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ヴェルサイユ宮殿の見学に行った翌日はサマータイムも終わったので、前日と同じ時間にホテルを出ても周りが明るいので日本と同じような感覚に戻りました。いつものように地下鉄に乗って、この日はアンヴァリッドの見学に出掛けました。学校の歴史の授業で習っただけで実感のなかったナポレオン1世のお墓を参拝してみれば実感が湧くかと思ったのがきっかけです。「アンヴァリッド廃兵院」からは真っすぐ通りを進むとセーヌ川に架かる橋の中で一番好きな「アレクサンドル3世橋」を渡りました。今までじっくり見る事も無かった橋の欄干の彫刻も見る事が出来ました。そして次に予定していた「プチ・パレ」の休館日を間違えていたせいで、急遽予定を変える必要が出てしまいました。ここに留まっていても仕方ないので、「コンコルド広場」の見学に切り替えました。ガイドブックを読み返してもこの日に開いていて行きたい美術館も博物館も全て休みでした。更に翌日の11月1日も諸聖人の祭日で「プチ・パレ」は休みでした。大幅に見学場所の入れ替えが生じましたが、滞在日に余裕があったので事なきを得ました。「コンコルド広場」でエジプトのルクソールから持ってこられたオベリスクを見ていると、中止したままになっているエジプト旅行へ行きたくなってきました。

晩秋のパリ旅行(9)アンヴァリッド廃兵院とドーム教会でナポレオンの墓参に行き、アレクサンドル3世橋からコンコルド広場まで散策する。

5いいね!

2011/10/22 - 2011/11/06

10119位(同エリア16384件中)

旅行記グループ 2011 パリの旅

2

123

kojikoji

kojikojiさん

ヴェルサイユ宮殿の見学に行った翌日はサマータイムも終わったので、前日と同じ時間にホテルを出ても周りが明るいので日本と同じような感覚に戻りました。いつものように地下鉄に乗って、この日はアンヴァリッドの見学に出掛けました。学校の歴史の授業で習っただけで実感のなかったナポレオン1世のお墓を参拝してみれば実感が湧くかと思ったのがきっかけです。「アンヴァリッド廃兵院」からは真っすぐ通りを進むとセーヌ川に架かる橋の中で一番好きな「アレクサンドル3世橋」を渡りました。今までじっくり見る事も無かった橋の欄干の彫刻も見る事が出来ました。そして次に予定していた「プチ・パレ」の休館日を間違えていたせいで、急遽予定を変える必要が出てしまいました。ここに留まっていても仕方ないので、「コンコルド広場」の見学に切り替えました。ガイドブックを読み返してもこの日に開いていて行きたい美術館も博物館も全て休みでした。更に翌日の11月1日も諸聖人の祭日で「プチ・パレ」は休みでした。大幅に見学場所の入れ替えが生じましたが、滞在日に余裕があったので事なきを得ました。「コンコルド広場」でエジプトのルクソールから持ってこられたオベリスクを見ていると、中止したままになっているエジプト旅行へ行きたくなってきました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.5
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス 観光バス 徒歩
航空会社
中国国際航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 前の日にサマータイムが終わり、昨日と同じ時間にホテルを出発しますが、表は気持ちが良いくらい明るいです。お陰でこれまで写真が撮れなかったホテルの前のアール・ヌーヴォーデザインのお宅の外観を見る事も出来ました。パリで買ったアール・ヌーヴォーの写真集にはバッチリこの扉のモザイクの写真が掲載されていました。

    前の日にサマータイムが終わり、昨日と同じ時間にホテルを出発しますが、表は気持ちが良いくらい明るいです。お陰でこれまで写真が撮れなかったホテルの前のアール・ヌーヴォーデザインのお宅の外観を見る事も出来ました。パリで買ったアール・ヌーヴォーの写真集にはバッチリこの扉のモザイクの写真が掲載されていました。

  • アールヌーボーとアールデコの中間の移行期の建築と知られ1911年に建築家ブーシェによって建てられています。モンパルナス墓地の向かいのルーラル通りとフロイヴォー通りの角という立地の良さもあります。ブーシェという建築家はほとんど知られていないそうで、この建物に取り組んだ装飾家も分からないそうです。 見事なモザイクなどの装飾が見事なのでちょっと残念な気がします。

    アールヌーボーとアールデコの中間の移行期の建築と知られ1911年に建築家ブーシェによって建てられています。モンパルナス墓地の向かいのルーラル通りとフロイヴォー通りの角という立地の良さもあります。ブーシェという建築家はほとんど知られていないそうで、この建物に取り組んだ装飾家も分からないそうです。 見事なモザイクなどの装飾が見事なのでちょっと残念な気がします。

  • 左右同じ地番が書かれていますが左側は1911年に作られたものだと思われます。右側のプレートも最近はペラペラの板切れがビスで止っていますが、このプレートはちゃんと埋め込まれていますし素材も違うようです。

    左右同じ地番が書かれていますが左側は1911年に作られたものだと思われます。右側のプレートも最近はペラペラの板切れがビスで止っていますが、このプレートはちゃんと埋め込まれていますし素材も違うようです。

  • 表が明るいと外壁の優雅さを改めて感じます。残念ながらロワール渓谷の旅から戻った2度目のチェックインで反対側の部屋になってしまいました。

    表が明るいと外壁の優雅さを改めて感じます。残念ながらロワール渓谷の旅から戻った2度目のチェックインで反対側の部屋になってしまいました。

  • こちらはトータルで10泊以上滞在した「ヴィラ・モンパルナス」です。ここも元々はお屋敷だったのではないでしょうか。エクスペディアで予約して平均10,000円くらいでしたが、朝食は別料金だったのでホテルでは食べませんでした。

    こちらはトータルで10泊以上滞在した「ヴィラ・モンパルナス」です。ここも元々はお屋敷だったのではないでしょうか。エクスペディアで予約して平均10,000円くらいでしたが、朝食は別料金だったのでホテルでは食べませんでした。

  • 一応4星となっていますが設備は4星の基準を満たしている3星ホテルと考えた方が良いという印象でした。でもスタッフも親切で、気持ち良い滞在が出来ました。

    一応4星となっていますが設備は4星の基準を満たしている3星ホテルと考えた方が良いという印象でした。でもスタッフも親切で、気持ち良い滞在が出来ました。

  • 地下鉄のこの長い連絡通路も今回の旅で何度通過したかわからないほどです。

    地下鉄のこの長い連絡通路も今回の旅で何度通過したかわからないほどです。

  • ダンフェール・ロシュロー駅からモンパルナス駅で乗り換えも手慣れたもののなりました。

    ダンフェール・ロシュロー駅からモンパルナス駅で乗り換えも手慣れたもののなりました。

  • ポンピドー・センターで草間彌生展が開催していましたが、結局行く機会がありませんでした。あまり売れていない頃によく西武百貨店の販売促進の事務所に来られていたそうで、古い知人の方が「あの頃絵を買っておけばよかったわ。」なんて話を何度か聞いたのを思い出しました。

    ポンピドー・センターで草間彌生展が開催していましたが、結局行く機会がありませんでした。あまり売れていない頃によく西武百貨店の販売促進の事務所に来られていたそうで、古い知人の方が「あの頃絵を買っておけばよかったわ。」なんて話を何度か聞いたのを思い出しました。

  • 地下鉄を降りたサン・フランソワ・グザヴェイ駅を地上に出ると閑静な住宅街でした。この駅から「アンヴァリッド廃兵院」へ行くには理由がありました。

    地下鉄を降りたサン・フランソワ・グザヴェイ駅を地上に出ると閑静な住宅街でした。この駅から「アンヴァリッド廃兵院」へ行くには理由がありました。

  • 住宅街の一角に「ラ・パゴッド」と言う映画館があるので、少しでも覗いてみたかったからです。1996年に発売された月刊太陽の「パリ物語」は今でも役に立つ雑誌で、パサージュの特集は後年コロナブックスから「パリのパサージュ」として刊行されているほどです。

    住宅街の一角に「ラ・パゴッド」と言う映画館があるので、少しでも覗いてみたかったからです。1996年に発売された月刊太陽の「パリ物語」は今でも役に立つ雑誌で、パサージュの特集は後年コロナブックスから「パリのパサージュ」として刊行されているほどです。

  • その中のもう一つの特集が「トラン・アン・ユンとパリの映画館巡り」というもので、アメリが封切られる前にモンマルトルの「ストューディオ28」も紹介しています。そしてこの木々に埋もれてしまっている映画館も紹介されています。

    その中のもう一つの特集が「トラン・アン・ユンとパリの映画館巡り」というもので、アメリが封切られる前にモンマルトルの「ストューディオ28」も紹介しています。そしてこの木々に埋もれてしまっている映画館も紹介されています。

  • 朝9時過ぎなので残念ながら中には入れませんが、太陽のコピーでは「パリの日光東照宮で・・・。」と紹介されています。トラン・アン・ユン監督の「青いパパイヤの香り」と「シクロ」もここで最初に上映されたそうです。大好きな映画なのでぜひここで観たかったと思いました。

    朝9時過ぎなので残念ながら中には入れませんが、太陽のコピーでは「パリの日光東照宮で・・・。」と紹介されています。トラン・アン・ユン監督の「青いパパイヤの香り」と「シクロ」もここで最初に上映されたそうです。大好きな映画なのでぜひここで観たかったと思いました。

  • 1895年ボン・マルシェの創業者一族で取締役であったフランソワ・エミール・モーランが元女優で妻のアマンディーヌを喜ばせるために、当時流行していたジャポニスムを取り入れた舞踏会用の建物を誕生日プレゼントとして贈ることを決め、アレクサンドル・マルセルに設計を依頼します。マルセルは日光東照宮を参考に独特な東洋イメージの建物を設計します。紆余曲折の後の1931年に壁や天井に日本的な文様が豪華にほどこされた主室にスクリーンと座席が取り付けられ、映画館としてオープンし、1956年にはAFCAE(フランス芸術映画協会)の主導で、独立系や芸術的な映画を主に上映する専門館になっています。

    1895年ボン・マルシェの創業者一族で取締役であったフランソワ・エミール・モーランが元女優で妻のアマンディーヌを喜ばせるために、当時流行していたジャポニスムを取り入れた舞踏会用の建物を誕生日プレゼントとして贈ることを決め、アレクサンドル・マルセルに設計を依頼します。マルセルは日光東照宮を参考に独特な東洋イメージの建物を設計します。紆余曲折の後の1931年に壁や天井に日本的な文様が豪華にほどこされた主室にスクリーンと座席が取り付けられ、映画館としてオープンし、1956年にはAFCAE(フランス芸術映画協会)の主導で、独立系や芸術的な映画を主に上映する専門館になっています。

  • サン・フランソワ・グザヴェイ駅には名前の由来となった教会があります。フランス読みだと誰だか分かりませんが、1549年に日本で初めてキリスト教を布教した事で日本人なら誰もが知る聖フランシスコ・ザビエルです。この教会の祭壇の上のにはザビエルと向かってインド人や中国や日本人とみられる人物たちが描かれてあり、ザビエルが東洋の守護聖人という事を物語っているそうです。

    サン・フランソワ・グザヴェイ駅には名前の由来となった教会があります。フランス読みだと誰だか分かりませんが、1549年に日本で初めてキリスト教を布教した事で日本人なら誰もが知る聖フランシスコ・ザビエルです。この教会の祭壇の上のにはザビエルと向かってインド人や中国や日本人とみられる人物たちが描かれてあり、ザビエルが東洋の守護聖人という事を物語っているそうです。

  • 「アンヴァリッド」は1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、リベラル・ブリュアンが設計の指揮をとり、1674年に最初の傷病兵たちが入院しています。建築として有名なのは附属する礼拝堂の建築で、大聖堂は聖ルイと称えられるルイ9世の遺体を安置のために建設されました。

    「アンヴァリッド」は1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、リベラル・ブリュアンが設計の指揮をとり、1674年に最初の傷病兵たちが入院しています。建築として有名なのは附属する礼拝堂の建築で、大聖堂は聖ルイと称えられるルイ9世の遺体を安置のために建設されました。

  • 大聖堂の建設は1677年に始まり、後に兵士の教会とドーム教会に分かれ、ブリュアンの弟子ジュール・アルドゥアン・マンサールのもとに1706年に完成しました。マンサールはルイ14世の首席建築家になった人物で、フランスの後期バロック建築の第一人者の1人であり、ルイ14世の権力と栄光を表す数々の建築物を手がけています。

    大聖堂の建設は1677年に始まり、後に兵士の教会とドーム教会に分かれ、ブリュアンの弟子ジュール・アルドゥアン・マンサールのもとに1706年に完成しました。マンサールはルイ14世の首席建築家になった人物で、フランスの後期バロック建築の第一人者の1人であり、ルイ14世の権力と栄光を表す数々の建築物を手がけています。

  • ちょうど朝日を浴びてそれは綺麗に輝いていました。十字架の下にはフランス王家の紋章のフルール・ド・リスが連続しているのを見ると、ここに納められたら天国へ登れそうな気がします。

    ちょうど朝日を浴びてそれは綺麗に輝いていました。十字架の下にはフランス王家の紋章のフルール・ド・リスが連続しているのを見ると、ここに納められたら天国へ登れそうな気がします。

  • オルレアン朝の時代にルイ・フィリップ国王によりドーム教会に地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に置かれ、それを囲むようにしてナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれています。

    オルレアン朝の時代にルイ・フィリップ国王によりドーム教会に地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に置かれ、それを囲むようにしてナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれています。

  • 元々この場所はサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の所有地で、耕作しても何も育たない不毛の場所だったそうです。この地にルイ14世が輝かしい黄金のドームを持つ療養所を建てたのには理由があり、1つはフランスのために戦った傷痍軍人たちの功績を讃えるための美しい療養所を作ることでした。ルイ14世はパリの街中を歩く傷ついた兵士たちの姿に心を痛めていたと言われています。

    元々この場所はサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の所有地で、耕作しても何も育たない不毛の場所だったそうです。この地にルイ14世が輝かしい黄金のドームを持つ療養所を建てたのには理由があり、1つはフランスのために戦った傷痍軍人たちの功績を讃えるための美しい療養所を作ることでした。ルイ14世はパリの街中を歩く傷ついた兵士たちの姿に心を痛めていたと言われています。

  • その一方で片手を失ったり負傷をした軍人たちがパリの中心部を歩いている風景は、王にとって華麗な都パリの中で目を背けたい事実でもあったそうです。1674年にアンヴァリッドはオープンし、退役軍人たちは施療院と養老院を兼ねた施設で死ぬまでの間食事と住居が与えられました。

    その一方で片手を失ったり負傷をした軍人たちがパリの中心部を歩いている風景は、王にとって華麗な都パリの中で目を背けたい事実でもあったそうです。1674年にアンヴァリッドはオープンし、退役軍人たちは施療院と養老院を兼ねた施設で死ぬまでの間食事と住居が与えられました。

  • ドームの中に入ると荘厳で圧倒されるような巨大空間が目の前に広がります。天井の絵画はシャルル・ド・ラ・フォッスの「楽園の栄光」で、聖ルイがキリストに剣を差し出す場面です。

    ドームの中に入ると荘厳で圧倒されるような巨大空間が目の前に広がります。天井の絵画はシャルル・ド・ラ・フォッスの「楽園の栄光」で、聖ルイがキリストに剣を差し出す場面です。

  • 正面には祭壇が設けられていますが、ドームの下の半地下になった円形の空間にナポレオン1世の棺が置かれています。祭壇に向かって右側の付属礼拝堂から見ていきます。

    正面には祭壇が設けられていますが、ドームの下の半地下になった円形の空間にナポレオン1世の棺が置かれています。祭壇に向かって右側の付属礼拝堂から見ていきます。

  • フランス革命の頃からアンヴァリッドは「勝利の寺院」としてフランス軍人にとって重要な場所で、ナポレオン1世もたびたびアンヴァリッドを訪れては負傷兵たちに尊敬の念を抱き続けていました。1840年にセント・ヘレナ島から移送されてきたナポレオンの遺骸はアンヴァリッドの教会に置かれ壮大な墓が造られました。

    フランス革命の頃からアンヴァリッドは「勝利の寺院」としてフランス軍人にとって重要な場所で、ナポレオン1世もたびたびアンヴァリッドを訪れては負傷兵たちに尊敬の念を抱き続けていました。1840年にセント・ヘレナ島から移送されてきたナポレオンの遺骸はアンヴァリッドの教会に置かれ壮大な墓が造られました。

  • ナポレオン・ボナパルトの兄であるジョセフ・ボナパルトの墓です。ナポリ王としてはジュゼッペ1世、スペイン王としてはホセ1世としてそれぞれ短い間ですが即位しています。ロワール渓谷で立ち寄ったヴィランドリー城も一時は彼の所有になっていました。いずれにせよ弟のナポレオン1世あってのことだと思います。

    ナポレオン・ボナパルトの兄であるジョセフ・ボナパルトの墓です。ナポリ王としてはジュゼッペ1世、スペイン王としてはホセ1世としてそれぞれ短い間ですが即位しています。ロワール渓谷で立ち寄ったヴィランドリー城も一時は彼の所有になっていました。いずれにせよ弟のナポレオン1世あってのことだと思います。

  • 続いてフェルディナン・フォッシュ元帥のブロンズ製の墓です。第1次世界大戦で連合国を勝利に導いた軍人として賞賛を受けて1919年にはイギリス陸軍元帥、1923年にはポーランド元帥にも叙せられたそうです。

    続いてフェルディナン・フォッシュ元帥のブロンズ製の墓です。第1次世界大戦で連合国を勝利に導いた軍人として賞賛を受けて1919年にはイギリス陸軍元帥、1923年にはポーランド元帥にも叙せられたそうです。

  • 他にもナポレオンの弟のジェローム・ボナパルトやフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作者であるクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リール、第2次世界大戦の将軍フィリップ・ルクレールなどが眠っています。

    他にもナポレオンの弟のジェローム・ボナパルトやフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作者であるクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リール、第2次世界大戦の将軍フィリップ・ルクレールなどが眠っています。

  • ルイ・ヴィスコンティはサン・シュルピス広場やフォンテーヌ・モリエールの全体的なデザインなど、パリの邸宅や公共の建物や広場を数多く設計し、ナポレオン3世のルーヴル美術館の公式建築家でもありました。そして彼は1842年にアンヴァリッドのナポレオンの墓を設計したことで知られています。

    ルイ・ヴィスコンティはサン・シュルピス広場やフォンテーヌ・モリエールの全体的なデザインなど、パリの邸宅や公共の建物や広場を数多く設計し、ナポレオン3世のルーヴル美術館の公式建築家でもありました。そして彼は1842年にアンヴァリッドのナポレオンの墓を設計したことで知られています。

  • 祖父のアントニオ・ヴィスコンティはバチカン美術館を設立し、父親のエンニオ・ヴィスコンティは学芸員でした。エンニオと彼の家族は1798年にパリに引っ越し、1799年にフランス市民として帰化し、父エンニオはルーヴル美術館の美術品や絵画のキュレーターになっています。

    祖父のアントニオ・ヴィスコンティはバチカン美術館を設立し、父親のエンニオ・ヴィスコンティは学芸員でした。エンニオと彼の家族は1798年にパリに引っ越し、1799年にフランス市民として帰化し、父エンニオはルーヴル美術館の美術品や絵画のキュレーターになっています。

  • 元々はイタリア人の家系であったので、この天蓋もバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のベルニーニのデザインしたバルダッキーノ(法王の説教壇の上にかかる天蓋)を思い出させるデザインでした。天蓋上部には聖ルイを意味するSとLのモノグラムを天使が掲げています。

    元々はイタリア人の家系であったので、この天蓋もバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のベルニーニのデザインしたバルダッキーノ(法王の説教壇の上にかかる天蓋)を思い出させるデザインでした。天蓋上部には聖ルイを意味するSとLのモノグラムを天使が掲げています。

  • 磔刑の十字架の後ろのガラスの仕切りの奥は旧来のアンヴァリッド礼拝堂になりますが、こちら側から出入りは出来ません。

    磔刑の十字架の後ろのガラスの仕切りの奥は旧来のアンヴァリッド礼拝堂になりますが、こちら側から出入りは出来ません。

  • 日本人だとヴェートーベンの交響曲「英雄」のイメージを持ちますが、ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めしたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わっています。フランス人はナポレオンに対してどんな思いがあるのか知りたくなりましたが、フランス人の友人もいないし、ポリティカルな話題が話せるほどの語学力も無いので諦めます。

    日本人だとヴェートーベンの交響曲「英雄」のイメージを持ちますが、ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めしたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わっています。フランス人はナポレオンに対してどんな思いがあるのか知りたくなりましたが、フランス人の友人もいないし、ポリティカルな話題が話せるほどの語学力も無いので諦めます。

  • 一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われ、フランスの総人口は伸び悩み、国力でイギリスやドイツやのちにはアメリカ合衆国などに抜かれることとなります。フランス軍における人員のおびただしい喪失への反省から、多国籍の外国人から兵士を採用するフランス外人部隊が創設されることにも繋がっていきます。

    一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われ、フランスの総人口は伸び悩み、国力でイギリスやドイツやのちにはアメリカ合衆国などに抜かれることとなります。フランス軍における人員のおびただしい喪失への反省から、多国籍の外国人から兵士を採用するフランス外人部隊が創設されることにも繋がっていきます。

  • 功績としてはナポレオンが用いて広めた法や政治や軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなり、かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播した以上の影響を世界に与えたともいえます。ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの現在の民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法とされています。

    功績としてはナポレオンが用いて広めた法や政治や軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなり、かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播した以上の影響を世界に与えたともいえます。ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの現在の民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法とされています。

  • 祭壇の裏側には重厚なゲートがあり、戴冠式に必要な王冠と錫杖に宝玉の3種の宝物を持った像が左右に立ちます。この像の間に階段があり、ナポレオンの霊廟に降りる事が出来ます。

    祭壇の裏側には重厚なゲートがあり、戴冠式に必要な王冠と錫杖に宝玉の3種の宝物を持った像が左右に立ちます。この像の間に階段があり、ナポレオンの霊廟に降りる事が出来ます。

  • この扉の先がアンヴァリッド礼拝堂で、こちら側が祭壇になっているようです。バルダッキーノを中心に表裏の祭壇になっているようです。

    この扉の先がアンヴァリッド礼拝堂で、こちら側が祭壇になっているようです。バルダッキーノを中心に表裏の祭壇になっているようです。

  • 地下の霊廟へ下りる階段の床には「雷電の上で両翼を広げた金色の鷲」の紋章が象嵌されていました。ボナパルト家の紋章の「ナポレオンの左向きの鷲」とは違う形のモザイクでした。

    地下の霊廟へ下りる階段の床には「雷電の上で両翼を広げた金色の鷲」の紋章が象嵌されていました。ボナパルト家の紋章の「ナポレオンの左向きの鷲」とは違う形のモザイクでした。

  • こちらはフランス第1帝政時代の徽章で白色の5つの2重の輻射を持つ星型の10の尖端部はボタンで留められています。星とボタンは緑色の冠で、右は栢で左は月桂樹の葉からなっており、結び目の部分は交錯して縛られています。星の中央には共和国を象徴するケレースにはナポレオン1世の横顔が描かれた金のメダイヨンが飾られており、NAPOLEON EMP DES FRANCAISEと書かれた青い円が囲んでいます。

    こちらはフランス第1帝政時代の徽章で白色の5つの2重の輻射を持つ星型の10の尖端部はボタンで留められています。星とボタンは緑色の冠で、右は栢で左は月桂樹の葉からなっており、結び目の部分は交錯して縛られています。星の中央には共和国を象徴するケレースにはナポレオン1世の横顔が描かれた金のメダイヨンが飾られており、NAPOLEON EMP DES FRANCAISEと書かれた青い円が囲んでいます。

  • 1804年に戴冠式用にナポレオン1世がカール大帝の王冠を模倣して造らせたもので、<br />形は古風ですが宝石の使い方が一風変わっています。いざという時になってローマ皇帝たちの月桂樹の冠に変えてしまったため、現在パリのルーブル美術館に展示されています。

    1804年に戴冠式用にナポレオン1世がカール大帝の王冠を模倣して造らせたもので、
    形は古風ですが宝石の使い方が一風変わっています。いざという時になってローマ皇帝たちの月桂樹の冠に変えてしまったため、現在パリのルーブル美術館に展示されています。

  • 1821年5月5日にナポレオン1世は1815年に幽閉されたセント・ヘレナ島で死を迎えました。ナポレオンの遺体は生前好んで散歩をしたという「ゼラニウムの谷」にある泉近くの柳の木の根元に葬られましたが、1840年になってルイ・フィリップ国王の意向により本土に帰還しました。ナポレオンの棺はフランス海軍フランソワ・ドルレアン提督(ジョアンヴィル公)の指揮のもと、戦艦ベル・プール(美しい雌鳥)に乗って戻ってきました。

    1821年5月5日にナポレオン1世は1815年に幽閉されたセント・ヘレナ島で死を迎えました。ナポレオンの遺体は生前好んで散歩をしたという「ゼラニウムの谷」にある泉近くの柳の木の根元に葬られましたが、1840年になってルイ・フィリップ国王の意向により本土に帰還しました。ナポレオンの棺はフランス海軍フランソワ・ドルレアン提督(ジョアンヴィル公)の指揮のもと、戦艦ベル・プール(美しい雌鳥)に乗って戻ってきました。

  • 国王ルイ・フィリップが建築家ヴィスコンティにナポレオンの棺の制作を発注したことを受け、ドーム教会の地下には巨大な穴が空けられ、大規模な改修を伴った納骨堂が造られました。

    国王ルイ・フィリップが建築家ヴィスコンティにナポレオンの棺の制作を発注したことを受け、ドーム教会の地下には巨大な穴が空けられ、大規模な改修を伴った納骨堂が造られました。

  • 赤瑪瑙で作られたナポレオンの石棺は、ボージュ産の緑の花崗岩の台の上に乗っています。ナポレオンの遠征の功績を讃えるために、床には勝利の象徴である12の月桂樹のモチーフが彫刻家プラディエにより彫られました。さまざまな色に彩られた大理石の床には有名な8つの戦勝が象嵌されています。

    赤瑪瑙で作られたナポレオンの石棺は、ボージュ産の緑の花崗岩の台の上に乗っています。ナポレオンの遠征の功績を讃えるために、床には勝利の象徴である12の月桂樹のモチーフが彫刻家プラディエにより彫られました。さまざまな色に彩られた大理石の床には有名な8つの戦勝が象嵌されています。

  • ナポレオン1世の石棺の周りは女神像が取り囲んでいます。その柱の裏側をぐるっと回ることが出来ます。

    ナポレオン1世の石棺の周りは女神像が取り囲んでいます。その柱の裏側をぐるっと回ることが出来ます。

  • 墓を取り囲む回廊の壁には彫刻家シマールによる10の浅浮彫りの彫刻が施されています。これはナポレオンによる主な10の偉業である、国内平和、中央集権国家、コンセイユデタ、戸籍、民法典、コンコルダート(皇帝と教皇の協約)、 帝国大学、会計監査院、商業法典、大規模土木工事、レジヨンドヌール勲章を讃えるものです。地下には幾つかの部屋があり、ナポレオン1世の息子であったナポレオン2世の墓があります。

    墓を取り囲む回廊の壁には彫刻家シマールによる10の浅浮彫りの彫刻が施されています。これはナポレオンによる主な10の偉業である、国内平和、中央集権国家、コンセイユデタ、戸籍、民法典、コンコルダート(皇帝と教皇の協約)、 帝国大学、会計監査院、商業法典、大規模土木工事、レジヨンドヌール勲章を讃えるものです。地下には幾つかの部屋があり、ナポレオン1世の息子であったナポレオン2世の墓があります。

  • 白大理石の彫刻に金細工の装飾が施され、皇帝の姿をしたナポレオン2世の彫刻を眺めると、春の旅でウイーンの宝物館に展示されていたナポレオン2世のベビーベットのことを思い出しました。

    白大理石の彫刻に金細工の装飾が施され、皇帝の姿をしたナポレオン2世の彫刻を眺めると、春の旅でウイーンの宝物館に展示されていたナポレオン2世のベビーベットのことを思い出しました。

  • 1810年4月ルーブル宮殿の礼拝堂でナポレオンは2度目の結婚をしました。相手は敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーズ(マリー・アントワネットの姪)でした。ナポレオンはオーストリアの敵だったので彼女は泣く泣くナポレオンに嫁いだそうです。当時マリー19歳で、すでに皇帝となっていたナポレオンは41歳という歳の差でしたが、ナポレオンはマリーにとても優しく、彼女もいつしかナポレオンが好きになり息子が生まれます。ベビーベットの天蓋では女神が月桂冠を授け、鷲の像とベットのレリーフのローマ建国の神話であるオオカミとロムルスとレムスが描かれていて、それだけでナポレオン2世のベットだと分かります。

    1810年4月ルーブル宮殿の礼拝堂でナポレオンは2度目の結婚をしました。相手は敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーズ(マリー・アントワネットの姪)でした。ナポレオンはオーストリアの敵だったので彼女は泣く泣くナポレオンに嫁いだそうです。当時マリー19歳で、すでに皇帝となっていたナポレオンは41歳という歳の差でしたが、ナポレオンはマリーにとても優しく、彼女もいつしかナポレオンが好きになり息子が生まれます。ベビーベットの天蓋では女神が月桂冠を授け、鷲の像とベットのレリーフのローマ建国の神話であるオオカミとロムルスとレムスが描かれていて、それだけでナポレオン2世のベットだと分かります。

  • これ以上時間をかけていると妻に怒られそうなので見学はこれくらいにしておきます。

    これ以上時間をかけていると妻に怒られそうなので見学はこれくらいにしておきます。

  • 第1次世界大戦中に戦争大臣を務め、その後フランスの元帥となったフランス陸軍元帥ユベール・リヨテの棺はモロッコに常駐したこともあってイスラム風のデザインに見えました。

    第1次世界大戦中に戦争大臣を務め、その後フランスの元帥となったフランス陸軍元帥ユベール・リヨテの棺はモロッコに常駐したこともあってイスラム風のデザインに見えました。

  • 地下の墓所を回った後は1階の残りの礼拝堂を回ります。サン・ジュローム礼拝堂はドイツの一部の建国したフランスの傀儡国家ヴェストファーレン王国の国王でした。1812年のロシア遠征が始まると自国の軍勢7万を率いて参戦しましたが、途中でナポレオンと対立して勝手に戦線離脱をしてしまいます。1813年のライプツィヒの戦いで敗北して王国は消滅しますが、ナポレオン1世の死後は安定した生活を送ったそうです。

    地下の墓所を回った後は1階の残りの礼拝堂を回ります。サン・ジュローム礼拝堂はドイツの一部の建国したフランスの傀儡国家ヴェストファーレン王国の国王でした。1812年のロシア遠征が始まると自国の軍勢7万を率いて参戦しましたが、途中でナポレオンと対立して勝手に戦線離脱をしてしまいます。1813年のライプツィヒの戦いで敗北して王国は消滅しますが、ナポレオン1世の死後は安定した生活を送ったそうです。

  • 軽くナポレオン1世の墓参りくらいのつもりで見学した「アンヴァリッド廃兵院」でしたが、ドーム寺院の見学だけで1時間以上かかってしまいました。

    軽くナポレオン1世の墓参りくらいのつもりで見学した「アンヴァリッド廃兵院」でしたが、ドーム寺院の見学だけで1時間以上かかってしまいました。

  • 扉1枚でも読み解いていったら時間がかかりそうです。興味のあった「軍事博物館」は時間の都合でパスして、中庭にあったものだけ少し見学しました。ドーム教会入口の門扉の左部分はブルボンのモノグラム LL 、太陽王ルイ14世と紋章、サン・ルイとモノグラム SL  及び多数のフルール・ド・リスで装飾されています。

    扉1枚でも読み解いていったら時間がかかりそうです。興味のあった「軍事博物館」は時間の都合でパスして、中庭にあったものだけ少し見学しました。ドーム教会入口の門扉の左部分はブルボンのモノグラム LL 、太陽王ルイ14世と紋章、サン・ルイとモノグラム SL 及び多数のフルール・ド・リスで装飾されています。

  • 第1次世界大戦で使用されたFT-17軽戦車はルノーで開発された軽戦車です。FT-17の設計は各国の戦車に比べ最も革新的で、以降の戦車の基本形となります。ルノーは第1次世界大戦直前の1914年にはフランス国内で20%という第1のシェアを持つ自動車メーカーで、すでにタクシー製造などで大量受注の経験がありました。設計にもルノーの創業者であったルイ・ルノーが大きく注力したとも言わ、革新的かつ安価で大量生産が可能な戦車を生み出しました。

    第1次世界大戦で使用されたFT-17軽戦車はルノーで開発された軽戦車です。FT-17の設計は各国の戦車に比べ最も革新的で、以降の戦車の基本形となります。ルノーは第1次世界大戦直前の1914年にはフランス国内で20%という第1のシェアを持つ自動車メーカーで、すでにタクシー製造などで大量受注の経験がありました。設計にもルノーの創業者であったルイ・ルノーが大きく注力したとも言わ、革新的かつ安価で大量生産が可能な戦車を生み出しました。

  • 「栄誉の中庭」の石畳を抜けて行くと、一体幾つあるのか過去の大砲が整然と並べられています。

    「栄誉の中庭」の石畳を抜けて行くと、一体幾つあるのか過去の大砲が整然と並べられています。

  • 中庭には60門にもおよぶフランス伝統のブロンズ製の大砲が展示されていますが、これに加え博物館の中には12門の曲射砲や迫撃砲も保存されているそうです。

    中庭には60門にもおよぶフランス伝統のブロンズ製の大砲が展示されていますが、これに加え博物館の中には12門の曲射砲や迫撃砲も保存されているそうです。

  • 栄光の中庭を抜けてアンヴァリッドの北側からセーヌ川に向かいます。

    栄光の中庭を抜けてアンヴァリッドの北側からセーヌ川に向かいます。

  • いつ設けられたか分からない日時計ですが、数百年経っても正確に時を刻んでいる永久時計ともいえると思います。サマータイムが終った翌日なのでやたらと時計が気になりました。

    いつ設けられたか分からない日時計ですが、数百年経っても正確に時を刻んでいる永久時計ともいえると思います。サマータイムが終った翌日なのでやたらと時計が気になりました。

  • ここにも完璧な姿を保った大砲があります。

    ここにも完璧な姿を保った大砲があります。

  • 長大なアンヴァリッドの建物を抜けました。

    長大なアンヴァリッドの建物を抜けました。

  • ここも広い広場になっていて、マレシャル・ガルニエ通りが一直線に伸びて「アレクサンドル3世橋」まで続いています。

    ここも広い広場になっていて、マレシャル・ガルニエ通りが一直線に伸びて「アレクサンドル3世橋」まで続いています。

  • 庭園の刈込みがミサイルの弾頭に見えたのは、大砲の砲身を見てきたからでしょうか?この日最初のエッフェル塔を拝みました。

    庭園の刈込みがミサイルの弾頭に見えたのは、大砲の砲身を見てきたからでしょうか?この日最初のエッフェル塔を拝みました。

  • ここには1864年の馬関戦争でフランス帝国海軍によって押収された長州藩の大砲が置かれてありました。長州藩の大砲62門のうち54門が参戦各国に戦利品として持ち帰られ、展示されている長州藩の大砲は24ポンド青銅砲と18ポンド青銅砲各1門です。これは長州藩が三浦半島警備用に嘉永7年に江戸で製造し、後に下関へ移したものだそうです。

    ここには1864年の馬関戦争でフランス帝国海軍によって押収された長州藩の大砲が置かれてありました。長州藩の大砲62門のうち54門が参戦各国に戦利品として持ち帰られ、展示されている長州藩の大砲は24ポンド青銅砲と18ポンド青銅砲各1門です。これは長州藩が三浦半島警備用に嘉永7年に江戸で製造し、後に下関へ移したものだそうです。

  • じっくり見学したらここだけで1日かかってしまいそうでした。妻の機嫌が悪くなる前に先へ進むことにします。

    じっくり見学したらここだけで1日かかってしまいそうでした。妻の機嫌が悪くなる前に先へ進むことにします。

  • そのままマレシャル・ガルニエ通りを北に向かって歩きます。「アレクサンドル3世橋」の向こうに「グラン・パレ」のガラスのドームが見えます。

    そのままマレシャル・ガルニエ通りを北に向かって歩きます。「アレクサンドル3世橋」の向こうに「グラン・パレ」のガラスのドームが見えます。

  • パリにいると不意に視線を感じることがあり、辺りを見渡すとエッフェル塔を見つけることが何度かありました。

    パリにいると不意に視線を感じることがあり、辺りを見渡すとエッフェル塔を見つけることが何度かありました。

  • 「グラン・パレ」は「プティ・パレ」や「アレクサンドル3世橋」と同時期の1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設されています。この眺めは1900年から変わっていないことになります。

    「グラン・パレ」は「プティ・パレ」や「アレクサンドル3世橋」と同時期の1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設されています。この眺めは1900年から変わっていないことになります。

  • この橋はフランス共和国の大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設されパリ市に寄贈されました。

    この橋はフランス共和国の大統領サディ・カルノーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設されパリ市に寄贈されました。

  • 2騎のクワドリガ(古代ギリシャ時代の4頭立ての2輪戦車)のブロンズ像はジョルジュ・レシポンの作品で、両翼突端の屋根に設置されています。その像と橋に設けられた黄金に輝く4つの彫刻との対比が面白いです。

    2騎のクワドリガ(古代ギリシャ時代の4頭立ての2輪戦車)のブロンズ像はジョルジュ・レシポンの作品で、両翼突端の屋根に設置されています。その像と橋に設けられた黄金に輝く4つの彫刻との対比が面白いです。

  • 橋に立つ17メートルの石柱の上にはそれぞれ芸術・農業・闘争・戦争を意味する女神像が立っています。それぞれテーマがあって中世のフランス、近代のフランス 、ルネサンスのフランス 、そしてルイ14世のフランスを現すそうです。<br />

    橋に立つ17メートルの石柱の上にはそれぞれ芸術・農業・闘争・戦争を意味する女神像が立っています。それぞれテーマがあって中世のフランス、近代のフランス 、ルネサンスのフランス 、そしてルイ14世のフランスを現すそうです。

  • 左岸の彫刻はジュール・クータンの「ルネサンスのフランス」とローラン・マルクエストの「ルイ14世のフランス」です。

    左岸の彫刻はジュール・クータンの「ルネサンスのフランス」とローラン・マルクエストの「ルイ14世のフランス」です。

  • 対岸の右岸側はギュスターヴ・ミシェルの「近代のフランス」とアルフレッド・レノワールの「中世のフランス」です。

    対岸の右岸側はギュスターヴ・ミシェルの「近代のフランス」とアルフレッド・レノワールの「中世のフランス」です。

  • 遠くに「コンコルド広場」のオベリスクも見えました。

    遠くに「コンコルド広場」のオベリスクも見えました。

  • 今年の春の旅はプラハのカペル橋に始まり、ブダペストの鎖橋で終わり、秋の旅はアレクサンドル3世橋をはじめパリのたくさんの橋を渡り、それぞれヴルタヴァ川とドナウ河とセーヌ川のクルーズも楽しめました。

    今年の春の旅はプラハのカペル橋に始まり、ブダペストの鎖橋で終わり、秋の旅はアレクサンドル3世橋をはじめパリのたくさんの橋を渡り、それぞれヴルタヴァ川とドナウ河とセーヌ川のクルーズも楽しめました。

  • 「アレクサンドル3世橋」の上には32本の街灯がその当時のまま残されています。夜の橋の美しさはまた夜景編の旅行記で紹介します。

    「アレクサンドル3世橋」の上には32本の街灯がその当時のまま残されています。夜の橋の美しさはまた夜景編の旅行記で紹介します。

  • この橋が着工した1897年の年号とアレクサンドル3世の名前と竣工した1900年が刻まれています。

    この橋が着工した1897年の年号とアレクサンドル3世の名前と竣工した1900年が刻まれています。

  • アール・ヌーヴォー様式の見事な街燈を見上げます。

    アール・ヌーヴォー様式の見事な街燈を見上げます。

  • ニンフのレリーフはセーヌ川に架かるアーチの中心にあり、仏露同盟の記念碑とされます。 上流側にはパリ市の紋章を持ったセーヌ川のニンフ、下流側にはロシアの紋章を持ったネヴァ川のニンフで、両方ともジョルジュ・レシポンによって鋳造されました。

    ニンフのレリーフはセーヌ川に架かるアーチの中心にあり、仏露同盟の記念碑とされます。 上流側にはパリ市の紋章を持ったセーヌ川のニンフ、下流側にはロシアの紋章を持ったネヴァ川のニンフで、両方ともジョルジュ・レシポンによって鋳造されました。

  • RFのイニシャルはロシアとフランスを意味するのでしょうか?この橋の彫刻もモチーフは貝が多いように思いました。ここではホタテ貝が街灯の脚部にデザインされています。

    RFのイニシャルはロシアとフランスを意味するのでしょうか?この橋の彫刻もモチーフは貝が多いように思いました。ここではホタテ貝が街灯の脚部にデザインされています。

  • 巻貝を耳に当てるニンフを見ていると「私の耳は貝の殻、海の響を懐かしむ」なんてジャン・コクトーの詩を思い出しました。

    巻貝を耳に当てるニンフを見ていると「私の耳は貝の殻、海の響を懐かしむ」なんてジャン・コクトーの詩を思い出しました。

  • 橋の上方はエッフェル塔が美しく望めました。

    橋の上方はエッフェル塔が美しく望めました。

  • 街燈の先には先ほど見学してきたアンヴァリッドのドーム寺院も望めます。

    街燈の先には先ほど見学してきたアンヴァリッドのドーム寺院も望めます。

  • 女の子たちが橋の欄干に座って悪ふざけしているようにも見えてしまいます。

    女の子たちが橋の欄干に座って悪ふざけしているようにも見えてしまいます。

  • 甲冑と盾のレリーフなどはこの橋の美しさを高めています。セーヌ川に架かる橋の中では1番好きな橋です。

    甲冑と盾のレリーフなどはこの橋の美しさを高めています。セーヌ川に架かる橋の中では1番好きな橋です。

  • ニンフと一緒に写真を撮るよりは甲冑や盾と一緒の方がいいみたいです。

    ニンフと一緒に写真を撮るよりは甲冑や盾と一緒の方がいいみたいです。

  • 「貝をもつ少女」はレオポルド・モリスの彫刻です。

    「貝をもつ少女」はレオポルド・モリスの彫刻です。

  • 橋の外装はグラン・パレのクワドリガの彫刻を造ったジョルジュ・レシポンが手掛けています。

    橋の外装はグラン・パレのクワドリガの彫刻を造ったジョルジュ・レシポンが手掛けています。

  • セーヌ右岸(リヴ・ドロワ)に移りました。左岸のリヴ・ゴーシュはよく使うけれど、右岸のリヴ・ドロワってあまり使わないですよね。<br />最初に出迎えてくれたのは「プティ・パレ」の脇に建つウィンストン・チャーチル像でした。「我々は決して降伏しない。」という銘文が刻まれていました。

    セーヌ右岸(リヴ・ドロワ)に移りました。左岸のリヴ・ゴーシュはよく使うけれど、右岸のリヴ・ドロワってあまり使わないですよね。
    最初に出迎えてくれたのは「プティ・パレ」の脇に建つウィンストン・チャーチル像でした。「我々は決して降伏しない。」という銘文が刻まれていました。

  • ドイツに対して宣戦布告した首相兼国防相に就任したチャーチルの歴史的な演説ですが、元になっているのはクレマンソーの演説だそうです。奇しくも「プティ・パレ」の反対側左翼の角にはクレマンソーの銅像が立っています。

    ドイツに対して宣戦布告した首相兼国防相に就任したチャーチルの歴史的な演説ですが、元になっているのはクレマンソーの演説だそうです。奇しくも「プティ・パレ」の反対側左翼の角にはクレマンソーの銅像が立っています。

  • ウィンストン・チャーチル通りを挟んだ「グラン・パレ」は展覧会の設営中のようでした。

    ウィンストン・チャーチル通りを挟んだ「グラン・パレ」は展覧会の設営中のようでした。

  • 本当はこの日プティ・パレを見学するつもりでしたが休館日を間違えていました。実は翌日にも行きましたが、11月1日は諸聖人の祝日だったので入るまでに3日かかりました。これも日程に余裕があったので組み替える事が出来ました。

    本当はこの日プティ・パレを見学するつもりでしたが休館日を間違えていました。実は翌日にも行きましたが、11月1日は諸聖人の祝日だったので入るまでに3日かかりました。これも日程に余裕があったので組み替える事が出来ました。

  • 休館日でも何かセレモニーか何かがあるようで、赤いカーペットはこの日しか敷かれてありませんでした。

    休館日でも何かセレモニーか何かがあるようで、赤いカーペットはこの日しか敷かれてありませんでした。

  • クレマンソー広場の前にはジョルジュ・クレマンソーの像がありました。フランス人の首相なのでこちら方が人気で、手向けられた花束の量が違いますし、周囲に植えられた花の量も違います。

    クレマンソー広場の前にはジョルジュ・クレマンソーの像がありました。フランス人の首相なのでこちら方が人気で、手向けられた花束の量が違いますし、周囲に植えられた花の量も違います。

  • すっかり冬景色になったセーヌ河畔を「コンコルド広場」へ向かって歩きます。

    すっかり冬景色になったセーヌ河畔を「コンコルド広場」へ向かって歩きます。

  • シャンゼリゼでは枯れ木にイルミネーションを取り付ける工事が始まったところでした。クリスマスマーケットの開催は11月23日からなので、3週間かけて準備をするようです。この旅の数年後からクリスマスマーケット巡りにはまり、ドイツを皮切りにクロアチアやスロヴェニア、オーストリアにオランダやベルギーまで足を延ばしました。フランスの予定も立てていましたが、新型コロナで止まってしまいました。

    シャンゼリゼでは枯れ木にイルミネーションを取り付ける工事が始まったところでした。クリスマスマーケットの開催は11月23日からなので、3週間かけて準備をするようです。この旅の数年後からクリスマスマーケット巡りにはまり、ドイツを皮切りにクロアチアやスロヴェニア、オーストリアにオランダやベルギーまで足を延ばしました。フランスの予定も立てていましたが、新型コロナで止まってしまいました。

  • コンコルド広場に着きました。ここへ来るのは10年振りで、21世紀に変わる瞬間この広場にいたことを思い出しました。2000年の12月31日は小雨の降る寒い日でした。その日の朝のホテルの朝食で話をした日本人の女の子がいましたが、ミレニアムのカウントダウンをシャンゼリゼで迎えたいけれど、1人で来ているので心配なので諦めると言っていました。

    コンコルド広場に着きました。ここへ来るのは10年振りで、21世紀に変わる瞬間この広場にいたことを思い出しました。2000年の12月31日は小雨の降る寒い日でした。その日の朝のホテルの朝食で話をした日本人の女の子がいましたが、ミレニアムのカウントダウンをシャンゼリゼで迎えたいけれど、1人で来ているので心配なので諦めると言っていました。

  • それなら一緒に行きましょうと妻と3人で行くことにしました。帰り道は2人にキスしようとする輩を避けながらホテルまで戻ったことを思い出しました。元旦にニースへ移動したその子からはお礼のメッセージとチョコレートがフロントに預けられていました。

    それなら一緒に行きましょうと妻と3人で行くことにしました。帰り道は2人にキスしようとする輩を避けながらホテルまで戻ったことを思い出しました。元旦にニースへ移動したその子からはお礼のメッセージとチョコレートがフロントに預けられていました。

  • コンコルド広場の街灯は帆船の舳先のモチーフが円柱に組み合わされたものになっています。これはパリ市の紋章を見るとそのデザインの意味が分かります。帆船の紋章の下に書かれたFluctuat nec mergiturというモットーは「たゆたえども沈まず」という意味です。パリの街は常にセーヌ川の恩恵を受けて大きくなっていきました。パリには水の商人組合があり、初日に行ったサン・マルタン運河も水運のための運河でした。

    コンコルド広場の街灯は帆船の舳先のモチーフが円柱に組み合わされたものになっています。これはパリ市の紋章を見るとそのデザインの意味が分かります。帆船の紋章の下に書かれたFluctuat nec mergiturというモットーは「たゆたえども沈まず」という意味です。パリの街は常にセーヌ川の恩恵を受けて大きくなっていきました。パリには水の商人組合があり、初日に行ったサン・マルタン運河も水運のための運河でした。

  • 柱頭は古代ギリシャ建築のコリント式のアーカンサスの葉や茎に加えて女神の姿が組み込まれた不思議なデザインです。

    柱頭は古代ギリシャ建築のコリント式のアーカンサスの葉や茎に加えて女神の姿が組み込まれた不思議なデザインです。

  • 2000年の大晦日の夜は凱旋門からコンコルド広場まで車の規制が入って、シャンゼリゼ通りが人で埋まりましたが、あの光景を忘れることは無いでしょう。シャンゼリゼもまもなくクリスマスのイルミネーションで美しく飾られるのでしょう。街路樹のマロニエにはまだ最後の秋の気配が残っています。

    2000年の大晦日の夜は凱旋門からコンコルド広場まで車の規制が入って、シャンゼリゼ通りが人で埋まりましたが、あの光景を忘れることは無いでしょう。シャンゼリゼもまもなくクリスマスのイルミネーションで美しく飾られるのでしょう。街路樹のマロニエにはまだ最後の秋の気配が残っています。

  • 広場の中心部にはエジプトのルクソール神殿のオベリスクと対の「クレオパトラの針 」が建てられていますが、これはムハンマド・アリー朝エジプト国王のムハンマド・アリーから贈られ、1836年にフランスに運ばれたものです。

    広場の中心部にはエジプトのルクソール神殿のオベリスクと対の「クレオパトラの針 」が建てられていますが、これはムハンマド・アリー朝エジプト国王のムハンマド・アリーから贈られ、1836年にフランスに運ばれたものです。

  • このオベリスクの移築に認可を与えてくれたムハンマド・アリに対しては、国王ルイ・フィリップから大きな時計が返礼として贈られました。その時計はカイロのシタデル(城塞)にある、ムハンマド・アリモスクの中庭に面した時計塔にはめ込まれて今も残っています。

    このオベリスクの移築に認可を与えてくれたムハンマド・アリに対しては、国王ルイ・フィリップから大きな時計が返礼として贈られました。その時計はカイロのシタデル(城塞)にある、ムハンマド・アリモスクの中庭に面した時計塔にはめ込まれて今も残っています。

  • ただこの時計は据え付けられてすぐに壊れてしまったそうです。そしてその後も修理することが出来なくて今日に至っています。2018年には足場を架けて修理していましたが、たぶん外観だけのものだと思います。

    ただこの時計は据え付けられてすぐに壊れてしまったそうです。そしてその後も修理することが出来なくて今日に至っています。2018年には足場を架けて修理していましたが、たぶん外観だけのものだと思います。

  • クレオパトラの針と言っても影がこんなに広いのですからとてつもなく巨大です。気のせいか妻が痩せたように見えました。2006年に1か月ほどのエジプト旅行のスケジュールを立て、友人家族と途中で合流する算段まで出来ていたのですが、義母の病気療養で中止になっていました。

    クレオパトラの針と言っても影がこんなに広いのですからとてつもなく巨大です。気のせいか妻が痩せたように見えました。2006年に1か月ほどのエジプト旅行のスケジュールを立て、友人家族と途中で合流する算段まで出来ていたのですが、義母の病気療養で中止になっていました。

  • コンコルド広場でオベリスクを見るとその時の計画が思い出されましたが、2018年になって友人夫婦と一緒にエジプトを旅することが出来ました。

    コンコルド広場でオベリスクを見るとその時の計画が思い出されましたが、2018年になって友人夫婦と一緒にエジプトを旅することが出来ました。

  • ニューヨークとロンドンにあるクレオパトラの針は、元はトトメス3世が建てたもので、エジプトのアレキサンドリアに対で残っていたものですが、このオベリスクはエジプト・ルクソールのルクソール神殿にラムセス2世によって建てられた1対のオベリスクのうちの1本です。

    ニューヨークとロンドンにあるクレオパトラの針は、元はトトメス3世が建てたもので、エジプトのアレキサンドリアに対で残っていたものですが、このオベリスクはエジプト・ルクソールのルクソール神殿にラムセス2世によって建てられた1対のオベリスクのうちの1本です。

  • オベリスクの台座には南北の面にはオベリスクを運んだ時の状況が図示されています。北面にはルクソール神殿の正面右側に建っていたオベリスクを搬出する様子が描かれており、南面はコンコルド広場にオベリスクを立てた時の様子が説明されています。

    オベリスクの台座には南北の面にはオベリスクを運んだ時の状況が図示されています。北面にはルクソール神殿の正面右側に建っていたオベリスクを搬出する様子が描かれており、南面はコンコルド広場にオベリスクを立てた時の様子が説明されています。

  • 楕円で囲まれたカルトゥーシュがファラオの名前で上段は「ネスウビト・ウセル・マアト・ラー・セテプ・エン・ラー(太陽神ラーの真理は力強い、太陽神ラーに選ばれ者)」でラムセス2世を意味します。

    楕円で囲まれたカルトゥーシュがファラオの名前で上段は「ネスウビト・ウセル・マアト・ラー・セテプ・エン・ラー(太陽神ラーの真理は力強い、太陽神ラーに選ばれ者)」でラムセス2世を意味します。

  • 2018年にアスワンからのクルーズ船でルクソールに着き、憂国のルクソール神殿を見学した際の写真です。ルクソール神殿の第1塔門入口正面左側のオベリスクはフランスとエジプトの関係が悪化したことによって搬出が不可能になり、持ち出されずにそのまま残りました。<br />

    2018年にアスワンからのクルーズ船でルクソールに着き、憂国のルクソール神殿を見学した際の写真です。ルクソール神殿の第1塔門入口正面左側のオベリスクはフランスとエジプトの関係が悪化したことによって搬出が不可能になり、持ち出されずにそのまま残りました。

  • 初めての計画以来12年後、パリの旅からも7年後にようやくエジプトを旅できたわけですので感無量でした。

    初めての計画以来12年後、パリの旅からも7年後にようやくエジプトを旅できたわけですので感無量でした。

  • それまでエジプト旅行を待っていてくれた友人夫婦にも感謝です。ただ子供たちはそれぞれ独立してしまったので一緒に行くことはできませんでした。

    それまでエジプト旅行を待っていてくれた友人夫婦にも感謝です。ただ子供たちはそれぞれ独立してしまったので一緒に行くことはできませんでした。

  • 青空にオベリスクとエッフェル塔が映えます。オベリスクの先端には1998年5月に新たに付けられた高さ3.6メートルのピラミディオン(ピラミッド型のキャップ)が輝いています。これはブロンズ製で表面は23.5カラットの金箔で覆われています。

    青空にオベリスクとエッフェル塔が映えます。オベリスクの先端には1998年5月に新たに付けられた高さ3.6メートルのピラミディオン(ピラミッド型のキャップ)が輝いています。これはブロンズ製で表面は23.5カラットの金箔で覆われています。

  • オベリスクの前にはツタンカーメンが立っていましたパリには一体何人いるのでしょうか。先ほどシャンゼリゼのベンチに座っている人もいました。

    オベリスクの前にはツタンカーメンが立っていましたパリには一体何人いるのでしょうか。先ほどシャンゼリゼのベンチに座っている人もいました。

  • 「コンコルド広場」は1755年にアンジュ・ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていました。その後のフランス革命の勃発により騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められ、フランス革命中にはルイ16世やマリー・アントワネットへのギロチンによる斬首刑に処されたのがこの広場だと思うと感慨深いものがあります。

    「コンコルド広場」は1755年にアンジュ・ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていました。その後のフランス革命の勃発により騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められ、フランス革命中にはルイ16世やマリー・アントワネットへのギロチンによる斬首刑に処されたのがこの広場だと思うと感慨深いものがあります。

  • 広場に置かれた2基の噴水はジャック・イニャス・イトルフによって設計され、ルイフィリップ王の治世中に1840年に完成しました。 南側の噴水はフランスの海上貿易と産業を記念し、北側の噴水はフランスの河川の航行と商業を記念しています。

    広場に置かれた2基の噴水はジャック・イニャス・イトルフによって設計され、ルイフィリップ王の治世中に1840年に完成しました。 南側の噴水はフランスの海上貿易と産業を記念し、北側の噴水はフランスの河川の航行と商業を記念しています。

  • イトルフは1833年から設計に取り掛かりますが、彼の噴水のデザインへの主な影響は、ローマのヴァチカンのサン・ピエトロ広場にあるベルニーニの2基の噴水で、これもオベリスクの両側に配置されています。もう1つの影響は同じくローマのナヴォーナ広場の噴水で、オベリスクのあるベルニーニの「4大河の噴水」の両側に2基の噴水で、1820年代にイトルフがローマを訪れたときに見たものです。

    イトルフは1833年から設計に取り掛かりますが、彼の噴水のデザインへの主な影響は、ローマのヴァチカンのサン・ピエトロ広場にあるベルニーニの2基の噴水で、これもオベリスクの両側に配置されています。もう1つの影響は同じくローマのナヴォーナ広場の噴水で、オベリスクのあるベルニーニの「4大河の噴水」の両側に2基の噴水で、1820年代にイトルフがローマを訪れたときに見たものです。

  • セーヌ川に近い南側の噴水はフランスの海の精神を象徴しています。水盤を支える大きな4人の女神は地中海と大西洋を表しています。人物はパリ市のシンボルである船の舳先に座って、鼻孔から水を噴霧するイルカに囲まれています。<br />水盤の上段には海上航行や天文学や商業の精神を擬人化した像があります。その隣には白鳥が下の水盤に水を注いでいます。水盤ではトリトンとネレイドが魚をつかんで上向きに水を噴き出しています。<br />

    セーヌ川に近い南側の噴水はフランスの海の精神を象徴しています。水盤を支える大きな4人の女神は地中海と大西洋を表しています。人物はパリ市のシンボルである船の舳先に座って、鼻孔から水を噴霧するイルカに囲まれています。
    水盤の上段には海上航行や天文学や商業の精神を擬人化した像があります。その隣には白鳥が下の水盤に水を注いでいます。水盤ではトリトンとネレイドが魚をつかんで上向きに水を噴き出しています。

  • マドレーヌ教会に近い北側の川の噴水にはローヌ川とライン川を表す水盤を支える大きな女神がいます。他の女神はフランスの主要な収穫を表しているのは手に持った小麦の束やブドウ、花や果実からも分かります。<br />

    マドレーヌ教会に近い北側の川の噴水にはローヌ川とライン川を表す水盤を支える大きな女神がいます。他の女神はフランスの主要な収穫を表しているのは手に持った小麦の束やブドウ、花や果実からも分かります。

  • あまり噴水の彫刻を読み解いていると妻に怒られそうなので記念写真を撮っておきましょう。思っていたほど寒くないのはうれしい誤算ですが、朝晩は多少冷えるので日中は防寒着が邪魔になります。

    あまり噴水の彫刻を読み解いていると妻に怒られそうなので記念写真を撮っておきましょう。思っていたほど寒くないのはうれしい誤算ですが、朝晩は多少冷えるので日中は防寒着が邪魔になります。

  • 噴水の水はナポレオン1世の治世の初めにはウルク運河から供給されました。その当時の噴水にはポンプが無く、コンコルド広場より高い位置にあるラヴィレットから流された水によって作動していました。これらの装置はヨーロッパの宮殿の多くや古代ローマの都市にある噴水の原理も同じです。サイフォンの原理は紀元1世紀にはアレクサンドリアのヘロンが発明しています。

    噴水の水はナポレオン1世の治世の初めにはウルク運河から供給されました。その当時の噴水にはポンプが無く、コンコルド広場より高い位置にあるラヴィレットから流された水によって作動していました。これらの装置はヨーロッパの宮殿の多くや古代ローマの都市にある噴水の原理も同じです。サイフォンの原理は紀元1世紀にはアレクサンドリアのヘロンが発明しています。

  • オベリスクから2基の噴水越しにマドレーヌ寺院が見えます。歩いていると暑いくらいの陽気なので噴水の水を見ても寒く感じない10月末のパリでした。

    オベリスクから2基の噴水越しにマドレーヌ寺院が見えます。歩いていると暑いくらいの陽気なので噴水の水を見ても寒く感じない10月末のパリでした。

  • 北側の噴水越しに「プティ・パレ」のドームとフランス国旗を掲げた「グラン・パレ」が望めました。

    北側の噴水越しに「プティ・パレ」のドームとフランス国旗を掲げた「グラン・パレ」が望めました。

  • こちらは噴水とエッフェル塔の背比べです。エッフェル塔はパリにある何と組み合わせても絵になると感じます。

    こちらは噴水とエッフェル塔の背比べです。エッフェル塔はパリにある何と組み合わせても絵になると感じます。

  • この広場はある意味パリの中心なので、南には「ブルボン宮(下院議会)」西には「凱旋門」とシャンゼリゼ、北には「マドレーヌ寺院」、東には「ルーブル宮」、そして「エッフェル塔」です。我々の散歩はマドレーヌ寺院の方向の北に向けて進みます。

    この広場はある意味パリの中心なので、南には「ブルボン宮(下院議会)」西には「凱旋門」とシャンゼリゼ、北には「マドレーヌ寺院」、東には「ルーブル宮」、そして「エッフェル塔」です。我々の散歩はマドレーヌ寺院の方向の北に向けて進みます。

  • この広場には夜景の散歩で何度か立ち寄りました。美しい夜の噴水はパリの夜景の旅行記で紹介します。

    この広場には夜景の散歩で何度か立ち寄りました。美しい夜の噴水はパリの夜景の旅行記で紹介します。

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2011 パリの旅

この旅行記へのコメント (2)

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  • サウスピーチさん 2011/12/16 00:35:48
    ちょっと感動しました・・・。
    kojikojiさん、はじめまして(書き込み)・・・ですが、時々遊びに来ております。 (*^^*)

    うわぁ〜、今回の旅行記、ちょっと感動してしまいました。 各説明もとても詳細ですが分かり易く、
    アンヴァリッドでは私が疑問に思っていたこともいくつか解決して頂きました。 (ありがとうございますっ!)
    自分としても、ここで結構時間を費やした印象が残っているのですが、見落としていた部分もあったり・・・。(泣)
    歴史大好き、そして知りたがり屋人間(笑)としては、kojikojiさんの説明から色々と学ばせて頂いています。

    そして何よりも、写真が美しく素敵です!!! いつも思うことですが、同じ場所でもそれを見る人(写す人)によって
    写しだされる風景とか雰囲気とか、全く違うんですよね・・・。 勉強させて頂いております♪
    (写真撮るのも大好きなので・・・)

    他にも好きなトラベラーさんがいるので、時間はかかりますが順番に少しずつ拝読させて頂いています。

    それでは、また!

    サウスピーチ :)

    kojikoji

    kojikojiさん からの返信 2011/12/16 01:00:45
    RE: ちょっと感動しました・・・。
    サウスピーチさん
    こんばんは。いつもお立ち寄りありがとうございます。
    こうやってお便りいただけると夜な夜な旅行記を作っていても励みになります。どなたかが見ていただいている実感を感じます。アンヴァリッドの件、良かったです。ガイドブックに載っていることを書いてもしょうがないと思っているのですが、旅行前にいろいろ調べて行った事を元にコメントしています。しかし、所詮付け焼刃の知識は旅行中にフランス国王と王妃がこんがらがってロワールの古城巡りで訳が分からなくなってしまいました。改めて勉強中です。アップしたい写真が多いとコメントも入れないと気が済まないので自己矛盾に陥りそうです。私も写真が好きなのですがなかなかうまく撮れないなと思っているのでお褒めいただくと嬉しいような恥ずかしいようなです。今年から使っているソニーのNEXがワイドレンズも望遠レンズも以外に気に入って使っています。またお時間がありましたらお立ち寄りください。年内にはロワールの旅行記をアップして新しい年を迎えたいと思っています。

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