2013/09/24 - 2013/10/02
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旅人のくまさんさん
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火砕流に襲われ、一瞬にして火山灰で埋もれたポンペイの街は、当時の人口が1万人弱と推定されています。また、近代科学の解析によれば、火砕流の速度は、時速 100 キロ 以上になると推定されています。日本でも、44名が犠牲になった1991年 6月3日の雲仙・普賢岳の火砕流が記憶に新しいところです。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)
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イチオシ
ポンペイに残る、屋外大劇場の光景です。ヴェスヴィオ火山が噴火したのが、紀元79年ですから、それ以前に完成していた施設のようです。ポンペイが古代ローマ帝国に支配されたのは、紀元前89年の時ですから、それ以後から紀元79年の間に建設されたようです。詳しい建設時期は分かりませんでした。保存状態の良い屋外劇場でした。
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ローマ帝国による支配以降のポンペイの建設工事は、ヴェスヴィオ火山が噴火した79年に先立つ紀元62年の大地震の復興が契機になったようです。それまではローマ帝国の手で、ポンペイでの大きな建設工事は行われていなかったようです。そうすれば、ポンペイの屋外闘技場や屋外劇場などの建設時期は、ほぼ紀元62~79年の間に絞られます。
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ローマの円形闘技場のコロッセオは、紀元80年に建設されています。その規模は、長径187.5m、短径156.5mの楕円形で、面積3357㎡、内部アリーナ86×54、高さは48m、推定5万人から8万7千人の観客を収容できたとされます。ローマン・コンクリート(火山灰を利用したコンクリート)で出来ています。鉄骨を用いないコンクリート造りですが、構造の良さで、幾多の地震に耐えました。(ウィキペディア)
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紀元62年2月5日にポンペイを襲ったポンペイ地震に関連するらしい、『ヴェスヴィオ火山の大噴火は、79年8月24日に起きました。一昼夜に亘って火山灰が降り続け、翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まってしまいました。火山灰はその後も降り続けました』(同上)
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『軍人でもあった博物学者の『ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス):紀元23~紀元79年)』は、ポンペイの市民を救助するために船で急行しましたが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが、甥の『ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス):紀元61~紀元113年頃)』による当時の記述から知られています』(同上)
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『当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙です。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録しています。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られます』(同上)
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一度覚えてしまえばすぐに判断できる、『笠松』とも呼ばれる『ローマの松』の光景です。傘のような姿から見れば、それほど大きくならないように見えますが、実は25メートルに達する巨木に成長します。ビル八階建ての高さです。その背後に見えているのは、ヴェスヴィオ火山です。
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大プリニウスに話に戻ります。『プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べています。さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったですが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきました。ただし、当時のヨーロッパ人は津波という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っています』(同上)
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『プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かいましたが、窒息して死にました。噴火直後に、当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに役人を派遣しましたが、市は壊滅したあとでした』(同上)
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やや不確かですが、写真は発掘された給水施設のようです。『市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げましたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から、逃げ遅れた者約2千人が犠牲になりました』(同上)
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次に、ポンペイ遺跡の発掘のいきさつについて紹介します。『噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはありませんでしたが、その後1000年以上「町」という地名で呼ばれたほか、散発的に古代の品が発見されましたので、下に都市が埋まっていることは知られていました』(同上)
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『1738年にヘルクラネウム(現在のエルコラーノにありました)が、1748年にポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われました。この発掘調査は、ドメニコ・フォンターナという建築家が、サルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見付けてから、既に150年が経過していました』(同上)
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『この時点までは、ヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていました。いくつかの男女の交わりを描く美術品(フレスコ画)は、最初フォンターナによって発掘されましたが、将来、考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断し、フォンターナ自身が埋め戻したとする説があります』(同上)
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『ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっています。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっています。これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていました』(同上)
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『ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあった。79年8月24日、町の北西10kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていきました。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存しました』(同上)
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『ポンペイが人々の前にその姿を再び現した18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられています。地中から次々と現れる古代ローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕しましたが、その美しさの秘密は、実は火砕流堆積物にありました。火山灰を主体とする火砕流堆積物には、乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収しました』(同上)
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『この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのでした。当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれています。ポンペイの悲劇が、皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになりました』(同上)
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『ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られています。後の歴史家たちは、その歴史家の時代のローマは古代ローマをそのまま伝えていると誤解していましたが、ポンペイこそが最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町でした』(同上)、街路全体がタイムカプセルになりました。
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『通りの両側には家と店があります。建造物は石でできていました。居酒屋のメニューも残っていて、こう記されています。「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀などを用意してあります」、件の噴火時に発生した火砕流の速度は時速 100km以上で、市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになりました。後に発掘された際には、遺体部分だけが腐敗消失し、火山灰の中に空洞ができていました。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどう市民の最期の瞬間を再現しました』(同上)
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『顔までは再現できませんでしたが、母親が子供を覆い隠して襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子が生々しく再現されました。この様子は火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示しています。この石膏像の制作によって遺骨が損傷したため、ポンペイ市民の法医学的な調査は長らく滞っていました』(同上)、後ほど、その石膏像を紹介します。
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『商館と思われる建物の地下室から老若男女身分がバラバラな54体の遺骨が発見されました。その居場所は、身分別にある程度グループを作って固まっていたようです。彼らは火砕流からは難を逃れましたが、火山性ガスによる窒息で死亡して火山灰に埋もれていました』(同上)、死因が特定できたケースの紹介です。
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『ポンペイの町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝えています。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えています』(同上)
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イチオシ
古代ローマ時代に、主要都市を結ぶように作られたのは『ローマ街道』と呼ばれますが、この通りもその一部になるようです。『紀元117年頃には、主要幹線道路は約8万6千km、全ての道路の総延長は29万km(資料により15万kmとする説も)にも達しました』(ウィキペディア)、『すべての道はローマに通じる』、のことわざは、その道路網を見れば納得できます。
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写真は、石畳の『ローマ海道』のズームアップ光景です。『ローマ街道の歴史は、紀元前312年にローマのケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により敷設されたアッピア街道に始まります。それまでも、サラリア街道(「塩の道」の意)などの街道は存在しましたが、軍隊の迅速な移動を目的とした舗装されたローマ街道は、アッピア街道が最初です』(同上)
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『アッピア街道以降、敷設されたローマ街道には、その街道を敷設したケンソルや属州総督などの名前が冠せられることとなります。初期のローマ街道は、ローマからイタリア半島の主要都市を結ぶだけでした。しかし戦争を重ね、領土が広がるにつれ、ローマ以外の都市から都市へ結ばれるようになりました』(同上)
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『ローマ街道は、最終的にはイタリア半島のみならず、ガリアやブリタンニア、イベリア半島、アフリカ、ギリシャなどローマの属州にも敷設され、地中海全域に網の目のように敷設されることとなりました』(同上)、塩野七海さんの『ローマ人の物語』にも詳しく記されていますが、『パスクロマーナ(ローマによる平和)』の概念と、カエサルの時代に城壁を壊し始めたとの記述も印象に残りました。
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イチオシ
ローマ街道は、『軍事目的で敷設されてはいますが、軍事に関係のない帝国官吏や巡礼者などの一般市民でも利用できたため、物流などの経済面でも大きな影響がありました。アウグストゥス帝は、帝国全土に郵便制度「クルスス・プブリクス」を作りその運用も細かく定めました』(同上)、アウグストゥス帝は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27~ 紀元14年)です。カエサルが大叔父です。
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少し脇道に逸れますが、塩野七海さんの『ローマ人の物語』の一番の主役は『カエサル:シーザー(紀元前100~紀元前44年)』です。そのカエサルと初代皇帝の『アウグストゥス(紀元前63~紀元12年)』と、カエサルが推した軍事補佐の『アグリッパ(紀元前63~紀元前12年)との関係も興味深く記されています。小説ながら、なかなか説得力がある場面です。
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ローマ街道の話に戻ります。『標準的なローマ街道の道幅は4mで、2台の馬車が行き違える車道幅でした。その両脇には幅3mの歩道が作られていました。車道部分は最大で深さ2m程度まで掘り下げられ、3層構造の路盤となっていました。下層路盤が大きな石で、中層路盤が中くらいの大きさの石、上層路盤が粘土と砂利を混ぜた層でした』(同上)
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『路面となる表層石は、大きな石を亀甲形等に組み合わせたもので、重量のある分厚い石を敷くことで道路の安定性を高めていました。道路は中央部が少し膨らむよう勾配が付けられ、排水にも配慮されていました。ローマ街道は、渓谷や山、岩場などがあってもそれらを迂回するのではなく、架橋やトンネル、切通しを設け、できる限り直線となるよう建設されました』(同上)、まさに古代の高速道路です。
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