江戸時代に内藤新宿と呼ばれたエリアにある”江戸三大閻魔”や”江戸六地蔵”など見どころの多い寺院です!
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- 旅行時期:2021/07(約4年前)
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by hiroさん(男性)
新宿 クチコミ:23件
『太宗寺』は、最寄り駅の東京メトロ・丸の内線「新宿御苑前駅」1番出入口(1番線ホーム改札口)から、「新宿通り・新宿一丁目西交差点」を渡って直ぐ徒歩1分程度(約120メートル)の新宿区新宿2丁目に位置する山号を「霞関山」・院号を「本覚院」と号する浄土宗の寺院(本尊:阿弥陀如来)です。
『太宗寺』の創建に至るまでの歴史は、寺伝によると「豊臣秀吉」の三男「拾」(のちの「豊臣秀頼」)が元服した1596年(慶長元年)ごろに「太宗」と称する僧侶により甲州街道の道筋に開いた草庵「太宗庵」が始まりとされています。
1590年(天正18年)になると「徳川家康」の江戸入府の際に鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務めた徳川家の家臣「内藤清成」が、江戸入府の翌年に現在の四谷~代々木までの東西区間と千駄ヶ谷~大久保までの南北区間におよぶ広大な敷地を「徳川家康」から賜り、「太宗庵」周辺一帯の地名が「内藤町」と命名されています。(ちなみに現在の国民公園「新宿御苑」は「内藤家」の下屋敷跡地です。)
その後の徳川幕府・第3代将軍「徳川家光」の時代である1629年(寛永6年)に「内藤清成」の三男「内藤正勝」が逝去した際に「太宗」により葬儀が執り行われたことを契機に「内藤家」と「太宗庵」の縁が深まり、徳川幕府・第4代将軍「徳川家綱」の時代である1668年(寛文8年)に「太宗庵」は、「内藤正勝」の長男「内藤重頼」から寺地の寄進を受け『太宗寺』として開山したことが創建とされ、「内藤家」の菩提寺として境内にある「内藤正勝の墓(内藤家墓所)」が1995年(平成7年)に「新宿区・史跡」に指定されています。
また1706年(宝永3年)に江戸深川「地蔵坊正元」の発願により、江戸府内の出入口6箇所(東海道、奥州街道、甲州街道、中山道、水戸街道、千葉街道)の街道沿いの寺院に「江戸六地蔵」と称する「地蔵菩薩坐像」が造立された中で第3番として1712年(正徳2年)に「銅造地蔵菩薩坐像」が『太宗寺』境内に造立され、1970年(昭和45年)に「東京都・有形文化財(彫刻)」に指定されています。
その他に江戸時代の制作とされ1984年(昭和59年)に「新宿区・有形文化財(彫刻)」に指定されている「三日月不動像」、江戸時代より「江戸三大閻魔」と称されて江戸庶民からも親しまれ1986年(昭和61年)に「新宿区・有形民俗文化財」に指定された「閻魔像」および「奪衣婆像」など見どころの多い寺院です。
ちなみに「閻魔像」は、徳川幕府・第11代将軍「徳川家斉」の時代である1814年(文化11年)ごろに安置されたと伝えられていますが、度重なる火災などによる修復で制作当初の部分は頭部を残すのみといわれています。また「奪衣婆像」は、1870年(明治3年)に制作されています。
「新宿御苑」エリアを訪れた際に数回に渡り『太宗寺』に立ち寄っていますが、「閻魔像」と「奪衣婆像」が安置されている「閻王殿(閻魔堂)」の格子扉が閉まっており、扉の格子越しに殿内を覗き込んでいました。
『太宗寺』の「閻王殿」は、”地獄の釜の蓋も空く”とされる1月16日・7月16日とその前日となる15日の年間で4日間が御開帳日であり、今回はじめて御開帳日にあわせて立ち寄ることができました。
木造:総高5.5メートルの「閻魔像」と木造:総高2.4メートルの「奪衣婆像」を間近で見ると迫力があり圧倒されました。特に「奪衣婆像」は、リアルで怖さを感じさせます。
ちなみに「閻魔大王」に仕える「奪衣婆」は、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取る老女の鬼で剥ぎ取った衣服は大樹(衣領樹)の枝に懸け枝の垂れ具合で生前の罪の軽重をはかるといわれています。
『太宗寺』は、江戸時代に甲州街道と青梅街道の分岐点の「内藤新宿」と呼ばれたエリアであり、この周辺を散策する際にお薦めできる文化財など見どころの多いスポットです。
特に「閻王殿」の御開帳日である1月15日・16日または7月15日・16日にあわせて立ち寄ることをお勧めします。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 東京メトロ丸の内線・新宿御苑前駅1番出入口から徒歩1分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 平日の昼時でしたが、境内に数名の人がいる程度でした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 本堂・閻魔殿・不動堂に石段があります。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 境内に文化財などの見所の多い寺院です。
クチコミ投稿日:2021/08/07
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