自然災害などにより都市機能は損なわれ、18世紀には貴族達もナポリに移住したため、アマルフィは廃墟同然にまで荒廃しました』(同上)
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『19世紀にはいると、ナポレオンの命によりナポリからアマルフィへの陸路が整備され、水車を利用した製紙工業などの産業が復興しました。20世紀には世界の芸術家や文化人、映画監督や俳優たちが集まる南イタリア有数のリゾート地として注目され、1997年には沿岸がユネスコ世界遺産に認定され、現在に至っています』(同上)、アマルフィの歴史の紹介は、ここまでです。
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ツアー旅行の自由時間の時に散策した、アマルフィ市街の光景です。アマルフィは、崖山のために内陸に広がることが出来ず、海側にも広がることが出来ませんので、必然と建物は上に上にと、階を継ぎ達していったようです。細かな数字は忘れましたが、香港も土地が少なく、15階程度の中層階の建物は取り壊され、高層の住宅や商業ビルが次々と誕生していました。香港では、戦後の中華人民共和国の成立や文化大革命により、大量の移民を抱え込むようになったという歴史的背景があります。
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次第に、上に上にと伸びていくように見えたアマルフィの市街光景です。香港の紹介に戻ります。東京都の約半分の面積と領域が狭く、人口密度は、世界で第四位の高密度です。何度も見学した香港では、集合住宅が一般的で、中心市街地では20階を超える高層の集合住宅が数多く立ち並びます。現在では全人口720万人の約99%が集合住宅に居住しているという事実があります。過密化が進んだのは、中国からの大量の移民を抱え込むようになった1978年頃以降からです。それ以前から建設されてきた民間の集合住宅が多く、築30年以上の民間高層住宅が香港全体の50%を超えるといわれています。
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お土産品を扱う店先にあった展示品の紹介です。十字軍と聖アンドレを現わすらしいX字の十字架と、山高帽を被ったコメディアンのような人物が主体の品々でした。中央下部や中間付近に見える黒い犬は、ポンペイの『悲劇詩人の家』の入口の床に描かれていました。ところで、『聖ヨハネ騎士団の歴史は、1023年頃にアマルフィの商人がエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立したことに始まります。テンプル騎士団、ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の一つに数えられます』(ウィキペディア)
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聖ヨハネ騎士団の歴史についての続きです。『本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としましたが、聖地防衛の主力として活躍しました。1113年に教皇パスカリス2世から騎士修道会として正式な承認を得て、1119年に設立されたテンプル騎士団と同様に、徐々に軍事的要素を強めていきました。ホスピタル騎士団ともいい、本拠地を移すに従ってロードス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになりました。現在の正式名称は「エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会」です』(同上)
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聖ヨハネ騎士団の『ロドス騎士団』の紹介です。『1312年にテンプル騎士団の資産が没収され、かなりの部分が聖ヨハネ騎士団に与えられました。また、中東のイスラーム教徒と戦う唯一の主要な騎士修道会となり、西欧から多額の寄進を受けることができました。1522年、オスマン帝国のスレイマン大帝が400隻の船団と20万人の兵で来襲し、騎士団はロドス島を明け渡してシチリア島に撤退しました』(同上)
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聖ヨハネ騎士団の『マルタ騎士団』の紹介です。『再び本拠地をなくした騎士団は、教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借りることになりました。賃貸料は毎年「マルタの鷹」1羽です。このマルタ島でも、ロードス島のときと同様にイスラームやヴェネツィアのユダヤ人に対し海賊行為を行い、奴隷売買の中心地でした』(同上)
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『ロードス騎士団』紹介の続きです。『1565年に再びオスマン帝国の大船団に襲われましたが、スペインの救援とスレイマン1世の死(1566年)によって、辛うじて防衛できました。16世紀の宗教改革以降、その力と存在意義は次第に失われました。1798年、ナポレオン1世のエジプト遠征のついでにマルタ島が奪われ、求心力を失い、1834年に本部はローマに移りました』(同上)
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箱庭風に造られた泉水の光景です。水中から立ち上がった三つの山には、苔や草が生え、何よりも夥しい人形と動物が飾られていました。箱庭風と紹介せずに、ジオラマ展示と紹介したほうがよかったようです。左右の2箇所から水が流れ落ち、澄み切った泉水でした。
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向かって右側からズームアップしたジオラマ展示の光景です。三つの山は、自立したつくりではなく、背後の壁に支えられていました。リアルな表現の人形は、同じ造りは見当たらず、生き生きとした表情と動きの手造り品に見えました。田舎町の暮らしを表現したのでしょうか、なかなか力作のジオラマ展示でした。
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なぜか、玉砂利の広場の上に置かれていたラクダ像です。アラブの商人らしい人が壺を手にして、横座りしたスタイルでした。アラブの商人と呼んだのは、ラクダに乗っていることと、イスラム圏の人らしい髭を生やした姿でした。石造の像ではなく、質感的には、プラスティック製に見えました。
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二頭いましたが、イエス・キリストのことを指す表現の一つ、『神の子(小)羊:かみのこひつじ)』のように見えました。キリスト教神学において、人間の罪に対する贖いとして、イエスが生贄の役割を果たすことを踏まえており、古代ユダヤ教の生贄の習慣にも由来する表現とされます。ミサなどで、『アニュス・デイ(神の子羊)』として歌われます。
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共同住宅のような造りの白い建物の光景です。最初は、この方角で建物の隙間を通って崖下に向きたかったのですが、通れそうな道が見当たりませんでした。無理して通っても私有地に入り込みそうで、躊躇しました。丁寧に探しても、公道らしい道は見つかりそうにない雰囲気でした。
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最初に通り抜けようと目星をつけたのは、方角が90度異なって建てられた事夏建物の間と、公園風の場所を通り向けることでした。近寄ってみて、どちらもあきらめました。無理して通り抜けようとすれば、不審者として通報されかねません。旅先では、絶対に避けたい事態です。
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先ほどの場所からは、全て私有地になるようでしたから、一旦、車道になっていた公道に出ることにしました。公道は、裏山の断崖に向かって緩やかな登り道になっていました。とりあえず、公道で行ける場所まで登ってみることにしました。背後の崖山は、長い間、アマルフィの背後を守ってきたようです。
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できる限り裏山の近くまで行ける道を探しましたが、私有地ではない公道では、この辺りが限度のようでした。麓に樹木の光景はありますが、その上は完全な絶壁になっていました。あきらめて、ここで引き返すことにしました。推測ですが、麓の常緑樹らしい木々は、崖山からの落石のフェンスになっているようでした。
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アマルフィの町中に戻ってきました。最盛期のアマルフィ公国の国際交易の範囲は、北は現在のイタリアのヴェニス、フランス、西はスペイン、南はモロッコからチュニジア、エジプト、東はコンスタンティノープル、トルコ、中近東諸国まで広範囲に及んでいました。アマルフィ公国は、9世紀から12世紀にかけて存在しました。
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果物を主体に展示された店先光景です。ほとんどの品がレモンのようでしたが、随分と大きなレモンでした。イタリア南部の地中海に面した『アマルフィ海岸』は、『レモン街道』とも呼ばれるレモンの名産地です。アマルフィでレモンの栽培が盛んになったのは、1950年頃とされます。色々な料理・菓子・酒などに、レモン果汁だけでなく、ピール(皮)が使われています。
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同じお店の店先光景です。生食用のレモンのほかに、便詰めの品もありました。イタリア名産の食後酒『リモンチェッロ』には、アマルフィ産のレモンが多く使われているようです。今ではイタリア全土で生産されるようになっていますが、その本場とされるアマルフィの天然モノの『リモンチェッロ』は、味わいのレベルがまったく違う、ともネット紹介されていました。
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同じく、レモンのお店の光景です。看板に『Masaniello(マサニエッロ)』の文字がありました。マサニエッロ(1620~1647年)は、1647年のナポリのハプスブルク・スペインの支配に対する反乱の指導者となった、ナポリの漁師です。今も人気が高いようです。最近まで、アマルフィの生まれと信じられていました。
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マサニエッロのお店の周りの町並み光景です。マサニエッロの本名は『トマソ・アニエーロ』です。市民により『ナポリ人民の総司令官』に選出されましたが、わずか5日後に仲間の一団によって暗殺されました。その後反乱は、市民だけでなく農民をも巻き込み、反スペイン暴動に発展しましたが、1年後にスペイン軍に鎮圧されました。果物税に対する市民の不満が契機でした。
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イチオシ
裏山の頂上付近のズームアップ光景です。城塞跡らしいドーム型の建物遺跡がありました。右奥の崖山の上にも、城砦らしい建物遺跡が見えていました。ネット情報では、丸い塔は『ツィーロの塔』と紹介されていました。かつての砦か、見張り台跡のようでした。
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少し離れた場所から眺めた、アマルフィ大聖堂の石段と教会の光景です。ストライプの模様がある教会では、スペインのメスキータを思い出します。785年にイスラム教のモスクとして建設されましたが、カトリック教徒が権力を握った1236年からは、内部に礼拝堂を設けたりカテドラルが新設されました。メスキータは、イスラム教とキリスト教の二つの宗教が同居する珍しい建築となりました。
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イチオシ
大聖堂の前のドゥオモ(大聖堂)広場にある『聖アンドレアの泉』の光景です。聖アンドレ(聖アンドレア)は、アマルフィの守護聖人です。聖アンドレは、イエスの12使徒の一人で、イエスから天の国の鍵を受け取り初代ローマ教皇とされている、ペトロの弟とされています。聖アンドレは、ギリシャからロシアまで布教を続け、ギリシャのパトラスにおいて殉死しました。その際、X字型の十字架に架けられたと言われており、X字型の十字架は聖アンドレアのシンボルとされます。この噴水の聖アンドレもX字型の十字を背負っています。
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イチオシ
振り返って眺めた、白色が基調のアマルフィの市街光景と、その背後の急峻な崖を持つ裏山の光景です。土地が狭隘なためでしょうか、平屋の建物は見当たらず、4~5階建て以上が主流の町並み光景でした。アマルフィのコムーネ面積は6.11平方キロで、アマルフィ海岸に連なる狭小な自治体の中では、比較的広いとされています。
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