2011/10/22 - 2011/11/06
6082位(同エリア17030件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1780冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,482,967アクセス
- フォロワー170人
今回の旅行では「ルーブル美術館」を予定に入れるかどうか迷いました。過去に2回行っていますが、今後パリにいつ来るかどうか分からないと思うと外すことは出来ませんでした。同じく何度か行っている「オルセー美術館」を外してしまいましたがアール・ヌーヴォーや印象派に傾注した美術館を多く回った旅だったので、帰国してからもう一度行っておけばよかったかなと思っています。この当時はオルセー美術館の館内は写真が撮れなくなったというのも外した一因でした。結果的に予定が押せ押せになってしまい、何とか「ルーブル美術館」を訪れましたが、水曜日は午後10時まで開館しているので夕方からゆっくり見学に行きました。5時間近くあるので安心していましたが毎度のように閉鎖されて通れない通路があったりして迷いながらの見学でした。結果最後に回る予定だったフランス絵画のコーナーを一部見ることが出来ませんでした。やっぱりパリにはもう一度行くしかないようです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
午後3時をまわってまた「コンコルド広場」に戻ってきました。今度は「チュイルリー公園」を抜けてルーブル美術館に向かいます。
-
「コンコルド広場」のオベリスクからシャンゼリゼを経て「エトワール凱旋門」が一直線に望め、その先にはラ・デファンスの「グランダルシュ」まで見る事が出来ます。
-
そして「ルーブル美術館」を振り返ると「グラン・バッサン・ロン」の噴水越しにもう1つの「カルーゼル凱旋門が」見えてきました。
-
目敏く椅子を見つけて休憩していました。まあ朝から3つの美術館を巡って歩き通しでしたし、この後に4つ目の「ルーブル美術館」の見学が待っています。
-
1806年から1808年にかけてナポレオンの勝利を祝するために建設されています。エトワール凱旋門も同じアウステルリッツの戦いに勝利した記念して設計されましたが、大きさは2倍あり完成までに30年を要しています。
-
「カルーゼル凱旋門」の先には美術館の入り口であるガラスのピラミッドが見えます。最初にパリに来た1988年の夏はちょうど工事中でした。あれから23年が経ったと思うと我ながら歳を取ったなと感じました。
-
凱旋門の頂上にある4頭立ての戦車クアドリガは、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院正面入口の上に置かれた「サン・マルコの馬」の複製です。サン・マルコ寺院のテラスの像も複製で、オリジナルは寺院の中に置かれています。元々はコンスタンティノープル(イスタンブール)のスルタン・アフメットにあるヒッポドロームに置かれていたものを、ヴェネツィアの十字軍が戦利品として奪ってきたものです。
-
ピラミッドの入り口を目指しますが、夕方4時前なので見学者の列もほとんどありません。
-
人の流れが出来ていますが、立ち止まることも無くガラスのピラミッドに吸い込まれていきます。
-
ガラス越しのシュリー翼は翼を広げた巨大な鳥のようにも見えます。ピラミッドは建築家イオ・ミン・ペイの設計した高さ20.6メートル、底辺35メートル、603枚の菱形のガラス板と70枚の三角形のガラス板とで構築されています。
-
妻とここへ来るのは2000年の年末以来の11年振りに2人で来ましたが、こんな遅い時間に入るのは初めてですが、ルーブル美術館は水曜日と金曜日は午後9時45分まで開館しているので約5時間ほど見学することができます。
-
入口に近いドゥノン翼の-1階のヨーロッパ彫刻の部屋から見学を始めます。
-
「智天使と聖母子」アンドレア・デッラ・ロッビア
ルネサンス期イタリアの主にセラミックスの彫刻家で、ルカ・デッラ・ロッビアの弟マルコの子供です。イタリアのフィレンツェをはじめトスカーナの旅をしているといろいろな教会や修道院で見かけます。ロンドンのV&Aにも素晴らしい作品が展示されています。 -
「聖マグダラのマリア」グレゴール・エアハールト作と推定されていますが、これはエアハーストが1503年頃に制作したカイスハイムの「慈悲の聖母」(ベルリン国立美術館旧蔵で1945年破壊)との比較によるものとされます。
-
元来マグダラのマリアは彫刻された天使達に支えられていたそうです。この菩提樹製の彫像は楕円形の金属製枠内に支えられ、教会の天井からつり下げられ、元々はアウクスブルクのドミニコ会修道院の聖マリア・マグダレナ教会にあったと考えられます。背中も丁寧に彫られて正面同様に多彩色が施され、この彫刻は全ての角度から見る事ができました。
-
この像単独では天使達の姿が無い為に官能的な雰囲気が強く、ほとんど宗教性は感じられません。この女性の裸体の構想は中世の伝統によって理想化された宗教的イメージといえます。これはグレゴール・エアハールトの傑作で、ルネッサンスとの端境期の終焉を感じさせます。
-
ただ、ガラスケースに入った裸体の女性像は、シャワーを浴びる姿にも見えてしまい、通路の反対側の司教や司祭たちがその姿を覗いているようです。
-
受胎告知の大天使ガブリエルの木彫です。フラ・アンジェリコのフレスコ画から抜け出てきたような美しい姿です。
-
「抵抗する奴隷」ミケランジェロ・ブオナローティ
1505年から手掛けられた教皇ユリウス2世の墓のために制作されましたが、ミケランジェロが実際に制作を開始したのは第2案の1513年のことでした。教皇が亡くなり計画は経済的理由により新たに変更となります。この「奴隷」像はミケランジェロが贈ったロベルト・ストロッツィを通してフランスに入りました。像は技術的な理由で未完成なのか、大理石の筋が顔にあるということや足が乗る台の厚みが薄過ぎるということが作品を断念した理由と考えられます。 -
鎖に繋がれた2体の捕虜像が表わす感情は相反し、1体は非常に若く美しく眠りに身を任せているように見えます。それはおそらく永遠の眠りかもしれません。この像は「瀕死の奴隷」と名付けられました。もう1体は身を捩り震えた体で抵抗する「抵抗する奴隷」と呼ばれています。この2体は教皇ユリウス2世が夢見た自分自身の豪奢な霊廟の為にミケランジェロに依頼されましたが、この霊廟は40年間の間数々の計画と共に移り変わりました。
-
この奴隷像は第2案が考案された1513年に手掛けられますが、結局第4案でこれらは断念され、教皇の死後に経済的な理由で霊廟は縮小されます。ローマのサン・ピエトロ寺院に独立した霊廟を夢見たユリウス2世はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の中の壁面墓に安置されることになりました。この廟墓は奴隷像と同時期に制作されたミケランジェロの有名な「モーセ」像で飾られました。
-
ミケランジェロはこの作品をフィレンツエ出身の亡命者ロベルト・ストロッツィに贈り、その後にフランス王に献上されました。奴隷像がフランスに着いたのはミケランジェロがまだ健在だった頃で、この作品はアンヌ・ド・モンモランシー元帥によって建てられたエクーアン城の2つの壁龕の中に置かれ、その後ポワトゥー地方のリシュリュー枢機卿の城へ移されます。2体の奴隷像は廟墓の上の似たような像の横に置かれるはずのもので、その内の4体の大理石像がフィレンツエの「アカデミア美術館」に収蔵されています。
-
「メルクリウス(ヘルメス)」
メルクリウスはローマ神話の神の1人であり、商人や旅人の守護神でもあります。英語読みでマーキュリーとも表記され、ギリシャ神話ではヘルメスとも呼ばれます。ゼフィロスのような顔の上に片足立ちで、右手を挙げて指は天を指し、下げた左手は「ケリュケイオンの杖」を握っています。つば広の丸い旅行帽「ペタソス」を頭に被り、空を飛ぶことができる翼の生えた黄金のサンダル「タラリア」を足に履いた姿で表されています。 -
403号室にはミケランジェロやカノーヴァなどの著名な大理石像の他にも数多くの作品が並んでいます。若い男女の像の視線と指先が気になり目が留まりました。
-
掌の上には抓まれた蝶々が1頭置かれようとしていました。
-
「アモール(クピド)とプシケー」アントニオ・カノーヴァ
この部屋ではミケランジェロと共に好きな作品ですが、誰もいない静かな場所で見るのは贅沢な時間でした。翼を持った青年が気を失った乙女が横たわっている岩の上に今降り立ったところです。これはラテン語でクピドとも呼ばれる愛の神アモールです。翼や矢筒をもっているのことから識別できます。乙女の名はプシュケでアモールの母である美の女神ヴィーナスはプシュケに冥界から瓶を持ち帰らせますがその瓶を決して開けないようにと厳しく戒めます。 -
しかし好奇心旺盛なプシュケは瓶を開けてしまい、瓶から立ち昇る耐え難い臭いを吸って仮死状態に陥ってしまいます。気絶したまま横たわるプシュケを見たアモールはプシュケの元に駆けつけ、矢の先でそっと触れて、まだ生きているのを確かめ ます。カノーヴァが捉えたのはまさにこの瞬間で、アモールは愛するプシュケを優しく抱き上げ、彼女の顔に自分の顔を近づけます。プシュケは身をゆっくりと後にそらし、けだるい動作でアモールの首に手を回します。
-
カノーヴァは古代ローマの作家であるアプレイウスの「変容」に書かれた伝説をもとにこの像を造りました。そこには神々が話し合いの結果、アモールとプシュケの結婚に合意し、プシュケに「魂の女神」という地位と永遠の命を与えたと書かれています。
-
特に有名な作品ではありませんが、この時代の墓碑は心に残ります。古代ギリシャ・ローマの地を旅しているとこのような家族愛を感じさせる墓碑や棺を美術家や博物館で見る事があります。現代では失われてしまった深い想いがあったのではないかと感じる事があります。
-
窓から見えたルーブル宮の中庭にはもう人影もありません。
-
館内の観光客もだいぶ減ったようで、あまり人気の無いこの辺りでは、時たま誰もいなくて少々怖い感じがします。ドノン翼のマニエージュの殿堂の彫刻にも習作が数多いのですが、全体を見ようと思うと時間が足りなくなりそうです。
-
鹿を足元にたずさえ、波を切る船の帆先に立つ女神はヴィーナスでしょうか。ペプロスト呼ばれるギリシャ女性の着る長衣の波打つドレープが美しいです。
-
キケロは古代共同浴場で使われていたエチオピア人奴隷が、ローマで大変人気があったことを説明しています。古代共同浴場を飾った石敷のモザイクの中には、ポンペイのメナンドロスの家やティムガードのように、浴場で働くこれら奴隷の風刺画が多数含まれていました。
-
大きな部屋を抜けると「サモトラケのニケ」が階段の先に見えます。ダリュの階段踊り場のこれだけの空間に彫刻が1つですから贅沢な美術館です。
-
階段の踊り場に立つその姿は、初めて見た時とは違いますが、何度見ても感動を覚えます。サモトラケ島で見つかった時は砕かれた破片だったそうです。右側の翼も左翼を参考に造られたものです。
-
船をかたどった台座の高さは約5メートルで、大理石で造られた女神は翼も入れると約3メートルあるので、これくらいの巨大な空間でないとその迫力を感じることはできないと思います。
-
サモトラケ島はエーゲ海と言ってもかなり北のテッサロニキに近いギリシャとトルコの国境の島です。トルコ周遊の旅でダーダネス海峡をゲリポルへ渡った時に、この先にサマトラケ島があるのだなと思いました。
-
サモトラケのニケの右手に進むと壁面にフレスコ画が埋められています。一目でボッティチェッリと分かる優雅な女性像が並びます。1枚目は「若い婦人に贈り物を捧げるヴィーナスと三美神」で、左手からヴィーナスと3人の女神が花嫁の差し出す布の中に贈り物を入れようとしています。
-
このフレスコ画はメディチ家の縁戚に当たるトルナブオーニ家の所有するフィレンツェ近郊の大邸宅ヴィッラ・レンミにあったものです。このフィレンツェの有力な名家の一員が結婚した際にボッティチェッリはこの装飾画の注文を受けたと考えられており、若い婦人はナンナ・ディ・ニッコロ・トルナブオーニであると思われる。
-
華やかな女神たちの表情はボッティチェッリの真骨頂です。フィレンツェの「ウフィツィ美術館」でヴィーナスの誕生を見た何年か後にキプロス島のペトラ・トゥ・ロミウという海岸に行った事があります。ヴィーナスが生まれた伝説のある海岸ですが、あまりの美しさにここの海の泡からならヴィーナスも生まれるなと感心したことがあります。
-
「学芸たちの集いに導かれる青年」サンドロ・ボッティチェッリ
7学芸(音楽・天文・幾何学・数学・修辞学・文法・弁証法)を現します。7人の若い女性に擬人化された学問が若者を取り囲んでいる様子です。 -
こんな美しい学問の女神に囲まれていたらもっと学業を成就したであろうと考えてしまいます。
-
傷みの多い作品でしたがボッティチェッリをパリで見られるとは思いませんでした。。有名なボッティチェッリですが、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画も描いていますが、誰もがミケランジェロの天井画を見上げ、最後の審判を観るばかりで彼の作品には目もくれません。
-
「カルヴァリ山(キリストの磔刑)」フラ・アンジェリコ
フラ・アンジェリコは修道士アンジェリコという通称で、本名はグイド・ディ・ピエトロです。このフレスコ画は、もとはフィレンツェに近いサン・ドメニコ・ディ・フィエゾーレの修道院にあったものを壁から剥がして「ルーヴル美術館」に売却されたものです。 -
フィレンツェには何度か行っていますが、1度目はフラ・アンジェリコについてあまり知識が無かったのと時間の都合でサン・マルコ修道院に行くことが出来ませんでした。2度目の訪問でようやく行くことが出来た時の事を思い出しました。彼の描くフレスコの美しさに魅了され僧坊をひとつひとつ回りましたが、一緒に行った友人を1時間ほど1人で中央市場で待たせてしまい酷く怒られたことがありました。
-
ただ、1時間遅れて怒られることが想像できてもフラ・アンジェリコの描く聖母マリアの美しさに目を奪われて修道院から離れる事が出来ませんでした。
-
「聖母戴冠」フラ・アンジェリコ
おそらくはガッディ家の発意によりフィレンツェ付近のフィエーゾレにあるサン・ドメニコ修道院の中央祭壇のひとつのために制作された祭壇画であり、後にフラ・アンジェリコはこの修道院の院長となっています。人物像に見られる彫塑的な堅固さと遠近法のきわめて入念な研究が、若きフラ・アンジェリコに及ぼしたマザッチオの影響力を感じさせます。聖書外典に基づく「聖母戴冠」の主題は13世紀にヤコブス・デ・ウォラギネの黄金伝説によって広く普及し、時間的な順序としては「聖母被昇天」に続くものであり、天上で聖母がキリストによって迎えられ、立ち並ぶ多くの福者たちの上に就けられる。フラ・アンジェリコは、キリストがいる玉座へと導く様々な色の大理石でできた9つの階段を描いています。キリストの1つ手前の段の上で跪き、聖母は栄光に満ちた自らの息子の手から冠を受けています。 -
「聖痕を受ける聖フランチェスコ」ジョット・ディ・ボンドーネ
この祭壇画はアッシジの聖フランチェスコが晩年に50日間の断食後に体験して、脱魂時に有翼のセラフィムを通じて主イエスと同じ聖痕を受けたとされる逸話の場面です。セラフィムとは天使の9階級のうち最上とされ、6枚の翼を持ち2枚で頭2枚で体を隠し残り2枚の翼で羽ばたきます。エホバ神への愛と情熱で体が燃えているため、熾天使といわれます。 -
ヴァザーリによるとピサのサン・フランチェスコ聖堂にあったという記述があるこの祭壇画は、おそらく翼廊の礼拝堂からもたらされた作品と思われます。署名があるにも関わらず過去に頻繁に異論が唱えられましたが、この作品をジォットの真作とする説は今日ほとんどの専門家によって認められています。アッシジの聖フランチェスコの生涯を描いた4つの場面は、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の上階教会堂の内陣に描かれた聖者の生涯のフレスコ画に似ています。
-
「聖母子と幼い洗礼者ヨハネ」サンドロ・ボッティチェッリ
洗礼者ヨハネとイエスは通常同じくらいの子供の姿で描かれますが、ここでは少年の姿で描かれています。ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアは親戚だったので、従弟くらいの関係であったと言われます。また「マタイによる福音書」3章によれば、ヨハネは「らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物とする人物」と記されています。 -
「若い男の肖像」サンドロ・ボッティチェッリ
-
「若い男の肖像」サンドロ・ボッティチェッリ
シンプルな黄土色の背景に暗いシルエットと若い男性の髪がはっきりとしたシルエットで際立っています。肌色は背景よりほんの少し明るくなっています。1888年にルーヴル美術館のコレクションに入っています。 -
「エリザベト訪問」ドメニコ・ギルランダイオ
この作品はロレンツォ・トルナブオーニにより教会に納めるために製作を依頼された作品で、後にサンタマリア・マッダレーナ・デ・パッツィ教会として知られます。画題は聖母マリアと洗礼者ヨハネの母のエリザベトの面会を指します。ギルランダイオは聖母マリアとの再会の様子と共に背景には古典主義のアーチと、中心には特徴的な風景を描いています。エリザベトは聖母マリアに敬意を表し跪いています。 -
「ルーブル美術館」最大のグランド・ギャラリーは全長450メートルにも及ぶ大回廊で、ここだけで236点の絵画が展示されているそうです。館内では一番混む場所でもあるので、とてもではありませんが全部の作品をゆっくり観ることはできません。
-
「バッカス」レオナルド・ダ・ビンチ
この作品は以前は「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、レオナルド・ダ・ビンチによって描かれたものですが、おそらく工房の無名の弟子によって完成されたと推定されています。可能性のある画家はチェーザレ・ダ・セスト、マルコ・ドッジョーノ、フランチェスコ・メルツィ、チェーザレ・ボルジアといわれています。 -
1人の男性が花冠や豹皮を身に付け、田園を背景に座っている様子が描かれている。絵の中の男性は右手で左を差し、左手で杖を抱えながら大地を指差しています。17世紀後半に「洗礼者ヨハネ」が上塗りされ「バッカス」と呼ばれるようになったといわれます。
-
「洗礼者聖ヨハネ」レオナルド・ダ・ビンチ
ダ・ヴィンチはフランソワ1世の招きによりローマを出てフランスでこの作品を描きましたが、この作品と「モナリザ」と「聖アンナと聖母子」の3作品は生涯手元に持ち続けたそうです。レオナルド・ダ・ヴィンチ最晩年の傑作で、天を指さし微笑をたたえるヨハネは、両性具有的な神秘性を湛えています。 -
そして1番混雑しているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ(ラ・ジョコンダ)」です。ルーブル美術館の大ギャラリーから「モナリザ」が消えたのは1911年8月21日のことで、この旅は2011年の11月なのでちょうど100周年の年でした。夜明けと共に当時30歳だった塗装職人ペルージャは月曜で休館日だったルーブルに忍び込みます。ペルージャは1年前に「モナリザ」を保護するガラスケースの設置作業に加わっており、絵画の外し方も心得ていました。そして絵を額から外して「モナリザ」を作業着のスモックの下に隠してルーブルを後にします。
-
警察が複数犯による犯行だと確信し、国際犯罪組織を探るなど見当違いの捜査をしていた中で疑いを掛けられたのは、シュールレアリズムの詩人ギヨーム・アポリネールでした。アポリネールは1907年にルーブルからローマ時代の彫像を盗んだベルギー人と交流があったために、モナリザ窃盗の容疑者として逮捕されますが、8日後には釈放されています。
-
真犯人のペルージャは2年もの間「モナリザ」をパリ市内の自宅アパートに隠し持っていましたが、イタリアの画商たちに宛てて「わが国の誇りの象徴」を持っているという触れ込みで手紙を書き送ります。画商が鑑定したいのでフィレンツェのホテルに絵を持ってくるようにとペルージャを招き、1913年12月に「モナリザ」は本物であることが確認され「ルーブル美術館」に戻されました。
-
ドゥノン翼の角の部屋は天井が高いので表から見える塔の部分だと気が付きました。
-
窓の外には中庭を挟んで反対側のリシュリュー翼の塔の部分が見えます。気が付くとだいぶ日が暮れてきているようですが、館内にいると全く気が付きませんでした。
-
天井の装飾も見事ですが、鳥除けなのかネットが張られていて細かいところまで見る事が出来ません。4隅の黄金の鷲を見るとナポレオン3世の時代の新古典様式のようにも見えます。
-
フロアを一周してくると先ほどの「ダリュの階段」を上のフロアから見ることが出来ます。この辺りは全く装飾の無いシンプルな造りになっているのが不思議です。ただ、この場所でなければ「サマトラケのニケ」の迫力には勝てない気がします。
-
1863年トルコのハドリアノポリスのフランス副領事であったシャルル・シャンポワゾは、エーゲ海北東に位置するサモトラケ島でこの特別な彫刻を発掘しました。勝利の女神(ギリシア語で二ケ)は衣装をはためかす風の攻撃に耐える船の船首に立つ羽を生やした女性の姿で表されています。この巨大な彫刻は丘に削られた岩の上に設けられた偉大なる神々の神殿の劇場に張り出していた建築物でした。彫像の配置は左斜め4分の3の位置から観察することを考えられ、体の右側が簡潔に仕上げられています。劇的な演出は女神の巨大な広げた翼の幅や前に傾いた体の勢いを加えながらその姿の現実性を強調することによります。
-
サモトラケの神殿は難破から船乗りたちを守ることや戦士たちに勝利を捧げることを祈願するため、豊饒の巨人カベイロイの神々に捧げられていました。船の上に置かれたニケの奉納品はこれらの神々のための宗教的な行為のためです。以前はこの彫刻はロードス島民により捧げられた特別な海戦の勝利を記念するための建造物と思われていました。
-
事実この作品の船の型と船首と彫像の基盤に使用された灰色の大理石の産地はロードス島でした。この作品をロードス島の大勝利に関係付けるなら、これは紀元前2世紀の制作と推定する事が出来ます。これはミオンニソスの海戦かシリアのアンティオコス3世の船団に対する紀元前190年頃のシデの海戦の勝利の際に建造したとも思われます。
-
「サモトラケのニケ」はヘレニズム時代の彫刻の代表的な作品といえます。彫像は両脚の間の衣服のはためきにより強調された左脚の後退と翼により感じさせられる斜めの動きにより、体をよじった動きのなかで立っています。女性の裸体は布の下で露出し紀元前5世紀末のクラシック時代の作品のように濡れた襞の透明性により浮き上がっています。胸の下にある紐の着用は紀元前6世紀より存在する着こなしを示唆しています。彫刻家は体の襞の刻みや風による膨らみなどによるチュニカという衣装の加工に特別な妙技が見える装飾効果を表現しています。この装飾の豊かさそしてボリュームの感覚や動きの激しさは紀元前180年から160年頃のペルガモン派の特徴と言えます。
-
「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」ジャック・ルイ・ダヴィッド
「ヴェルサイユ宮殿」の宮殿内にあった作品のオリジナルです。と言ってもヴェルサイユの作品もダヴィッド自身の模写なのでどちらもオリジナルだと思います。 -
1804年パリのノートルダム大聖堂にて行われたナポレオン・ボナパルトの「戴冠式」の様子を描いた歴史画です。ただこの絵では冠を授けているのがナポレオンで、授けられているのは妻ジョセフィーヌです。「戴冠式」とは新たに即位する皇帝が「あなたを皇帝として認めます」と冠を授かる儀式ですから、ローマ教皇からナポレオンに冠が授けられる場面になるはずです。
-
通常であればナポレオン自身がヴァチカンまで出向き、法王より戴冠してもらうのが筋ですが、ヴァチカンから法王を呼び出して、自分が戴冠した後に法王にお尻を向けて妻に王冠を与えている姿です。ナポレオンのプロパガンダ広告のような内容で、出席を拒否した母親まで描かれています。
-
ナポレオンはローマ教皇ピウス7世に背を向け、皇后となる妻ジョセフィーヌに冠を授けようとしています。背後に描かれているピウス7世は人指し指と中指をかざしています。このポーズは「受胎告知」で聖母マリアの受胎を祝福する大天使ガブリエルと同じポーズで、教皇が皇帝ナポレオンと皇后ジョセフィーヌを祝福していることを示しています。
-
妻も若く美しく描かせている気持ちは分からないでもありませんが、ナポレオンの姿も若く美しいローマ皇帝のように描かれています。ジョセフィーヌは他の肖像画を見てもこのような美しさは無く、「皇帝の妃は若々しくなくてはならない」というナポレオン自身の指示によると言われ、モデルは画家ダビィッドの娘と言われています。
-
「レカミエ夫人」ジャック・ルイ・ダヴィッド
パリの銀行家夫人であるジュリエット・レカミエは、当時最も知られた婦人の1人で、ポンペイ様式の家具に囲まれて古代風の衣裳に身を包んだ夫人を、飾り気のない背景の中に描いたこの肖像画は1800年において前衛的な作品だったようです。未完成の状態であることから、震えるようなタッチと背景の「ぼかし」に半透明色で「上塗り」が施される前の、ダヴィッドの技法を調べることができるそうです。 -
寝台の上に優雅に横たわったレカミエ夫人が、絵の前の観者の方を振り向いています。腕と足が露になった古代風の白いドレスを身に纏っており、ソファー以外には足台と古代から想を得た大燭台しかない室内に描かれています。人物像全体はかなり遠くから捉えられており、彼女の顔は僅かな位置を占めているだけです。この作品は1人の人物を描写しているというよりはむしろ、女性における理想的な気品を描き出したのかもしれません。レカミエ夫人は当時23歳でしたが、その美貌と彼女の主催するサロンゆえに既に最も賞賛されていた女性の1人であり、革命後の新しいエリート階級の社会的地位の向上を象徴する人物でした。
-
「グランド・オダリスク」ドミニク・アングル
長椅子に横たわった女性が、裸体で後を振り向いているこの絵はアングルの代表作です。「ハーレムの女」を意味するオダリスクという題名やオリエント風の装身具が東方趣味を醸し出しています。 -
アングルは当時の憧憬であるオリエントの世界に、ルネサンスにまで遡る長い伝統を持つ神話世界の裸婦のテーマを移し換えている。アングルの最も有名な裸体画を注文したのは、ナポレオン1世の妹で、ナポリ王妃のカロリーヌ・ミュラでした。アングルはここで解剖的事実を無視して引き伸ばされ、曲がりくねった描線で裸体を描いていますが、布地の質感といった細部はきわめて緻密に描写されています。この作品は1819年のサロンに出品されますが激しい非難を浴びたそうです。
-
サロンでの不評を買った原因はこのぬめりとした軟骨動物か爬虫類のような裸婦の肢体にあり、長く引きのばされたその背中は、「椎骨が3つ多い」「左腕と右腕の長さが違う」などと多くの揶揄がなされたそうです。
-
この作品の中でアングルはデッサンに重点を置いて、美と官能性を作り出すために、女性の背中に見られる引き伸ばされて曲がりくねった線を好んで用いました。それらは彼の好んだマニエリスム絵画や、おそらくペルシアの細密画から影響を受けたのだろうと考えられます。
-
「エイローの戦場におけるナポレオン、1807年2月9日」アントワーヌ・ジャン・グロ
この絵には凄惨な戦いの末ロシアとプロイセンに勝利した翌日に東プロイセンのエイローの戦場を訪れた皇帝ナポレオン1世が描かれています。医師と元帥に囲まれて、明るい毛並みの馬に跨った皇帝は、哀れみに満ちた視線を投げかけ、負傷者を称えるかのように腕を差し伸べています。 -
「メデューズ号の筏」テオドール・ジェリコー
ジェリコーは、1816年にセネガルを植民地化するために出港した王立海軍の軍艦メデューズ号の2人の生存者の話から想を得ています。メデューズ号の指揮はアンシャン・レジーム期の将校に委ねられたが、彼は20年以上も航海をしておらず、砂州への座礁を避けることができませんでした。救命艇の数の不足からそれに乗ることができなかった者150人のために筏を造り、13日に渡る血生臭い波乱に富んだ航海へと押し流されますが最終的な生存者は10名に過ぎませんでした。 -
難破という苦境には、暴力による争いと嫌悪すべき人喰いが追い討ちをかけますが、ジェリコーは遭難者の救出に先立つ裏切られた希望を描いています。遭難者の救出に向かった船が水平線に姿を現わしているのだが、彼らを発見することなく遠ざかろうとしています。構図は右側上部への動きの中で希望に向かっているようで、その動きは筏の船首にいる黒人の男性のところで頂点に達しています。ジェリコーは、見捨てられた人間の存在を総括した光景を描いているようです。
-
「キオス島の虐殺」ウジェーヌ・ドラクロワ
1822年より数ヶ月間当時オスマン帝国統治下のギリシャのキオス島にて、独立派らを鎮圧するためトルコ軍兵士が一般住民を含めて虐殺した事件の一場面を描いています。1820年末よりギリシャ独立のための武装蜂起が始まり、翌年ギリシャ独立戦争として一連の戦闘が開始されますが、トルコ側による鎮圧も過酷なものであした。 -
トルコ人兵士が騎乗より全裸のギリシャ女性を陵辱し、死んだ母親に寄り添う幼児、それを呆然と見守るギリシャ人の人たちが、ひとつのキャンバスに描かれています。報道写真もなく活字による報道だけであった1820年代で、絵画によるイメージという手法により、ギリシャ独立について、ヨーロッパ市民の目を注ぐことになりました。
-
その後1923年に行われたギリシャとトルコの住民交換は、住民の信仰に基づき、トルコ領内のギリシャ正教徒とギリシャ領内のイスラム教徒を交換したものです。トルコ領内に居住する正教徒は「ギリシャ人」と看做されてギリシャへ追放され、ギリシャ領内に居住するイスラム教徒は「トルコ人」と看做されてトルコ領内に追放され、これによって現代のギリシャとトルコが概ね「一国家一民族」の国民国家となります。
-
「アルプス越えのナポレオン」ポール・ドラローシュ
1851年アルプスを越えるナポレオンの姿です。実際は毛布を被って馬ではなくて驢馬に乗っていたと聞いたことがあります。あまりかっこ悪い姿は描けなかったようですが、右手は銃を使う時のために温めているそうです。 -
「民衆を率いる自由の女神-1830年7月28日」ウジェーヌ・ドラクロワ
第2王政復古の政府による憲法違反に反対した自由主義的な共和主義者が、1830年7月27日から29日の、すなわち「栄光の3日間」と呼ばれる期間にパリで引き起こした人民の蜂起は、フランス・ブルボン朝の最後の王シャルル10世を失脚させ、その代わりにオルレアン公ルイ・フィリップを王位に即けることになります。この歴史的な出来事の証人であるドラクロワは、ギリシャ独立戦争を描いた時と同様のロマン主義的情熱をもって絵画化しています。 -
初めてパリに来た1988年に何故か「ルーブル美術館」と「オルーセー美術館」と「ドラクロワ美術館」を訪ねました。サンジェルマン・デ・プレ教会の裏側の、表示も何も無い住宅街に住居兼アトリエがありました。訪問者は誰もいなく1時間ばかり1人で過ごしたことを思い出しました。アトリエにはこの絵のコピーが飾ってあり、その時の雰囲気が忘れられずに、今回「ギュスターヴ・モロー美術館」へ行くきっかけになりました。
-
次から次へと巨大な部屋が続き、2段3段に飾られた絵画の上段を見る余裕もありません。小学生の子供を連れたお父さんが息子にいろいろ説明していますが、子供の興味を惹くような題材も無く表情は虚ろです。でもその姿がうらやましく思えました。
-
「聖母戴冠」ティントレット
巨大な作品の中央部分です。この作品はティントレットがヴェネツィアの統領官邸の大評議会広間の装飾画コンクールのために制作した最初の図案です。天国を表現するのにティントレットは雲の中で半円形に展開する重なり合った複数の層の上に、聖母に冠を戴くキリストとそれを序列順に取り囲む12人の使徒、天使、教父、キリスト教の英雄たち、教皇、司教らを描いています。大原美術館のレオン・フレデリックの「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」という作品を思い出しました。 -
-
「青い冠の聖母」ラファエロ・サンティ
ラファエロとその弟子ジャンフランチェスコ・ペンニの合作による作品です。板に油彩で描かれた板絵で、眠る幼児キリストの頭上にマリアが右手でヴェールをかかげている。ルネサンス期の絵画作品においてマリアのヴェールは、生誕後間もないキリストをマリア自身がかぶっていたヴェールでくるんだという伝承をあらわし、さらには将来のキリストの磔刑の予兆を意味する象徴としています。キリストの顔はこちらを向き、赤いアンダードレスの上に腰でとめたチュニックをまとうマリアの左手は幼児洗礼者ヨハネの肩を抱いています。正面を向いているキリストとは対照的にマリアとヨハネは横顔で描かれています。 -
「聖家族」ラファエロ・サンティ
ラファエロは朝の静謐さの中に聖母マリアと幼いイエス・キリスト、幼い洗礼者ヨハネと聖エリザベト(マリアの母聖アンナとも言われる)の2人を加えた聖家族を描いています。ラファエロはよく似た聖家族を描いていますが、筆致やマリアの顔はあまり好みではありません。 -
「ナポリ総督夫人」ラファエロ・サンティ
ラファエロと弟子のジュリオ・ロマーノ作品です。ジュリオ・ロマーノはローマに生まれ、ラファエロ門下で画家として修行を積み、ラファエロと共にバチカンの壁画を描いています。ラファエロが急逝した後に壁画を完成させて名声を上げたと言われ、この作品もラファエロの死後ジュリオ・ロマーノが完成させたものです。 -
「美しき女庭師(聖母子と幼児聖ヨハネ)」ラファエロ・サンティ
フィレンツェ滞在時に手がけられ、青く澄み渡った空と牧歌的な風景の中、地に腰を下ろす聖母マリアと幼児キリストと幼い洗礼者聖ヨハネはラファエロの代名詞のような聖母子の姿です。 -
元々の注文主が誰であるかだけでなく王立コレクションに「美しき女庭師」が収蔵された経緯についても不明のままだそうです。ウィーンの「ベルヴェデーレの聖母」とフィレンツェの「鶸(ひわ)の聖母」の制作の後、ラファエッロのフィレンツェ滞在の終わりに当たる年に制作されています。
-
聖母と幼子イエスが幼い洗礼者聖ヨハネに伴われてゆったりした風景の中に描かれていて、前景は聖母の人間性の象徴であるスミレやキリストの受難の象徴であるオダマキの花を含む花々が散りばめられています。当初は「農民の聖母」として王室コレクションの記録に記されていたこの絵画は、1720年頃に、芸術愛好家のピエール・ジャン・マリエットに「女庭師」という名が付けられ、その直後に複数の版画作品の銘の中で「美しき女庭師」と書かれるようになります。
-
「四季」ジュゼッペ・アルチンボルド
この年の春の中欧旅行ではウィーンの美術史美術館で見ることが出来なかったのですが、11振りにルーブル美術館で再会できました。植物や生き物などを組み合わせて描く「寄せ絵」で有名な画家です。 -
「四季」が4枚の人の横顔として描かれています。この「春」は芽吹く花を始め植物から構成されて、マクシミリアン2世がザクセン侯アウグストに進呈するためにアルチンボルトに依頼したそうで、ここルーブルの「四季」が4枚全てが揃う最も古いバージョンです。
-
「夏」の横顔にはサクランボ・茄子・キュウリ・かぼちゃ・梨・ニンニク・タマネギなどの現代の日本でも馴染みの深い野菜や果物で構成されています。麦の襟飾りと麦藁の上着も印象的です。
-
「女占い師」ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
カラヴァッジオはとっても好きな作家なのですが、対策の多くは教会に納められている場合が多く、実際にその地へ行かなければならないのが難点です。バロック時代のローマをテーマに1週間ほどかけてカラヴァッジオとベルニーニを求めて歩き回ったことがあります。 -
その後もナポリやシチリアのメッシーナやマルタ島まで作品を求めて旅したことがあります。そんなカラヴァッジオ巡りの原点ともなったのが、この「ルーブル美術館」でした。
-
「いかさま師」と対になるような作品と思えます。どちらもうぶで純情な青年がだまされる場面であり、作品の大きさもほぼ同じです。今回の旅でもモンマルトルの丘ではアンケートを装うジプシーの女の子や指輪を拾ったと話しかけてくるおばさんとか、こうして騙す人や騙される人はいつの世も形は変わるが無くならないという人間の普遍性を感じます。
-
こうした人間の欲やそれにつけ込む心理を描こうとするカラヴァジョの野心的発想は斬新だったのではないでしょうか。この作品では女占い師が若い男の手のひらをなぞり、視線で相手の気を引きながら指輪を抜き取ろうとしている場面です。伊達男のように気取っていても人生経験の少ないうぶな若者は既にうっとりと女性に見惚れています。この作品もラ・トゥールの「女占い師」によって継承されています。
-
「小姓を連れアフロ・ド・ヴィニャクール」ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
アフロ・ド・ヴィニャクールはマルタ騎士団の団長です。この絵を見ているとナポリ近くのサレルノからフェリーに乗ってチュニス経由でマルタ島に行った暑い夏のことを思い出します。 -
画家としての名声を得てからも不品行で激動の生涯を送ったカラヴァッジョは、殺人事件の後ローマを逃げ出してナポリへ発ち、その後さらにマルタ島へと移ります。マルタ騎士団の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とするため騎士団に迎え入れます。
-
マルタ島には2回旅に行きましたが、1回目の飛行機で着陸する際にヴァレッタの旧市街を見てから、いつかは船でグランド・ハーバーに入りたいと思っていました。その願いはチュニスからヴァレッタ、ヴァレッタからシチリアのポッツアーロ往復とされるのへ戻る際の4回体験することが出来ました。
-
兜を持つ小姓の左胸のメダルがマルタ十字で、この作品の登場人物がマルタ騎士団にかかわることを示唆しています。マルタ十字はキリスト教の騎士修道会である聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団とも)の象徴とされます。元来は11世紀のイタリアの小共和国であるアマルフィの象徴でした。マルタ十字は4つのV形をした紋章がその底部で結合した形をして突き出た8つの角を持っています。この意匠は第1回十字軍の頃からある十字のシンボルに基づいています。
-
ここまでがグランド・ギャラリーのイタリア絵画が展示してある部分です。ここまでですでに1時間30分ほどかかっています。5時間ではどこまで見る事が出来るか、頭の中で計算しなければならなくなってきました。
-
グランド・ギャラリーの残りだけでもまだこれだけあるので気が遠くなってきます。
-
「果物を手に取る女性」アブラハム・ブリューゲル
フランドルのバロック絵画の画家で1631年にアントワープで有名なブリューゲル画家一族の「花のブリューゲル」ヤン・ブリューゲル(父)の孫、ヤン・ブリューゲル (子)の息子として生まれています。10代後半からイタリアに移り住み、この頃から装飾的なバロック様式の花を描いた静物画を数多く描いています。 -
「フランス王聖ルイと小姓」 エル・グレコ
聖王ルイ(ルイ9世)は内政に力を入れ、長期の平和を保ったためフランス王国は繁栄しました。国内外の争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されていましたが、2回の十字軍遠征で莫大な費用を費やした上に自身も捕虜となるなど散々な失敗をしています。 -
金銀の象嵌が施された豪華な鎧は十字軍に遠征した時の姿と想像できます。2回目の遠征先のチュニジアで亡くなっています。エル・グレコの作品という事とマルタが舞台であり、サント・シャペルを見てきたばかりなので心に残る作品となりました。
-
王冠を被り右手には裁きの手の付いた笏を持ち、左手には王家の紋章の白百合の笏を持っています。思い出すのはトレドのサント・トメ聖堂「オルガス伯爵の埋葬」で描いたようなカスティーリャ貴族の様相を王に与えています。傍らの子供は画家の息子のホルへ・マヌエルであると思われます。
-
グレコの作品で一番好きなのが衣服の飾りレースの描き方です。1番好きなのはマドリッドの「プラド美術館」の胸に手を置く男性の肖像画です。スペインを旅した数年後にアテネのヴァージンレコードでヴェンゲリスの「エル・グレコ」というCDを見つけた時は驚きました。CDジャケットはその絵だったからです。当時はCDプレーヤーを持って旅していましたので行く先々で聞くことが出来ました。
-
「キリストの磔刑と2人の寄進者」エル・グレコ
イエスは十字架の上で死に瀕しており、その視線は自らの父の方角へと向けられています。彼の姿は死の際に世界に訪れた闇を象徴している雷雨になりそうな空の上に浮かび上がっている。十字架の足元にグレコは2人の同時代人の肖像を配しています。1人は祭服を纏った聖職者で、もう1人はひだ襟のついた薄暗い衣服を着た一般信徒のようで、2人ともキリストを見上げながら祈りを捧げています。この有名な場面をグレコは非常に個性的に捉えている結果、十字架の下部は描かれておらず、同様に十字架の下に通常描かれている聖母や聖ヨハネの姿も見当たりません。 -
キリストの死という歴史的場面がここでは反宗教改革の動きに推奨された信仰画を生み出すきっかけとなり、グレコと彼のアトリエはこの主題を1600年以降に繰り返し描いています。上野の国立西洋美術館蔵の「十字架のキリスト」もその1つです。
-
この絵画はトレドの聖ヒエロニムス修道院の側面礼拝堂のために十字架の足元に描かれている2人の人物のうちの1人からグレコに依頼されたと思われます。エル・グレコはトレドに1577年に訪れ、1614年の彼の死まで留まっています。クレタ島出身の画家はまずヴェネツィアに赴き、そこでティツィアーノのアトリエに通った後にローマに滞在しています。その後マドリッド郊外のエスコリアス宮殿の建築現場に引き寄せられてトレドを訪れますが、スペイン王フェリペ2世の不興を招いてしまい、アンダルシア地方のトレドの街の顧客のために制作活動を行いました。
-
スペインには1997年に1か月ほど旅をしていましたが、その当時はエル・グレコの絵画に対して強い思い入れも無く、旅の最後に行ったトレドで「オルガス伯の埋葬」を見て感銘を受けました。そこまでのスペインの旅の途中でも数々のグレコを見ていても詳しく見てこなかったことを後悔しました。もう一度見直すまでに20年ほどの月日が必要になりました。そしてこの年の春に行ったブダペストでは数多くのグレコ作品を見る事が出来ました。
-
「羊飼いの礼拝」ホセ・デ・リベーラ
聖母マリアの青いベールが印象的な作品で、久し振りに見るスペイン絵画です。最初にスペインを旅した時はほとんど知識も興味もなく旅していましたが、行く先々で出会うリベラやムリーリョの作品には衝撃を受けました。特に遅い夏の強く暑い日差しの中を歩いて訪れたセビリア美術館で出会ったという印象も強く残っています。 -
2000年の妻との旅でこの作品を見て以来、リベーラをもう一度見に行きたいと思うようになりました。その思いは2018年に叶えることが出来ました。ほとんど同じ作品がナポリ近郊のカステッランマーレ・ディ・スタビアのサンティッシマ・マリア・アスンタ大聖堂にも納められています。これはリベーラがスペインの画家ででありながら若くしてイタリアに渡り、生涯の大半をナポリで過ごして母国に帰ることはなかったからです。当時のナポリはスペイン副王の支配下にあり、スペインの飛地領土でした。
-
「エビ足の少年」ホセ・デ・リベーラ
ナポリで描かれた物乞いの少年ですが、屈託のない笑顔に暗さは見えません。多分背も低いのでしょうが、空を広く取った構図からは巨人のようにも見えます。手に持った紙にはラテン語で「神の愛の為に私に施しを」と書かれ、当時の物乞いが持っていた許可証の様なものだそうです。 -
「第3代メングラナ男爵ルイス・マリア・デ・シストゥエ・イ・マルティネスの肖像」フランシスコ・ゴヤ
ルイス・マリア・デ・シストゥエの肖像はモデルの衣装の深みのある青色のために「青い服の子供」とも呼ばれ、ゴヤによる子供の肖像画の最も美しい作例の1つに数えられます。銘によればモデルは当時2歳8ヵ月であり、そのことからこの作品が1791年に描かれたことがわかります。スペイン国王カルロス4世と王妃マリア・ルイサを名付け親に持ち、のちにスペイン独立戦争の英雄として知られるようになります。 -
「乞食の少年」バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
作品を模写をしている人がいたので正面から撮れませんでした。この作品は蚤を取っている最中の少年が描かれていることから「蚤をとる少年」と呼ばれています。ムリーリョが道端の子供を描いた最初の作品で、おそらく画家は黄金時代におけるセビリアの街を支配していた「貧窮」に感化されたものと思われます。カラヴァッジオの影響を受けてムリーリョは汚れた部分の描写を強調し、影と光の力強い対比を用いて描いています。 -
スペイン絵画を見た後に戻りがてらに見落としていたカラヴァッジオを妻が気づいて教えてくれました。「聖母の死」はサンタ・マリア・デッラ・スカラ・イン・トラステヴェレ教会の発注でしたが、受け取りを拒否されたという作品です。大天使ミカエルから自身の臨終を聖告され、今一度息子イエスの弟子達に会いたいと願い、皆が雲に乗って集まった中に3日後に臨終を迎えた場面です。
-
マリアが赤い衣服を着ただけの姿で寝床に横たわっています。傾いだままの頭にだらりと伸びた左腕、腫れ上がって広げられた脚が聖母の亡骸を生々しく写実的に描写しています。唯一細い光輪が人物の神聖なる特性を表している。聖母の周りに集った使徒たちは識別が非常に困難なのは彼らの顔はほとんど陰の中に消えているか手で覆い隠されているからです。
-
左側の年老いた男はおそらく聖ペテロで、彼の横で跪いているのが聖ヨハネだと思われます。前景で独り離れた所にいる女性はマグダラのマリアであると想像できます。主題の神性を物語るものはここには何も存在しないことから受け取りを拒否されますが、ルーベンスの仲介によって、マントヴァのゴンザーガ家によって購入された来歴が残されています。
-
見学が終わったのかカフェで寛ぐ人がたくさんいました。ここの天井の装飾は白い化粧漆喰が多く軽やかな印象が残りました。
-
美術館のほんの一部しか見学できていないのに2時間は過ぎて、残りの見学時間は3時間弱になりました。
-
これでドゥノン翼のグランド・ギャラリーとその周辺の見学が終わりました。
-
もう一度ニケに戻ったので記念写真を残しておきます。目印になるものまで1度戻って次の行動を起こさないと絶対に迷子になると思います。前に何度か来たことがあるなんて経験は一切役に立ちませんでした。
-
続いてはシェリー翼1階の「アポロンのギャラリー」に向かって館内を足早に移動します。この辺りは展示されている美術品はほとんど無く、建物の内装の美しさに目を奪われます。
-
表もだいぶ暗くなり映画「ナイトミュージアム」の雰囲気になってきました。表から太陽光線が入らない分、天井の絵画が美しく見る事が出来る時間帯かもしれません。見学者のほとんどが我々のように半分迷子になっているのだろうと思うと何となく仲間意識も湧いてきます。
-
アポロンのギャラリーはルイ14世が改装し、シャルル・ルブランが装飾を手掛けました。ルブランは太陽神アポロンを主題にした豪華絢爛な装飾を構想しましたが、宮廷がヴェルサイユ宮殿に移るとしばらくは未完のままの状態となりました。19世紀後半になると、大々的な改修が行われ、最終的にドラクロワなどの一流芸術家たちによって仕上げられました。この時は修復中だったようで豪華な天井画布で覆われていました。
-
「ルイ15世の王冠」
聖別戴冠式の際にフランスの王は自分用の王冠を作らせる習慣があったそうで、ルイ15世のためには2つの王冠が制作されました。1つは釉をかけた金そしてルーヴルに保存されているもう1つの王冠は金箔を貼った銀に宝石で埋め尽くされています。しかしこの王冠は1729年に解体され、本来施されていた宝石は摸造品と取り替えられています。王冠は聖別戴冠式のときにしか使用されず、他の式典用の調度とともにサン・ドニ修道院に納められています。 -
王冠をさらに詳しく見ると白百合の紋を頂く透かしのアーチ型の骨組みをのせた、金属の型にかこまれた繻子の縁なし帽から構成されています。2重の真珠とダイアモンドと交互に置かれた8個の色石(サファイア、ルビー、トパーズ、エメラルド)に囲まれ、アーチ型の骨組みは5個のダイアモンドからなる白百合の紋章が記されています。有名な「レジャン」ダイアモンドは、聖別戴冠式の5年前に購入されて前面の花を飾っています。百合の花の頂点をなす8個の四角いダイアモンドは、一連の18個のマザランダイアモンドの一部でもあります。さらにこの王冠はサンシーダイアモンドにより完成される17個のダイアモンドで造られた銀のアカンサスの葉からなる白百合の花も頂いている。縁なし帽の表面には24個のダイアモンドが縫い付けられています。合計してこの王冠にはダイアモンドが282個(大161個、小121個)、色石が64個(ルビー16個、サファイア16個、エメラルド16個)、そして真珠が237個使われています。
-
ルイ15世の王冠は宝石職人クロード・ロンデによってデザインされ、ルーヴルのギャラリーの工房で働く王のお抱えの若きオーギュスタン・デュフロの指揮の下制作されました。その後間もない1723年にデュフロはロンデのもとで同じ型の王冠を同じ大きさでポルトガルのジョゼフ5世のために制作します。1725年ロンデの工房は王妃のために大きさは小さいがこれに近い構造の冠を納入します。
-
この堂々たるラピスラズリの舟形杯は1673年頃にルイ14世のコレクションとなりました。舟形の杯部分は16世紀イタリアの作品で、金具は1670年頃にパリで制作されました。この金具にはエマイユ(七宝)を用いた金銀細工の工房で「白と緑工房」から「白と薔薇色工房」への変遷が現れている。この舟形杯は宝石細工の面でも金銀細工の面でも目をみはる出来栄えを示しており、この流れを汲む作品が数多く生み出され、また模作が何度も造られています。
-
舟形の杯部分は4片のラピスラズリで構成されています。ラピスラズリは群青色の準貴石で、杯部分がかなり大きいため一方の側面の縁にラピスラズリの大きな三角形の一片を加えて補う必要がありました。この杯は非常に厚く縁は厚さ1センチにも達ます。外側には陰刻で丸ひだ装飾が施され、後部はごく浅い浮彫でアカンサスの葉が彫られています。これに匹敵するものを持っているのはルドルフ2世くらいではなかろうかと思いました。
-
ただこの後にドイツを旅するようになるとミュンヘンのレジデンツやらすごいものを持っている王侯貴族の数の多さも感じ、ロシアへ行けばクレムリンに眠る宝物に気が遠くなりそうでした。
-
フランス革命の混乱で散逸したものも多いのではないかと思いますが、このギャラリーに並ぶ美術品の数の多さと質の高さには驚きました。時間があればもう少しゆっくり見学したいところでした。
-
表はすっかり日が落ちています。中庭ではアフリカ系の人達が飛ばす光る竹トンボみたいなのが飛ばされてくるくる落ちてきます。空の色がラピスラズリの色と重なって見えました。
-
本当は好きな古代ギリシャと古代ローマの展示室ですが、これを見だしたら絶対にもう1日来なければならなくなるので部屋の雰囲気だけで先を急ぎます。銀化したローマングラスも横目で見るだけにします。天井に描かれた有翼の鎌を持った老人はギリシャ神話の死を神格化したタナトスのようです。
-
この部屋はとても良くデザインされているなと思いました。新しい時代の天井画と古代ギリシャ風の壁面装飾がマッチしています。
-
帰国後に調べてみるとアメリカの芸術家サイ・トゥオンブリー氏という方の作品で、描いたさまざまな色の円盤と古代ギリシャの彫刻家の名前が書かれた青い天井は、展示されたギリシャやローマ時代の銅像の上に浮かんでいるように見えます。2010年3月に公開されたそうです。残念ながら作者は2011年7月に亡くなったそうです。
-
「アウグストゥス帝のカメオ」
このカメオは瑪瑙でできたアウグストゥス帝の胸像で、皇帝はパルダメントゥムという軍隊の指導者がまとう緋色のマントを身に着けています。この肖像画はプリマ・ポルタのリウィアのヴィラで発見された彫刻で、紀元前20年頃に制作されたとされます。1785年にルイージ・ヴァラディエールは教皇庁に保管されていたこのカメオを引き立たせるために豪奢な台座を制作する発注を受けました。この置物は古代ローマの美術品を混ぜ合わせた独創的な作品といえます。赤い大理石でできた六角形の台座の周りには、金めっきをしたブロンズの6人の奴隷が座っています。この台座の上には翼を広げエマイユを引いた金の月桂冠を支えている黄金の鷹がいます。その月桂冠のなかにアウグストゥス帝のカメオをはめ込んでいます。 -
1953年時の文化相アンドレ・マルローの発案で、フランス美術館総裁のジョルジュ・サルはジョルジュ・ブラックにルーヴル美術館のエトルリア室の天井画を依頼しました。それを受けてブラックは星空に飛ぶ黒い鳥を描きました。
-
作者が生きているうちにルーヴル美術館入りした芸術家はブラックが第1号だったそうです。エトルリアの工芸品にも興味はあるのですが、地下で棺を見てきたので良しとします。「チェルヴェテリの夫妻の棺」のような夫婦が仲良く彫刻されたエトルリアの棺には心動かされるものがあります。
-
この辺りからは展示されている美術品ではなくて宮殿の内装、特に天井を見ながら進みました。とてもひとつひとつ見てゆく時間はありません。展示されている古代ギリシャの神殿か宮殿のようです。現在は白くなっている大理石像も元々は彩色されていたように、建物の内装も鮮やかだったのだと思います。ポンペイの秘儀荘を想像させるような赤い壁が隣の部屋に見えます。
-
足早に通り過ぎてしまうのが勿体無く、申し訳無く思います。詳しく見てきませんでしたが、ギリシャ神話の一場面が描かれた天井画も見事です。
-
もう自分がどの翼にいるのかも分からなくなってきますが、こうやって表を見ると大体の位置と何階にいるのかが分かります。
-
古代ギリシャと古代ローマの数千年の歴史をほんの数分で通過してしまいました。天井画は軍神マルスとアフロディーテの姿のようです。現実的な陳列台の中のコレクションを観ながら神話の世界も感じる事が出来ます。
-
古代ギリシャの喜劇や悲劇で使われる仮面には興味があるので気に行った物をいくつか写真に撮っておきました。
-
古代ギリシャ美術の中にタナグラ人形と呼ばれるテラコッタの小像があります。ギリシア北部のタナグラで紀元前4世紀後半から造られたテラコッタの人形で、多くが高さ10センチから20センチほどです。
-
1878年のパリ万博で熱狂的な人気を博したタナグラは、その名の由来となった古代ギリシアの都市名にとどまらず、繊細で優美な女性らしさの同義語となりました。
-
その中でも有翼の天使の像に惹かれて、何枚か写真を撮ってきました。後で気が付いたのですが、以前ナポリの下町でプレセビオの天使像を買い求めたことがありました。作家さんの造ったものでどうしても欲しかったのですが、どなたかの注文品で売ってはもらえませんでした。
-
翌日移動先のローマから再びナポリに戻ったら、少々呆れ気味ではありましたが、それほど気に行ったのならと譲ってもらった人形に似ていたからかもしれません。プレセビオの人形も頭部や手や足はテラコッタで出来ているので、元々はタラ蔵人形だったのではと勝手に思っています。
-
英語のエンジェルはギリシア語のアンゲロスに由来し、その語源は「伝令」や「使いの者」です。古代ギリシアやローマ世界では、アンゲロスは生身の人間としての伝令を表す言葉であると同時に、神々と人間の中間の霊的存在としての伝令を指す言葉だったそうです。
-
ちょっとセクシーな情景のようですが、古代ギリシャやローマの時代にはおおらかなものがあったのでしょうか。帽子を被ってマントを羽織った若い男性がベールを被った若い女性に肩をかけて抱き寄せようとする瞬間が2000年間ほど時が止まったいます。
-
中学生の頃にどうしても見たくて上野の西洋美術館まで行ったキクラデス諸島の白い大理石の像にも後ろ髪を引かれながら部屋を後にします。
-
この辺りは夕方以降はあまり人気が無いのか、部屋を越えても越えても誰もいない状態が続きます。妻もスタスタと先へ行ってしまうので、置いていかれないように先を急ぎます。
-
近代的なデザインのガラスケースに入った紀元前7世紀から5世紀の間に造られた「黒絵式」の美しい陶器が並んでいます。
-
「赤絵式」は紀元前6世紀末にアテナイで生まれたギリシア陶器の壺絵の1つのスタイルです。技法は黒絵式のような線刻ではなく、絵付けの段階で図像の部分だけを残して壺の地全体を塗りつぶすのが特徴です。塗り残した部分の土は焼成とともに赤みを帯びるのでこの名前が生まれました。
-
古代ギリシャの陶器は1つ1つ見ていくとその精緻な絵付けと共に題材の面白さに惹かれます。赤絵式では「酔っ払いと娼婦」だったり「武装競争」の場面だったり、黒絵式の時代では神話の神々の戦いであったり多岐にわたります。それだけで1日ここで時間を潰せそうです。
-
本家のギリシャの博物館でも見かけないような巨大なアンフォラやヒュドリアなどの陶器も置かれています。一体どれだけの量のこのような陶器が地中海世界に広がったのでしょうか。しかしルーブルのコレクションの質の高さには驚かされます。
-
ここからはエジプト美術の展示室に移ります。いきなり天井にはナポレオン1世の時代の発掘現場の絵がありました。その周りには牛の耳を持ったハトホル女神の姿が見えます。パサージュ・デ・ケールのファサードに合った女神と同じ絵が描かれています。
-
エジプト文明の部屋は過去にもあまり時間を掛けて見ていないので少し時間を取りました。部屋の中央には真っ黒い象が置かれてあり、むき出しの姿にびっくりします。「トゥトアンクアメンを守護するアメン神」この暗色の閃緑岩で作られたトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)を守護するアメン神の大きな彫像は1857年にカルナックで発見されています。
-
アメン神殿の神官の長であったツタンカーメンは守護神アメンと同じ方向を向いて立っています。アメン神は長い羽が縦に2本並んだ伝統的な被りものを被り、顎には3つ編みにされた神のひげをたくわえています。
ツタンカーメンは中部エジプトのアクエンアテン王の首都アケト・アテンで生まれたと推測され、10歳になったばかりの頃に王座についています。伝統主義的な神官によって育てられ、首都をテーベに戻してアメン神の信仰を復興することを強要されたと思われます。アテン神を国家神として崇拝したアメンヘテプ4世アクエンアテンが行った「アマルナ革命」の後にツタンカーメンが再びアメン神との絆を強化する目的で彫らせた一連の彫像のうちの1つです。 -
背面の柱に刻まれたツタンカーメンの名はアメン神とラー神の名前を構成する箇所を除いて全て叩き壊されています。神の怒りをかうことを恐れて神の名前は壊してはならないとされていたためです。王の肩に置かれた神の加護を表す手も2人の強い絆を断ち切るかのように破壊されています。しかし腰衣の右側のベルトから吊り下げられた装身具に記されていたカルトゥーシュ(王名が記された楕円形の枠)を破壊者が消し忘れたため、ツタンカーメンの名は残り、アメン神に守られている人物が誰であるかが分かりました。
-
ヒエログリフはヒエラティックとデモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つです。エジプトの遺跡に多く記されていて、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられていますがその後読み方は忘れ去られてしまいます。19世紀になってフランスのシャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読以降再び読めるようになります。上から2段目の楕円はカルトゥーシュと呼ばれるファラオの名前を囲む曲線のことです。古代エジプトではシェヌと呼ばれる文字です。名前が破壊されているのは後のファラオによるものです。カルトゥーシュは小銃の実包を意味するフランス語で、英語ではカートリッジに該当します。
-
石碑に刻まれたのは上段がエジプト神話における冥界の神で、ヘリオポリス9柱神に数えられるオシリス神です。上エジプトの王冠をかぶり、体をミイラとして包帯で巻かれて王座に座る男性の姿で描かれます。その前には貢物を持って並ぶ人々の姿があります。中段はトト神で、エジプト神話の知恵を司る神です。左手にはウアス杖を持ち、右手にはアンクと呼ばれる古代エジプトで用いられた象徴図像でエジプト十字とも呼ばれます。「生命」を意味しアンクに蘇りの力があるという信仰があります。一番下の段は若いファラオの夫婦の姿のようですが、ツタンカーメンとアンケセナーメンのように思えました。
-
「ルーブル美術館」の古代エジプト美術部門は1798年から1801年にかけてのナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征が直接的なきっかけとなって創設されたわけではないようです。遠征に随行した学者たちの収集品はイギリスに戦利品として押収され、その中には現在大英博物館で収蔵されている有名な「ロゼッタ・ストーン」が含まれていました。個人の収集家によってほんの一握りの作品がルーブル美術館にもたら されたのは、もっと後になってからのことでした。
-
平面で描かれると横顔なのは何故なのでしょう。美しい女性のレリーフは髪形などが非常に手が込んでいます。材料は砂岩のようなので加工もしやすかったのだと思いますが、数千年も色が落ちないで残っているのは驚異的です。
-
こんな部屋でライトアップされた胸像と対峙していると不思議な気分になって来ます。もう少し人がいると良いのですが。隣の部屋にも人の気配はありません。天井の黄金の彫刻の中央には盾の中にフランス王家の紋章であるフルール・ド・リスがあしらわれています。
-
「アクエンアテン像」
紀元前14世紀にエジプトを治めた王アクエンアテンの胸像です。ツタンカーメンの父でもあるこの王はアメンホテプ4世として即位してから5年後に2つの重大な決定を下します。「アテンに仕える者」を意味するアクエンアテンに改名し、現在のアマルナに遷都することにします。新首都は太陽円盤の地平を意味するアケトアテンと名づけられ、何もない砂漠が推定3万人の都市となり、大規模な宮殿や神殿が大急ぎで建設されました。 -
さらにアクエナテンは宗教や美術や政治を一新しようと試みたものの、その死後は数多くの非難を浴びることとなります。息子のツタンカーメンまで「神々に見捨てられ災厄の国となった」と父の時代を批判する勅令を発布しているほどです。後の王朝はアクエンアテンを「犯罪者」や「反逆者」とみなし、彼の彫像や絵を破壊して歴史から消し去ろうとしました。
-
腰衣をエジプト風に着用しコブラで飾られたネメス頭巾を被っているファラオの姿です。このような衣装はファラオ王朝時代においても王の日常着ではなく、儀式用の装束でした。この彫像の細部にはネメス頭巾を浅めに被り、アーチ形に額を露出する傾向などプトレマイオス朝の特徴として表れている。右手には王権を表す牧杖を持っています。
-
「アメンエムハトアンクの彫像」
伝統的な歩行の姿で表されているアメンエムハトアンクの彫像は、中王国時代の芸術の模範的な作例と言えます。長い腰衣は巻きスカートのように体に巻きつけられてウエストで結ばれています。脇の布の角ばった折れ目から、硬い布であることが見て取れ、控えめに表されたたくましい筋肉やすべすべした左右対称の顔など、全てが丹念に彫り上げられています。若さがみなぎる顔つきは瞼が強調された大きな目とへの字に結んだ口を特徴とし、頭には規則正しい房からなる袋状の鬘を被っています。全てが計算し尽され完璧に調和したプロポーションで彫り上げられており、空想的な独創性は一切見られません。 -
アメンエムハトアンクは王の側近であった優秀な人物で、衣装の側面と背面支持柱の両側面にはアメンエムハトアンクを「王から高く評価された神官の長、大広場の書記」「プタハ・ソカル神殿の書記」と称する銘文が縦書きに記されています。全ファラオ時代を通じてそうであったように、彼も神官であると同時に高官でもありました。アメンエムハト王の名が3回も繰り返して記されていることから、アメンエムハト3世の治世下でこれらの役職を担っていたことが分かります。アメンエムハトアンクが「アメンエムハト王」のあだ名で呼ばれていたことや、ファイユームのクロコディロポリスの新居で暮らしていたことから、王の側近であったことが分かっています。王から特別に厚い恩寵を受けていたおかげで、高貴な材質の石にこの彫像を彫らせ、新居内の神殿に納めることが許されたと考えられます。
-
「供物を運ぶ女性」
土を表す濃い黄土色に塗られた台座の上を供物を運ぶ女性が歩いています。短い髪の鬘を被り、羽模様の装飾が施された身体にぴったり密着した細身の衣装を着用しています。襟ぐりの回りにウセク首飾りが輝いており、その下に肩紐も見えます。頭上にのせて片手で支えた籠の蓋の上には、牛肉の腿がのせられ、もう一方の手には大きな水差しを握っています。 -
中王国時代の岩窟墓の壁はしばしば砕けやすい性質を持っていたため、浅浮彫を彫るには適していませんでした。そのため葬祭に欠かせない最も重要なテーマは、木製の小像や「模型」という形をとって大量に造られ、地下墓室に置かれるようになります。食料の供物は重要な食事とされ、冥界での生活に不可欠なものと考えられていました。
-
「カバ像」中王国時代 紀元前1963-前1786年頃
青色の釉薬をかけたカバの像。エジプトの神話において、雌のカバは豊饒と再生を意味しておりカバの小像は中王国時代の墓から多数発見されているようです。 -
有名なカバの置物は偽物のお土産品の方が造りが綺麗かもしれませんね。
非常に味のあるもので、今回もスカラベを買って来るのを忘れました。エジプトを旅行した際も迷った末にカバの置物を買わなかったことを後悔しています。 -
ミイラが現れるようになったのは死体の化学的処理が行われるようになった第4王朝時代ではないかと推測されています。古王国時代のミイラは大きな布の包みのような様相を呈し、人間の形を正確に再現しようとはしませんでした。第5王朝になって死者の容姿を想い起こすように、ミイラに薄い石膏の層を塗ったり、顔に形をつけたりするようになり、その後に仮面を被せるようになります。
-
非常に完成度の高い薄彫りのレリーフがありました。まるで今出来たと言ってもよいほどの出来栄えです。そしてそこには豊かな生活の情景が描かれています。
-
「書記監督官ラーヘルカーと妻メルセアンクの彫像」
台座の足元に名前と称号を表すヒエログリフが残っています。これも砂岩の割に非常に良く色が残っています。奥さんは一歩下がって夫の腕に手を掛けている何とも微笑ましい像です。古代ギリシャやローマやエトルリアにエジプトと夫婦の愛情の深さを感じる墓標だったり像を見ると胸が熱くなります。 -
「書記坐像」
右脚を左脚の前に交差させあぐらをかいて座っている書記の姿です。両膝でぴんと張られた白い腰衣を台の代わりにし、左手で一部が広げられたパピルスを持っています。右手には筆を握っていたようですが、消失してしまっています。最も印象的なのは顔のとりわけ目の象嵌細工は丹念に造られていることでしょうか。これは赤い石目模様の入った白いマグネサイトの塊の中に水晶を嵌め込んで造られたものです。 -
水晶は軽度な円錐台形をなしているものと思われ、前部が丹念に研磨され後部は虹彩の色を出すために有機物質の層に覆われ、おそらく接着剤の役目も果たしているのではないかと思われます。このように造られた眼球は銅製の大きな二本の爪留の枠の中にはめ込まれ、後ろで眼窩と固定されています。眉毛は黒い線で素描され、手、指、爪は、驚くほどの繊細さで彫られています。この彫像の発見者である考古学者オーギュスト・マリエットによると、この書記像は1850年11月19日にサッカラにあるセラペウムのスフィンクスの参道北側で発見されたようです。しかし残念なことにこの発掘は彼の死後に発表され、発掘日記は紛失して記録文書はフランスとエジプトに四散してしまって、正確な出土場所は特定されていません。
-
「蛇王のステラ」
石灰岩に彫られた王のステラ(石碑)は、その大きさおよびこのステラの各構成部分の技巧の質において貴重な物です。歴史的資料として最も重要なものであるとともに、エジプト初期王朝時代(紀元前3100年以降)まで遡る、芸術上、言語学上の慣習を物語る貴重な証拠品といえます。「蛇王のステラ」という名はコブラが中央に彫られていることに由来し、1896年にこのステラを発見したエミール・アムリノがこの名を普及させました。この名前はある王の公式な王号と一致していて、表されたコブラはエジプト語では、日本語の子音に当たる「ジュ」に似た音で発音されます。しかしエジプト語では母音は表示されなかったので、この名前の正確な発音は分っていません。このステラは最古のヒエログリフの例の1つとされています。 -
そして巨大な階段室を降りてもまだエジプト美術の部屋がいくつも続きます。「ルーブル美術館」に初めて来た1988年はエジプトのエリアが全部閉鎖になっていて中に入れず、2000年に妻と来たときもあまり時間が無くて駆け足で通過した程度でした。
今回は多少でも時間が割けたので良かったです。そしてエジプトへ行きたいという思いがより強くなりました。 -
「ベス神」
短い脚で立ちはだかるベス神は両手を腿の上部に置き、舌を出しながら見学者を見つめています。羽飾りのついた被り物を頭につけていたと思われますが、羽飾りを差し込むための穴が開いた被り物の基部しか残っていません。浮彫にされた威厳あふれる眉や獅子鼻は人間とライオンの特徴が混在し、ふさふさした髭で覆われているたるんだ頬と相まって平たい顔面をなしています。髭は口の両脇に広がって先端では渦を巻いて、かなり深く彫られた両目の跡から、目には舌と同様に象嵌細工が施されていたと思われます。丸い小さな耳には毛の房が見えていてライオンの耳であることが分かります。背中には肩から丸く膨らんだ臀部までライオンの毛皮を身にまとい、浅い浮彫で表された毛皮の尾の輪郭まで確認できます。またベス神の上半身には小さいライオンの頭、肩の上にはそのライオンの前足、腿の上部には後ろ足が見えます。背中には猛獣のたてがみが鬘のように先端が尖って描かれ、臍の下には蛇を縛ってベルトの代わりにしています。古い時代のギリシャのゴルゴンの姿に似ているように思えました。 -
「ジェドホルの石棺の蓋」
こちらは石棺の蓋の裏面で、ミイラと相対する面になります。頭上に太陽を掲げる天空の女神ヌトが刻まれています。ヌトは大気の神シュウとその妻テフヌトから生まれた娘で、太陽はその口を通り抜けヌトの体をめぐって西の空へ沈んでいくと考えられます。星たちも人間の魂さえも大いなる天の母と一体化し来世に向かいます。またヌトには夜の顔もあり、夜のヌトは死せる太陽ラーを食べ、太ももの間(産道)から昼の世界へと送り出すという我が子を食べるとともに再び生み出す、という、「太母」のイメージも併せ持つ存在です。 -
沢山の棺が立ち並ぶガラスケースの中にとても美しい木製の棺がありました。この後にロンドンの「大英博物館」にもサンクトペテルブルグの「エルミタージュ美術館」にも行きましたし、「カイロ博物館」でもこれほど美しい棺はありませんでした。
-
「アモン・レー神の歌い手タネテレトの棺」
木棺は分かりやすく言うとマトリョーシカ状態になった棺で、数千年を経たとは思えません。せいぜい10年か20年前に工場で造って隅に置いといた程度のようにしか見えません。棺に描かれた夜のラーは太陽神であり、古代エジプト人は太陽の運行と共にラー自体も変形すると考えました。日の出の時はヌト神の腿の間から出てタマオシコガネの姿のケプリとして東に現れ、日中はハヤブサの姿、あるいは太陽の船に乗って空を移動します。夜は雄羊の姿で夜の船に乗り死の世界を旅するとされています。この時夜の船は冥界の悪魔からセトによって守られています。これは太陽の動きを神格化したものであるとされます。このハヤブサは、翼と脚を大きく広げ、飛行に適していないポーズをとっている。爪には、シェン(シェヌウとも呼び、縄の輪を表し永遠を象徴する)の記号を握り、垂直にもたげた牡羊の頭部には縄状にねじられた角が水平に付いています。様々な姿が混在するこのような図像は、ラメセス王朝時代の幾つかの墳墓の壁画に描かれており、とりわけ「洞窟の書」の最終場面によく見られます。 -
ミイラを納める棺の装飾の身体の真ん中にスカラベ(フンコロガシ)が描かれてあります。これが朝の太陽神ラーの姿です。日没後に消えてしまったかに思えた太陽は、朝になると地上に新たに生まれます。人々は死後の死者の世界での新たな誕生への願いを込めました。スカラベは復活の象徴でもあります。
-
木棺はだんだん小さくなるのですがクオリティは変わらないと言うかミイラに近づくにつれて細工が細かくなっているように思います。これだけの棺が用意される程ですからやんごとなき身分の女性だったことが分かります。天空の女神ヌトを母に持つイシス女神は背中にトビの翼を持った女性として表され、ハトホル女神に代わって信仰を集めるようになります。
-
最後の棺はこんな感じで、内側には先ほどの石棺と同じヌト神が描かれています。
古代エジプト人の死生観について勉強してみようと思うほど、この棺の呪術的な模様に惹かれました。 -
この断片を見るだけでも古代エジプトの市井の女性の姿がありありと分かる気がします。神々やファラオの石像や美しい棺や装飾品も素晴らしいですが、こういった収蔵品を見るとホッとします。
-
「カルトナージュに覆われたミイラ」
あまりに美しい包帯の巻き方に驚かされました。世界中のどこの病院に行っても包帯をここまで美しく巻いてくれるところは無いでしょう。カルトナージュとはパピエマシェ(パルプに接着剤その他を加えた素材)の古代エジプト版で、パピルスや亜麻布の上にプラスター(漆喰)を塗ったものである。横に仮面がありますが訪台の巻き方の美しさに惹かれました。 -
「ウシャブティ(シャブティ)」
エジプト人は、このような埋葬用小彫像を「ウシャブティ(シャブティ)」と呼びました。ウシャブティとは「答える者」を意味する墓に納められたたくさんの小さな人形でこれらは死者の分身です。死者は死後も食べものを得るために日々働かなければなりませんので、この大変な労働を肩替わりしてくれるのがこれら人形です。 -
大英博物館に収蔵されているあるパピルスによれば、昔からの伝統では置いておく埋葬用労働者の数は401体とされていたそうです。1日に1人が働く、1年分のウシャブティ(365体)に、10人の労働者につき命令する監督官1人(36体)が加えられています。この規則は必ずしも強制的なものではなかったようです。本来死者はウシャブティを1体しか持たないものでしたが、同一人物が数百体ものウシャブティを持つケースもでており、400体という驚異的な数を大幅に上回るものもあります。トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の葬祭宝物の中には、417体ものウシャブティが収納されていたそうです。
-
「男のミイラのカノプス壺」
神話によるとカノプスはメネラオス王の水先案内人でしたが、トロイアからの帰還途中に事故に遭い、死亡してギルダの海岸に葬られたため、町にカノポスの名が付きました。そしてその町ではオシリス神の像が壺の形で崇拝され、これとミイラ用のヒト形臓器収蔵器の形が似ているところからこの名で呼ばれるようになります。 -
カノプス壺は古代エジプトにおいてミイラを作る際に魂が宿るとされていた心臓を除き、特に重要と考えられていた臓器を取り出し、保存するために使われていたと考えられています。外装にはオシリス神像やその子供たちなどが彫られており、特に主要なものはホルスの4人の息子です。「イムセティ」は人間の姿をしており、肝臓を守る神とされ、「ハピ」はヒヒの姿をしており、肺を守る神とされ、「ドゥアムトエフ」は山犬の姿をしており、胃を守る神とされ、「ケベフセヌエフ」は隼の姿をしており、腸を守る神とされていました。
-
「グノーム(醜い小人)の座像」
ベス神は脚を曲げ地に屈んで、突き出た腹はほぼ正方形の形をした台座の面積をほとんど占めています。拳を握った両手を膝の上に乗せ、その拳にはかつて金属製の蛇を2匹握っていましたが破損しています。着用する衣装はヒョウの毛皮で、垂れ下がった乳房の上にかかっているのが見えます。太った腹部は唯一ベルトによって飾られています。頭部は異常に大きく動物の鬣の房に渦巻状にとかされた髭、しわで縮んだ額とライオンのような耳は細く彫られています。口から出した舌には赤い石の象嵌細工が施され、消失した目は黒いガラスの嵌め込みで縁取られていたことからも高価な品であることが分かります。 -
「ラムセス3世の石棺」
硬い赤御影石によくこれだけ細かい物を彫ったものです。平面なのにとても柔らかく立体的に見えるのは気のせいでしょうか。こちらはネフティス女神でイシス女神との違いは頭上の目印でネフティスは建物の形をしています。ネフティス女神はオシリス神とイシス女神の妹で、ネフティス女神はオシリス神を切り刻んだセト神の妻です。ネフティスはここでは石棺の頭の側で中に納められた王を守護します。 -
イシス女神はオシリス神の妻でホルス神の母でばらばらに切り刻まれた夫の体を集めて魔術で復活させてホルス神を身ごもります。ここでは目印は頭の上の玉座で、翼は守護のしるしでもあります。ネフェテス女神の写真は撮りましたが、イシスの写真を撮り忘れました。
-
「アヌケト女神の儀式用の船」
古代エジプト部門の神殿を模した造りの部屋のその最も奥の場所に神の像が納められていました。舟に乗る女神の像がガラスケースの中に展示されています。アヌケトはエジプト神話で登場するナイル川の女神で、ナイル川流域のエジプトからヌビアにかけて信仰されていました。 クヌムとサティスとともに三柱神の一柱とされ、クヌムとサティスの娘か、クヌムの配偶者ではないかとされます。ここでは黄金の羽飾りの冠を被った姿で椅子に座っています。 -
「モントゥ」
古代の神であるモントゥは、もともとは太陽神であるラーの灼熱の現れとしてモントゥ・ラーという名前で呼ばれました。戦士の特性を得ることから最終的に崇拝される戦争の神となり、勇猛な雄牛の強さや戦争との関連性から、エジプト人はモントゥがブチスという名前の白い黒い鼻の雄牛として現れたと信じていました。エジプトの芸術ではモントゥは鷹の頭または雄牛の頭の男として描かれ、頭には太陽円盤と2本の羽が乗っていました。 -
「アメン神」
アメン神はしばしば雄羊の姿でも現される。クヌム神など古くからの羊神と違い、ツノが渦を巻いた新しいタイプの羊で表されることから、中王国時代より後の表現のように思われます。ルクソール神殿やカルナック神殿前にずらりと並ぶ羊頭のスフィンクス群はアメン神の化身でもあります。 -
エジプト部門の大きな部屋は古代の神殿の様子を模しています。手前が神殿前の人々の奉納物が置かれた場所で、柱の向こうが神殿の建物と奥へ進むにしたがってスペースは狭くなり天井の高さも低くなります。そして奥に神の像を大切に祀る至聖所のようです。そこへ太っちょのアメリカ人のお姉さんがふうふう言いながら「ラムセス2世はどこ?」「ラムセス2世知らない?」と歩いてきます。係員さんが1度下に降りて…。と説明すると急いで走って行きました。そこまでして観たいラムセス2世が気になりました。
-
巨大な縦長の台に乗った頭部は上エジプトの王アメンへテプ3世の姿でした。
王は先が膨らんだ教皇冠に似た上エジプトの冠、通称「白冠」をかぶっています。きわめて光沢がいいよく研磨された石で下から観賞されるように作られているアーモンド形に引き伸ばされた大きな目と分厚い口の肉付けは、アメンヘテプ3世の神殿にある記念彫像の特徴でもあります。この石の巨像は倒れて何世紀もの間湿気の多い場所に横たわっていたので、頭部の左側が完全に崩れてしまっています。隣に並ぶこの像は下エジプトの赤冠を頂く珪岩製で造られています。彫像の高さは少なくとも8メートルはあったそうです。コム・エル・ヘイタンのアメンヘテプ3世神殿はその規模の大きさにおいてエジプト人が今までに建設した建造物の中で最も素晴らしい神殿の1つだったようです。 -
「ラメセス2世の巨像」
この彫像はラメセス2世の名が刻まれた玉座についた王を表しています。元々は誰の彫像であったかをめぐって激しい論争が行われたそうです。というのも冠や顔、胸部や玉座に修正の跡があり、ラムセス2世王が先代の作品を自分のために再利用したのではないかという憶測が長い間消えなかったようです。今日では67年にもわたるこの偉大なファラオの治世において、単に使用目的を変更するために修正が加えられただけであることがほぼ明らかにされています。
この彫像ではファラオが伝統的ポーズで表現されています。立方体の形をした玉座に座り、両手を開いたまま腿の上に置き、正面に(破損している)コブラがついたネメス頭巾をかぶり、顎には付け髭をしています。ベルトの留め金や玉座の背面や側面の前面にはラメセス2世の名前と称号が刻まれています。 -
「スフィンクスの参道」
この作例とよく似たスフィンクスがかつてはサッカラのセラピス神の神殿の参道に沿って数百体並べられていました。古代エジプト末期の巡礼の主要地として有名であったこの神殿は、今日では廃墟と化して地下部分だけが残されています。そこには、ラメセス2世の治世下から造られるようになった聖なる雄牛アピスの墓があります。マリエットが行なった参道の発掘からスフィンクスが次々に発見され神殿のあった場所も判明します。オギュスト・マリエットはフランス人のエジプト考古学者ですが、カイロのエジプト考古学博物館の展示物のかなりの部分はマリエットの蒐集によるものです。またエジプトを舞台にとったヴェルディの有名なオペラ、「アイーダ」の原案を著したことによっても知られます。 -
「ホルス神の彫像」
このホルス神のブロンズ製彫像は腐敗することのない神の肉体を想い起させるように金の上塗り、あるいは金の化粧張りが施されていたようです。色の付いたガラスや象嵌細工が駆使され、蝋型鋳造で作られた各部分のつなぎ目も隠されていました。ハヤブサの頭と人間の体を併せ持ったホルス神を表しているこの彫像は、3人の人物を表現した彫像の一部であったと推測されます。おそらくホルス神とトト神が王を囲み、清めの儀式を行っているところが表されていたと思われます。ホルス神は前方に挙げた両手の中には、聖水が入った器を持っていたのでしょう。 -
ナイル川の対岸との間を行き来するための橋がまだ存在しなかった古代では、船を所有することは裕福であることの証であったのでしょう。様々な形の船が見られますが、漕ぎ手や手に持つオールなどのリアルさには驚かされます。船の舳先にはホルスの目が描かれていますが、これは現在のマルタ島の漁船に残るフェニキアの目にも通じるルーツを感じます。
-
「農耕作場面の模型」
中国の古代の王墓の副葬品にも同じような物がありますが、場所も時代も違っても人間が大切に思うものは一緒なのだと感心しました。
農耕の場面が生き生きと表現されていますが、牛に取り付けられた鋤などは近代まで使われていたものとアマr変わらないと思います。 -
「供物を運ぶ女たちの模型」
その時代の風俗や生活が垣間見られる副葬品にとっても魅力を感じます。様々な日常生活の模型には心惹かれます。こちらは第1中間期から中王国時代に制作されたもので、女たちは供物の入った箱を頭の上に載せ、片手にはアヒルを持っています。 -
この辺りで完全に迷子になりました。エジプト文明から抜け出せないのではないかと思いました。途中の部屋が閉鎖されていると途端にどのルートで迂回すればよいか苦労します。「フィリップ・オーギュストとシャルル5世治世下のルーヴル宮の壕の遺跡」には初めて迷い込みました。1200年頃その3世紀前のヴァイキングの侵攻と同様にノルマンディー地方からのイギリスの侵入を恐れたフランス国王フィリップ・オーギュストは、パリを取り囲む城壁の前に砦を建造しました。パリの西の入り口を守るこの城砦は14世紀のシャルル5世の治世下で、第2の城壁が建造されてパリは拡大し、こうして都市防御の機能がなくなって初めて住みやすい城館になりました。
-
シェリー翼のギリシャ・ローマ・エトルリアの彫刻の部屋を通過しましたが、今回はこの部屋にはあまり時間を掛けられませんでした。ここへたどり着くまでにもう頭の中が飽和状態になっていました。通称「ヴェレトリのパラス」 と呼ばれる紀元1世紀のアテネ像です。17世紀にヴェレトリ付近のローマ時代のヴィラの廃墟にて発見されました。
-
「アテナ・パルテノス」
通称「首飾りをつけたミネルヴァ」はアテネのアクロポリスの丘のパルテノン神殿に設置されていたアテナ・パルテノス像のローマ時代の模刻で、ローマの大コレクターであるボルゲーゼ家のコレクションでしたが、1807年にナポレオンが購入しました。紀元前438年に奉納されたフェイディアスの原作は黄金と象牙で造られた高さ約12メートルの立像で、様々な模刻から類推すれば正面向きに兜をかぶり、胸板を付けて左肩に槍を立てかけ、左手で盾を支えて右手で勝利の女神ニケを差し出す姿であったと推定されます。このオリジナルは5世紀にパルテノン神殿がキリスト教会堂に改装された際におそらくコンスタンティノポリスに運ばれて、その後の消息は不明になります。この作品はその6分の1の模刻と推定されます。 -
他にも由緒のある彫刻が数多く並んでいますが、泣く泣く先を急ぎます。ここまでですでに4時間近く美術館の中を彷徨い歩き続けています。
-
「ミロのヴィーナス」
1820年キクラデス諸島の南西のメロス島(現代ギリシア語でミロ)で発見されました。リヴィエール侯爵はこの作品をルイ18世に献呈し、翌年に「ルーヴル美術館」に寄贈しました。この作品は当時より名声を得ていて、主に2つの大理石のブロックで構成されたこの彫像は、別に加工された複数の部分によりできています。はめ込み部品の技術を使いて上半身と両脚、左腕と左足はなどは、縦はめ込みにより結合されている。 -
この加工方法はギリシア世界のなか、とくに紀元前100年頃にこの作品が制作されたキクラデス諸島でも普及していました。この彫刻の両腕は発見される事は無く、女神の腕輪やイヤリング、髪をまとめる帯などの鉄製の装飾品で飾られていましたが、現在ではそのための固定の穴のみが残っています。
-
この女神は謎に包まれていて、その仕草もまた解読不可能といわれます。不足する部位と象徴物の欠落はこの彫像の復元と識別を困難にし、その仕草は様々な憶測を呼び起こしました。柱に寄りかかる姿勢であるとかアレスの肩に肘を付いているや、または多様な象徴物を持っている様などが挙げられます。弓またはアンフォラを持っていたか否かで、これはアルテミスまたはディアナと推定されますが、半裸の状態や波型の輪郭の女性らしさ、形の官能性からはこの肖像をアフロディーテの彫像と考えるのが一般的です。彼女はおそらくパリスの審判を暗示するリンゴを持ち、冠か盾または鏡を持っていたと思われます。またミロ島で崇拝されていた海の神のアンフィトリテの可能性もあります。
-
髪型や肉体のモデリングの繊細さは紀元前4世紀の彫刻家、プラクシテレスの作品を想起させますが、この作品は紀元前3世紀から1世紀の間のヘレニズム時代の期間に見られる螺旋状の構成や小さな胸の上半身の伸びなどはこの時代の特徴です。この女神は腰の位置の衣服が滑り落ちたことにより、両脚でそれを挟む瞬間を捉えられています。
-
パリはもとより次はいつ「ルーブル美術館」に来られるのか分かりませんので記念に写真を撮っておきます。
-
「アルテミスと雌鹿」
教皇パウロ4世よりアンリ2世に贈られたこの作品は、フランスに渡った初の古代彫像のうちの1つです。ローマ人にディアナとよばれたこの女神は、ここでは雌鹿に伴われています。ギリシア語ではアルテミスで知られるこの女神は、アポロンの双子の兄妹で気の強い処女で疲れを知らない狩人であり、その特徴は男性の陵辱を罰する事にあります。この彫像はレオカレスに帰属する紀元前4世紀のギリシャのブロンズ像に着想を得ています。 -
1556年に教皇パウロ4世がアンリ2世に寄贈したこの彫像は多くの王の館を飾りました。16世紀のフォンテーヌブロー城の王妃の庭を飾った後の1602年にアンリ4世はルーヴル宮殿に移し、現在のカリュアティドの間である古美術品の間に展示しました。ルイ14世の統治下ではこの彫像はヴェルサイユ宮殿に送られて大回廊に展示されました。1798年にこの作品は国民公会の差し押さえ命令に従いルーヴル美術館に再び送還されました。
-
ようやくたどり着いた古代オリエント美術の部屋には二十数年振りに足を踏み入れました。古代オリエント美術部門では、3つの大きな地理的文化的区分の古代メソポタミア、中央アジアまでのイラン世界、ユーフラテス西側地域(キプロスを含む地中海沿岸地方レヴァント、アナトリア、アラビア半島、北アフリカ)の作品が陳列されています。
-
「歩く獅子の像」
紀元前5世紀(紀元前510年頃)イランのスーサの宮殿から出土した彩釉煉瓦による壁面装飾です。ライオンの特徴をよくとらえています。スーサの歴史は古く、アクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されています。ダレイオスが紀元前331年のガウガメラの戦いでマケドニア王国のアレクサンドロス3世に敗れてアケメネス朝が滅んだ後、紀元前324年にアレクサンドロスは帝国内の安定を図ろうと家臣と征服部族との「スーサの合同結婚式」を行った記録があります。 -
コルサバードの中庭と呼ばれる展示室は、新アッシリア王国時代の紀元前8世紀にサルゴン2世によってコルサバードに建設された宮殿の一部を再現したものです。
-
城壁には全長約2.5キロにわたってサルゴン2世の軍事遠征や偉業が描かれていました。彼の侵略戦争によってアッシリア帝国は新たな最高潮を迎えますが、サルゴン2世はこの宮殿の奉献後1年ほどで戦死すると、その子セナケリブが跡を継ぐことになります。
-
小学生が社会科見学に来ているようですが、時間はすでに午後7時を回っているのでかなり遅い時間です。
-
「有翼人面牡牛像」
以前来たときは展示室が閉鎖されていたので見ることが出来なかったものです。1対の雄牛像は5メートルほどの高さがあり、雄牛の脚の間のくさび形の文字の1つはサルゴン2世が「サマリア、オムリの家をすべて打った」と記述されています。彼はサマリアの征服を完了したようで、アッシリア人はオムリの子孫が支配しなくなってからも長い間イスラエルを「オムリの国」またイスラエルの王たちを「オムリの家」と呼んでいました。 -
「サルゴン2世とその高官」
サルゴン2世は新アッシリア王国時代のその絶頂期の王であり、紀元前709年にバビロニア再征服して陥落すると、自らバビロニア王であることを宣言してバビロン第10王朝の王ともなっています。 -
古代アッシリア帝国はメソポタミア地方(現在のイラク)に展開した文明の1つです。ルーヴル美術館では王城ホルサバードからの出土品で遺跡の様子を再現するように展示しています。人間の顔に牡牛の体に背中の翼とこの印象的な姿のものは怪物ではなく守り神です。冠に神のしるしの牡牛の角が2段(正義と太陽の神は4段)ついています。これらは王城の門に建てられ城壁の中と王を守ります。
-
「レバノンからの杉材の輸送(壁画)」
サルゴン2世の宮殿用の建築資材として用いられたレバノン杉がアッシリアへの海路によって輸送されている様子が描かれています。 -
カンボジアのアンコール遺跡のバイヨン寺院の周囲のレリーフに非常に似ていると思いました。トンレサップ湖での漁の様子を描いたものでしたが、このレリーフはチグリス川かユーフラテス川でしょうか?ここには王城建築用の木材が海と川を経て運ばれる様が描かれ、よく見るとここにも頭が人間で体が牡牛、背中に翼の守り神も描かれていました。下半身が魚で翼のある牡牛も彼らが旅の安全を守るそうです。
-
サルゴン2世は聖書中に1度だけ名前が出てきます。コルサバードの廃墟で発見されることによって、これまで多くの学者により実在する人物ではないとされていたサルゴン2世は今では考古学者たちによく知られたアッシリアの王のうちの1人となりました。
-
ラマッスまたはシェドゥと呼ばれる守護霊で、この地域では人面牡牛像は広く世界の基を守るとものと信じられていました。人面は王冠のような帽子を被り、2対の角を持ち、長い髭が胸元まで伸びて威厳のある顔をしています。人面部分だけが丸彫りになっていて、胴体と翼は深浮き彫りとなっていますが、胴体は上部の壁を支える役割もしているようです。
-
像の足の部分をよく見ると足が5本ある、これは横から見る時に歩いているように見せる工夫といわれます。なおラマッスはメスでシェドゥがオスらしいのですが、髭面のラマッスはどうみても牝牛には見えません。
-
ポール・エミール・ポッタという人物がメソポタミアのコルサバードにある、アッシリア帝国のサルゴン2世の宮殿跡を発掘し、宮殿を守護していた巨大な有翼人面牡牛像などの遺宝をフランスにもたらしたそうです。
-
「ライオンを抱くギルガメッシュ」
像は神と王権を象徴し、像が発する静かな力が王宮を守護し、王の権力の継続性を確かにするものと言われています。英雄像のあご髭は胸まで伸び、膝丈の短い衣服を身につけ、右手に湾曲した形の武器を持ち、左手でライオンを抱きかかえています。 -
英雄の前ではライオンも子猫のように小さく見え、前脚をぎゅっとつかまれて身動きもできないようで、こちらに助けを求めているようです。
-
「獅子像」
2頭の獅子像は神殿の入口左の壁を背にして、2段式基壇の上に並べて配置されていたとされます。唯一動物の半身だけが表わされ、2頭の獅子が突如内壁から姿を現すかのように後半身は壁にはめ込まれていました。首を伸ばして頭を右方に向けながら様子を伺う仕草から、今にも神殿の奥へ飛び跳ねていくような印象を与えています。 -
石灰岩と結晶片岩がはめ込まれ眼球の象眼は、口を開いて吠える獅子の視線を強調しています。上げられた唇から骨製の歯が露出しています。獅子は神殿の影に潜んで来場者の出入りを見張っていました。近東では守衛の役割をもつ動物像は広く普及していました。それを護るべき神殿や王宮の門両サイドの外部に安置されるものでしたが、2頭の獅子があった場所はその内部であり、おそらく従来の守衛の動物像とは異なる役目をもっていたと考えられます。1対の獅子像のもう1頭はシリアのアレッポの国立博物館に保存されているそうです。
-
「イディ・イルムの小像」
立像で表された王は残念ながら頭が欠如していますが、メソポタミアによく見られる祈りと同じ仕草で両手を組み合わしています。王は衣文がついた長衣をまとい、おそらくこれは1枚の薄い布地でできており、腰の線をくっきり表し下方へ広がっています。丸い房の縁飾りがあるこの豪華な衣装は、メソポタミアの伝統とは反対に胴体の周りを巻きつけて両肩に掛けられています。この房飾りの服にはウエストにメソポタミアでは使われない小物のベルトが締められ、カールした8本の顎髭は先をきちっと揃えて切られています。小像にはアッカド語で 「イディ・イルム、マリのシャッカナック、イナンナへおのれの像を捧げた。この銘を消す者は誰であれ、イナンナがその一門を抹殺されんことを」という銘が刻まれています。 -
「バビロン王のハンムラビ法典」
この玄武岩製の碑はバビロニンの王ハンムラビによって、おそらく正義の神である太陽神シャムシュの町シッパルに建てられました。この記念碑の伝統の一環をなす他の例は、その王国の町に安置されています。ウルのウル・ナンム王とイシンのリピト・イシュタル王のふたつのシュメールの法令の発布は、ハンムラビの制定に先行しています。旧約聖書の律法以前に書かれた以上、古代近東の最も古い法令集といえるハンムラビ法典は、それらの試論の結実であると定義されます。碑の大半を占める文書には、記念碑の存在理由が記され、その上に描かれた場面は王がシャムシュから授かる王権叙任が表されています。 -
法典は玄武岩と言う硬い岩に楔形文字とアッカド語で書かれています。テーマは1章にまとめられ、民法と刑法を扱っています。最も重要なものは家族と奴隷、専業と商業の権利、および農業と行政の権利に関するものです。経済方策では価格や日給を定めています。バビロン社会の基本理論である家族に関する章は最も重要であり、婚約や婚姻、離婚や姦(かん)通と近親相姦、子供や養子縁組と遺産相続、および乳母の義務などを取り上げています。
-
全く読めませんし見当もつきません。ただこれが「ハンムラビ王の法典」と感心するばかりです。195条に子がその父を打ったときはその手を切られる、205条に奴隷が自由民の頬をなぐれば耳を切り取られるといった条項もあり、「目には目を」が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであったそうです。
-
一生懸命に法典を見ている妻の姿は我が家の婚姻について何か不満があってのことなのか少し心配になりました。
-
古代オリエントの巨大な像やレリーフに目を取られていて、見たかった「鬼神パズズ」の像を見てくるのを忘れてしまいました。アッシリアの悪魔パズズの像の背面には「我パズズ、ハンビの息子、猛威を振るい荒々しく山から出てくる大気の悪霊の王者である」と刻まれているのですが、映画「エクソシスト」に出てくることで有名です。
-
「ピジュの中庭」に到着しました。建築家ルフュエルによるこの中庭はかつてナポレオン3世の居館の1部をなしており、1989年までは大蔵省に充てられていました。現在では「マルリーの中庭」と同様のガラス天井で覆われ、17世紀から19世紀の野外彫刻を収めています。
-
ここに展示される屋外に置かれていた彫刻はかつて王宮だったヴェルサイユ宮殿やチュイルリー宮殿や貴族の館の庭園、あるいはパリの個人邸宅の中庭を飾っていた彫刻群です。午後8時近くなりガラス屋根越しの空も真っ暗になっています。
-
「ライオンと蛇」
アントワーヌ・ルイ・バリーは誰も成しえなかった方法で動物像を彫り上げています。まず第一に動物はここでは彫刻の主題で、単なる付属品ではないということです。次に芸術家は自然に対する忠実で細かい分析を施しています。毛並みの描写や真実味溢れる動き、野性的な描写には錯覚を起こすような手法が用いられています。毛皮の下にある筋肉を感じ取ることが出来るのは画家ドラクロワと共に、動物園の動物たちの研究や描写だけでなく細かい分析に何時間も費やしたからです。 -
リシュリュー翼のナポレオン3世のアパートメントを目指します。ミッテラン大統領の「大ルーヴル計画」の際にルーヴル宮の北側部分に造られたのがこの大エスカレーターです。北側リシュリュー翼の見学はこれを中心に構成されています。
-
地下はフランス彫刻部門で1階には古代オリエント部門、2階に美術工芸品部門。最上階にフランス絵画と北方絵画部門の陳列室が続きます。閉館まで1時間ほどなのでポイントを絞って見学しないと時間はなさそうです。
-
美術工芸部門では時代も様々な作品が織りなす世界を紹介しています。宝飾品や金銀細工やエマイユ(七宝)、象牙細工やブロンズ作品、堅石細工や陶磁器、ガラス細工にステンドグラス、調度品にタピスリーなど、中世初期から19世紀前半までの作品を所蔵しています。もう詳しく見ている時間は無いので気になったものを写真に残す程度の見学です。十二使徒の彫刻が美しい聖櫃はケルン大聖堂の東方三博士の聖櫃を思い出しました。
-
サント・シャペルで見た見事なステンドグラスのことが頭に残っていたのでその一部を写真に撮っておきました。実際の堂内のステンドグラスは高い位置にあって、照明の問題もありますが、美術館の中では最高の状態で見学できます。
-
「聖ブラシウスを描いた13世紀フランスのステンドグラス」内容は聖書の物語ではなさそうなので読み解く事は出来ないのが残念です。
-
「ジャンヌ・デヴルーの聖母子」
13世紀から14世紀には中心となる像が見る者に聖遺物そのものを表すという新しいタイプの小像が発達しました。この鍍金をほどこした銀製の聖母子像もその1つで、聖母が百合の花の形をした聖遺物箱を手にしています。 -
「シャルル5世の王笏」
皇帝シャルル・マーニュはフランスの「カロリング王朝」の王様で、在位は764年から814年でした。フランスがまだ「フランク王国」と言われていた時代の王で、西ヨーロッパの統一を実現して、教皇によって「西ローマ帝国皇帝」とされました。 -
「三位一体の装飾板」
この金銀細工による装飾板は君主たちが毎年あるいは特別な機会に贈り合った宝飾品の典型例とされます。この作品はヴァロワ朝の人々に愛好された主題「三位一体」と「嘆きの聖母(ピエタ)」を連想させます。1400年頃にパリで活躍した金銀細工師の技術の粋を示す一例であり、金の丸彫り彫刻へエナメルをほどこすことや宝石と真珠を用いた装飾など様々な技法が組み合わされています。16世紀になって、国王アンリ3世が創設した聖霊騎士団の宝物室に加えられました。 -
唯一題材が分かったステンドグラスは東方三博士の礼拝でした。15世紀に入るとゴシック建築が発展し、教会や大聖堂の窓は複雑な曲線によってより細かくより装飾的にデザインされるようになります。15世紀後半には被せガラス(透明地のガラスの表面に濃い色ガラスの薄い膜が被せられた2層になったガラス。)にエッチングを施して絵柄を表現する技法が開発されるようになり、より複雑な表現が可能となります。
-
登ったり降りたりもうへとへとです。案内図を頼りに歩いてもなかなかたどり着けません。
-
この辺りの部屋は通り過ぎるだけになってしまいました。そして「ナポレオン3世のアパルトマン」に到着しました。
-
「絨毯の中央メダイヨン」
このメダイヨンはチュイルリー宮の玉座の間に敷かれていた大きな絨毯の中心を飾っていました。絨毯は1810年に納入されナポレオン1世とマリー・ルイーズの結婚式のためにこの場所へ敷かれました。そこには帝国の象徴の鷲があしらわれていましたが、王政復古の時代になるとこうした装飾は廃れ、切り取られました。ルーヴル美術館のメダイヨンはかつての絨毯が呈していたであろう姿を伝えています。 -
帝国の紋章の排除
ブルボン家が権力の座に復帰したのを受け、1815年以降、帝国の象徴(鷲、稲妻、蜜蜂)を抹消するために多くの品に手が加えられた。この中央部分のメダイヨンも、こういうわけで絨毯から切り離された。絨毯中央の他の部分は1857年にフォンテーヌブロー城に送られ、今なお同じ場所にある。また、片側部分は織り直され(1809年にザクセン王に贈られた)、現在マルメゾン城に保管されている。ルーヴル美術館のメダイヨンには、羽を広げた鷲が爪に稲妻を掴んでいる姿が空色の地に描かれている。鷲の上には帝冠があり、周りにはレジオン・ド・ヌール勲章の首飾りと十字架が配されている。紫色の幅広い帯を隔て、これら全体を月桂冠が囲んでいる。こうした帝国の大きな紋章は、帝権を固めるためにあらゆる宮殿と数多くの作品に繰り返されていた 。 -
ブルボン家が権力の座に復帰したのを受け、1815年以降は帝国の象徴である鷲や稲妻や蜜蜂の意匠を抹消するために多くの品に手が加えられました。この中央部分のメダイヨンもこういう理由から絨毯から切り離されました。絨毯中央の他の部分は1857年にフォンテーヌブロー城に送られ、今なお同じ場所に置かれてあります。また、ルーヴル美術館のメダイヨンには羽を広げた鷲が爪に稲妻を掴んでいる姿が空色の地に描かれ、鷲の上には帝冠があり、周りにはレジオン・ド・ヌール勲章の首飾りと十字架が配されている。紫色の幅広い帯を隔て、これら全体を月桂冠が囲んでいる。こうした帝国の大きな紋章は、帝権を固めるためにあらゆる宮殿と数多くの作品に繰り返されていました。
-
「戴冠式の正装の皇帝ナポレオン」フランソワ・ジェラール
ヴェルサイユ宮殿の物がオリジナルなのでしょうか、「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」も2枚ありますので、模写なのだと思います。 -
こちらは月桂冠の冠を被ったローマ皇帝の姿のナポレオン1世の胸像です。アントワーヌ・ドニ・ショデというアントニオ・カノーヴァと同時代の彫刻家の作品のようです。
-
「シャルル10世の寝台」
ルイ16世とルイ18世の弟であるシャルル10世は、ルイ18世が1824年に亡くなると王位につきました。シャルル10世は彫刻家ブリオンにチュイルリー宮用の謁見用寝台を注文しますが、絹織物を再利用するためにルイ18世の寝台と同じ寸法に作られました。天蓋が柱に支えられるのではなく壁に固定されているため、これは吊り天蓋付きの寝台で、大きな背もたれは両脇に2つの兜、上に王冠を配したフランス王家の紋章で飾られています。 -
このシャルル10世の寝台はチュイルリー宮2階のビュラン棟に位置する、かつてナポレオン1世の寝室だった部屋に置かれていました。これは壇上に置かれた謁見用の寝台で、君主が本来の寝台として使用するものではありませんでした。王政復古期にはアンシャン・レジーム(旧体制)下と同様、寝室に重要な象徴性が与えられていました。
-
「ナポレオン3世のアパルトマン」
ナポレオン3世はナポレオン1世の甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後に国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送りますが、1848年革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第2共和政の大統領に当選します。第2共和政の大統領の権力は弱く、共和派やのちに王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握し、1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第2帝政を開始します。 -
約900年にもわたって続いたフランスの君主支配の最後の皇帝だそうです。最後は降伏と革命により在位を失ったので、歴史上はあまり評価は高くなかったそうです。そんな彼の住居だった居室がルーブル宮に残っています。主のいなくなった部屋にはヴィンター・ハルターの描いたナポレオン3世皇妃ウジェニー・ド・モンティジョの肖像画が飾られています。(オリジナルはオルセー美術館)
-
ルーヴル宮ナポレオン3世のアパルトマンの晩餐会場です。窓のような部分の一部は隠し通路になっていて厨房へ続く裏方用通路があるようです。
-
大食堂には鍍金ブロンズで飾った黒ずんだ木製の長いテーブルと食器棚があり、堂々とした趣をそなえています。天井画の異国の鳥の間に見える明るい空はウジェーヌ・アペールの作である。豪華なシャンデリアは先日見てきたオペラ・ガルニエを思い出させます。
-
サロンの壁も天井も全て豪華な模様や絵画で埋め尽くされていますが、ここに来たのは日が暮れてからだったのが良かったかもしれません。昼間よりは趣があるのではないでしょうか。ナポレオン3世の居室の角にある大サロンはその贅沢な装飾を通して、豪華でかつ快適な部屋を好んだ当時の様子をよく示しています。シャルル・ラファエル・マレシャルは、ナポレオン3世によるルーヴル宮とテュイルリー宮の統合を題材に天井画描いています。
-
ルーブル内のこのエリアはグラン・ルーブル・プロジェクトのガラスのピラミッドを造った二十数年前までは大蔵省で使っていました。空き部屋で無かったことと公開して沢山の人が入っていなかったので保存状態が良かったそうです。シャンデリアは下に降ろすことができますが、電気が無かった時代には毎晩のようにろうそくを灯していたのだと思うとすごい労力と費用がかかったことでしょう。
-
大きな2つの部屋の間のカーテンはオペラ・ガルニエの舞台の幕を思わせますが、サロンは劇場としても使われたのでバックステージの役割もあったのではないでしょうか。
-
オルレアン公爵殿下から授与されたトロフィーの由来までは分かりませんでした。
-
少し表の景色を眺めてクールダウンしないと残りの絵画をちゃんと見られない気分です。最後はフランドル絵画からドイツ絵画、最後にフランス絵画の順で廻るはずでしたがフランス絵画まで時間的にたどり着けませんでした。見たかった数枚の作品が見られなかったのは残念です。
-
「レースを編む女」フェルメールの作品は1枚が貸し出し中でした。ルノワールはルーヴル美術館に1870年に収まったこの傑作を、同じくルーヴル所蔵のヴァトーの「シテール島の巡礼」と共に、世界で最も美しい絵画と称していたそうです。デルフトの小ブルジョワ階級に属すると思われる1人の若いレースを編む女が、身をかがめて作業台の上で糸巻きと留めピンと糸を熱心に操っています。オランダ文学や絵画の中で幾度も扱われてきたレースを編む女の主題は、伝統的に家事をする女性の美徳を描くものでした。
-
「天文学者」ヨハン・フェルメール
フェルメールはオランダ経済破綻の影響を受け、貧しい生活を余儀なくされたそうです。多額の借金を残したまま亡くなり破産宣告を受けて、残した作品は全て競売にかけられ、そしてその存在も19世紀半ばまで忘れられていた作家です。 -
この当時は特に好きな作家ではありませんでしたが、数年後にベルギーとオランダの旅行前にフランドルの美術について事前勉強の中で、この時にフランドル絵画をちゃんと見てこなかったことを悔やみました。
-
「花瓶」ヤン・ ファン・ハイスム
ハイスムはオランダの画家で、ルーブル美術館は4つの風景画と静物画の6つの作品を収蔵しています。この当時のフランドル絵画は描く題材によって専門の画家がいて、1枚の絵画でもいくつかの工房で分業が行われていたようです。 -
このような絵画の場合周囲の花を専門に描く画家と中央の天使などの人物は違う作家が描くことがあったそうです。その分業は花鳥や風景や人物と細かく分かれていました。
-
この辺りで閉館の館内放送が入りました。フランドル絵画のボッシュをはじめレンブラントやヘラルト・ダウ、フランス・ハルスにメムリンクにブリューゲルと、今から考えれば倒れそうになる名作を見る事が出来ませんでした。
-
「風景の中のヴィーナス」ルーカス・クラナッハ
クラナッハもこの頃から良いなと思うようになりました。春に行ったウィーンとブダペストの美術館で見たユディットの艶めかしさに魅了されたと言っても過言ではありません。ボッティチェルリのヴィーナスの様に群像だと違和感がありませんが、1人で裸で帽子だけ被っている姿はちょっと滑稽でもありますが、当時はこんな裸婦像が人気があったようです。 -
1529年に描かれたこの絵画にはクラナッハの紋章とアトリエのマークでもある指輪を咥えた小さな竜の楽観が地面の小石の中に巧みに隠されています。マニエリスムの影響を受けて洗練されたこの作品は、ヴィーナスを描いた作品やその他の神話画の注文が殺到していたクラナッハの成熟期に制作されています。裸婦を褒め称えるクラナッハの作品は最もよく知られており、ザグセン選帝候であるヨハン不動公の統治下で多大な成功を収めました。帽子を被り宝石を携えたクラナッハの女性美は、煩悩に対する警告として表現されています。
-
「マグダラのマリアの肖像」
同じくクラナッハの作品です。この旅の前年の2010年11月にルーヴル美術館はルーカス・クラナッハの「三美神」の新規購入のための不足金100万ユーロの寄付を募り、3か月で7,200人の個人寄付者と10社の企業からの寄付で目標は達成しました。 -
「自画像、もしくはあざみを持った自画像」アルブレヒト・デューラー
デューラーは西洋美術史上初めて自画像を描いた画家と言われています。当時ガラスの鏡が発明された事もあり、自画像が普及した時期でもあったそうです。この絵は結婚が決まった22歳のときに描かれ、修行先から故郷に送られたものだそうです。個人的にはこの自画像よりミュンヘンのアルテ・ピナコテークのキリストに摸した自画像の方が好きです。AとDを組み合わせた鳥居の様な図案化したサイン(モノグラム)を使用した最初の画家としても知られています。 -
「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール侯爵夫人と見なされる肖像」
謎に包まれたこの絵は作者も不詳で、フォンテーヌブロー派の誰かとしか分かっていいません。貴婦人の入浴図はこの派の画家たちが好んだテーマで、浮気ごころのシンボルとしてしばしば用いられました。画中の奥の部屋の暖炉の上には裸の男性の下半身が見える絵も掛かっています。 -
画家はトロンプルイユ(だまし絵)の技法を巧みに用いながら、浴槽の中に敷かれた布と画面を縁取っている2つの幕を写実的に描いています。背景の別の部屋で展開している場面によって作り出された奥行きが、だまし絵の効果をさらに高めています。浴槽の2人の貴婦人という場面設定による風変わりで色彩豊かなこの作品は、同時に謎めいた象徴(ガブリエル・デストレが手にする指輪)も備えており、その官能的な描写で華々しい成功を収めました。官能的できわめて繊細な2人の貴婦人の裸体のモデリングは、画面の左側から2人を照らし出している光によって際立てられ、逆に絵の背景は薄暗がりに沈んでいます。
-
描かれているモデルはアンリ4世の寵妃ガブリエル・デストレと、おそらく彼女の姉妹の1人であるヴィヤール公爵夫人、もしくはバラニー元帥夫人と考えられています。ガブリエル・デストレの右の乳房をつまむ、若い女性の愛情のこもった一風変わったしぐさは、ガブリエルがアンリ4世の私生児を懐妊したことを象徴しているという解釈がされています。その背景では1人の若い女性がおそらく生まれてくる子供の産着を縫っているようで、王の寵妃が身ごもっていることの象徴という説を裏付けています。この絵はルーヴル美術館によって1937年に取得されました。
-
そして今回もフランス絵画のエリアを全部見ることが出来ませんでした。ラ・トゥールやドミニク・アングル、カミーユ・コローなど、思いつくだけでも十数枚の絵が頭の中に浮かびます。
-
あと2時間くらいあれば思っていた作品を見る事が出来たかもしれませんが、それで「ルーブル美術館」を見終わるわけでも無く、毎回思う所ではありますがきりが無いというのが正直な印象です。
-
係員に促されてエスカレーターに乗り、宮殿の中庭に出ます。やはりここへはもう何度か来ないと満足できないのだろうと思います。
-
表に出ると晩秋の冷たい空気に身が引き締まる気持ちになります。
-
夜のガラスのピラミッドを見ていると映画「ダ・ヴィンチ・コード」のラストシーンが思い出されます。
-
この旅の時は写真撮影が禁止されていた「オルセー美術館」も撮影が可能になり、2014年の法律改正により「マルモッタン美術館」や「オランジェリー美術館」のモネの睡蓮も撮影が出来るようになったと聞きます。また近い将来にまた来たいと思うパリの美術館巡りでした。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2011 パリの旅
-
前の旅行記
晩秋のパリ旅行(18)念願の個人美術館「ギュスターヴ・モロー美術館」で沈美なギリシャ神話の世界に陶酔し、ファ...
2011/10/22~
パリ
-
次の旅行記
晩秋のパリ旅行(20)旅の最終日はダンフェール・ロシュローからリュクサンブール公園を歩き、サン・シュルピス教...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(1) 羽田空港から中国国際航空で北京を経由してパリへ行き、復路は北京空港のトランジットホテル...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(2)ドゥ・マゴで朝ご飯を食べてクリニャンクールの蚤の市を歩き、趣のあるモンパルナスに在りし日...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(3)パリに住む姪を伴って念願のサン・マルタン運河クルーズを楽しみ、錦秋のパリに「北ホテル」を...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(4)マルモッタン美術館でモネの「印象・日の出」と出会い、エッフェル塔に登るも強風のために途中...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(5)パリ15区と16区のアール・ヌーヴォー建築巡りを楽しみ、ル・コルビュジエの設計したラ・ロ...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(6)シテ島のノートルダム大聖堂のジャンヌ・ダルク像と再会し、サント・シャペルのステンドグラス...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(7)姪と合流して3人でヴェルサイユ宮殿のルイ14世の驚異の世界を感じ、この年最後の噴水と錦秋...
2011/10/22~
ヴェルサイユ
-
晩秋のパリ旅行(8)広大なヴェルサイユ宮殿の庭園の噴水を巡り、牛や羊の遊ぶマリーアントワネットのプチ・トリア...
2011/10/22~
ヴェルサイユ
-
晩秋のパリ旅行(9)アンヴァリッド廃兵院とドーム教会でナポレオンの墓参に行き、アレクサンドル3世橋からコンコ...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(10)コンコルド広場からマドレーヌ寺院を参拝して百楽軒大極楼で中華を食べて、ネオ・バロック様...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(11)ロダン美術館でロダンとローズとカミーユ・クローデルを想い、ゴッホのタンギー爺さんの浮世...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(12)雨の中をパレ・ロワイヤルからヴァンドーム広場まで行くも、諸聖人の祭日で宝飾品店が休みで...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(13)パサージュ・ジュブロアの中にあるグレヴァン蝋人形館で、パリが繁栄した華やかなベル・エポ...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(14)「パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡」を読んで、パリ市内19か所のパサージュ全てを巡...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(15)「パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡」を読んで、パリ市内19か所のパサージュ全てを巡...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(16)プティ・パレ美術館でアール・ヌーヴォーと印象派の絵画に酔い、陶芸家ジャン・カリエスのジ...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(17)オランジェリー美術館でモネの睡蓮に酔い、ギョーム・コレクションにモンマルトルの狂乱の黄...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(18)念願の個人美術館「ギュスターヴ・モロー美術館」で沈美なギリシャ神話の世界に陶酔し、ファ...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(19)3回目のルーブル美術館は5時間という限られた時間でナポレオン3世のアパートメントまでた...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(20)旅の最終日はダンフェール・ロシュローからリュクサンブール公園を歩き、サン・シュルピス教...
2011/10/22~
パリ
-
晩秋のパリ旅行(21)ウッディ・アレンの「ナイト・イン・パリ」かジム・ジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プ...
2011/10/22~
パリ
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2011 パリの旅
0
301