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hiroさんのクチコミ(6ページ)全489件

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  • 建設当時の最先端技術を駆使して1940年(昭和15年)に完成した双葉跳開橋です!

    投稿日 2021年10月30日

    勝鬨橋 月島・勝どき

    総合評価:4.0

    『勝鬨橋』は、紀元前660年に「神武天皇」が初代天皇として即位してから数えて2600年の節目となる1940年(昭和15年)にアジアで初めて開催される予定であった「第12回 オリンピック競技大会」(東京オリンピック)とともに同じくアジアで初めて開催される予定であった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」(東京万博)のメイン会場となる当時の東京市月島4号埋立地(現:晴海エリア)へ通じるメインゲートとして現在の「晴海通り」(都道304号)の「築地六丁目」交差点(中央区築地6丁目)から「月島第二幼少前」交差点(中央区勝どき1丁目)の区間を流れる「隅田川」河口に建設された橋梁です。
    ちなみに「第12回 オリンピック競技大会」および「紀元2600年記念 日本万国博覧会」は、「日中戦争(支那事変)」突入をきっかけに当時の軍部からの開催反対意見が強まり開催が中止となっています。
    『勝鬨橋』の概要については、橋の両端部分を「タイドアーチ橋」(支間長:86メートル)と呼ばれる固定構造として、橋の中央部分が「隅田川」を航行する船舶が橋下を通航する際に橋桁が”ハの字型”となるように両側に跳ね上げる「双葉跳開橋」(可動支間長:51.6メートル、可動部跳開全開角度:70度)と呼ばれる可動構造で構成される全長が246メートル(幅員:22メートル)、橋梁総重量8,480トン、橋台・橋脚部分が鉄筋コンクリート造となっています。
    また国家的イベントの開催に向けた主要関連施設であった『勝鬨橋』は、日本の技術力を誇示するための建設プロジェクトであり、欧米からの技術者が参画することなく計画が進められ日本人技術者による設計・施工のもと当時の最先端技術を駆使して1933年(昭和8年)の工事着工から「日中戦争」突入など時代が急変し労働力不足および資材調達が困難となる中で約7年間の歳月をかけて1940年(昭和15年)に完成しています。
    『勝鬨橋』の完成当時は、国内最大規模の可動式橋梁として”東洋一の可動橋”と呼ばれており1日に5回の跳開が実施されていますが、船舶の通航量が減少するとともに道路交通量が著しく増大する時代の流れの中で跳開回数も減少し1970年(昭和45年)に跳開を停止しています。
    2007年(平成19年)になると国内の橋梁技術史上価値の高い橋梁であると評価され道路橋としては初となる国の「重要文化財(建造物)」に「隅田川」に架かる「清洲橋」・「永代橋」とともに『勝鬨橋』が指定されています。
    さらに2007年(平成19年)になると跳開部分の機械設備が歴史的景観を構成する設備として機械技術面で歴史的意義があるとして日本の工学関係最初の学会となる「日本機械学会」により『勝鬨橋』が「機械遺産」に認定されています。
    今回は、平日の午後に「築地」エリアを訪れた際に少し時間に余裕があったので久しぶりに『勝鬨橋』を写真撮影をしながら徒歩でわたり、幅員22メートル・長さ25.8メートルの路盤を跳開していた当時の様子を想像しながら改めて技術力の高さを実感するとともに完成してから跳開を停止するまでの約30年間で跳開に関する事故が1度も発生していないことにも驚きを感じました。
    そのほか築地側の橋のたもとにかつての変電所を改装して2005年(平成17年)にオープンした「かちどき橋の資料館」があることを初めて知りましたが、ちょうど閉館日で入館できなかったのが残念でした。
    「かちどき橋の資料館」では、定期的に橋梁設備の橋脚内見学ツアーが実施されているとのことなので、機会があれば見学ツアーにも参加しながら資料館に入館してみたいと思います。
    さらに1998年(平成10年)から実施されている『勝鬨橋』の夜間ライトアップの景観も写真撮影してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    最寄り駅は、都営地下鉄大江戸線・勝どき駅(勝どき側)または東京メトロ日比谷線・築地駅(築地側)となります。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に徒歩で橋をわたりましたが、歩行者・自転車の通行は少ないですが途切れることはありませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    歩道は、石貼舗装で整備されており段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    建設当時は、国内最大規模の可動式橋梁として”東洋一の可動橋”と呼ばれており、国の重要文化財(建造物)に指定されています。

  • 大村益次郎銅像は、高さ12メートルの国内初となる西洋式銅像です!

    投稿日 2021年10月24日

    靖国神社 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『大村益次郎銅像』は、1893年(明治26年)に制作された高さ12メートル(台座を含む)の国内初となる西洋式銅像であり、千代田区九段北2丁目に位置する「靖國神社」境内の「第一鳥居(大鳥居)」と「第二鳥居」の中間にあたる参道中央に建立されています。
    そのほか現在では「皇居外苑」にある1897年(明治30年)に制作された「楠木正成銅像」ならびに「上野恩賜公園」にある1898年(明治31年)に制作された「西郷隆盛銅像」とともに「東京三大銅像」のひとつに数えられています。
    ちなみに『大村益次郎』は、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1825年(文政8年)に長州藩の村医の長男として誕生したのち蘭学および医学を学び村医として開業にたものの、時代が急速に幕末の動乱期へと向かう中で医師から蘭学者として伊予宇和島藩に出仕して、蘭学などの講義および西洋兵学などの洋書の翻訳を手がけ、1856年(安政3年)に江戸におもむき私塾の「鳩居堂」を開塾したほか宇和島藩御雇として徳川幕府直轄の洋学研究教育機関となる「蕃書調所」教授方手伝をしていた際に長州藩「桂 小五郎」との出会いがきっかけとなり1860年(万延元年)に長州藩士となっています。
    その後の1866年(慶応2年)に徳川幕府による「第二次 長州征伐」では、長州藩の参謀として石州口(日本海側)の指揮をとり徳川幕府軍に圧勝したほか「大政奉還」後の1868年(慶応4年)に「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「戊辰戦争」では「新政府軍」の軍事指導者として「上野の彰義隊の戦い」を1日で終結させるなど明治政府における近代的軍隊の基礎を作り「近代日本兵制の父」、「日本陸軍の父」と称されています。
    また「戊辰戦争」により新政府軍戦没者を慰霊するための「招魂社(現:靖國神社)」創建のあたっては建設候補地の選定に加わり、1869年(明治2年)に「招魂社」が創建されていますが、その約2か月後に刺客に襲われ重傷を負った際の傷が原因で「招魂社」が創建されてから約4か月後に逝去しています。
    1882年(明治15年)に執り行われた『大村益次郎』慰霊祭の席で銅像建立案が持ち上がり、「靖國神社(旧:招魂社)」建設地選定に関わっていたことなどから現在の場所に建立されています。
    筒袖羽織に短袴(乗馬などで丈を短くした袴)を着け左手に双眼鏡を持った『大村益次郎銅像』は、「上野の彰義隊の戦い」の際に「江戸城富士見櫓」から上野に立て籠る「彰義隊」を凝視する姿とされ、台座の文章(漢文)は「三條實美」による顕彰文となっています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めて「靖國神社」を参拝しようと思い、以前より「東京三大銅像」のひとつに数えられている『大村益次郎銅像』も気になっていたので正面の「第一鳥居」から境内に入りました。
    幅の広い参道の中央に高さ12メートルの『大村益次郎銅像』は存在感がありますが、4段に積み上げられた御影石および円柱型の顕彰文が書き込まれた高さのある台座の上に直立姿像があり、肉眼で見上げると表情など細部がよく見えなかったのが残念です。
    『大村益次郎銅像』除幕式の日程も制作工程の見直しなどで幾度も延期されていたようで、従来の鋳造方法および設備では技術的に難しい部分や問題などもあっただろうと想像しながら写真撮影をしてみました。
    国内初の巨大な西洋式銅像の制作にあたっては、細部にもいろいろなこだわりがあったと思います。
    機会があれば、しっかりした望遠カメラを準備して「靖國神社」をまた参拝し『大村益次郎銅像』を写真撮影してようと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロまたは都営地下鉄・九段下駅(出口1)から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    参拝される方のまばらでしたが、ほとんどの方が銅像の前で立ち止まっていました。
    バリアフリー:
    4.0
    幅の広い参道に段差はありません。
    見ごたえ:
    4.0
    国内初となる西洋式銅像であり、東京三大銅像のひとつに数えられています。

  • 江戸時代初期より江戸府内に生活用水を供給していた取水口の遺構です!

    投稿日 2021年10月23日

    神田上水取水口の石柱 目白

    総合評価:3.5

    『神田上水取水口の石柱』は、文京区関口2丁目に位置する荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」北西側の袂を起点に「神田川」に沿って北側(左岸側)部分を西側(上流方向)に向かっておよそ500メートルにわたり整備されている文京区立「江戸川公園」敷地内の一画(「大滝橋」と「一休橋」の中間付近)に残されている江戸時代に生活用水となる飲料水を供給するための上水道であった「神田上水取水口」の遺構です。
    ちなみに「神田上水」は、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸入府した際の「江戸城」南側周辺に「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がるエリアが存在しており、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であることから「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで重要課題であった生活用水となる飲料水を確保するために国内初の本格的な上水道として現在の神田・日本橋エリアへ「神田上水取水口」から「自然流下方式」と呼ばれる高低差を利用した開渠部分の開削水路と暗渠(地中埋設)部分となる配水管の役割をする木樋などを用いて供給する設備として整備が始り徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる1629年(寛永6年)ごろに整備が完了しています。
    「神田上水取水口」については、武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)から発する「神田川」の流れに補助水源として「善福寺池」(現:善福寺公園)から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」(現:妙正寺公園)から発する「善福寺川」の流れが「神田川」と合流したところで現在の「神田川」に架かる「大滝橋」付近に取水口が設けられており、ここで「神田川」の水位を上げるための「大洗堰」を築き上水を取水口に導いています。
    また「江戸川公園」敷地内に残されている『神田上水取水口の石柱』は、1933年(昭和8年)まで「神田川」に残されていた「大洗堰」が撤去された際に取水口に導かれた上水を流水路に取り込む流水量を調節する設備であった「角落し」と呼ばれる板をはめ込むために設置されていた堰柱(石柱)となります。
    また「大洗堰」については、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1810年(文化7年)から1830年(文政13年)に編纂された「新編武蔵風土記稿・16巻(豊島郡8)」の中で”石造り、長さ10間(約18メートル)、幅7間(約12.6メートル)、取水口8尺(約2.42メートル)余、側に水番人の小屋あり”と紹介されているほかに、同じく徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中で「大洗堰」全景が「目白下大洗堰」として堰からの流水が大滝のように流れ落ちる様子を描いた絵が紹介されています。
    そのほか『神田上水取水口の石柱』までのアクセスは、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から約400メートル(徒歩5分程度)となります。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」および「江戸川公園」に立ち寄り、遺構である『神田上水取水口の石柱』および「神田川」などを写真撮影してみました。
    現在の「神田川」は、川底が深く両岸をコンクリート製護岸で築かれているため「江戸名所図会・4巻(12冊)」で紹介されている「大洗堰」をイメージすることができませんでしたが、『神田上水取水口の石柱』の遺構は江戸時代初期より重要な取水口として江戸府内に生活用水を供給していた当時の様子をイメージすることができました。
    『神田上水取水口の石柱』のある「江戸川公園」周辺は緑豊かな居心地のよいエリアで周辺を散策して廻ったり、休憩場所としてお勧めできます。
    このエリアの「神田川」沿いは桜の名所となっているので、機会があれば桜の咲く季節にまた周辺を散策して廻りたいと思います。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    訪れた際は、立ち止まって見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    遺構の廻りは舗装されていません。
    見ごたえ:
    3.5
    江戸時代初期より江戸府内に生活用水を供給していた取水口の遺構です。

  • ”中国割烹旅館 掬水亭”の6階展望レストラン(天外天)は、レイクビュースポットとしてお勧めできます!

    投稿日 2021年10月18日

    多摩湖 東久留米・清瀬

    総合評価:4.0

    『多摩湖』は、東京都東大和市・東村山市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町および埼玉県所沢市・入間市の都心近郊の5市・1町に跨る総面積およそ3,500ヘクタール(東西方向:約11キロメートル、南北方向:約4キロメートル)にもおよぶ緩やかな起伏のある広大な雑木林エリアが残されている「狭山丘陵」の東大和市に位置する東京都の「上水道用水源池」として荒川水系の一級河川「柳瀬川」の支流となる「北川」を最も古典的な盛り土によって堰堤を築いて堰き止める「アースダム」と呼ばれる型式を採用し多摩川の水源を「羽村取水堰」から取り込み導水管を用いて『多摩湖』に導く方式により整備された人造湖「村山貯水池」の通称です。
    『多摩湖』建設の経緯は、明治維新後に急速に進む近代化の中で首都東京の近代水道整備が急務とされていた中で、江戸時代に整備されていた多摩川の水源を導く「玉川上水」を1898年(明治31年)に当時としては画期的な規模の”沈でん・ろ過”施設となる「淀橋浄水場」を完成させたものの旧東京市の人口増加に対応するためのさらなる水源確保の必要性が求められており、明治時代末期に新たな貯水池建設の検討が行われ「大久野貯水池案(現:西多摩郡日の出町)」および「村山貯水池案」の中から地形が良好かつ低コストで建設可能な点から「村山貯水池案」が採用されています。
    『多摩湖』の概要は、2段に分割して建設されており西側(上流側)の多摩湖6丁目に位置する部分(堤頂長318.2メートル・有効貯水量2,983千立方メートル)が1924年(大正13年)に完成、東側(下流側)の多摩湖4丁目に位置する部分(堤頂長610メートル・有効貯水量11,843千立方メートル)が1927年(昭和2年)に完成しています。
    ちなみに1934年(昭和9年)には、「狭山丘陵」の埼玉県所沢市に位置する部分に「山口貯水池(通称:狭山湖)」(『多摩湖』と同様に東京都の「上水道用水源池」、堤頂長716メートル・有効貯水量19,528千立方メートル)が完成しており、「狭山丘陵」の緑豊かな雑木林に囲まれた『多摩湖』および「狭山湖」周辺エリアが太平洋戦争開戦前から観光地となっています。
    そのほか「村山・山口貯水池」として1985年(昭和60年)に近代水道施設の整備が開始されてから百周年を記念して企画された「近代水道百選」(日本水道新聞社)に選定、2005年(平成17年)に『多摩湖』が地域に親しまれ地域にとってかけがえのないダム湖として「ダム湖百選」(ダム水源地環境整備センター)に選定、2007年(平成19年)に「村山・山口貯水池」が水道「アースダム」として当時最大規模であり取水塔と管理橋など親水景観として優れているとして「土木学会選奨土木遺産」(土木学会)に選奨、2008年(平成20年)に「村山下貯水池 第一取水塔」が特徴あるデザインのドーム屋根などが取水池のシンボルとして「東京都選定歴史的建造物」(東京都)に選定、さらに2017年(平成29年)に「多摩湖にのぼる月」が静謐な湖上にのぼる月明かりが水面を神秘的に照らし”道路・遠方の街・月”の明かりが競演した夜景が望めるとして「日本百名月」(夜景観光コンベンション・ビューロー)に認定されています。
    今回は、「狭山丘陵」の埼玉県所沢市に位置する「中国割烹旅館 掬水亭」に宿泊して客室や6階「レストラン 天外天」の窓から「狭山丘陵」の緑豊かな雑木林に囲まれた眼下に広がる『多摩湖』の眺望を満喫しました。
    宿泊した日はあいにくの雨でしたが、「中国割烹旅館 掬水亭」の周囲に高層建築などの景色を遮るものが無く眼下に広がる『多摩湖』と雑木林がどこまでも続く「狭山丘陵」の景色は都心からの近郊でありながら外国のリゾート地にいるような気分になり癒されました。
    天気のよい冬の季節は、富士山も望むことができるそうなので機会があれば、天気のよい日に「中国割烹旅館 掬水亭」の宿泊や6階「レストラン 天外天」での食事をして『多摩湖』の眺望を堪能したいと思います。
    また「レストラン 天外天」は、食事のみで利用できるのでレイクビュースポットとしてお勧めできます。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    ”中国割烹旅館 掬水亭”は、西武鉄道山口線(愛称:レオライナー)・西武園ゆうえんち駅の改札口から徒歩1分程度です。
    景観:
    4.0
    6階展望レストラン(天外天)からの多摩湖と狭山丘陵の景色は 外国のリゾート地にいるような気分になり癒されます。
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    6階展望レストラン(天外天)の窓際席は、段差があります。

  • 旧東京市深川食堂として国登録有形文化財(建造物)である昭和初期のモダンな建物です!

    投稿日 2021年10月16日

    深川東京モダン館 門前仲町

    総合評価:4.0

    『深川東京モダン館』は、江東区の観光と文化の拠点として2009年(平成21年)に「旧東京市深川食堂」(鉄筋コンクリート構造2階建て)の建物をリノベーションしてオープンした「江東区観光協会」の施設であり、1階部分が江東区内の街歩きに関する情報の紹介および江東区に関連する近現代史の展示さらに街歩きの際の休憩の場として100円コーヒーの販売などをする「観光案内スペース」、2階部分にイベントやミーティングなどでレンタル利用可能な「多目的スペース」と「会議室」が配置されています。
    ちなみに「旧東京市深川食堂」は、大正時代の物価の高騰により庶民の暮らしが苦しくなった時代に当時の東京市が社会事業施策の一環として低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設「旧東京市営食堂」であり、1920年(大正9年)から旧東京市内の各所に順次設置を開始して最終的に全体で16か所に及んだ「旧東京市営食堂」の内のひとつに数えられています。
    その「旧東京市深川食堂」が建設されたのが1932年(昭和7年)であり、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」の復興事業の一環として当時の最先端技術であった鉄筋コンクリート構造が採用されています。
    その後の太平洋戦争時の「東京大空襲」で一部被災したものの全焼を免れ、終戦後に部分的な修繕が行われたのちに東京都の「職業斡旋施設」となり幾度かの名称変更を経て1979年(昭和54年)になると東京都から江東区に移管され「江東区内職補導所」となっています。
    2006年(平成18年)に建物を一時閉鎖して耐震補強などの改修工事が実施され、2008年(平成20年)になると「関東大震災」後の震災復興事業で建設された当時の構造技術および建築デザインを伝える数少ない現存する近代建造物として国の「登録有形文化財(建造物)」に登録されています。
    『深川東京モダン館』へのアクセスは、東京メトロ・東西線および都営地下鉄・大江戸線「門前仲町駅」6番出入口となる「赤札堂 深川店」前にある横断歩道で「清澄通り(都道463号)」を渡って直ぐ、徒歩3分程度(およそ150メートル)となる江東区門前仲町1丁目に位置します。
    今回は、休日の午前中に「門前仲町」周辺エリアを訪れた際に初めて短時間でしたが『深川東京モダン館』立ち寄り1階部分の「観光案内スペース」を見て廻りました。
    『深川東京モダン館』は、「門前仲町駅」からすぐ近くにあるので江戸情緒が残り粋な東京の下町でもある「門前仲町」エリアを散策して廻る際の情報収集や休憩場所とあわせて建築に興味のある方には建築面積が168平方メートルと小規模ですが昭和初期のモダンな建物である外壁部分のアクセントとなる丸窓および屋内階段の吹き抜け部分垂直方向に配置されている連続窓さらに2階部分の水平方向にも連続窓が設けられているなど時代の古さを感じさせない外観デザインおよび南西側のエントランスホールから屋内階段廻りの建設当時の面影が残る館内を見て廻るのも楽しめると思いますのでお勧めできます。(屋内階段に使用されているモザイクタイルは建設当時のものです。)
    機会があれば、「多目的スペース」で開催されるイベントなどで今回見て廻らなかった2階や2階へつながる吹き抜けの屋内階段廻りもじっくりと見て廻りたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦
    アクセス:
    4.5
    門前仲町駅6番出入口となる赤札堂深川店前から徒歩3分程度(およそ150メートル)です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    休日の午前中でしたが人はほとんどいませんでした。
    展示内容:
    4.0
    深川エリアの古地図なども掲示されていて現在の街並みと比較して楽しめました。
    バリアフリー:
    3.5
    エントランスに数段の段差がありました。

  • 風情ある路地の急坂としてちょっとした観光スポットになっています!

    投稿日 2021年10月15日

    胸突坂 目白

    総合評価:4.0

    『胸突坂』は、北側の東西方向に通る「目白通り(都道8号)」と南側の同じく東西方向に流れる荒川水系の一級河川「神田川」の間を南北にをつなぐ文京区関口2丁目(東側)と文京区目白台1丁目(西側)の境界部分を通る道路の「神田川」寄り(南側)に位置する急坂の名称であり、最寄り駅の東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から『胸突坂』までは約900メートル(徒歩11分程度)となります。
    この急坂の概要については、約16度の急傾斜さらに約29%の急勾配からなる全長がおよそ65メートルの歩行者専用坂道として階段状になっています。
    ちなみに『胸突坂』は、江戸時代に”坂がけわしく自分の胸を突くようにしなげれば上れない”と例えられた急坂によく用いられている名称であり、この階段状からなる急坂のほかに現在の文京区内だけでも本郷5丁目にある自動車通行可能な道路の急坂(最寄り駅:都営地下鉄・三田線「春日駅」)および西方2丁目と白山1丁目の境界部分にある自動車通行可能な道路(最寄り駅:都営地下鉄・三田線「白山駅」)の急坂においても『胸突坂』の名称が用いられています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「神田川」左岸側(北側)に位置する「江戸川公園」および「神田川」に沿って整備されている自転車・歩行者専用道路となる「神田川桜並木」を通り、「神田川」に架かる「駒塚橋」部分を左折(北側)して『胸突坂』を上り「目白通り」まで行きました。
    この『胸突坂』のあるエリアは、江戸時代初期に「江戸城」周辺に生活用水(上水)を供給するための国内初となる本格的な上水道設備として「神田上水 取水口」(大洗堰)が現在の「神田川」に存在していた場所であり、江戸時代を代表する俳人「松尾芭蕉」が2度目の江戸入りとなったのちの徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの3年間にわたり「神田上水改修工事」に携わっており、現場から近い『胸突坂』の東側に位置する現在の「関口芭蕉庵」の地に滞在していたと伝えられています。
    また『胸突坂』の西側には、幕末に「肥後熊本藩 細川家下屋敷」となっていた現在の文京区立公園となる「肥後細川庭園」および創建時期が不詳ですが「神田上水 取水口」の守護神として祀られてきたとされる「水神社」が存在するなど緑に覆われた敷地に挟まれた風情ある路地の急坂としてドラマやアニメにも登場するなどしており、平日の昼過ぎに自分が『胸突坂』を通った際にはこの周辺エリアを散策していると思われる数組のグループとすれ違い『胸突坂』がちょっとした観光スポットになっていることを実感しました。
    機会があれば「神田川」沿いの「神田川桜並木」の通りは、桜の名所になっているので桜の咲くころにこの周辺エリアを散策しながらまた『胸突坂』を歩いてみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から約900メートル(徒歩11分程度)です。
    人混みの少なさ:
    3.5
    平日の昼過ぎでしたが、この周辺エリアを散策していると思われる数組のグループとすれ違いました。
    バリアフリー:
    3.5
    階段状の通り中央に手摺が設置されています。
    見ごたえ:
    4.0
    緑に覆われた敷地に挟まれた風情ある路地の急坂です。

  • 仏教の守護神とされる毘沙門天を祀る神社です!

    投稿日 2021年10月10日

    三宿神社 三軒茶屋・駒沢

    総合評価:3.5

    『三宿神社』の創建は不詳とされていますが、かつて現在の世田谷区三宿2丁目に存在していた「多聞寺」(本尊:毘沙門天)が明治初期に発生した「廃仏毀釈」の影響を受けて廃寺となり、その境内の一部跡地に残された「毘沙門堂」を本殿として転用するとともに1885年(明治18年)に本殿の前面に拝殿を建立して廃寺から『三宿神社』と称する神社になっています。
    ちなみに「多聞寺」が廃寺となるきっかけとなった「廃仏毀釈」は、1867年(慶応3年)の「大政奉還」により成立した新政府の神道と仏教の分離する目的として1868年(慶応4年)に公布された「太政官布告(通称:神仏分離令)」および1870年(明治3年)に神道を国教と定める詔書「大教宣布」が公布された政策を拡大解釈することで仏教文化の破壊活動などに発展した総称となります。
    『三宿神社』の御祭神については、当時の東京府に神社として申請する際の申請書に御祭神を「毘沙門天」と記載して提出されていますが、「毘沙門天(多聞天の別名)」が仏教における守護神であり東南西北の四方を守る天部の仏神として「四天王」(東:持国天、南:増長天、西:広目天、北:多聞天)の一尊に数えられる武神であるため許可が下りず、祭神を神道における「八百万の神」であり「日本神話」に登場する「大物主神」に訂正されていますが、本殿には廃寺となった「旧・多聞寺」の本尊でもあった「毘沙門天(木像)」が安置され、その後に詳細不明ですが「旧・多聞寺」のころから境内にあったとされる稲荷社の「宇迦能御魂命」が御祭神として合祀されています。
    昭和時代になると太平洋戦争時の空襲により「毘沙門天(木像)」は被災を免れたものの本殿および拝殿が焼失しており、1949年(昭和24年)に郊外にあった「元・軍需工場」の社殿を譲り受けて本殿が再建され、1967年(昭和42年)に拝殿が建立されています。
    今回は、「三宿」周辺エリアを訪れ「烏山川緑道」沿いを歩いていた際に『三宿神社』参道の大鳥居の前に『三宿神社』と並んで「毘沙門天」と彫り込まれた石碑に目が止まり、神社なのに「毘沙門天」となっていることが気になり参拝してみました。
    境内には9メートル程度の高低差があり大鳥居をくぐり数段の石段を上りながら二の鳥居をくぐると右手の「神楽殿」(建立など詳細不明)があり、さらに急な石段を上った際頂部に拝殿があり、拝殿の左手に稲荷社また拝殿の裏手に本殿が配置されています。
    日曜日の午前中に参拝しましたが、境内には特に見どころとなるものはなく境内は地元の方と思われる人が数名出入する程度の住宅地の中にある緑に囲まれた憩いの場として地元に根付いた神社といった印象でしたが、神社に仏教の守護神とされる「毘沙門天」が祀られている理由などを調べたりして楽しむことができました。
    『三宿神社』へのアクセスは、東急田園都市線「池尻大橋駅」西口出入口から西側に徒歩14分程度(約1キロメートル)となる世田谷区三宿2丁目の「烏山川緑道」沿いとなります。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東急田園都市線・池尻大橋駅西口出入口から西側に徒歩14分程度の烏山川緑道沿いです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    日曜日の午前中に参拝しましたが、境内は地元の方と思われる人が数名出入する程度でした。
    バリアフリー:
    2.5
    境内には9メートル程度の高低差があり拝殿までは急な石段があります。
    見ごたえ:
    3.0
    境内に特に目立つものはありません。

  • 靖國神社の祭神として祀られている御霊を慰めるための常夜灯として建造された灯籠です!

    投稿日 2021年10月09日

    高燈篭 市ヶ谷

    総合評価:3.5

    『高燈篭』は、下層部分の基礎・竿を和風様式を用いて上層部分の中台・火袋・笠を洋風様式として頂部に方位盤および風見が取り付けられている擬洋風建造物の印象をかもした高さ16.8メートルの灯籠であり、東京メトロ・東西線または半蔵門線あるいは都営地下鉄・新宿線の「九段下駅」2番出入口から約160メートル(徒歩3分程度)となる「靖国通り(都道302号)」の「九段坂」を西側方面に上り「北の丸公園」の北側出入口にあたる「田安門」交差点(早稲田通りとの分岐点となるT字型交差点)付近の千代田区九段南2丁目に位置する千代田区立「九段坂公園」敷地内に設置されています。
    元々この『高燈篭』は、1871年(明治4年)に「靖国通り」をはさんで反対側となる現在の千代田区九段北3丁目に位置する「靖國神社」の正面参道出入口部分に建造されていました。
    ちなみに「靖國神社」の創建と『高燈篭』が建造された経緯については、「明治天皇」の勅令により明治維新の1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)までの混乱期に国内各地で「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で繰り広げられた「戊辰戦争」によって、尊い命を捧げられた多くの方々の事績を永く後世に伝えるとともに御霊を祭神として祀る「招魂社」として1869年(明治2年)に創建したのが始まりとされ、祭神として祀られている御霊を慰めるための「常夜灯」として1871年(明治4年)に『高燈篭』が奉納されています。
    また「九段坂」の坂上部分は、江戸時代より月見の名所として知られる見晴らしのよい高台であり、『高燈篭』が建造された当時には東京湾から「常夜灯」の灯りが確認できており、品川沖を出入りする船の目印となる灯台としての役割も果たしています。
    その後の1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により壊滅状態となった東京の街並みを近代的な都市整備を基盤とする「帝都復興計画」に基づき1930年(昭和5年)に実施された「大正通り(現:靖国通り)」道路拡幅工事に伴い、道路幅員の拡幅とあわせて江戸時代より急坂で知られていた「九段坂」の勾配を緩やかに整備するとともに『高燈篭』が現在地に移設されています。
    今回は「市ヶ谷」周辺を訪れる機会があり少し時間に余裕があったため、「靖國神社」の参拝ならびにその周辺エリアの散策をしてみようと思い「九段坂公園」敷地内に設置されている『高燈篭』に立ち寄りました。
    この『高燈篭』を実際に見てみると現在では周囲の建物の方が高くそれほど高層建造物と感じることはありませんが、東京の街が江戸から近代都市へと移り変わる時代の出来事など歴史とあわせて『高燈篭』が建造された当時に高層の建物が存在しなかった高台の見晴らしのよいスポットの新しい東京の街を代表するランドマーク的な存在感のある擬洋風建造物であったことを想像しながら楽しむことができました。
    『高燈篭』のある周辺は「千鳥ヶ淵」などの桜の名所でもあるので、機会があれば桜の咲く季節にまた立ち寄ってみたいと思います・・・

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    地下鉄・九段下駅2番出入口から徒歩3分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    立ち止まって見る人はほとんどいません。
    バリアフリー:
    3.5
    周囲は緩やかな傾斜地で石貼舗装のスロープや段差(手摺付)があります。
    見ごたえ:
    3.5
    1871年(明治4年)に建造された高さ16.8メートルの擬洋風建造物です。

  • 多摩湖と緑豊かな狭山丘陵の森林が広がる眺望は外国のリゾート地にいるような気分になり癒されました!

    投稿日 2021年10月02日

    中国割烹旅館 掬水亭 所沢

    総合評価:4.5

    『中国割烹旅館 掬水亭』は、「狭山丘陵」と呼ばれる森林と一体となり首都・東京の水源確保として1927年(昭和2年)に完成した人造湖「村山貯水池(通称:多摩湖)」と同じく1934年(昭和9年)に完成した「山口貯水池(通称:狭山湖)」が配置されている緑豊かな里山の自然に囲まれた景観が広がるエリアの「多摩湖」のほとり所沢市山口に位置する上海料理をベースにした本格中国料理を提供するレストラン・宴会場施設と日帰り入浴可能な大浴場施設を備えた客室総数21室の宿泊施設で構成される「西武鉄道」が所有する建物施設であり、運営をグループ会社となる「西武園ゆうえんち(旧・豊島園)」がおこなっています。
    ちなみに「狭山丘陵」は、埼玉県所沢市・入間市と東京都東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町の5市・1町に広がる総面積およそ3,500ヘクタール(東西方向:約11キロメートル、南北方向:約4キロメートル)にもおよぶ広大な規模を有するエリアであり、1947年(昭和22年)から「西武鉄道」が観光開発に乗り出して現在では『掬水亭』のほかに「西武園ゆうえんち」、「西武園競輪場」、「ゆり園(旧:ユネスコ村)」、「狭山スキー場(屋内型の人工スキー場)」、「西武園プール」、「西武園ゴルフ場」、「西武ドーム」などの施設が開設されています。
    そのほか『掬水亭』の創業は、1957年(昭和32年)に『旅館 掬水亭』として開業したのが始まりですが、1987年(昭和62年)に火災により焼失しており、現在の地上6階・地下1階建ての建物は1990年(平成2年)に完成しています。
    また、2017年(平成29年)に夜景観光の推進を目指す「日本百名月」プロジェクト(活動主体:夜景観光コンベンション・ビューロー)により、「多摩湖」が眼前に広がるレイクビュースポットとして名月鑑賞に最適な『掬水亭』などから望める武蔵野の月として静謐な”多摩湖にのぼる月”(認定登録第23号)が「日本百名月」に認定されされています。
    『掬水亭』へのアクセスは、西武鉄道・池袋線「池袋駅」または西武鉄道・新宿線「西武新宿駅」から60分程度となる西武鉄道・山口線(愛称:レオライナー)「西武園ゆうえんち駅」の改札口から線路沿いの遊歩道に架かる橋を渡ってすぐの徒歩1分程度です。
    今回は、自動車を利用して3世代家族5人で角部屋の最大6人まで利用可能なデラックス和洋室(和室:10畳・広縁付き+洋室:ツインベットルーム)に1泊(夕・朝食付き)しました。
    館内は、3階から5階が客室フロアとなっており3タイプある客室の全室がレイクビューであるとともに和室をベースとし最大で5人から6人まで利用可能な落ち着きのある造りとなっており、家族で宿泊を検討されている方にお勧めできます。
    今回利用した角部屋は、それぞれ独立しているゆったりとした和室と洋室が2部屋あり、和室からは「多摩湖」と「西武園ゆうえんち」敷地の一部となる2方向を見渡せ、洋室からは「西武園ゆうえんち」敷地内全体などを見渡すことができます。
    『掬水亭』の周辺には高層建築が無くゆったりとした部屋の広縁の掘りごたつに座り窓から望める「多摩湖」と緑豊かな「狭山丘陵」の森林が広がる眺望は、都心からすぐ近くでありながら外国のリゾート地にいるような気分になり癒されましたが、宿泊当日があいにくの雨で「富士山」を望めず少し残念でした。
    食事は、夕食・朝食ともに6階「レストラン 天外天」でいただきましたが、天井が高くゆったりとした空間で客室と同様にレイクビューの眺望とあわせて夕食時にピアノの生演奏があり癒されながら本格中国料理のコースを量も多すぎることなく美味しく完食できてスタッフの方の対応もよく楽しい食事の時間となりました。
    朝食は和食で家族からは和食と洋食のどちらか選択できるスタイルがよかったという意見もありましたが、自分としては最後の締めとしてご飯にだし汁をかけお茶漬け風に食べるスタイルが気に入りました。
    1階(露天風呂付き)と2階にある大浴場施設は、朝と夜で男女入れ替え制の温泉ではありませんが定期的に日本茶パウダーが注がれ、ほのかに日本茶の香りを感じ癒されました。
    全体的な印象としてはスタッフの方がとても親切な対応で居心地のよさを感じ、是非また天気の良い日に利用して富士山や名月の眺望を堪能してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    1人1泊予算
    20,000円未満
    アクセス:
    5.0
    西武鉄道山口線(愛称:レオライナー)・西武園ゆうえんち駅の改札口から徒歩1分程度です。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    1泊2食付きで1人20,000円でしたが、平日限定で”マル得セット”(日帰り入浴&食事)が2,040円の掲示がありました。
    客室:
    4.5
    それぞれ独立しているゆったりとした和室と洋室が2部屋あり、多摩湖と緑豊かな狭山丘陵の森林が広がる眺望に癒されました。
    接客対応:
    4.5
    とても親切な対応で居心地のよさを感じました。
    風呂:
    4.0
    温泉ではありませんが定期的に日本茶パウダーが注がれ、ほのかに日本茶の香りを感じ癒されました。
    食事・ドリンク:
    4.5
    夕食は本格中国料理のコース、朝食は和食でしたが、どちらも美味しかったです。
    バリアフリー:
    4.0
    館内の廊下幅もゆったりとしていますが、西武園ゆうえんち駅の改札口からのアクセスは橋を渡る途中に階段があります。

  • 今まで知らなかった人物について学び楽しめました!

    投稿日 2021年09月30日

    大井玄洞翁の胸像 目白

    総合評価:3.0

    『大井玄洞(おおいげんどう)翁の胸像』は、「目白通り(都道8号)」の「江戸川橋」交差点から「江戸川公園前」交差点までの南北区間を東西に流れる荒川水系の一級河川「神田川」に架かる「江戸川橋」の袂(北西側)を起点に「神田川」に沿って左岸側(北側)部分を「神田川」上流方向(西側)に向かっておよそ500メートルにわたり整備されている文京区立「江戸川公園」内の「目白通り」側一画となる東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から徒歩1分程度(およそ100メートル)の場所に設置されています。
    ちなみに『大井玄洞』は、徳川幕府・第13代将軍「徳川家定」の時代となる江戸時代末期の1855年(安政元年)に加賀藩の儒学者であり医師の子として生まれ、加賀藩の藩校である「明倫堂」で儒学などの学問や「道済館」で英語を学んでいます。
    明治維新後の1869年(明治2年)から1873年(明治6年)まで「大学南校(現:東京大学)」に入学しドイツ語を学び、「大学南校」を卒業後は「大学区医学校(現:東京大学医学部)」でドイツ語の通訳をはじめドイツ語の薬学などに関する専門書の翻訳活動をおこない、1880年(明治13年)から1885年(明治18年)まで一旦ふるさとに戻り「金沢医学校製薬学科(現:金沢大学薬学類)」で薬局長ならびに内務省主管の金沢医術開業試験委員を兼務したのちの1886年(明治19年)に9か月程度となるドイツ短期留学をしています。
    帰国直後から1900年(明治33年)まで陸軍薬剤官として陸軍病院薬剤課長心得、陸軍軍医学校教官を務め、師団軍医部として「日清戦争」に出征、凱旋後に陸軍薬局方編纂委員、予備役などを務めています。
    陸軍を退役したのちは、東京市小石川区(現:文京区)に居住し衛生材料(ガーゼ・脱脂綿など)関連の商いをするかたわら当時の小石川区会議員を務め、さらに1907年(明治40年)から1928年(昭和3年)までは当時の東京府会議員を務めたのちの1930年(昭和5年)に逝去し75年の生涯に幕を閉じています。
    『大井玄洞翁の胸像』の建立まで経緯については、『大井玄洞』が陸軍を退役してから小石川区に在住して議員を務めていた時代にたびたび洪水をおこしていた「神田川」において特に1910年(明治43年)に発生した大水害を機に治水工事の重要性を感じていた『大井玄洞』の尽力により、1913年(大正2年)に「神田川」護岸改修工事が着手され、6年後の1919年(大正8年)に護岸改修工事の完了とあわせて「江戸川公園」が整備されています。
    この「神田川」治水事業に尽力した『大井玄洞』の功績を称えて永くその徳を伝える目的で1928年(昭和3年)に胸像が「江戸川公園」内に建立されています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に「江戸川公園」内を通り『大井玄洞翁の胸像』の存在に目が止まりましたが、今まで『大井玄洞』に関する知識が全くありませんでした。
    『大井玄洞翁の胸像』の存在に気が付き胸像自体は地味なものでこれといって見応えがあるわけではありませんでしたが、今まで知識のなかった『大井玄洞』という人物について学ぶきっかけになり色々と調べることで楽しむことができました。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩1分程度です。
    人混みの少なさ:
    3.0
    公園内を素通りする人はいますが、立ち止まって胸像を見る人はいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    公園内の平坦な場所にあります。
    見ごたえ:
    3.0
    胸像自体は、地味なものでこれといって見応えがあるわけではありません。

  • 江戸時代に徳川将軍家と縁の深い祈願寺として創建しています!

    投稿日 2021年09月26日

    護国寺 池袋

    総合評価:4.0

    『護国寺』は、徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の時代となる1681年(天和元年)に創建された現在の文京区大塚5丁目に位置する真言宗豊山派の大本山として宗派の宗教法人・本部宗務所が置かれている寺院であり正式名称が山号を神齢山、院号を悉地院と称する『大聖護国寺』の通称です。
    『護国寺』創建の経緯については、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の側室であった「お玉の方(桂昌院)」が懐妊し安産の祈祷を現在の群馬県高崎市に位置する山号を神通山、院号を遍照王院と称する「大聖護国寺」第24世「亮賢和尚」に依頼し、誕生してくる「徳川綱吉」が将軍となることを「亮賢和尚」が占ったと伝えられています。
    その後に将軍となった「徳川綱吉」が生母「桂昌院」の発願となる祈願寺の開山を「亮賢和尚」に命じ、徳川幕府所轄の「高田御薬園(北薬園)」の一画に『護国寺』が創建し、「桂昌院」の念持仏であった「天然琥珀如意輪観世音菩薩像」が『護国寺』の絶対秘仏の本尊として祀られるなど徳川将軍家と縁の深い祈願寺となっています。
    徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中で『護国寺』境内の様子を描いた絵が紹介ており、檀家をもたない徳川将軍家の祈願寺として境内に墓地が存在しないことが確認できますが、明治維新後の1873年(明治6年)になると『護国寺』境内東側部分の敷地が皇族専用の墓所として整備され、現在は宮内庁が管理する一般者立入禁止エリアの「豊島岡墓地」となっています。
    また、1873年(明治6年)に『護国寺』境内西側部分の敷地が陸軍管轄の「陸軍墓地」となりましたが、1949年(昭和24年)から『護国寺』の管理となり『護国寺』一般墓地エリアの一画に「音羽陸軍埋葬地」として日清戦争による遺骨を祀る「多宝塔」、日露戦争と満州事変の「合葬墓」および太平洋戦争終結後に建立された「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」などが整備されています。
    そのほか現在の『護国寺』は「本堂」裏手が一般墓地エリアが広がり、明治期以降の大正・昭和期に活躍した政治家・経済界・文化人などさまざまなジャンルの著名人の方々が埋葬されている寺院となっています。
    今回は、平日の午後に東京メトロ・有楽町線「護国寺駅」周辺を訪れた際に少し時間があったので、『護国寺』を参拝してみようと思い初めて境内に入りましたが、「本堂(観音堂)」の拝観時間が9時から16時までであり、ちょうど拝観時間が終了して「本堂」が閉まったところでしたので境内の各施設を写真撮影しながら散策して廻りました。
    『護国寺』境内の建造物は、徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の時代である1697年(元禄10年)に建立された「本堂」とあわせて桃山時代の建造物と伝わる天台寺門宗の総本山「園城寺(通称:三井寺)」(滋賀県大津市)塔頭日光院から書院様式「客殿」を1928年(昭和3年)に移築した「月光殿」が1931年(昭和6年)に国の「重要文化財」に指定されたのをはじめに1691年(元禄4年)に建立された「薬師堂」および1701年(元禄14年)に建立された「大師堂」が1975年(昭和50年)に文京区の「有形文化財(建造物)」に指定、詳細な建立時期が不明ですが江戸時代のものとされる「惣門」・「鐘楼(付梵鐘)」が1976年(昭和51年)に文京区の「有形文化財(建造物)」に指定、同じく江戸時代のものとされる「仁王門」が1982年(昭和57年)に文京区の「有形文化財(建造物)」に指定されるなど境内各所に見どころの多い建造物がある寺院です。
    短時間でしたが文化財などに指定されている建造物とあわせて「本堂」裏手の一般墓地エリアのさまざまな特徴ある形状の墓石や著名人の方の墓石を散策して廻り楽しめました。
    機会があれば、「本堂」内部の拝観時間内に立ち寄り、安置されている文京区の「有形文化財(彫刻)」に指定されている「不動明王像」・「地蔵菩薩立像」・「如来形坐像」・「聖観音菩薩像」・「大日如来座像」なども拝観してみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ有楽町線・護国寺駅1番出入口からすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後16時すぎで本堂(観音堂)の拝観時間が過ぎて境内は閑散としていました。
    バリアフリー:
    2.5
    仁王門から本堂まで高低差があります。
    見ごたえ:
    4.5
    境内には文化財指定の建造物が多数あるほか明治・大正・昭和期に活躍したさまざまなジャンルの著名人の方々が埋葬されています。

  • 定番の手作り”カレーパン”は味・価格ともにお薦めできる逸品です!

    投稿日 2021年09月23日

    ロックガーデンカフェ 飯能

    総合評価:4.0

    『ロックガーデンカフェ』は、西武鉄道・秩父線「西吾野駅」改札口から埼玉県飯能市街地と秩父市街地を結ぶ「国道299号」を飯能市街地方面に徒歩10分程度(およそ750メートル)となる「国道299号」沿いの「高麗川」に架かる「小床橋」付近に位置するカフェ施設です。
    『ロックガーデンカフェ』近くの「国道299号」沿いには、目印となる複数の”カレーパン”と書かれた黄色い幟が立っているので初めてでも場所はすぐにわかると思います。
    以前より「国道299号」を自動車で通る度に”カレーパン”の幟が気になっていましたが、今回は日曜日の14時過ぎに自動車で初めて『ロックガーデンカフェ』に立ち寄りました。
    店舗専用の駐車場施設は、「国道299号」を秩父市街地方面に向かう下り「高麗川」側の道路沿いと飯能市街地方面に向かう上り店舗前の「国道299号」を左折した店舗奥に完備されており合わせて10台程度の乗用車が駐車できると思います。
    「国道299号」より少し高台に建つ木造2階建ての住宅・店舗兼用の1階部分がウッドデッキ付きのオシャレな店舗でウッドデッキ前の敷地には、コンパクトですが樹木の隙間から背後に見え隠れする岩肌の崖を望むことができる店名にふさわしい”Rock Garden”となっており、このガーデンから見ることはできませんが崖の上には西武鉄道・秩父線が通ています。
    立ち寄った際は、店内席とガーデン席にお客さんがいましたがガーデン席のお客さんがちょうど帰るところだったのでガーデン席に座ることができました。
    ガーデン席は、武蔵野の山林に囲まれた居心地のよい風を感じられて癒されました。
    メニューは、コーヒーなどのドリンクのほかに”カレーパン”、”ベーグルサンド”、”ホットドック”のテイクアウトもできる軽食があり、以前より気になっていた”カレーパン”とコーヒーを注文しました。
    ”カレーパン”は、注文を受けてから油で揚げる店舗定番の人気のある手作りパンであり、外側がカリカリで中に熱々カレーがたっぷり詰まっており、また食べたいと思える美味しさでひとつ150円の低価格にも驚かされるお薦めの逸品です。
    『ロックガーデンカフェ』周辺は緑豊かな武蔵野の山林に囲まれたエリアであり、「国道299号」はオートバイでツーリングを楽しむ方の往来も多く、また「国道299号」を沿うように流れる「高麗川」に架かる「小床橋」は「西吾野駅」から「柿の木峠」を経由して「子ノ権現 天龍寺(通称:子ノ権現)」および「医王山薬寿院 八王寺(通称:竹寺)」に向かうハイキングコースの出入口でもあり、『ロックガーデンカフェ』はツーリングやハイキングをされる方の休憩場所としてもお勧めできます。
    ちなみにハイキングコースになっている「子ノ権現」は平安時代中期となる911年(延喜11年)に創建した本尊「十一面観音」を祀る天台宗の寺院であり「武蔵野三十三観音霊場32番札所」、「竹寺」は平安時代前期となる857年(天安元年)に創建した神仏習合の寺として知られる本尊「牛頭天王」を祀る天台宗の寺院であり「武蔵野三十三観音霊場33番札所」となっており、機会があれば「子ノ権現」や「竹寺」周辺を散策しながら『ロックガーデンカフェ』に立ち寄ってみたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    1,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    3.5
    西武鉄道秩父線・西吾野駅改札口から徒歩10分程度です。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    ひとつ150円の手作りカレーパンは、驚きの低価格です。
    サービス:
    4.0
    テイクアウトも可能です。
    雰囲気:
    4.0
    ガーデン席は、武蔵野の山林に囲まれた居心地のよい風を感じられ癒されます。
    料理・味:
    4.0
    注文を受けてから油で揚げる手作りカレーパンは、外側がカリカリで中に熱々カレーがたっぷり詰まっています。
    バリアフリー:
    3.0
    国道から店舗入り口まで短距離ですが急坂です。
    観光客向け度:
    4.5
    西武鉄道秩父線・西吾野駅周辺の散策した際の休憩場所として最適です。

  • 入園無料で日中は誰でも自由に出入りできる本格的な日本庭園としてお勧めできます!

    投稿日 2021年09月20日

    肥後細川庭園 目白

    総合評価:4.0

    『肥後細川庭園』は、文京区目白台1丁目の神田川沿いに位置し、敷地北側部分が武蔵野台地の東端にあたる「目白台(関口台地)」と呼ばれる高台から南側の神田川沿いの低地部分に向かって高低差が最大で30メートル程度にもおよぶ傾斜地が広がる樹林の自然景観を活かした本格的な日本庭園となる「池泉回遊式庭園」として整備されている敷地面積19,008.3平方メートルの文京区立公園です。
    この『肥後細川庭園』周辺のエリアについては、江戸時代初期に「江戸城」周辺に生活用水(上水)を供給するために国内初の本格的な上水道設備となる「神田上水 取水口」として神田川の水位を上げるための「大洗堰」が築かれており(現在は撤去されています)、現在の『肥後細川庭園』には江戸時代中期まで徳川幕府・幕臣の屋敷が建ち、江戸時代末期になると徳川家御三卿の清水家下屋敷から同じく御三卿の一橋家下屋敷へと移り変わり、さらに幕末には現在の『肥後細川庭園』のほか北側の高台部分を通る「目白通り(都道8号)」沿いに位置する「目白台運動公園」一帯が「肥後熊本藩 細川家下屋敷」へと移り代わっています。
    明治維新後の1882年(明治15年)には、旧肥後熊本藩主から侯爵となった「細川家」の本邸となり現在の「池泉回遊式庭園」の骨格がこの頃に完成されたと伝えられ、昭和初期までは「細川家」の所有地となっています。
    その後の1950年(昭和25年)からおよそ10年間にわたり一時的に「西武鉄道」の所有地となり、1960年(昭和35年)に東京都の所有地に代わったことにより『肥後細川庭園』の前身となる本格的な日本庭園となる「池泉回遊式庭園」が1961年(昭和36年)に東京都立の「新江戸川公園」として開園しています。
    1975年(昭和50年)になると「新江戸川公園」が文京区に移管され文京区立公園となり、2015年(平成27)から公園内全体の改修工事が段階的に実施され、2018年(平成30年)に一連の改修工事が完了しています。
    また、公園内全体の改修工事に伴い「池泉回遊式庭園」の成り立ちを尊重した新名称への変更が公募により実施され、2017年(平成29年)に「新江戸川公園」から現在の『肥後細川庭園』に名称変更をしています。
    そのほかに『肥後細川庭園』正門部分にある園内のシンボル的な木造2階建ての建物「松聲閣(しょうせいかく)」(延べ床面積497平方メートル)については、1887年(明治20年)以前まで「細川家学問所」として使用されていたと伝えられており、現存する建物は1923年(大正12年)に発生した関東大震災の直後に建設され、その後に数回にわたり増改築が実施されながら「細川家」の本邸として使用されていた建物となります。
    1975年(昭和50年)以降は、文京区の「区民会館」・「新江戸川公園集会所」として利用されていましたが、2006年(平成18年)から老朽化により休止となり、耐震化工事を伴う改修工事が実施され、2016年(平成28年)に集会室、休憩室、展望所、店舗機能を有した「松聲閣」にリニューアルしています。
    今回は、平日の昼頃に「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に『肥後細川庭園』に立ち寄り庭園内を散策して廻りましたが、敷地南側の平地部分の大池を中心とした落ち着きのある「池泉回遊式庭園」エリアで日本庭園の趣きに癒され、北側の傾斜地部分の樹林エリアでは都会であることを忘れ山林をハイキングしているような気分になりました。
    真夏日となる暑い日でしたが、樹木に囲まれ居心地よくもう少し園内各所を写真撮影して廻ろうと思いましたが、大気が不安定な日でもあり突然の豪雨で園内をゆっくりと散策することができなかったのが残念です。
    機会があれば、紅葉の季節(紅葉時期にライトアップなどの企画あり)・雪による枝折れ防止としてわら縄で枝を吊る雪吊り風景の冬季・桜の咲く季節など四季折々の庭園風景や大正時代の日本建築「松聲閣」をゆっくりと見学して廻りたい思います。
    『肥後細川庭園』は、入園無料の施設となっており年末年始の休園日を除き日中は誰でも自由に出入りできる本格的な日本庭園としてお勧めできます。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩15分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の昼頃でしたが、園内で数名の方とすれ違いました。
    バリアフリー:
    2.5
    園内北側の樹林エリアは、高低差のある傾斜地です。
    見ごたえ:
    4.5
    本格的な日本庭園となる池泉回遊式庭園と大正時代のシンボル的な木造2階建ての日本建築・松聲閣があります。

  • 総重量およそ100トンにもおよぶ耐候性鋼板の大鳥居や参道の広さなどに圧倒されました!

    投稿日 2021年09月18日

    靖国神社 市ヶ谷

    総合評価:4.0

    『靖國神社』は、1869年(明治2年)に「明治天皇」の勅令により『招魂社(しょうこんしゃ)』として現在の千代田区九段北3丁目に創建した歴史の浅い神社です。
    『招魂社』創建の経緯については、日本における近代的な統一国家構築にあたり明治維新の混乱期の中で1867年(慶応3年)に徳川幕府・第15代将軍「徳川慶喜」が自ら徳川幕府による政権を天皇に返上した「大政奉還」の後に「徳川慶喜」への処遇をめぐり、1868年(慶応4年)に「新政府軍」と「旧幕府軍」の間で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」が皮切りとなり「上野の彰義隊の戦い」のほか「会津戦争」さらに1869年(明治2年)の五稜郭における「箱館(函館)戦争」まで国内各地で繰り広げられた戦の総称となる「戊辰戦争」により、近代国家が誕生する大変革の過程の中で尽力し尊い命を捧げられた多くの方々の事績を永く後世に伝えるとともに御霊を慰めることを目的に祭神として祀られています。
    その後も国内最後の大規模な内戦として知られる1877年(明治10年)の「西南戦争」などにより尊い命を捧げられた方々の御霊も祭神として合祀、1879年(明治12年)になると社号が現在の『靖國神社』に改称されています。
    この『靖國』の社号については、「明治天皇」の命名によるもので平和な国家を建設する願いとして”国を靖(安)んずる”を意味する想いが込められています。
    さらに諸外国との武力衝突による戦争や対外事変として1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて行われた「日清戦争」、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の「日露戦争」、1931年 (昭和6年)の「満洲事変」、1937年(昭和12年)の「支那事変」、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)の「太平洋戦争」など国家のために尊い生命を捧げられた方々の御霊も合祀され現在では246万6千柱あまりの御霊が祭神として祀られており、「伊勢神宮」を本宗として「古事記」や「日本書紀」の神話に登場する「八百万神(やおよろずのかみ)」を祭神として祀る「神社本庁」が包括する日本各地の一般的な神社が属する包括宗教法人と異なり、『靖國神社』は単立宗教法人となっています。
    今回は、平日の午後に「市ヶ谷」周辺を訪れた際に少し時間に余裕があったので初めて『靖國神社』を参拝しようと思い短時間でしたが正面から境内に入り「拝殿」で参拝してきました。
    『靖國神社』正面から拝殿までの参道には、1964年(昭和39年)に再建された当時の最新技術による耐候性鋼板の表層を錆安定処理を施し落ち着きのある黒褐色が特徴的な再建時に国内最大規模の高さ25メートル・柱直径1.88メートル・柱(中芯)間幅19.56メートル・笠木長さ34.13メートル・総重量およそ100トンにもおよぶ「第一鳥居(大鳥居)」をはじめ、日本初の西洋式銅像として1893年(明治26年)に制作され「東京三大銅像」と称される「大村益次郎銅像」(台座を含む高さ12メートル)、1887年(明治20年)に当時の最先端技術を駆使し柱に継ぎ目をもたない青銅製鳥居として制作され、『靖國神社』境内の中で最も歴史の古い鳥居でもあり国内の青銅製鳥居の中で最大規模(高さ15メートル)となる「第二鳥居(青銅大鳥居)」、さらに1934年(昭和9年)に建立された直径90センチメートルの丸太柱が12本、扉1枚の寸法が幅およそ2.8メートル・高さおよそ6メートルの扉2枚1組となって建物3箇所に設置され中央2枚の扉に直径およそ1.5メートルの菊の紋章が取り付けられた木造(台湾産・総檜)・切妻銅板葺屋根の「神門」、2006年(平成18年)に埼玉県秩父市「三峯神社」の樹齢500年の檜から造られた素木の「中門鳥居」、1901年(明治34年)に建立された木造・入母屋向拝唐破風付銅板葺屋根の「拝殿」など境内各所に見どころの多い神社であり、特に「第一鳥居(大鳥居)」の規模や参道の広さ、「神門」の柱の太さ・扉の大きさに圧倒されました。
    また『靖國神社』境内には、東京の桜・開花宣言の基準となる標本木があるなど桜の名所でもあるので機会があれば桜の咲く時季にあわせて立ち寄りたいと思います。

    旅行時期
    2021年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロまたは都営地下鉄・九段下駅(出口1)から徒歩5分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    平日の午後に参拝しましたが、参拝される方はまばらでした。
    バリアフリー:
    4.0
    幅の広い参道に段差はありませんが、拝殿部分に段差があります。(スロープも設置されています。)
    見ごたえ:
    4.0
    境内各所に見どころの多い神社です。

  • ゴルフ場に併設されたホテル施設の源泉掛流し天然温泉(露天風呂付き)に癒されました!

    投稿日 2021年09月06日

    白沢高原ホテル 利根・白沢

    総合評価:4.0

    『白沢高原ホテル』は、1992年(平成4年)にオープンした沼田盆地・東側の「白沢高原」(沼田市白沢町)に位置する標高およそ630メートルのゴルフ場施設となる「初穂カントリークラブ」の「クラブハウス」建物内部に併設され宿泊客室のほかレストラン施設と宴会場、天然温泉施設を所有し、ゴルフ場利用者以外の方も宿泊およびランチならびにディナーや温泉施設の日帰り入浴など気軽に立ち寄り利用できるほか冬場はスキー場と提携しているお勧めのホテル施設です。
    『白沢高原ホテル』へのアクセスは、関越自動車道「沼田インターチェンジ」から自動車で13分程度であり、「国道120号(日本ロマンチック街道)」を東側(日光方面)へ約5キロメートル先にある「道の駅白沢」交差点を左折してから2キロメートルほどの場所です。
    今回は、自動車で沼田市エリアを訪れた際にゴルフ未経験のゴルフ場に立ち入るのも初経験となるメンバーによるランチ休憩で「初穂カントリークラブ」と併設する『白沢高原ホテル』に立ち寄り、レストラン施設での食事とあわせて日帰り入浴で温泉施設「初穂美肌の湯」を利用してみました。
    利用したのは日曜日の昼時で、ちょうど「初穂カントリークラブ」が毎月主催しているクラブメンバー対象の「月例杯」の日と重なっており駐車場がほぼ満車状態であるのに戸惑いながらアメリカンリゾートをイメージして建設されたといわれる「クラブハウス」2階部分のエントランスから建物内に入り、ホテルのフロントで改めて一般利用の確認を取りました。
    フロントのある2階のロビーから一部吹き抜け空間のあるラウンジと繋がる天井高の高いレストラン施設の窓からは、ゴルフ場のコースを見下ろせるとともに遠くに標高1,828メートルとなる「赤城山」まで望める高原の大パノラマが広がる眺望もお薦めできます。
    レストラン施設での食事も”日本そば(天ぷら・稲荷寿司・小鉢付き)”を注文しましたがリゾート気分を味わいながら美味しくいただくことができました。
    また、温泉施設「初穂美肌の湯」(源泉名;初穂の湯)は、「初穂カントリークラブ」敷地内から湧き出る源泉掛流しの露天風呂付き天然温泉(温度:57度)で、泉質が美肌効果、疲労回復やストレス解消に最適とされる無色透明の「アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)」(PH値:9.8)に癒されました。
    沼田市エリアを訪れる機会があれば、また立ち寄ってみたいと思える施設です・・・

    旅行時期
    2021年08月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    その他
    アクセス:
    4.0
    関越自動車道・沼田インターチェンジから自動車で13分程度(約7キロメートル)です。
    コストパフォーマンス:
    4.0
    ランチおよび日帰り入浴での利用でした。
    接客対応:
    4.0
    風呂:
    4.0
    初穂カントリークラブ敷地内から湧き出る源泉掛流しの露天風呂付き天然温泉です。
    食事・ドリンク:
    4.0
    バリアフリー:
    4.0

  • 国内初の本格的な上水道の取水口跡です!

    投稿日 2021年09月04日

    神田上水取水口「大洗堰」 目白

    総合評価:3.5

    『神田上水取水口・大洗堰』は、1590年(天正18年)に「豊臣秀吉」による小田原征伐により領地替えとなった「徳川家康」が江戸入りの際に「江戸城」周辺に上水(生活用水)を引き込む「小石川上水」として整備が開始され、徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代となる1629年(寛永6年)ごろに整備が完了したと伝えられる国内初の本格的な上水道である『神田上水』の取水口として現在の文京区関口付近の「神田川」に架かる「小滝橋」あたりに川の水位を上げるために築かれていた堰です。
    ちなみに「徳川家康」が江戸入りした当時の「江戸城」南側周辺には、「日比谷入江」と呼ばれる海辺の湿地帯が広がるエリアが存在し、井戸を掘っても塩分が混入し飲料水に適さない水質であることから「江戸城」を中心とした都市整備を進めるうえで生活用水となる飲料水の確保が重要課題となっていました。
    『神田上水』概要は、武蔵野台地の湧き水を水源とする「井の頭池」(現:井の頭恩賜公園)から発する「神田川」の流れに補助水源として「善福寺池」(現:善福寺公園)から発する「善福寺川」さらに「妙正寺池」(現:妙正寺公園)から発する「善福寺川」の流れが「神田川」と合流してから『神田上水取水口』に上水を取り込むために『大洗堰』が築かれ、「神田川」から取り込まれた上水は、「自然流下方式」と呼ばれる高低差を利用した開渠部分の開削水路を流れ途中で「水戸徳川家・江戸上屋敷」(現:小石川後楽園)敷地内を通過したのちに現在の千代田区と文京区の区境を流れる「神田川」に架かる「白山通り(東京都道301号)」の「水道橋」から約100メートル下流部分で「神田川」上部を跨いで上水を流す橋の役割となる木製懸樋を渡し、そこから先は暗渠(地中埋設)部分となり配水管の役割となる木樋などを用いて神田・日本橋方面に拡張しながら上水が供給されています。
    『神田上水取水口・大洗堰』の建設時期は定かではありませんが、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1836年(天保7年)に刊行された地誌「江戸名所図会・4巻(12冊)」の中で『大洗堰』全景が「目白下大洗堰」として堰から流水が大滝のように流れ落ちる様子を描いた絵が紹介されています。
    そのほか『大洗堰』の規模についても徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代となる1810年(文化7年)から1830年(文政13年)に編纂された「新編武蔵風土記稿・16巻(豊島郡8)」の中で”石造り、長さ10間(約18メートル)、幅7間(約12.6メートル)、取水口8尺(約2.42メートル)余、側に水番人の小屋あり”と紹介されています。
    江戸から東京市となった明治期の1901年(明治34年)に近代水道の敷設が完了すると上水を供給する『神田上水』の役割が終了し、「水戸徳川家・江戸上屋敷」跡地にできた「東京砲兵工廠 (兵器工場)」へ工業用水の供給に代わりましたが、「東京砲兵工廠 (兵器工場)」が1931年(昭和6年)から1935年(昭和10年)まで段階的に九州「小倉工廠」に移転したことに伴い工業用水の供給が1933年(昭和8年)に廃止され『大洗堰』が撤去されています。
    今回は、「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に歩行者専用の「小滝橋」を渡り、橋の袂に設置されいる「神田上水取水口大洗堰跡 区指定史跡」案内板で『大洗堰』跡であることが確認できましたが、川底が深く両岸をコンクリート製護岸で築かれている現在の「神田川」からは、「江戸名所図会・4巻(12冊)」に描かれている『大洗堰』から流水が大滝のように流れ落ちる面影を感じることはできませんでした。
    この辺りの「神田川」は、川に沿って「神田川桜並木」として自転車・歩行者専用道路とあわせて「江戸川公園」が整備されているので、次回は桜の花が咲く季節に花見として立ち寄ってみたいと思います。
    また「江戸川公園」敷地内の一画には、『大洗堰』遺構の一部となる「神田上水取水口の石柱」が残されており、こちらは当時の『神田上水取水口』をイメージすることができました。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅1a出入口から徒歩7分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.0
    神田川沿いの自転車・歩行者専用道路(神田川桜並木)を通行する人は常にいますが、気になる程ではありません。
    バリアフリー:
    4.0
    神田川沿いの自転車・歩行者専用道路(神田川桜並木)に段差はありません。
    見ごたえ:
    3.0
    現在の神田川からは、当時の大洗堰から流水が滝のように 流れ落ちる面影を感じることはできませんでした。

  • ”仰高門”は、幕末期に新撰組の一員であった”斎藤 一”が晩年に看守を務めていた総門です!

    投稿日 2021年08月29日

    湯島聖堂 御茶ノ水・本郷

    総合評価:4.0

    『湯島聖堂 仰高門』は、1690年(元禄3年)に儒教の教えを学問の儒学として重んじていた徳川幕府・第5代将軍「徳川綱吉」の命により、儒学の更なる振興を図ることを目的に儒教の創始者「孔子」と儒教の先哲を先師・先聖として祀る「孔子廟」とあわせて「学問所」施設として創建された『湯島聖堂』(現:文京区湯島1丁目)の総門となります。
    ちなみに総門の名前の由来は、孔子がどんな人物かと尋ねられた弟子の顔回が答えた内容「先生は仰げば仰ぐほど高さを増す素晴らしい人です」を引用したといわれています。(「論語」子罕第九による”顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅”)
    そのほか『湯島聖堂』が創建したことにより、江戸時代初期の徳川幕府に仕えていた朱子学派の儒学者「林 羅山」が私邸内に開設していた私塾「忍岡聖堂」(現:上野恩賜公園内)が『湯島聖堂』に移転となり、『湯島聖堂』が林家の学問所(私塾)となっています。
    儒教については、世界の偉大な思想家「四聖人」のひとりに数えられ魯国・昌平郷(現:中華人民共和国・山東省曲阜市)の地に誕生した「孔子」(生誕:紀元前552年頃・死没:紀元前479年)が唱えた「五常」の徳目「仁・義・礼・智・信」を守ることで「五倫」とされる「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の関係を維持するなど武力による支配を批判し、上下の秩序を守り徳によって政治をおこなうといった思想が含まれ、「孔子」が弟子たちと交わした問答が「孔子」の死後およそ400年の歳月をかけて「論語」として編纂されています。
    日本国内においては、仏教の信仰にあわせて僧侶のたしなみとして儒教の思想が日本国内に浸透し、江戸時代を迎えると学問の儒学として捉えられるようになっています。
    徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1797年(寛政9年)になると林家の学問所(私塾)から徳川幕府直轄教学機関となる「昌平坂学問所(通称:昌平校)」が設立され、その2年後の1799年(寛政11年)になると敷地を拡大して各施設の大規模な改築工事が執り行われています。
    当時の『湯島聖堂』全景が1836年(天保7年)に刊行された江戸府内とその近郊(武蔵)の地誌となる「江戸名所図会・5巻(14冊)」に『聖堂』として鳥瞰図を用いて紹介されており、各施設の配置などが現在と変わらない様子がうかがえます。
    明治時代を迎えると明治政府の「官立・昌平学校」となるものの1871年(明治4年)に閉鎖となり、文部省が設置され「近代教育発祥の地」として近代教育の原点となる施策などが講じられるようになっています。
    また、幕末期に新撰組の一員として活動していた「斎藤 一」が晩年の1894年(明治27年)からの約4年間を当時「東京高等師範学校附属東京教育博物館」(現:国立科学博物館)となっていた『湯島聖堂』の看守(守衛長)を務めており、『仰高門』脇の門衛で勤務していたといわれています。
    大正時代を迎えると『湯島聖堂』は、1922年(大正11年)に国の「史跡」に指定されますが、その翌年に発生した「関東大震災」により敷地内のほとんどの施設が焼失しており、焼失した各施設は1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造として再建されたもとなります。
    今回は、お茶の水エリアを訪れた際に久しぶりに『湯島聖堂』に立ち寄り、正門出入口となる総門の『仰高門』から敷地内に入り、高低差のある敷地内の石段を上り「大成殿」(正殿)前に広がる石畳の「前庭(広場)」までいきました。
    以前にも数回に渡り『湯島聖堂』に立ち寄っていますが、静寂でどことなく異国を感じる敷地内に入ると都会の中にいることを忘れ現代社会と切り離されたような誰もいない空間の中で時の経つのも忘れて立っていると時空を超えて雑念が洗い流されたような清々しい気分となり、機会があればまた立ち寄りたいと感じるお薦めのエリアです。
    そのほか敷地内は見どころも多いですが、土曜・日曜・祝日など限定で正殿である「大成殿」内部が公開されますので、『湯島聖堂』が初めての方は「大成殿」内部が公開される日にあわせて立ち寄ることをお勧めします。

    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    JR:御茶ノ水駅・東京メトロ:新御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐです。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後に立ち寄りましたが、数名の人とすれ違うだけでした。
    バリアフリー:
    2.0
    敷地内は高低差があり石段があります。
    見ごたえ:
    4.0
    日本の寺院とは異なりどことなく異国を感じさせる静寂な空間です。

  • 外装仕上材のリブ付きステンレス製鋼板の曲線美が美しい建物です!

    投稿日 2021年08月28日

    東京カテドラル聖マリア大聖堂 目白

    総合評価:4.0

    『東京カテドラル聖マリア大聖堂』は、東京メトロ・有楽町線「江戸川橋駅」1a出入口から「目白通り(都道8号)」を北側に進み「音羽通り(都道435号)」との分岐点となる「目白坂下」交差点を左折(西側方面)して「目白新坂」を上り切った「目白通り」沿いの文京区関口3丁目に位置する「東京大司教区・カトリック関口教会」の司教座聖堂(カテドラル)として、「第18回 オリンピック競技大会(通称:東京オリンピッ)」が開催された1964年(昭和39年)12月に竣工しています。
    ちなみに「カトリック関口教会」の歴史については、1888年(明治21年)にカトリック系孤児院の職業訓練の場として開校した「聖母仏語学校」敷地内に附属施設となるゴシック様式の木造聖堂が1899年(明治32年)に建設され、翌年の1900年(明治33年)になると木造聖堂が小教区聖堂の「聖母教会」として独立、その後の1904年(明治37年)に「聖母仏語学校」が閉鎖となり、さらに1920年(大正9年)になると大司教区であった「築地教会」が「聖母教会」に移転したことにより小教区聖堂の「聖母教会」から大司教区の司教座聖堂となったことにより名称が「カトリック関口教会」に変更しています。
    1899年(明治32年)に建設された木造聖堂については、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」において特に被害を受けることはありませんでしたが、「太平洋戦争」末期の1945年(昭和20年)に東京を襲った空襲により焼失しています。
    その後は既存の建物などを司教座聖堂として転用していましたが、日本でのカトリック再布教100年事業の一環として1962年(昭和37年)に新たな司教座聖堂建設に向けた3名の著名な建築家による指名設計コンペ(前川國男・谷口吉郎・丹下健三)が実施され、最終的に「丹下健三」氏の設計案となる『東京カテドラル聖マリア大聖堂』が採用されています。
    『東京カテドラル聖マリア大聖堂』の外観は、菱形の底部平面形状から外壁と屋根の役割を兼ね備えた鉄筋コンクリート造の”HP(双曲放物面)シェル”と呼ばれる4種類(2枚1組)計8枚の構造体をほぼ垂直(最高高さ:39.42メートル)の状態で建てかけるようにしながら最頂部が十字架の平面形状となるように組み合わせた構造となっています。
    さらに十字架の平面形状となっている最頂部開口部分にはトップライトが組み込まれており、特徴的な形状の”HPシェル”外装仕上材には凹凸のあるリブ付きステンレス製鋼板が採用され存在感のある美しい曲線美の建物外観に仕上がっています。
    1966年(昭和41年)になると『東京カテドラル聖マリア大聖堂』が「第7回 BCS賞」を受賞(現在の「日本建設業連合会」が表彰する名誉ある賞、受賞した当時の団体名は「建築業協会(通称:BCS)」)、さらに2003年(平成15年)には”DOCOMOMO JAPAN”選定の現存する近代建築として「日本におけるモダン・ムーブメント」の建築に選ばれています。
    学生時代に建物見学で『東京カテドラル聖マリア大聖堂』に立ち寄ったことがありますが、今回は「江戸川橋」周辺エリアを訪れた際に『東京カテドラル聖マリア大聖堂』を見学したくなり建物外観の写真撮影をしてみました。
    聖堂内部も見学したかったのですが、新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言中でもあり聖堂内部への立ち入りができなかったのが残念です。(38年ほど前の学生時代に聖堂内部も見学したことがありますが、十字架型のトップライトから降り注ぐ光の中に広がる静寂なコンクリート打放しの大空間は見どころのひとつでもあります。)
    機会があれば、『東京カテドラル聖マリア大聖堂』の内部見学が可能な時期にまた立ち寄り写真撮影をしてみたいと思います。
    天候のよい日は、青空とともに光り輝く外装仕上材のリブ付きステンレス製鋼板のコントラストが美しく写真撮影にお薦めできる建物です。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    東京メトロ有楽町線・江戸川橋駅または護国寺駅、東京メトロ副都心線・雑司が谷駅から徒歩15分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    平日の午後でしたが、自分のほかに1人の方が写真撮影をしていました。
    バリアフリー:
    4.0
    建物外観を見学するのみでしたら問題ありません。(今回は建物内部の見学ができませんでした。)
    見ごたえ:
    4.5
    外装仕上材のリブ付きステンレス製鋼板の曲線美が美しい建物です。(建物内部もお薦めできますが、今回は建物内部の見学ができませんでした。)

  • 東京23区内屈指の急傾斜・急勾配の坂道です!

    投稿日 2021年08月21日

    のぞき坂 目白

    総合評価:3.5

    『のぞき坂』は、新宿区内から豊島区内を南北方向に通る「明治通り(都道305号)」および「明治通り」と「新目白通り(都道8号)」が交差する「高戸橋」交差点から南北に通る「都電荒川線(愛称:東京さくらトラム)」の上空を跨ぐように立体交差して東西方向に通る「目白通り(都道8号)」に架かる跨道橋「千登世橋」の東側にある最初の信号を南側(神田川方面)に向って通る自動車通行可能な区道であり、豊島区高田2丁目に位置する急傾斜(最大13度)・急勾配(最大22%から23%)となる東京23区内でも屈指の坂道部分の通称となります。
    坂道部分の『のぞき坂』道路舗装は、北側の武蔵野台地・東端にあたる「目白台」と呼ばれる台地の坂上部分から南側(神田川方面)の坂下部分までは約15メートル以上にもおよぶ高低差があり、急傾斜・急勾配の自動車通行用スロープなどで一般的に採用される真空コンクリート舗装(リング工法)により施工がされています。
    また、文字通り”坂上部分から視線をのぞくように下部方向に向けないと坂下部分まで見通すことができない”この『のぞき坂』は、2019年(令和元年)公開の劇場用アニメーション映画「天気の子」(新海誠・監督作品)・「冴えない彼女の育てかた Fine(フィーネ)」(亀井幹太・総監督作品)のほか、テレビアニメーション作品の「冴えない彼女の育てかた」・「偽物語」・「体操ザムライ」などにおいても物語の各シーンで『のぞき坂』が描かれており、アニメ愛好家の方々から『のぞき坂』が聖地として崇められているほか、さまざまなテレビ番組の収録などで登場するなど観光スポットにもなっています。
    今回は、平日の昼頃に目白周辺エリアを訪れた際に東京メトロ・副都心線「雑司が谷駅」3番出入口から『のぞき坂』に立ち寄り写真撮影をしてみました。
    『のぞき坂』へのアクセスは、東京メトロ・副都心線「雑司が谷駅」3番出入口前を通る「目白通り」の横断歩道を渡ってすぐ約80メートル(1分程度)で最最寄り駅となるほか、東京さくらトラム「学習院下停留場」・「鬼子母神前停留場」からも約350メートル以内の徒歩圏内となります。
    『のぞき坂』の坂上部分からは、「新宿駅・南口」エリアの高層ビル群や「NTTドコモ代々木ビル」も望むことができて坂下部分との高低差(5階建てビルの屋上部分程度の高さ)を実感することができました。
    目白周辺エリアを訪れる機会があれば、「目白通り」と「神田川」が並行している「江戸川橋」までの高低差のある一帯はさまざまな坂道が存在するので『のぞき坂』のほかにも色々な坂道を散策してみたいと思います。
    そのほかにさまざまなアニメで描かれている『のぞき坂』については、アニメの中で細部までリアルに再現されているようなのでアニメを見たことのある方は実際の風景と比較しながら楽しむことができるのではないでしょうか?
    (ちなみに自分は、『のぞき坂』が描かれているアニメを見たことかありませんが・・・)

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    東京メトロ副都心線/雑司が谷駅・3番出入口前から徒歩1分程度です。
    人混みの少なさ:
    4.5
    数名ですが通行する人とすれ違いました。
    バリアフリー:
    2.5
    急傾斜・急勾配の坂道なので、車イスや杖などが必要な方は付添者がいた方がよいと思います。
    見ごたえ:
    3.5
    高低差15メートル以上の急傾斜・急勾配の坂道です。

  • 境内の木々の緑から差し込む木漏れ日を感じ癒される寺カフェです!

    投稿日 2021年08月15日

    赤門テラスなゆた 池袋

    総合評価:4.0

    『赤門テラスなゆた』は、西武鉄道・池袋線「池袋駅」から一駅目の「椎名町駅」(駅番号:SI02)北口から徒歩1分未満の駅前となる豊島区長崎1丁目に位置する山号を「蓮華山」・寺号を「仏性寺」と号する「金剛院」境内にあるお寺が経営する寺カフェです。
    ちなみに「金剛院」の歴史は、「聖弁(しょうべん)和尚」によって室町時代末期(戦国時代)の時代であり天下一の茶人として知られる「千利休」が生誕した年代とされる1522年(大永2年)に開創されたと伝わる「長谷寺」(奈良県桜井市)を本山とする真言宗豊山派に属する本尊が「阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)」の寺院です。
    江戸時代初期の徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代となる延宝年間(1673年から1681年)から第5代将軍「徳川綱吉」の時代となる元禄年間(1688年から1704年)の頃に発生したとされる火災により「金剛院」は仏像や古文書なども含めて焼失しており、第7代将軍「徳川家継」の時代となる1715年(正徳5年)に「聖誉(しょうよ)和尚」によって現在地に再建されています。
    また、第10代将軍「徳川家治」の時代である天明年間(1781年から1789年)に江戸府内で度重なる火災が発生した際に「宥憲(ゆうけん)和尚」が中心となり被災した多くの江戸庶民を「金剛院」境内に収容していたことが将軍に伝わり、その褒賞として1780年(安永9年)に建立された「金剛院」の山門を将軍家と縁のある屋敷にのみ許されていた名誉ある朱塗りの赤門にすることが許され、江戸庶民から「赤門寺」として慕われるようになっています。
    1994年(平成6年)になると山門(赤門)が「豊島区・有形文化財」に指定され、さらに2014年(平成26年)になると本堂・客殿などの大規模な耐震化工事などとともに山門(赤門)脇に地上2階・地下1階建ての建物が新築されてその1階部分に『赤門テラスなゆた』がオープンしています。
    寺カフェの店名になっている”なゆた”は、サンスクリット語の“nay uta” を音訳した仏教用語の極めて大きな数量を意味する「那由他」であり、日本の現行方式による数の単位であらわすと”1億=10の8乗”、”1兆=10の12乗”、”1京=10の16乗”をはるかに超える”1那由他=10の60乗”となります。
    『赤門テラスなゆた』の店内は、「金剛院」境内側が床から天井まで総ガラス張りの開放感のある落ち着いた雰囲気のよい屋内のテーブル28席と屋外ウッドデッキ部分のオープンテラス6席で構成されており、コンパクトですがよく手入れが行き届いている「金剛院」境内の静かな庭園が一望できて、木々の緑から差し込む木漏れ日を感じながら寺カフェならではの精進料理や健康料理をベースにしたからだに優しいランチなどの食事やスイーツとドリンクなどで癒されるお薦めの空間です。
    そのほか「金剛院」境内の樹齢300年から400年といわれるカヤの木の実を使用したクッキー、枝垂れ梅の実を使用した梅シロップジュースなどのアットホームなメニューも気になります。
    以前に「金剛院」境内で開催されたイベント(としまの銭湯から世界へ発信する美・健康・癒しのライフスタイル)やランチ目的などで『赤門テラスなゆた』に立ち寄ったことがありますが、今回は夏場の午後に休憩目的で立ち寄り自分はアイスコーヒーを飲みながら一緒にいた家族はかき氷を食べながら癒されました。
    『赤門テラスなゆた』は、「金剛院」境内の静かで緑豊かな落ち着きがありホッとさせる居心地のよい空間でありながら駅前に位置する利便性のよさも兼ね備えており、椎名町(豊島区長崎)エリアを訪れた際に立ち寄りたいと感じさせてくれる寺カフェです。

    旅行時期
    2021年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    2,000円未満
    利用形態
    その他
    アクセス:
    5.0
    西武鉄道池袋線・椎名町駅北口より徒歩1分未満の駅前です。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.0
    木々の緑から差し込む木漏れ日を感じられる金剛院境内の庭園が一望できます。
    料理・味:
    4.0
    寺カフェならではの精進料理や健康料理をベースにした体に優しい料理です。
    バリアフリー:
    3.0
    出入口部分のアプローチに段差があります。
    観光客向け度:
    4.0
    アットホームな雰囲気のある落ち着いた空間です。

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