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世界文化遺産のフェズ旧市街紹介です。ブー・イナーニーヤ・マドラサ(神学校)見学の次に、若い頃は大工さんだったと言う方の民家で、ミントティーを戴きました。室内もくまなく見学させて戴きましたが、大の日本贔屓の方でした。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)

2012正月、モロッコ王国旅行記(28/49):1月10日(3):フェズ旧市街、ブー・イナーニーヤ・マドラサ、親日家宅

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2012/01/05 - 2012/01/13

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

世界文化遺産のフェズ旧市街紹介です。ブー・イナーニーヤ・マドラサ(神学校)見学の次に、若い頃は大工さんだったと言う方の民家で、ミントティーを戴きました。室内もくまなく見学させて戴きましたが、大の日本贔屓の方でした。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)

交通手段
観光バス
  • 第10代君主の『ウトマーン2世(在位:1311~1331年)』は、セウタ、アルヘシラスなどのモロッコに存在するナスル朝支配下の都市を奪回、代償としてアンダルシア地方に有する領土をナスル朝に返還しました。そして、ジブラルタル海峡を国境と定めました。現在のスペインとモロッコとの間の海峡です。(同上)<br />*写真は、壁面の木材装飾のズームアップ光景です。

    第10代君主の『ウトマーン2世(在位:1311~1331年)』は、セウタ、アルヘシラスなどのモロッコに存在するナスル朝支配下の都市を奪回、代償としてアンダルシア地方に有する領土をナスル朝に返還しました。そして、ジブラルタル海峡を国境と定めました。現在のスペインとモロッコとの間の海峡です。(同上)
    *写真は、壁面の木材装飾のズームアップ光景です。

  • 1325年に建てられた『ブー・イナーニーヤ・マドラサ(神学校)』は、壁面に彫られた精巧な幾何学模様やモザイクタイルの美しさを持つ、『マリーン朝(1196~1465年)』時代の代表的建築の一つです。アトラス杉の彫刻などがありました。第12代スルタン(国王)の『アブー・イナーン・ファーリス(在位: 1348~1358年)』により創設されました。アブー・イナーンは、父である11代君主の『アブー・アルハサン(在位:1331~1348年)』の文化事業を継承し、芸術家と職人を厚く保護しました。(同上)<br />*写真は、ブー・イナーニーヤ・マドラサの壁面光景です。

    1325年に建てられた『ブー・イナーニーヤ・マドラサ(神学校)』は、壁面に彫られた精巧な幾何学模様やモザイクタイルの美しさを持つ、『マリーン朝(1196~1465年)』時代の代表的建築の一つです。アトラス杉の彫刻などがありました。第12代スルタン(国王)の『アブー・イナーン・ファーリス(在位: 1348~1358年)』により創設されました。アブー・イナーンは、父である11代君主の『アブー・アルハサン(在位:1331~1348年)』の文化事業を継承し、芸術家と職人を厚く保護しました。(同上)
    *写真は、ブー・イナーニーヤ・マドラサの壁面光景です。

  • イベリア半島に対しては、ナスル朝のナスルとイスマーイール1世の間に起きた王位継承戦を介して、カスティリャ王国を牽制しましたが、アブー・ヤアクーブ・ユースフ時代と同規模の遠征は行いませんでした。ザイヤーン朝と和睦し、ハフス朝の王女ファーティマと息子のアブー・アルハサン・アリーの婚約を成立させることで、遠征に回す労力を国内の反乱分子の鎮圧と商業活動に費やしました。(同上)<br />*写真は、神学校の中庭から眺めた尖塔の光景です。フェズで唯一のマドラサのミナレットとされます。

    イベリア半島に対しては、ナスル朝のナスルとイスマーイール1世の間に起きた王位継承戦を介して、カスティリャ王国を牽制しましたが、アブー・ヤアクーブ・ユースフ時代と同規模の遠征は行いませんでした。ザイヤーン朝と和睦し、ハフス朝の王女ファーティマと息子のアブー・アルハサン・アリーの婚約を成立させることで、遠征に回す労力を国内の反乱分子の鎮圧と商業活動に費やしました。(同上)
    *写真は、神学校の中庭から眺めた尖塔の光景です。フェズで唯一のマドラサのミナレットとされます。

  • 彼の採った平和政策はマリーン朝の国庫を回復させ、アブー・アルハサン・アリー治下のマリーン朝拡大の原動力となりました。息子の結婚式を見ることなく、1331年に没しました。寛大な人物と評され、旅行家イブン・バットゥータは旅行記の中で、マリーン朝のスルタンを挙げたとき、彼の人格を称えています。(同上)<br />*写真は、アトラス杉を使った装飾のズームアップ光景です。日本の『杉』とは異なり、『ヒノキ科』ではなく『マツ科』の樹木です。

    彼の採った平和政策はマリーン朝の国庫を回復させ、アブー・アルハサン・アリー治下のマリーン朝拡大の原動力となりました。息子の結婚式を見ることなく、1331年に没しました。寛大な人物と評され、旅行家イブン・バットゥータは旅行記の中で、マリーン朝のスルタンを挙げたとき、彼の人格を称えています。(同上)
    *写真は、アトラス杉を使った装飾のズームアップ光景です。日本の『杉』とは異なり、『ヒノキ科』ではなく『マツ科』の樹木です。

  • 話を戻して、マリーン朝成立時の状況です。マリーン朝は、ザナータ系ベルベル人のマリーン族によって建国されたイスラーム国家です。フェズを首都とし、マグリブ西部を支配しました。略奪を目的とした軍事行動がマリーン朝の建国の動機となっていましたが、ジハード(異教徒に対する聖戦)の実行や、モスク(寺院)とマドラサ(神学校)の建築など、王朝の宗教的意識は強かったとされます。前半期には積極的に軍事活動を実施しましたが、君主の地位を巡る内紛によって衰退しました。(同上)<br />*写真は、同じくアトラス杉を使った装飾のズームアップ光景です。

    話を戻して、マリーン朝成立時の状況です。マリーン朝は、ザナータ系ベルベル人のマリーン族によって建国されたイスラーム国家です。フェズを首都とし、マグリブ西部を支配しました。略奪を目的とした軍事行動がマリーン朝の建国の動機となっていましたが、ジハード(異教徒に対する聖戦)の実行や、モスク(寺院)とマドラサ(神学校)の建築など、王朝の宗教的意識は強かったとされます。前半期には積極的に軍事活動を実施しましたが、君主の地位を巡る内紛によって衰退しました。(同上)
    *写真は、同じくアトラス杉を使った装飾のズームアップ光景です。

  • マリーン族は、もともとアルジェリア東部のビスクラ地方で遊牧生活を営んでいましたが、11世紀末にアラブ遊牧民のヒラール族とスライム族の攻撃を受けて西方に移動しました。マリーン族はモロッコ南東部のシジルマサとムルーヤ川の間で生活し、12世紀初頭に建国されたムワッヒド朝への服従を拒絶してサハラ砂漠に退去しました。(同上)<br />*写真は、何かと話が弾んだ現地ガイドさんが、普段は紹介しないという建物です。帰り際に案内してくれた別棟の建物の内部光景です。(同上)

    マリーン族は、もともとアルジェリア東部のビスクラ地方で遊牧生活を営んでいましたが、11世紀末にアラブ遊牧民のヒラール族とスライム族の攻撃を受けて西方に移動しました。マリーン族はモロッコ南東部のシジルマサとムルーヤ川の間で生活し、12世紀初頭に建国されたムワッヒド朝への服従を拒絶してサハラ砂漠に退去しました。(同上)
    *写真は、何かと話が弾んだ現地ガイドさんが、普段は紹介しないという建物です。帰り際に案内してくれた別棟の建物の内部光景です。(同上)

  • 現地ガイドさんが特別に見学させてくれた、建物の内部光景です。机の上にコーランらしいものが積み上げられていました。壁面の装飾も珍しいデザインでした。普段は、イスラム教徒の方達だけが出入りを許されている場所のようでした。(同上)

    現地ガイドさんが特別に見学させてくれた、建物の内部光景です。机の上にコーランらしいものが積み上げられていました。壁面の装飾も珍しいデザインでした。普段は、イスラム教徒の方達だけが出入りを許されている場所のようでした。(同上)

  • 普段は神学生の方達が、コーランを勉強している場所のような雰囲気がありました。お祈りの場所とは、少し異なる雰囲気の建物内の光景です。案内してくれたのは、この時間帯では勉強などに使用されていないことが確認できたからのようでした。(同上)

    普段は神学生の方達が、コーランを勉強している場所のような雰囲気がありました。お祈りの場所とは、少し異なる雰囲気の建物内の光景です。案内してくれたのは、この時間帯では勉強などに使用されていないことが確認できたからのようでした。(同上)

  • イスラム教のモスクでは、めったに目にしないステンドグラスの光景です。現地ガイドさんからはお聞きしていませんが、いずれかの時代で、キリスト教との接点があった建物かも知れません。』その名残のようにも見えました。ただし、キリスト教寺院のステンドグラスと異なって、具象的な文様ではなく、アラベスク文様系統のデザインでした。(同上)

    イスラム教のモスクでは、めったに目にしないステンドグラスの光景です。現地ガイドさんからはお聞きしていませんが、いずれかの時代で、キリスト教との接点があった建物かも知れません。』その名残のようにも見えました。ただし、キリスト教寺院のステンドグラスと異なって、具象的な文様ではなく、アラベスク文様系統のデザインでした。(同上)

  • 先程のステンドグラスは、ズームアップしての紹介でした。キリスト教文化のゴチック建築とは異なりますので、建物強度の関係で、窓の大きさに制約を受けているようでした。小振りのステンドグラスのアーチ窓が並んだ光景です。それぞれに窓の装飾のデザインが異なっていました。最下部は、先に紹介した不思議な文様の装飾です。(同上)

    イチオシ

    先程のステンドグラスは、ズームアップしての紹介でした。キリスト教文化のゴチック建築とは異なりますので、建物強度の関係で、窓の大きさに制約を受けているようでした。小振りのステンドグラスのアーチ窓が並んだ光景です。それぞれに窓の装飾のデザインが異なっていました。最下部は、先に紹介した不思議な文様の装飾です。(同上)

  • マリーン朝の紹介の話に戻ります。サハラ砂漠に逃れたマリーン族は、1195年にイベリア半島で行われた『アラルコスの戦い』で『ムワッヒド朝(1130~1269年)』に従軍し、多くの戦利品を獲得しました。この戦いは、『カスティーリャ王国(1035~1715年)』のアルフォンソ8世と、勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ ヤアクーブ・マンスールの戦いでした。『ムワッヒド朝』は、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝で、首都はマラケシュでした。(同上)<br />*写真は、フェズの下町光景です。

    マリーン朝の紹介の話に戻ります。サハラ砂漠に逃れたマリーン族は、1195年にイベリア半島で行われた『アラルコスの戦い』で『ムワッヒド朝(1130~1269年)』に従軍し、多くの戦利品を獲得しました。この戦いは、『カスティーリャ王国(1035~1715年)』のアルフォンソ8世と、勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ ヤアクーブ・マンスールの戦いでした。『ムワッヒド朝』は、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝で、首都はマラケシュでした。(同上)
    *写真は、フェズの下町光景です。

  • 1212年にムワッヒド朝が『ナバス・デ・トロサの戦い』でキリスト教国の連合軍に敗北した後、マリーン族の指導者である『アブド・アル=ハック1世(1195~1217年)』は、部族を糾合してモロッコ北部に進出しました。従来、マリーン族は冬期に備えて都市で食糧を購入していましたが、食料の調達のために都市を占領し、1216年から1217年にかけてリーフ山脈を支配下に収めました。(同上)<br />*写真は、現地ガイドさんの案内で親日家のお宅へ向かう途中の光景です。

    1212年にムワッヒド朝が『ナバス・デ・トロサの戦い』でキリスト教国の連合軍に敗北した後、マリーン族の指導者である『アブド・アル=ハック1世(1195~1217年)』は、部族を糾合してモロッコ北部に進出しました。従来、マリーン族は冬期に備えて都市で食糧を購入していましたが、食料の調達のために都市を占領し、1216年から1217年にかけてリーフ山脈を支配下に収めました。(同上)
    *写真は、現地ガイドさんの案内で親日家のお宅へ向かう途中の光景です。

  • 当初、マリーン族は、定住民から貢納を取り立てるだけにとどまっていましたが、次第に部族の指導者は政治的な野心を抱くようになりました。1218年にマリーン族は初めてフェズ郊外に到達しました。フェズ、ターザ周辺の部族長達は平地部に進出したマリーン族に服従しますが、ムワッヒド朝から派遣された討伐隊の攻撃を受けて後退しました。平野部への再進出を図るマリーン族は、リーフ山地のサンハジャ族、小アトラス山脈のゼナタ族と同盟し、再戦の準備を進めました。(同上)

    当初、マリーン族は、定住民から貢納を取り立てるだけにとどまっていましたが、次第に部族の指導者は政治的な野心を抱くようになりました。1218年にマリーン族は初めてフェズ郊外に到達しました。フェズ、ターザ周辺の部族長達は平地部に進出したマリーン族に服従しますが、ムワッヒド朝から派遣された討伐隊の攻撃を受けて後退しました。平野部への再進出を図るマリーン族は、リーフ山地のサンハジャ族、小アトラス山脈のゼナタ族と同盟し、再戦の準備を進めました。(同上)

  • 1244年に指導者の地位に就いたアブー・バクルの時代に、マリーン族の勢力はより拡大しました。1247年にメクネスがマリーン族によって占領され、これまでムワッヒド朝に雇われていたキリスト教徒やトルコ人の傭兵たちが、マリーン朝側につきました。翌1248年にアブー・バクルはターザ、サレを初めとする大西洋沿岸部の都市を制圧し、国力をより高めました。(同上)

    1244年に指導者の地位に就いたアブー・バクルの時代に、マリーン族の勢力はより拡大しました。1247年にメクネスがマリーン族によって占領され、これまでムワッヒド朝に雇われていたキリスト教徒やトルコ人の傭兵たちが、マリーン朝側につきました。翌1248年にアブー・バクルはターザ、サレを初めとする大西洋沿岸部の都市を制圧し、国力をより高めました。(同上)

  • 1258年に即位した『アブー・ユースフ・ヤアクーブ(1258/59)~1286年)』は、マリーン朝の君主の中で最初に『アミール・アル=ムスリミーン』の称号を使用した君主であり、加えてムワッヒド朝を滅ぼしたことより、第6代君主とも、実質的な建国者と見なされています。1269年9月にユースフ・ヤアクーブはムワッヒド朝の首都マラケシュを攻略しました。しかし、ムワッヒド朝が滅亡した後も大アトラス山脈のアラブ遊牧民は中央の意図から離れた動きをし、各地に封じられた王族たちは中央政府に反抗的な姿勢を見せました。(同上)<br />*写真は、親日家のお宅の光景です。一旦、マリーン朝の紹介は措きます。

    1258年に即位した『アブー・ユースフ・ヤアクーブ(1258/59)~1286年)』は、マリーン朝の君主の中で最初に『アミール・アル=ムスリミーン』の称号を使用した君主であり、加えてムワッヒド朝を滅ぼしたことより、第6代君主とも、実質的な建国者と見なされています。1269年9月にユースフ・ヤアクーブはムワッヒド朝の首都マラケシュを攻略しました。しかし、ムワッヒド朝が滅亡した後も大アトラス山脈のアラブ遊牧民は中央の意図から離れた動きをし、各地に封じられた王族たちは中央政府に反抗的な姿勢を見せました。(同上)
    *写真は、親日家のお宅の光景です。一旦、マリーン朝の紹介は措きます。

  • 右の方が、今回お世話になった現地ガイドさん、左が親日家のこの家の御主人です。モロッコでフランス語を学んだとされる、日本人女性のブログからのピックアップです。『モロッコには、親日家や日本のことを良く思っている人が多くいました』、『日本人が大好きだといってくれる人は皆、日本人の礼儀正しさや、綺麗好きなところや比較的おしとやかな所を好んでくれている印象でした』とも述べられていました。『日本人好きを公言してくる人でも、しつこい人や怪しそうな人には十分に注意』との一言も添えられていました。(同上)

    右の方が、今回お世話になった現地ガイドさん、左が親日家のこの家の御主人です。モロッコでフランス語を学んだとされる、日本人女性のブログからのピックアップです。『モロッコには、親日家や日本のことを良く思っている人が多くいました』、『日本人が大好きだといってくれる人は皆、日本人の礼儀正しさや、綺麗好きなところや比較的おしとやかな所を好んでくれている印象でした』とも述べられていました。『日本人好きを公言してくる人でも、しつこい人や怪しそうな人には十分に注意』との一言も添えられていました。(同上)

  • ミントティーの茶芸の披露です。『モロッコの飲み物は、何はおいてもまずミントティー。 中国産のガンパウダーと呼ばれる緑茶に砂糖を入れて濃く煮出し、生のミントをたっぷり加えて飲む。 傾向として北部ではミントをグラスに、南部ではポットに入れるようだ。』等の紹介文が複数ありました。別名『モロッカン・ウイスキー』と呼ばれ、激苦激甘が、モロッコの人には好まれているようです。(同上)

    イチオシ

    ミントティーの茶芸の披露です。『モロッコの飲み物は、何はおいてもまずミントティー。 中国産のガンパウダーと呼ばれる緑茶に砂糖を入れて濃く煮出し、生のミントをたっぷり加えて飲む。 傾向として北部ではミントをグラスに、南部ではポットに入れるようだ。』等の紹介文が複数ありました。別名『モロッカン・ウイスキー』と呼ばれ、激苦激甘が、モロッコの人には好まれているようです。(同上)

  • 大工の経験をお持ちの、御主人の手造り作品のテーブルとお聞きしました。使われているのは、オーク材か、あるいはアトラス杉かも知れません。アラベスク文様が陽刻されていました。(同上)

    大工の経験をお持ちの、御主人の手造り作品のテーブルとお聞きしました。使われているのは、オーク材か、あるいはアトラス杉かも知れません。アラベスク文様が陽刻されていました。(同上)

  • 親日家の方の奥さんです。家事のお仕事中のようでしたが、現地ガイドさんの口利きで、快く写真撮影に応じて頂きました。御主人ともども、一朝一夕の親日家ではない長い年期を感じました。(同上)

    親日家の方の奥さんです。家事のお仕事中のようでしたが、現地ガイドさんの口利きで、快く写真撮影に応じて頂きました。御主人ともども、一朝一夕の親日家ではない長い年期を感じました。(同上)

  • 壁には、日本のお土産の和服姿のお人形などが飾られていました。モロッコでフランス語を学んだとされる、日本人女性のブログには、『マラケシュには「空手」の稽古場があり、漫画を大変に好きなモロッコ人や、習字が好きで勉強してるモロッコ人』のことも紹介されていました。日本食の『寿司』も浸透しつつあるようです。(同上)

    壁には、日本のお土産の和服姿のお人形などが飾られていました。モロッコでフランス語を学んだとされる、日本人女性のブログには、『マラケシュには「空手」の稽古場があり、漫画を大変に好きなモロッコ人や、習字が好きで勉強してるモロッコ人』のことも紹介されていました。日本食の『寿司』も浸透しつつあるようです。(同上)

  • 日本人のお友達からプレゼントされたダルマさんが中央に置かれていました。まだ目が入れられていない新しいダルマさんでした。祝い事か、念願が成就した時に目玉を入れるようにお聞きされているのかも知れません。この後紹介する棚などの家具も、大工を経験された御主人の手造りかも知れません。(同上)

    イチオシ

    日本人のお友達からプレゼントされたダルマさんが中央に置かれていました。まだ目が入れられていない新しいダルマさんでした。祝い事か、念願が成就した時に目玉を入れるようにお聞きされているのかも知れません。この後紹介する棚などの家具も、大工を経験された御主人の手造りかも知れません。(同上)

  • マリーン朝の紹介の続きです。ユースフ・ヤアクーブは、在位中に4度にわたるイベリア半島遠征を実施しました。イベリア半島での『聖戦』は、国家の宗教的理念の強化、そしてマラガ、アルヘシラスなどの半島南部の国際貿易の拠点の獲得を目的としていました。(同上)<br />*写真は、日本の陶磁器などが並んだ戸棚の光景です。

    マリーン朝の紹介の続きです。ユースフ・ヤアクーブは、在位中に4度にわたるイベリア半島遠征を実施しました。イベリア半島での『聖戦』は、国家の宗教的理念の強化、そしてマラガ、アルヘシラスなどの半島南部の国際貿易の拠点の獲得を目的としていました。(同上)
    *写真は、日本の陶磁器などが並んだ戸棚の光景です。

  • 1264年にグラナダを支配するイスラーム国家ナスル朝の要請に応じて、イベリア半島各地で蜂起したイスラーム教徒を支援するため、1,000の騎兵を派遣しました。1275年にカスティーリャ王アルフォンソ10世が国を留守にしていた隙を突いて、ユースフ・ヤアクーブはイベリア半島に上陸し、ナスル朝から貸与されたタリファ、アルヘシラス、ジブラルタルを拠点としました。(同上)

    1264年にグラナダを支配するイスラーム国家ナスル朝の要請に応じて、イベリア半島各地で蜂起したイスラーム教徒を支援するため、1,000の騎兵を派遣しました。1275年にカスティーリャ王アルフォンソ10世が国を留守にしていた隙を突いて、ユースフ・ヤアクーブはイベリア半島に上陸し、ナスル朝から貸与されたタリファ、アルヘシラス、ジブラルタルを拠点としました。(同上)

  • 1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍は、エシハでカスティーリャ軍に勝利を収め、翌1276年初頭に撤退しました。1282年にカスティーリャで王子サンチョが反乱を起こした際、アルフォンソ10世はマリーン朝に援軍を要請し、ユースフ・ヤアクーブはアルフォンソ10世と共闘してサンチョを攻撃しました。(同上)<br />*写真は、日本の陶磁器が展示されていた戸棚の光景です。

    1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍は、エシハでカスティーリャ軍に勝利を収め、翌1276年初頭に撤退しました。1282年にカスティーリャで王子サンチョが反乱を起こした際、アルフォンソ10世はマリーン朝に援軍を要請し、ユースフ・ヤアクーブはアルフォンソ10世と共闘してサンチョを攻撃しました。(同上)
    *写真は、日本の陶磁器が展示されていた戸棚の光景です。

  • サンチョ4世がカスティーリャ王に即位した後、1286年にマリーン朝とカスティーリャの間に和平が成立し、クルアーン(コーラン)の写本が贈られました。第7代王の『アブー・ヤアクーブ・ユースフ(在位:1286~1307年)』は、1291年にカスティーリャ艦隊に敗北し、翌1292年にタリファ包囲に失敗しました。(同上)<br />*写真は、客人用のソファーの一部の光景です。

    サンチョ4世がカスティーリャ王に即位した後、1286年にマリーン朝とカスティーリャの間に和平が成立し、クルアーン(コーラン)の写本が贈られました。第7代王の『アブー・ヤアクーブ・ユースフ(在位:1286~1307年)』は、1291年にカスティーリャ艦隊に敗北し、翌1292年にタリファ包囲に失敗しました。(同上)
    *写真は、客人用のソファーの一部の光景です。

  • 1296年からアブー・ヤアクーブ・ユースフは、ザイヤーン朝との戦争を開始し、1299年からのザイヤーン朝の首都トレムセンの包囲は長期に及びました。包囲の際に、トレムセンから南西4キロ離れた地点にマンスールという名の都市が建設され、マンスールには宮殿、モスク、旅館、スークなどの様々な施設が建設されました。アブー・ヤアクーブ・ユースフの時代には、エジプトのマムルーク朝を除く北アフリカの勢力がマリーン朝の権威を認めました。1307年にアブー・ヤアクーブ・ユースフはマンスールの宮殿で暗殺され、跡を継いだアーミルは包囲を解いて撤退し、マンスールはトレムセンの住民により取り壊されました。(同上)<br />*写真は、接茶を主な目的とした接待用の部屋の光景になるようです。

    1296年からアブー・ヤアクーブ・ユースフは、ザイヤーン朝との戦争を開始し、1299年からのザイヤーン朝の首都トレムセンの包囲は長期に及びました。包囲の際に、トレムセンから南西4キロ離れた地点にマンスールという名の都市が建設され、マンスールには宮殿、モスク、旅館、スークなどの様々な施設が建設されました。アブー・ヤアクーブ・ユースフの時代には、エジプトのマムルーク朝を除く北アフリカの勢力がマリーン朝の権威を認めました。1307年にアブー・ヤアクーブ・ユースフはマンスールの宮殿で暗殺され、跡を継いだアーミルは包囲を解いて撤退し、マンスールはトレムセンの住民により取り壊されました。(同上)
    *写真は、接茶を主な目的とした接待用の部屋の光景になるようです。

  • アーミル、スライマーンの跡を継いだウトマーン2世が即位した当初、歴代国王の遠征によって国庫は逼迫し、王族たちは政府に反抗していました。ウトマーン2世はナスル朝の支配下に置かれていたセウタとアルヘシラスを奪回し、ハフス朝、ザイヤーン朝と和平を結びました。また、イベリア半島のマリーン朝の領地をナスル朝に譲渡し、ジブラルタル海峡を自然の国境に定めました。アブー・アルハサン・アリー、その子の第12代王の『アブー・イナーン・ファーリス(1348~1358年)』の時代に、マリーン朝は最盛期を迎えました。(同上)

    アーミル、スライマーンの跡を継いだウトマーン2世が即位した当初、歴代国王の遠征によって国庫は逼迫し、王族たちは政府に反抗していました。ウトマーン2世はナスル朝の支配下に置かれていたセウタとアルヘシラスを奪回し、ハフス朝、ザイヤーン朝と和平を結びました。また、イベリア半島のマリーン朝の領地をナスル朝に譲渡し、ジブラルタル海峡を自然の国境に定めました。アブー・アルハサン・アリー、その子の第12代王の『アブー・イナーン・ファーリス(1348~1358年)』の時代に、マリーン朝は最盛期を迎えました。(同上)

  • 1352年にアブー・イナーンはトレムセンを再征服し、翌1353年にベジャイアを占領しました。1357年にアブー・イナーンはチュニスに入城しましたが、アラブ遊牧民の反乱のためにフェズへの退却を余儀なくされました。アブー・イナーンの治世の末期には反乱が頻発しました。アブー・イナーンの死によって、マリーン朝の最盛期は終わり、長く続いた内乱により王朝の政治・経済・文化は衰退しました。また、国政の実権は王からワズィール(宰相)の元に移っていきました。(同上)<br />*写真は、明かり採りの天井窓の光景です。

    1352年にアブー・イナーンはトレムセンを再征服し、翌1353年にベジャイアを占領しました。1357年にアブー・イナーンはチュニスに入城しましたが、アラブ遊牧民の反乱のためにフェズへの退却を余儀なくされました。アブー・イナーンの治世の末期には反乱が頻発しました。アブー・イナーンの死によって、マリーン朝の最盛期は終わり、長く続いた内乱により王朝の政治・経済・文化は衰退しました。また、国政の実権は王からワズィール(宰相)の元に移っていきました。(同上)
    *写真は、明かり採りの天井窓の光景です。

  • 『アブー・サイード・ウトマーン3世の時代にアルジェリア、チュニジアの征服地が独立し、1411年にリーフ山脈で起きた反乱をきっかけに10人の王族が王位を主張して蜂起しました。1415年にはセウタがポルトガル王国により占領されました。1420年にウトマーン3世は暗殺され、幼少の息子アブド・アル=ハック2世が王位に就きました。この時期に、フェズとサレの間の交通路を掌握するワッタース家の権威は高まり、全土に及びました。(同上)<br />*写真は、洗面所のお手洗い光景です。いっぱいの花で飾られていました。

    『アブー・サイード・ウトマーン3世の時代にアルジェリア、チュニジアの征服地が独立し、1411年にリーフ山脈で起きた反乱をきっかけに10人の王族が王位を主張して蜂起しました。1415年にはセウタがポルトガル王国により占領されました。1420年にウトマーン3世は暗殺され、幼少の息子アブド・アル=ハック2世が王位に就きました。この時期に、フェズとサレの間の交通路を掌握するワッタース家の権威は高まり、全土に及びました。(同上)
    *写真は、洗面所のお手洗い光景です。いっぱいの花で飾られていました。

  • マリーン朝(1196~1465年)』の最後の君主は、第28代の『アブド・アル=ハック2世(在位:1420年/21年~1465年)』でした。アル=ハック2世はフェズ市民によって殺害され、彼の死後一時的にムハンマド・イムラーンを元首とするシャリーフ政権が樹立されましたが、1472年にワッタース家がシャリーフ政権にとって代わり、モロッコを支配しました。(同上)

    マリーン朝(1196~1465年)』の最後の君主は、第28代の『アブド・アル=ハック2世(在位:1420年/21年~1465年)』でした。アル=ハック2世はフェズ市民によって殺害され、彼の死後一時的にムハンマド・イムラーンを元首とするシャリーフ政権が樹立されましたが、1472年にワッタース家がシャリーフ政権にとって代わり、モロッコを支配しました。(同上)

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