イスタンブール旅行記(ブログ) 一覧に戻る
途中渋滞もなく、昼にイスタンブールに到着しました。まずは海が見えるレストランでの昼食です。その後、世界遺産に指定されている旧市街を見学しました。ブルーモスクとアヤソフィアが見える場所から見学スタートです。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

2008秋、トルコ旅行記2(29/47):10月19日(2):イスタンブール、アヤソフィア、ミナレット、ドーム屋根

9いいね!

2008/10/14 - 2008/10/21

1944位(同エリア4386件中)

旅行記グループ 2008秋、トルコ旅行記2(上巻)

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

途中渋滞もなく、昼にイスタンブールに到着しました。まずは海が見えるレストランでの昼食です。その後、世界遺産に指定されている旧市街を見学しました。ブルーモスクとアヤソフィアが見える場所から見学スタートです。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

同行者
一人旅
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
その他

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  • 紅白の垂れ幕が盛大に飾られた光景です。トルコの祭日・記念日を検索してみましたら、毎年10月29日は『共和国の日(トルコ共和国宣言記念日)』として、国民の祝日が祝われるようですから、その事前準備が行われているのかも知れません。そのほかに該当するような祝日は見当たらないようでした。赤色がトルコ国旗です。(同上)

    紅白の垂れ幕が盛大に飾られた光景です。トルコの祭日・記念日を検索してみましたら、毎年10月29日は『共和国の日(トルコ共和国宣言記念日)』として、国民の祝日が祝われるようですから、その事前準備が行われているのかも知れません。そのほかに該当するような祝日は見当たらないようでした。赤色がトルコ国旗です。(同上)

  • ズームアップした紅白の旗の中に、アタチュルク元大統領の似顔絵を描いたらしい、白い旗がありました。一番手前の旗の右から二つ目です。ギリシア=トルコ戦争勝利の翌年、1923年10月29日に現在のトルコ共和国はムスタファ・ケマル(後のアタチュルク初代大統領)によって建国宣言がされました。やはり、建国の日である10月29日の飾り付けのようです。(同上)

    イチオシ

    ズームアップした紅白の旗の中に、アタチュルク元大統領の似顔絵を描いたらしい、白い旗がありました。一番手前の旗の右から二つ目です。ギリシア=トルコ戦争勝利の翌年、1923年10月29日に現在のトルコ共和国はムスタファ・ケマル(後のアタチュルク初代大統領)によって建国宣言がされました。やはり、建国の日である10月29日の飾り付けのようです。(同上)

  • 白い旗が3枚続き、その両脇に赤い色の国旗が並べられていました。ネットで検索してみましたら、毎年10月28日の午後から国民の休日となり、29日まで続くようでした。その他の祝祭日も、アタチュルクの行った政教分離政策により、イスラムの国では金曜日を祝祭日とするところを、日曜日を優先して祝祭日に決めているようでした。(同上)

    白い旗が3枚続き、その両脇に赤い色の国旗が並べられていました。ネットで検索してみましたら、毎年10月28日の午後から国民の休日となり、29日まで続くようでした。その他の祝祭日も、アタチュルクの行った政教分離政策により、イスラムの国では金曜日を祝祭日とするところを、日曜日を優先して祝祭日に決めているようでした。(同上)

  • 凱旋門のような造りの建物光景です。トプカプ宮殿の出入口門の一つかも知れませんが、調べがついていません。このあとは、イスタンブールについての概要と、簡単な歴史の紹介です。イスタンブールは県都です。同都市はトルコ北西部に位置し、マルマラ海と黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に跨った都市です。(同上)

    凱旋門のような造りの建物光景です。トプカプ宮殿の出入口門の一つかも知れませんが、調べがついていません。このあとは、イスタンブールについての概要と、簡単な歴史の紹介です。イスタンブールは県都です。同都市はトルコ北西部に位置し、マルマラ海と黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に跨った都市です。(同上)

  • 写真は、イスタンブールの新市街と旧市街とを繋ぐガラタ橋の光景です。橋の上の歩道は、地元の人達の魚釣りの場所になっていました。昨年の見学の折も、同じ光景を見にしました。イスタンブールは、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地でもあります。人口1400万人ほどのヨーロッパ有数の都市です。トルコ語の発音に準じて『イスタンブル』と日本語表記される場合もあります。(同上)

    写真は、イスタンブールの新市街と旧市街とを繋ぐガラタ橋の光景です。橋の上の歩道は、地元の人達の魚釣りの場所になっていました。昨年の見学の折も、同じ光景を見にしました。イスタンブールは、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地でもあります。人口1400万人ほどのヨーロッパ有数の都市です。トルコ語の発音に準じて『イスタンブル』と日本語表記される場合もあります。(同上)

  • イスタンブールの市域は、ボスポラス海峡を挟んで東のアジア(アナトリア半島)側と、西のヨーロッパ(トラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれます。2大陸に跨る大都市であり、アジアの最も西にある都市でもあります。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1は、アジア側に居住しています。(同上)

    イスタンブールの市域は、ボスポラス海峡を挟んで東のアジア(アナトリア半島)側と、西のヨーロッパ(トラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれます。2大陸に跨る大都市であり、アジアの最も西にある都市でもあります。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1は、アジア側に居住しています。(同上)

  • イスタンブールは、サライブルヌの岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建されました。現在では歴史上最も重要な都市の一つとして知られています。330年にコンスタンティノープルとして再建されて以降、およそ16世紀の間、ローマ帝国(330~395年)、ビザンツ帝国(395~1204年、1261~1453年)、ラテン帝国(1204~1261年)、オスマン帝国(1453~1922年)と、四つの帝国の首都でした。(同上)

    イスタンブールは、サライブルヌの岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建されました。現在では歴史上最も重要な都市の一つとして知られています。330年にコンスタンティノープルとして再建されて以降、およそ16世紀の間、ローマ帝国(330~395年)、ビザンツ帝国(395~1204年、1261~1453年)、ラテン帝国(1204~1261年)、オスマン帝国(1453~1922年)と、四つの帝国の首都でした。(同上)

  • 1453年、オスマン帝国によりコンスタンティノープルは陥落しました。それ以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要でしたが、征服後はイスラム教の中心やオスマンのカリフの中心に変わりました。1923年にトルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定しましたが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブールの丘に見ることができ、古の都を偲ぶことが出来ます。(同上)

    1453年、オスマン帝国によりコンスタンティノープルは陥落しました。それ以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要でしたが、征服後はイスラム教の中心やオスマンのカリフの中心に変わりました。1923年にトルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定しましたが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブールの丘に見ることができ、古の都を偲ぶことが出来ます。(同上)

  • イスタンブールは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置します。ヨーロッパ=アナトリア間の鉄道網(オリエンタル鉄道・トルコ国鉄)と黒海・地中海を結ぶ唯一の航路がイスタンブールで交わっています。アナトリア中から移住者がイスタンブールやその周辺に集まって居住地が広まりました。(同上)<br />*写真は、食事前に注文した紅白のワインです。白ワインも飲む前の量でした。

    イスタンブールは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置します。ヨーロッパ=アナトリア間の鉄道網(オリエンタル鉄道・トルコ国鉄)と黒海・地中海を結ぶ唯一の航路がイスタンブールで交わっています。アナトリア中から移住者がイスタンブールやその周辺に集まって居住地が広まりました。(同上)
    *写真は、食事前に注文した紅白のワインです。白ワインも飲む前の量でした。

  • 1950年代以来、イスタンブールの人口は10倍に増加しています。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されていきました。イスタンブールの最大の呼び物は、今でも残されている歴史の中心で、主要部分は、ユネスコの世界遺産に登録されています。(同上)<br />*写真は、昼食のお店の看板です。『SUR BALIK FISH』の看板の鮮魚店です。

    1950年代以来、イスタンブールの人口は10倍に増加しています。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されていきました。イスタンブールの最大の呼び物は、今でも残されている歴史の中心で、主要部分は、ユネスコの世界遺産に登録されています。(同上)
    *写真は、昼食のお店の看板です。『SUR BALIK FISH』の看板の鮮魚店です。

  • イスタンブールの文化やエンタテインメントの中心は、市内の天然の良港のベイオール地区の金角湾周辺です。イスタンブールは世界都市とされ、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めています。<br />(追記):アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界25位の都市と評価されました。(同上)

    イスタンブールの文化やエンタテインメントの中心は、市内の天然の良港のベイオール地区の金角湾周辺です。イスタンブールは世界都市とされ、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めています。
    (追記):アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界25位の都市と評価されました。(同上)

  • ローマ皇帝の『コンスタンティヌス1世(270頃~337年)』の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し、都市は「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と名付けられ、広く知られる名称となりました。コンスタンティヌス1世は、西方正帝から、324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になりました。(同上)

    ローマ皇帝の『コンスタンティヌス1世(270頃~337年)』の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し、都市は「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と名付けられ、広く知られる名称となりました。コンスタンティヌス1世は、西方正帝から、324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になりました。(同上)

  • 現在の『イスタンブール:İstanbul 』の呼び名は、単独の都市の名称として1930年に公式に採用されました。現代のトルコ語ではイスタンブールの表記は『İstanbul 』で、ドットが付いた『İ』 が使われています。また、英語では第一音節の『Is』に強勢が置かれますが、トルコ語では第二音節の『tan』に置かれます。(同上)<br />

    現在の『イスタンブール:İstanbul 』の呼び名は、単独の都市の名称として1930年に公式に採用されました。現代のトルコ語ではイスタンブールの表記は『İstanbul 』で、ドットが付いた『İ』 が使われています。また、英語では第一音節の『Is』に強勢が置かれますが、トルコ語では第二音節の『tan』に置かれます。(同上)

  • 『イスタンブールの古代史(その1)』:21世紀初めに考古学者により発見された、紀元前7000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブールの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示しています。 遺物の発見以前は、フリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えでした。アジア側の遺物は紀元前4000年に遡る物とされ、カディキョイ地区のフィキルテペ (Fikirtepe)で発見されています。同じ場所は、紀元前1000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町がありました。(同上)

    『イスタンブールの古代史(その1)』:21世紀初めに考古学者により発見された、紀元前7000年に遡る新石器時代の遺物は、イスタンブールの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示しています。 遺物の発見以前は、フリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えでした。アジア側の遺物は紀元前4000年に遡る物とされ、カディキョイ地区のフィキルテペ (Fikirtepe)で発見されています。同じ場所は、紀元前1000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町がありました。(同上)

  • 『イスタンブールの古代史(その2)』:しかし、イスタンブールの歴史は一般的に紀元前660年頃にビザス王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡ります。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地だった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えました。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験しますが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻しました。都市の開祖は、ギリシア神話の海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子ビザスであり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した『ビュザンティオン』を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われます。(同上)

    『イスタンブールの古代史(その2)』:しかし、イスタンブールの歴史は一般的に紀元前660年頃にビザス王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡ります。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地だった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えました。ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験しますが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻しました。都市の開祖は、ギリシア神話の海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子ビザスであり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した『ビュザンティオン』を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われます。(同上)

  • 『イスタンブールの古代史(その3)』:ビザンティオンは、 デロス同盟とその後の第二アテナイ連合の一部でしたが、紀元前355年に独立を得ています。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となりました。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者 のペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させました。195年に降伏しました。それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回ったとされます。(同上)

    『イスタンブールの古代史(その3)』:ビザンティオンは、 デロス同盟とその後の第二アテナイ連合の一部でしたが、紀元前355年に独立を得ています。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となりました。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者 のペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させました。195年に降伏しました。それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回ったとされます。(同上)

  • 『アヤソフィア(その1)』:トルコ共和国のイスタンブールにある博物館、『アヤソフィア』の建物光景です。元々は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルに建てられた、キリスト教正教会の大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地でした。1204年から1261年までは、ラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていました。(同上)

    イチオシ

    『アヤソフィア(その1)』:トルコ共和国のイスタンブールにある博物館、『アヤソフィア』の建物光景です。元々は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルに建てられた、キリスト教正教会の大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地でした。1204年から1261年までは、ラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていました。(同上)

  • 『アヤソフィア(その2)』:その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月から1931年までの長期間に亘り、イスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて、現在の特徴的な姿となりました。トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館となりました。東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価されています。<br />*写真は、ミナレット跡の先端のズームアップ光景です。

    イチオシ

    『アヤソフィア(その2)』:その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月から1931年までの長期間に亘り、イスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて、現在の特徴的な姿となりました。トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館となりました。東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価されています。
    *写真は、ミナレット跡の先端のズームアップ光景です。

  • 『アヤソフィア(その3)』:その歴史と威容から、キリスト教建築物でありながらオスマン帝国の時代においても、第一級の格式を誇るモスクとして利用されました。日本語では慣用的に『ハギア・ソフィア』と呼称されますが、厳密にはトルコ語読みは『アヤソフャ』、古典ギリシア語読みは『ハギア・ソピアー』、現代ギリシャ語読みでは『アイア・ソフィア』に近いとされます。正教会では『アギア・ソフィア大聖堂』と呼ばれ、『ハギア・ソフィア大聖堂』と表記されることも多いようです。(同上)

    『アヤソフィア(その3)』:その歴史と威容から、キリスト教建築物でありながらオスマン帝国の時代においても、第一級の格式を誇るモスクとして利用されました。日本語では慣用的に『ハギア・ソフィア』と呼称されますが、厳密にはトルコ語読みは『アヤソフャ』、古典ギリシア語読みは『ハギア・ソピアー』、現代ギリシャ語読みでは『アイア・ソフィア』に近いとされます。正教会では『アギア・ソフィア大聖堂』と呼ばれ、『ハギア・ソフィア大聖堂』と表記されることも多いようです。(同上)

  • 『アヤソフィア(その4)』:アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、ギリシアやトルコなど、かつての東ローマ帝国(ビザンティン帝国、ビザンツ帝国)領内の各地に数多く残されていますが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブールのアヤソフィアを指すことが一般的です。元来の名称である『ハギア・ソフィア』はギリシア語で『聖なる叡智』を意味し、その中世の発音『アヤ・ソフィア』がトルコ語名『アヤソフィア』の由来です。教会は三位一体の第二にあたるロゴスに捧げられたもので、ロゴスが示すところのイエス・キリストの受肉日である12月25日に献納されました。(同上)

    『アヤソフィア(その4)』:アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、ギリシアやトルコなど、かつての東ローマ帝国(ビザンティン帝国、ビザンツ帝国)領内の各地に数多く残されていますが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブールのアヤソフィアを指すことが一般的です。元来の名称である『ハギア・ソフィア』はギリシア語で『聖なる叡智』を意味し、その中世の発音『アヤ・ソフィア』がトルコ語名『アヤソフィア』の由来です。教会は三位一体の第二にあたるロゴスに捧げられたもので、ロゴスが示すところのイエス・キリストの受肉日である12月25日に献納されました。(同上)

  • 『アヤソフィア(その5)』:時に使われる『Sancta Sophia(聖ソフィア)』の名は、殉教者ソフィアに因んだと受け取られますが、『sophia』はラテン語で『叡智』を意味し、ギリシャ語表示の『聖なる叡智の神殿』を表しています。<br />*写真は、アヤソフィアの中心のドーム屋根のズームアップ光景です。

    『アヤソフィア(その5)』:時に使われる『Sancta Sophia(聖ソフィア)』の名は、殉教者ソフィアに因んだと受け取られますが、『sophia』はラテン語で『叡智』を意味し、ギリシャ語表示の『聖なる叡智の神殿』を表しています。
    *写真は、アヤソフィアの中心のドーム屋根のズームアップ光景です。

  • 『アヤソフィア(その6)』:イエス・キリストを象徴する東に至聖所、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成ですが、身廊中央部に巨大なドームがあり、この点からビザンティン建築の典型とみなされています。創建当時は単純な四角形平面でしたが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされました。(同上)

    『アヤソフィア(その6)』:イエス・キリストを象徴する東に至聖所、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成ですが、身廊中央部に巨大なドームがあり、この点からビザンティン建築の典型とみなされています。創建当時は単純な四角形平面でしたが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされました。(同上)

  • 『アヤソフィア(その7)』:内壁は、基本的にはオスマン帝国時代に塗られた漆喰仕上げ、大理石仕上げとなっていますが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代のモザイク壁画が再び表面に現れました。(同上)<br />(追記):イスラム教が偶像崇拝を禁じているため、2020年7月のモスク化後、聖母子像や天使の絵はカーテンで隠されました。

    『アヤソフィア(その7)』:内壁は、基本的にはオスマン帝国時代に塗られた漆喰仕上げ、大理石仕上げとなっていますが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代のモザイク壁画が再び表面に現れました。(同上)
    (追記):イスラム教が偶像崇拝を禁じているため、2020年7月のモスク化後、聖母子像や天使の絵はカーテンで隠されました。

  • 『アヤソフィア(その8)』:アヤソフィアは『建築の歴史を変えた』とも評され、1520年にセビリア大聖堂が完成するまでは、世界最大の大聖堂の地位を1000年近く保っていました。現在の建物は、532年から537年にかけて東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命によって建設されたものです。この地に建てられた3代目の建物に当たり、以前の2代はいずれも暴動によって破壊されました。(同上)

    『アヤソフィア(その8)』:アヤソフィアは『建築の歴史を変えた』とも評され、1520年にセビリア大聖堂が完成するまでは、世界最大の大聖堂の地位を1000年近く保っていました。現在の建物は、532年から537年にかけて東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命によって建設されたものです。この地に建てられた3代目の建物に当たり、以前の2代はいずれも暴動によって破壊されました。(同上)

  • 『アヤソフィア(その9)』:アヤソフィアのデザインは、ギリシャの物理学者のミレトスのイシドロスと、数学者のトラレスのアンテミオスによってなされました。1985年、『イスタンブール歴史地域』の一部として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。<br />〇『建設に関する諸元』<br />*素材:石、brick<br />*全長:82m (269 フィート)<br />*幅:73m (240フィート)<br />*高さ:55m (180フィート)<br />*建設開始:532年<br />*完成:537年 (同上)

    『アヤソフィア(その9)』:アヤソフィアのデザインは、ギリシャの物理学者のミレトスのイシドロスと、数学者のトラレスのアンテミオスによってなされました。1985年、『イスタンブール歴史地域』の一部として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
    〇『建設に関する諸元』
    *素材:石、brick
    *全長:82m (269 フィート)
    *幅:73m (240フィート)
    *高さ:55m (180フィート)
    *建設開始:532年
    *完成:537年 (同上)

  • 『アヤソフィア(その10)』:アヤソフィアは、二度の焼失がありました。<br />〇404年にコンスタンティノープル大主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱で、この聖堂は焼失しました。テオドシウス2世によってすぐに再建が行われ、415年に献堂されました。<br />〇 532年1月の首都市民の反乱(ニカの乱)における放火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂とともに焼失しました。(同上)

    『アヤソフィア(その10)』:アヤソフィアは、二度の焼失がありました。
    〇404年にコンスタンティノープル大主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱で、この聖堂は焼失しました。テオドシウス2世によってすぐに再建が行われ、415年に献堂されました。
    〇 532年1月の首都市民の反乱(ニカの乱)における放火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂とともに焼失しました。(同上)

  • 『アヤソフィア(その11)』:地震による被害と、その復旧<br />〇989年10月25日の大地震は、西側ドームのアーチ部分を崩落させました。皇帝バシレイオス2世はアルメニア人建築家であり、アニやアグリナの教会建設を行ったアルメニア人のアルキテクトのトルダトに修復の主導を依頼しました。<br />〇トルダトは、落下したドームのアーチを再建し補強を施し、さらに西側のドーム15基にもリブ構造を導入しました。この工事には6年が費やされ、994年5月13日に完成しました。この時、4大天使の絵画を含む装飾にも手が加えられ、ドーム部分のキリストや後陣の使徒ペテロとパウロの間でキリストを抱いた聖母マリアが加えられました。側面の大きなアーチには、預言者や教父らの絵画が施されました。(同上)

    『アヤソフィア(その11)』:地震による被害と、その復旧
    〇989年10月25日の大地震は、西側ドームのアーチ部分を崩落させました。皇帝バシレイオス2世はアルメニア人建築家であり、アニやアグリナの教会建設を行ったアルメニア人のアルキテクトのトルダトに修復の主導を依頼しました。
    〇トルダトは、落下したドームのアーチを再建し補強を施し、さらに西側のドーム15基にもリブ構造を導入しました。この工事には6年が費やされ、994年5月13日に完成しました。この時、4大天使の絵画を含む装飾にも手が加えられ、ドーム部分のキリストや後陣の使徒ペテロとパウロの間でキリストを抱いた聖母マリアが加えられました。側面の大きなアーチには、預言者や教父らの絵画が施されました。(同上)

  • 『アヤソフィア(その12)』:ユスティニアヌス帝によって再建されたアヤソフィア大聖堂は、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として正教会第一の格式を誇り、また東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられました。コンスタンティノープルを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・聖遺物があったことが知られます。(同上)

    『アヤソフィア(その12)』:ユスティニアヌス帝によって再建されたアヤソフィア大聖堂は、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として正教会第一の格式を誇り、また東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられました。コンスタンティノープルを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・聖遺物があったことが知られます。(同上)

  • 『アヤソフィア(その13)』:14世紀にコンスタンティノープルを訪れたロシア人スモレンスクのイグナティオスの記録では、聖堂内部には多くの礼拝堂が設けられ、「ノアの箱船の扉」やイエス・キリストが磔にされた「聖十字架」、「アブラハムのテーブル」など、多くの聖遺物が安置されていた。また、この時代は隣に総主教の宮殿が併設されていました。(同上)

    『アヤソフィア(その13)』:14世紀にコンスタンティノープルを訪れたロシア人スモレンスクのイグナティオスの記録では、聖堂内部には多くの礼拝堂が設けられ、「ノアの箱船の扉」やイエス・キリストが磔にされた「聖十字架」、「アブラハムのテーブル」など、多くの聖遺物が安置されていた。また、この時代は隣に総主教の宮殿が併設されていました。(同上)

  • 『アヤソフィア(その14)』:現代トルコにおいて、アヤソフィアの建物をモスクや教会など宗教的行事の場として使うことは厳しく禁じられてきました。しかし2006年にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられました。(以上、同上)<br />*(追記):2020年、アヤソフィアは、博物館からモスクに戻されました。

    『アヤソフィア(その14)』:現代トルコにおいて、アヤソフィアの建物をモスクや教会など宗教的行事の場として使うことは厳しく禁じられてきました。しかし2006年にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられました。(以上、同上)
    *(追記):2020年、アヤソフィアは、博物館からモスクに戻されました。

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