2013/09/24 - 2013/10/02
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旅人のくまさんさん
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今回のイタリア旅行の一番の目的地だった、ポンペイ遺跡の紹介です。紀元79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれた、ナポリ近郊の古代ローマ時代の都市です。火砕流などで多くの人が亡くなった痛ましい歴史の町が、タイムトンネルを潜り抜けて現代にその姿を現しました。
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木立の間から眺めたポンペイ遺跡の光景です。ポンペイ遺跡は、『ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域』の主要部分として、1997年にユネスコの世界遺産に登録されました。ポンペイがヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたのは紀元79年、それまでのポンペイの歴史を簡単に紹介しておきます。
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『イタリア先住のオスキ人とヒーコ人によって集落が形成されました。紀元前7世紀頃はサルノ川の河口付近の丘に集落があったようです。その後紀元前526年からエトルリア人に占領されましたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱しました』(ウィキペディア)、『オスキ人』は、紀元前1千年紀にイタリア中央および南部一帯に住み、イタリック語派に属するオスキ語を話した諸族とされ、前3世紀中葉までにローマに制圧され、オスキ語は、ラテン語に置き変わりました。ヒーコ人については、情報不足でした。また、イタリア半島中部の先住民族のエルトリア人は、古代ローマ帝国に同化され、消滅しました。
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『ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配しました。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されました。サムニウム人は、カンパニア全体を支配しました。この時代、ローマがポンペイを征服したという説がありましたが、現在までこの説を裏付けるものはありません』(ウィキペディア)、『サムニウム人は、イタリア南部のサムニウム地方を本拠として、オスク(キ)語を話した古代の種族です。 4部族が山岳地帯に住み、牧畜を営んでいました。また、カンパニアは、現在のナポリを州都とする、カンパニア州当りになるようです』(同上)
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『カンパニアの諸都市が、同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わりました。しかし、紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服され、ポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となりました。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名は「Colonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)」となりました』(ウィキペディア)
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ローマの支配下に入った後のポンペイは、『港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えました。また、町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスでした。遺跡からは娼婦の館などが発掘され、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれますが、当時としては普通の都市の姿としても捉えられています』(ウィキペディア)
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『ポンペイの町は、商業も盛んな港湾都市であると同時に、紀元79年の火山噴火まではぶどうの産地でした。ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺えます。現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっていますが、当時は港もあり、海洋都市でもありました』(ウィキペディア)
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『ポンペイの町は、碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていました。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっています。また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという指摘もあります』(ウィキペディア)、これで、ポンペイの歴史紹介はお終いです。
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名前:『ランタナ』
分類:クマツヅラ科シチヘンゲ続
分布:熱帯アメリカ原産
その他:七変化(しちへんげ)の和名を持ちます。オレンジ、黄色、赤色などの鮮やかな花を多く見掛けます。 -
名前:『ランタナ』
分類:クマツヅラ科シチヘンゲ続
分布:熱帯アメリカ原産
その他:七変化(しちへんげ)の花のズームアップ光景です。 -
『グランデ・プロゲット・ポンペイ』のタイトルがあった説明パネルの光景です。五つに区分けされたエリアの発掘と保存などの総合計画のようでした。プロゲット(PROGETTO)は、ラテン語起源の『計画』の意味のようです。つい、『ゲットー (ghetto)』の言葉を連想してしまいました。『ゲットー』は、1516年に設けられたベネチアのユダヤ人居住区の名前が起源とされます。
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『フォロ』と呼ばれる広場です。幅が38m、奥行が142m、サッカーのピッチを少し細長くした大きさです。ポンペイの政治、経済、宗教の中心の広場で、当時は広場の北側には縦37m、横17mの基壇の上にジュピター神殿が建ち、東西と南の3方は2層の列柱廊が囲んでいたようです。現在は神殿の基壇が残るだけで、列柱廊も一部が復元されているだけです。
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イチオシ
同じくフォロの光景です。ポンペイの町の政治経済の中心であったフォロは、フォーラムやアゴラとも呼ばれています。発掘作業の後、修復作業も行われたようですが、フォロのグランドは、当時大理石床でしたが、現在は芝生となっています。右手に林立する石柱列がありました。フォロをとり囲むように建てられていたものの名残のようです。
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フォロの施設のようですが、現在でも現役の建物として利用されているようでした。ポンペイ遺跡には、マリーナ門、スタビア門、スーチェリア門、サルノ門、ノラ門、ヴェスヴィオ門、コルコラーノ門など多数の門がありますが、フォロは、西南に位置するマリーナ門に近い場所にあります。各所の門が、入場料の支払い場所にもなっているようでした。
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石柱列に取り囲まれた、公共施設のフォロの紹介が続きます。通常はヴェスビィオ周遊鉄道のポンペイ(秘儀荘)駅の至近のマリーナ門、あるいはナポリ・サルノ周遊鉄道の最寄り駅のスーチュリア門が使われるようです。有名なフォロでは、ローマのコロッセオに隣接する『フォロ・ロマーノ』があります。広義な意味での公共空間『広場』であり、狭義な意味では政治、宗教さらに経済の中心地を意味します。
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右手に見えるのは、『ローマの松』ともいわれる『イタリアカサマツ(笠松)』です。ローマのシンボルともいえるこの松の木は、傘を開いたような樹形をしています。古代ローマの進軍道路として使われたアッピア街道の石畳の道の脇などの『ローマの松』が有名です。その名を更に高めたのが、『レスピーギ(1879~1936年)』のローマ三部作の中の交響詩『ローマの松』です。約20分の演奏時間です。
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フォロの見学の後に向かったのは、屋外大劇場です。その入口付近の光景です。『ポンペイの剣闘試合を行うための円形闘技場は、約20,000人が収容できました。ポンペイの総人口が10,000人程度だったとされますので、街の規模にしては大きすぎる闘技場です。ポンペイだけでなく、その周辺都市から観戦に足を運ぶ人もいたようです』(古代ローマライブラリ)、この円形闘技場に対し、一まわり小さな規模の屋外大劇場です。修復工事中のアーチ門でしたが、通行できました。
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火山灰で埋もれる前のポンペイに纏わるエピソードを紹介します。『古代ローマライブラリ』を参照させて頂きました。その前書きも紹介しておきます。『アレクサンドリア図書館司書/古代ローマ時代をデータベース化し、電脳上に一大図書館を設立することが目標/文章の師は塩野七生先生』と自己紹介されていました。私も塩野さんの『ローマ人の物語』をはじめ、一通り読まさせて頂きました。
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イチオシ
写真は、屋外大劇場の観客席の光景です。『ポンペイには剣闘士の営舎があり、剣闘士たちはこの建物で寝食をしたり訓練に励んでいたという。剣闘士の試合は現代のボクシングと同じく、マッチメイクを行ってから開催される。その対戦を組み、主催するのが興行師だ。当然試合のセッティングには多額の費用がかかるので、裕福な人物しか闘技の興行権をもつ興行師になることはできない』(同上)
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『興行師のなかでも、ポンペイで特に有名だったのが、興行王と呼ばれたニギディウスである。剣闘士の試合は、たいてい街の記念行事や式典に合わせて催される。また、1日だけではなく、数日に渡って試合が開催された。ニギディウスはポンペイの闘技興行で1回の興行で行う試合数の最多記録を持っていた。その回数は5日間で30組、4日間で40組もの試合をこなしたという』(同上)
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『紀元後59年、皇帝ネロの治世中、ポンペイで剣闘試合を発端とした隣町ヌケリアとの乱闘事件が起こりました。最初はヤジの掛け合いでしたが、小石を投げ合う小競り合いになり、しまいには剣を取り合う暴動にまで発展しました。これはまるで現代のサッカーに起こるフーリガン同士のケンカと同じではないか、と疑いたくなる』(同上)、『ネロ(37~68年:在位54~68年)』は、ローマ帝国の第5代皇帝です。
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『結局ポンペイ側が優勢に終わったこの暴動の結果、今後10年間は剣闘試合の興行を禁じられたとのこと。古代でも現代でも、人間の行動はあまり変わらないらしい』、『古代ローマの剣闘士:あなたも映画などで一度は剣闘士が戦っている姿を見たことがあるのではないだろうか。20年近く前にはなるが、古代ローマの剣闘士を描いた映画グラディエーター も公開された。また近年では2014年の映画ポンペイ の主人公が剣闘士なのも記憶に新しい。しかし映画はハリウッド的誇張があるため、古代ローマで活躍した剣闘士とは少し違うのだ。では古代ローマの剣闘士とは、どのような人たちだったのだろうか。また、古代ローマ帝国を表す表現としてよく使われる『パンとサーカス』。そのサーカスである剣闘士同士の戦い、剣闘士競技会とはどのようなものだったのだろうか』(同上)
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詳細に記述されていましたので、その目次だけを紹介しておきます。『1.剣闘士の起源と歴史、2.剣闘士に関わる人達、3.剣闘士になるまでの流れ、4.剣闘士競技会の様子、5.剣闘士の生存率、6.今回のまとめ、7、剣闘士の戦いも再現されているドラマ「ROME」、8.本記事の参考図書』(同上)、屋外劇場に隣接した場所に剣闘士の宿舎があります。
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今も部分的な修復作業が行われている屋外劇場の光景です。2000年余りを火山灰に埋もれて経過しましたので、これからも補修作業と続きそうなポンペイ遺跡です。油断をすれば、危機遺産に登録されかねません。左手に見える石垣も補修の対象になっているようでした。
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頭の上の台を2千年にわたって支え続けている人物像の光景です。ローマ帝国支配下にあったポンペイですが、この彫刻はギリシャ彫刻の影響を強く受けているようでした。ギリシャ時代の彫刻は、『神に捧げられ』、ローマ帝国時代のものは『ローマ皇帝』に捧げられたと表現される、服装の違いが表現に出ているようです。
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全体的な構造は分かりませんでしたが、アカンサスの葉をレリーフにしたような石造物のズームアップ光景です。アカンサスは、和名はハアザミ(葉薊)、広義にはキツネノマゴ科ハアザミ属(アカンサス属)の植物の総称とされます。ギリシャの国花で、特にギリシア建築のコリント式オーダーに、アカンサスを意匠化した柱頭が用いられています。
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野外大劇場の周りの光景です。締め切られた扉の先には地下室のような光景がありました。締め切りの扉は、補修工事が済んでいない箇所への立ち入り禁止の目的のように見えました。植樹をして、修景に努めているようにも見えました。
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屋外大劇場の周りの通路の光景になるようです。円型闘技場は、ポンペイ遺跡の西南に位置するマリーナ門から、一番遠い東南に位置していますが、屋外大劇場は、その手前にあります。ポンペイの円形闘技場は、ローマの征服後の紀元80年(?)の建造とされ、現存する闘技場の中では世界最古とされるようです。因みにローマのコロッセオは、ローマ帝政期の紀元80年に、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝によって造られました。
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現地ガイドさんから、ポンペイが火砕流に襲われ、火山灰で埋まる前に記されていた文字とお聞きしたようです。くっきりとした文字が残されていました。陰刻跡に黒い塗料が流されたのかも知れません。オスク(オスキ)・ウンブリア語の落書きとのネット解説もありました。ローマ帝国時代のラテン語より古い時代の文字のようです。
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同じ場所に残されていた、ポンペイが火砕流に襲われ、火山灰で埋まる前に記されていた文字の光景です。オスク(オスキ)語は南イタリアのカンパニア地方を中心とし、ウンブリア語はウンブリア地方で話されたようです。ともに紀元前の碑文資料が残されているようです。
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イチオシ
綺麗に整備された屋外大劇場の中心部の光景です。次々に見学者がやってきました。近年では、中国の世界遺産の数が増えてきていますが、欧州ではイタリアが世界遺産の数が、40を超えて最多です。(追記:2019年時点でイタリアと中国が同数の55で並びました。3位がスペインの48、4位がドイツの46,5位がフランスの45の順です。制度がスタートした欧州優位です。日本は23で12位でした)
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