2011/10/22 - 2011/11/06
8814位(同エリア16384件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1484冊
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- フォロワー151人
「エッフェル塔」の上からパリの空中散歩を楽しんだ後は地道に地図を片手に地べたを這いずりまわりました。まずはエッフェル塔に近いラップ通りの集合住宅のアール・ヌーヴォー建築探しです。この春の中欧の旅でのプラハやブダペストでもアール・ヌーヴォーの建築を巡りましたが、2009年4月発売のPENという雑誌が非常に役に立ちました。今回のパリの旅の出発前に発売された同じ雑誌の「男のパリ」と言うコピーにはタイミングの良さを笑ってしまいました。若い頃はポパイなどを読んで出掛けた先で生前のキース・へリングに出会って絵を描いてもらったり、多少大げさですが自分の人生が雑誌によって何かが変わったと思える時が何度かあります。「エッフェル塔」周辺のジュール・ラヴィロットの建築の後は16区に移り、メトロの入り口のデザインで有名なエクトール・ギマールの建物を探し回りました。このタイミングで急に雨が降り出して来たのでゆっくり見学出来なかったのが少し残念ではありました。姪と合流した後は更にル・コルビュジエの「ラ・ロシュ邸」の見学もしたので、この半日は建築学科の学生に戻ったような気分でした。最後は「凱旋門」まで見学したので1日中歩き通しでした。お昼も歩きながらサンドイッチを食べた程度だったので、晩御飯は「ステック&フリット」に開店前に並んでステーキを妻と姪にごちそうして許してもらいました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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今回のパリでの建築巡りでは雑誌「PEN」のアール・ヌーヴォーの特集が非常に役に立ちました。春に行ったプラハとブダペストの旅でも、今回のパリでも旅自体のきっかけにもなった雑誌です。専門書では無いので旅行者が数日で見て回れるようにポイントが絞ってあるので選択も楽でした。ただ地図がちょっとあまいのが気になりましたが。
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「ラップ通りの集合住宅」はジュール・ラヴィロット自身がオーナーとして発注した集合住宅で、1901年に竣工しています。当時は悪趣味と酷評されたにもかかわらず1901年のファサード・コンクールで受賞もしているそうです。個人的にはギマールのすっきりしたデザインよりごてごて感があって好きです。
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個人の集合住宅なので当時のまま残されているのでしょう。タイルで覆われた部分とライムストンの彫刻の対比が面白いです。タイルより柔らかい印象の石なので彫刻が艶めかしく感じました。アダムとイブを描いたという少年少女のなまめかしい裸身の間のラヴィロット夫人の彫刻は官能的です。
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ジュール・ラヴィロットはパリのアール・ヌーヴォー様式の建物の設計でよく知られているフランスの建築家です。 彼の建物は想像力豊かで活気に満ちた装飾、特にファサードの彫刻とガラス張りやセラミックタイルを使用したデザインで知られており、一流の彫刻家やアレクサンドル・ビゴと共同で作られました。
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彼はパリのファサード・コンクールにおいて、この「ラップ通りの集合住宅」と「セラミック・ホテル」と8区にあるメッシン通りのビルで3回受賞しています。この扉は彫刻家ジャン・バプティスト・ラリーブによって設計され、テオバルド・ジョセフ・スポレル、フィルミン・マルセラン・ミシュレ、アルフレッド・ジャン・ハロウによって彫刻された非常にエキゾチックなデザインです。
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不思議な動物や鳥のデザインされたアイアン・ワークは抽象的ですが、扉の押し手はリアルなトカゲのデザインです。
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中から旅行に出掛けるご家族がトランクを持って出てきたので、ちらっとですが中を見る事が出来ました。
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このタイルの意匠はブダペストの旧ジョナス・ハッチ&サン商会(貿易観光博物館)のジョルナイ社の鯉のタイルに似ています。セラミックは彫刻家のアレクサンドロ・ビゴの作品だそうです。
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バルコニーを支える雄牛のデザインはギリシャ神話のモチーフのようにも見えます。
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パリにいるせいか思い出すのはルーブル美術館に収蔵されている「ダリウス1世の宮殿の牡牛の柱頭」かもしれません。
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窓の建具は新しく変わっているようですが、雄牛のレリーフや青海波みたいなパターンのタイルや漆喰の意匠にアイアンワークなどを見るとデザインのしすぎのようでもありますが全体で見ると調和しているのが不思議です。
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更に上の階のバルコニーの円柱や軒下の意匠など怪しい雰囲気を醸し出しています。
本当は更に上の階があるのですが大通りの反対まで渡って写真を撮る元気がありませんでした。 -
壁にはラヴィロットのネームプレートが埋め込まれています。フランスの建物には大抵右下の辺りに銘板か同素材の石に名前が彫られていました。それだけ建築家の社会的地位が高かったのでしょうか?定礎みたいに下に何か埋めるような習慣は無かったのでしょうか?
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近くにもう1軒「ラップ広場の集合住宅」があると雑誌に載っているので探しましたが、通りに面しては見つけられませんでした。よく読み返すと「100メートルも離れていないラップ広場の奥には…。」とありました。最初に袋小路の奥に絵が描かれた外壁の建物があって、それが目立っていたために隣の建物を見逃していたのでした。他にも家があるのに手前にはアイアン・ワークのフェンスで空間が仕切られています。
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こちらはラヴィロット自身も住んだと言う「ラップ広場の集合住宅」です。ラップ通りの建物に比べると瀟洒な印象の建物ですが、彫刻家のアレクサンドル・ビゴによる陶器の装飾や植物を思わせる曲線を描くアイアン・ワークは、やはり過激で過剰に思えます。
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鉄や陶器ガラスや石などの固く強固な建材を、イマジネーションの力で生命感の漂う柔らかくて自由なかたちに変えてみたいという執念を感じます。また各階ごとに外壁の仕上げも違う面白い建物でもあります。
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こちらの建物はさらに重厚な造りのドアです。ちょうど表から帰って来た人がいらっしゃいましたが、片手では簡単に開け閉めが難しいようでした。
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正面入り口の上には正にアール・ヌーヴォーの意匠の柱と重厚なベランダが乗っています。窓の上の人物のレリーフと果実と植物のタイルが何とも魅力的です。設計したジュール・ラヴィロットはハンガリーのレヒネル・エデンより20年近く若いので、レヒネル・エデンの影響もあるのでしょうか?そんなことを考えながら見学しました。
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更に上の階はベランダもアイアン・ワークに変わり、軽やかな印象を与えています。こんな所に住んでいると毎日窓を写真に撮られるので大変でしょうね。この辺りには他にも数件のアール・ヌーヴォーの建物があるようでしたが、16区に急がないと廻りきれないので先を急ぎます。
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急ぎ足で「シャン・ド・マルス公園」を横切ります。見納めになるかもしれないので「エッフェル塔」を写真に収めておきます。
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16区に向かいながら近所のスーパーでコーラとサンドイッチを買って歩きながらの昼食にしました。2人で4ユーロと我が家の旅行もケチ臭くなったものです。そのままセーヌ河畔を「ビル・アケム橋」に向かいます。ここには日本文化会館の建物があり、その前の広場は京都広場という名前でした。
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「ビル・アケム橋」はいろいろな映画に出てきますね。何といっても印象深いのはルイ・マル監督の「地下鉄のザジ」とベルナルト・ベルトルッチ監督の「ラスト・タンゴ・イン・パリ」と、最近ではクリストファー・ノーランの「インセプション」ですかね。プラハの次の旅がパリですが「のだめ」はまだ観ていません。大貫妙子の「地下鉄のザジ」を口ずさみながら橋の下を歩きます。
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「ビル・アケム橋」を半分ほど渡ったセーヌ川の中に「白鳥の島」があり、バルコニーの中心にある躍動的な彫像はデンマークの彫刻家ホルガー・ヴェデルキンヒ作の 「フランス再生」です。
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エッフェル塔に向かって剣を差し向けている姿は、風車に向かって突進していくドンキ・ホーテのようにも見えました。ただ、この橋からのエッフェル塔の眺めはとても美しく、花火が上がる時などはパリの人はここに来るそうです。
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「白鳥の島」を反対側に延々と歩くと「自由の女神像」があります。この像はローマ神話の自由の女神リベルタスをかたどった立像ですが、ニューヨークにある自由の女神像の方が有名です。アメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスより贈呈され1886年に完成しています。ニューヨーク港からアメリカ合衆国に入国しようと大西洋を船で渡ってきた移民にとって、灯台でもあった自由の女神像を眺めるのは特別の思いがあったようで、映画「ゴットファーザー」でも印象的なシーンです。
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誰かの夢の階層が破壊されないうちに橋を渡ってしまいます。映画「インセプション」の中のこの橋は非常に印象的に表されています。
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橋を渡りきるとオープンエアーのエスカレーターがありました。さすが高級住宅街の16区に入った気がします。なんか香港島の辺りにいるような気分もしないではありませんが、この辺りも坂の街なので楽して高度を稼いでおく事にしました。昇りきると目の前に地下鉄のパッシー駅があり、そのまままっすぐ進んで予定の道とは違うパッシー通りに入ってしまいました。途中から方向を修正しながらアール・ヌーヴォーの建物を探すことにします。
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この辺りまで来ると16区の上に暗雲が垂れ込めてきました。エッフェル塔の上部はすでに雲に隠れています。午前中も雨だったのでちょうどお昼前後の晴れた時に登れて良かったようです。まあ、エレベーターの故障で上の展望台に行けなかったのは残念でしたが。
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何とか「カステル・ベランジェ」に辿り着きました。36戸の集合住宅でこちらもファサード・コンクールで入賞したそうです.ただ、ベランジュではなくて「迷惑をかける (デランジェ)」おかしな館と世間からは当初冷たい批判を浴びたそうです 。アール・ヌーヴォーと言うよりはネオ・ゴシックの方が色濃く感じました。ただ細かいディティールは紛れもなくアール・ヌーヴォー様式です。
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この建物はエクトール・ギマールが28歳の時に6階建て36戸のアパルトマンとして設計しています。ギマールはベルギーのブリュッセルにあるヴィクトール・オルタのタッセル邸に感銘を受けて帰国後に設計変更を加えて完成させたそうです。これはパリで最初のアール・ヌーヴォー建築となります。
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有名なファサードの入り口門扉です。どこの建物も門扉は固く閉ざされているので内部はうかがい知れません。バルセロナでガウディ巡りした時も同じように思いましたが、個人の住宅ですから仕方ありません。外観を見せてもらっただけでもありがたいと思います。
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雑誌「PEN」の写真ではプレートがありませんでしたので、何度も盗まれるのかもしれません。青い色が軽やかな植物を想像させるデザインです。
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鉄板にリベットを見ると19世紀末から新しい時代への移行期に作られたと感じます。
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タツノオトシゴやアフリカの黒人の顔をモチーフにしたデザインの窓の手摺です。壁面はレンガタイルなどで重たい雰囲気ですが、建具や金物が淡いグリーンで統一されているので軽い印象を与えています。
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バルセロナの「カタルーニャ音楽堂」を設計したモデルニスモの建築家ドメネク・イ・モンタネールを思い出させるようなデザインです。バルセロナのモデルニスモ建築は1週間ほどかけて回ったことがありますが、近い将来もう一度じっくり見学したいと思っています。
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とうとう空は持ちこたえられなくなり雨が降り始めました。「ラ・フォンテーヌ・アガー集合住宅」はシンプルでのっぺりした印象の建物ですが全体的にはレースを被ったような優雅な建物です。
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バルコニーの手摺はギマールらしい植物紋様で、昔見たオルセー美術館に展示されていたものと同じ物のようです。
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1階の右側に「カフェ・アントワーヌ」がありました。残念ながら昼間は午後2時半までの営業なので閉まっていました。建物の竣工した1911年から営業を続けているそうで、木彫りが美しいバーカウンターや、エミール・ガレを彷彿させるようなアール・ヌーヴォー様式の照明器具などが美しいと聞いていましたが後に閉店してしまったそうです。
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「メザラ邸(オテル・メザラ)」はこじんまりとした印象のお宅でした。実際に住むならこの家が一番良いと思いましたが、植木鉢の1鉢も置かれていないので、人が住んでいるんだろうかと心配にもなりました。
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ラ・フォンテーヌ通りにはたくさんのアール・ヌーヴォー建築が並んでいるので、一連の建築を見に世界中から人が来て写真を撮るので、カーテンも開けられないのが現実でしょう。その中の1人として申し訳なく思いました。
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華美に装飾され過ぎていない好印象の建物はエクトール・ギマールの代表作であります。これは高層アパートの立ち並ぶパリの街中では珍しい3階建ての戸建住宅で、もともとは1階の半分ほどが施主のタペストリー店だったそうです。
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土砂降りの雨は一転して青空が広がって来ました。パリはこんなスコールみたいな雨が降る街だったのでしょうか?最近の東京と同じように天候に異変が生じているような気がしました。
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本当はまだいくつも見たかった建物はあるのですが、最後はギマールの自邸だった建物です。アール・ヌーヴォーという国際的な運動の中でギマールは孤立したようにまったく弟子をとらず、学派もつくらなかったために長らくこのアール・ヌーヴォー運動の脇役と見なされがちで、旺盛な創作活動を行ったのもわずか15年ほどでした。
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ふっくらしているといった程度の曲線を描く外観に植物を思わせる有機的なデザインの窓枠がアクセントとして添えられたシックな印象の建物です。ラップ通りの建物や同じ通りにあるカステル・ベランジェのような、見るものを不安に陥れるような攻撃的な要素はなくエレガントです。
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ギマールがアメリカ人の妻のためにアトリエ兼自宅として建てた「 ギマール自邸(オテル・ギマール)」は内装から家具までギマール自身がデザインして、画家であった妻のアデリーン・オッペンハイムの絵が飾られていたそうです。ここくらいフランス政府かパリ市が買い取るかして美術館にでもなって、入場料を払えば内部が見られるようになればと思いました。
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現在はどんな方が住んでいるのか分かりませんが、世界中から見学者が来るので窓は開け放せないし大変でしょうね。この建物はブリュッセル市内で見かけるアール・ヌーヴォーの邸宅の雰囲気が感じられました。
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2階から3階にかけては角に構造柱が通っていない感じがして不安定さを感じますが、それも計算の内なのでしょうか。2階にはギマールのアトリエがあったそうです。ギマール夫婦は1938年までここで暮らし、ナチの迫害を逃れるためにニューヨークに渡りますが、二度とこの家に戻ることはなかったそうです。
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入り口の122番地のプレートの下にエクトール・ギマールの頭文字のH(Hector)とG(Guimard)がデザインされています。玄関ポーチのシンプルなアイアンとガラスで構成された扉も美しいです。
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街路樹に葉が茂っていない時期に来た方が建築を俯瞰してみる事が出来ると思いました。これで一応16区と17区のアール・ヌーヴォー建築巡りは終わりです。
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モーツアルト通りにあった「エリック・カイザー」で休憩しましょう。あっという間に天気は回復して雨がキラキラ輝いて爽やかな気分になります。ここで仕事終わりの姪と合流してパリの散歩を続けることにします。
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お腹が空いたのでちょっとパンも摘まんでおきます。ジャスデ・アパートまで足を伸ばすには時間が遅くなったので、暗くならないうちにル・コルビジュエの「ラ・ロシュ邸」へ急ぐことにしました。
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ジャスマン通りの道すがらに見つけたファサードのタイルの美しい建物です。調べてみると建築家のジュリアン・グアデットの息子のポール・グアデッドの作品でした。 彼は1891年からパリの美術学校のクラスに学び、1904年に卒業して父親の建築事務所で働きます。その後エドモンド・ポーリンの事務所で働いています。この建物は1912年に建てられた「オートゥイユ中央電話局」の建物でした。
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建物自体はシンプルな造りですが、印象的なドア枠のタイルと鉄扉、そして奥に続く壁のタイルと非常に洗練されたデザインだと思いました。モザイクとタイルは劣化が少ないので往時を想像しやすい素材だと思います。
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この年の春の旅でブダペストでレヒネル・エデンの設計による同時代の建築を数多く巡り、ジョルナイ工房の美しいタイルをたくさん見てきたのでディティールを見ずにはいられませんでした。
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迷路のように住宅街を回り込むとル・コルビュジエ財団の入っている「ジャンヌレ邸」とその隣に見学のできる「ラ・ロシュ邸」がありました。
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木々に囲まれた路地の先にあるので「ここでいいの?」と思いますが、案内看板が出ているので安心して先に進めます。
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2つの名前のある建物ですが、ル・コルビュジエの兄で音楽家のアルベール・ジャンヌレとバーゼルの銀行家で絵画コレクターのラウル・ラ・ロッシュの2世帯住宅で、外観は一体になっていますが、内部は壁て仕切られているようです。
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ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸はル・コルビュジエ財団の本部となっています。「ジャンヌレ邸」は事務所となっているため見学はできませんが「ラ・ロッシュ邸」側は見学することができます。
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奥のピロティの下に「ラ・ロシュ邸」の入り口があります。インターフォンを押すと係りの方が扉を開けてくれますが、この扉の開け方は難しいので帰りは誰かと一緒に出ないといちいち係の人を呼ぶことになるでしょう。
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エントランスの広い空間で自分の靴の上にビニールの上履きを履かなければなりません。料金は5ユーロで絵葉書は1ユーロ、パンフレットなども置かれています。
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この建物は1925年に建設された邸宅で、ル・コルビュジエの作品の中でも初期のもので、彼が構想した5原則の「ピロティ」「屋上庭園」「水平連続窓」「自由な平面構成」「自由なファサード」が全て揃う住宅として知られています。
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ちょうど高校生の課外授業でたくさんの学生が思い思いにスケッチをしていました。絵を見る限りでは建築などの専門的な学生ではなく、美術の授業で来ている普通の高校生のようでした。
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日本の美術の授業でのデッサンの仕方は、最初に用紙の中にレイアウトを考え、全体を少しづつ仕上げていくように思いますが、ヨーロッパの学生の描き方を見ていると、部分部分を仕上げながら描き進めているように思えます。
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そのまま書き進めたら建物の半分しか描けないよなんて心配しながら覗いてしまいます。
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妻の後ろ姿がどうしてもドラえもんに見えてしまいます。この当時ジャン・レノがドラえもんを演じるトヨタのCMよりリアルだななんて思ってしまいます。
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いたるところに学生がいますが、それはそれでよしとして見学を進めますが、写真を撮るときはなるべく映り込まないように考えました。
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内装は基本的は白い壁ですが、幾つかの部屋や壁面の部分は印象深い色に塗られています。これは絵画コレクターのラウル・ラ・ロッシュが絵画を展示することを前提に考えられたものなのでしょうか。
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絵画コレクターの絵は残っていませんが、ル・コルビュジエが若い頃に描いた水彩画が飾られていました。1907年9月にクレヨンとガッシュ(不透明水彩)で描かれたイタリアのフィエーゾレの風景です。トスカーナ州には何度も旅しましたが、フィエーゾレには行ったことがありませんでした。
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これはキャプションを読まなくてもすぐに分かりました。フィレンツェの南のシエナのカンポ広場から見たマンジャの塔です。シエナは我々夫婦にとっても思い出深い地なので懐かしく思いました。カンポ広場の扇状の傾斜した広場の感じがよく現されていると感心しました。そしてこの色使い…。
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湾曲した壁に沿ったプロムナードの裏側には造り付けの家具がありましたが、これもきれいに湾曲していました。
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その脇の一番広い部屋がエクスポジション会場で、この11月までル・コルビュジエの若い頃の絵画展が開催されていました。
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ドイツのポツダムのサンスーシーの庭を描いた水彩画。
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この当時はまだドイツを旅したことが無かったので、あまり思い入れを感じられません。1910年はドイツ方面へ旅に出たようです。
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1911年も前年に引き続いてブルガリアを旅行したようで、これはガブローヴォとありました。ブルガリアにも行ったことはありませんが、正教の聖堂を描いたであろうことは分かります。
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気が着くと学生達もいなくなり、妻と姪も先へ進んだようで、1人でこの空間を満喫できました。
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1911年はギリシャのアテネにも行っています。パルテノンからピレウス方面を描いているようで、円柱が赤く燃えている方角を考えると朝日を浴びて輝いている時間帯だと感じました。1人旅をしていたころに夜明けのパルテノン神殿のスケッチをしたことがあるので鮮明に記憶に残っています。
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1911年はさらにポンペイにも行っています。ジュピター神殿の前の広場には入れたけど神殿の中側に行けただろうかと考えながら、柱の間にヴェスヴィオ火山をみつけました。
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更に同年にはイスタンブールまで足を伸ばしています。ボスポラス海峡を行きかう帆船が描かれていますが、現在では見ることのできない風景です。ボスポラス海峡は潮の流れも速いですが、朝夕は海峡を渡る風も強いのでその雰囲気が感じられます。
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自分でも旅先でスケッチをしていたのですが、さすが世に残る方のスケッチは違うものだと感心しました。建物より先にスケッチ展に目が行ってしまいました。
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湾曲したスロープは「建築的プロムナード」と呼ばれるものです。スロープの上の高い位置の窓は壁に飾られた絵画に直接太陽光線が当たらないような工夫だと感じます。茶色のソファは最小の構成で最大の快適性を実現することを目的としてデザインされた通称「グランコンフォール」です。スティールパイプのフレームに背と座とアームのクッションを落とし込んでいくという簡単な構造ながら、永く愛され続けているル・コルビュジエの名作です。
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スロープを降りてくると水面から水中に沈んでいくような気分を感じました。初めて来たのに非常に落ち着く空間です。
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絵が展示してあったピクチャーギャラリーはちょうどピロティの上に当たり、名前の通り展示してある絵が見易かったです。補助照明もありますが壁の上部に水平に切られた細い窓の明かりの量がちょうど良いのかもしれません。
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部屋の中ほどに据え付けられたテーブルは移動することが出来ません。床に敷かれたタイルのモジュールに合わせた脚部が巨大な天板を支えています。
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家具らしいものが置かれていたのはこの部屋とダイニングルームだけで、他の部屋にはコルビジュエのデザインした椅子などは置かれていませんでした。
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動き回っている学生たちのいない所から写真を撮っているので順番がばらばらです。
この住宅はコルビュジェによる住宅構成の4つの型の第1番目に挙げられ、「各構成部分が、その有機的公正理由にしたがって、他の部分に隣接する。」という言葉が蘇ってきます。 -
渡り廊下の全面ガラスの窓の構成が美しいです。この面全部を覆える1枚ガラスがあったとしてもコルビュジェはこのように割り付けたのではないだろうかと思います。
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渡り廊下はそのままダイニングルームへとつながっていきます。
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姪も建築関係の仕事をしているので、この「ラ・ロッシュ邸」を見学した後に「サヴォア邸」や「ロンシャンの礼拝堂」も見に行ったようです。ちょっとうらやましいです。
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80年代のミッソーニのニットを思い出させるようなラグと家具が並ぶと生活感がいくらか出てくるのでほっとします。トーネット社の椅子が並べられているのは何故だろうかと悩んでしまいます。
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この部屋の家具はオリジナルでないことは感じられますが、ラ・ロッシュ氏が求めたものかは分かりません。
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キャプションはありませんがタイトルは「Still Life」でしょうね。Jeannerel22とサインがあるのはコルビュジェの作品です。彼の本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレですから。こんなピュリスム(純粋主義)絵画を描いていたのは知っていましたが見るのは初めてでした。作品にコルビュジェとサインするようになるのは1925年以降です。
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1918年に総合芸術誌「エスプリ・ヌーヴォー」創刊のためにル・コルビュジエと画家のアメデ・オザンファンは「ある特定の理論的意図をもって、芸術家が小集団を形成するのはこの時代の特徴である。」と自分たちをピュリストと呼びます。近代絵画においてキュビストたちが喪失させたと思っていた一般の関心、瓶や水差しやグラスといった誰もがよく知っている日常物から選んだ対象から、彼らはその絵画を組み立てました。
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パントリーはグランドフロアのキッチンの真上にあり、ガラス窓の向こうにある昇降装置で上げる仕掛けになっています。よく考えられているのなと感心したたけれど、母の実家の京都の二条陣屋には350年以上前からあったなと思い出しました。
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天板のタイルや衛生陶器の流しや蛇口も当時のオリジナルのままのようです。きれいなままよく残っているなと感心しました。
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コルビジュエの近代建築の5原則の1つである屋上庭園です。後にスリランカのジェフリー・バワの設計したホテルや別荘や自宅事務所を泊まり歩きましたが、コロンボにある自宅兼事務所のNo,11の屋上はル・コルビュジェの建築を思いださせました。
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どのフロアから見ても美しい建築だと思います。安心して眺めてられるのはモジュールがシンプルに限られていることだと思います。
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微妙に視線をずらしてもその安定感は変わることが無いように思えます。
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5原則の「水平連続窓」は「内部が自ら広がり、その結果として外部が決定される。」という言葉が浮かんできます。
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トイレも昔のままの衛生陶器が残されているようです。
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見学スペースのトイレは使用できませんが、もう一つ係員さん用のトイレがあって同じデザインでした。記念にお借りして、コルビュジェの作品にマーキングしてきました。上野の西洋美術館に続いて2か所目ですが。
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遅い午後の日差しがレースのカーテン越しに部屋に入ってきます。眺めているうちにこの太陽光線の入射角度も計算されているのだろうかと疑問が湧いてきました。
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レースのカーテン越しの柔らかい光が綺麗でした。
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真正面から見ると水平連続窓としか思えません。この窓を見ていて高校時代の学校の校舎を思い出しました。1階はピロティになっていたし、連続窓の意匠やスロープの使い方を考えると設計した人は絶対にル・コルビュジェを意識していたであろうことです。
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い一見狭い部屋のようですがクローゼットの高さだけで2メートルくらいあるのでかなりの広さがあります。
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ここの階段では無くスロープを設けたのは足元を気にせずにこの空間を楽しみながら下ってくることを意識したのでしょうか。スロープの幅を考えると壁に絵を飾ったようには思えません。
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キュビズムがピュリスムに与えた影響について、キュビズムは純粋なかたちによって構成されますが、ル・コルビュジエは建築も幾何学的なかたちによる構成を目指すべきだと主張したそうです。ル・コルビュジエにとってキュビズム作家たちとの交流は重要な要素となったのだと思います。
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2011年の春の旅ではプラハでキュビズムの絵画や建築も数多く見てきました。そんな建築とラ・ロルシュ邸に共通点が無いか考えましたが見つけることはできませんでした。
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これもコルビジュエの作品で1964年に制作された「ラ・カテドラル-No. 43」です。これを見ていたら妻の友人で何度か仕事をご一緒したことがある広瀬友利子さんという方の作品を思い出しました。
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ライブラリーには造り付けの本棚もありますが、これはちょっと使いにくそうでした。なんでこんな時代錯誤な暖炉があるのだろうと思ってから、この建物が90年も前に建てられたのだということを思い出しました。あまりに現代にも通用するデザインにそんなことも忘れていました。しかし、この暖炉ちゃんとシャッターもついて消火器も設置されているので実際に使えるのでしょうが、煙はどこに流れるのでしょうか?
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何気ない窓の鉄枠さえも美しく見えてきます。このピッチにも美しく見せるための比率が隠されているのだと思います。
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この窓は渡り廊下の窓の上に対象の位置に設けられているのが分かりました。どこか離れたところから建物を俯瞰したいところですが、あいにく周囲は建物で囲まれています。「サヴォア邸」のような敷地の広さがあったらと思います。
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造り付けの棚を見ていたら棚の厚さの違いや棚のピッチなどをメジャーで測りたくなってきました。多分下2段の棚の厚さの倍数で全て計算できると思います。
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建物の幅に対して、3階のフェンスは4等分で割られ、2階の渡り廊下と階段の開口は3等分され、1階の通路は6分の1だろうと想像できます。高さ方向も5等分で計算できそうです。
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たくさんいた学生たちはどこかへ行ってしまいました。まだスケッチが出来上がっていないと思うのですが。
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ただ静かになった邸内はまた違った雰囲気を感じられます。本来はこれが本当の姿なのだと思いますが。
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クローゼットのパイプの径やピッチ、ハンガーパイプまでもが細かくデザインされています。内側は何故ブルーに塗られたのでしょうか?一瞬「インターナショナル・クライン・ブルー」を想像しましたが、イヴ・クラインとコルビュジェでは時代が少し違うので関係は無さそうです。
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建築の鑑賞に来ているのに不動産巡りしているような気分になってきて、実際に住むならとかうちにある家具をここに置いてなどと思考が違うベクトルに向かってきました。住むとしたらこの部屋が一番落ち着きそうでしたけど。
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クローゼットの無い部屋も工夫がなされていていました。こんなデザインも90年前になされていたと思うと驚きです。アール・ヌーヴォー様式の時代と前後してこのような近代建築が起こっていくと思うと、先に見てきた16区と17区の建物と同じタイミングでここへ来ることが出来て良かったと思います。
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水回りは2フロアに渡って縦に通っていますし、トップライトからの明かりがグランドフロアのキッチンまで届くような設計になっています。狭い敷地の建物なので上手に出来ているなと感心しきりです。キッチンとパントリーのリフトも滑車での上下なので光の妨げにならないです。
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水回りからこの辺りの内装が一番生活感が感じられてよかったです。
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学生時代にこんな建物をちゃんと見ていたら人生変わっていたかもしれないなんて思ってしまいました。
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来たときにこの辺りにたむろしていた高校生たちはすでにどこかへ行ってしまった後でした。これを機会にル・コルビュジェの作品を見て回りたいと思っていますが、まだ叶ってはいません。
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我々がこの日の最後の見学者だったようで、「ラ・ロッシュ邸」には静けさが戻ったようです。
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すっかり時間が押してしまったので地下鉄の乗り換えの不便なパリで一番美しいと言われるギマールのデザインが残る地下鉄のポルト・ドーフィーヌ駅へ行くのも諦めました。パリに10日もいながら予定通りに進めるにはあと数日必要だったと感じました。
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ちょうど封切り公開中のタンタンの冒険のポスターがいたるところに貼ってありました。タンタンの飼っている犬の名前は映画ではスノーウィですが、フランス語版ではミルゥです。これはエルジェの最初のガールフレンドのニックネームでもあったそうです。タンタンは大好きなので後年ブリュッセルの「漫画博物館」へも行きました。
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ジャスマン駅から地下鉄に乗ってエトワール凱旋門駅まで移動しました。
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エトワール凱旋門駅までは1階乗り換えて20分くらいで到着しました。
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地上に出ると「エトワール凱旋門」が出迎えてくれました。午前中エッフェル塔の展望台からも眺めていましたが、やっぱり巨大な建築物です。
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「エトワール凱旋門」は1806年に前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念にナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まり、ルイ・フィリップの7月王政時代の1836年に完成します。ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、この門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時でした。
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パリを舞台にした映画はたくさんありますが、フレデリック・フォーサイスの小説をもとにした「ジャッカルの日」は市内各所で行われる8月25日のパリ解放記念式典の様子など印象に残る映画です。また、アラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラ主演の「冒険者たち」では若くハンサムなパイロットのマヌー(アラン・ドロン)が飛行機で凱旋門を潜ろうとして失敗する場面を思い出します。60年代や70年代の映画を見直すと懐かしい思いに浸れます。
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時間が押してだいぶ日が傾いて来ました。前回のパリ旅行の際は凱旋門の裏手のプチホテルに滞在したので何度も見ているので省略しても良いのだけれど、これが最後のパリかなと考えると予定から外せませんでした。
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「1792年の義勇軍の出陣」はシャンゼリゼ大通りから凱旋門を見た時の右下の彫刻で、翼を持った女性が人々に担がれています。剣を右手に持って左側に突き出しています。このレリーフはリュード作の「1792年の義勇軍の出陣」で、通称は「ラ・マルセイエーズ」と呼ばれます。当時の義勇軍が広めた歌の題名で、現在のフランスの国歌になっています。
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左側のレリーフは中央に剣を携えたナポレオンが立っています。その右から勝利の女神が月桂樹の冠を授けています。この彫刻はコルトー作の「1810年の勝利」という作品で、ウィーン講和条約を称えている彫刻とされます。ローマ軍のアクイラと呼ばれる鷲軍旗を持ち、ラッパを吹く女神がナポレオンを讃えているようです。
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さあ、地下に潜って凱旋門の下まで行ってみましょう。
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もう夕方なのでだいぶ人が少なくなっています。もちろん螺旋階段を上って屋上に出る元気はありません。
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11年前は階段を上って屋上まで上がりましたが、3人共登ったことがあるので足元まで行くことにします。
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上に昇るチケット売り場は結構混んでいましたが、すぐに地上に出る事が出来ました。やはりこれぐらいの距離まで来るとさらに迫力があります。カメラに収めるのは大変ですが16ミリの広角レンズだと何とかフレームに収まります。
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通称「ラ・マルセイエーズ」の義勇兵たちの彫刻が一番迫力があります。
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ルイ・フィリップ1世が大臣アドルフ・ティエールを介して委託したこの作品は1792年の最初の義勇軍を??寓意的に表現しています。義勇軍の兵士たちは古代ギリシャ兵の姿で表され、勝利の寓意である翼のある人物が彼らの士気を高めているようです。
中央にいるギリシャの戦士と若いエフェベの姿はフランス銀行の5フラン紙幣にも使われました。 -
間近で見上げるとさらに凄い空間です。アラン・ドロンが映画「冒険者たち」でセスナで潜り抜けようと考えたくらいですから。
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細かい装飾がとても綺麗です。外壁の彫刻も見事ですが裏地に凝った羽織みたいで内側の花のレリーフも好きです。これらの意匠は古代ローマの凱旋門に通じるものがあり、トルコのアンタルヤのハドリアヌスの凱旋門を思い出させます。
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勝利の女神は気まぐれだったのか、ナモレオン1世に最後まで微笑むことはありませんでしたね。
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エトワール凱旋門の下には第1次世界大戦の無名戦士の墓や、フランスの為に亡くなった兵士たちを祈念したプレートが埋められています。 この下に立つと凱旋門は遠目に眺めるのも美しいけれど、一番迫力を感じるのはここだと思えます。
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陰になっている東側から裏側の西面に回ってみます。ただパリへ凱旋するということを考えるとこちらが表になるのでしょうか?
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「エトワール凱旋門」にはグランダルメ通りの面にもレリーフがあります。「1814年抵抗」と「1815年平和」で、この2つのレリーフはシャンゼリゼ側の2つに比べると知名度は劣りますが、その造形美や完成度は差異が無いです。左側のレリーフはエテクス作「1815年平和」で、単に「平和」とも呼ばれます。フランス国民だけでなく、世界の人々が求める平和がレリーフのモチーフになっています。
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右側のレリーフが、エテクス作の「1814年抵抗」です。こちらも単に「抵抗」と呼ばれることもあります。ナポレオン時代のフランスの歴史が、レリーフに象徴的に描かれています。
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ナポレオンのロシアでの大敗を目にして、プロイセンはフランスへ宣戦し、1814年にロシア・プロイセン連合軍は侵攻して戦場はフランス国内に移ります。東からは連合軍、南からはスペインを制圧したイギリス軍が侵入し、ナポレオンは局地的な戦闘でたびたび勝利を収めますが大局的な劣勢は覆しようもありませんでした。3月31日に連合軍はパリに入城し、4月6日にナポレオンは退位し、エルバ島の小領主として追放されます。そして1815年にフランスは平和になるということでしょう。
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正面には新凱旋門と呼ばれるグランダルシュが見えました。一直線の道路の美しさに都市計画の重要性を感じます。
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凱旋門の一番上段の丸いビスケットのようなものは30枚の盾で、ナポレオンが勝利したヨーロッパやアフリカの戦いの名前が彫られています。その下の横長のレリーフは帰還するフランス軍が描かれています。
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これでこの日の観光は終わりで、シャンゼリゼを散歩しながら姪と一緒に晩御飯に行くことにしました。お昼が簡単なものだけだったので、お腹が空いて倒れそうですし、妻に怒られてしまいます。
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カルティエからシャンゼリゼをぶらぶら歩くことにします。朝目覚ましで起きられない妻のために母がカルティエの目覚まし時計を誕生日プレゼントに買ってくれたのですが、あまりに音が小さすぎてピクリともしませんでした。翌年違うデザインの物をプレゼントされたのですが2つを一緒にならしてもピクリとも動かず、母は2年で諦めました。
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懐かしい「リド」に差し掛かりました。2000年の年末から2001年の正月、21世紀最初のディナーは「ヨット・ド・パリ」のクラシックな船のディナークルーズでした。予約が出来なくて諦めていたところ帰国前日に予約が取れて慌てて食事に行きましたが、帰りのタクシー代が足りなくなって凱旋門の先まで戻れなくて降ろしてもらったのがこの店の前でした。最後にフランスフランを使った場所でもあります。
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ここから凱旋門を越えた先の「オテル・ド・ボイス(Hotel du Bois)」まで手を繋いで帰った思い出が蘇ります。「リド」には入ったことはありませんが、1988年に初めてパリに来たときは「クレージーホース」に連れていてもらいました。こんな世界があるんだと驚いたことと、ボニーMというグループのNIGHT FLIGHT TO VENUSの曲に合わせて踊るダンサーのセクシーさは瞼に焼き付いています。
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この日晩御飯に向かった「ル・ルレ・ドゥ・ラントレコート」は「クレージーホース」に近い場所でもありました。店はパリ市内に3件ほどありますが、この日行くのはシャンゼリゼ通りからマルプフ通りとジョルジュ・サンク大通りが交差する近くの店です。
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夕食はお昼の分も奮発して、と言うほど高くありませんが「ル・ルレ・ドゥ・ラントレコート」で、店に到着するとまだ電気が灯っていませんでした。ちょうど7時になって店の明かりが灯った瞬間ですが、それまで真っ暗なの中に大人が蠢いていて不気味な感じでした。
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並んだのが2組目だったのですぐに入れましたが、7時00分に開店して10分後には満席になり、表には人が列に並ぶほどの人気店です。行くなら6時30分には並んだほうが良いようです。
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お客さんが店に入ってくる前に写真を撮ってしまいました。黄色い布のテーブルクロスの上に白い紙のクロスが敷かれ、ナプキンは同じ黄色で統一されています。
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メニューは1つなので注文は焼き加減のみで、お勧めの焼き加減はミディアムです。同じ肉でもウェルダンでは美味しくないそうです。ミディアムと言っても血が出てくることはありません。紙のクロスなのはここに焼き加減だけ書いておくためです。飲み物を注文すればオーダーは終わりで、パンとサラダをいただいてステック&フリットの出てくるのを待ちます。
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お腹ペコペコなので待ちきれません。
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料理はサイドテーブルで取り分けてくれます。ステーキは2回に分けてサービスされますが、1皿目を食べている間はウォーマーで温められているので冷めないで食べ続けられます。このお姉さんがとっても明るくて気持ちの良いサービスなのでこの店が大好きになりました。
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1回目と2回目は同じ量のプレートが出されます。ポテトはお好みで増量してくれます。脂身の無いお肉ですが非常に柔らかくお年寄り(我々も含めて)でも軽くいけると思います。バターとマスタードといろいろな香辛料の入った秘伝のソースも食欲をそそります。
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この店のフリットはとても美味しかったです。この店とパリではムール貝を食べに行った「シェ・レオン」が抜群でした。そのために数年後にベルギーの旅を計画したほどです。
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お勧めはお店のラベルの貼られた赤ワインがフルボトルで18.3ユーロ、ロゼと白が16.75ユーロです。高いワインなど勧められませんが、これがステーキによく合います。1回目は白ワインで1週間後の2回目に行ったときは赤ワインをいただきましたがどちらも美味しかったです。
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またこの店はデザートも美味しかったです。お勧めは赤線が引かれていますが、尋ねればその中でもさらにお勧めを教えてくれます。
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ということで食後に出てきたのはこんなデザートです。
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プロフィットロール(シューアイスにチョコクリームとアーモンドチップがかかったもの)が1番人気だそうです。ステーキの後にボリュームがありますが、シューアイスなので不思議に食べられてしまいます。
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これはフルーツ・サラダで、イチゴやいろいろなベリー類にシロップがかかっています。イタリアだとフルッタ・マチェドニアですが、さすがにフランスはオシャレです。
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イタリアではグロッピーノと言うレモンシャーベットにウォッカをかけたもので大好物です。フランスではユンヌ・クープ・コロネル=大佐パフェと言うようです。初めて食べたヴェネツィアのトラットリアのことを思い出します。
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姪も妻も大満足のディナーになりました。
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最後にエスプレッソを飲んで余韻に浸ります。
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セルヴィーズのお姉さんはお店の大きなカードを記念にくれました。来週また来るからとお姉さんに伝えると「約束よ?」と笑顔を返してくれます。翌週に本当に行くとよく覚えていてくれて満面の笑顔で迎えてくれました。
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店を出る午後9時でもまだたくさんの人が並んでいましたが、ほとんどの人が地元の人のようでした。これからパリの夜景散歩に繰り出します。
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