フェズ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
モロッコの世界文化遺産の古都、フェズの旧市街などの紹介です。最初に王宮の門を見学しました。内部は見学できませんでしたが、敷地内にゴルフコースもあります。門の隙間から、少しだけ内部を覗き見ることが出来ました。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)

2012正月、モロッコ王国旅行記(26/49):1月10日(1):フェズ・連泊したホテル、王宮、彫金細工の扉

13いいね!

2012/01/05 - 2012/01/13

240位(同エリア598件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

モロッコの世界文化遺産の古都、フェズの旧市街などの紹介です。最初に王宮の門を見学しました。内部は見学できませんでしたが、敷地内にゴルフコースもあります。門の隙間から、少しだけ内部を覗き見ることが出来ました。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)

交通手段
観光バス
  • フェズで二泊したホテル、『メンゼ・ザラ』の自室の紹介です。トリップ・アドヴァイザーの案内文には、『ゆったりとした時間が過ごせるよう、客室には薄型テレビ、および客室内冷蔵庫をご用意しております。また、メンゼ ザラ ホテルではゲスト用の無料wi-fiをご利用になれます。』と紹介されていました。(同上)

    フェズで二泊したホテル、『メンゼ・ザラ』の自室の紹介です。トリップ・アドヴァイザーの案内文には、『ゆったりとした時間が過ごせるよう、客室には薄型テレビ、および客室内冷蔵庫をご用意しております。また、メンゼ ザラ ホテルではゲスト用の無料wi-fiをご利用になれます。』と紹介されていました。(同上)

  • 『このホテルでは24時間対応のフロントデスク、コンシェルジュ、およびルームサービスをご用意しております。また、メンゼ ザラ ホテルではプール、およびバー・ラウンジも提供されます。お車でお越しの場合は、無料駐車場をご利用になれます。』とも紹介されていました。(同上)

    『このホテルでは24時間対応のフロントデスク、コンシェルジュ、およびルームサービスをご用意しております。また、メンゼ ザラ ホテルではプール、およびバー・ラウンジも提供されます。お車でお越しの場合は、無料駐車場をご利用になれます。』とも紹介されていました。(同上)

  • 『フェズにはJardin Jnan Sbilのような人気庭園もあり、メンゼ ザラ ホテルからのアクセスも便利。メンゼ ザラ ホテルのスタッフ一同、ご到着をお待ちしております。』と締め括られていましたから、ホテルサイドでも確認された紹介文のようでした。(同上)

    『フェズにはJardin Jnan Sbilのような人気庭園もあり、メンゼ ザラ ホテルからのアクセスも便利。メンゼ ザラ ホテルのスタッフ一同、ご到着をお待ちしております。』と締め括られていましたから、ホテルサイドでも確認された紹介文のようでした。(同上)

  • 次は、『メンゼ・ザラ』の利用者の書き込みの紹介です。『設備は部屋によってかなり差があります。比較的新しい部屋と古めの部屋、広めの部屋と狭い部屋など様々。ツアーで利用しましたが、不具合のある部屋が多い印象でした。 ホテルから5~10分ほど歩くとマクドナルドやカルフールがあります。』と書き込まれていました。(同上)

    次は、『メンゼ・ザラ』の利用者の書き込みの紹介です。『設備は部屋によってかなり差があります。比較的新しい部屋と古めの部屋、広めの部屋と狭い部屋など様々。ツアーで利用しましたが、不具合のある部屋が多い印象でした。 ホテルから5~10分ほど歩くとマクドナルドやカルフールがあります。』と書き込まれていました。(同上)

  • 同じく、利用者の書き込みの紹介です。『フェズという都市にあり、外装が塗り直し途上で、年季の入ったホテルですね。ロビーなどは広く、部屋も広くて、ベットも固くて寝心地良かったですね。水道水は飲めたものではなく、臭いもありますので改善してほしいですね。エアコンは、ほどほどに効いてましたが、もっと室温を下げてほしいですね。』と厳しい評価でした。(同上)

    同じく、利用者の書き込みの紹介です。『フェズという都市にあり、外装が塗り直し途上で、年季の入ったホテルですね。ロビーなどは広く、部屋も広くて、ベットも固くて寝心地良かったですね。水道水は飲めたものではなく、臭いもありますので改善してほしいですね。エアコンは、ほどほどに効いてましたが、もっと室温を下げてほしいですね。』と厳しい評価でした。(同上)

  • 『メンゼ・ザラ』のスタッフも目を通したらしい書き込み対する、コメントは、感心しました。その一部を紹介します。『私達はあなたが私達とのあなたの滞在中に見た正と負の両方の事柄を述べてくれてありがとうございます』、『私たちにお書き添えいただきありがとうございます。 サービスがあなたの期待に応えられなかったことを申し訳なく思っています』、等です。要は、どれだけ実行されるかです。(同上)

    『メンゼ・ザラ』のスタッフも目を通したらしい書き込み対する、コメントは、感心しました。その一部を紹介します。『私達はあなたが私達とのあなたの滞在中に見た正と負の両方の事柄を述べてくれてありがとうございます』、『私たちにお書き添えいただきありがとうございます。 サービスがあなたの期待に応えられなかったことを申し訳なく思っています』、等です。要は、どれだけ実行されるかです。(同上)

  • 部屋から眺めた、『メンゼ・ザラ』の建物光景です。昇ったばかりの朝日が、その窓ガラスに映り込んでいました。昨日は下手な俳句を披露しましたが、今日は封印をしますので、ご安心ください。(同上)

    部屋から眺めた、『メンゼ・ザラ』の建物光景です。昇ったばかりの朝日が、その窓ガラスに映り込んでいました。昨日は下手な俳句を披露しましたが、今日は封印をしますので、ご安心ください。(同上)

  • 昨日の日の出見学と、このホテルに到着する前に眺めた夕日を思い出しながらの、朝焼け光景の紹介です。その続きを見ているような、静かな夜明けでした。昼間の好天を予想させるような薄い雲が朝焼けていました。(同上)

    昨日の日の出見学と、このホテルに到着する前に眺めた夕日を思い出しながらの、朝焼け光景の紹介です。その続きを見ているような、静かな夜明けでした。昼間の好天を予想させるような薄い雲が朝焼けていました。(同上)

  • 『メンゼ・ザラ』ホテルのフロント光景です。出発するらしいグループの荷物が、柱の脇に纏められていました。私たちのツアーグループは連泊ですから、今朝は荷造りの必要はありません。小さな荷物だけでのフェズの見学です。(同上)

    『メンゼ・ザラ』ホテルのフロント光景です。出発するらしいグループの荷物が、柱の脇に纏められていました。私たちのツアーグループは連泊ですから、今朝は荷造りの必要はありません。小さな荷物だけでのフェズの見学です。(同上)

  • 『メンゼ・ザラ』ホテルの玄関脇の光景です。『ホテル・メンゼ・ザラ』の英文字と、その上に同じ意味らしいアラビア文字が表示されていました。リニューアルされたためでしょうか、明るい色の外装でしたが、浮薄さも感じる造りでした。(同上)

    『メンゼ・ザラ』ホテルの玄関脇の光景です。『ホテル・メンゼ・ザラ』の英文字と、その上に同じ意味らしいアラビア文字が表示されていました。リニューアルされたためでしょうか、明るい色の外装でしたが、浮薄さも感じる造りでした。(同上)

  • 今日の最初の見学地は、王宮門でした。王宮とせずに王宮門と表現したのは、現在も使われているらしく、入場見学が出来なかったためです。ここで、フェズを首都としたかつての王国を紹介します。その始まりは、『フェズ王国(1472~1554年)』です。『フェス王国』、またはアラビア語の読み方から『ファス王国』等とも呼ばれています。(同上)

    今日の最初の見学地は、王宮門でした。王宮とせずに王宮門と表現したのは、現在も使われているらしく、入場見学が出来なかったためです。ここで、フェズを首都としたかつての王国を紹介します。その始まりは、『フェズ王国(1472~1554年)』です。『フェス王国』、またはアラビア語の読み方から『ファス王国』等とも呼ばれています。(同上)

  • 『フェズ王国』を統治したのは、『ワッタース朝』とされます。 1472年に建国されましたが、この後詳しく紹介する『サアド朝』が1509年に成立し、モロッコの南部を支配され、ワッタース朝はモロッコの北部のみを支配することになりました。 1554年にサアド朝によりモロッコの支配権は完全に奪われました。(同上)

    『フェズ王国』を統治したのは、『ワッタース朝』とされます。 1472年に建国されましたが、この後詳しく紹介する『サアド朝』が1509年に成立し、モロッコの南部を支配され、ワッタース朝はモロッコの北部のみを支配することになりました。 1554年にサアド朝によりモロッコの支配権は完全に奪われました。(同上)

  • ワッタース朝の初代君主は『アブー=アブドゥッラー・アル=シェイフ・ムハンマド(スルタン在位:1472~1504年)』でした。7代、約80年で終わりを告げ、最後の国王は、『Abu al-Hasan Abu Hasun Ali ibn Muhammad(在位:1554~1554年)』でした。(同上)<br />*写真は、王宮の門と城壁、それに四角の楼塔の光景です。

    ワッタース朝の初代君主は『アブー=アブドゥッラー・アル=シェイフ・ムハンマド(スルタン在位:1472~1504年)』でした。7代、約80年で終わりを告げ、最後の国王は、『Abu al-Hasan Abu Hasun Ali ibn Muhammad(在位:1554~1554年)』でした。(同上)
    *写真は、王宮の門と城壁、それに四角の楼塔の光景です。

  • 次は、ワッタース朝に代わった『サアド朝(1509~1659年)』の紹介です。『サード朝』もしくは『サーディー朝』とも呼ばれます。『オスマン帝国(1299~1922年)』の拡大を阻止したことと、西スーダンを支配した『ソンガイ帝国(1340~1591年)』を滅ぼしたことで知られる、モロッコを統治した王朝です。(同上)<br />*写真は、立ち並んだモロッコ国旗の光景です。

    イチオシ

    次は、ワッタース朝に代わった『サアド朝(1509~1659年)』の紹介です。『サード朝』もしくは『サーディー朝』とも呼ばれます。『オスマン帝国(1299~1922年)』の拡大を阻止したことと、西スーダンを支配した『ソンガイ帝国(1340~1591年)』を滅ぼしたことで知られる、モロッコを統治した王朝です。(同上)
    *写真は、立ち並んだモロッコ国旗の光景です。

  • サアド朝成立前のモロッコの王朝の紹介です。次の王朝が出現していました。(同上)<br />〇ムラービト朝(1040~1147年):厳格なスンナ派<br />〇ムワッヒド朝(1130~1269年):戦勝が続き、領土拡大の時代。<br />〇マリーン朝(1195~1470年):チュニスに進出し、最大版図を築いた時代。<br />〇ワッタース朝(1472~1550年):ワッタース朝フェス王国の時代。

    サアド朝成立前のモロッコの王朝の紹介です。次の王朝が出現していました。(同上)
    〇ムラービト朝(1040~1147年):厳格なスンナ派
    〇ムワッヒド朝(1130~1269年):戦勝が続き、領土拡大の時代。
    〇マリーン朝(1195~1470年):チュニスに進出し、最大版図を築いた時代。
    〇ワッタース朝(1472~1550年):ワッタース朝フェス王国の時代。

  • サアド朝の紹介に戻ります。マリーン朝末期、モロッコは、大西洋岸の主要港をポルトガルによって支配され、サハラ越えの交易ルートの利益も奪われ、経済的に衰退し、山岳地帯の部族が略奪を繰り返すなど政情不安に陥りました。内陸部では、グイチと呼ばれる一種の自警団、海岸部や平野部では、スーフィズムに支えられたカリスマ的な霊力を持つとされる宗教的な同胞団が多く生まれました。(同上)

    サアド朝の紹介に戻ります。マリーン朝末期、モロッコは、大西洋岸の主要港をポルトガルによって支配され、サハラ越えの交易ルートの利益も奪われ、経済的に衰退し、山岳地帯の部族が略奪を繰り返すなど政情不安に陥りました。内陸部では、グイチと呼ばれる一種の自警団、海岸部や平野部では、スーフィズムに支えられたカリスマ的な霊力を持つとされる宗教的な同胞団が多く生まれました。(同上)

  • このような同胞団は、現実生活に疲れ困窮した農民層を聖戦を戦う兵士として巧みに組み込んで成長していきましたが、サアド朝の君主もそのような同胞団の『聖者』の一人でした。14世紀頃、モロッコ国土の南部、アルジェリアとの国境付近ドラア川流域に定住し、シャリーフ(預言者の子孫)のバヌー・サアド族として人望を集めつつありました。(同上)

    このような同胞団は、現実生活に疲れ困窮した農民層を聖戦を戦う兵士として巧みに組み込んで成長していきましたが、サアド朝の君主もそのような同胞団の『聖者』の一人でした。14世紀頃、モロッコ国土の南部、アルジェリアとの国境付近ドラア川流域に定住し、シャリーフ(預言者の子孫)のバヌー・サアド族として人望を集めつつありました。(同上)

  • 15世紀中葉、海岸に近いスース地方、タルーダントの南西のティドレにザーウィヤを開き、やがて地方全体の支持を集めるようになりました。1511年、スース地方を支配下に置き、『ザーウィヤ国家』と形容しうるまで成長したサアド勢力は、ムハンマド・イブン・アフマド・カーイムに率いられ、ポルトガル支配下にあった海岸部の港町アガディールに聖戦(ジハード)を挑みました。その勇戦ぶりは、ポルトガル人を恐怖に陥れ、サアド勢力の威信を高めることとなりました。(同上)<br />*写真は、見事な彫金で仕上げられたアーチ型の扉の光景です。

    15世紀中葉、海岸に近いスース地方、タルーダントの南西のティドレにザーウィヤを開き、やがて地方全体の支持を集めるようになりました。1511年、スース地方を支配下に置き、『ザーウィヤ国家』と形容しうるまで成長したサアド勢力は、ムハンマド・イブン・アフマド・カーイムに率いられ、ポルトガル支配下にあった海岸部の港町アガディールに聖戦(ジハード)を挑みました。その勇戦ぶりは、ポルトガル人を恐怖に陥れ、サアド勢力の威信を高めることとなりました。(同上)
    *写真は、見事な彫金で仕上げられたアーチ型の扉の光景です。

  • これを契機に群小同胞団の聖者たちは、サアド勢力に付き従い、サアド勢力は、アトラス山脈山中のアッカを手中に収め、ポルトガルに交易の利潤を奪われていた隊商部族はこれを歓迎し、サアド勢力を支持しました。カーイムは、1517年に死去しましたが、子のアフマド・イブン・アアラジュが後を継ぎました。この世襲を以ってサアド朝の成立とし、アアラジュを初代としています。(同上)<br />*写真は、見事な彫金を施された扉のズームアップ光景です。

    これを契機に群小同胞団の聖者たちは、サアド勢力に付き従い、サアド勢力は、アトラス山脈山中のアッカを手中に収め、ポルトガルに交易の利潤を奪われていた隊商部族はこれを歓迎し、サアド勢力を支持しました。カーイムは、1517年に死去しましたが、子のアフマド・イブン・アアラジュが後を継ぎました。この世襲を以ってサアド朝の成立とし、アアラジュを初代としています。(同上)
    *写真は、見事な彫金を施された扉のズームアップ光景です。

  • ポルトガルとの戦いで戦死したアブドゥル・マリクを継いで王位に就いたのは、王弟のアフマドでした。アフマドは、『マンスール(勝利者)』、『黄金の人』というあだ名を付けられて、『アフマド・アル=マンスール(在位:1578~1603年)』と呼び習わされ、第7代王としてサアド朝の全盛期を築いた一代の英傑でした。彼は、若い頃にオスマン帝国の第10代皇帝『スレイマン1世(在位:1520~1566年)』の許にいたことがあり、外遊によってトルコだけでなくヨーロッパ各地の事情に通じ、トルコ語を含む数カ国語を操るという天才的な人物でした。(同上)

    ポルトガルとの戦いで戦死したアブドゥル・マリクを継いで王位に就いたのは、王弟のアフマドでした。アフマドは、『マンスール(勝利者)』、『黄金の人』というあだ名を付けられて、『アフマド・アル=マンスール(在位:1578~1603年)』と呼び習わされ、第7代王としてサアド朝の全盛期を築いた一代の英傑でした。彼は、若い頃にオスマン帝国の第10代皇帝『スレイマン1世(在位:1520~1566年)』の許にいたことがあり、外遊によってトルコだけでなくヨーロッパ各地の事情に通じ、トルコ語を含む数カ国語を操るという天才的な人物でした。(同上)

  • アフマドは、トルコに対してもその侵攻に備えてフェズの城壁を強化し、アルジェリアよりにある町の城壁を固める一方で、宮廷の高官たち全てにトルコ語を学ばせたり、軍隊にもトルコ風の要素を取り入れるなど、トルコを必要以上に刺激しないよう注意を払ったとされます。内政においては、各地の聖者信仰の対象である小聖者たちを『王政機構(マフザン)』に組み込みました。そして閣僚には、各地の有力部族長のほか、有能であれば、旧キリスト教徒や旧ユダヤ教徒も登用して、国内の安定化と行政機構の効率化を図っています。(同上)

    アフマドは、トルコに対してもその侵攻に備えてフェズの城壁を強化し、アルジェリアよりにある町の城壁を固める一方で、宮廷の高官たち全てにトルコ語を学ばせたり、軍隊にもトルコ風の要素を取り入れるなど、トルコを必要以上に刺激しないよう注意を払ったとされます。内政においては、各地の聖者信仰の対象である小聖者たちを『王政機構(マフザン)』に組み込みました。そして閣僚には、各地の有力部族長のほか、有能であれば、旧キリスト教徒や旧ユダヤ教徒も登用して、国内の安定化と行政機構の効率化を図っています。(同上)

  • 第7代マンスール王の威光は、『神の恩寵(バラカ)』として捉えられ、スーフィー勢力の中にも戦わずして降伏する勢力も多かったようです。このような国内安定策は、当然ながら経済的な繁栄をもたらし、多数の国の商船がモロッコの各港に入港しました。王は、運河を整備させましたので、サハラ越えの交易路と海路が結ばれ、物資の流通がスムーズになり、その中継貿易の利益が国庫を潤しました。ヨーロッパ各国の外交使節団も、王の歓心を買うために頻繁にマラケシュの宮廷に来訪しました。(同上)

    第7代マンスール王の威光は、『神の恩寵(バラカ)』として捉えられ、スーフィー勢力の中にも戦わずして降伏する勢力も多かったようです。このような国内安定策は、当然ながら経済的な繁栄をもたらし、多数の国の商船がモロッコの各港に入港しました。王は、運河を整備させましたので、サハラ越えの交易路と海路が結ばれ、物資の流通がスムーズになり、その中継貿易の利益が国庫を潤しました。ヨーロッパ各国の外交使節団も、王の歓心を買うために頻繁にマラケシュの宮廷に来訪しました。(同上)

  • マンスール王の時代には、マラケシュに壮麗な墓宮やトルコの要素を取り入れつつ、イタリアから運んだ大理石で築かれたバーディー宮殿、フェズに華麗なサーン・パピオンが付設されたカラウィーン・モスクが築かれました。また、マリーン朝時代に建てられたイブン・ユースフ・マドラサを修復し、その規模を拡張しました。ところで、サアド朝とソンガイ帝国は、第2代王のアフマド・アル=アアラジュの時代から、ソンガイ帝国の『イスハーク1世(在位:1539~1549年)』と現マリ共和国の北端、サハラ砂漠中にあるテガーザの岩塩を巡って所有権争いをしていました。(同上)

    マンスール王の時代には、マラケシュに壮麗な墓宮やトルコの要素を取り入れつつ、イタリアから運んだ大理石で築かれたバーディー宮殿、フェズに華麗なサーン・パピオンが付設されたカラウィーン・モスクが築かれました。また、マリーン朝時代に建てられたイブン・ユースフ・マドラサを修復し、その規模を拡張しました。ところで、サアド朝とソンガイ帝国は、第2代王のアフマド・アル=アアラジュの時代から、ソンガイ帝国の『イスハーク1世(在位:1539~1549年)』と現マリ共和国の北端、サハラ砂漠中にあるテガーザの岩塩を巡って所有権争いをしていました。(同上)

  • アフメッド=ル=アレジの頃、王弟ムハンマド・アッ=シャイフによる占領を阻止し、逆にトゥアレグ族の騎馬隊を使ってモロッコに侵攻させました。アフマド・アル=マンスール王も引き続きその所有権を主張し続け、当初はソンガイの『アスキア・ダーウード(在位:1549~1583年)』とソンガイ帝国の利権と所有を保証することでとりあえずの妥協をしていました。しかし、サアド朝にとって、ソンガイの領有する西スーダンの塩と金とその交易ルートを支配し、黒人奴隷を獲得することは経済的に非常に魅力的な話でした。(同上)

    アフメッド=ル=アレジの頃、王弟ムハンマド・アッ=シャイフによる占領を阻止し、逆にトゥアレグ族の騎馬隊を使ってモロッコに侵攻させました。アフマド・アル=マンスール王も引き続きその所有権を主張し続け、当初はソンガイの『アスキア・ダーウード(在位:1549~1583年)』とソンガイ帝国の利権と所有を保証することでとりあえずの妥協をしていました。しかし、サアド朝にとって、ソンガイの領有する西スーダンの塩と金とその交易ルートを支配し、黒人奴隷を獲得することは経済的に非常に魅力的な話でした。(同上)

  • マンスール王は、アスキア・ダーウードが死に、『ムハンマド3世(在位:1583~1586年)』が継ぐと、ソンガイ攻略の機会を窺い、テガーザを占領し、1585年に2000人の先遣部隊にソンガイ国内の様子を探らせました。『ムハンマド4世(在位:1586~1588年)』が即位しますと、ソンガイ国内で内乱が起こり、弱体化が始まりました。マンスール王は、内外の情勢を検討し、アルジェリア方面への遠征はトルコを刺激し、泥沼の戦いになるが、西スーダンのソンガイ攻略については、トルコは関知せずの態度をとるだろうと判断していました。(同上)

    マンスール王は、アスキア・ダーウードが死に、『ムハンマド3世(在位:1583~1586年)』が継ぐと、ソンガイ攻略の機会を窺い、テガーザを占領し、1585年に2000人の先遣部隊にソンガイ国内の様子を探らせました。『ムハンマド4世(在位:1586~1588年)』が即位しますと、ソンガイ国内で内乱が起こり、弱体化が始まりました。マンスール王は、内外の情勢を検討し、アルジェリア方面への遠征はトルコを刺激し、泥沼の戦いになるが、西スーダンのソンガイ攻略については、トルコは関知せずの態度をとるだろうと判断していました。(同上)

  • 1590年、機は熟したと判断したマンスール王は、西スーダン遠征について、閣僚に諮りました。当初閣僚たちは、押し黙っていましたので、王は、反対だとしたら何故かと問うと、渡り鳥さえ力尽きて落ちるという環境の厳しいサハラ砂漠へ大軍を送れるのかということと、遠征中のトルコの干渉を恐れる意見を述べました。王は、隊商が通れる道を軍隊が通れないはずがあろうか、またトルコは、南回りでモロッコ攻略するような冒険はしない、と主張し、1590年12月29日、火縄銃を装備した歩兵2000、同じ装備の騎兵500、槍と投げ槍装備の騎兵1500、8000頭のラクダと1000頭の馬という大軍を出発させました。隊長は、パシャ・ジェデルというキリスト教からの改宗者で遠征部隊自体にもキリスト教からの改宗者を多く含んでいました。(同上)

    1590年、機は熟したと判断したマンスール王は、西スーダン遠征について、閣僚に諮りました。当初閣僚たちは、押し黙っていましたので、王は、反対だとしたら何故かと問うと、渡り鳥さえ力尽きて落ちるという環境の厳しいサハラ砂漠へ大軍を送れるのかということと、遠征中のトルコの干渉を恐れる意見を述べました。王は、隊商が通れる道を軍隊が通れないはずがあろうか、またトルコは、南回りでモロッコ攻略するような冒険はしない、と主張し、1590年12月29日、火縄銃を装備した歩兵2000、同じ装備の騎兵500、槍と投げ槍装備の騎兵1500、8000頭のラクダと1000頭の馬という大軍を出発させました。隊長は、パシャ・ジェデルというキリスト教からの改宗者で遠征部隊自体にもキリスト教からの改宗者を多く含んでいました。(同上)

  • 1591年3月1日、遠征軍は、ついにサハラを踏破しましたが、厳しい環境のため、1000人あまりに減っていました。しかし、火縄銃という火器を持っているモロッコ軍は、盾と槍しか知らないソンガイ軍を打ち破りました。3月21日の会戦でソンガイ王イツハーク2世は大敗し、逃走しました。翌1592年4月に殺され、ソンガイ帝国は完全に滅亡しました。モロッコ軍は、1591年4月25日に待望のトンブクトゥ入城を果たしますが、トンブクトゥは廃れた極貧の町になっていました。実は、ソンガイ帝国は、1580年代に入って、王位継承争いのみならず旱魃、洪水、疫病の頻発によって荒廃していました。(同上)

    イチオシ

    1591年3月1日、遠征軍は、ついにサハラを踏破しましたが、厳しい環境のため、1000人あまりに減っていました。しかし、火縄銃という火器を持っているモロッコ軍は、盾と槍しか知らないソンガイ軍を打ち破りました。3月21日の会戦でソンガイ王イツハーク2世は大敗し、逃走しました。翌1592年4月に殺され、ソンガイ帝国は完全に滅亡しました。モロッコ軍は、1591年4月25日に待望のトンブクトゥ入城を果たしますが、トンブクトゥは廃れた極貧の町になっていました。実は、ソンガイ帝国は、1580年代に入って、王位継承争いのみならず旱魃、洪水、疫病の頻発によって荒廃していました。(同上)

  • 1599年、ソンガイの属国になっていたマリ帝国のマフムード4世は、ソンガイ崩壊の混乱状態に乗じてジェンネを奪回しようと試みましたが、武器に勝るモロッコ軍に打ち破られ、小国に分裂していきました。サアド朝はその後、22年間、トンブクトゥの太守(パシャ)を任命し続けました。任命太守がいなくなってからも、旧ソンガイ領を支配したモロッコ人部隊は、サアド朝が滅んで100年以上も経った1780年頃まで身内の中から太守を選任し、周辺部族から税を取り立て続けました。西スーダンの征服は、サハラ越えの交易ルートを安定させ、サアド朝の威信を高めました。黄金や象牙の流入も容易になり、マンスール王の死後もサアド朝は、経済的な繁栄を謳歌しました。(同上)

    1599年、ソンガイの属国になっていたマリ帝国のマフムード4世は、ソンガイ崩壊の混乱状態に乗じてジェンネを奪回しようと試みましたが、武器に勝るモロッコ軍に打ち破られ、小国に分裂していきました。サアド朝はその後、22年間、トンブクトゥの太守(パシャ)を任命し続けました。任命太守がいなくなってからも、旧ソンガイ領を支配したモロッコ人部隊は、サアド朝が滅んで100年以上も経った1780年頃まで身内の中から太守を選任し、周辺部族から税を取り立て続けました。西スーダンの征服は、サハラ越えの交易ルートを安定させ、サアド朝の威信を高めました。黄金や象牙の流入も容易になり、マンスール王の死後もサアド朝は、経済的な繁栄を謳歌しました。(同上)

  • マンスール王の息子たちは、いずれも無能な人物でした。その結果、内戦状態に入り、以後この内乱状態は20年近く続きました。王家の嫡流が身内で争い、王家の血を引く分家諸侯も自らの根拠地で独立を図るようになり、マンスール王時代には、『地下に』潜んでいた同胞団や修養所勢力が分家諸侯との同盟によって勢力拡大を図るようになりました。このようなサアド朝の分裂状態は、商人たちにとっては、分家諸侯の領地を通るたびに多額の通行税がかけられるという深刻な事態を生み出し、経済を沈滞化させました。(同上)

    イチオシ

    マンスール王の息子たちは、いずれも無能な人物でした。その結果、内戦状態に入り、以後この内乱状態は20年近く続きました。王家の嫡流が身内で争い、王家の血を引く分家諸侯も自らの根拠地で独立を図るようになり、マンスール王時代には、『地下に』潜んでいた同胞団や修養所勢力が分家諸侯との同盟によって勢力拡大を図るようになりました。このようなサアド朝の分裂状態は、商人たちにとっては、分家諸侯の領地を通るたびに多額の通行税がかけられるという深刻な事態を生み出し、経済を沈滞化させました。(同上)

  • このサアド朝の経済に追い討ちをかけたのが、ヨーロッパ諸国の新大陸の開発でした。16世紀、スペインは中米とアンデス方面を征服し、ポルトガルはブラジルを植民地化しましたが、スペインはカリブ海を囲むアンティル諸島、ポルトガルはブラジルでそれぞれ甘蔗栽培を始めました。そのため、モロッコの重要な産物だった砂糖の価値が下がることになりました。(同上)

    このサアド朝の経済に追い討ちをかけたのが、ヨーロッパ諸国の新大陸の開発でした。16世紀、スペインは中米とアンデス方面を征服し、ポルトガルはブラジルを植民地化しましたが、スペインはカリブ海を囲むアンティル諸島、ポルトガルはブラジルでそれぞれ甘蔗栽培を始めました。そのため、モロッコの重要な産物だった砂糖の価値が下がることになりました。(同上)

この旅行記のタグ

13いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

モロッコで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
モロッコ最安 515円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

モロッコの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP