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<はじめに><br />ツアーに参加してのポーランドの6日間の旅行です。昨年(2012年)のバルト3ヵ国旅行の時に、意識してポーランドが含まれないツアーを選択し、今年はポーランド単独での旅行と決めていました。その予定が叶っての旅行でした。JT*の旅行計画書には、『とってもお得な!ポーランド6日間』のタイトルが付けられていました。今回見学予定のポーランドの世界遺産は、次の3カ所です。因みに、2013年までに文化遺産が13カ所、自然遺産が1カ所登録されています。複合遺産はありません。<br />①ヴィエリチカとボフニアの王立岩塩坑群(1978年登録、2013年拡大)<br />②クラクフ歴史地区(1978年登録)<br />③ワルシャワ歴史地区(1980年登録)<br /><br /><旅のあらまし><br />2014年10月20日(日) :出発、セントレアからヘルシンキ経由クラクフへ<br />6日間のポーランド旅行の始まりです。セントレア国際空港からは、数少ない欧州航路のヘルシンキ往きのフィンランド航空機での出発です。セントレアの出発は10時30分、ヘルシンキへの到着予定は14時40分です。日本との時差がマイナス6時間ありますので、10時間10分のフライト予定です。<br />ヘルシンキでは5時間弱のトランジット・タイムの後、クラクフへの出発が19時25分です。クラクフへの到着予定が20時25分、ちょうど1時間のフライト予定です。バルト海を横断して、南へ向かう航路です。この日は移動だけのスケジュールでした。クラクフで泊まったホテルは、世界文化遺産の旧市街にも近い、ビスビアンスキ・ホテルでした。見どころの多い古都のクラクフですから、2連泊です。<br /><br />10月21日(月) : ヴィエリチカ岩塩坑址、古都・クラクス観光、ヴァヴェル城<br />クラクフでの最初の見学地は、世界文化遺産のヴィエリチカ岩塩坑址です。『ヴィエリチカとボフニアの王立岩塩坑群』として1978年登録され、2013年に区域が拡大されました。昔ながらのエレベーターに乗って下りた岩塩採掘坑跡は、写真では見ていたものの、驚きの世界でした。<br />ヴィエリチカ岩塩採掘坑は13世紀に稼働しましたが、コストの問題と坑内で洪水が起きる危険性があることから1996年に商業採掘は中止され、現在は観光地として整備されています。見所は、3.5 km の坑道に展示された歴史上や神話上の様々なモチーフの彫像です。その全ては、坑夫たちが信仰のために岩塩を彫り上げたものです。地下に礼拝堂もあり、そこを照らすシャンデリアも岩塩を宝石のように散りばめた見事な品でした。<br />地下坑道を案内してくれたのは、この観光施設を担当している公務員らしい若い女性の方と、日本語が達者な、若い女性の現地ガイドさんでした。その現地ガイドさんは、ワルシャワ大学で博士課程に在籍している方でした。笑顔を絶やさない分かりやすい説明と、質問に対する的確な答えには、つくづく感心させられました。日本の中世の文学を専攻されているようでした。<br />午後は、世界文化遺産のクラクフ旧市街を観光しました。クラクフはポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都です。ポーランドで最も歴史ある都市の一つとされ、17世紀初頭にワルシャワに遷都されるまでは、クラクフがポーランド王国の首都でした。日本で例えれば、京都か奈良のような古都です。こちらの現地ガイドさんは、お母さんが日本人だという若い方でした。一生懸命、丁寧にヴァヴェル城や旧市街を観光案内してくれました。<br />クラクフの歴史は、ポーランド王国(1025~1569年)の成立以前にまで遡り、伝承によれば8世紀には成立していたとされます。14世紀から16世紀にかけては、北はエストニア、南はウクライナまでを含む大王国を形成しました。当時のヨーロッパにおいて、人口と領土が最大の国家、『ポーランド・リトアニア共和国』でした。クラクフが現在のポーランドの最南部に位置するのは、領土が分割される前の大国時代の名残のようです。<br />ホテルに近いレストランで夕食の後、そのままクラクフの街の夜の散策に出掛けました。昼間に見学した中央広場付近です。帰り道は昼間の内にしっかりと目印を覚えておきました。<br /><br />10月22日(火) :クラクフからワルシャワへ、途中立ち寄ったザリピエ村、ワルシャワ旧市街<br />クラクフでの見学を終え、次は首都のワルシャワへの移動です。その途中、まるで絵本の中の世界の様なザリピエ村に立ち寄りました。外壁も室内も花柄模様で溢れていました。<br />ザリピエ村はポーランドの田舎町、19世紀頃から家に煙突ができるようになりました。煙突ができた事で冬が快適に過ごせるようになった反面、壁がススで汚れてしまうようになりました。そこである一人の奥さんが思いついて始めたのが、汚れた部分にお花を書いて隠してしまうことでした。それが始まりで、村のあちこちの民家の壁に花柄が描かれるようになりました。今ではフラワーペイントの村と呼ばれ、毎年コンテストが開かれているようです。<br />煙突からの煤で汚れることはなくなったようですが、家の外回りだけでなく、家の中も花飾りで溢れていました。まるで、お伽の国に足を踏み入れたような光景でした。村の教会、村の消防署、村の公民館も花で飾られ、ついでに犬小屋も花のペイントで飾られていました。<br />ザリピエ村の見学を終え、ワルシャワ郊外で昼食の後、ワルシャワの旧市街の観光となりました。今回の旅行で、3カ所目となる世界文化遺産の歴史的街並みです。ショパンの心臓が眠る聖十字架教会、コペルニクス像がある広場、王宮跡やキュリー夫人の生家も見学しました。日が暮れるのが早く、日が沈んだ後は、かなり冷え込んできました。<br />ワルシャワ生まれのマリー・キュリー(1867~1934年)は、日本ではキュリー夫人の名前で知られ、放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任しました。放射能 (radioactivity) という用語は、彼女の発案によるものです。<br /><br />10月23日(水) : ワルシャワ新市街、ワルシャワ軍事博物館、夜はショパン所縁のお店で<br />ポーランド旅行4日目となりました。今日は一日、自由行動です。昨日の旧市街に続いて、ワルシャワの新市街を散策することにしました。<br />この日見学したのは、ワルシャワ軍事博物館です。中世の時代から現代までの武器類の展示等がメインの博物館です。第二次大戦時の日本の武運長久の寄書の日の丸も目にしました。実は、普通の博物館か、美術館と間違えての入場でした。<br />見学者はそれほど多くはありませんでしたが、現役の軍関係者らしい団体を見かけました。軍事関係での歴史的にも重要な展示もあるためのようでした。第二次大戦時の日本の武運長久の寄書の日の丸があった部屋では、細かく撮影しましたので、補遺で纏めて写真を紹介しておきました。この部屋の担当の女性の方は愛想が言い方で、帰る時に笑顔で挨拶してくれました。この部屋は見学者が少なく、撮影するには好都合でした。<br />ワルシャワ軍事博物館で長く見学しましたので、一旦ホテルに戻って休憩することにしました。遅めの昼食は、帰る途中で買ってきました。最後の白ワインも残しておきました。ワインを飲みながら見たテレビの現代史番組が面白く、つい見入ってしまいました。<br />夜はホテルから歩いて行ける近距離にあるレストランでの夕食でした。夕食の後、ホテルには戻らず、そのまま旧市街の夜景を見に出掛けました。<br /><br />10月24日(木) : 帰国、ワルシャワからヘルシンキ国際空港へ<br />帰国の日になりました。ワルシャワ・ショパン国際空港からヘルシンキ国際空港経由でのセントレア国際空港までのフライトです。2泊したワルシャワのラディソン・ブル・ソビエツキは快適に過ごせました。そのホテルを定刻に出発し、ワルシャワ・ショパン空港に向かいました。旅行中、ずっと天候に恵まれましたが、今朝は、観光が終わった後での雨模様になりました。これまたラッキーでした。<br />ワルシャワの南10キロに位置しているこの空港は、ポーランドの航空旅客の凡そ55%が利用するようです。2012年6月1日に空港連絡鉄道が開業し、ワルシャワ・ショパン空港駅が設置されました。都心部へのアクセスが更に便利になったようです。<br />ワルシャワ・ショパン空港からヘルシンキへの出発は13時05分発のAY2746便、ヘルシンキ国際空港には15時45分頃に到着しました。ヘルシンキでは1時間半ほどのトランジット・タイムでした。あとはセントレア国際空港まで9時間ほどのフライトです。<br /><br />10月25日(金) : 帰国、ヘルシンキからセントレア国際空港へ<br />ヘルシンキを発ったのは、17時15分発のフィン・エアーAY79便でした。セントレア国際空港への到着は翌25日の8時50分頃でした。台風の影響が心配されましたが、ぎりぎりでセーフでした。往きには香っていなかった金木犀が満開の時の帰国でした。<br /><br /><おわりに><br />フィン・エアーでの長時間のフライト中、座席の前のモニター画面で楽しんだ映画の中では、ポーランドを舞台にした『戦場のピアニスト』が印象に残りました。今回の旅行で、ポーランドが誇るピアニストで作曲家のショパンとの思いも重なりました。<br />この映画は、2002年のカンヌ映画祭で、パルムドール(最高賞)に輝いた感動の作品です。ロマン・ポランスキー監督が、自身の戦争体験を踏まえて、実在のピアニストで作曲家の、ウワディスワフ・シュピルマン(1911~2000年)の自伝を映像化した入魂の作品です。ワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画です。<br />ロマン・ポランスキー監督(1933~)は、パリ生まれ、ポーランドとフランスの国籍を持ちます。ユダヤ教徒のポーランド人の父親と、カトリック教徒でロシア生まれのポーランド人の母親のもとに生まれました。彼が3歳の時、一家はポーランドのクラクフに引越し、そこで幼少期を過ごしました。<br />この映画は、前述のように、ポーランドの実在したピアニストの人生を描いたノンフィクションです。ワルシャワに侵攻したナチス・ドイツにより家族を失い、過酷な戦場を生きることを余儀なくされた主人公が、廃墟と化したゲットーなどなど様々な悲惨な戦場を目にし、その末にナチの将校に命を救われるという皮肉なラストを迎えます。<br />主役の命を救ったドイツ人将校は、彼のピアノの演奏に感銘を受け、『戦争が終わったら必ずラジオで聴くよ』と言ったのを最後に、寒さで凍える主役にドイツ将校のコートを渡し、去っていきます。道路に零れた食べ物を貪り食う場面、ユダヤ人を整列させ、まるでゲームを楽しむかのように射殺していく場面、足の悪い人を車椅子ごと階上から道路に投げ落とすシーンなど、思わず声が出そうな残酷なシーンもリアルに描かれていました。<br />シュピルマンを助けたドイツ将校も判明しています。その人、ヴィルム・ホーゼンフェルト(1895~1952年)は、ドイツの教育者で、軍人です。最終階級は陸軍大尉でした。予備役士官として第二次大戦に召集された彼は、ポーランドに配属された時、スポーツ施設長としての役職を生かし、追われる身となったポーランド人やユダヤ人に対し、身分を偽らせて施設の従業員として匿いました。彼が助けたのは、ピアニストのシュピルマンだけではありませんでした。<br />彼は大戦末期の1944年、中隊長に転じ、ドイツ敗戦後の1945年1月にソ連軍の捕虜となり、スターリングラードの戦犯捕虜収容所で1952年8月13日に亡くなりました。拷問を受け、精神的にも病んでしまっていたようです。<br />関係者の証言で明らかになった、元ドイツ将校のホーゼンフェルトの人道的な行為に対し、2007年10月、ポーランド政府はポーランド復興勲章を授与、2009年2月にはイスラエル政府が『諸国民の中の正義の人』の称号を追贈しました。<br />*旅行記の参考としたのは、ウィキペディア、中欧・東欧ガイドブック(旅行社提供)、ワルシャワ・ポケットガイド(現地入手・英語版)等です。

2013秋、ポーランド旅行記(1/28):10月20日(1):出発、セントレア国際空港からヘルシンキ国際空港へ

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2013/10/20 - 2013/10/25

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<はじめに>
ツアーに参加してのポーランドの6日間の旅行です。昨年(2012年)のバルト3ヵ国旅行の時に、意識してポーランドが含まれないツアーを選択し、今年はポーランド単独での旅行と決めていました。その予定が叶っての旅行でした。JT*の旅行計画書には、『とってもお得な!ポーランド6日間』のタイトルが付けられていました。今回見学予定のポーランドの世界遺産は、次の3カ所です。因みに、2013年までに文化遺産が13カ所、自然遺産が1カ所登録されています。複合遺産はありません。
①ヴィエリチカとボフニアの王立岩塩坑群(1978年登録、2013年拡大)
②クラクフ歴史地区(1978年登録)
③ワルシャワ歴史地区(1980年登録)

<旅のあらまし>
2014年10月20日(日) :出発、セントレアからヘルシンキ経由クラクフへ
6日間のポーランド旅行の始まりです。セントレア国際空港からは、数少ない欧州航路のヘルシンキ往きのフィンランド航空機での出発です。セントレアの出発は10時30分、ヘルシンキへの到着予定は14時40分です。日本との時差がマイナス6時間ありますので、10時間10分のフライト予定です。
ヘルシンキでは5時間弱のトランジット・タイムの後、クラクフへの出発が19時25分です。クラクフへの到着予定が20時25分、ちょうど1時間のフライト予定です。バルト海を横断して、南へ向かう航路です。この日は移動だけのスケジュールでした。クラクフで泊まったホテルは、世界文化遺産の旧市街にも近い、ビスビアンスキ・ホテルでした。見どころの多い古都のクラクフですから、2連泊です。

10月21日(月) : ヴィエリチカ岩塩坑址、古都・クラクス観光、ヴァヴェル城
クラクフでの最初の見学地は、世界文化遺産のヴィエリチカ岩塩坑址です。『ヴィエリチカとボフニアの王立岩塩坑群』として1978年登録され、2013年に区域が拡大されました。昔ながらのエレベーターに乗って下りた岩塩採掘坑跡は、写真では見ていたものの、驚きの世界でした。
ヴィエリチカ岩塩採掘坑は13世紀に稼働しましたが、コストの問題と坑内で洪水が起きる危険性があることから1996年に商業採掘は中止され、現在は観光地として整備されています。見所は、3.5 km の坑道に展示された歴史上や神話上の様々なモチーフの彫像です。その全ては、坑夫たちが信仰のために岩塩を彫り上げたものです。地下に礼拝堂もあり、そこを照らすシャンデリアも岩塩を宝石のように散りばめた見事な品でした。
地下坑道を案内してくれたのは、この観光施設を担当している公務員らしい若い女性の方と、日本語が達者な、若い女性の現地ガイドさんでした。その現地ガイドさんは、ワルシャワ大学で博士課程に在籍している方でした。笑顔を絶やさない分かりやすい説明と、質問に対する的確な答えには、つくづく感心させられました。日本の中世の文学を専攻されているようでした。
午後は、世界文化遺産のクラクフ旧市街を観光しました。クラクフはポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都です。ポーランドで最も歴史ある都市の一つとされ、17世紀初頭にワルシャワに遷都されるまでは、クラクフがポーランド王国の首都でした。日本で例えれば、京都か奈良のような古都です。こちらの現地ガイドさんは、お母さんが日本人だという若い方でした。一生懸命、丁寧にヴァヴェル城や旧市街を観光案内してくれました。
クラクフの歴史は、ポーランド王国(1025~1569年)の成立以前にまで遡り、伝承によれば8世紀には成立していたとされます。14世紀から16世紀にかけては、北はエストニア、南はウクライナまでを含む大王国を形成しました。当時のヨーロッパにおいて、人口と領土が最大の国家、『ポーランド・リトアニア共和国』でした。クラクフが現在のポーランドの最南部に位置するのは、領土が分割される前の大国時代の名残のようです。
ホテルに近いレストランで夕食の後、そのままクラクフの街の夜の散策に出掛けました。昼間に見学した中央広場付近です。帰り道は昼間の内にしっかりと目印を覚えておきました。

10月22日(火) :クラクフからワルシャワへ、途中立ち寄ったザリピエ村、ワルシャワ旧市街
クラクフでの見学を終え、次は首都のワルシャワへの移動です。その途中、まるで絵本の中の世界の様なザリピエ村に立ち寄りました。外壁も室内も花柄模様で溢れていました。
ザリピエ村はポーランドの田舎町、19世紀頃から家に煙突ができるようになりました。煙突ができた事で冬が快適に過ごせるようになった反面、壁がススで汚れてしまうようになりました。そこである一人の奥さんが思いついて始めたのが、汚れた部分にお花を書いて隠してしまうことでした。それが始まりで、村のあちこちの民家の壁に花柄が描かれるようになりました。今ではフラワーペイントの村と呼ばれ、毎年コンテストが開かれているようです。
煙突からの煤で汚れることはなくなったようですが、家の外回りだけでなく、家の中も花飾りで溢れていました。まるで、お伽の国に足を踏み入れたような光景でした。村の教会、村の消防署、村の公民館も花で飾られ、ついでに犬小屋も花のペイントで飾られていました。
ザリピエ村の見学を終え、ワルシャワ郊外で昼食の後、ワルシャワの旧市街の観光となりました。今回の旅行で、3カ所目となる世界文化遺産の歴史的街並みです。ショパンの心臓が眠る聖十字架教会、コペルニクス像がある広場、王宮跡やキュリー夫人の生家も見学しました。日が暮れるのが早く、日が沈んだ後は、かなり冷え込んできました。
ワルシャワ生まれのマリー・キュリー(1867~1934年)は、日本ではキュリー夫人の名前で知られ、放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任しました。放射能 (radioactivity) という用語は、彼女の発案によるものです。

10月23日(水) : ワルシャワ新市街、ワルシャワ軍事博物館、夜はショパン所縁のお店で
ポーランド旅行4日目となりました。今日は一日、自由行動です。昨日の旧市街に続いて、ワルシャワの新市街を散策することにしました。
この日見学したのは、ワルシャワ軍事博物館です。中世の時代から現代までの武器類の展示等がメインの博物館です。第二次大戦時の日本の武運長久の寄書の日の丸も目にしました。実は、普通の博物館か、美術館と間違えての入場でした。
見学者はそれほど多くはありませんでしたが、現役の軍関係者らしい団体を見かけました。軍事関係での歴史的にも重要な展示もあるためのようでした。第二次大戦時の日本の武運長久の寄書の日の丸があった部屋では、細かく撮影しましたので、補遺で纏めて写真を紹介しておきました。この部屋の担当の女性の方は愛想が言い方で、帰る時に笑顔で挨拶してくれました。この部屋は見学者が少なく、撮影するには好都合でした。
ワルシャワ軍事博物館で長く見学しましたので、一旦ホテルに戻って休憩することにしました。遅めの昼食は、帰る途中で買ってきました。最後の白ワインも残しておきました。ワインを飲みながら見たテレビの現代史番組が面白く、つい見入ってしまいました。
夜はホテルから歩いて行ける近距離にあるレストランでの夕食でした。夕食の後、ホテルには戻らず、そのまま旧市街の夜景を見に出掛けました。

10月24日(木) : 帰国、ワルシャワからヘルシンキ国際空港へ
帰国の日になりました。ワルシャワ・ショパン国際空港からヘルシンキ国際空港経由でのセントレア国際空港までのフライトです。2泊したワルシャワのラディソン・ブル・ソビエツキは快適に過ごせました。そのホテルを定刻に出発し、ワルシャワ・ショパン空港に向かいました。旅行中、ずっと天候に恵まれましたが、今朝は、観光が終わった後での雨模様になりました。これまたラッキーでした。
ワルシャワの南10キロに位置しているこの空港は、ポーランドの航空旅客の凡そ55%が利用するようです。2012年6月1日に空港連絡鉄道が開業し、ワルシャワ・ショパン空港駅が設置されました。都心部へのアクセスが更に便利になったようです。
ワルシャワ・ショパン空港からヘルシンキへの出発は13時05分発のAY2746便、ヘルシンキ国際空港には15時45分頃に到着しました。ヘルシンキでは1時間半ほどのトランジット・タイムでした。あとはセントレア国際空港まで9時間ほどのフライトです。

10月25日(金) : 帰国、ヘルシンキからセントレア国際空港へ
ヘルシンキを発ったのは、17時15分発のフィン・エアーAY79便でした。セントレア国際空港への到着は翌25日の8時50分頃でした。台風の影響が心配されましたが、ぎりぎりでセーフでした。往きには香っていなかった金木犀が満開の時の帰国でした。

<おわりに>
フィン・エアーでの長時間のフライト中、座席の前のモニター画面で楽しんだ映画の中では、ポーランドを舞台にした『戦場のピアニスト』が印象に残りました。今回の旅行で、ポーランドが誇るピアニストで作曲家のショパンとの思いも重なりました。
この映画は、2002年のカンヌ映画祭で、パルムドール(最高賞)に輝いた感動の作品です。ロマン・ポランスキー監督が、自身の戦争体験を踏まえて、実在のピアニストで作曲家の、ウワディスワフ・シュピルマン(1911~2000年)の自伝を映像化した入魂の作品です。ワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画です。
ロマン・ポランスキー監督(1933~)は、パリ生まれ、ポーランドとフランスの国籍を持ちます。ユダヤ教徒のポーランド人の父親と、カトリック教徒でロシア生まれのポーランド人の母親のもとに生まれました。彼が3歳の時、一家はポーランドのクラクフに引越し、そこで幼少期を過ごしました。
この映画は、前述のように、ポーランドの実在したピアニストの人生を描いたノンフィクションです。ワルシャワに侵攻したナチス・ドイツにより家族を失い、過酷な戦場を生きることを余儀なくされた主人公が、廃墟と化したゲットーなどなど様々な悲惨な戦場を目にし、その末にナチの将校に命を救われるという皮肉なラストを迎えます。
主役の命を救ったドイツ人将校は、彼のピアノの演奏に感銘を受け、『戦争が終わったら必ずラジオで聴くよ』と言ったのを最後に、寒さで凍える主役にドイツ将校のコートを渡し、去っていきます。道路に零れた食べ物を貪り食う場面、ユダヤ人を整列させ、まるでゲームを楽しむかのように射殺していく場面、足の悪い人を車椅子ごと階上から道路に投げ落とすシーンなど、思わず声が出そうな残酷なシーンもリアルに描かれていました。
シュピルマンを助けたドイツ将校も判明しています。その人、ヴィルム・ホーゼンフェルト(1895~1952年)は、ドイツの教育者で、軍人です。最終階級は陸軍大尉でした。予備役士官として第二次大戦に召集された彼は、ポーランドに配属された時、スポーツ施設長としての役職を生かし、追われる身となったポーランド人やユダヤ人に対し、身分を偽らせて施設の従業員として匿いました。彼が助けたのは、ピアニストのシュピルマンだけではありませんでした。
彼は大戦末期の1944年、中隊長に転じ、ドイツ敗戦後の1945年1月にソ連軍の捕虜となり、スターリングラードの戦犯捕虜収容所で1952年8月13日に亡くなりました。拷問を受け、精神的にも病んでしまっていたようです。
関係者の証言で明らかになった、元ドイツ将校のホーゼンフェルトの人道的な行為に対し、2007年10月、ポーランド政府はポーランド復興勲章を授与、2009年2月にはイスラエル政府が『諸国民の中の正義の人』の称号を追贈しました。
*旅行記の参考としたのは、ウィキペディア、中欧・東欧ガイドブック(旅行社提供)、ワルシャワ・ポケットガイド(現地入手・英語版)等です。

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  • いつものパターンのセントレア空港までの移動経路です。名古屋市地下鉄で金山まで移動し、金山駅からは名鉄電車です。

    いつものパターンのセントレア空港までの移動経路です。名古屋市地下鉄で金山まで移動し、金山駅からは名鉄電車です。

  • 金山駅から乗った電車内の光景です。10時30分発のAY80便ですから、その2時間以上前に到着する電車に乗りました。

    金山駅から乗った電車内の光景です。10時30分発のAY80便ですから、その2時間以上前に到着する電車に乗りました。

  • セントレア国際空港に到着しました。今回の旅行は、セントレアから添乗員さんとご一緒でのツアーです。旅行会社のカウンターで顔合わせをしました。

    セントレア国際空港に到着しました。今回の旅行は、セントレアから添乗員さんとご一緒でのツアーです。旅行会社のカウンターで顔合わせをしました。

  • セントレア空港では、出発2時間半前の8時の旅行会社のカウンターでの集合でした。手続きを済ませたところで、軽く朝の食事です。その喫茶店からの空港内の眺めです。

    セントレア空港では、出発2時間半前の8時の旅行会社のカウンターでの集合でした。手続きを済ませたところで、軽く朝の食事です。その喫茶店からの空港内の眺めです。

  • セントレア国際空港のターミナルビル内の光景が続きます。旅行にはもってこいの10月ですから、結構混み合っていました。

    セントレア国際空港のターミナルビル内の光景が続きます。旅行にはもってこいの10月ですから、結構混み合っていました。

  • 同じく、セントレア国際空港のターミナルビル内の光景です。(観光)案内所は、日本語を含め5か国語で表示されています。それより、一番分かりやすい『?』の大きなマークです。

    同じく、セントレア国際空港のターミナルビル内の光景です。(観光)案内所は、日本語を含め5か国語で表示されています。それより、一番分かりやすい『?』の大きなマークです。

  • 定期便がセントレアとヘルシンキの間に就航していますので、いつも目にするフィン・エアー機です。機体に大きな文字が記されています。

    定期便がセントレアとヘルシンキの間に就航していますので、いつも目にするフィン・エアー機です。機体に大きな文字が記されています。

  • フィン・エアーのAY80便は、日本航空のJL7075便とのコードシェア便でした。10:時30分のフライト予定です。

    フィン・エアーのAY80便は、日本航空のJL7075便とのコードシェア便でした。10:時30分のフライト予定です。

  • ターミナルビル内から眺めた駐機の光景です。出発準備中のフィン・エアー機のようです。

    ターミナルビル内から眺めた駐機の光景です。出発準備中のフィン・エアー機のようです。

  • セントレア国際空港のターミナルビル内の光景です。今回搭乗の16番ゲート付近の待合室の人が増え始めたようです。

    セントレア国際空港のターミナルビル内の光景です。今回搭乗の16番ゲート付近の待合室の人が増え始めたようです。

  • 12番の出発ゲートです。テンシン(天津)往きのJL841便が表示されていました。このところ、中国便と韓国便の減少が目立ってきました。

    12番の出発ゲートです。テンシン(天津)往きのJL841便が表示されていました。このところ、中国便と韓国便の減少が目立ってきました。

  • 雨中で出発準備が進んでいたフィン・エアー機です。背後にチャイナ・エアライン機の姿が見えました。

    イチオシ

    雨中で出発準備が進んでいたフィン・エアー機です。背後にチャイナ・エアライン機の姿が見えました。

  • チャイナ・エアライン機のアップ光景です。台北行きの台湾、中華民国のフラッグ・キャリアの航空会社です。

    チャイナ・エアライン機のアップ光景です。台北行きの台湾、中華民国のフラッグ・キャリアの航空会社です。

  • 雨で霞んでしまいましたが、チャイナ・エアラインの尾翼の幕です。台湾の国花、梅の花がデザインされています。

    雨で霞んでしまいましたが、チャイナ・エアラインの尾翼の幕です。台湾の国花、梅の花がデザインされています。

  • ほぼ定刻に、フィン・エアー機は飛び立ちました。現在男時刻は日本時間の11時07分、日本海に抜ける前の日本上空です。北東方向への針路です。

    ほぼ定刻に、フィン・エアー機は飛び立ちました。現在男時刻は日本時間の11時07分、日本海に抜ける前の日本上空です。北東方向への針路です。

  • 座席の前のモニター画面です。破線で記されているのは、残余のフライト航路です。まだ飛び立ったばかりの時のモニター画面です。

    座席の前のモニター画面です。破線で記されているのは、残余のフライト航路です。まだ飛び立ったばかりの時のモニター画面です。

  • 日本上空を横断し、日本海に入ったばかりのモニター画面です。左手に能登半島、右上に佐渡島が見えています。

    日本上空を横断し、日本海に入ったばかりのモニター画面です。左手に能登半島、右上に佐渡島が見えています。

  • 半分ほどフライトした頃のモニター画面です。中国の端を飛び、その後はロシア上空の飛行です。

    半分ほどフライトした頃のモニター画面です。中国の端を飛び、その後はロシア上空の飛行です。

  • フライト情報のアナログとディジタル情報が、モニター画面に映し出されていました。例えば中央の指針は方角です。ほぼ真西への飛行を示していました。ディジタル表示では277度です。

    フライト情報のアナログとディジタル情報が、モニター画面に映し出されていました。例えば中央の指針は方角です。ほぼ真西への飛行を示していました。ディジタル表示では277度です。

  • ずいぶん親切なモニター画面です。日本時間は東京の20時03分、ヘルシンキはマイナス6時間の14時03分です。飛立って9時間半ほど経ちましたので、そろそろヘルシンキへの到着です。

    ずいぶん親切なモニター画面です。日本時間は東京の20時03分、ヘルシンキはマイナス6時間の14時03分です。飛立って9時間半ほど経ちましたので、そろそろヘルシンキへの到着です。

  • 同時刻のフライト航路の画面です。呂氏ら上空から、フィンランド上空に差し掛かったところです。湖沼の多い地形です。

    同時刻のフライト航路の画面です。呂氏ら上空から、フィンランド上空に差し掛かったところです。湖沼の多い地形です。

  • 飛立ってすぐは、全部が波線で記されていた航路です。到着間際ですから、航路が実線に置き換わりました。残り55キロの表示がありました。

    イチオシ

    飛立ってすぐは、全部が波線で記されていた航路です。到着間際ですから、航路が実線に置き換わりました。残り55キロの表示がありました。

  • ヘルシンキ国際空港への到着です。現地時刻は14時50分です。何度も利用したコースですが、今回も順調なフライトでした。

    ヘルシンキ国際空港への到着です。現地時刻は14時50分です。何度も利用したコースですが、今回も順調なフライトでした。

  • 空港内で、軽く腹拵えです。辛口の白ワインのシャルドネに、サンドイッチ風の軽食です。5時間弱のトランジット・タイムがありました。

    イチオシ

    空港内で、軽く腹拵えです。辛口の白ワインのシャルドネに、サンドイッチ風の軽食です。5時間弱のトランジット・タイムがありました。

  • ヘルシンキへの到着予定が、現地時間で14時40分、クラクフに向けての出発が19時25分でした。影が長く伸び始め、少し日が傾き始めたようです。

    ヘルシンキへの到着予定が、現地時間で14時40分、クラクフに向けての出発が19時25分でした。影が長く伸び始め、少し日が傾き始めたようです。

  • 搭乗機かどうかわかりませんが、フィン・エアー機の横姿です。ヘルシンキはフィン・エアーのハブ空港ですから、どちらを見てもフィン・エアー機ばかりです。

    搭乗機かどうかわかりませんが、フィン・エアー機の横姿です。ヘルシンキはフィン・エアーのハブ空港ですから、どちらを見てもフィン・エアー機ばかりです。

  • こちらもフィン・エアー機です。フィン・エアー、フィンランド航空は、フィンランドのフラッグ・キャリアです。フィンランド国際空港をハブ空港としています。空港の正式名は、地名を含めた、ヘルシンキ・ヴァンター国際空港です。

    こちらもフィン・エアー機です。フィン・エアー、フィンランド航空は、フィンランドのフラッグ・キャリアです。フィンランド国際空港をハブ空港としています。空港の正式名は、地名を含めた、ヘルシンキ・ヴァンター国際空港です。

  • ターミナルビル内の天井からつりさげられた小型のプロペラ機です。主翼の下部に『DH-ABB』の記号がありました。

    ターミナルビル内の天井からつりさげられた小型のプロペラ機です。主翼の下部に『DH-ABB』の記号がありました。

  • ヘルシンキ空港のターミナルビル内光景が続きます。クラクフまでの搭乗機は17時25分発のAY747便です。AA6029便とのコードシェアのようでした。

    ヘルシンキ空港のターミナルビル内光景が続きます。クラクフまでの搭乗機は17時25分発のAY747便です。AA6029便とのコードシェアのようでした。

  • ターミナルビル内の案内標識のアップ光景です。AY747便の搭乗ゲートは31Xです。この案内標識からは外れています。

    ターミナルビル内の案内標識のアップ光景です。AY747便の搭乗ゲートは31Xです。この案内標識からは外れています。

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2013秋、ポーランド旅行記

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