2011/10/22 - 2011/11/06
182位(同エリア756件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1484冊
- クチコミ1138件
- Q&A回答73件
- 2,683,689アクセス
- フォロワー151人
「ヴェルサイユ宮殿」の見学が終わった時点ですでに午後3時になってしまいました。10月30日の日曜日はこの年の最後の「大噴水ショー」の日でもありました。噴水ショーは3時半から始まりますが、お腹も空いているので何か食べなければいけません。そして絶対見に行きたいと思っていたマリーアントワネットの思い入れのある「プチ・トリアノン」とその庭園にも行かなければなりません。だんだん日も傾いてくるし全部を見切るのは途中で無理だと思えました。まず庭園内にある軽食スタンドで人気のピザを食べて軽く腹ごしらえをしながらスケジュールをどうするかの作戦会議もします。「アポロンの泉」で噴水ショーを見て、「プチ・トリアノン」と庭園を見て噴水ショーの終わる5時半までにまた戻ってくるという計画を立てました。結果は「プチ・トリアノン」でも入場に20分ほど並ぶことになり、「ヴェルサイユ宮殿」に戻れたのは5時半を過ぎていたので「ネプチューンの噴水」のショーは見ることが出来ませんでした。でも「プチ・トリアノン」とその庭園は木々が紅葉してそれは美しい眺めでした。ここをゆっくり見学できたので良しとしましょう。帰り道に宮殿を振り返ると一部ですがライトアップされていて夕暮れのブルーモーメントの青い空に映えてとても美しい景色でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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3時間かけて見学を終えた宮殿の建物を出て、表の新鮮な空気を吸ってからヴェルサイユ庭園の見学に出ます。この辺りにいても食事をするところもないので、とりあえず「プチ・トリアノン」を目指して進みます。
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ヴェルサイユ庭園の歴史はルイ13世がフィリベール・ル・ロワに命じて建築させた「狩の館」の庭をジャック・ド・ムヌールが1631年から1636年にかけて造園したことで始まります。当初は小規模なものでしたがルイ14世が親政を開始して数年経った1663年から大々的に拡張されていきます。庭園拡張計画の中心人物であるアンドレ・ル・ノートルは1663年からヴェルサイユ庭園の工事に取り組み、複雑な地形のこの場所に自分の得意とする遠近法の原理や光学的な手法を積極的に採用します。
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ル・ノートルの監修により幾何学的な花壇や泉水を配置し、直線状に延びる大運河が表現されています。ル・ノートルの設計思想の基本は全体を軸線上に対称に配置し、細部に見られる奇抜なデザインとのバランスを図るというものでした。これがヴェルサイユ庭園がフランス式庭園の代表であると評価される理由です。ルイ14 世は常にこの庭園に強い関心を持ち続け、市井の人々に紹介する目的で自ら「ヴェルサイユ庭園見学の手引きと題する本を出版しています。
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イチオシ
宮殿の前に建つ2つの大きな長方形の池は太陽光線を反射し、鏡の間の外壁を照らす効果があります。 ル・ノートルは植物の生命と同じように装飾の要素として光を考慮し、彼のデザインは光と陰の調和の取れたバランスを組み合わせました。この庭園は数回変更されますが1685年に決定的な形が完成しました。
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彫刻された装飾はチャールズ・ル・ブランによって設計され、その作成を監督しました。2つの池にはフランスの4大河を表す4つのブロンズ像で囲まれています。ロワール川はトーマス・レグノーダンの作で、ローヌ川とソーヌ川はジャンバプティスト・チュービー作)、セーヌ川とマルヌはエティエンヌ・ル・オングル作、ガロンヌ川とドルドーニュは宮殿内の彫刻も手掛けたアントワーヌ・コイズヴォックスです。 これらに加えて4つのニンフと4つの子供たちの彫刻が長縁に配置されています。
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ここが宮殿の中心から庭園を俯瞰した位置です。ラトーヌの泉からグラン・カナル(大運河)までがシンメトリーに見渡せます。
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宮殿を背にして左側にはサウス・パルテールの庭園が広がり、フルール庭園(フラワーガーデン)とも呼ばれ、オレンジ色のパルテールを上から眺めることが出来ます。 パルテールの中央部には、青銅のキューピッドを背に乗せたスフィンクスの彫像が置かれた2段の階段が続いています。優先順位をつけてこちらは帰りにテラスから眺めた程度でした。右側にも階段状の庭園がありますが、こちらも最後に1に出走って見に行く程度でした。
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アンドレ・ル・ノートルは、南北と東西の2つの軸を中心にヴェルサイユ庭園を設計しました。 1つ目はネプチューンの噴水から始まり、ウォーターウォークを通り、オランジェリーとスイス衛兵の湖まで続きます。 グランドパースペクティブとして知られる2つ目は、対称の軸のように庭園を2等分し、レトの噴水から王の道から大運河まで続きます。
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王の道は庭園の主要な東西軸であり、ルイ13世の時代に最初に建てられた庭園にまでさかのぼります。 当初は幅約15メートルの急傾斜路でしたが、1660年代初頭に掘られた白鳥の湖、現在はアポロの噴水と呼ばれる池で終わりました。遊歩道は1665年に現在の約45メートルの幅に拡張され、急勾配の坂も緩和され改善されました。
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大運河に向かってバルタザール・マルシ作の彫像が立つのは「ラトナの噴水」です。これはオヴィデウスの「変身物語」が題材になっています。アポロンとディアナの母でユピテル(ゼウス)の愛人であるラトナは、ライバルのユノー(ヘラ)から生涯追放の宣告を受けます。逃走のさなかのデロス島でアポロンとディアナの双子を生み、さらに子供たちを連れて現在のトルコ南部のリュキアに到着し、喉の渇きを癒そうと沼に近づきます。
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水面に顔を傾けると農民達がそれをはばみ水を飲ませてくれません。驚いたラトナは農民達に哀願しますが、農民達は拒み続けます。農民達は沼に飛び込み、水の底で足踏みをして腕で水をかき混ぜ、水面に厚い泥を浮き上がらせます。逆上したラトナは喉の渇きも忘れて、手を天に差しのべこう叫びます。「汝らよ、いつまでも池の淵で生きるがよい!」
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やがて農民達の声が変化して喉が膨れ、口が大きくなり、首が肩に陥没し、お腹が丸く膨れていきます。こうしてリュキアの農民の体は蛙となり、ラトナが誓った復讐どおりに蛙となって永遠に池の淵で生きることになります。以前にトルコのアンタルヤに数日滞在して、リュキアの遺跡などを巡ったことが思い出されました。
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ヴェルサイユを訪れた10月30日は10月最後の日曜日で、この年最後の噴水ショーの日でもありました。そのためでは無いと思いますが、ヴェルサイユ宮殿はエッフェル塔と共にパリの観光で1番混雑していた観光地でした。
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坂道をグラン・カナルへ下っていくと見覚えのある石像がありました。古代の大理石彫刻の最高傑作と言われる「ラオコーン像」です。オリジナルはバチカンのピオ・クレメンティーノ美術館にあります。題材はトロイの神官ラオコーンが木馬が罠だと気が付くのですが、暴露しようとすると女神アテナが遣わせた海蛇によって息子たちと共に絞殺される場面です。古代ローマの博物家プリニウスによると、この彫像のオリジナルの作者はロドス島出身のアゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの3人の彫刻家であるとしている。
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1506年にローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの近くから「ラオコーン像」が出土したときに、自身熱心な古典学者でもあったローマ教皇ユリウス2世が入手し、この像を現在のバチカン美術館の一部にあたる庭園に置きました。 発掘に立ち会ったミケランジェロに多大な影響を与えたとして知られています。この彫像には多くのコピーが存在しておりロードス島のマルタ騎士団本部にも置かれていましたので、オリジナルを含めて3つ目の像です。
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幾何学模様の植え込みの中に小さな丸太小屋があり、人が並んでいました。美味しそうな匂いに誘われてその後ろに並びますが、テラスの客席も少ないので妻は場所取りと手分け作業です。ピザは8ユーロでコーラと一緒に簡単な昼食ですが、朝から何も食べてなかったので美味しかったです。
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食事を済ませてさらに歩を進めるとすでに午後3時30分で前触れもなく噴水ショーが始まりました。アヤメの葉の囲いの中に小さな噴水が立ち上がると白い花が咲いたように見えました。
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ずいぶん情緒のある噴水だと思っていたら10メートル以上の水柱が立ち上がり、そんな情緒も吹き飛びました。
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いくつも並んだ方形の植栽の先にはいくつも噴水が並んでいるのが見えます。噴水にはセレスやフローラ、バッカスやマースなど四季をテーマにした名前が付いて、それにちなんだ彫刻が置かれています。
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迷路のような植込みの中を抜けて大きな噴水を目指して「アポロンの車駕の泉水」に向かいます。紅葉した木々に真っ白い噴水の水が映えてとても綺麗です。ロワール渓谷の木々は黄葉したものが多かったですが、ヴェルサイユの庭園の木々は赤く染まっているものも多かったです。
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「アポロンの車駕の泉水」は「アポロンの噴水」や「アポロンの泉」とも呼ばれます。 シャルル・ルブランはこの泉の中心部を設計し、ギリシア神話の神であるアポロンが海から4頭の馬が牽く戦車にのって昇っていく様を描いています。この池はかつて「白鳥の池」と呼ばれていた湧水地で、ルイ14世が1671年に拡張工事を行った際にこの池の東西に拡張され、ルイ14世とアポロンを同一視させることをコンセプトにルブランに設計させました。
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この時代太陽であるアポロンが海の中から現れる「夜明け」を題材にした絵画は人気があり、ヨーロッパ各地の宮殿の天井などにも描かれています。噴水そのものは1668年から1671年の間に建設されています。
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ギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬であるヒッポカンポスは前半分は馬の姿でですが、たてがみが数本に割れて鰭状になり、前脚には水掻きがついています。胴体の後半分は魚の尾になっていて、ノルウェーとイギリスの間の海に棲んでいると言われます。また怪物のような姿をしたイルカも鼻から水を噴き出しています。
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ギリシア・ローマ時代のある時点でトリトーンは1柱の神格ではなく、複数いる男の人魚族として描かれるようになり「男の人魚」の意味になります。最たる特徴は波を立てたり鎮めたりするためにラッパのように吹く法螺貝で、 高らかに吹き鳴らされる音は巨人族たちが「野獣のうなり声だ。」と勘違いして逃げ出すほど恐ろしいものだったそうです。
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妻の生まれ育った地域ではイルカを食べる習慣があり、近所の魚屋には3枚におろされたイルカが売っていたそうです。独特の臭いがあるのでごぼうを入れて味噌で煮込むそうですが、小学校の下校時に家の近くに来るとその臭いがして嫌だったそうです。
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このまま噴水ショーを見て回るか「プチ・トリアノン」に行くか迷いましたが、プチトリアノンと「王妃の里村」に行って正解でした。
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宮殿を背にの庭園の右斜めの門扉を通って一度表に出ます。普段は自由に入れるようですが、この日は噴水ショーに日なので有料だったようです。ジョギング中のカップルが中に入ろうとしていましたが、チケットが無いのを理由に入れてもらえませんでした。トリアノン通りの脇が牧草地になっていて、羊がのんびり草を食んでいます。
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週明けから行くレンヌとモン・サン・ミッシェルでもこんな光景が見られるのだろうかと考えていました。今回の3週間の旅のハイライトはモン・サン・ミッシェルにしています。
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人の歩かない側道は枯れ葉が絨毯のように積もっています。パリの秋ももう終わりかけているように感じました。
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「プチ・トリアノン」に到着しました。ここでも計算外の長い列に並んで見学することになります。20分ほど並んだので、もう噴水ショーには戻れないなと思いました。
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「プチ・トリアノン」は新古典主義様式の建築であり、建物は正方形というシンプルな形をしています。内装はロココ様式の最高峰とも評されています。1762年から1768年にルイ15世の公妾であるポンパドゥール夫人のために建てられたもので、アンジュ・ジャック・ガブリエルの設計によります。しかし宮殿が完成した時にはポンパドゥール夫人はすでに亡くなっていました。その後ルイ16世の王妃マリー・アントワネットに与えられます。彼女は庭をイギリス式としてそこに農村に見立てた小集落「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ」を造らせます。日本では「王妃の村里」として知られています。
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マリー・アントワネットは煩わしい宮廷生活を免れるためだけでなく、自らの任の負担を払拭するために「プチ・トリアノン」を訪れたそうです。ヴェルサイユでは彼女は家族と裁判所の両方からのプレッシャー下にあり、プチ・トリアノンは彼女が安らぎと余暇を楽しめる場所であったそうです。
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1774年にルイ16世の即位とともに18歳の若さで王妃となったマリー・アントワネットはその責任と立場を理解できず、夜になるとお気に入りの寵臣を従えてパリに出かけてはオペラ座で仮面舞踏会に遊び、賭博にも熱中していました。
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2人の間に子どもが生まれないことを案じた母親のマリア・テレジアは、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世をヴェルサイユに遣わせます。夫妻それぞれの説得にあたらせてルイ16世は先天的性不能の治療も受けました。その甲斐もあって結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれます。その後4人の子ども(長男と次女は夭折)に恵まれた彼女は母としての喜びを感じていたと思われます。
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マリー・アントワネットはプチ・トリアノンを好きなものだけに囲まれた自分の世界に創り上げて、子どもたちを育てながらお気に入りの寵臣たちとともに舞踏会やゲームを楽しんだそうです。ここでの全ての権限は彼女にあったため、誰も許可なくして入ることはできず、国王であり夫でもあるルイ16世さえも客人として扱われていました。エントランスの階段の手摺にもマリー・アントワネットの頭文字のMとAのアナグラムがそのことを感じさせます。
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「薔薇を持つマリー・アントワネット」はエリザベド・ルイーズ・ヴィジェ・ルブランが描いたものです。女流画家として有名なルブランが描いた豪華な衣装を着た美しい王妃マリー・アントワネットの代表的肖像画です。
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肖像画のマリー・アントワネットが手にしているのは「ロサ・セイティフォリア」というバラで、フランス語で「100枚の花びら」という意味を持つ花弁が豊かなオールドローズです。彼女はその香水も愛用していたそうです。当時のヨーロッパ貴族は体臭を消すことを主な目的として、ムスクや動物系香料を混ぜた濃厚な香りの香水を使用していましたが、マリー・アントワネットはバラやスミレの花やハーブなどの軽やかで華やかな香りの香水を愛用したそうです。
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マリー・アントワネットの胸像も置かれてありましたが、宮殿で見た華やかで自信を持った姿とは少し違うように思えました。肖像画とは対照的な雰囲気を感じます。
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トリエステのキャッスル・ミラ・マーレやコルフ島のアヒリオン・パレスなどハプスブルグ家の女性の愛した別荘を訪ねたことがありますが、女主のいなくなった物悲しさみたいなものをこの建物でも感じました。
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「お供の間」はマリー・アントワネットが心許せる寵臣や貴族たちとダンスや音楽やゲームを楽しんだこの建物の中でも最も大きい部屋です。サロンに置いてあるいくつかの楽器、特にハープを愛でていたというマリー・アントワネットの音楽への愛情を感じさせます。
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この大きな部屋を明るく照らすランタンは1784年にルイ15世が選んだシャンデリアをマリー・アントワネットが取りかえるように命じたものです。金メッキされた青銅製で、青色のラピスラズリで飾られています。
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「プチ・トリアノン」ではマリー・アントワネットのプライバシーの保護のためにろうそくの光を採用したそうです。
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「内殿」はもともとルイ15世のプライベートルームとして使用されていた部屋ですが、マリー・アントワネットがプチ・トリアノンを贈られたときに特別なプライベート空間にしようと改修しています。窓を覆うことができる可動式の2つの大きな鏡を設置し、完全にプライバシーが守られたこの部屋を完成させています。
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「王妃の寝室」はルイ15世の公妾だったデュ・バリー夫人が寝室として使用していた部屋でしたが、ポン・トー・ダム修道院へ入るよう追われた後に引き継いだマリーは家具を新調するなどこの部屋を改装しました。刺繍された小花柄と柔らかい色合いの家具が女性らしさを感じます。寝室の窓からは庭園にある「愛の神殿」を眺めることができました。彼女の寝室はシンプルですが ジョルジュ・ジェイコブとジャン・アンリ・リゼナーの家具を配しています。ファブリックはジャン・バプティスト・ピメントによって造られました。
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フレンチビリヤードとも呼ばれるキャロム・ビリヤードの台が置かれてありました。これは懐かしくて、中学生の頃に駅前のビリヤード屋で初めて覚えたのが「四つ玉」でした。その後プールバーなんてものが流行るのですが、その頃もスリークッションを楽しんでいました。
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現在は博物館になって誰も住んでいるわけではありませんが、マントルピースの上に置かれたマリー・アントワネットの彫像があるだけで彼女の残留思念みたいなものを感じる事が出来る気がします。
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当時ファッショナブルな彼女のハイウィッグは、リボンで飾られた花で彩られています。この作品は1783年にサロンで発表されましたが、当時マリー・アントワネットは28歳で、フランスの女王になって9年目で2人の子供の母親でした。
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肖像画と胸像だけがマリー・アントワネットがここに存在したのだと分からしめてくれます。
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先ほど見学したマリー・アントワネットの寝室から見えた王妃が愛人と密会したとされる「愛の神殿」はリシャール・ミックの設計です。ロココ的着想と古典主義様式の融合を感じさせます。
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「プチ・トリアノン」を出て「王妃の里村」へ向かいます。見晴らし台は工事中だったので、小劇場方面もカットして庭園の散歩を楽しみます。
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この日は天気も良くて本当にパリ郊外の晩秋を楽しんだような日でした。まさに紅葉の盛りで、これから寒い冬が来るであろうと思える季節の変わり目を感じました。
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何とも面白い選定をした松がありました。BONSAIはすでに世界の共通語になっていますが、この庭にも再現されたのでしょうか。
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毎日のように夜中に雨が降るのでしっとりとした日本の晩秋に近いものを感じました。
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写真を撮るために両親が前で注意を引いても誰一人言うことを聞かない子供たちでした。ここまで言う事を聞かない子供も珍しいなと思って風景写真の隅っこに入れてみました。
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ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌは「王妃の村里」と呼ばれるイギリス式庭園風に理想的な村を模して、主にフォリー(居住用ではない装飾用の建築物)が建てられている庭園です。
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マリー・アントワネットには時折くつろぐことができる場所として小さな里村への愛情が生まれました。1783年から1788年までにプチトリアノンの東にリシャール・ミークによって設計されたハムレット (フランス語: アモー)が彼女のために造られていきます。ただこうした人里離れた村のアイデアは新しいものでもなく、当時は田舎風の装いはファッショナブルであり、田舎での生活も自由や美といった観念に関連していたそうです。
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アモーでの王妃の生活は民衆からの不人気へとつながっていきます。彼女の浪費癖や無駄遣いの噂はすでに悪評を得ており、銀のレーキや小さな磁器のバケツを持ったマリー・アントワネットが「農民の生活」を送っていたという考えは、当時まったくひどい生活を強いられていた田舎の人々を困惑させただけでは事足りず、さらに村の維持に多額の金銭を飲み込むという噂が流布していました。
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ようやく農家に到着です。ここまで来るのにも1キロ近い道のりがあります。村里を全部回って「プチ・トリアノン」に戻ると1時間はみておかなければならなそうです。現在も農村の雰囲気は維持されていて、ヒツジや牛が実際に飼われています。
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アモーの中央部分は女王の個人使用のために構成する3つの建物:ウォーミングルームと私室と王妃の家がありました。実際には屋根付きの通路で連結されていますが、2つの家は別々に構成されています。水車に鳩小屋、番所に納屋、乳製品を造るための部屋も再現され、園芸長や王妃の安全を守る警備員のいる見張り塔など数人が実際に住んでいたそうです。
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ベルサイユ宮殿から離れることを好んだマリー・アントワネットは、散歩や小さな集まりを楽しむことができるアモーがとても好きでした。 ここで行われた農業や園芸は子供たちの教育の重要な場でもありました。
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革命の間この場所は放棄されたままになっていました。 1810年にナポレオン1世はアモーを復元するための作業を始めました。 納屋と作業中の酪農場は荒廃が進んだ状態だったので取り壊され、他の8つの建物は以前の状態に復元されました。 アモーが復元されるとナポレオン1世は2番目の妻であるオーストリアの若い皇后マリー・ルイーズにそれを贈りました。 この贈り物は非常に象徴的な贈り物だったのはマリー・ルイーズ自身がマリー・アントワネットの姪だったからです。
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家の外観こそシンプルですが内装は豪華だったそうです。王妃の家は壮大な私室で豪華な装飾がなされ、ビリヤードルームやギャラリーやボールルームまであったそうです。
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ブドウの栽培も行われていました。既に収穫済みでしたがワインも醸造していたのではないでしょうか。ブドウ畑の奥には灯台のような見張り塔が見えます。
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本当に村人がいないだけで完璧な農村の風景がここにはあります。まるでピーテル・ブリューゲルのテーマパークに迷い込んだみたいです。
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当時はジャン・ジャック・ルソーをはじめ、自然への回帰を謳っていた啓蒙思想に影響を受けたマリー・アントワネットは、アンドレ・ル・ノートルによるフランス式整形式庭園とは正反対ともいえる自然風で素朴な庭園づくりのために、国王の第1建築家リシャール・ミックを監督としてこの「王妃の村里」の建設に着手します。
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リシャール・ミックは著名な画家で庭園デザイナーでもあるユベール・ロベールからインスピレーションを受けて設計したと言われています。
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ロベールはイタリアの古代の遺跡とロベールの生きた時代の人々の生活との対比に強い興味を抱き、しばらくヴェドゥータと呼ばれる都市景観画を得意とするイタリアの画家の工房で学び、フランスに戻ると、画家としてすぐに成功をおさめ、王立絵画彫刻アカデミーの会員に選ばれます。サロンへは毎年出展しますが、王室の庭園設計者や美術庫の学芸員に任命され、王立絵画彫刻アカデミーの評議員にも任じられます。
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今回の旅でもスケッチをする時間はありませんでしたが、今度ここへ来ることがあるとしたら時間を気にせずに絵を描いてみたいなと思いました。
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小さな穴が並んでいるのは鳩小屋だと思います。まるでこの地に元々あったような風格の農村の風景が再現されて残されています。
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ここは妻も姪も気に入ったようで、噴水ショーを諦めてこちらに来てよかったと思いました。
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この時は建物の中が公開されていなかったのですが、内部もじっくり見てみたいと思いました。建物の外観はマリー・アントワネットの在りし日のままに改修されましたが、内装は王妃が使用していた頃の家具類は散逸してしまっているため、ナポレオン1世の2人目の妻でマリー・アントワネットの姪に当たるマリー・ルイーズの時代の家具や調度品が入れられているそうです。
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修復もされているのである意味テーマパークか民芸村みたいですが、ここまで完璧だと気持ち良いです。
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ロワール渓谷の12の古城を巡った際も暖炉には本物の火が入れられ、薪がぱちぱちハゼていたり、秋の花が見事なほどに活けられて驚きました。厨房には野菜も並べられ、人は住んでいなくても生活感が感じられて感動しました。
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今でもこんな萱葺きの屋根を修復する技術がフランスにも残っているのですね。日本でも難しくなってきている技術なので今後も残っていくことを望みます。
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水車小屋は残念ながら動いていませんでした。
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そろそろ「王妃の里村」も見納めです。晩秋の日暮れはあっという間に暗くなるので宮殿に戻ることにします。
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同じ道を戻ってゲートで入場券を見せてヴェルサイユ宮殿の庭園に再入場します。
アポロンの泉の噴水ショーはもう終わっていました。 -
たくさんの観光客もそろそろ家時につき始めています。急いでも電車は混んでいるだろうと想像できるので、少し時間をずらすことにしました。
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大運河グラン・カナルに浮かんでいたたくさんのボートもすでに一艘も浮かんでいません。そういえばゲートの手前の貸自転車屋も店を畳んでいました。
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木々の間に直径32メートルの大理石のコロネードに囲まれた噴水が見えました。写真だと近くに見えますが、立ち寄って見学したいと思っても時間がかかるので諦めます。遠目に見える大理石の彫像はギリシャ神話の冥界の王プルートが一目ぼれした女神の娘プロセルピナを連れ去ろうとする「プロセルピナの略奪」だと分かりました。1995年にローマのバロック時代を旅した際に、ボルゲーゼ美術館で一連のベルニーニの作品を初めて見た時の感動が蘇りました。
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あれほどいた人もすっかり減って、帰路へ着く人の流れが出来ています。
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最後にも一度「ラトナの噴水」を見ておきます。この噴水のショーもすでに終わっていました。ラトナがアポロンとディアナを連れて現在のトルコの地中海沿岸のリュキアにたどり着いた話を思い出すと、ギリシャ神話ではアポロンは太陽の神でディアナは月の女神だという事だけでは無く、ディアナは別名アルテミスだったことも思い出されます。
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アルテミスは豊穣の神で多産を司る乳房をたくさん持った姿で現され、リュキアの近くのエフェソスはアルテミス女神崇拝の一大中心地で、世界七不思議のひとつのアルテミス神殿があった場所です。ギリシャやローマの神話を神話を多少知っていると彫刻の意味が読み解けたりするので楽しいです。
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四大河を擬人化した像まで戻ってきました。夕暮れのヴェルサイユ宮殿は何故か寂しい気分にさせられます。いくつかの部屋には明かりが灯ったようです。
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ヴェルサイユの庭園も見納めです。
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最後に妻と姪を置いて坂道を走って降りて、「ネプチューンの噴水」も見ておきました。残念ながら丘を下った東側はすでに薄暗くなっていました。2人を待たせられないのでまた坂道を駆け上がってもどりました。
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フルール庭園もすっかり暗くなっていましたが、オレンジ色のパルテールを上から眺めました。 パルテールの中央部には、青銅のキューピッドを背に乗せたスフィンクスの彫像は初めて見ました。宮殿内にはまだ見学している人の姿が見えましたが間もなく閉館です。
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入るまで1時間以上かかったA入口の前も人は誰もいません。夕暮れの青い空にライトアップした門と宮殿が美しく浮かび上がっています。
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ちょっとこの世のものとは思えない美しさでした。
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12時30分に入館して駆け足で見学しても午後6時でした。庭園の半分は見る事が出来なかったし、トリアノンの見学もできませんでした。
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次に来るときは2日くらいかけないと納得できないなと思いました。
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この夜景を見るだけでも価値があると思います。
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帰る前に記念写真を撮っておきます。姪もヴェルサイユが気に入ったようで、後年に義兄夫婦がフランスへ行った際にはヴェルサイユで1泊泊って見学したほどでした。
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もちろん2人の写真も残しておきます。
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日中見た時もフェンスは美しかったのですが、ライトアップするとさらに美しく輝いていました。昼間は気が付きませんでしたが、足元にLEDのライトが仕込まれてありました。これも2009年の改修工事ならではの工夫でしょうね。
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もう一度来たいと思わせるヴェルサイユ宮殿と庭園の1日でした。
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この後はパリ市内に戻って3人でセーヌ川のナイトクルーズですが、それはまたパリの夜景編の旅行記で紹介します。
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旅行記グループ 2011 パリの旅
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