2012/06/30 - 2012/06/30
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prinprinさん
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浴衣の大和撫子は、同じツアーだったお嬢さんです。
「去年来てトルコが好きになり、トルコ人と結婚して、こちらに住んでも良い」と言っていたのですが、 帰国前日、浴衣姿でイスタンブールを廻りました。イスラムの服装を考慮してか、帯もバッグも黒というシックな装いでした。
楽しいことを思いつきましたね、トルコの人たちも喜んでいました。
地中海世界を統一していたローマ帝国は、4世紀頃までには衰退期に入り、ペルシャに対抗する為、首都をローマからビザンティウム(イスタンブール)に移して以来、ローマ帝国の中心は東地中海地域に移っていきました。
B.C.7世紀頃、地中海から黒海にかけて海上貿易を掌握していたギリシャ人が、この地に植民都市を造り、
330年5月11日、この地に遷都したローマ皇帝コンスタンティヌスの名をとってコンスタンティノープルと改名されたこの街は、
1453年5月29日、オスマン軍によって終焉を迎えます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
14:30 テュネル駅
カラキョイ駅から、テュネルが上がってきました。
テュネルは1875年(明治8年)1月開業した、単線の交走式ケーブルカーで、世界一短い地下鉄と言われます。
ロンドンの地下鉄(1863年1月)に次いで、世界で2番目に古いのですが、短すぎるのか、
翌1876年5月開業したハンガリー・ブダペストの地下鉄が、世界で2番目に古い地下鉄(電化は世界初)として、世界遺産に登録(2002年)されています。 -
2分でカラキョイ駅に到着。
ずーっとトンネルの中だから、ガラタ塔が見えないのは残念でしたが、
カラキョイ駅に着くと、タイルが綺麗でした。
こんな駅、日本にも造って! -
天井付近のタイル
エジプシャンバザール辺りから見たガラタ橋のようです。
ガラタ橋には路面電車が通り、金角湾には帆舟がたくさん浮かび、奥にはガラタ塔が見えます。
金角湾に最初に橋を架けようとしたのは第8代ベヤズイット2世(1447〜1512年)でしたが、実現には至らず、
金角湾に初のガラタ橋(木製)が架けられたのは、第31代アブデュルメジト1世の1845年。
テュネルが開通するわずか30年前(江戸末期)、ようやく木造の橋が架けられました。 -
電器屋街になっている地下道を抜けると、ガラタ橋に出ました。
1994年12月に開通した現在の橋は、片側3車線と路面電車と広い歩道もある、橋幅42mの大きな橋です。 -
舟を仕立てなくても、金角湾の真ん中で釣りができるのね。
ガラタ橋は2層構造で、下層は食堂街なので、水面はかなり下。
水をはった小さな瓶に、釣れた小あじをたくさん入れてました。この炎天下、ぜったいお湯になってる! -
金角湾とスュレイマニエ・ジャーミィ
ボスポラス海峡のクルーズ船が、行き交ってます。 -
ガラタ橋490mの中央部に、左右に2つずつ青い覆いをかけた棟があります。
その間の80mは船が通行するので、釣り人はいません。
ガラタ橋は跳ね橋で、青い覆いはその制御棟のはずですが、覆いをかけているということは稼働させてないのかな?
幹線道路なので開くとしても深夜でしょうが、こんな大きな橋が開くところを見てみたいものです。
ガラタは「牛乳」の意味で、ビザンティン初期にはミルク市場がありました。 -
13:00 トプカプ宮殿に向かいます。
ガイドさんが、「豪華客船が2艘も着岸しているので、トプカプ宮殿 混んでるでしょうねぇ」
えぇ? (^^;) -
1460年-1478年建設、トプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)、皇帝の門
上部には、7代目のスルタンの言葉が刻まれています。
東と西の大陸を制する者 ここに神の許しを得て この宮殿を造る。
1453年にコンスタンチノープルを征服したメフメット2世は、現在イスタンブール大学のあるベヤズット地区に木造の宮殿を建てましたが、
7年後には、千年前のギリシャ時代、アクロポリスがあった丘に、この都に相応しい本格的な宮殿を築き始めました。 -
皇帝の門(1478年建設) を通りぬけて。
儀礼用の大砲を門に置いていたので、トプカプ(大砲の門)と名付けられました。
トプカプ宮殿は、完成後(室町時代末期)も増改築を重ね、
1856年アブドゥルメジット1世がボスポラス海峡に建てたドルマバチェ宮殿に移すまでの400年間近く歴代スルタンたちの居城であり、政治と外交の中心として、オスマン帝国の繁栄を支えました。
西にあるテオドシウス城壁にもトプカプという地名がありますが、そこはビザンティン時代の聖ロマノス門だった所で、メフメット2世がこの地を攻略した時、ウルバンの大砲でこの門辺りの城壁に大きなダメージを与えたのでトプカプ(大砲の門)と改名されました。 -
第1庭、ビザンツ帝国時代の聖イレーネ教会 = アヤ・イリニ(聖なる平和)
オスマン帝国がトプカプ宮殿の城壁(皇帝の門)を造る以前は、アヤ・イリニとアヤ・ソフィアは、病院や主教館などでつながっていました。
コンスタンチヌス1世がローマ帝国の首都を建設し始めた324年には、その前身は既にあったと言われます。
324〜360年初代アヤ・ソフィア建設中と、それが民衆の暴動で焼け2代目アヤソフィアができるまでの404〜415年は、アヤ・イリニが総主教座(総本山)になりました。 -
しかし532年ニカの乱で、2代目のアヤ・ソフィアと共に焼失し、両教会はユスティニアヌス帝によって直ちに再建されましたが、
8世紀の地震でアヤ・イリニは大きな被害を受け、レオン3世によって再建されました。イコン破壊運動の時代なので、モザイク画はありません。
オスマン帝国時代に、武器庫→考古学博物館→軍事博物館(イエニチェリ博物館)となり、
現在は、アヤソフィア博物館に所属して、コンサートや特別展の会場になっています。 -
イェニチェリ(オスマントルコ軍)の出陣式が行われていた「第1庭」
庭というか、ただの広場ですけど。
庭のむこうは、たぶん考古学博物館。
オスマン帝国の大蔵省がありましたが、居城がドルマバフチェ宮殿に移った後の1863年、大火で焼失しました。
この大火で、金角湾口沿いの一帯も焼け、1883年その跡地にオリエント急行の終着駅として有名なシルケジ駅が造られました。 -
第2庭への儀礼の門(送迎の門)
スレイマン大帝(在位:1520〜66年)の時代に今の形になりました。
スルタン以外は、この門で馬を降りなければなりませんでした。 -
新郎新婦が、儀礼の門から出て来ました。
みんなで、Congratulation! と声をかけたら、嬉しそうでした。
トプカプ宮殿で披露宴ができるの? それとも写真を撮り来たのかな? -
幸福の門(至福の門)には、豪華な装飾が施していて、ビックリ!
トルコ・ロココ様式というのかナ? 西欧の乙女チックなロココ様式より綺麗でした。
幸福の門から中へ入れるのは、皇帝とその側近だけでした。 皇帝に謁見する各国の大使は例外でしたが、それでも幸福の門を入ってすぐにある謁見の間まででした。 -
幸福の門の天井です。
時代的には新しいものでしょうが、金色が効いて綺麗でした。
(セルジュク朝からオスマン朝へ)
中央アジアからアナトリアにかけて、トルコ系セルジューク族が大帝国を樹立したが、
11,12世紀に4派に分裂し、アナトリアのルーム・セルジュク朝 (ルームはローマ。1077年に東ローマ帝国領で独立) は、13世紀前半アナトリア中部〜東部で最盛期を迎えますが、その宮廷はコンヤにありました。 -
第2庭(政庁の広場)、正義の塔
正義の塔の下は、会議の間、宰相の執務室、客間など、政治の中心となった場所。
軒先まで、スゴイ装飾です。
この頃モンゴル軍が中央アジアに侵攻し、オスマン帝国の始祖オスマン1世の父エルトゥールルや、セマーで知られるメヴレヴィー教団の開祖メヴラーナも、親に連れられてアナトリアへ逃れて来ました。
ルーム・セルジュク朝 最盛期のカイクバード1世は、新しく入植してきた遊牧軍事集団を、ビザンツ帝国との国境地帯に配備し、エルトゥールルも遊牧騎士を率いてビザンツ帝国との戦い、国境(アナトリア北西部)に所領を与えられました。 -
正義の塔の下から、ハーレムへ入って行きます。
しかしルーム・セルジュク朝も、1243年にはモンゴル軍に敗れて支配下に入り、1308年滅亡します。
モンゴル帝国(イル・ハン朝)の勢力の及ばなかったアナトリア西部〜中部は、君候(ベイ)に率いられたトルコ戦士集団による小国家がたくさんあり、モンゴルの勢力が衰え始めると、それらの小さな侯国(軍事国家)は、互いに勢力争いを繰り返していました。
1299年オスマン1世は独立を宣言、オスマン朝が成立します。 -
正義の塔の下が会議の間(議事堂)で、
毎週火曜、朝の礼拝後、豪華な衣装を着た宰相や高官たちが、国政会議を行った場所です。
皇帝は鉄格子が嵌められた窓の後ろで、密かに聞いていたそうです。
2代目(オスマン1世の子)オルハンは、1326年マルマラ海に面したビザンティン帝国要衝の地ブルサを奪って都とし、
その子の3代目ムラト1世は、1369年ヨーロッパ側(ブルガリア国境近く)エディルネを奪って遷都し、スルタン(世俗の最高権威者)を名乗りました。 -
王子たちの間?
イスタンブールはオスマン領に囲まれていきましたが、
コンスタンティノープルを攻略(1453年)するのには、オスマン朝建国から約150年を要しました。
ムハンマドがイスラムを説き始めてから、約850年後であり、
イスラム(5代目カリフで、ウマイヤ朝初代カリフのムアーウィア)が初めてこの地を包囲してから、約800年後のことでした。 -
「スルタン」は、イスラム世界での有力な統治者の称号で、
「カリフ」が宗教的な権威者であるのに対し、「スルタン」は世俗的な首長を指します。
カリフの委任によって、スルタンが君主が統治するのが本来の姿ですが、オスマン帝国の皇帝は双方を兼ね、宗教行事の時はカリフと称し、その他の時はスルタンを称しました。
カリフはたまにしか用いられない称号なので、オスマン諸帝はもっぱらスルタンと呼ばれました。
もっともオスマン帝国でもスルタンが公式な称号となったのは、第4代バヤジット1世からだと言われます。 -
(スルタンの兄弟殺し)
スルタンが没すると、血を血で洗う激しい後継者争いが後を絶たなかった為、
1389年に即位した第4代バヤジット1世はただちに弟を処刑しました。
兄弟殺しは恒例化し、後にコンスタンティノープルを攻略する第7代メフメット2世も、19歳で即位すると同時に幼い異母弟を殺害させました。
1603年第14代アフメット2世が廃止した後も、王子たちはハーレムの鳥かごと呼ばれる部屋に幽閉されたり、島流しになりました。 -
(奇策、軍船の山越え)
1453年、21歳の征服者メフメット2世は、現在の旧市街と城壁内とわずかな周辺地だけとなったビザンチン帝国を、有名な軍船の山越えで滅亡させます。
ボスポラス海峡からガラタ地区を迂回する斜面に、木製レールを敷いて動物の油をたっぷりぬり、車輪がついたトロッコを大量に作ると、その上に帆船をのせ、牛と人とで船を引っ張って艦隊を金角湾に滑り込ませたのです。
オスマン軍は、ハンガリー人ウルバンが売り込んできた、600kgの石弾を1,5?も飛ばす砲身8mの大砲70丁で、千年間持ち堪えたコンスタンティノープルを囲む無敵の城壁を破り、ビザンツ帝国はついに終焉を迎えました。 -
(イスタンブールの復興)
占領軍将兵は、3日にわたって略奪を公認され、徹底的に略奪しましたが、
メフメット2世は、聖職者に退去を命じただけで殺戮は行わず、イスタンブールの8つの教会を破壊せずモスクに改造させました。
荒廃していた都を復興させる為、トルコ各地からイスラム教徒をイスタンブールに移住させ、キリスト教徒やユダヤ教徒の居住も許可して、宗教(≒民族)別の自治組織を認めます。
人口を増やし、病院・モスク・学校を建設、経済にも力を注いで 1455〜1461年現在のグランドバザールの地に市場を造り、国の基盤を強固なものにしました。 -
こうしてイスタンブールは、様々な民族と宗教が入り混じる国際都市として、再び発展を遂げることになりました。
1492年イベリア半島グラナダでレコンキスタ(キリスト教徒の国土再征服)が成功し、追放されたユダヤ人を積極的に受け入れたのもオスマン・トルコでした。
人口構成率は、イスラム教徒が非イスラム教徒よりやや多かったと推察されています。
メフメット2世統治の末期には、人口10万人に戻り、16世紀には40〜50万人になったと言われます。 -
宦官たちの詰所や、宦官長の部屋
ハーレムに入れるのは、宦官とスルタンの身の回りの世話をする小姓に限られていました。
遊牧民族は、もともと動物に去勢することに慣れていたと言います。
主にエジプトから連れて来られた黒人宦官たちは、ハーレムの女たちとの子供ができた時にわかるようにでした。
宦官長の任務は、スルタンの為に美しい女を手に入れる事でした。
小姓は、キリスト教からイスラム教に改宗させられた聡明で容姿端麗な少年が選ばれたそうです。 -
迷路みたいで、どこを歩いているかわかりません。
トプカプ宮殿ができてからも、ハレムは旧宮殿に残されましたが、スレイマン大帝の時代の1541年、旧宮殿が大火にあい、女性たちはトプカプの一郭に移ることになりました。
また、スレイマン大帝の愛妃ロクセラーナ(=ヒュッレム)が、近くに住むことを望んだとも言われます。
彼女は4人の息子をもうけ、後には正妻になり、母后が亡くなると政治にも口を出すようになりました。
ついにはライバルの正妻や反対者を追放し、後継者であった先妻の皇子を処刑に追いやって、自分の次男セリム2世を第11代皇帝にしてしまいました。 -
(オスマン帝国の黄金時代へ)
オスマン帝国は、36人の皇帝、第1次世界大戦までの約600年間世界の大国として存続しましたが、
最盛期は、1453年イスタンブール攻略から約100年後、第10代スレイマン大帝の時代でした。
征服者 第7代メフメット2世の息子 第8代バヤジット2世(聖者)は父のようなカリスマ性は無く、弟ジェムのエジプト亡命によりエジプトと対立し、バルカンやアナトリアでも情勢は緊張していきました。 -
(第9代セリム1世)
次の第9代セリム1世(冷酷者で卓越者)は、在位はわずか8年でしたが、反対者を次々処刑し、
即位するとまもなくイランを撃ち、ダマスカス(現シリアの首都)、エルサレムなどを陥落させ、ついにカイロを占領しました。
この時、それまでマホメットを出したクライシュ族でなければ就任できなかったカリフ位をエジプトのマムルーク朝から譲られたとします。
こうしてセリム1世は、父から受け継いだ領土を3倍にし、海賊バルバロスにオスマン艦隊を組織させて、紅海と東地中海の制海権を掌握し、一人息子の第10代スレイマン大帝に伝えました。 -
(第10代スレイマン大帝)
黄金期 第10代スレイマン大帝の即位は、征服者 第7代メフメット2世が死んで39年後の1520年でした。
スレイマン大帝(立法者)は、オスマン帝国最長の46年間に渡って統治し、黄金時代を築きます。
彼は生涯に13回の遠征を行い、即位の翌年にはバルカン半島のベオグラードを占領し、海軍力も充実していました。
北はハンガリーのブダペストから黒海北岸のオデッサにまで達し、ギリシア全体とバルカン諸国、黒海沿岸、小アジア、レバント地方、アラビア、エジプト、そして北アフリカの大部分にまたがる大国となります。
←馬に乗った皇帝が、大鏡に映った我が姿を見て、うっとりしていたのかな? -
右側2階は、皇帝の王子を生んだ女性たちの部屋
(ヨーロッパ諸国との関係)
1519年、スペイン王カール5世が神聖ローマ皇帝に即位したことで、
フランスは、東はオーストリア、西はスペインからハプスブルク家に挟まれてしまう格好になりました。
折りしも、宗教改革の嵐が吹き荒れている最中であり、フランス王はルターを庇護するザクセン公、ローマ教皇クレメンス7世などカールの敵対勢力と次々に手を結び、カール包囲網を築きあげていきました。
その中でも最も強い軍事力を持っていたのがオスマン帝国で、オスマン帝国と同盟を結ぶことは、フランスの起死回生の策として、逆にオーストリア本国を挟み撃ちにする狙いがありました。 -
(ハプスブルグ家)
神聖ローマ帝国皇帝(カトリックの守護者)カール5世は、オスマン軍がバルカン半島への侵攻の度合いを強めると、国内の対立を一時凍結してオスマンの侵攻への防御に全力を傾けるため、ルター派(プロテスタント)の活動を容認する立場に転化しました。
しかし、オスマンがウィーンから撤退を始めるとすぐ、この発言を撤回しています。
(第1次ウィーン包囲のきっかけ)
1526年にはハンガリー王国軍を壊滅させましたが、ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントもハンガリー王を名乗り、
ハンガリー貴族の大半の支持を得て選出されたトランシルヴァニア侯サポイヤはオスマン帝国に救援を求めたことから、
オスマン帝国は事実上、ハプスブルク家と直接対峙することになりました。 -
皇帝の母の部屋
ハレムは日本の大奥に似た場所で、最高実力者は母親、次は最初に男子を生んだ正妻でした。
しかし、時代と共に女奴隷だけで正妻を置かないスルタンが多くなりました。
(スレイマン大帝の第1次ウィーン包囲)
1529年スレイマン大帝は、ハプスブルク家の当主でオーストリア大公である、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の本拠地ウィーンを攻撃して、ヨーロッパの人々を震え上がらせました。
しかし、オーストリア軍の頑強な抵抗で長引いた包囲戦に加え、冬将軍が到来したためオスマン軍は撤退し、ウィーンは陥落を免れました。 -
1541年にはハンガリーを攻め、以後第2次ウィーン包囲戦でオスマン軍が敗けるまでの145年間、ハンガリーはトルコ領になります。
1566年、スレイマン大帝はウィーン遠征中に死亡し、正妃になったロクセラーナ(=ヒュッレム)の次男セリム2世が第11代に即位しますが、以降無能なスルタンが続き、混乱と腐敗が蔓延しました。
その一因は、スレイマン大帝がハレムをトプカプ宮殿に移したことにあると言われます。
寵姫たちの中庭
彼女たちの多くは、スルタンへ贈呈されたり、奴隷市場で買われた物、戦利品の代わりなどで、肌が白く美しい女性が珍重されました。 -
ムラト3世が暮した部屋。
即位の4年後の1578年、ミマル・シナン晩年の作品であるこの部屋ができました。
(第12代ムラト3世)
第12代皇帝ムラト3世(在位:1574〜1595年)は、トプカプ宮殿の主としては征服者メフメト2世から数えて6代目になります。
旧宮殿の時代には多くの女官は「通い」でしたが、祖父スレイマン大帝の時代にトプカプ宮殿にハーレムが移り、
ムラト3世の時代には、千人もの女性がハレムに住むようになりました。 -
ムラト3世の間
49歳で死んだ彼には、21人の息子と4人の娘がいました。
ハーレムに入り浸っては、多くの美女に囲まれていたムラト3世の浪費のために、国の財政が悪化したと言われています。 -
(第2次ウィーン包囲)
第1次ウィーン包囲から約150年後の1683年、ハプスブルク家領の北西ハンガリーで反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に対して支援を要請しました。
この事をオーストリア占領の好機と考えた大宰相(首相)カラ・ムスタファは、ウィーンを包囲しました。
しかし、最新の築城法で要塞化されて堅固になったウィーンの防備を破ることができず、攻城戦は長期化し、中央ヨーロッパ諸国連合軍の参戦を招きました。 -
既に衰退期に入っていたオスマン帝国は、15万人と言われるオスマン軍の士気は低く、戦闘は惨憺たる敗北に終わり、オスマン帝国の衰退を決定付けました。
オスマン帝国の版図はバルカン半島および東ヨーロッパから大幅に後退し、オーストリアとロシアがこの方面における覇権を握るきっかけになりました。 -
(トルコへの関心)
平和を取り戻したウィーンでは、かつての敵国への関心が高まり、トルコブームが沸き起こりました。
クロワッサンは、この戦争の勝利を記念してトルコ国旗の三日月を象ったものと言われ、
潰走したオスマン軍の陣営で捨てられたコーヒー豆を見つけた退役軍人が、払い下げを受けて1686年ウィーンでコーヒー店を開いたのが、ウィーンのコーヒー文化の始まりです。
他にも、ファッション、絵画、文学、音楽など、様々なトルコ風の物が流行しました。
第2次ウィーン包囲の勝利100年後、ベートーベン、ハイドン、モーツァルトなどが、打楽器が活躍するトルコ軍楽隊の音楽をとり入れた「トルコ風」な曲をこぞって作曲しました。 -
(万博ブームとジャポニズム)
18世紀末、イギリスから産業革命が始まり、
19世紀後半、欧米諸国を中心に万国博覧会(万博)ブームが起こり、パリでもおよそ10年おきに万博が開かれました。
1855年の第1回パリ万博で、オランダが日本の物産や工芸品を紹介した後、開国を経て、外国人達が日本の文化を伝え、多くの美術品が海を渡っていきました。 -
第32代皇帝アブデュルアズィズ(在位:1861〜76年)は、
1867年の第2回パリ万博の視察を目的に、オスマン帝国皇帝としては史上初の西欧諸国歴訪を行います。
その折に、列強の持つ装甲艦に魅了されて海軍整備に力を注いだり、帝国の財政が悪化しているのを顧みず宮殿の造営などの乱費を繰り返したりした為、オスマン帝国は事実上の破産状態に陥ることになりました。
この万博に、幕府・薩摩藩・佐賀藩・民間がそれぞれ出品し、日本ブームに火がつきました。
1868年に成立した明治政府はヨーロッパ市場に向けて工芸品を大量に輸出し、パリ市場は日本の芸術品で溢れ、
1878年第3回パリ万博で、ジャポニスムの熱狂は頂点に達しました。
(1889年第4回パリ万国博覧会でエッフェル塔建設) -
皇帝に寵愛された側室たちが暮らした建物
(瀕死のオスマン帝国)
叔父の第32代アブデュルアズィズが軍事クーデターで廃され、兄の第33代ムラト5世も精神疾患ですぐに退位したため、
第34代にアブデュルハミト2世(在位:1876〜1909年)が、擁立されました。
この頃、オスマン帝国は露土戦争に敗れ、1878年ルーマニアやセルビアなどのバルカン諸国の独立を認めることになり、西欧列強から「瀕死の病人」と見なされるようになります。 -
皇子たちの住まい
1890年和歌山県沖で約500名の犠牲者を出したエルトゥールル号遭難事件も、この時代でした。
1904〜05年(明治37〜38年)日露戦争。
1908年青年トルコ革命が起こって、アブデュルハミト2世は幽閉され、立憲君主政となります。
この革命の混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行し、1909年ブルガリアも完全独立を宣言しました。 -
1914〜1918年(大正3〜7年)第1次世界大戦で、オスマン帝国はドイツ側につき敗北。
1922年オスマン帝国は解体され、トルコ共和国が成立しました。
第1次世界大戦…産業革命をきっかけに資本主義が急速に発展し、各国が資源と市場(植民地)を求めて拡大し始めた、帝国主義の戦争。
ロシアやオーストリア等がバルカン半島の支配権を狙っていたが、スラブ系民族は独立を目指しており、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれていた。
同盟国…ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国
連合国…ロシア、フランス、イギリス、イタリア、ギリシャ等 -
トプカプ宮殿は、ボスポラス海峡、金角湾、マルマラ海と3面の海を見渡す丘の上にあります。
ここからの景色は、皇帝になった気分!
宝石展示館
86カラットの大ダイヤを49個のダイヤが取り囲む「スプーン屋のダイヤモンド」
漁師ががダイヤの原石を拾い、市場で3本のスプーンと交換したため、この名がついたとか。一時ナポレオンの母親が所有していたが、流刑の身となった息子を救出するために手放した、ということは分かっているが、その後どのような経緯でスルタンのものとなったかは、定だかではないそうです。 -
聖なる外套の展示館
長蛇の列で、集合時間に間に合わなくなり、最初の部屋だけしか見られませんでした。 (~_~;) -
東京ドーム15個分(70万?)の広さがあるそうですが、第1庭が広いので、見学するエリアはそんなに広い感じはしませんでした。
昔は日本の皇居2個分(東京ドーム50個分)あったそうです。
トプカプ宮殿公式サイト、バーチャル見学ができます。 www.topukapisarayi.gov.tr -
アフメット3世の泉亭
18世紀初め、トルコ・ロココ建築 -
あっ 焼き栗!
でも、「夏の栗は美味しくない」と自分に言い聞かせ、はぐれないようにガイドさんについて行かなくっちゃ。
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2012トルコ バスツアー プアウーマンが行く!
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11.ボスポラス大橋、グランバザール、エジプシャンバザール
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13.地下宮殿、ベリーダンスショー(山田寅次郎)
2012/06/30~
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この旅行記へのコメント (5)
-
- worldspanさん 2014/12/08 22:09:37
- イスタンブール観光
- prinprinさん
こんにちは。
イスタンブールの旅行記、楽しく拝見させていただきました。prinprin産の旅行記読みながらふと自分のイスタンブールの旅行を振り返ってみると、いずれもトランジットついでに3回訪問し、いずれも1泊以上(そのうち2回は3泊以上)しているのに、一体何を見ていたのか、何をして滞在に費やしていたのか全く記憶に残っておらず、海端でサバサンドを食べたことと、3回の滞在いずれもがラマダンだったので夜はとても楽しかったことしか覚えていません。貧乏旅行をしていたので、トプカプ宮殿に入るお金もケチって、無料で楽しめるような場所や歩いて街並みを見るぐらいしかしていなかったのかもしれません。今となってはprinprinさんのようにトプカプくらい入っておけばと今更ながら後悔しています。
PS:フォローありがとうございます。
worldspan
- prinprinさん からの返信 2014/12/09 06:54:11
- RE: イスタンブール観光
- worldspanさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
現在、プラハ&ブダペストの旅行を計画中で、私もトルコ航空を使ってイスタンブールに寄りたかったのですが、日程的にできなくて残念です。
クチコミを読んでいたら、東欧リピーターのworldspanさんの投稿を見つけ、のちほどアドバイスをいただきたいのですが、よろしくお願いします。
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- しゅんたまさん 2013/08/26 23:46:17
- いつかトルコも行きたいです!
- prinprinさん
こんばんは!
先週スペインから帰ってきました。
多少のトラブルはありましたが、prinprinさんをはじめ、フォートラベルのみなさんのおかげで無事スペインの魅力にハマって帰国しました!!
しばらく海外には行けなさそうですが、トルコにも行ってみたいです。
近世〜近代のトルコについて、旅行記を拝見して勉強になりました。
そしてトルコの人って写真好きなんですね。
イスタンブールの空気に身をおき、美味しいトルコ料理が食べる日を夢見ます・・・。
しゅんたま
- prinprinさん からの返信 2013/08/27 17:28:47
- RE: いつかトルコも行きたいです!
- しゅんたまさん
お帰りなさい!
お元気に帰国されたようで何よりです。
どんな場所が気に入りましたか?
旅行記楽しみにしています。
トルコの旅行記も見ていただいて、ありがとうございます。
初めてのイスラム国だったので、いろいろ調べすぎて、頭の中を整理しようと旅行記に書いていたのですが、
トルコの歴史はあまりにも幅が広く、短い文にならずお手上げです。 (^^;)
- しゅんたまさん からの返信 2013/08/28 12:36:31
- RE: RE: いつかトルコも行きたいです!
- prinprinさん
こんにちは。ご返信ありがとうございます。
> どんな場所が気に入りましたか?
どの街も個性的で大好きになったのですが、やっぱりアンダルシアは素敵でした!
皆さんが好きになるのが良くわかりました!
マドリードも想像以上に楽しい街で、1泊しかできなかったのが残念です。
まだ昨年の旅行記の作成中で遅くなるかもしれませんが、旅行記書きたいなと思います。
見られなかったもの、食べ残してきたものがまだあるので、また再訪したいです。
しゅんたま
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