旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

hiroさんのトラベラーページ

hiroさんのクチコミ(6ページ)全476件

条件をクリア
エリア
カテゴリ
並び順

  • ホテル
  • ショッピング
  • グルメ・レストラン
  • 交通機関
  • 観光スポット
  • 基本情報
  • 総重量およそ100トンにもおよぶ耐候性鋼板の大鳥居や参道の広さなどに圧倒されました!

    投稿日 2021年09月18日

    靖国神社 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『靖國神社』は、1869年(明治2年)に「明治天皇」の勅令により『招魂社(しょうこんしゃ)』として現在の千代田区九段北3丁目に創建した歴史の浅い神社です。
    『招魂社』創建の経緯については、日本における近代的な統一国家構築にあたり明治維新の混乱期の中で1867年(慶応3年)に徳川幕府・第15代将軍「徳川慶喜」が自ら徳川幕府による政権を天皇に返上した「大政奉還」の後に「徳川慶喜」への処遇をめぐり、1868年(慶応4年)に「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」が皮切りとなり「上野の彰義隊の戦い」のほか「会津戦争」さらに1869年(明治2年)の五稜郭における「箱館(函館)戦争」まで国内各地で繰り広げられた戦の総称となる「戊辰戦争」により、近代国家が誕生する大変革の過程の中で尽力し尊い命を捧げられた多くの方々の事績を永く後世に伝えるとともに御霊を慰めることを目的に祭神として祀られています。
    その後も国内最後の大規模な内戦として知られる1877年(明治10年)の「西南戦争」などにより尊い命を捧げられた方々の御霊も祭神として合祀、1879年(明治12年)になると社号が現在の『靖國神社』に改称されています。
    この『靖國』の社号については、「明治天皇」の命名によるもので平和な国家を建設する願いとして”国を靖(安)んずる”を意味する想いが込められています。
    さらに諸外国との武力衝突による戦争や対外事変として1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて行われた「日清戦争」、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の「日露戦争」、1931年 (昭和6年)の「満洲事変」、1937年(昭和12年)の「支那事変」、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)の「太平洋戦争」など国家のために尊い生命を捧げられた方々の御霊も合祀され現在では246万6千柱あまりの御霊が祭神として祀られており、「伊勢神宮」を本宗として「古事記」や「日本書紀」の神話に登場する「八百万神(やおよろずのかみ)」を祭神として祀る「神社本庁」が包括する日本各地の一般的な神社が属する包括宗教法人と異なり、『靖國神社』は単立宗教法人となっています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めて『靖國神社』を参拝しようと思い短時間でしたが正面から境内に入り「拝殿」で参拝してきました。
    『靖國神社』正面から拝殿までの参道には、1964年(昭和39年)に再建された当時の最新技術による耐候性鋼板の表層を錆安定処理を施し落ち着きのある黒褐色が特徴的な再建時に国内最大規模の高さ25メートル・柱直径1.88メートル・柱(中芯)間幅19.56メートル・笠木長さ34.13メートル・総重量およそ100トンにもおよぶ「第一鳥居(大鳥居)」をはじめ、日本初の西洋式銅像として1893年(明治26年)に制作され「東京三大銅像」と称される「大村益次郎銅像」(台座を含む高さ12メートル)、1887年(明治20年)に当時の最先端技術を駆使し柱に継ぎ目をもたない青銅製鳥居として制作され、『靖國神社』境内の中で最も歴史の古い鳥居でもあり国内の青銅製鳥居の中で最大規模(高さ15メートル)となる「第二鳥居(青銅大鳥居)」、さらに1934年(昭和9年)に建立された直径90センチメートルの丸太柱が12本、扉1枚の寸法が幅およそ2.8メートル・高さおよそ6メートルの扉2枚1組となって建物3箇所に設置され中央2枚の扉に直径およそ1.5メートルの菊の紋章が取り付けられた木造(台湾産・総檜)・切妻銅板葺屋根の「神門」、2006年(平成18年)に埼玉県秩父市「三峯神社」の樹齢500年の檜から造られた素木の「中門鳥居」、1901年(明治34年)に建立された木造・入母屋向拝唐破風付銅板葺屋根の「拝殿」など境内各所に見どころの多い神社であり、特に「第一鳥居(大鳥居)」の規模や参道の広さ、「神門」の柱の太さ・扉の大きさに圧倒されました。
    また『靖國神社』境内には、東京の桜・開花宣言の基準となる標本木があるなど桜の名所でもあるので機会があれば桜の咲く時季にあわせて立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロまたは都営地下鉄・九段下駅(出口1)から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが、参拝される方はまばらでした。
    バリアフリー:
    4.0
    幅の広い参道に段差はありませんが、拝殿部分に段差があります。(スロープも設置されています。)
    見ごたえ:
    4.0
    境内各所に見どころの多い神社です。

  • ゴルフ場に併設されたホテル施設の源泉掛流し天然温泉(露天風呂付き)に癒されました!

    投稿日 2021年09月06日

    白沢高原ホテル 利根・白沢

    総合評価:4.0

    『白沢高原ホテル』は、1992年(平成4年)にオープンした沼田盆地・東側の「白沢高原」(沼田市白沢町)に位置する標高およそ630メートルのゴルフ場施設となる「初穂カントリークラブ」の「クラブハウス」建物内部に併設され宿泊客室のほかレストラン施設と宴会場、天然温泉施設を所有し、ゴルフ場利用者以外の方も宿泊およびランチならびにディナーや温泉施設の日帰り入浴など気軽に立ち寄り利用できるほか冬場はスキー場と提携しているお勧めのホテル施設です。
    『白沢高原ホテル』へのアクセスは、関越自動車道「沼田インターチェンジ」から自動車で13分程度であり、「国道120号(日本ロマンチック街道)」を東側(日光方面)へ約5キロメートル先にある「道の駅白沢」交差点を左折してから2キロメートルほどの場所です。
    今回は、自動車で沼田市エリアを訪れた際にゴルフ未経験のゴルフ場に立ち入るのも初経験となるメンバーによるランチ休憩で「初穂カントリークラブ」と併設する『白沢高原ホテル』に立ち寄り、レストラン施設での食事とあわせて日帰り入浴で温泉施設「初穂美肌の湯」を利用してみました。
    利用したのは日曜日の昼時で、ちょうど「初穂カントリークラブ」が毎月主催しているクラブメンバー対象の「月例杯」の日と重なっており駐車場がほぼ満車状態であるのに戸惑いながらアメリカンリゾートをイメージして建設されたといわれる「クラブハウス」2階部分のエントランスから建物内に入り、ホテルのフロントで改めて一般利用の確認を取りました。
    フロントのある2階のロビーから一部吹き抜け空間のあるラウンジと繋がる天井高の高いレストラン施設の窓からは、ゴルフ場のコースを見下ろせるとともに遠くに標高1,828メートルとなる「赤城山」まで望める高原の大パノラマが広がる眺望もお薦めできます。
    レストラン施設での食事も”日本そば(天ぷら・稲荷寿司・小鉢付き)”を注文しましたがリゾート気分を味わいながら美味しくいただくことができました。
    また、温泉施設「初穂美肌の湯」(源泉名;初穂の湯)は、「初穂カントリークラブ」敷地内から湧き出る源泉掛流しの露天風呂付き天然温泉(温度:57度)で、泉質が美肌効果、疲労回復やストレス解消に最適とされる無色透明の「アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)」(PH値:9.8)に癒されました。
    沼田市エリアを訪れる機会があれば、また立ち寄ってみたいと思える施設です・・・

    旅行時期
    2021年08月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    4.0
    関越自動車道・沼田インターチェンジから自動車で13分程度(約7キロメートル)です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    ランチおよび日帰り入浴での利用でした。
    接客対応:
    4.0
    風呂:
    4.0
    初穂カントリークラブ敷地内から湧き出る源泉掛流しの露天風呂付き天然温泉です。
    食事・ドリンク:
    4.0
    バリアフリー:
    4.0

  • 国内初の本格的な上水道の取水口跡です!

    投稿日 2021年09月04日

    神田上水取水口「大洗堰」 目白

    総合評価:3.5

    『神田上水取水口・大洗堰』は、1590年(天正18年)に「豊臣秀吉」による小田原征伐により領地替えとなった「徳川家康」が江戸入りの際に「江戸城」周辺に上水(生活用水)を引き込む「小石川上水」として整備が開始され、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる1629年(寛永6年)ごろに整備が完了したと伝えられる国内初の本格的な上水道である『神田上水』の取水口として現在の文京区関口付近の「神田川」に架かる「小滝橋」あたりに川の水位を上げるために築かれていた堰です。
    ちなみに「徳川家康」が江戸入りした当時の「江戸城」南側周辺には、「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がるエリアが存在し、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であることから「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで生活用水となる飲料水の確保が重要課題となっていました。
    『神田上水』概要は、武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)から発する「神田川」の流れに補助水源として「善福寺池」(現:善福寺公園)から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」(現:妙正寺公園)から発する「善福寺川」の流れが「神田川」と合流してから『神田上水取水口』に上水を取り込むために『大洗堰』が築かれ、「神田川」から取り込まれた上水は、「自然流下方式」と呼ばれる高低差を利用した開渠部分の開削水路を流れ途中で「水戸徳川家・江戸上屋敷」(現:小石川後楽園)敷地内を通過したのちに現在の千代田区と文京区の区境を流れる「神田川」に架かる「白山通り(東京都道301号)」の「水道橋」から約100メートル下流部分で「神田川」上部を跨いで上水を流す橋の役割となる木製懸樋を渡し、そこから先は暗渠(地中埋設)部分となり配水管の役割となる木樋などを用いて神田・日本橋方面に拡張しながら上水が供給されています。
    『神田上水取水口・大洗堰』の建設時期は定かではありませんが、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中で『大洗堰』全景が「目白下大洗堰」として堰から流水が大滝のように流れ落ちる様子を描いた絵が紹介されています。
    そのほか『大洗堰』の規模についても徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1810年(文化7年)から1830年(文政13年)に編纂された「新編武蔵風土記稿・16巻(豊島郡8)」の中で”石造り、長さ10間(約18メートル)、幅7間(約12.6メートル)、取水口8尺(約2.42メートル)余、側に水番人の小屋あり”と紹介されています。
    江戸から東京市となった明治期の1901年(明治34年)に近代水道の敷設が完了すると上水を供給する『神田上水』の役割が終了し、「水戸徳川家・江戸上屋敷」跡地にできた「東京砲兵工廠 (兵器工場)」へ工業用水の供給に代わりましたが、「東京砲兵工廠 (兵器工場)」が1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)まで段階的に九州「小倉工廠」に移転したことに伴い工業用水の供給が1933年(昭和8年)に廃止され『大洗堰』が撤去されています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に歩行者専用の「小滝橋」を渡り、橋の袂に設置されいる「神田上水取水口大洗堰跡 区指定史跡」案内板で『大洗堰』跡であることが確認できましたが、川底が深く両岸をコンクリート製護岸で築かれている現在の「神田川」からは、「江戸名所図会・4巻(12冊)」に描かれている『大洗堰』から流水が大滝のように流れ落ちる面影を感じることはできませんでした。
    この辺りの「神田川」は、川に沿って「神田川桜並木」として自転車・歩行者専用道路とあわせて「江戸川公園」が整備されているので、次回は桜の花が咲く季節に花見として立ち寄ってみたいと思います。
    また「江戸川公園」敷地内の一画には、『大洗堰』遺構の一部となる「神田上水取水口の石柱」が残されており、こちらは当時の『神田上水取水口』をイメージすることができました。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩7分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    神田川沿いの自転車・歩行者専用道路(神田川桜並木)を通行する人は常にいますが、気になる程ではありません。
    バリアフリー:
    4.0
    神田川沿いの自転車・歩行者専用道路(神田川桜並木)に段差はありません。
    見ごたえ:
    3.0
    現在の神田川からは、当時の大洗堰から流水が滝のように 流れ落ちる面影を感じることはできませんでした。

  • ”仰高門”は、幕末期に新撰組の一員であった”斎藤 一”が晩年に看守を務めていた総門です!

    投稿日 2021年08月29日

    湯島聖堂 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『湯島聖堂 仰高門』は、1690年(元禄3年)に儒教の教えを学問の儒学として重んじていた徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の命により、儒学の更なる振興を図ることを目的に儒教の創始者「孔子」と儒教の先哲を先師・先聖として祀る「孔子廟」とあわせて「学問所」施設として創建された『湯島聖堂』(現:文京区湯島1丁目)の総門となります。
    ちなみに総門の名前の由来は、孔子がどんな人物かと尋ねられた弟子の顔回が答えた内容「先生は仰げば仰ぐほど高さを増す素晴らしい人です」を引用したといわれています。(「論語」子罕第九による”顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅”)
    そのほか『湯島聖堂』が創建したことにより、江戸時代初期の徳川幕府に仕えていた朱子学派の儒学者「林 羅山」が私邸内に開設していた私塾「忍岡聖堂」(現:上野恩賜公園内)が『湯島聖堂』に移転となり、『湯島聖堂』が林家の学問所(私塾)となっています。
    儒教については、世界の偉大な思想家「四聖人」のひとりに数えられ魯国・昌平郷(現:中華人民共和国・山東省曲阜市)の地に誕生した「孔子」(生誕:紀元前552年頃・死没:紀元前479年)が唱えた「五常」の徳目「仁・義・礼・智・信」を守ることで「五倫」とされる「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の関係を維持するなど武力による支配を批判し、上下の秩序を守り徳によって政治をおこなうといった思想が含まれ、「孔子」が弟子たちと交わした問答が「孔子」の死後およそ400年の歳月をかけて「論語」として編纂されています。
    日本国内においては、仏教の信仰にあわせて僧侶のたしなみとして儒教の思想が日本国内に浸透し、江戸時代を迎えると学問の儒学として捉えられるようになっています。
    徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)になると林家の学問所(私塾)から徳川幕府直轄教学機関となる「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が設立され、その2年後の1799年(寛政11年)になると敷地を拡大して各施設の大規模な改築工事が執り行われています。
    当時の『湯島聖堂』全景が1836年(天保7年)に刊行された江戸府内とその近郊(武蔵)の地誌となる「江戸名所図会・5巻(14冊)」に『聖堂』として鳥瞰図を用いて紹介されており、各施設の配置などが現在と変わらない様子がうかがえます。
    明治時代を迎えると明治政府の「官立・昌平学校」となるものの1871年(明治4年)に閉鎖となり、文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策などが講じられるようになっています。
    また、幕末期に新撰組の一員として活動していた「斎藤 一」が晩年の1894年(明治27年)からの約4年間を当時「東京高等師範学校附属東京教育博物館」(現:国立科学博物館)となっていた『湯島聖堂』の看守(守衛長)を務めており、『仰高門』脇の門衛で勤務していたといわれています。
    大正時代を迎えると『湯島聖堂』は、1922年(大正11年)に国の「史跡」に指定されますが、その翌年に発生した「関東大震災」により敷地内のほとんどの施設が焼失しており、焼失した各施設は1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
    今回は、お茶の水エリアを訪れた際に久しぶりに『湯島聖堂』に立ち寄り、正門出入口となる総門の『仰高門』から敷地内に入り、高低差のある敷地内の石段を上り「大成殿」(正殿)前に広がる石畳の「前庭(広場)」までいきました。
    以前にも数回に渡り『湯島聖堂』に立ち寄っていますが、静寂でどことなく異国を感じる敷地内に入ると都会の中にいることを忘れ現代社会と切り離されたような誰もいない空間の中で時の経つのも忘れて立っていると時空を超えて雑念が洗い流されたような清々しい気分となり、機会があればまた立ち寄りたいと感じるお薦めのエリアです。
    そのほか敷地内は見どころも多いですが、土曜・日曜・祝日など限定で正殿である「大成殿」内部が公開されますので、『湯島聖堂』が初めての方は「大成殿」内部が公開される日にあわせて立ち寄ることをお勧めします。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後に立ち寄りましたが、数名の人とすれ違うだけでした。
    バリアフリー:
    2.0
    敷地内は高低差があり石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    日本の寺院とは異なりどことなく異国を感じさせる静寂な空間です。

  • 外装仕上材のリブ付きステンレス製鋼板の曲線美が美しい建物です!

    投稿日 2021年08月28日

    東京カテドラル聖マリア大聖堂 目白

    総合評価:4.0

    『東京カテドラル聖マリア大聖堂』は、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から「目白通り(都道8号)」を北側に進み「音羽通り(都道435号)」との分岐点となる「目白坂下」交差点を左折(西側方面)して「目白新坂」を上り切った「目白通り」沿いの文京区関口3丁目に位置する「東京大司教区・カトリック関口教会」の司教座聖堂(カテドラル)として、「第18回 オリンピック競技大会(通称:東京オリンピッ)」が開催された1964年(昭和39年)12月に竣工しています。
    ちなみに「カトリック関口教会」の歴史については、1888年(明治21年)にカトリック系孤児院の職業訓練の場として開校した「聖母仏語学校」敷地内に附属施設となるゴシック様式の木造聖堂が1899年(明治32年)に建設され、翌年の1900年(明治33年)になると木造聖堂が小教区聖堂の「聖母教会」として独立、その後の1904年(明治37年)に「聖母仏語学校」が閉鎖となり、さらに1920年(大正9年)になると大司教区であった「築地教会」が「聖母教会」に移転したことにより小教区聖堂の「聖母教会」から大司教区の司教座聖堂となったことにより名称が「カトリック関口教会」に変更しています。
    1899年(明治32年)に建設された木造聖堂については、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」において特に被害を受けることはありませんでしたが、「太平洋戦争」末期の1945年(昭和20年)に東京を襲った空襲により焼失しています。
    その後は既存の建物などを司教座聖堂として転用していましたが、日本でのカトリック再布教100年事業の一環として1962年(昭和37年)に新たな司教座聖堂建設に向けた3名の著名な建築家による指名設計コンペ(前川國男・谷口吉郎・丹下健三)が実施され、最終的に「丹下健三」氏の設計案となる『東京カテドラル聖マリア大聖堂』が採用されています。
    『東京カテドラル聖マリア大聖堂』の外観は、菱形の底部平面形状から外壁と屋根の役割を兼ね備えた鉄筋コンクリート造の”HP(双曲放物面)シェル”と呼ばれる4種類(2枚1組)計8枚の構造体をほぼ垂直(最高高さ:39.42メートル)の状態で建てかけるようにしながら最頂部が十字架の平面形状となるように組み合わせた構造となっています。
    さらに十字架の平面形状となっている最頂部開口部分にはトップライトが組み込まれており、特徴的な形状の”HPシェル”外装仕上材には凹凸のあるリブ付きステンレス製鋼板が採用され存在感のある美しい曲線美の建物外観に仕上がっています。
    1966年(昭和41年)になると『東京カテドラル聖マリア大聖堂』が「第7回 BCS賞」を受賞(現在の「日本建設業連合会」が表彰する名誉ある賞、受賞した当時の団体名は「建築業協会(通称:BCS)」)、さらに2003年(平成15年)には”DOCOMOMO JAPAN”選定の現存する近代建築として「日本におけるモダン・ムーブメント」の建築に選ばれています。
    学生時代に建物見学で『東京カテドラル聖マリア大聖堂』に立ち寄ったことがありますが、今回は「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に『東京カテドラル聖マリア大聖堂』を見学したくなり建物外観の写真撮影をしてみました。
    聖堂内部も見学したかったのですが、新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言中でもあり聖堂内部への立ち入りができなかったのが残念です。(38年ほど前の学生時代に聖堂内部も見学したことがありますが、十字架型のトップライトから降り注ぐ光の中に広がる静寂なコンクリート打放しの大空間は見どころのひとつでもあります。)
    機会があれば、『東京カテドラル聖マリア大聖堂』の内部見学が可能な時期にまた立ち寄り写真撮影をしてみたいと思います。
    天候のよい日は、青空とともに光り輝く外装仕上材のリブ付きステンレス製鋼板のコントラストが美しく写真撮影にお薦めできる建物です。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅または護国寺駅、東京メトロ副都心線・雑司が谷駅から徒歩15分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、自分のほかに1人の方が写真撮影をしていました。
    バリアフリー:
    4.0
    建物外観を見学するのみでしたら問題ありません。(今回は建物内部の見学ができませんでした。)
    見ごたえ:
    4.5
    外装仕上材のリブ付きステンレス製鋼板の曲線美が美しい建物です。(建物内部もお薦めできますが、今回は建物内部の見学ができませんでした。)

  • 東京23区内屈指の急傾斜・急勾配の坂道です!

    投稿日 2021年08月21日

    のぞき坂 目白

    総合評価:3.5

    『のぞき坂』は、新宿区内から豊島区内を南北方向に通る「明治通り(都道305号)」および「明治通り」と「新目白通り(都道8号)」が交差する「高戸橋」交差点から南北に通る「都電荒川線(愛称:東京さくらトラム)」の上空を跨ぐように立体交差して東西方向に通る「目白通り(都道8号)」に架かる跨道橋「千登世橋」の東側にある最初の信号を南側(神田川方面)に向って通る自動車通行可能な区道であり、豊島区高田2丁目に位置する急傾斜(最大13度)・急勾配(最大22%から23%)となる東京23区内でも屈指の坂道部分の通称となります。
    坂道部分の『のぞき坂』道路舗装は、北側の武蔵野台地・東端にあたる「目白台」と呼ばれる台地の坂上部分から南側(神田川方面)の坂下部分までは約15メートル以上にもおよぶ高低差があり、急傾斜・急勾配の自動車通行用スロープなどで一般的に採用される真空コンクリート舗装(リング工法)により施工がされています。
    また、文字通り”坂上部分から視線をのぞくように下部方向に向けないと坂下部分まで見通すことができない”この『のぞき坂』は、2019年(令和元年)公開の劇場用アニメーション映画「天気の子」(新海誠・監督作品)・「冴えない彼女の育てかた Fine(フィーネ)」(亀井幹太・総監督作品)のほか、テレビアニメーション作品の「冴えない彼女の育てかた」・「偽物語」・「体操ザムライ」などにおいても物語の各シーンで『のぞき坂』が描かれており、アニメ愛好家の方々から『のぞき坂』が聖地として崇められているほか、さまざまなテレビ番組の収録などで登場するなど観光スポットにもなっています。
    今回は、平日の昼頃に目白周辺エリアを訪れた際に東京メトロ・副都心線「雑司が谷駅」3番出入口から『のぞき坂』に立ち寄り写真撮影をしてみました。
    『のぞき坂』へのアクセスは、東京メトロ・副都心線「雑司が谷駅」3番出入口前を通る「目白通り」の横断歩道を渡ってすぐ約80メートル(1分程度)で最最寄り駅となるほか、東京さくらトラム「学習院下停留場」・「鬼子母神前停留場」からも約350メートル以内の徒歩圏内となります。
    『のぞき坂』の坂上部分からは、「新宿駅・南口」エリアの高層ビル群や「NTTドコモ代々木ビル」も望むことができて坂下部分との高低差(5階建てビルの屋上部分程度の高さ)を実感することができました。
    目白周辺エリアを訪れる機会があれば、「目白通り」と「神田川」が並行している「江戸川橋」までの高低差のある一帯はさまざまな坂道が存在するので『のぞき坂』のほかにも色々な坂道を散策してみたいと思います。
    そのほかにさまざまなアニメで描かれている『のぞき坂』については、アニメの中で細部までリアルに再現されているようなのでアニメを見たことのある方は実際の風景と比較しながら楽しむことができるのではないでしょうか?
    (ちなみに自分は、『のぞき坂』が描かれているアニメを見たことかありませんが・・・)

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ副都心線/雑司が谷駅・3番出入口前から徒歩1分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    数名ですが通行する人とすれ違いました。
    バリアフリー:
    2.5
    急傾斜・急勾配の坂道なので、車イスや杖などが必要な方は付添者がいた方がよいと思います。
    見ごたえ:
    3.5
    高低差15メートル以上の急傾斜・急勾配の坂道です。

  • 境内の木々の緑から差し込む木漏れ日を感じ癒される寺カフェです!

    投稿日 2021年08月15日

    赤門テラスなゆた 池袋

    総合評価:4.0

    『赤門テラスなゆた』は、西武鉄道・池袋線「池袋駅」から一駅目の「椎名町駅」(駅番号:SI02)北口から徒歩1分未満の駅前となる豊島区長崎1丁目に位置する山号を「蓮華山」・寺号を「仏性寺」と号する「金剛院」境内にあるお寺が経営する寺カフェです。
    ちなみに「金剛院」の歴史は、「聖弁(しょうべん)和尚」によって室町時代末期(戦国時代)の時代であり天下一の茶人として知られる「千利休」が生誕した年代とされる1522年(大永2年)に開創されたと伝わる「長谷寺」(奈良県桜井市)を本山とする真言宗豊山派に属する本尊が「阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)」の寺院です。
    江戸時代初期の徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代となる延宝年間(1673年から1681年)から第5代将軍「徳川綱吉」の時代となる元禄年間(1688年から1704年)の頃に発生したとされる火災により「金剛院」は仏像や古文書なども含めて焼失しており、第7代将軍「徳川家継」の時代となる1715年(正徳5年)に「聖誉(しょうよ)和尚」によって現在地に再建されています。
    また、第10代将軍「徳川家治」の時代である天明年間(1781年から1789年)に江戸府内で度重なる火災が発生した際に「宥憲(ゆうけん)和尚」が中心となり被災した多くの江戸庶民を「金剛院」境内に収容していたことが将軍に伝わり、その褒賞として1780年(安永9年)に建立された「金剛院」の山門を将軍家と縁のある屋敷にのみ許されていた名誉ある朱塗りの赤門にすることが許され、江戸庶民から「赤門寺」として慕われるようになっています。
    1994年(平成6年)になると山門(赤門)が「豊島区・有形文化財」に指定され、さらに2014年(平成26年)になると本堂・客殿などの大規模な耐震化工事などとともに山門(赤門)脇に地上2階・地下1階建ての建物が新築されてその1階部分に『赤門テラスなゆた』がオープンしています。
    寺カフェの店名になっている”なゆた”は、サンスクリット語の“nay uta” を音訳した仏教用語の極めて大きな数量を意味する「那由他」であり、日本の現行方式による数の単位であらわすと”1億=10の8乗”、”1兆=10の12乗”、”1京=10の16乗”をはるかに超える”1那由他=10の60乗”となります。
    『赤門テラスなゆた』の店内は、「金剛院」境内側が床から天井まで総ガラス張りの開放感のある落ち着いた雰囲気のよい屋内のテーブル28席と屋外ウッドデッキ部分のオープンテラス6席で構成されており、コンパクトですがよく手入れが行き届いている「金剛院」境内の静かな庭園が一望できて、木々の緑から差し込む木漏れ日を感じながら寺カフェならではの精進料理や健康料理をベースにしたからだに優しいランチなどの食事やスイーツとドリンクなどで癒されるお薦めの空間です。
    そのほか「金剛院」境内の樹齢300年から400年といわれるカヤの木の実を使用したクッキー、枝垂れ梅の実を使用した梅シロップジュースなどのアットホームなメニューも気になります。
    以前に「金剛院」境内で開催されたイベント(としまの銭湯から世界へ発信する美・健康・癒しのライフスタイル)やランチ目的などで『赤門テラスなゆた』に立ち寄ったことがありますが、今回は夏場の午後に休憩目的で立ち寄り自分はアイスコーヒーを飲みながら一緒にいた家族はかき氷を食べながら癒されました。
    『赤門テラスなゆた』は、「金剛院」境内の静かで緑豊かな落ち着きがありホッとさせる居心地のよい空間でありながら駅前に位置する利便性のよさも兼ね備えており、椎名町(豊島区長崎)エリアを訪れた際に立ち寄りたいと感じさせてくれる寺カフェです。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    2,000円未満
    利用形態
    その他
    アクセス:
    5.0
    西武鉄道池袋線・椎名町駅北口より徒歩1分未満の駅前です。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.0
    木々の緑から差し込む木漏れ日を感じられる金剛院境内の庭園が一望できます。
    料理・味:
    4.0
    寺カフェならではの精進料理や健康料理をベースにした体に優しい料理です。
    バリアフリー:
    3.0
    出入口部分のアプローチに段差があります。
    観光客向け度:
    4.0
    アットホームな雰囲気のある落ち着いた空間です。

  • 花火の火薬を包む紙の破片が降ってくるほどの間近で打ち上げられる花火は迫力があります!

    投稿日 2021年08月09日

    西武園ゆうえんち花火大会 所沢

    総合評価:4.0

    『西武園ゆうえんち花火大会』は、緑豊かな「狭山丘陵」と呼ばれる埼玉県所沢市と東京都東村山市の県境・所沢市側エリアに位置する西武鉄道グループが経営する『西武園ゆうえんち』が夏季限定で主催する恒例イベントです。
    2019年(令和元年)までの『西武園ゆうえんち花火大会』は、夏季の土曜日・日曜日を中心に開催(2020年は開催中止)されていましたが、1950年(昭和25年)に「東村山文化園」として開園してから開園70周年を迎えて2021年(令和3年)5月に”心あたたまる幸福感”をコンセプトに新たな『西武園ゆうえんち』としてグランドオープンした今年は、史上最大級の夏イベントとして特設ステージで繰り広げられるエンターテインメントショーとあわせて花火を打ち上げる「大火祭り」を7月15日(木)から9月5日(日)までの期間中に平日・土日問わず毎日開催予定(悪天候などにより時間・内容変更、中止となる場合あり)となっています。
    『西武園ゆうえんち』のチケットは、「1日レヂャー券(入場+園内アトラクション・プール施設利用)」が基本となりますので、夜の花火鑑賞のみの場合も「1日レヂャー券」の購入が必要となり花火鑑賞のみでの入場を考えると割高な感じがします。
    そのほかに園内での飲食施設やお土産などの買い物は、プールエリア・ロッカー施設・自動販売機を除き、1960年代頃の価格設定をイメージした仮想通貨「西武園通貨」(入場当日のみ有効:拾園札と百園札の2種類)のみの使用となりますので注意が必要です。(西武園通貨:拾園札が120円の設定)
    今回は、「大火祭り」として7月15日(木)から連日開催となる直前に今年初の花火打ち上げとなる土曜日(「大火祭り」初日)の昼頃に夜の花火とあわせてリニューアルオープン後に誕生した1960年代の昭和レトロな人情味あふれる街並みをイメージした仮想商店街「夕日の丘商店街」などの新たなアトラクション施設を体験する目的で『西武園ゆうえんち』を訪れてみました。
    日中は、園内の新たな施設となる1960年代の古き良き昭和の時代を再現した長さ約150メートルの仮想商店街「夕日の丘商店街」を散策したり、リニューアル以前よりある”空中回転ブランコ”や”大観覧車”などのアトラクションで昭和レトロ感を味わい楽しむことができました。
    また新たなアトラクション「ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦」が「夕日の丘」と呼ばれる小高い丘の上に昭和レトロな映画館をイメージした「夕陽館」の内部にあり、巨大スクリーンに映し出されたVFX(視覚効果)映像に吸い込まれるようにリアルで迫力のある仮想空間を体感し圧倒されました。スリルと興奮を味わいたい方にお勧めできるアトラクションです。
    さらに「夕日の丘商店街」にある「喫茶ビクトリヤ」で昭和レトロ感の雰囲気の中で、どことなく懐かしさを感じる食事をしたりして、「夕日の丘商店街」エリアにある「夕日丘一丁目広場」のベンチに座り「大火祭り」が始まる時間を待ちました。
    「大火祭り」は、「レッツゴー!レオランド」エリアの特設ステージで繰り広げられるエンターテインメントショー(19時30分から19時55分)であり、ショーの後半に花火も打ち上げられて一気に盛り上がります。
    「夕日丘一丁目広場」のベンチから特設ステージを見ることができませんでしたが、大音量の音楽にあわせて間近で打ち上る花火は短時間ですが花火の火薬を包む紙の破片が降ってくるなど迫力がありお薦めできます。(特設ステージでは、水の放水があったり、炎を吹き出していたようです。)
    機会があれば、「レッツゴー!レオランド」エリア内で特設ステージで繰り広げられるエンターテインメントショーとともに花火を楽しんでみたいと思います。

    旅行時期
    2021年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    西武鉄道・山口線(愛称:レオライナー)西武園ゆうえんち駅前です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    園内の各所から花火鑑賞できます。
    催し物の規模:
    4.5
    短時間ですが、7月15日(木)から9月5日(日)まで毎日開催予定です。
    雰囲気:
    4.0
    間近で打ち上げられる花火は迫力があります。
    バリアフリー:
    2.5
    園内の敷地は高低差があり、各エリアに移動する際に階段などがあります。

  • 江戸時代に内藤新宿と呼ばれたエリアにある”江戸三大閻魔”や”江戸六地蔵”など見どころの多い寺院です!

    投稿日 2021年08月07日

    太宗寺 新宿

    総合評価:4.0

    『太宗寺』は、最寄り駅の東京メトロ・丸の内線「新宿御苑前駅」1番出入口(1番線ホーム改札口)から、「新宿通り・新宿一丁目西交差点」を渡って直ぐ徒歩1分程度(約120メートル)の新宿区新宿2丁目に位置する山号を「霞関山」・院号を「本覚院」と号する浄土宗の寺院(本尊:阿弥陀如来)です。
    『太宗寺』の創建に至るまでの歴史は、寺伝によると「豊臣秀吉」の三男「拾」(のちの「豊臣秀頼」)が元服した1596年(慶長元年)ごろに「太宗」と称する僧侶により甲州街道の道筋に開いた草庵「太宗庵」が始まりとされています。
    1590年(天正18年)になると「徳川家康」の江戸入府の際に鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務めた徳川家の家臣「内藤清成」が、江戸入府の翌年に現在の四谷~代々木までの東西区間と千駄ヶ谷~大久保までの南北区間におよぶ広大な敷地を「徳川家康」から賜り、「太宗庵」周辺一帯の地名が「内藤町」と命名されています。(ちなみに現在の国民公園「新宿御苑」は「内藤家」の下屋敷跡地です。)
    その後の徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1629年(寛永6年)に「内藤清成」の三男「内藤正勝」が逝去した際に「太宗」により葬儀が執り行われたことを契機に「内藤家」と「太宗庵」の縁が深まり、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1668年(寛文8年)に「太宗庵」は、「内藤正勝」の長男「内藤重頼」から寺地の寄進を受け『太宗寺』として開山したことが創建とされ、「内藤家」の菩提寺として境内にある「内藤正勝の墓(内藤家墓所)」が1995年(平成7年)に「新宿区・史跡」に指定されています。
    また1706年(宝永3年)に江戸深川「地蔵坊正元」の発願により、江戸府内の出入口6箇所(東海道、奥州街道、甲州街道、中山道、水戸街道、千葉街道)の街道沿いの寺院に「江戸六地蔵」と称する「地蔵菩薩坐像」が造立された中で第3番として1712年(正徳2年)に「銅造地蔵菩薩坐像」が『太宗寺』境内に造立され、1970年(昭和45年)に「東京都・有形文化財(彫刻)」に指定されています。
    その他に江戸時代の制作とされ1984年(昭和59年)に「新宿区・有形文化財(彫刻)」に指定されている「三日月不動像」、江戸時代より「江戸三大閻魔」と称されて江戸庶民からも親しまれ1986年(昭和61年)に「新宿区・有形民俗文化財」に指定された「閻魔像」および「奪衣婆像」など見どころの多い寺院です。
    ちなみに「閻魔像」は、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1814年(文化11年)ごろに安置されたと伝えられていますが、度重なる火災などによる修復で制作当初の部分は頭部を残すのみといわれています。また「奪衣婆像」は、1870年(明治3年)に制作されています。
    「新宿御苑」エリアを訪れた際に数回に渡り『太宗寺』に立ち寄っていますが、「閻魔像」と「奪衣婆像」が安置されている「閻王殿(閻魔堂)」の格子扉が閉まっており、扉の格子越しに殿内を覗き込んでいました。
    『太宗寺』の「閻王殿」は、”地獄の釜の蓋も空く”とされる1月16日・7月16日とその前日となる15日の年間で4日間が御開帳日であり、今回はじめて御開帳日にあわせて立ち寄ることができました。
    木造:総高5.5メートルの「閻魔像」と木造:総高2.4メートルの「奪衣婆像」を間近で見ると迫力があり圧倒されました。特に「奪衣婆像」は、リアルで怖さを感じさせます。
    ちなみに「閻魔大王」に仕える「奪衣婆」は、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取る老女の鬼で剥ぎ取った衣服は大樹(衣領樹)の枝に懸け枝の垂れ具合で生前の罪の軽重をはかるといわれています。
    『太宗寺』は、江戸時代に甲州街道と青梅街道の分岐点の「内藤新宿」と呼ばれたエリアであり、この周辺を散策する際にお薦めできる文化財など見どころの多いスポットです。
    特に「閻王殿」の御開帳日である1月15日・16日または7月15日・16日にあわせて立ち寄ることをお勧めします。

    旅行時期
    2021年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ丸の内線・新宿御苑前駅1番出入口から徒歩1分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の昼時でしたが、境内に数名の人がいる程度でした。
    バリアフリー:
    3.0
    本堂・閻魔殿・不動堂に石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    境内に文化財などの見所の多い寺院です。

  • 昭和レトロな雰囲気を感じながら食事ができる”西武園ゆうえんち”内で人気の飲食施設です!

    投稿日 2021年08月01日

    喫茶ビクトリヤ (西武園ゆうえんち内) 所沢

    総合評価:3.5

    『喫茶ビクトリヤ』は、埼玉県所沢市と東京都東村山市の県境(所沢市側)に位置する「西武園ゆうえんち」内の飲食施設であり、メインエントランス・ゲートから園内に入場して正面に広がる長さ約150メートルの「夕日の丘商店街」(仮想商店街)中ほどにある昭和レトロな雰囲気をイメージした軽食喫茶店です。
    ちなみに「夕日の丘商店街」は、1950年(昭和25年)に「東村山文化園」として開園した「西武園ゆうえんち」の開園70周年記念事業により、”心あたたまる幸福感”をコンセプトに1960年代の昭和レトロな人情味あふれる街並みをイメージし、昭和の時代を演出した”エンターテインメントショー”が繰り広げられる園内の新たな仮想商店街施設であり、2021年(令和3年)5月のグランドオープンにあわせて誕生した仮想の交番・郵便局のほか各種店舗(29店舗)で構成されています。
    また、「西武園ゆうえんち」のグランドオープンに伴い園内での飲食および買い物などの支払いは、「夕日の丘商店街」を中心に1960年代頃の価格設定をイメージした仮想通貨「西武園通貨」(入場当日のみ有効:ジャングル大帝のイラスト入り拾園札と百園札の2種類)のみの使用となります。
    「西武園通貨」の購入場所は、入場前のチケット売り場・入園後の「夕日の丘商店街」にある「夕日丘郵便局」となり、基本価格が「西武園通貨」拾園札が実際の120円として設定されています。
    「西武園ゆうえんち」内の飲食施設は、「夕日の丘商店街」エリアに洋食・喫茶をイメージした『喫茶ビクトリヤ』および大衆食堂をイメージした「食堂 助六屋」の2店舗、「レッツゴー!レオランド」エリアに位置するフードコートの「軽食・売店 ミルクホール」、アトラクションのひとつである「富士見展望塔」のエリアに位置する「ビヤホール 舶來グリル」があり、そのほか食べ歩きのできるフード(だんご・せんべい・コロッケ・イカ焼き・焼きトウモロコシ・かき氷など)が「夕日の丘商店街」の各店舗で販売されています。
    今回は、家族3名でリニューアルオープン後の「西武園ゆうえんち」にはじめて訪れ少し遅めのランチ目的で『喫茶ビクトリヤ』に立ち寄りましたが、約2時間待ちの行列ができており『喫茶ビクトリヤ』店内も狭く座席数が少ないので、全体的に園内で落ち着いて飲食できる施設が少なく感じました。(『喫茶ビクトリヤ』利用後に園内スタッフの方から聞いた情報によると『喫茶ビクトリヤ』の待ち時間が4時間以上となる日もあったそうです。)
    ただし、待ち時間中に「夕日の丘商店街」で繰り広げられる昭和の時代を感じる”エンターテインメントショー”(ブギウギ祭りなど)が開催されたりして時間つぶしにはなります。
    『喫茶ビクトリヤ』の食事・デザート・ドリンク類のメニューおよび価格は、”スパゲッティ・ナポレターナ”・”バタアエビピラフ”・”上京カツサンド”が90園(1080円)、”ハットケーキ”・”プリン・ア・ラ・モード”が70園(840円)、”ゼリイポンチ”が60園(720円)、”クリイムソーダ”が50園(600円)、”珈琲”・”紅茶”が30園(360円)、”ソフトドリンク”が20園(240円)となり、価格的には街中にある普通の喫茶店と比較すると割高に感じますが、レジャー施設内の飲食店施設であることを考慮すると妥当な価格設定であると思いました。
    入店後に食事系とともにデザート系およびドリンク類を注文しましたが、配膳の順番がデザート系が先にでてくるなど配慮が感じられない部分があり、約2時間待って入店したのに少し残念な気分になりました。(行列が絶えないので回転をよくするためには仕方がないのか・・・)
    味については、”スパゲッティ・ナポレターナ”を注文しましたがモチモチした食感が特徴的な太めの麺にどことなく懐かしさが伝わるケチャップソースがからみ昭和レトロ感の雰囲気の中で美味しくいただきました。
    家族が注文した”バタアエビピラフ”もひとくち食べましたがこちらもコクのある美味しいピラフでした。

    旅行時期
    2021年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    2,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    西武園ゆうえんち内の仮想商店街となる”夕日の丘商店街”の中ほどに位置します。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    レジャー施設内の飲食店施設なので街中の喫茶店と比較すると少し割高です。
    サービス:
    3.0
    行列の絶えない人気の飲食施設ですが、配膳の順番などの配慮に欠ける部分が少し気になりました。
    雰囲気:
    4.0
    昭和レトロな雰囲気をイメージした軽食喫茶店です。
    料理・味:
    4.0
    ”スパゲッティ・ナポレターナ”は、モチモチした食感の太めの麺にケチャップソースがからみどことなく懐かしさが伝わる逸品です。
    バリアフリー:
    3.5
    段差はありませんが、店内は狭いです。
    観光客向け度:
    4.0
    昭和の時代を演出した人情味あふれる仮想商店街の”夕日の丘商店街”の中ほどにある軽食喫茶店です。

  • ”杏壇門”は、正殿となる大成殿に通じる敷地内最大規模の門です!

    投稿日 2021年07月24日

    湯島聖堂 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『湯島聖堂 杏壇門』は、現在の文京区湯島1丁目に位置する神田川の北側を神田川と並行して東西方向に通る「外堀通り(都道405号)」と神田川を聖橋で跨ぎ南北方向に通る「本郷通り(都道403号)」に面する『湯島聖堂』敷地内の正殿(孔子廟)である「大成殿」前に広がる石畳の「前庭(広場)」を両側の「回廊」とともに囲むように建つ入母屋造り屋根の門(間口20メートル、奥行4.7メートル)であり、敷地内に建つ門の中では最大規模となります。
    ちなみに『湯島聖堂』は、インドの「釈迦」・ユダヤの「イエス・キリスト」・古代ギリシアの「ソクラテス」とともに世界の偉大な思想家「四聖人」と称される儒教の創始者である中国の「孔子」および儒教における先哲を先師・先聖として祀る施設(孔子廟)であり、儒教の教えを学問の儒学として重んじていた徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」により更なる儒学の振興を図ることを目的として1690年(元禄3年)に創建され、江戸時代初期の徳川幕府に仕えていた朱子学派の儒学者「林 羅山」が上野忍岡(現:上野恩賜公園)の私邸内に開設していた私塾の「忍岡聖堂」と称する「孔子廟(先聖殿)」を『湯島聖堂』に移転させることにより儒学の学問所となっています。
    その他に『湯島聖堂』東側の坂道が「孔子」の生誕地であった当時の「魯国・昌平郷」(現:中華人民共和国・山東省曲阜市)にちなんで「昌平坂」と命名されています。
    その後に度重なる火災などに見舞われ荒廃していた『湯島聖堂』は、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)になると林家の私塾としての学問所から徳川幕府直轄教学機関として「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が設立され、2年後の1799年(寛政11年)になると敷地を拡大しての大規模な改築が行われ正殿である「大成殿」は創建時のおよそ2.5倍に拡張した規模の建物になっています。
    当時の『湯島聖堂』については、1834年(天保5年)と1836年(天保7年)の2回に分けて刊行された江戸府内と近郊(武蔵)の地誌として、寺社・旧跡・橋・坂などの名所が鳥瞰図を用いながら記されている「江戸名所図会」(全7巻20冊)の中で後半の1836年(天保7年)に刊行された5巻(14冊)に『聖堂』として『湯島聖堂』全景が鳥瞰図により「大成殿」をはじめ『杏壇門』、「入徳門」、「仰高門」、「昌平坂」、「神田川」などが描かれており、現在の配置と変わらない様子がうかがえます。
    明治維新後になると明治政府に引き継がれ官立の「昌平学校」となりますが、1871年(明治4年)に閉鎖となり儒学の学問所としての歴史に幕を閉じて文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策が講じられるようになっています。
    1922年(大正11年)には、国の「史跡」に指定されたものの翌年に発生した「関東大震災」により「入徳門」と「水屋」が被災を免れたもののその他の施設が焼失し、現在の建物は1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
    今回は、平日の午後にお茶の水周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので久しぶりに『湯島聖堂』に立ち寄りました。
    『湯島聖堂』の敷地内は、高低差があり正門の「仰高門」から「入徳門」を通り最上部の「大成殿」につながる『杏壇門』までは石段が続きます。
    過去にも数回に渡り『湯島聖堂』を立ち寄っていますが、日本の寺院とは異なりどことなく異国を感じさせる『杏壇門』をくぐり「大成殿」と「回廊」で囲まれた静寂で誰もいない「前庭(広場)」に立ちしばらく目を閉じていると都会の中にいることを忘れて時空を超えて雑念が洗い流されたような清々しい気分になり、近くを訪れた際にまた立ち寄りたいと思えるお薦めのエリアです。
    また、土曜・日曜・祝日など限定で「大成殿」内部が公開されますので、初めて『湯島聖堂』に立ち寄る方は、土曜・日曜・祝日をお勧めします。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後に立ち寄りましたが、数名の人とすれ違うだけでした。
    バリアフリー:
    2.0
    敷地内は高低差があり石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    日本の寺院とは異なりどことなく異国を感じさせる静寂な空間です。

  • 古き良き昭和の時代へタイムスリップできます!

    投稿日 2021年07月23日

    西武園ゆうえんち 所沢

    総合評価:4.0

    『西武園ゆうえんち』は、1950年(昭和25年)に「東村山文化園」として開園したのちの翌年に『西武園』と改称された埼玉県所沢市と東京都東村山市の県境(所沢市側)に位置する西武鉄道グループが経営する遊園地のほかに「西武園プール」(大規模な屋外プール施設)を兼ね備えたレジャー施設です。
    『西武園ゆうえんち』が位置する緑豊かな「狭山丘陵」と呼ばれる周辺は、首都・東京の水源確保として1927年(昭和2年)に完成した人造湖の「村山貯水池(現在の通称:多摩湖)」と同じく1934年(昭和9年)に完成した「山口貯水池(現在の通称:狭山湖)」により太平洋戦争開戦前から観光地となっていたエリアであり、終戦後の1947年(昭和22年)から西武鉄道が観光開発に乗り出し、現在では『西武園ゆうえんち』のほかに「西武園競輪場」、「ゆり園(旧:ユネスコ村)」、「狭山スキー場(屋内型の人工スキー場)」、「西武園プール」、「西武園ゴルフ場」、「西武ドーム」などの施設が開設されています。
    開園70周年を迎えた『西武園ゆうえんち』は、2020年(令和2年)11月から園内の大規模リニューアル工事のため全面休園となり2021年(令和3年)5月に”心あたたまる幸福感”をコンセプトとした新たな『西武園ゆうえんち』としてグランドオープンしています。
    リニューアルオープン後の『西武園ゆうえんち』最寄り駅となる西武鉄道・山口線(愛称:レオライナー)「西武園ゆうえんち駅(旧:遊園地西駅)」改札正面のメインエントランス前広場中央には、1954年(昭和29年)から宮城県仙台市内を運行したのちの1976年(昭和51年)から2019年(平成31年)まで長崎県長崎市内を運行していた路面電車が設置され、新たな『西武園ゆうえんち』のコンセプトを代表する1960年代の昭和レトロな人情味あふれる街並みをイメージした「夕日の丘商店街」への期待も高まりました。
    「夕日の丘商店街」は、メインエントランスのゲート前から正面に広がる約150メートルの仮想商店街で、古き良き昭和の時代へタイムスリップしたかのようなエリアであり、昭和生まれの方は懐かしさとともに平成生まれの方もレトロな装いでリアルに再現された商店街各所で写真撮影などをしながら幅広い年齢層の方々が相まって楽しんでいました。
    また、「夕日の丘商店街」などで繰り広げられる人情味あふれる昭和の時代を演出したエンターテインメントショーも昭和の雰囲気を感じることができ楽しめます。
    「夕日の丘商店街」以外のアトラクションについては、メインエントランスのゲート左側(北側)の小高い丘(夕日の丘)に建つ昭和レトロな映画館をイメージした「夕陽館」内部にある「ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦」がスリルと興奮を味わいたい方にお勧めできます。
    「ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦」の概要は、東京の街中に突如出没して暴れまわる”キングギドラ”と対決する”ゴジラ”が繰り広げる激闘の中から特殊装甲車に乗込み脱出する設定のアトラクションであり、VFX(視覚効果)映像により巨大スクリーンに映し出された仮想空間の中に吸い込まれるようにリアルで迫力のある仮想空間を体感し圧倒されました。
    さらに園内中央部分に新たな幼児連れファミリー層向けのエリア「レッツゴー!レオランド」が誕生し、鉄腕アトム・ジャングル大帝の巨大トリックアートと巨大すごろくが描かれた広場や子供向けのアトラクションが集結しています。
    そのほかリニューアル以前のアトラクションも残されており、全体的に以前より幅広い年齢層が楽しめるように感じました。
    今回は、梅雨明け間近となる土曜日の昼頃から入園し、この日から夏季限定で開催される花火を見たりして1日を楽しむことができました。
    『西武園ゆうえんち』の花火は、大火祭りとして短時間ですが「レッツゴー!レオランド」の特設ステージで繰り広げられるエンターテインメントショーを交えて開催されます。
    花火を観賞した場所は「夕日の丘商店街」エリアにある「夕日丘一丁目広場」のベンチからでしたが、花火の火薬を包む紙の破片が降ってくるなど間近で打ち上げられる花火は迫力ありお薦めできます。
    機会があれば、特設ステージで繰り広げられるエンターテインメントショーとともに花火を楽しんでみたいと思います。

    旅行時期
    2021年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    西武鉄道・山口線(愛称:レオライナー)西武園ゆうえんち駅前です。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    入場券は基本1日券のみの販売です。(夕方割引などはありません)
    人混みの少なさ:
    3.0
    ”夕日の丘商店街”エリアをはじめ”ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦”を中心に賑わっていました。
    施設の快適度:
    4.0
    昭和レトロな人情味あふれる”夕日の丘商店街”は、幅広い年齢層で楽しめます。
    バリアフリー:
    2.5
    園内の敷地は高低差があり、各エリアに移動する際に階段などがあります。
    アトラクションの充実度:
    4.0
    スリルと興奮を味わいたい方は、”ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦”がお勧めです。そのほかは幼児連れなどファミリー向け施設が充実しています。

  • 風格ある首都東京の顔にふさわしい大規模な駅前広場です!

    投稿日 2021年07月18日

    東京駅丸の内駅前広場 丸の内・大手町・八重洲

    総合評価:4.0

    『東京駅丸の内駅前広場』は、鉄道による日本の首都東京の玄関口ともいえる1914年(大正3年)の東京駅開業に合わせて日本近代建築の巨匠と称される建築家「辰野金吾」氏の設計のもと建設された煉瓦造りとして国内最大規模となる南北方向の総延長が約335メートルにもおよぶ皇居側の丸の内地区に位置する「東京駅 赤レンガ駅舎」前を2014年(平成26年)から2018年(平成30年)にかけて整備が実施されてきた駅前広場です。
    敷地面積が約18,700平方メートルとなる『東京駅丸の内駅前広場』の整備にあたっては、「JR東日本」と「東京都」が連携し、”風格ある首都東京の顔を創出する”をコンセプトに「東京駅 赤レンガ駅舎」との一体感のある近代日本の歴史的な丸の内地区における都市景観軸を重視したものであり、「東京駅 赤レンガ駅舎」外構部分を含め約24,000平方メートルとなる広大な敷地が「東京駅 赤レンガ駅舎」と丸の内地区のオフィス街とともに首都東京の顔にふさわしい都市空間として構成されています。
    ちなみに「東京駅 赤レンガ駅舎」は、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」において特に被害を受けることはありませんでしたが、「太平洋戦争」末期の1945年(昭和20年)に東京を襲った空襲による火災で屋根などを中心に大きく被災しています。
    終戦直後から「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」からの制限を受けながら、1947年(昭和22年)に開業当時と異なる意匠の復旧工事となったものの2003年(平成15年)になると意匠的・歴史的価値が高いと評価され国の「重要文化財」に指定されています。
    その後に東京駅開業100周年を迎えるにあたり2007年(平成19年)から2012年(平成24年)にかけて実施された「東京駅 赤レンガ駅舎」の免振化工事とあわせて大規模な復元工事が実施されたことにより、開業当時の「東京駅 赤レンガ駅舎」の意匠が復活しています。
    その後に整備が進められた『東京駅丸の内駅前広場』の概要は、「JR東日本」の事業として「丸の内中央広場」(約6,500平方メートル)を御影石舗装で歩行者専用空間が整備され、その両側に芝生スペース(42メートル×15メートル×2面)および街路樹としてケヤキ(7本×2列)を列植し、各ケヤキの周りを休憩スペースとなるベンチが配置されています。
    また、「丸の内中央広場」の両側を「東京都」の事業として「補助第97号線交通広場(南側)」(約6,300平方メートル)および「補助第98号線交通広場(北側)」(約5,900平方メートル)の部分に自動車専用空間となる路線バス乗降場6箇所・タクシー乗降場2箇所・タクシープール91台・一般車乗降スペース・東京ステーションホテル車寄せなどが整備されています。
    その他に『東京駅丸の内駅前広場』とあわせて皇居方面に延びる「行幸通り」の整備事業内容が各種団体より高く評価されており、2018年度(平成30年度)に「日本デザイン振興会」より「グッドデザイン賞・金賞」および「全日本建設技術協会」より「全建賞(都市部門)」を受賞したほか、2020年度(令和2年度)には「土木学会」より「土木学会デザイン賞・最優秀賞」を受賞しています。
    東京駅構内は、電車の乗り継ぎなどでよく利用することがありますが、今回は平日の午後に大手町周辺を訪れる機会があり少し時間に余裕があったので初めて皇居に通じる「行幸通り」から『東京駅丸の内駅前広場』まで歩きながら写真撮影をしてみました。
    「行幸通り」から『東京駅丸の内駅前広場』までの空間は、まさに”風格ある首都東京の顔”として「東京駅 赤レンガ駅舎」を中心に一体感のある落ち着いた雰囲気が漂ってくるエリアであり、その規模に圧倒されました。
    機会があれば、ゆっくりと『東京駅丸の内駅前広場』を取り囲む施設などに立ち寄り、さまざまな角度から『東京駅丸の内駅前広場』および「東京駅 赤レンガ駅舎」の写真撮影などをしてみたいと思います。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR東京駅・丸の内北口または丸の内南口を出た駅前広場です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    混みあうほどではありませんが、絶えず駅利用者の出入があります。
    バリアフリー:
    4.5
    段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    東京駅・赤レンガ駅舎を中心に写真撮影をしている方々は絶えません。

  • ”なかぱん”の愛称で幅広い年齢層に親しまれている地元に根付いた老舗パン屋さんです!

    投稿日 2021年07月17日

    館山中村屋 館山バイパス店 : 中パンカフェ 館山

    総合評価:4.0

    『館山中村屋 館山バイパス店』は、館山自動車道路「富浦インターチェンジ」から「国道127号(館山バイパス)」を6キロメートル程度(自動車で約10分)南側に位置する「国道128号(外房黒潮ライン)」と交差する「南総文化ホール前」交差点の約150メートルほど手前にカフェ施設を備えた老舗パン屋さんです。
    ちなみに『館山中村屋』が誕生するまでの歴史は、1901年(明治34年)に現在の東京都文京区本郷となる「東京大学」正門前にあった「中村屋パン」を居抜きで買い取り新たな「中村屋パン」として開業したのちの「新宿中村屋」(創業者:相馬愛蔵)にのちの『館山中村屋』初代(創業者:長束実)が1902年(明治35年)から従業員となったことが始まりとされています。
    1907年(明治40年)になると「新宿中村屋」創業者(初代)が「新宿中村屋」の基盤となる新たな新宿店を出店したことにより、大旦那の相馬氏から従業員であった長束氏が本郷店を任されたいました。
    一方、現在の館山市においては、大正時代初期になると避暑地として海水浴場などの整備事業が進められており、さらに1919年(大正8年)になると当時の「安房北条駅(現在のJR館山駅)」が開業したことにあわせて鉄道による旅行者が増加していた「安房北条駅」前に長束氏が夏季限定で「新宿中村屋」から独立した店舗を開業したことが『館山中村屋』の創業とされています。
    その後に経営が創業者である初代から2代目に代わると夏季限定の店舗から館山に定着した店舗となり、現在では4代目となる親族経営が受け継がれ、”なかぱん”の愛称で親しまれながら館山市内に2店舗(館山駅東口店・館山バイパス店)、君津市に1店舗(君津店)の全3店舗を構えて地元に根付いた老舗パン屋さんとして創業時からの老舗の味が引き継がれています。
    今回は、館山エリア周辺を訪れた土曜日・日曜日の2日間にわたり自動車で『館山中村屋 館山バイパス店』に立ち寄ってみました。
    『館山中村屋 館山バイパス店』は、「JR館山駅」東口から約1.7キロメートル(徒歩20分程度)となるため自動車での利用者がほとんどで、店舗敷地内にある駐車場のほかに敷地外にも第2駐車場がありますが、訪れた両日とも駐車場は地元の方と思われる自動車で満車状態で地元に根付いた人気店であることが伺えました。
    店舗内部は、入口を入ってすぐに食パン類、右手側に菓子パン類、左手側に総菜パン・洋菓子・アイスクリームなどの販売コーナーがあり、さらにその奥のカフェスペースが配置されています。
    初日に立ち寄った際は、夕方であったため販売されているパンの品数も少なくなっていましたが、各品の値段もリーズナブルで購入した食パンもモチモチした食感でこだわりを感じる美味しいパンでした。
    また、店舗内のカフェ施設が閉店を迎える時間帯でカフェスペースからは多くの高齢者の方が出てきてお迎えの地元高齢者施設の名前入り自動車に乗り込み帰宅するところに出くわして地元の幅広い年齢層の方々に親しまれている店舗であることも実感できました。
    余談となりますが、店舗出入口部分には、ジャム・クリーム・チョコレートにナッツなどをトッピングして二度焼きしたクッキーとして知られる”ロシアケーキ”を作る際に使用していたナッツをペーストにする石製ローラーの機械が展示されています。
    『館山中村屋』の”ロシアケーキ”は、初代が「ロシア皇帝」お抱えの製菓技師の経歴をもつ「新宿中村屋」の洋菓子職人であったロシア人より直接伝授されたの製法技術が現在も引き継がれている逸品としても知られています。
    機械があれば、館山エリアを訪れた際にまた立ち寄りたいと思える老舗パン屋さんです・・・

    旅行時期
    2021年06月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    利用形態
    その他
    アクセス:
    2.5
    JR館山駅・東口から約1.7キロメートル、自動車での利用者がほとんどで利用者がほとんどです。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    各品ともリーズナブルな値段です。
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.0
    幅広い年齢層に親しまれている地元に根付いた雰囲気が伝わってきます。
    料理・味:
    4.0
    食パンを購入しましたがモチモチした食感でこだわりを感じる 美味しいパンでした。
    バリアフリー:
    4.0
    店内に段差はありません。
    観光客向け度:
    4.0

  • 江戸時代中期の石彫獅子の名工が手掛けたとされる石獅子が配置されている獅子山です!

    投稿日 2021年07月07日

    神田神社(神田明神) 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『神田明神 獅子山』は、江戸時代より「江戸総鎮守」として「江戸城」の表鬼門守護の場所に位置する現在の千代田区外神田2丁目に鎮座し、『神田明神』の名称で親しまれている『神田神社』境内の「神殿」に向って右側(東側)の「明神会館」前に位置する一画に親子3体の「石獅子」像が配置されている岩石を積み上げた岩山であり、江戸・東京における巷の出来事を編年体にまとめた地誌の「武江年表」(続編:巻之十一)によると江戸時代末期の徳川幕府第14代将軍「徳川家茂」の時代となる1862年(文久2年)に両替屋仲間により奉納されたことが記されています。
    ちなみに親子3体の「石獅子」像は、江戸時代中期の徳川幕府第8代将軍「徳川吉宗」の時代となる享保年間(1716年から1736年)に武州下野(現在の栃木県)の石彫獅子の名工「石切藤兵衛(別名:油屋藤兵衛)」により手掛けたものと伝えられています。
    また、『神田明神』のほかに「石切藤兵衛」が手掛けたとされる『獅子山』が「大山不動尊」(神奈川県伊勢原市)および「成田山新勝寺」(千葉県成田市)に奉納されており、この3箇所の『獅子山』をあわせて「坂東三獅子」と称されています。
    『神田明神 獅子山』については、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により崩壊しており、親子3体あった「石獅子」像の中で親獅子2体は無事であったものの子獅子が紛失していました。
    1990年(平成2年)になると現在の上皇が平成天皇に即位したことを記念して『獅子山』が再建されるとともに紛失していた子獅子も新たに新調されています。
    さらに1991年(平成3年)になると『獅子山』の親獅子2体が千代田区内に現存する数少ない江戸時代の石造物であるとして千代田区の「有形民俗文化財」に指定されています。
    今回は、平日の午後に「お茶の水」エリアから徒歩で「御徒町」方面を訪れる機会があり、少し時間に余裕があったので『神田神社』を参拝しに立ち寄りました。
    土・日・祝日の『神田神社』境内は、いつも賑わっている印象ですが、立ち寄った際の境内は人もまばらだったので今回は『獅子山』の写真撮影をしてみました。
    滝が流れ落ちる岩山の上に2体の親獅子と滝の下から上を見上げる子獅子を配置して「獅子の子落とし」である”獅子は我が子を千尋の谷に落とす”が表現されている『獅子山』は、『神田神社』境内のみどころのひとつと言えます。
    機会があれば、江戸時代より「江戸総鎮守」として現在も都内千代田区・中央区(神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など)の108か町会の総氏神として尊崇され、5月に盛大に開催される例大祭の「神田祭」やそのほかにいくつかある年中行事の時期にあわせて『神田神社』を参拝してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    総武線・丸の内線:御茶ノ水駅、千代田線:新御茶ノ水駅、銀座線:末広駅より各々徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    いつも参拝者の絶えない人気の神社ですが、今回は平日の午後で参拝者もまばらでした。
    バリアフリー:
    4.0
    獅子山の前は平坦です。
    見ごたえ:
    4.0
    千代田区有形民俗文化財に指定されています。

  • 江戸時代に増上寺霊廟の御成門周辺に架設されていた石橋です!

    投稿日 2021年07月03日

    日比谷公園 石橋 銀座・有楽町・日比谷

    総合評価:3.5

    『日比谷公園 石橋』は、園内の西側に配置されている「雲形池」の北東側に位置する創業1903年(明治36年)の老舗洋食レストラン「松本楼」方向に延びる水路に架設されている歩行者専用の小規模な橋です。
    この『石橋』の架設時期に関する詳細は不詳ですが、江戸時代に徳川将軍家の菩提寺である「増上寺」境内の北側から東側に沿って南側方向に流れていたかつての「桜川」(小規模な水路、現在は埋め立てにより消滅しています。)の「増上寺」境内北側に位置する「御成門」周辺に架設されていた橋のひとつでしたが、明治期になると近代化が進む中で道路幅員の拡幅、密集した市街地の不燃化および上下水道など都市基盤(インフラ)整備が課題となっていた当時の東京市内において1888年(明治21年)に施行された「東京市区改正条例」(現在の都市計画事業)により、現在の都心の原型となる「丸の内オフィス街」・「皇居前広場」・「日比谷公園」・「霞ヶ関官庁街」の整備とあわせて都心を南北に貫く「一等道路」(現在の日比谷通り)などの整備が進められた際に『石橋』も現在の『日比谷公園』内に移設されています。
    今回は、平日の午後に日比谷エリア周辺を訪れた際に東京メトロ丸ノ内線「霞ヶ関駅」より『日比谷公園』西側の霞門から園内に立ち寄り、短時間でしたが園内を散策しながら『石橋』を渡りました。
    過去にもこの『石橋』を渡った経緯が数回あるものの小規模な『石橋』で目立つ存在の橋でもないので何も気にすることもなく素通りしていましたが、今回は『石橋』の袂にある案内板に目が留まり写真撮影をしてみました。
    この『石橋』がもともと架設されていたとされる周辺の「増上寺霊廟」(徳川将軍家歴代の墓所)の「御成門」は、「増上寺」と「江戸城」を南北に結ぶ将軍が参詣する際に利用していた「御成道」(参詣経路)に通じる門であり、もしかしたら歴代の徳川将軍もこの『石橋』を渡っていたかもしれないなどと勝手な想像をして楽しむことができました。
    そのほかに『日比谷公園』は、1989年(平成元年)に「日本公園緑地協会」などにより「日本の都市公園100選」に選定されたほか、2006年(平成18年)に「都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会」により「日本の歴史公園100選」にも選定され、2007年(平成19年)になると景観法による「景観重要公共施設(景観重要都市公園)」に指定されるなど1903年(明治36年)の開園当初から現在に至るまで100年以上にわたり”東京のシンボル的公園”として庶民に親しまれている都立公園です。
    また、四季折々の草花や樹木などの植物に癒されながら園内各所に点在しているさまざまな遺構・記念碑など江戸時代から明治・大正・昭和の近代史などの歴史探索で楽しめる公園でもありお薦めできます。
    機会があれば、日比谷エリア周辺を訪れた際にまた立ち寄り園内を散策してみたいと思います・・・

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ:日比谷駅・霞ヶ関駅、都営地下鉄:日比谷駅、JR:有楽町駅から徒歩圏内です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、園内ベンチで休憩したり散策する人がまばらでにいる程度でした。
    バリアフリー:
    4.0
    段差はありません。
    見ごたえ:
    3.0
    石橋の袂にある案内板に気付かないと素通りしてしまう小規模な橋です。

  • 池袋の地名に関する歴史を学ぶことができました!

    投稿日 2021年06月27日

    池袋地名ゆかりの池 池袋

    総合評価:3.5

    『池袋地名ゆかりの池』は、いくつか存在する説の中で「池袋駅」西口エリアとなる豊島区西池袋1丁目に位置する現在の「高級賃貸タワーマンション」敷地内にあったかつての「旧・元池袋公園」に涸れ池状態で残されていた袋型の通称「丸池」と呼ばれる池跡が「池袋」地名の由来のひとつといわれており、その「丸池」の池跡が下水道工事に伴い完全に埋め立てられて消滅したことを偲び、1998年(平成10年)に「旧・元池袋公園」敷地東側に隣接する面積167.98平方メートルの敷地を新たに整備して開園した「元池袋史跡公園」の一画に地名発祥由来を後世に伝えることを目的に建立された石碑として残されています。
    ちなみにむかしの武蔵国豊嶋郡池袋村の一帯は、多数の池や川が存在する低湿地の湧き水が豊富な地域であり「丸池」から湧き出た水が当時の「雑司ヶ谷村」の農業用水として利用されるなど「弦巻川」として現在の「雑司ヶ谷」から「護国寺」方面を流れ「江戸川橋」の西側で「神田川」に合流しており、江戸時代に「雑司ヶ谷村」を流れる「弦巻川」の様子は、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1834年(天保5年)と1836年(天保7年)の2回に分けて刊行された江戸府内と近郊(武蔵)の地誌として、寺社・旧跡・橋・坂などの名所が鳥瞰図などを用いながら記録されている「江戸名所図会」(全7巻20冊)において、後半の1836年(天保7年)に刊行された4巻12冊の中に「法明寺」(現住所:豊島区南池袋3丁目)と「雑司谷鬼子母神」(現住所:豊島区雑司ヶ谷3丁目)が描かれている鳥瞰図に当時の「弦巻川」も描かれています。
    その後の1932年(昭和7年)になると都市化が進む中での暗渠化工事により「弦巻川」は消滅するとともに「丸池」の水も涸れてしまいました。
    そのほかに「池袋」の地名については、室町幕府・第13代将軍「足利義輝」の時代である1559年(永禄2年)に相模国の戦国大名「北条氏康」が作らせたとされる古文書の分限帳(家臣の名や禄高、地位、役職などを記した帳面)である「小田原衆所領役帳」の中に”太田新六郎 知行 三貫五百文 池袋”の記載があり、「池袋」周辺一帯が「太田道灌」の子孫にあたる「太田新六郎(康資)」の所領であったことが確認されています。
    『池袋地名ゆかりの池』の石碑がある「元池袋史跡公園」へのアクセスは、「池袋駅」各路線を東西方向に結ぶ3つある地下連絡通路(北通路・中央通路・南通路)の中で「南通路」西口方面にある「ルミネ池袋(メトロポリタンプラザ)」部分のガラス屋根の吹き抜け空間となっている「プリズムガーデン」のエスカレーターを昇り地上に出て正面にある「メトロポリタン通り」を左手方向(南側)に100メートル程度先の信号機のある交差点の一画となる「ホテル メトロポリタン」の向かいにある広場です。
    「ホテル メトロポリタン」を利用する際などに「元池袋史跡公園」の前をよく通ることがありますが、今回はじめて足を止めて広場内を見て廻り『池袋地名ゆかりの池』の石碑が存在することを知り「池袋」の地名に関する歴史を学ぶきっかけとなりました。
    『池袋地名ゆかりの池』の石碑がある「元池袋史跡公園」は、石碑のほかにベンチと広場中央に池をイメージした舗装とともに夜間にライトアップされるフクロウが宿る雑木林をイメージしたステンレス柱のモニュメントがあるだけのシンプルな広場ですが、機会があれば夜間ライトアップされたモニュメントの写真撮影をしてみようと思います・・・

    旅行時期
    2020年11月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    ホテル メトロポリタンの向かいにあります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    敷地内に立ち止まる人は殆どいません。
    バリアフリー:
    4.0
    敷地内に段差はありません。

  • 孔子尊像とその高弟とされる四賢像が祀られている孔子廟の正殿です!

    投稿日 2021年06月23日

    湯島聖堂 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『湯島聖堂 大成殿』は、儒教の創始者である「孔子」(生誕:紀元前552年頃から死没:紀元前479年)および儒教における先哲を先師・先聖として祀る「孔子廟」の正殿であり、江戸時代初期の徳川将軍家4代(家康・秀忠・家光・家綱)に仕えていた朱子学派の儒学者「林 羅山」が徳川幕府第3代将軍「徳川家光」の時代となる1632年(寛永9年)に当時の「上野忍岡」(現:上野恩賜公園)にあった私邸内の私塾に「忍岡聖堂 先聖殿」と称した「孔子廟」を創建したのが起源とされています。
    この「孔子廟」を儒教の教えを学問の儒学として重んじていた徳川幕府第5代将軍「徳川綱吉」によって、1690年(元禄3年)に儒学の振興を図ることを目的とした学問の場となる当時の「神田湯島」(現:文京区湯島1丁目)に新たな「孔子廟」を創建し、林家の私塾を「神田湯島」に移転させ名称も「忍岡聖堂 先聖殿」から新たに『湯島聖堂 大成殿』と改称しています。
    そのほか『湯島聖堂』の地にある坂の名称も「孔子」の生誕地であった当時の「魯国・昌平郷」(現:中華人民共和国・山東省曲阜市、中国東部の黄海に面する地域)にちなんで「昌平坂」と命名されましたが、その後に度重なる火災などに見舞われた『湯島聖堂』も荒廃が進み、徳川幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)に林家の私塾としての学問所から徳川幕府直轄教学機関となる「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が設立されています。
    その2年後の1799年(寛政11年)に敷地を拡張しての大規模な改築工事がおこなわれ、『大成殿』は創建時のおよそ2.5倍の規模となる建物となっています。
    明治期になると明治政府に引き継がれ官立の「昌平学校」となりますが、1871年(明治4年)に閉鎖となり儒学の学問所としての歴史に幕を閉じて文部省が設置され、「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策が講じられるようになっています。
    さらに1922年(大正11年)になると国の「史跡」に指定されたものの翌年の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により、1799年(寛政11年)に改築された『大成殿』をはじめ多くの施設が焼失し、「関東大震災」で焼失した『大成殿』ほかの現在の施設は1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
    今回は、「お茶の水」周辺を訪れる機会があったので久しぶりに『湯島聖堂』に立ち寄り、『湯島聖堂』正門出入口「仰高門」から敷地内に入りました。
    高低差のある敷地内の石段を上りながら途中「入徳門」を通り、さらに石段を上がった最上部の「杏壇門」をくぐると正面に位置する『大成殿』とその両側に「回廊」で囲まれた静寂で日本の神社・仏閣と異なる独特で異国の雰囲気が漂ってくる神聖な石畳の「前庭(広場)」空間が広がっています。
    以前にも数回に渡り『湯島聖堂』を訪れていますが、この静寂で独特な雰囲気の空間に立つと時空を超えて雑念が洗い流されたような清々しい気分になります。
    また、『湯島聖堂』で最大規模の間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートルとなる『大成殿』の入母屋造り屋根の上には中国想像上の霊獣などの像が配置されており、その建物内部には「孔子尊像」と「孔子」の高弟とされる「四賢像」(孟子像・顔子像・曾子像・子思像)が祀られているほか、その手前には満州国・皇帝「溥儀」から寄贈された香炉と香炉台が配置されているなど見どころも多くあります。
    ただし『大成殿』内部の公開は平日を除く土曜・日曜・祝日のみとなっており、今回は平日の午後に立ち寄ったため『大成殿』内部を拝覧することができませんでした。
    『湯島聖堂』に立ち寄る際は、『大成殿』内部が公開されている土曜・日曜・祝日をお勧めします。
    機会があれば、『大成殿』内部が公開されている土曜・日曜・祝日などにあわせて立ち寄ってみたいと思います。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、ほとんど人はいませんでした。
    バリアフリー:
    2.0
    敷地内は高低差があり石段があります。

  • 北の丸公園の樹木と調和のとれた日本武道の大殿堂にふさわしい落ち着きのある建物です!

    投稿日 2021年06月20日

    日本武道館 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『日本武道館』は、江戸時代中期に「徳川御三卿」(田安家・清水家・一橋家)であった「田安家」と「清水家」の屋敷地跡であり、明治時代になると「皇居」警護のために配置された「近衛師団」の兵営地跡となる現在の「北の丸公園」内の一画に”我が国伝統の武道を、国民とくに青少年の間に普及奨励し、武道による心身の錬磨を通 じて健全な育成を図り、民族の発展に寄与するとともに、広く世界の平和と福祉に貢献する”ことを目的に設立された「公益財団法人 日本武道館」が管理・運営する日本の武道を中心とした屋内競技施設であり、そのほかに記念式典をはじめコンサートなどの各種イベントが開催される多目的ホール施設となっています。
    『日本武道館』建設までの経緯は、1964年(昭和39年)開催の「第18回 オリンピック競技大会(通称:東京オリンピック)」で柔道が正式競技に決定した1961年(昭和36年)に発足の「国会議員柔道連盟」(会長:正力松太郎)が表明した”世界に誇る日本武道の大殿堂を東京の中央に建設して斯道の発展普及”を実現させるために新たな「武道会館建設議員連盟」(会長:正力松太郎)が発足されて日本武道の大殿堂建設に向けた署名活動に取り組むことにより、1962年(昭和37年)に『日本武道館』建設に向けた当時の「財団法人 日本武道館」(会長:正力松太郎)が設立されています。
    建設地については、二転三転したものの1963年(昭和38年)に工事着工からわずか12か月間の急ピッチな工事期間を経て、1964年(昭和39年)の「東京オリンピック」開会式の25日前に落成し、開会式の7日前に『日本武道館』の開館式を実施、開館式から17日・18日後の2日間にわたり、「東京オリンピック」の柔道競技が開催されています。
    ちなみに開館式から12日後に「東京オリンピック」のデモンストレーション競技として剣道、弓道、相撲の3種目も実施されています。
    『日本武道館』の設計は、隅田川(東京都)に架かる「永代橋」・御茶ノ水(東京都)の「聖橋」・京都駅前(京都府)の「京都タワー」などのデザイン設計で知られる建築家「山田 守」氏によるもので「法隆寺・夢殿」をモデルにしたとされる平面が八角形の建物形状とあわせて、富士山の裾野をイメージしたとされる流動美のあるなだらかに広がる曲線の大屋根・最頂部には避雷針でもあり魔除けの意味をもつ『日本武道館』のシンボルともいえる黄金に輝く「擬宝珠(ぎぼし)」(日本の伝統的な橋や神社・仏閣の高欄などの親柱頂部に設置される装飾)が設置され世界に誇る日本武道の大殿堂にふさわしい落ち着きのある美しい建物です。
    『日本武道館』には、「日本郷土民謡協会」が主催する「郷土民謡民舞全国大会」の会場として利用されていた際によく訪れていましたが、「第32回 オリンピック競技大会(通称:東京2020)」の柔道および空手競技会場として、2019年(令和元年)から本格的な増築・改修工事のため全面的に休館となっており、1年5か月ほど前に「北の丸公園」を訪れた際は工事用の仮囲いで覆われ大屋根の改修工事中でしたが、今回は「北の丸公園」を通り抜けする際に少し足を止めて改修工事完了後の『日本武道館』外観とあわせて新たに増築された「中道場」外観を見て廻り写真撮影をしてみました。
    「北の丸公園」の樹木と調和のとれた日本武道の大殿堂にふさわしい落ち着きのある『日本武道館』外観は、撮影スポットとしてお勧めできます。
    機会があれば、リニューアルされた『日本武道館』内部も見て廻りたいです。

    旅行時期
    2021年03月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口より田安門から北の丸公園内に入り直ぐ徒歩5分程度、北の丸公園内に駐車場もあります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の朝と昼頃に田安門から出入りしましたが、公園内ですれ違う人は数名いました。
    バリアフリー:
    4.0
    建物周囲に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    北の丸公園の樹木と調和のとれた落ち着きのある建物外観は、撮影スポットとしてお勧めできます。

  • 高さ4.6メートル・幅2.3メートルの大きな石碑に圧倒されました!

    投稿日 2021年06月12日

    水道碑記(玉川上水記念碑) 新宿

    総合評価:3.5

    『水道碑記(玉川上水記念碑)』は、江戸時代に大都市化する江戸府内の生活用水を確保するために整備された「玉川上水」を中心に「神田上水」の由来を記した石造の記念碑として、1895年(明治28年)に江戸時代「玉川上水・水番所」が設置されていた「四谷大木戸」跡となる現在の新宿区「四谷4丁目交差点」付近の「四谷区民センター」敷地内に建立されています。
    『水道碑記(すいどうのいしぶみのき)』の建立動機などの詳細は不明ですが、日本橋に在住していた「西座真治」が発起人となり1885年(明治18年)に建立予定の計画が「西座真治」の急逝により計画が一時中断され、「西座真治」の意思を継いだ妻「ふく」により建立が実現されたため建立時期と記念碑に刻まれている年月が10年異なります。
    ちなみに「玉川上水」は、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1653年(承応2年)に町人であった「庄右衛門・清右衛門」兄弟が工事を請け負い2度にわたる「取水堰」地の見直しによる工事のやり直しが発生する中、最終的に多摩川上流の羽村を「取水堰」として「四谷大木戸」までの標高差が約92.3メートルと緩勾配の武蔵野台地の稜線を巧みに開削しながら約8か月の期間で地上部分を開渠とした全長が約42.7キロメートルの上水路を完成させています。
    「四谷大木戸」以降から現在の「虎の門」までの区間は、地中部分に樋(木樋、石樋)を敷設する約6か月間の暗渠となる配水管工事により、1654年(承応3年)から当時の江戸府内に上水が供給され、「四谷大木戸」に「水番所」が設けられ上水の管理が実施されていました。
    また、「玉川上水」建設工事に関する功績が称えられた「庄右衛門・清右衛門」兄弟は、徳川幕府より「玉川」の姓を賜っています。
    『水道碑記』(高さ4.6メートル、幅2.3メートル、厚さ22セントメートル)の「篆額(てんがく)」(漢字の最も古い書体で記された題字)は、徳川宗家第16代当主「徳川家達」が記したもので、「撰文」は江戸時代前期の薩摩藩士「肝付兼武」が記した「玉川上水」と「神田上水」の建設理由および「玉川上水」建設に貢献した「玉川庄右衛門・清右衛門」兄弟の功績を称える内容の漢文です。
    そのほか『水道碑記』は、幕末の志士であり明治政府の官僚かつ書家であった「金井之恭」が記した「書丹」(石碑の下書き)を「井亀泉」の名で江戸三大石匠と呼ばれた「酒井八右衛門」が「鐫刻」(彫り付け)に携わり、1930年(昭和5年)には「東京都 有形文化財(古文書)」に指定、および1952年(昭和27年)には「東京都 史跡」に指定、1955年(昭和30年)になると「東京都 旧跡」に指定、さらに1992年(平成4年)になると『玉川上水記念碑』から『水道碑記』に名称・種別が変更されています。
    今回は、平日の午後に「新宿御苑」周辺を訪れた際に「新宿御苑」の北側に位置する「玉川上水 内藤新宿分水散歩道」とともに『水道碑記』に立ち寄りました。
    石碑に刻まれている漢文は、長文でその場で文書を理解することができませんでしたが、石碑の大きさに圧倒されました。
    また、『水道碑記』のほかに「玉川上水水番所跡」と「四谷大木戸跡碑」の史跡があります。
    『水道碑記』に立ち寄る際は、江戸時代にこの地を流れていた「玉川上水」の面影が再現されている総延長が約540メートルの「玉川上水 内藤新宿分水散歩道」に立ち寄ると散歩道の各所に「玉川上水」に関わる案内板が設置されているので、「玉川上水」に関する理解を深めることができお勧めします。

    旅行時期
    2020年12月
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ丸ノ内線・新宿御苑前駅2番出入口から新宿通り(旧甲州街道)を東側(四谷方面)におよそ350メートル(徒歩4分程度)です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後でしたが、立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    新宿通り(旧甲州街道)沿いの四谷区民センター敷地内にあり、歩道から見ることができます。
    見ごたえ:
    3.5
    高さ4.6メートル・幅2.3メートルの大きな石碑です。

hiroさん

hiroさん 写真

2国・地域渡航

17都道府県訪問

写真 | QA掲示板 | 行ってきます | 掲示板 クリップ

hiroさんにとって旅行とは

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

大好きな理由

行ってみたい場所

現在2の国と地域に訪問しています

拡大ボタンを押すと地図が
動かせます。

現在17都道府県に訪問しています