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ローマを代表する世界文化遺産の一つ、コロッセオの紹介です。ネロ帝(在位54~68年)の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった、人工池の跡地に建設されました。世界文化遺産に相応しい、イタリアの至宝です。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

2013秋、イタリア旅行記2(21/53):9月28日(2):ローマ(2):馬車の馬、コロッセオ、外壁、レリーフ

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2013/09/24 - 2013/10/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

ローマを代表する世界文化遺産の一つ、コロッセオの紹介です。ネロ帝(在位54~68年)の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった、人工池の跡地に建設されました。世界文化遺産に相応しい、イタリアの至宝です。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

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  • 前にも目にしたことがありますが、馬さんの食事風景です。飼葉(かいば)袋が首から吊り下げられていました。普段の食事の時は、飼葉桶でしょうが、お仕事中の食事ですから止むを得ないのでしょう。道路を汚さないための措置でしょうか、排泄用の袋も目にしたことがあります。

    前にも目にしたことがありますが、馬さんの食事風景です。飼葉(かいば)袋が首から吊り下げられていました。普段の食事の時は、飼葉桶でしょうが、お仕事中の食事ですから止むを得ないのでしょう。道路を汚さないための措置でしょうか、排泄用の袋も目にしたことがあります。

  • コロッセオの外観です。『コロッセオ』は、イタリア語表記で、ラテン語表記は、『コロッセウム』と和訳されます。ローマ帝政期の西暦80年に、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝によって造られた円形闘技場です。ウェスパシアヌス帝(紀元9~79年)が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68~70年)の甚大な被害から完全には復興していない時期でした。

    イチオシ

    コロッセオの外観です。『コロッセオ』は、イタリア語表記で、ラテン語表記は、『コロッセウム』と和訳されます。ローマ帝政期の西暦80年に、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝によって造られた円形闘技場です。ウェスパシアヌス帝(紀元9~79年)が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68~70年)の甚大な被害から完全には復興していない時期でした。

  • コロッセオの入口付近の写真と『Sporintendenza Speciale per i Beni Archeologici di Roma』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『ローマの考古学遺産のための特別な散財』と自動翻訳されましたが、その費用が写真の下にユーロで記されているようでした。

    コロッセオの入口付近の写真と『Sporintendenza Speciale per i Beni Archeologici di Roma』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『ローマの考古学遺産のための特別な散財』と自動翻訳されましたが、その費用が写真の下にユーロで記されているようでした。

  • コロッセオの写真と、『ANFITEATRO FLAVIO-ROMA』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『フラビウス円形劇場ーローマ』の意味のようでした。フラビウス朝は、西暦69年から96年まで続いたローマ帝国の王朝です。ネロ帝の後のフラビウス氏一族による王朝で、3代続きました。『フラビウス』は、『フラウィウス』とも日本語表記されます。

    コロッセオの写真と、『ANFITEATRO FLAVIO-ROMA』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『フラビウス円形劇場ーローマ』の意味のようでした。フラビウス朝は、西暦69年から96年まで続いたローマ帝国の王朝です。ネロ帝の後のフラビウス氏一族による王朝で、3代続きました。『フラビウス』は、『フラウィウス』とも日本語表記されます。

  • 十字架マークと、『AMPHITHEATRVM-FLAVIVM』、『PIVS-Ⅸ-PONT MAX』のタイトルがあった表示板の光景です『アンフィットヒートルム-フラヴィヴム』と『ピヴス-IX-ポンマックス』と自動翻訳されましたが、残念ながら理解できませんでした。推測ですが、メモリアルに関する表示のようでした。イタリア語以外の表記かも知れません。

    十字架マークと、『AMPHITHEATRVM-FLAVIVM』、『PIVS-Ⅸ-PONT MAX』のタイトルがあった表示板の光景です『アンフィットヒートルム-フラヴィヴム』と『ピヴス-IX-ポンマックス』と自動翻訳されましたが、残念ながら理解できませんでした。推測ですが、メモリアルに関する表示のようでした。イタリア語以外の表記かも知れません。

  • ローマのコロッセオが建設された当時の時代背景に少し触れましたが、その中でも大きな出来事だった『ローマの大火(64年)』と、『ローマ内戦(68~70年)』について補足説明しておきます。最初にネロ皇帝(37~68年)時代の『ローマの大火(64年)』の説明です。『64年7月18日の夜間、ローマ都心に近い大競技場チルコ・マッシモ周辺の商店通りから起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区が焼けました。うち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったとされます』(ウィキペディア)

    ローマのコロッセオが建設された当時の時代背景に少し触れましたが、その中でも大きな出来事だった『ローマの大火(64年)』と、『ローマ内戦(68~70年)』について補足説明しておきます。最初にネロ皇帝(37~68年)時代の『ローマの大火(64年)』の説明です。『64年7月18日の夜間、ローマ都心に近い大競技場チルコ・マッシモ周辺の商店通りから起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区が焼けました。うち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったとされます』(ウィキペディア)

  • 『ローマの大火(64年)』の説明の続きです。『帝政期に入り、首都ローマは100万もの人口を抱える大都市へと変貌しましたが、建築物の多くが木造で道幅が狭いこと、人口増加による高層集合住宅(インスラ)の密集などが災いし、数日鎮火しない程の大火災が幾度も起きていました。この64年の火災は、その中でも最大規模の惨事で、完全に鎮火するまで6日7晩かかったとされます』(ウィキペディア)、写真は、入口付近の隙間から眺めたコロッセオの内部光景です。

    『ローマの大火(64年)』の説明の続きです。『帝政期に入り、首都ローマは100万もの人口を抱える大都市へと変貌しましたが、建築物の多くが木造で道幅が狭いこと、人口増加による高層集合住宅(インスラ)の密集などが災いし、数日鎮火しない程の大火災が幾度も起きていました。この64年の火災は、その中でも最大規模の惨事で、完全に鎮火するまで6日7晩かかったとされます』(ウィキペディア)、写真は、入口付近の隙間から眺めたコロッセオの内部光景です。

  • 『ローマの大火(64年)』の説明が続きます。『出火当時アンティウムの別荘に居た皇帝ネロは、火災の報告を聞くと直ちにローマへ帰り、陣頭指揮をとって鎮火及び被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたりました。しかし「大火を宮殿から眺めつつ故事になぞらえ「トロイアの陥落」を吟じていた」という風評が立ったようです。一旦鎮火するも貧民街から2度目の火の手が上がり、そこがネロの佞臣と悪名高い護衛隊長ティゲリヌスの所有地だったことから、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂まで流れたとされます。こうした風評をもみ消そうとしたのか、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人として、反ローマと放火の罪で処刑しました。』(ウィキペディア)

    『ローマの大火(64年)』の説明が続きます。『出火当時アンティウムの別荘に居た皇帝ネロは、火災の報告を聞くと直ちにローマへ帰り、陣頭指揮をとって鎮火及び被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたりました。しかし「大火を宮殿から眺めつつ故事になぞらえ「トロイアの陥落」を吟じていた」という風評が立ったようです。一旦鎮火するも貧民街から2度目の火の手が上がり、そこがネロの佞臣と悪名高い護衛隊長ティゲリヌスの所有地だったことから、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂まで流れたとされます。こうした風評をもみ消そうとしたのか、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人として、反ローマと放火の罪で処刑しました。』(ウィキペディア)

  • 『しかし、この後も風評が完全に消えることはありませんでした。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えました。ネロはキリスト教の一般信徒を多数処刑した最初の皇帝であり(使徒の処刑はそれ以前の皇帝の時代でもありました)、火葬で肉体を損なうと天国へ行けないと考えるキリスト教徒を火刑に処したため、また、ネロの治世にキリスト教の聖人パウロが殉教した伝説があるため、暴君、反キリストの代名詞となりました。ただし、パウロがローマの大火の際に十字架にかけられたというのは俗説とされます』(ウィキペディア)、写真は、アーチ部分のズームアップ光景です。

    『しかし、この後も風評が完全に消えることはありませんでした。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えました。ネロはキリスト教の一般信徒を多数処刑した最初の皇帝であり(使徒の処刑はそれ以前の皇帝の時代でもありました)、火葬で肉体を損なうと天国へ行けないと考えるキリスト教徒を火刑に処したため、また、ネロの治世にキリスト教の聖人パウロが殉教した伝説があるため、暴君、反キリストの代名詞となりました。ただし、パウロがローマの大火の際に十字架にかけられたというのは俗説とされます』(ウィキペディア)、写真は、アーチ部分のズームアップ光景です。

  • 『キリスト教徒が放火犯とされた経緯は明らかになっていません。当時のキリスト教は、クリストゥス(キリスト)信奉者と呼ばれ、ユダヤ教の新興の分派とみなされていました。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」では、49年に皇帝クラウディウスが「キリストの扇動で年中騒動を起こすユダヤ人」を首都から追放したとあり、非一神教徒との軋轢が社会問題化していたとも言われます。キリスト教側の資料でもエウセビオスの「教会史」で、クラウディウス帝時代にローマ市内で聖ペテロが信仰を広めたとあり、首都に少なからず信者が存在したと考えられています』(ウィキペディア)、写真は、補修されていない外壁の光景です。足場などの穴が多数見えています。

    『キリスト教徒が放火犯とされた経緯は明らかになっていません。当時のキリスト教は、クリストゥス(キリスト)信奉者と呼ばれ、ユダヤ教の新興の分派とみなされていました。スエトニウスの「ローマ皇帝伝」では、49年に皇帝クラウディウスが「キリストの扇動で年中騒動を起こすユダヤ人」を首都から追放したとあり、非一神教徒との軋轢が社会問題化していたとも言われます。キリスト教側の資料でもエウセビオスの「教会史」で、クラウディウス帝時代にローマ市内で聖ペテロが信仰を広めたとあり、首都に少なからず信者が存在したと考えられています』(ウィキペディア)、写真は、補修されていない外壁の光景です。足場などの穴が多数見えています。

  • 『ローマの史家・文人の多くは、ローマの多神教を否定し伝統的な祭りや儀礼、皇帝への忠誠をも宗教を理由に拒否する一神教徒に嫌悪感を抱いていたとされます。1世紀後半~2世紀の史家タキトゥスは著書『年代記』でこう語っています。「キリスト教徒は日頃から忌まわしい行為でローマ人等に恨み憎まれていた」「この有害極まりない迷信が、最近再び都で猖獗を極めていた」』(ウィキペディア)、写真は、コロッセオの補修された外面になるようです。

    イチオシ

    『ローマの史家・文人の多くは、ローマの多神教を否定し伝統的な祭りや儀礼、皇帝への忠誠をも宗教を理由に拒否する一神教徒に嫌悪感を抱いていたとされます。1世紀後半~2世紀の史家タキトゥスは著書『年代記』でこう語っています。「キリスト教徒は日頃から忌まわしい行為でローマ人等に恨み憎まれていた」「この有害極まりない迷信が、最近再び都で猖獗を極めていた」』(ウィキペディア)、写真は、コロッセオの補修された外面になるようです。

  • 『タキトゥスの「年代記」は、ローマの大火について最も詳しくかつ最も近い時代に書かれた資料と評価され、著者タキトゥスの、ネロが放火したという噂をもみ消すために嫌われ者のキリスト教徒を身代わりの被告にして処刑したという説が長く有力とされてきました。しかし、タキトゥスの著作は後世の史家の視点で書かれたものであり、時系列に矛盾があるため、現在では議論の対象になっているようです』(ウィキペディア)

    『タキトゥスの「年代記」は、ローマの大火について最も詳しくかつ最も近い時代に書かれた資料と評価され、著者タキトゥスの、ネロが放火したという噂をもみ消すために嫌われ者のキリスト教徒を身代わりの被告にして処刑したという説が長く有力とされてきました。しかし、タキトゥスの著作は後世の史家の視点で書かれたものであり、時系列に矛盾があるため、現在では議論の対象になっているようです』(ウィキペディア)

  • 『スエトニウスの伝記「ローマ皇帝伝」では、ローマの町並の醜悪さを嫌ったネロ帝がローマを改造するため、自ら放火し火災を眺めたとしています。最もよく知られた説ですが、建物が密集し防火の外壁もなかった町を任意の区画だけ焼くのは不可能であり、醜悪なインスラ群だけでなく皇帝の居住するパラティーノの丘にあった数多くの邸宅や神殿、そこにあった宝物や美術品、ネロの館ドムス・トランシトリアが完全に焼け落ちていることなどから、否定される傾向にあるようです』ウィキペディア)

    『スエトニウスの伝記「ローマ皇帝伝」では、ローマの町並の醜悪さを嫌ったネロ帝がローマを改造するため、自ら放火し火災を眺めたとしています。最もよく知られた説ですが、建物が密集し防火の外壁もなかった町を任意の区画だけ焼くのは不可能であり、醜悪なインスラ群だけでなく皇帝の居住するパラティーノの丘にあった数多くの邸宅や神殿、そこにあった宝物や美術品、ネロの館ドムス・トランシトリアが完全に焼け落ちていることなどから、否定される傾向にあるようです』ウィキペディア)

  • 『なお、「ローマ皇帝伝」では、大火関連でのキリスト教徒についての言及はありません。ネロの章でキリスト教徒について述べられた部分は「前代未聞の有害な迷信に囚われた人種であるキリスト教徒が処罰された」という1文のみで、これは“ネロの善政”として挙げられている逸話です。「ローマ皇帝伝」は歴史書ではなく逸話集であり時系列や背景がはっきりしません』(ウィキペディア)

    『なお、「ローマ皇帝伝」では、大火関連でのキリスト教徒についての言及はありません。ネロの章でキリスト教徒について述べられた部分は「前代未聞の有害な迷信に囚われた人種であるキリスト教徒が処罰された」という1文のみで、これは“ネロの善政”として挙げられている逸話です。「ローマ皇帝伝」は歴史書ではなく逸話集であり時系列や背景がはっきりしません』(ウィキペディア)

  • 『ネロと同時代のユダヤ人史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば、ネロの愛妻ポッパエア皇后とユダヤ人社会に密接な繋がりがあることなどから、大火の被害を受けなかったローマ市内のユダヤ人居住区のユダヤ人が放火犯だと疑われ迫害されるところを、ポッパエアの口添えでキリスト教徒のみが犯人とされたとする説も古くから存在します。ユダヤ教との完全な決別、原始キリスト教の成立過程に絡む事件という見方もあります』(ウィキペディア)

    『ネロと同時代のユダヤ人史家フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば、ネロの愛妻ポッパエア皇后とユダヤ人社会に密接な繋がりがあることなどから、大火の被害を受けなかったローマ市内のユダヤ人居住区のユダヤ人が放火犯だと疑われ迫害されるところを、ポッパエアの口添えでキリスト教徒のみが犯人とされたとする説も古くから存在します。ユダヤ教との完全な決別、原始キリスト教の成立過程に絡む事件という見方もあります』(ウィキペディア)

  • 『大火後、ネロは火災に強い都市造りを主導しました。道幅を広げ建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲むこと、共同住宅には中庭・消火用器具を設置すること、住居は一定の部分を耐火性のある石で造ることなどが義務付けられました。ネロの私費で防火用の柱廊が敷設され、火災に対応できるよう水道が整備されました。区画整理によりローマの街並みは一変しました』(ウィキペディア)

    『大火後、ネロは火災に強い都市造りを主導しました。道幅を広げ建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲むこと、共同住宅には中庭・消火用器具を設置すること、住居は一定の部分を耐火性のある石で造ることなどが義務付けられました。ネロの私費で防火用の柱廊が敷設され、火災に対応できるよう水道が整備されました。区画整理によりローマの街並みは一変しました』(ウィキペディア)

  • 『ネロは自身の宮殿など建築物にローマン・コンクリートを用いた新たな建築様式を導入したとされます。神殿や歴史的な記念碑を始めとするローマの伝統的な建築物が一掃された後の急速かつ大規模な変革に加え、ネロが被災後都心に新造したヴィッラ (別荘)形式の宮殿ドムス・アウレアは、皇帝への反感と不信を生みました』(ウィキペディア)

    『ネロは自身の宮殿など建築物にローマン・コンクリートを用いた新たな建築様式を導入したとされます。神殿や歴史的な記念碑を始めとするローマの伝統的な建築物が一掃された後の急速かつ大規模な変革に加え、ネロが被災後都心に新造したヴィッラ (別荘)形式の宮殿ドムス・アウレアは、皇帝への反感と不信を生みました』(ウィキペディア)

  • 『ネロがより壮大な宮殿を建てる道を切り開くために放火をした、という噂は絶えまあせんでした。しかし現在では歴史家によって次の理由からその噂は否定されています。一つは大火のあとにネロが建築した新しい宮殿は、焼けた宮殿とほとんど同じだったということ。もう一つは、出火当時満月であったということです。放火犯は月のない闇夜を好み、満月の日の放火は考えにくいとするものです(同上)

    『ネロがより壮大な宮殿を建てる道を切り開くために放火をした、という噂は絶えまあせんでした。しかし現在では歴史家によって次の理由からその噂は否定されています。一つは大火のあとにネロが建築した新しい宮殿は、焼けた宮殿とほとんど同じだったということ。もう一つは、出火当時満月であったということです。放火犯は月のない闇夜を好み、満月の日の放火は考えにくいとするものです(同上)

  • 次は、68年から70年の間に起きた『ローマ内戦(68~70)』についての紹介です。ローマ皇帝として4人が次々と擁立された69年は、特に『四皇帝の年』とも呼ばれます。この内戦を収めた『ウェスパシアヌス(9~79年)』は、新たに皇帝となり、皇帝たちの属した氏族名から『フラウィウス朝(69~96年)』の始まりとなりました。ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの三帝です。

    次は、68年から70年の間に起きた『ローマ内戦(68~70)』についての紹介です。ローマ皇帝として4人が次々と擁立された69年は、特に『四皇帝の年』とも呼ばれます。この内戦を収めた『ウェスパシアヌス(9~79年)』は、新たに皇帝となり、皇帝たちの属した氏族名から『フラウィウス朝(69~96年)』の始まりとなりました。ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスの三帝です。

  • ローマ内戦の発端です。『皇帝ネロは、母の小アグリッピナ、妻オクタウィア、師のセネカ、そして多くの元老院議員を次々と死に追いやり、また第四次パルティア戦争で多大な功績を残したコルブロや、ゲルマニア司令官二人を反乱の疑いで自死に追いやり、ローマ軍内部でネロに対する不満が高まっていました』(ウィキペディア)

    ローマ内戦の発端です。『皇帝ネロは、母の小アグリッピナ、妻オクタウィア、師のセネカ、そして多くの元老院議員を次々と死に追いやり、また第四次パルティア戦争で多大な功績を残したコルブロや、ゲルマニア司令官二人を反乱の疑いで自死に追いやり、ローマ軍内部でネロに対する不満が高まっていました』(ウィキペディア)

  • 『ついに67年、ガリア・ルグドゥネンシス総督であったガイウス・ユリウス・ウィンデクスがガリアで反乱を起こし、ガルバを皇帝に擁立しました。 ゲルマニア・スペリオルの軍団を率いるルキウス・ウェルギニウス・ルフスはウィンデクス追討のためにすぐに軍を移動させて反乱を鎮圧し、ウィンデクスは自死しました』(ウィキペディア)

    『ついに67年、ガリア・ルグドゥネンシス総督であったガイウス・ユリウス・ウィンデクスがガリアで反乱を起こし、ガルバを皇帝に擁立しました。 ゲルマニア・スペリオルの軍団を率いるルキウス・ウェルギニウス・ルフスはウィンデクス追討のためにすぐに軍を移動させて反乱を鎮圧し、ウィンデクスは自死しました』(ウィキペディア)

  • 『当初、元老院はガルバを「国家の敵」として弾劾しました。しかし、ガルバがローマに進軍を始めると、もともとネロから距離を置いていた元老院は、今度はガルバを皇帝に推挙し、逆にネロを「国家の敵」としました。またガイウス・ニュンピディウス・サビヌスによってプラエトリアニが買収され、ネロは直属兵力にまでも裏切られ、ネロはガルバがローマに入城する前に自殺しました』(同上)

    『当初、元老院はガルバを「国家の敵」として弾劾しました。しかし、ガルバがローマに進軍を始めると、もともとネロから距離を置いていた元老院は、今度はガルバを皇帝に推挙し、逆にネロを「国家の敵」としました。またガイウス・ニュンピディウス・サビヌスによってプラエトリアニが買収され、ネロは直属兵力にまでも裏切られ、ネロはガルバがローマに入城する前に自殺しました』(同上)

  • 『ローマ内戦(68~70年)時代の69年の四皇帝の紹介です。<br />〇ガルバ(在位:68~69年)<br />〇オトー(在位:69年)<br />〇アウルス・ウィテッリウス(在位:69年)<br />〇ウェスパシアヌス(在位:69~79年)

    『ローマ内戦(68~70年)時代の69年の四皇帝の紹介です。
    〇ガルバ(在位:68~69年)
    〇オトー(在位:69年)
    〇アウルス・ウィテッリウス(在位:69年)
    〇ウェスパシアヌス(在位:69~79年)

  • ここからは、コロッセオの見学を終えて、次の見学地のトレビの泉などに向かう途中の光景です。2000年の見学の時には、コロッセオに入場できましたが、今回は外観だけの見学でした。それでも、十分に存在感のあるコロッセオでした。写真は、次の見学地に向かう途中の観光バスの中からの光景です。見納めのコロッセオの光景です。

    イチオシ

    ここからは、コロッセオの見学を終えて、次の見学地のトレビの泉などに向かう途中の光景です。2000年の見学の時には、コロッセオに入場できましたが、今回は外観だけの見学でした。それでも、十分に存在感のあるコロッセオでした。写真は、次の見学地に向かう途中の観光バスの中からの光景です。見納めのコロッセオの光景です。

  • 『ローマの大火(64年)』と『ローマ内戦(68~70年)』について補足説明が終わったところで、ローマ帝国第5代のネロ皇帝のエピソードなどを紹介しておきます。『ネロ帝(37~68年)は、小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アエノバルブスの息子として生まれました。父はマルクス・アントニウスの血筋、母は初代皇帝アウグストゥスの血筋でした』(ウィキペディア)

    『ローマの大火(64年)』と『ローマ内戦(68~70年)』について補足説明が終わったところで、ローマ帝国第5代のネロ皇帝のエピソードなどを紹介しておきます。『ネロ帝(37~68年)は、小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アエノバルブスの息子として生まれました。父はマルクス・アントニウスの血筋、母は初代皇帝アウグストゥスの血筋でした』(ウィキペディア)

  • 『第3代皇帝のカリグラが帝位を継承した37年に生まれましたが、間も無く父グナエウスが40年に死去し、母小アグリッピナもその妹ユリア・リウィッラと共にカリグラによって追放されました。父グナエウスの遺産はカリグラに没収され、ネロは叔母のドミティア・レピダのもとで育てられました。カリグラは、41年に暗殺されました』(同上)

    『第3代皇帝のカリグラが帝位を継承した37年に生まれましたが、間も無く父グナエウスが40年に死去し、母小アグリッピナもその妹ユリア・リウィッラと共にカリグラによって追放されました。父グナエウスの遺産はカリグラに没収され、ネロは叔母のドミティア・レピダのもとで育てられました。カリグラは、41年に暗殺されました』(同上)

  • 『カリグラ暗殺後、伯父の『クラウディウス(紀元前10~紀元54年)』が第4代ローマ皇帝となり、彼によって小アグリッピナはローマに戻ることが許されました。クラウディウスには皇后メッサリナと後継者のブリタンニクスがいましたが、48年にメッサリナがガイウス・シリウスとの重婚及び反逆罪に問われると、その後妻として小アグリッピナがクラウディウスの皇妃の座に納まりました』(同上)

    『カリグラ暗殺後、伯父の『クラウディウス(紀元前10~紀元54年)』が第4代ローマ皇帝となり、彼によって小アグリッピナはローマに戻ることが許されました。クラウディウスには皇后メッサリナと後継者のブリタンニクスがいましたが、48年にメッサリナがガイウス・シリウスとの重婚及び反逆罪に問われると、その後妻として小アグリッピナがクラウディウスの皇妃の座に納まりました』(同上)

  • 『母の小アグリッピナの計略により、ネロはクラウディウスの継子から養子となりました。皇帝クラウディウスの側近パッラスや母の采配により、クラウディウスの娘オクタヴィアとの婚姻が成立し、後継者のブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになりました』(同上)、小アグリッピナは、野心家であったことは間違いないようです。

    『母の小アグリッピナの計略により、ネロはクラウディウスの継子から養子となりました。皇帝クラウディウスの側近パッラスや母の采配により、クラウディウスの娘オクタヴィアとの婚姻が成立し、後継者のブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになりました』(同上)、小アグリッピナは、野心家であったことは間違いないようです。

  • ここで、『大アグリッピナ(紀元前14~紀元33年)』についても紹介しておきます。ローマ帝国ユリウス=クラウディウス朝の皇族で、父はマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ、母は初代皇帝アウグストゥスの娘大ユリアです。父の阿グリッパは、カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした人です。塩野七生さんの『ローマ人の物語』でも詳しく紹介されています。

    ここで、『大アグリッピナ(紀元前14~紀元33年)』についても紹介しておきます。ローマ帝国ユリウス=クラウディウス朝の皇族で、父はマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ、母は初代皇帝アウグストゥスの娘大ユリアです。父の阿グリッパは、カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした人です。塩野七生さんの『ローマ人の物語』でも詳しく紹介されています。

  • 『クラウディウスが54年に死去すると、ネロ(16歳)が即位して第5代皇帝になりました。ネロ帝の治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受け、名君の誉れが高かった』、とされるネロ帝です。この後も、もう少し紹介します。

    『クラウディウスが54年に死去すると、ネロ(16歳)が即位して第5代皇帝になりました。ネロ帝の治世初期は、家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの教えや政治の補佐を受け、名君の誉れが高かった』、とされるネロ帝です。この後も、もう少し紹介します。

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