2012/01/05 - 2012/01/13
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世界文化遺産のフェズ旧市街の紹介です。王宮の正門付近の外観を見学した後、旧ユダヤ人街を通って、ブー・ジュルード門に向かいました。フェズで最大とされる色鮮やかな門です。(ウィキペディア、駐日モロッコ王国大使館・モロッコ)
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サアド朝紹介の続きです。ポルトガルは、1640年にスペインから独立すると、ギニア湾北岸まで至る西アフリカ海岸沿いに多くの港を開発しました。西アフリカ、アカンの黄金と象牙を直接入手できる港を獲得したことで、モロッコの持つ大西洋岸の港の価値は下がりました。この時期には、スペインとポルトガルの関心は、黄金よりも奴隷の獲得に向かいました。(同上)
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その理由は、甘蔗栽培はいくらでも奴隷を必要としていたからです。1600年以前では、年間1万6000人だった奴隷の輸出が、17世紀に入るとその10倍にまでなりました。しかも、西アフリカの開発と奴隷の獲得は、ギニア湾沿岸の黒人王国にも影響を与えました。(同上)
*写真は、談笑中の赤い服の門衛さんと警備の人達のようでした。 -
奴隷獲得のために、スペインとポルトガルは黒人王国の君主たちの要求するにまかせて、銃などの優れた兵器を与えましたので、サアド朝の権威は、このことによっても傷付きました。ナイジェリアのギニア湾岸に栄えたベニン王国の『銃を持つポルトガル人』を象ったいくつかの青銅彫刻は、この時期を象徴する美術作品です。(同上)
*写真は、ブー・ジュルード門の正面光景です。 -
モロッコ行き隊商は、1年に1回だったのが3年に1回に減らされました。『ムーラーイ・ジダーヌ王(在位:1603~1627年)』がトルコにどうにかしてくれと泣きつくという事態になり、アブドゥッラーの次子『アル・ワーリド王(在位:1631~1636年)』は、即位するや黄金の輸出を禁止しました。元気なのは、「小聖者」を中心とするアル・アヤチ家やディラー団といったイスラム同胞団や修養所勢力でした。スペインなどに聖戦を挑む一方、海賊活動まで手がけて活躍しました。(同上)
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サアド朝は、同砲団の首領たちを知事に任命したり、『ムハンマド・エッ・シェイク・スギール王(在位:1636~1654年)』などは、ディラー団の首領ムハンマド・ハッジを軍司令官に任命したりして懐柔しようとしましたが、彼らの独自の活動を止める力を失っていました。また、アトラス山中から興った「聖者」ブー・ハッスーンが、スース地方のセイテリヤー修養所の「聖者」になって、サアド朝との抗争を続け、モロッコ北部のラーライシュを念願の港として手に入れ、勢力を示しました。(同上)
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このためサアド朝は、すっかり衰退し、『アフメッド・ル・アッバース王(在位:1654~1659年)』を最後に、直系の王を立てられず、一同胞団や一修養所勢力に成り下がりました。その後、サアド朝の残党の公子の一人ライイランは、ディラー団の本拠新サレ(現ラバトのウダヤー地区)を1664年に奪って1668年まで支配し、『海賊大将』の名でマルセイユと通商、二つの銀行に莫大な預金をしました。ライイランの海賊活動は、1672年にアラウィー朝に降った後も続けられました。モロッコの統一は、1670年のアラウィー朝の『ムーラーイ・ラシード王(在位:1666~1672年)』による再統一を待たなければなりませんでした。(同上)
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サアド朝の歴代君主の紹介です。カッコは在位年です。(同上)
〇アブー・アブドゥッラー・アル=カーイム(1509~1517年)
〇アフマド・アル=アラジ(1517~1544年)
〇ムハンマド・アシュ=シェイク(1544~1557年)
〇アブドゥッラー・アル=ガリブ(1557~1574年)(続く) -
〇アブー・アブドゥッラー・ムハンマド2世(1574~1576年)
〇アブー・マルワン・アブド・アル=マリク1世(1576~1578年)
〇アフマド・アル=マンスール(1578~1603年)
〇アブー・ファリーズ・アブドゥッラー(1603~1608年)
*次はマラケシュ政権の歴代君主です。(同上) -
イチオシ
〇ムーラーイ・ズィダン・アブー・マーリ(1603~1627年)
〇アブー・マルワン・アブド・アル=マリク2世(1627~1631年)
〇アル・ワーリド(1631~1636年)
〇ムハンマド・エッシェイク・エス・セギール(1636~1655年)
〇アフマド・エル・アッバース(1655~1659年) -
フェズ政権の歴代君主です。(同上)
〇ムハンマド・エッシェイク・エル・マームーン(1604~1613年)
〇アブドゥッラー2世(1613~1623年)
〇アブド・エル・マレク(1623~1627年)
*サアド朝は、マラケシュ政権の1659年に滅亡しました。 -
次は、17世紀末からモロッコを統治した『アラウィー朝』の紹介です。首都はフェズ、メクネス、ラバトでした。アラウィー家の祖である『マウラーヤ・ハサン・アッダヒール』は、13世紀後半にアラビア半島のヤンブーから、サハラ交易の拠点であるシジルマサに移住したと伝えらます。モロッコ南部にたどり着いたマウラーヤの一族は、シャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)として現地のベルベル諸部族から敬意を持って扱われました。1631年にアラウィー家のマウラーヤ・シャリーフは、シジルマサの住民から支持を受け、政治的影響力を強めました。(同上)
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サアド朝末期のモロッコには小勢力が乱立する状況にあり、アラウィー家は小勢力への軍事支援を引き受け、援軍に呼ばれた町を占領して勢力を拡大しました。マウラーヤ・シャリーフの子ムハンマドは、1640年にスース地方に割拠するマラブー(イスラム教の聖者)のハサンを破ってドラア渓谷を制圧し、『ターフィラルトのスルターン』を自称しました。(同上)
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ムハンマドは、フェズからシジルマサに至るラインの確保を図り、1650年にはウジダ、ネドロマとトレムセンを獲得しました。アルジェリアを支配するオスマン帝国がアラウィー家の拡大を警戒してトレムセンに軍を進めたため、ムハンマドはシジルマサに退却し、タフナ付近をアルジェリアとの境界に定めました。(同上)
*写真は、レストランのような建物光景です。 -
ムハンマドは、アラウィー家の指導者の地位を弟のラシードに譲り、自らは地方の領主となって一線から退きました。17世紀半ばのサアド朝の混乱期に、アラウィー家はラシードの指導下で勢力を拡大しました。ラシードはムハンマドの時代からアラウィー家と敵対するスーフィー教団のディラーイー教団を中部アトラス山脈に追いやり、フェズのイドリース家のシャリーフを服従させました。(同上)
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ラシードは、リーフ地方を制圧して南北の交易路を確保し、1667年にフェズとターザ、1669年にマラケシュを占領しました。フェズを流れるセブー川に橋を架けて敵対していた二つの市街地フェズ・エル・バリとフェズ・エル・ジャディドを結合し、この地を首都に定めて防備を固めました。(同上)
*写真は、屋上にパラソルがあったレストランらしい建物の光景です。 -
ラシードは、モロッコのイスラーム勢力の代表者としてアミール・アル=ムウミニーン(カリフ)の称号を採用し、彼の時代に国家としての基盤が整備されました。ラシードの跡を継いだ弟のイスマーイールは、各地の反乱を鎮圧し、1672年にメクネスを首都に定めました。イスマーイールはアルジェリアとの国境地帯の監視が容易で、ラバト、サレなどの港湾都市に近く、フェズやマラケシュに存在する古くからの部族勢力の干渉を回避できるメクネスの地理的利点に着目していました。(同上)
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イスマーイールは、メクネスを政治・軍事・宗教の中心地とするために開発に尽力しましたが、イスマーイールの死後にメクネスは首都の地位を失い、後のスルターンはフェズ、マラケシュを都としました。イスマーイールの死後に国家の財政は逼迫し、長期にわたって社会は不安定な状態に置かれました。(同上)
*写真は、お仕事中の馬かロバの光景です。 -
17世紀から19世紀にかけて、中央政府の権力は限定されました。1757年に即位したムハンマド3世は、シャリーフとしての血統を強調して宗教的権威を強調し、メッカのシャリーフと緊密な関係を持ちました。アラビア半島のワッハーブ思想がモロッコに導入されたのは、ムハンマド3世の時代です。(同上)
*写真は、ネコさん達の会議です。左上のミケネコさんがボスのようでした。 -
ワッハーブ思想は、イスラム教の改革運動における宗派です。13世紀から14世紀にかけて活躍した シリア 出身のイスラーム学者、イブン・タイミーヤの思想に強い影響を受けたものとされます。ワッハーブ(1703~1787年)がコーランとスンナへの復帰を唱えるなど,初期イスラムを理想とする純粋主義・復古主義とされます。(同上)
*写真は、群れとは少し離れた場所にいた毛並みの良い白ネコさんです。 -
国家を再統一したムハンマド3世は、武力と増税による支配を転換し、貿易の独占と管理による収入の増加による国力の増強を試みました。1757年にデンマークと締結した通商協定を皮切りに、モロッコは他の国家と通商協定を締結しました。従前はモガドル(アッサウィーラ)が唯一の外港とされましたが、1800年にタンジャが開港し、鎖国後にはタンジャが唯一の外港となりました。(同上)
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ムハンマド3世の治世から20世紀初頭まで、関税収入がモロッコの国家収入の大部分を占めるようになりました。18世紀末からモロッコ内陸部や山岳地帯は中央政府の支配を拒む諸部族が割拠する『スィーバの地(反乱の地)』となり、政府の支配領域(マフザン)は平野部に限定されていました。イスマーイールの時代に実施された部族勢力の移動・離間・抑圧の反動として、山岳地帯の部族勢力が平野部に移住し、諸部族の移動は宗教団体の反抗を引き起こしました。(同上)
*写真は、裏町風の通りの光景です。 -
1792年に即位したスライマーンは、分裂した王国の復興に取り組みますが、政府の直轄領をわずかに回復するだけに留まりました。また、スライマーンはムハンマド3世の方針を転換して、タンジャのみを外国への窓口にする鎖国政策を採りますが、19世紀以降モロッコはヨーロッパの列強諸国の進出に晒されました。列強諸国からの圧力を受けたモロッコは開国を余儀なくされ、1850年代から1860年代にかけてイギリス、スペイン、フランスとの間に各種の免税特権と治外法権を認める不平等条約が締結されました。(同上)
*写真は、少し先の尖った丸窓からの光景です。 -
イチオシ
モロッコは、1830年代からアルジェリアでフランスからの独立運動を指揮していたアブド・アルカーディルを支援し、1843年にアブド・アルカーディルがモロッコに亡命した際、政府は民衆の声に押されてアブド・アルカーディルを支援しました。1844年のイスリーの戦いでモロッコはフランスに敗北を喫し、アブド・アルカーディルへの援助の停止を約束させられました。(同上)
*写真は、アトラス杉を使ったらしい、素晴らしい木工装飾の光景です。 -
モロッコは、1859年から1860年にかけてのスペインとの戦争に敗北し、テトゥアンを喪失しました。1860年4月にイギリスの仲裁によってスペインとの和平が成立しますが、多額の賠償金の支払い、セウタ居留地の拡大、漁業基地の権利の譲渡などが組み込まれた不平等条約を結ばされました。(同上)
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イチオシ
1859年に即位したムハンマド4世の元で、モロッコの近代化が推進され、国軍の強化、イスマーイールに倣った常備軍の設置を進めました。行政、財政、軍制改革による苦境からの脱出が試みられましたが、結果は財政危機、外債の増加、列強への従属に終わってしまいました。(同上)
*写真は、アトラス杉を使ったらしい木工細工のズームアップ光景です。 -
ムハンマド4世の跡を継いだハサン1世は、王権の強化を志向しましたが、武力による強制的な税の徴収などの旧来の方法が取られ、大きな成果は挙げられませんでした。ハサン1世の治世に開催されたマドリード会議により、従前はフランス、イギリス、スペインにのみ与えられていた最恵国待遇の対象が拡大され、モロッコは開国状態に置かれました。(同上)
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19世紀末から20世紀初頭にかけてアラウィー朝は統治能力を喪失し、列強の草刈場となりました。モロッコ各地ではスーフィー教団を中心として、外国の排斥と惰弱な政府の打倒を掲げた抵抗運動が展開されました。1894年に14歳で即位したアブドゥルアズィーズは、即位当初宰相のアフマド・ムーサーに政務を委ねていましたが、1901年から親政を開始しました。(同上)
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アブドゥルアズィーズは、欧米の機械類に強い興味を示していましたが、ただ機械を玩具のように扱うだけに過ぎなかったようです。浪費による国庫の疲弊と機械をもたらした外国人の影響が増し、失望した人々が起こしたクーデターによってアブドゥルアズィーズはスルターンの地位を追われましたが、植民地化の趨勢を変えることはできませんでした。1904年に締結された英仏協商の結果、フランスはエジプトにおける権益の放棄と引き換えにイギリスからモロッコでの権益を獲得し、同年にフランスとスペインはモロッコ内の両国の勢力範囲を区画しました。(同上)
*写真は、カラフルなアラベスク文様のズームアップ光景です。 -
1905年のタンジェ事件で、ドイツがフランスのモロッコへの拡張を牽制した後、1906年のアルヘシラス会議でドイツの主張を容れてスルターンの主権の保障、モロッコの領土保全、経済的機会の確保を確認しながらも、フランス、スペインに治安や財政などの内政の介入件を認め、モロッコの保護権が承認されました。(同上)
*写真は、人懐っこいネコさんです。餌をねだられましたが、手持ちがありません。 -
列強による内政干渉によってモロッコ人の外国人排斥運動はより激しくなり、モロッコ在住のヨーロッパ人に対する暴行が各地で発生しました。こうした情勢は介入のまたとない口実となりました。1907年7月にカサブランカで発生した9人のヨーロッパ人労働者の殺害事件(カサブランカ事件)は、フランスによるカサブランカと周辺地域への軍事行動を引き起こしました。(同上)
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