2011/10/22 - 2011/11/06
405位(同エリア780件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1780冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,481,680アクセス
- フォロワー170人
10月の最終日曜日のサマータイムの終わった午前中に「ヴェルサイユ宮殿」に向かいました。夫婦共々パリには何度か来ていますが、2人共ヴェルサイユ宮殿を見たことがありませんでした。事前にネットでチケットを購入してあったので安心していたため、朝一番で「ノートルダム大聖堂」と「サント・シャペル」の見学をしたためにRERのサン・ミッシェル・ノートルダム駅から電車に乗ってヴェルサイユに着いたのは11時を少し回っていました。長い列はチケットを購入する人かと思っていたら、もう1列チケットを持っている人のA入口の列もありました。結果入場できたのが1時間後の12時で、トイレに寄って音声ガイドの貸し出しに並んでから宮殿内を見学し終わったのが午後3時でした。さすがにこの年の最後の噴水ショーの日なのでとても混雑していました。やはりこの巨大な宮殿を見るには朝から夕方まで時間をかけるのが良かったかなと後で思いました。そんなに大きくないパリですから10日もあれば充分と思っていたのが間違いで、パリに実際に身を置くと底なし沼に嵌ったような気持ちになりました。最低でももう1週間滞在できればもう少し満足できたかなと思いました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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サマータイムが終わったのに気が付かないで、早朝から「ノートルダム大聖堂」と「サント・シャペル」を見学していましたが、じっくり見学していたら午前10時30分になってしまいました。慌ててRERのサン・ミッシェル・ノートルダム駅から電車に乗って「ヴェルサイユ宮殿」に向かうことにします。
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ここから最寄り駅のヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅までは国鉄の電車で1本で移動できます。朝一番でモビリスのエリア4までのチケットを買っておいたのですぐにホームに向かいます。
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行き先が幾つかあるのでモニターで確認しますが、頭にVICKとあるのがヴェルサイユRG行きなので間違えることもありません。
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すぐに列車が入線してきましたが、車体を見ると国鉄のマークSNCFが読み取れます。
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この日は仕事が休みな姪と一緒にヴェルサイユ宮殿の見学です。3人ともまだ行ったことが無いので楽しみです。車内はかなり混み合っていたので、この電車に乗ってる人全部がヴェルサイユ宮殿の見学に行くのだろうかと心配になりました。
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■この路線は生活に使っている方も多いので途中駅で降りる人もいました。この時は少し安心しましたが、駅を降りて宮殿に向かうとそんな生易しいものではありませんでした。
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■駅の改札を出て人の流れについて先へ進みますが、混んでいる歩道を避けて反対側の歩道へ渡ります。
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だんだん宮殿が近づいて来るとともに黒く蠢くものが見えてきました。
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物凄い人のが宮殿に向かっています。これはちょっと失敗したかなと思いました。当初の予定通り朝一番で来ていたらもう少し空いていたかもしれません。
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多分チケットを持っていない人の列だろうと思い、この時点では前売りのチケットを持っているので多少安心もしていました。
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ルイ14世の騎馬像が出迎えてくれました。まるで「チケットを持っていないものはこちらへ並べ。」と差配しているように見えました。
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ここへは両親が二十数年前に来ていて、その時の写真を見たことがあったので感慨深いものがありました。両親はツアーでヨーロッパを周遊していましたが、私も同じようなタイミングでヨーロッパのウォーターフロントの視察のために来ていたのでよく覚えています。釧路にフィッシャーマンズワーフを造る前の視察でしたが、バブルの真っ最中で、ほとんど観光のようなツアーでした。
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その当時の両親の写真より銅像が綺麗になっています。凱旋門やノートルダムでも感じましたが、11年前は黒ずんで汚くなっていたレリーフや彫刻がすべて綺麗になっていました。馬の彫刻はピエール・カルトリエの作で、王政復古の時代にコンコルド広場に設置する予定で実現を見なかったルイ14世の騎馬像のために1829年に鋳造されたものです。またルイ14世像の方は彫刻家ルイ・プティトによる作品で1836年に鋳造されました。かなり痛んでおり2007年から修復作業があり、2009年にこの場所に置かれたそうです。それまでは宮殿の中庭にあったので、両親の写真と位置が違う謎が解けました。
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今回の旅では念願のロワール渓谷の古城もめぐることが出来て、主だった12の城とブロワ城とナントのブルターニュ大公城へも足を延ばしました。14の城を巡った最後がこのヴェルサイユ宮殿です。
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「ヴェルサイユ宮殿」はルイ14世が建造した宮殿で、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれます。ルイ14世をはじめとした王族とその臣下が共に住む宮殿では生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルールやエチケットやマナーが生まれたそうです。
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時代は少し下がるルイ16世の時代を描いたソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」を見ていたので、その不思議な世界を感じながらの見学になりました。また、この年の春にはウィーンにも1週間ほど滞在していたので、マリア・テレジアとマリー・アントワネットの関係にも興味がありました。
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「ヴェルサイユ宮殿」の豪華な建物にも興味はありますが、映画のせいもあって「プチ・トリアノン」や「王妃の村里」にも強い関心があり、さらにこの日は庭園にいくつもある噴水ショーの最終日でもありました。
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振り返るとルイ14世の騎馬像の後ろ姿が見えましたが、カモメが頭にとまっているとちょっと間抜けた感じに見えました。
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左手にチケットを購入する長蛇の列を眺めつつ、チケットは持っているのでA入口に向かいます。そこからも長蛇の列が伸びていて、入口には割り込みしようとする客を排除する警備員までいます。その列を目で追うと幾重にも列が重なっています。
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入場の列は「ダルム広場の門」まで伸びていたので、並んだ列から写真を撮っていました。右側の像は「帝国の勝利」で門を挟んだ左側には「スペインの勝利」という女神の像があります。
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「ダルム広場の門」は黄金の色がだいぶくすんでいますが、クラウンをいただき、月桂樹の葉とメダリオンにはフルール・ド・リスの紋章も見えます。
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そして太陽王と呼ばれたルイ14世を表わすアポロンのレリーフがたくさん嵌め込まれてあります。
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その奥には建築家ジュール・アールドワン・マンサールの監督下で1680年頃に建築された「王の門」が再現されています。この門もルイ14世騎馬像と共に2年間の工事を終え2009年から黄金に輝いています。
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この門は長さ80メートルにも達し、15トンの鉄と10万枚もの金箔が使用されているそうです。右側の哨舎の上には庭園の噴水の彫刻でも有名なジャン・バプティスト・チュビイ作の「平和の女神」、左側哨舎上には宮殿内の胸像やレリーフで有名なアントニー・クァズヴォックス作の「豊穣の女神」が置かれています。この門は王族または王が特別に許可した選ばれた貴族しか通れなかったそうです。
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中央のクラウンは早朝にノートルダム大聖堂で見たギョーム・クストゥーの「王冠を捧げるルイ13世」が持っていたものと似ていると思いました。それ以外はフルール・ド・リスの紋章くらいしか読み取れませんが、それぞれ意味があるのでしょう。
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ジャン・バプティスト・チュビイ作の「平和の女神」の上にもカモメがたくさんいます。女神が持つ杖はギリシア神話における神々の伝令であるヘルメスの持物であるケーリュケイオンです。2匹の蛇が巻きついている杖のその頭にはヘルメスの翼が飾られています。
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繊細な平面的な意匠ですが王冠だけはリアルに立体で造られています。王冠を支えるのはLの字に見えるのでルイのアナグラムになっていると思います。
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アポロンのレリーフから延びるのは正義の手と呼ばれる笏とフランス王家の笏です。
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全てはルイ14世を讃えるような意味を含んでいるように感じました。
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「王室礼拝堂」の軒先には歴代の司教なのか聖人なのかたくさんの像が立ち並んでいます。礼拝堂の建設はルイ14世の治世の終わりの1710年に完了しましたが、これはルイ13世の治世以来で宮殿に建てられた5番目の礼拝堂で最後の礼拝堂でもあります。設計は1699年にジュールス・アルドゥアン・マンサールによって王に贈られましたが1708年に亡くなりました。建物の全体的なデザインや大きなガラス窓やバットレスはゴシック建築様式に倣っています。 礼拝堂は王の守護聖人であり王家の祖先である聖王ルイに捧げられています。
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延々と続く列に並んでいても「王の門」に近づくと記念写真を撮ってみたり。
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また列の人ごみに紛れてしばらくすると正面の門にたどり着き、また記念写真を撮ったり。この2つの門を抜けるのに1時間近くかかってしまいました。
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最後にセキュリティチェックを受けて、チケットを見せてようやく入場出来ました。
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宮殿の正面にある時計に目をやるとすでに12時25分です。お腹も減ってくる時間ですが、宮殿の見学だけでもしてしまわないと、この日が最後の庭園の噴水ショーはおろか、「プチ・トリアノン」や「王妃の村里」にもたどり着けなさそうです。
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広場を抜けて右翼の「王室礼拝堂」の近くから建物の中に入ります。
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1時間ほど立ちっぱなしで並んでいたのでトイレに寄っておきます。ルイ14世の時代にはトイレが1つしかなかったと言われる宮殿ですから、次にどこで行けるか分かりません。男性用は回転が速いですが、女性用は世界中どこでも列が出来ていますのでここでも時間がかかりました。日本語の音声案内は料金に含まれているので借りることにしましたが、ここも列が出来ていて、入場してからも30分くらいかかってようやく王家の礼拝堂の見学に移ります。
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「王室礼拝堂」階段を上って最初に見られるマンサール設計の礼拝堂です。1708年にマンサールが没した後は義弟のロベール・ド・コットがの引継ぎ、1710年に完成させました。ここでウィーンから嫁いできた14歳のマリー・アントワネットがルイ16世と結婚式を挙げたと思うと感慨深いものがあります。
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中に入ることが出来ないので全容は見えませんが、天井がには3人の芸術家が携わっています。正面の半ドームにはシャルル・ドゥ・ラ・フォスの「キリストの昇天」が描かれ、身廊の中心部にはアントワン・コイペルの「栄光の中にある父である神」、王室の階廊席の上にはジャン・ジュヴネの「聖霊降臨祭」が描かれています。
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この階段は最後に彫刻を見ながら降りてくることになります。
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入口から入ると大きな大理石の階段があります。通称「使節の階段」と呼ばれ、造られたのは現代ですが設計は宮殿が造られた当時のものです。
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最初に入った部屋は家具や絵画がたくさん並んでいますが、特にインテリアが素晴らしいというものではありませんでした。無造作に置かれたキャビネットにはソクラテスとアスパシアのレリーフが施されています。アスパシアの家はアテナイの知の集結地とされ、哲学者ソクラテスをはじめとする多数の著名な作家や思想家が訪れ、アスパシアの教えに影響を受けていたとされます。哲学者プラトンやアリストファネスやクセノポンなど同時代の作家たちの著書にもアスパシアに関する記述が残されています。
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その上には「芸術と科学の属性の中のルイ14世」という静物画が掛けられています。この作品はルイ14世がフランス王国の富の源である芸術と科学の保護者である理想的な守護神とした賛辞です。 王はここではアヤメの胸当てを身に着け、ビオラベースやバイオリン、ギターやムゼットドクールなどの楽器に囲まれています。 科学の保護者としては黄道帯の星座を区別する天球儀や学術書と実験器具も置かれてあります。ルイ14世は1666年と1667年にそれぞれ王立科学アカデミーとパリ天文台を創設し、財務総監であるコルベールの支援を得ました。
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ヴェルサイユ宮殿の鳥観図はルイ14世に宮殿と庭園を造るときに説明したものでしょうか?ホームページを詳しく見てみましたが、由来は分かりませんでした。
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続く部屋には数々の肖像画が飾られていますが、中世のフランスの王宮に関わる人物には詳しくないので軽く素通りします。
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他の観光客の人も考えていることは同じなようで、ここに来るまで1時間以上かかっているので足を止める人もありません。
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じっくり見て行けば貴重な物もたくさんあるのだと思いますが。
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ルイ14世の彫像や肖像画は一体この宮殿にいくつあるのだろうかと思います。
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1690年にライバルのシャルル・ル・ブランの死でピエール・ミニャールは王立絵画彫刻アカデミー会長の座に着き、ルイ14世のナミュールの包囲の騎馬像の肖像画を描きました 。王は白いスカーフと総司令官のスタッフを持ち、天使は彼に勝利を表す月桂冠を戴きます。この作品はピエール・ミニャールのアトリエに残り、1695年の彼の死去の際に目録が作成されました。
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この中央の絵画も気になったのですが、足を止めて眺めていたら妻と姪に置いていかれそうです。
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ただ閉まっただけの扉でさえも金色に輝くモールディングの美しさに目を奪われます。
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1フロア階段を上がると先ほど見た「王室礼拝堂」を上から俯瞰することが出来ました。先ほどは見る事が出来なかった身廊の中心部のアントワン・コイペルの「栄光の中にある父である神」とジャン・ジュヴネの「聖霊降臨祭」を見る事が出来ました。
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正面の半ドームに描かれたシャルル・ドゥ・ラ・フォスの「キリストの昇天」も見やすくなりました。この礼拝堂のオルガンはフランス古典期の傑作で、ルイ14世がこの時代を代表するオルガン建造家のクリコに発注したものです。その後のフランス革命や2度の大戦という時代の流れの中で幾度となく改修が重ねられ、一時は当初とはまったく違うオルガンに変貌していましたが現在はオリジナルに近い形で元に戻されたそうです。
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中央の天井画は真下から見上げないと題材を読み取ることが出来ませんでした。
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礼拝堂に続く「ヘラクレスの間」の見学に移ります。
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1736年にルイ15世により新たに改装されたヘラクレスの間の天井のために描かれたフランソワ・ルモワーヌの「ヘラクレスの神格化」が見えてきました。人間としての命を終えたヘラクレスは天界へと引き上げられ、そして長年にわたり険悪な関係にあった ヘラーとも和解し、その証としてヘラは娘の ヘーベをヘラクレスに妻として与えます。
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そしてこの部屋は1664年にヴェネツィア総督(ドージェ)からルイ14世に贈られたセルヴィテス修道院の食堂にあった「パリサイ人シモン家の宴」が納められていることでも知られています。題材はイエスが宣教活動を始めた初期のころファリサイ派シモン家に食事に招かれた場面です。男性ばかりが集まる宴にひとりの女性が現れます。その人物は罪深き女と周囲に知られていましたが、イエスの後ろから足元に近寄って、イエスの足に香油を塗ったとされます。
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天井画はまるで昨日描かれたかのように鮮明な色です。フランソワ・ルモワーヌは1733年から1736年まで天井に「ヘラクレスの神格化」を描き、世界で最大級の天井画を造り上げました。この作品の完成度や色の鮮やかさ、そして技術のたかさにより彼は王室の最初の宮廷画家の地位を得ることができました。 しかし疲れきったルモワーヌはこの天井画が完成してから数か月後に自殺しまいます。
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ヘラクレスと言うとどうしても子供の頃にテレビで見ていた「マイティー・ハーキュリー」を思い出してしまいます。「オリーンピア!」と叫びながら山に戻っていく声が耳に残っています。ギリシャのメテオラの修道院のあるカランバカからテッサロニキへバスで向かう途中に車窓から見えたギリシャの最高峰のオリュンポス山を見てそんなことを考えたことがありました。
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ここからは豪華な絵画とそれを縁取る彫刻で埋め尽くされた部屋が延々と続きます。こういった宮殿では高価な大理石を大量に使う事が出来ず、フォー・フィニッシュ(Faux Finish)と呼ばれる模造の大理石塗装を使う場合が多いのですが、さすがにヴェルサイユは本物の石を使っているところがほとんどです。
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部屋を飾る巨大な絵画は額縁を1つ取ってもこんな巨大で豪華です。
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「ヴィーナスの間」ルイ14世を讃える太陽の装飾や神話を描いた天井画があります。天井には愛の女神が描かれていますが、古代ギリシャでは金星(ヴィーナス)と関連付けられていたからだそうです。ヴォールト天井の下部を装飾する絵画は、古代の英雄の物語の場面を描き、それは同時にルイ14世の偉業にも関連していると言われます。
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1670年に造られたバロック様式の大広間の天井中央の楕円部に描かれた「強大国を従わせるヴィーナス」は画家ルネ・アントワーヌ・ウアスの作で、この広間の名前の由来になっています。
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ジャン・ワリンはワロン地方に生まれますが、1626年頃にパリに移りました。彫刻家であり硬貨の彫刻家でもあり、王のメダリストとしての才能を発揮し、王の功績をメダルに刻みました。ルイ13世からリシュリュー枢機卿とルイ14世などの王の胸像を彫刻しました。それはディアーヌの間に置かれた有名なベルニーニの胸像と競うほどでした。
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この像は自らの力でフランスを統治することを決心した若くて自信のある王を表しています。 イタリアのバロック彫刻とは対照的に、ジャン・ワリンはモデルの動きを表現しようとはしませんでした。王は正面を向かずにわずかに左を向くことによって存在感を強調しています。 巻き毛のかつらを身に着けている王は胸当てなど「ローマ風の服装」をまとい、左肩にローマ軍のサガムのようなマントがかけられています。 右手には軍を指揮するコマンドスティックを持っています。腰には鷲の頭を飾った鞘付きの刀を下げています。
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王はヘラクレスに打倒されたネメアのライオンを連想させるライオンの頭の形をした古代の兜の上に左手を置いています。自らをヘラクレスの子孫であると主張したアレクサンドロス大王は、この種のヘルメットを被っていたとされます。
鎧の裾は大きな鱗で構成され、王の紋章のフルール・ド・リスとローマ風の仮面が交互に装飾されています。 この形の鎧は古代ギリシャと古代ローマの皇帝の彫像のようです。 ルイ14世の右の足元に置かれた湾曲した鎧はフランスと王の勝利を象徴しています。 古代ローマでは勝利した将軍が自分たちの手で殺した敵将たちの鎧を持ち帰る風習がありました。 -
左足元にはゴルゴン(メドゥーサ)で飾られた大きな楕円形の盾が置かれてあります。ゴルゴンの頭を表していてギリシャ神話ではゴルゴンは醜くて邪悪で幻想的な生き物として表され、自らの顔を見てしまうことにより石化して死んでしまいます。
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若い女性として表され表されますが、ときに翼と大きな歯を持つ姿であったり、髪はヘビで表されます。メドゥーサの頭は不運や悪霊を追い払ったり、敵を怖がらせたりするために、ドアや壁やコイン、盾や鎧や墓石に描かれることが多いです。
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続く「ディアーヌの間」は「拍手の間」とも呼ばれ、ビリヤードが得意だったルイ14世が拍手喝采を受けたためそう呼ばれたそうです。天井画は月と狩の女神ディアーヌがモチーフになっています。
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古代ギリシャでは狩の女神であるディアナ(ディアーヌともダイアナとも呼ばれます)は、その冷たい印象から月にたとえられています。彼女はまた太陽神アポロンの妹でもあります。天井の下の4つのアーチ部分の装飾には、古代の英雄たちが狩をする姿が描かれています。これは比喩ではなくてルイ14世が本当に優秀な狩人だったという事実を示しているそうです。
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天井の中央部分の絵はガブリエル・ブランシャールの作品で、航海と狩をするディアナの絵です。暖炉の上には「イフィジェニーの犠牲」を描いたシャルル・ド・ラ・フォスの作品とその向かいのコンソールの上にはディアナとエンディミオンが描かれたガブリエル・ブランシャールの作品が置かれてあります。
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この広間に置かれた「ルイ14世の胸像」はイタリアの芸術家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが制作した大理石の彫刻で、ベルニーニがパリを訪問した際の1665年に制作されました。ルイ14世をモデルにしたこの肖像彫刻は「バロック時代の肖像画の最も壮大な作品」と呼ばれています。
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ベルニーニは教皇とフランスの外交交流の一環としてパリに招かれたようで、訪問の表向きの理由はヴェルサイユ宮殿とルーヴル宮殿のための新しいデザインを作ることでしたが、ルイ14世は自身の胸像を作るよう望んでいたそうです。
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胸像は完成までに3ヶ月を要し、使用する大理石の塊が選ばれるとベルニーニはまず図面を作り、粘土で模型を作成しています。その時の図面と模型は現在も保存されているそうです。ベルニーニはモデルとして実際に目の前に王が座っている時だけ働くことを望み、はじめに弟子に設計などの作業を与え、その後にベルニーニ自身で引き継いで40日間作業したという記録が残っています。
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「マルスの間」は舞踏会の間とも呼ばれたそうです。天井画は火星の語源でもあるマルスで、軍神マルスを題材にした絵が2枚天井を飾っています。
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この広間は元々は「衛兵の間」として使用されていました。そのためにモールディングの彫刻などに軍事的な意匠が多く、兜や武器などの彫刻が見えます。天井中央にはクロード・オードラン作の「狼の牽く戦車に乗るマルス」が飾られています。
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マルスはギリシア神話のアレースと同一視され、軍神としてグラディーウゥス(進軍する者)という異称でも呼ばれます。ただ疫病神のように思われて全く良い神話のないアレースに対し、マルスは勇敢な戦士や青年の理想像として慕われ、主神並みに篤く崇拝された重要な神です。聖獣は狼なのでこの天井画でも狼が戦車を牽いています。
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マルスの間に飾られた「フランスの女王マリー・レクザンスカ」は1747年にサロンに出品されたヴァン・ルー・カールの作品で、ルイ15世のコレクションでもありました。対面の壁にはルイ15世の肖像画が飾られています。ルイ15世は叔父であるスペイン王フェリペ5世の娘である従妹のマリアナ・ビクトリアと婚約していました。当時ルイ15世は11歳でマリアナは3歳であった。マリアナはフランス王宮に迎えられて養育されますが、ルイ15世が15歳を迎える頃に嫡子が得られるようになるまで年月がかかりすぎることから婚約は破棄されて故国に帰されます。代わって王妃に迎えられることになったのが、この年22歳になるマリー・レクザンスカで、健康で年齢的にも子供がすぐにでも産めそうだというのが理由だったそうです。ルイ15世はマリーにすぐさま夢中になり2男8女をもうけています。
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暖炉の上の絵は「ダビデ王がハープを弾くで」ドメニコ・ザンピエリの作品です。
ダビデ王は聖書の偉大な人物の1人で、彼はここでハープを演奏して神のインスピレーションの下で詩篇を天使に口述しています。これはルイ14世の収集した絵画で、王の居室に飾られました。ルイ14世は音楽愛好家の王で、ダビデの姿に自分自身を重ねたようです。ダビデ王は人妻のバトシェバと関係のあった罪深い王でしたが、多くの愛人がいたルイ14世の場合も重なります。絵は悔い改めた王を描いていますが、統治の終わりに宗教的改革を決定したルイ14世を刺激するしたようです。 -
「アポロンの間」はルイ14世が自己に重ね合わせた太陽と芸術と平和の神に献じられた最も豪華な部屋です。天井画はシャルル・ド・ラ・フォッスの「四季に取り巻かれ凱旋車に乗るアポロン」です。
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フォッスは少年時代からルイ14世の筆頭宮廷画家であったシャルル・ルブランの工房で働き、ルブランのもとでパリの神学校やランベール館の装飾画を描いています。ルブランが亡くなった後にはアンヴァリッドのドーム天井の絵画を手掛けています。
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アポロンを讃える祭事はギリシアで広く行われ、特に有名なのはデルポイを開催地として行われていたピューティア大祭でした。4年に1度の古代オリンピックの開催年と被らないように開かれ、戦車(チャリオット)による競争も加わるようになります。競技には全ギリシアから参加者やその見物人が集まり、古代ギリシアの国際親善の場とも機会ともなります。各種競技の優勝者にはアポロンの聖樹であるダプネつまり月桂樹の葉で飾られた冠が贈られ、これを「月桂冠」と称しました。
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アポロンの間は部屋の広さにそぐわない大きさのレリーフやモールディングで飾られています。まるでナポレオン3世のためにシャルル・ガルニエが設計した「オペラ・ガルニエ」のグラン・ホワイエを思い出させます。
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テュロスの王女として生まれたエウロペは美しく成長しますが、彼女を見たゼウスが一目で恋に落ち、彼女を誘惑するために自身を白い牡牛に変えて近づきます。白い牡牛を見つけたエウロペがその背にまたがると、白い牡牛は海を渡ってクレータ島へと連れ去ってしまいます。エウロペの名前はヨーロッパの語源にもなっています。
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新しい燭台のデザインは建築家ジャック・ゴンドゥアンで、ルイ15世が将来のドーフィン・ルイ16世の結婚式のお祝いに注文したものです。それぞれ2種類のスタイルと12台同じものが造られています。燭台の周りに花輪を巻く3人の子供の彫刻はトゥーサン・フォリオによるものですが、クピドは彫刻家ジョセフ・デュレット依頼されました。 アポロンの間に保管されている2種類の燭台は鏡の間でも再び使われています。
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ロココ美術初期に最も活躍した肖像画家のひとりイアサント・リゴー随一の代表作である「フランス王ルイ14世の肖像」です。オリジナルはルーブル美術館に収蔵されています。リゴーの作品の中で最も有名なもので18世紀前半期の王侯肖像画の典型となったといわれます。戴冠式の衣装(大礼服)を身に着けたルイ14世を描いた作品は孫であるアンジュー公フィリップがスペイン国王フェリペ5世へ贈呈するため注文しましたが、ルイ14世本人が大変気に入り手元に残したと伝えられます。
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「戦争の間」は1678年マンサールが建設に着手し、装飾はチャールズ・ル・ブランが行いました。部屋の主題は「ナイメーヘンの和約における軍隊の勝利」を称えたものだといわれます。1678年から1679年にかけてネーデルラント連邦共和国のナイメーヘンで締結された諸条約の総称で、仏蘭戦争の講和条約ともなります。
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これによりフランス王国はネーデルラント継承戦争で獲得できなかったフランシュ・コンテ地方(ブルゴーニュ伯領)をハプスブルク家から奪う事が出来ました。天井画はチャールズ・ル・ブランによる「勝利の女神たちに囲まれて雲の上に座る武装したフランス」という作品で、フランスを擬人化しています。
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フランスはドームの中央に描かれ、ルイ14世の肖像が描かれた盾を構えて雷を振り回しています。 この閃光は4方に延びてスペインとドイツとオランダの寓話描いたアーチ天井に延びています。 周りにはストラスブール橋でのシンツハイムの戦いとルクセンブルグとフリブールの攻略の場面が描かれています。この構成はフランスに平和をもたらす「平和の間」のドーム天井の絵画とは対称的です。
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部屋の天井には戦いを連想させるような甲冑や武器のレリーフがいくつも置かれてあります。
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それらは古代ローマの皇帝の甲冑のように胸当てにはグリフィンの浮彫が施してあります。ルイ14世はよほど古代ローマに傾注していたのだと感じます。勝利の表現として選ばれるのは古代ローマであり、都市への王の入場式は一般的に古代ローマの凱旋式をモデルにしており、町の中心部に統治者のイメージを刻み込む目的として王の騎馬像が造られます。その姿は古代ローマ風の甲冑の姿で表されたのでしょう。
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アポロンの間に劣らず豪華な装飾を施した部屋です。天井のコーナーにはフランス王家の紋章であるフルール・ド・リスの紋章も置かれてます。
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この部屋の見どころはアントニー・コワズボックスの傑作のレリーフです。彼は1682年の終わりまでにサロン・デ・ラ・ゲールの暖炉とその上の大きな円形浮彫りのためのレリーフを造りました。「敵を踏みしだく馬上のルイ14世」のレリーフではルイ14世は馬に乗り、地上の敵を踏みつけて勝利を体現しています。レリーフの上には「名声の女神」2体と下には「鎖につながれた捕虜」2体が飾られています。
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古代ローマの皇帝のような姿をしながらかつらをかぶる姿はほとんど「ヴェルサイユのばら」の世界ですね。かつらの普及はルイ13世が病気で髪を失ったことに始まるといわれます。後継のルイ14世は栗色の豊かな髪に恵まれたのでかつらの使用をきらっいましたが、1680年頃には髪を剃ってかつらを被らざるを得なくなったといいます。社会的な要求があれば王がつけないわけにはいかなかったのでしょう。しかも当時は汚れた水への恐れもあったため入浴の習慣がなかった時代です。髪を剃ってかつらをつけるほうが衛生的であったのも流行の理由でした。
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上に金箔の貼られた2人は「噂 」や「名声」を人格化した女神ペーメで、よい噂を好み、悪い噂には憤ることから、ルイ14世の耳にも良いことが届いたのだと思います。しれに対比して下に鎖に繋がれた2人の捕虜は打ちひしがれています。
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この部屋にも当時は高価だった鏡がふんだんに使われています。
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月桂樹の葉に囲まれた2つのLのアナグラムとフルール・ド・リスの紋章はフランスの勝利を表しているのだと分かります。ヴェルサイユ宮殿を訪れる前に3日かけてロワール渓谷とその周辺の古城を14巡りましたので、紋章についてその意味を感じられるようになってきました。
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そして隣の部屋が巨大な「鏡の間」です。
ルイ14世はオランダ戦争の終わりに当時はグランデ・ギャラリーと呼ばれていたこの部屋の建設することを決定しました。仏蘭戦争後もルイ14世は領土拡大を図り、東部国境地帯の領土の過去を調査してフランス領とみなした土地を軍事占領と併合する方法に切り替えます。これはネーデルラントにおける主張と一緒で、当事者同士の話し合いもなしに一方的にフランスの権利を主張する強引なやり方でしたが、ルクセンブルクやストラスブールを併合し、ナイメーヘンの和約による領土拡大やヴェルサイユ宮殿の移転と並んでルイ14世の治世は絶頂期に達します。パリ市は1679年に彼にルイ大王の称号を授与しました。 -
ルイ14世はグランドアパートメントの6つの部屋とマリー・テレーズ女王の6つの部屋を破壊してしまうことに躊躇はしませんでした。また8年前に取り付けたテラスを利用してギャラリーの全幅に広げることまで考えました。
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建築家ジュールス・アルドゥアン・マンサールは2つのドーム型サロンが並ぶギャラリーで構成されたアンサンブルを想像しました。最初の画家であるチャールズ・ル・ブランとの競争の中で、彼は357枚の鏡のパネルで飾られた17のアーケードで構成された装飾をデザインし、その名前は「鏡の間」として残りました。
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鏡と色大理石とブロンズと鉛のレリーフ、鶏やフルール・ド・リスなどフランスを主張するモチーフも含まれています。ここで王が望む歴史的政治的意味を読み解く事ができ、「鏡の間」の装飾は1679年から1684年の間に行われました。「戦争の間」と「平和の間」の装飾は1687年に完成しました。
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「鏡の間」の73メートルにも及ぶ全長には、チャールズ・ル・ブランの手による天井画が描かれています。題材はフランスの政治的、経済的、芸術的成功に敬意を表しています。政治的な成功はル・ブランによってアーチ型の天井に描かれた30点の絵画で表されています。これはルイ14世の統治の最初の18年間の輝かしい歴史を1661年からナイメーヘンの和約まで描いています。
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女性像の巨大な燭台が回廊に花を添えます。庭に面した側には床から天井まで伸びる大きな17のガラスの窓があって、そこから外光が差し込みます。その陽光は反対側の、17の巨大な鏡に反射していますが、この鏡は1枚が21の小さな鏡に分割されているので、21枚x17で全部で357枚もの鏡が張り付けられています。
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17世紀半ばまでフランスには大きな鏡を造る工場も技術も職人すらいませんでした。西ヨーロッパの優れた鏡はヴェネツィアが事実上生産を独占していました。その状況を覆そうとルイ14世の経済相だったジョン・バティスト・コルベールがパリ郊外のサン・アントワンヌに巨額の国費を投入して「王立鏡工場」を設立し、ベニスから熟練工を連れてきます。
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燃料としての木材の確保の問題から工場はノルマンディーのシェルブルグに移転し、近郊の森から安く木材を安定供給させたために品質向上と生産量を上げていきました。1672年にはフランス国内生産量で充分に自給できると判断して、ヴェネツィアからの輸入を禁止する処置を取りました。さらにこの王立鏡工場は生産量を伸ばし続けて、ルイ14世の治世の終わりごろにはヴェネツィアの鏡産業を駆逐して、ヨーロッパの鏡のマーケットを独占するに至ったそうです。
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この「鏡の間」の全ての場面が知りたい場合はヴェルサイユ宮殿のホームページの中に詳しくというか詳しすぎるほど書かれています。ただ仏蘭戦争について詳しくないと面白くはないかもしれません。
http://www.galeriedesglaces-versailles.fr/html/11/collection/ensemble.html -
天井の絵画よりもモールディングや天井周りの彫刻の方に目が留まってしまいます。シャンデリアや大燭台は18世紀後半にルイ16世とマリー・アントワネットの成婚時に新調されたオリジナルを忠実に復元したものです。
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現在ではシャンデリアには蝋燭の形をした電灯が使われていますが、ルイ14世の時代に大きな宴会などが開かれた際には全部で3000個もの蝋燭がつけられたそうです。それは気が遠くなるような作業だったと思います。映画「山猫」の監督のヴィスコンティは映画の中で使われるものすべてにこだわり、シャンデリアには本物の蝋燭を使ったと聞いたことがあります。
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第1次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約調印式は1919年6月28日にこのヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われました。「鏡の間」かつて普仏戦争の仮条約締結とドイツ帝国の成立が宣言された場所でもありました。ドイツ側の代表として条約受諾に反対して辞任したブロックドルフ・ランツァウにかわり、ヘルマン・ミュラー外相とヨハネス・ベル運輸相が調印ています。
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第1次世界大戦では日本を含む連合国側の勝利で終わり、パリ講和会議では原敬内閣の下、日本は西園寺公望や牧野伸顕らを全権委員として同会議に臨みヴェルサイユ条約に調印しました。この条約により日本は山東半島の旧ドイツ権益を継承し、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。
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「王の寝室」人が多くて正面に近づけないので、ミラー越しに撮ってみました。「牛眼の間」の寝室は「鏡の回廊」から一度脇にそれる感じの見学ルートになっています。
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ヴェルサイユ宮殿の建物の中央に位置するこの大広間は、ルイ14世が1701年に寝室と定め、1715年にこの部屋で亡くなりました。またルイ15世もこの場所を寝室として就寝の儀式を行っていました。1789年にはルイ16世と王妃がヴェルサイユからパリに連行される前に、この部屋のバルコニーから群集の前に姿を現しました。
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ここにもルイ14世の胸像が置かれてありました。この彫刻は別の彫刻と同時に注文されたもので、衣装やドレープコート、装飾用の結び目のレースの紐の類似性が見られるそうです。 大理石の花瓶とユリの花の燭台はいくつかのパターンがあり、宮殿内にいくつも置かれてありました。
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一度「鏡の回廊」に戻らないと次の部屋には移れませんが、どんどん人の数が多くなってきたので急ごうと思いますが、見どころが多くてなかなか足が進みません。
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妻と姪は2人で先に行ってしまいましたが、まあどこかで合流できるでしょう。
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。画面の下部に描かれている2羽の鳩は、サヴォイア公爵のビクトル・アメデ2世とルイ14世の兄弟であるオルレアン公フィリップの別の娘であるオルレアンのアン・マリーとの結婚を象徴しています。これらの結婚はナイメーヘンの条約に従いヨーロッパの権力の新たな平和を示しています。画中のフランスはメルクリウスにヨーロッパに平和をもたらすように命じます。これは、アーチ型の天井に描かれたオリーブの枝をドイツとスペインとオランダにもたらすキューピッドによって象徴されています。この構成は「戦争の間」の天井画は対称的にフランスが敵を讃えています。
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「鏡の間」を挟んで「戦争の間」に対峙する「平和の間」に移りました。擬人化したフランスは天井の中央に描かれて雲の上に座っています。彼女の戦車は4羽の鳩によって牽かれています。これらはルイ14世の兄弟でありスペイン国王チャールズ2世とマリー・ルイーズ・ドルレアン、ルイ14世の息子であるドーフィンとバイエルンのマリー・アンクリスティーヌ・ヴィクトワールの結婚を象徴しています
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この胸像は1707年の彫刻の目録ではブルゴーニュ公爵夫人のサロンに「ローマ皇帝ヴィテリウスの胸像」があったことを示しています。ブロンズの頭部は驚くべき品質で、ロストワックスの技法を使用して製造された非常に繊細な彫刻です。この壮大な16世紀のイタリアのブロンズは1685年頃に縞模様の白い大理石の胸部と金色のブロンズ製のマントで完成しました。ヴィテリウスはもともと皇帝ネロに仕えていた側近の1人であり、同じくネロの友人だったオットーを廃して帝位に登りました。しかし軍事や政治に優れた才覚を持っていたわけではなく、反乱軍を率いてローマに入城した後は享楽に耽る生活を送ったと伝えられています。もともと巨漢で大食漢だったので連日のように大宴会を開き、ローマ入城後の数ヶ月で9莫大な費用を浪費したと云われます。ある意味平和の間にふさわしいかもしれません。
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暖炉の上の楕円形の絵はフランソワ・ルモワーヌによる「ヨーロッパに平和をもたらすルイ15世」です。絵画はルイ15世がヨーロッパにもたらした平和を現しています。ルモワーヌはフランス古典主義時代随一の宮廷画家シャルル・ル・ブランの流れを汲んだ厳格で生気に溢れた色彩と優美な人体表現を取り入れ、同時代を代表する歴史画家として名を馳せます。また簡潔で清々しい柔軟な構図展開でも高い評価を得て、ロココ様式における新たな歴史画の道を作った画家です。
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「王妃の寝室」は王妃のグラン・アパルトマンの一室で、その名のとおり歴代の王妃が就寝をし、身なりを整えて応接をするなど、長い時間をこの部屋で過ごしました。かつてフランスでは生まれてくる赤子のすり替えなどを防止するために、王妃の出産を一般公開していたそうですが、それが行われたのがこの部屋でした。歴代3人の王妃が全部で19人の子供を産んだそうです。
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もともとはルイ14世が妃のマリー・テレーズのために造った部屋でしたが、マリー・テレーズが亡くなった後はルイ15世妃マリー・レクザンスカが使い、ルイ16世妃マリー・アントワネットの部屋になりました。歴代のフランス王子が生まれた部屋だと考えると感慨深い気がします。
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ベッドに向かって左手側にある暖炉の上にはフェリックス・ル・コントが1783年に制作した白い胸像が置かれています。この部屋はさすがに国王ではなく「王妃マリー・アントワネットの胸像」が似合います。
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王妃の寝室のベッドや夏の家具はクレス財団とリヨンの絹製造組合とグラハム・マティソン氏の協力のもとに復元されました。
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マリー・アントワネットは1771年からの歴史を持つスイカズラで飾られた寝室のシルクを変えたいと望み、花と蝶で飾られた新しい家具をカミーユ・ペルノンに注文しました。
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ピンクやパステルカラーの模様が如何にも女性らしい感じの部屋はマリー・アントワネットが亡くなった1789年10月6日の状態に忠実に復元されています。
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壁や天井の装飾も女性らしい華やかな印象を与えます。映画「マリー・アントワネット」を見て以来、キルスティン・ダンストがマリー・アントワネットの印象になってしまっています。本当はスパーダーマンのイメージだったのですが。
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「大膳式の間」は王と王妃が公式の食事をとった部屋です。「マリー・アントワネットと子供たち」は画家のエリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブランによって制作された作品です。この肖像画にはマリー・アントワネットの他に左から長女のマリー・テレーズと次男ルイ・シャルル(ルイ17世)と長男ルイ・ジョゼフが描かれています。ルイ・ジョゼフがつかまっている空のゆりかごは、絵画の制作中に天然痘で死去した次女ソフィーを暗示しています。また三角形の構図はルネサンス期の聖家族の絵画を思わせます。
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マリー・アントワネットが着ている赤いドレスは夫ルイ16世の祖母マリー・レクザンスカが肖像画の中で着ているドレスへのオマージュと思われます。彼女の表情が晴れないのは、娘の死を受けてのことかもしれないこの絵が描かれた頃、人々の王妃への不満はかなり高まっていました。1787年のサロンのオープニングで展示される予定だったこの作品は、当時「首飾り事件」という事件をきっかけにして世論がアントワネットにあまりに批判的だったために発表を見送ったとされます。
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アントワネットのお気に入りの宮廷画家であった女性画家のヴィジェ・ルブランは、王妃のイメージを良くするためにこの絵の中で王妃を母性に満ちた人間味ある女性として描きました。この作品が描かれた2年後にはフランス革命が始まり、マリー・アントワネットは1793年に処刑され、2人の息子も幼くして亡くなっています。
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「衛兵の間」の次は「戴冠の間」で、ここは鏡の回廊に次いで見学者が多い部屋です。
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そのすべての人が注視しているのはダヴィッド作の「ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」で、これはダヴィッド本人によるレプリカでオリジナルはルーブル美術館で何度も見ています。
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1804年にナポレオンから口頭で作品制作が依頼されたジャック・ルイ・ダヴィッドはソルボンヌ近くのクリュニー校前の教会を作業場として作品の製作に取りかかります。1808年のサロン・ド・パリ(官展)で受賞し、作品の所有権は1819年までダヴィッドのものでした。その後は王立美術館に移されて1837年まで倉庫に保管されていましたが、ルイ・フィリップの指示によりヴェルサイユ宮殿の「戴冠の間」に展示されました。1889年にはヴェルサイユからルーヴル美術館に移動されています。
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作品公開直後の1808年ダヴィッドはアメリカの事業家から同サイズの複製を描くよう注文を受けます。彼は記憶を頼りに2作目の制作に取りかかり、ブリュッセルへ亡命中の1822年にこれを完成させますが、最終的に2作目は1947年にフランスに戻され、ヴェルサイユ宮殿に保管されることになります。
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ナポレオン1世はローマ皇帝の即位式に似たローブを身に着けて立っています。元々は自らが戴冠する構図だったそうです。妻のジョゼフィーヌ・ド・ボアルネはフランス民法に則りひざまずいて恭順を示しています。彼女は教皇の手からではなくナポレオンの手から戴冠されるところで、当時の年齢は41歳でしたが作画中の女性は20歳前後でかなり若く描かれています。ナポレオンの後ろでは教皇ピウス7世が甘んじて即位を祝しているようです。
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部屋の名前の通り戴冠式の絵ばかりが有名ですが、部屋に飾られた他の2枚も素晴らしい絵でした。
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「鷲の軍旗の授与」はナポレオンの戴冠式から3日後にシャン・ド・マルスで行われた統帥権の象徴である「鷲の旗」を授与する儀式の様子です。ノートルダム大聖堂での戴冠式から3日後にフランスの新しい皇帝はシャンドマルスでの壮大な儀式の際にに新しい紋章と旗を帝国軍に贈りました。 建築家のペルシエとフォンテーヌが陸軍学校の正面の前のギャラリーに彼の家族と王冠の高官たちに囲まれた皇帝が立っています。
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下書きの段階ではナポレオンの横に勝利の女神として妻のジョゼフィーヌが描かれていたそうですが、1809年に離婚してしまったために完成した絵からは削除されています。
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ルイ15世の娘の4女であるアデライード王女の寝室の絵です。弓と矢を持った姿はギリシャ神話の女神ディアーヌのようです。アデライードはヴェルサイユ宮殿で誕生し、当初は「第4マダム」と呼ばれていましたが、姉のマリー・ルイーズが夭折したため「第3マダム」と呼ばれ、最終的には「マダム・アデライード」に落ち着きます。
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若い頃は驚くほど美しかったと言われ、父親を含めて誰をも魅了したそうです。コンティ公やザクセン公子などとの結婚話があったのにもかかわらず、彼女は自分に相応の身分の君主と結婚することを希望したので結局婚期を逃してしまいます。彼女の趣味は読書と角笛を吹くこととナプキン・リングを作ることでした。ルイ15世はアデライードに「ぼろ」「ぞうきん」などのあだ名をつけていたそうです。
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アンリエット・アンヌ・ド・フランスはルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの第2王女で、双子の姉にルイーズ・エリザベートがいます。ルイ15世がルイーズ・エリザベートとともに一番可愛がった王女でしたが、天然痘によって未婚のまま24歳で死去します。遺体はサン・ドニに埋葬され、双子の姉ルイーズ・エリザベートが7年後の1759年に死去した際には一緒に葬られました。
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「王妃の階段」は大理石で造られていることから「大理石の階段」とも呼ばれています。10月事件が起こった1789年10月5日にパリから押し寄せてきた暴徒がベルサイユ宮殿に侵入して、この階段を通って王妃の寝室めがけてなだれ込みました。
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しかし王妃の部屋まではいくつかの部屋を通らねばならなかったことと衛兵が阻んで時間を稼いだためにマリー・アントワネットは暴徒から逃れることができました。
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更に部屋を進むとヴェルサイユ宮殿にはナポレオンの時代が加わってきます。
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「ナポレオン1世の肖像」
ナポレオン・ボナパルトは1804年12月2日にパリのノートルダム大聖堂でフランス皇帝に即位しました。この絵はその戴冠式の際に来ていた衣服を身につけたほぼ等身大のナポレオンの肖像です。
左足を前に出して身体を斜め左側に向けていますが、顔は正面を向いて真っすぐ見つめています。頭には栄光と勝利を意味する月桂樹の冠を被り、右手に杖を持っています。腰から下げている剣やナポレオンの後ろにある「正義の手」と呼ばれる笏と宝杖は戴冠式に使う儀礼上の道具です。 -
戴冠式の衣服と足元の敷物には蜂の意匠が刺繍されていますが、蜂はナポレオンの紋章です。厳格で堂々とした凛々しい姿は皇帝としての威厳に満ちており、彼の姿に目が惹きつけられます。フランソワ・ジェラール の「戴冠式の正装の皇帝ナポレオン」と見まごう肖像画ですが、誰の作品かは分かりません。
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「王子の階段」の総大理石の壁龕にも寂しくナポレオン1世の像が立っていますが、目にとめる人は誰もいません。
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「戦争画のギャラリー」はベルサイユ宮殿でルイ・フィリップによって作成された歴史的なギャラリーの中で最も重要です。宮殿の南ウイングのほぼ全体をカバーしており、メルヴィング朝のクロヴィス1世からナポレオン1世に至るまでのおよそ15世紀にわたるフランスの軍事的成功を33点の絵画で描いています。
この部屋は宮殿で最大の部屋で、長さ120メートルで幅13メートルあります。 -
すべての作品は1834年から1845年までの間にジャン・アロ、フランソワ・ブショー、オーギュスト・クーダー、ウジェーヌ・ドラクロワ、エロイ・フェロン、ジャン・フラゴナール、ジャン・フランク、フランソワ・ハイム、シャルル・ラリヴィエール、ジャン・マウザイセ、フランソワ・ピコ、シェファー兄弟、ジャン・シュネッツ、アンリ・ショパン、シャルル・ド・スチューベン、クロード・ヴェルネらそうそうたる画家によってこのギャラリーのために特別に作成されました。
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「ワグラムの戦い」はナポレオン戦争の軍事的関与であり、チャールズ大公の指揮の下にナポレオン1世皇帝のフランス軍および同盟軍がオーストリア軍に対して決定的な勝利を収めました。戦いはフランスに対するオーストリアとイギリス主導の同盟の崩壊につながりました。
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画家のホレス・ヴェルネの描くナポレオン1世のバランスが一番近いように思えました。ダヴィッドをはじめ画家の多くはナポレオンを英雄のような立派な体躯で美男子に描いていますが、ダヴィッドの描く 「サン・ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」 とポール・デラロッシュの描くロバに乗ったナポレオンの違いのような気がしました。まあ、ナポレオンは「似ているかどうかなど問題ではない。いかに英雄らしいかが重要なのだ。」と言っています。
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「アウステルリッツの戦い」は3人の皇帝の戦いとしても知られ、ナポレオンの戦争の最も重要で決定的なものの1つでした。 ナポレオンによって達成された最大の勝利と広く見なされているもので、フランスのグランデ・アルメは皇帝アレクサンドル1世と神聖ローマ皇帝フランシス2世が率いるロシアとオーストリアの軍隊を破りました。 戦いはオーストリア帝国のアウステルリッツの町の近くで起こりました。この戦いはカンナエの戦いやガウガメラの戦いなどの歴史的な交戦と同じ戦法で戦術の傑作としてしばしば引用されています。
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フランソワ・ジェラールの描く「アウステルリッツの戦い」のナポレオン1世は騎乗する馬の姿も含めて美化されているように感じました。画家のジェラールは1785年にサロンへ出品されたダヴィッドの「ホラティウス兄弟の誓い」を見て熱狂し、翌1786年には彼のアトリエに入門したほどの弟子です。この辺りはナポレオン1世によって直接依頼された作品とルイ・フィリップに依頼されたものの違いでしょうか。
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大理石の柱の前に複数飾られている胸像は、祖国フランスのために戦死した偉大な将校や王子を象ったものです。胸像の下のプレートには彼らの名前と生没年が記されています。戦史の回廊に戦死者の胸像を並べたのは、フランス最後の王であったルイ・フィリップのたっての願いだったと言われています。
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建築家のピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌとフレデリック・ネプヴュが荘厳な装飾を施し、ギャラリー全体に沿ってコリント式の柱で支えられた装飾を備えた格間天井を備えた広いコーニスで装飾しました。
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「ジャンヌ・ダルクの入城」は1429年5月8日のジャンヌ・ダルクのオルレアンへの入場の場面を描いたものです。1843年に描かれたヘンリー・シェファーの作品です。
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1431年にジャンヌ・ダルクはイングランド支持の聖職者により裁判にかけられ、異端として火刑に処されましたが、死後の再審により1456年に復権します。1869年にフランスのオルレアンの司教フェリックス・デュパンルーがジャンヌの列聖を申請し、1909年にローマ教皇ピウス10世により列福が認められます。その後1920年教皇ベネディクトゥス15世により列聖されます。フランスのカトリック教徒とフランスのためにイングランドと戦うことを神によって命じられたという話に触発された兵士たちの守護聖人となります。
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宮殿最後のこの回廊には歴代の王の大理石像が並んでいます。
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歴代のフランス国王の大理石像が居並び、台座に乗って高い位置にあるのでより威厳を感じます。妻と姪にもこの辺りでようやく合流出来ました。
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こちらはフランソワ1世で、ロワール渓谷の古城巡りではいろいろなところでお世話になりました。この像は1834年ベルサイユ歴史博物館の決定により、ルイ・フィリップから委託されたものです。
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こちらはルイ14世の像です。ヴェルサイユを見学できたのは彼のおかげなのでお礼を申し上げます。肖像画のままのような姿で上を見上げています。
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やはり肖像画と同じポーズのナポレオン1世の彫像もありました。
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11時に入り口に並んで、12時に入場が出来て、結果宮殿の見学だけで3時間ほどかかってしまいました。お腹ぺこぺこな上に夕方までに見学が終わらないであろうことが予測されてきました。とりあえず音声ガイド機を返却して庭園の見学に移ります。
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初めてフランスに来た1988年は仕事の都合もあり、ヴェルサイユ宮殿まで足を延ばせませんでした。同じ時期にヨーロッパを旅していた両親の写真の中に宮殿の写真を見つけ、いつか来たいと思っていながら願いが叶うまでに23年かかりました。
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