カッパドキア旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今日も朝早い、暗い内にホテルを出発しました。世界遺産に登録されたカッパドキアの見学です。昨年に続いて、二度目の見学です。キノコ岩や、何層ものカラフルな岩肌を持つ、カッパドキアの景観は、見飽きることがありません。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

2008秋、トルコ旅行記2(22/47):10月18日(1):カッパドキア、ウチヒサール遠望、ナザール・ボンジュウ

3いいね!

2008/10/14 - 2008/10/21

1328位(同エリア1804件中)

旅行記グループ 2008秋、トルコ旅行記2(上巻)

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

今日も朝早い、暗い内にホテルを出発しました。世界遺産に登録されたカッパドキアの見学です。昨年に続いて、二度目の見学です。キノコ岩や、何層ものカラフルな岩肌を持つ、カッパドキアの景観は、見飽きることがありません。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

同行者
一人旅
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
その他
  • カッパドキアは、トルコの中央アナトリアの歴史的地域、あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地を言います。古代の地理において、『Cappadocia(美しい馬の地)』を意味する、ペルシャ語の『Katpatuk?』に由来する呼び名とされます。小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指しました。(同上)

    カッパドキアは、トルコの中央アナトリアの歴史的地域、あるいはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地を言います。古代の地理において、『Cappadocia(美しい馬の地)』を意味する、ペルシャ語の『Katpatuk?』に由来する呼び名とされます。小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指しました。(同上)

  • 古代ギリシャの歴史家・『ヘロドトス(紀元前484年頃~紀元前423年頃)』の時代のカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた、と考えられていたようです。現在は、長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられています。100マイルが、およそ161キロですから、約740キロの長さで、約240キロの幅になります。(同上)

    古代ギリシャの歴史家・『ヘロドトス(紀元前484年頃~紀元前423年頃)』の時代のカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた、と考えられていたようです。現在は、長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられています。100マイルが、およそ161キロですから、約740キロの長さで、約240キロの幅になります。(同上)

  • カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡るようです。そこでは、2人のアケメネス朝初期の王ダレイオス1世とクセルクセス1世についての碑文に、ペルシャ帝国を構成する、と記されているようです。写真は、『ウチヒサール』の岩山と麓の光景です。カッパドキアは、『ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群』として1985年に世界遺産(複合遺産)に登録されました。(同上)

    イチオシ

    カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡るようです。そこでは、2人のアケメネス朝初期の王ダレイオス1世とクセルクセス1世についての碑文に、ペルシャ帝国を構成する、と記されているようです。写真は、『ウチヒサール』の岩山と麓の光景です。カッパドキアは、『ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群』として1985年に世界遺産(複合遺産)に登録されました。(同上)

  • カッパドキアは、トルコ屈指の観光スポットとして絶大な人気を集めています。世界に類を見ない奇岩群は、火山の噴火により堆積した凝灰岩や溶岩層が長い年月をかけて浸食されてできたものです。エセンテペにある「3姉妹の岩」、パシャバーの「妖精の煙突」、デヴレントの「らくだ岩」など、絵はがきなどでもお馴染みの風景で一杯です。(同上)

    カッパドキアは、トルコ屈指の観光スポットとして絶大な人気を集めています。世界に類を見ない奇岩群は、火山の噴火により堆積した凝灰岩や溶岩層が長い年月をかけて浸食されてできたものです。エセンテペにある「3姉妹の岩」、パシャバーの「妖精の煙突」、デヴレントの「らくだ岩」など、絵はがきなどでもお馴染みの風景で一杯です。(同上)

  • カッパドキアの紹介が続きます。4~11世紀にかけて、敬虔なキリスト教徒が造った岩窟教会が集まるギョレメの谷には、30以上の教会がギョレメ博物館として保存・公開されています。その内部の鮮やかなフレスコ画が見事です。最初に紹介した、要塞のあったウチヒサールは、岩をくり抜いた住居が密集し、SF映画に登場してもおかしくない奇観です。頂上からは360度のパノラマが見渡せ、まるで違う星に舞い降りたような錯覚を覚える絶景です。(同上)<br />*写真は、木の枝に飾られたトルコの名物品の目玉の形をしたガラス玉、『ナザール・ボンジュウ』です。

    カッパドキアの紹介が続きます。4~11世紀にかけて、敬虔なキリスト教徒が造った岩窟教会が集まるギョレメの谷には、30以上の教会がギョレメ博物館として保存・公開されています。その内部の鮮やかなフレスコ画が見事です。最初に紹介した、要塞のあったウチヒサールは、岩をくり抜いた住居が密集し、SF映画に登場してもおかしくない奇観です。頂上からは360度のパノラマが見渡せ、まるで違う星に舞い降りたような錯覚を覚える絶景です。(同上)
    *写真は、木の枝に飾られたトルコの名物品の目玉の形をしたガラス玉、『ナザール・ボンジュウ』です。

  • トルコの名物品の目玉の形をしたガラス玉、『ナザール・ボンジュウ』のズームアップ光景です。お土産店には、必ずと言っていいほど展示されていました。ナザール・ボンジュウは、トルコのお守りで、『ナザール:Nazar』はアラビア語に由来し、視覚、監視、注意及びそれらに関連する概念を意味し、『ボンジュウ:boncuğu』はビーズを意味します。(同上)

    イチオシ

    トルコの名物品の目玉の形をしたガラス玉、『ナザール・ボンジュウ』のズームアップ光景です。お土産店には、必ずと言っていいほど展示されていました。ナザール・ボンジュウは、トルコのお守りで、『ナザール:Nazar』はアラビア語に由来し、視覚、監視、注意及びそれらに関連する概念を意味し、『ボンジュウ:boncuğu』はビーズを意味します。(同上)

  • トルコのお守りの『ナザール・ボンジュウ』だけでなく、頑丈そうな木の枝には、焼き物の壷が飾ってありました。『ナザール・ボンジュウ』の説明の補足です。青いガラスに中心から青色・水色・白色の着色で目玉が描かれ、邪視から災いをはねのけると信じられています。デザインは様々です。トルコで、一番多く買われているお土産かも知れません。ユニークで、軽くてかさ張りません。(同上)

    トルコのお守りの『ナザール・ボンジュウ』だけでなく、頑丈そうな木の枝には、焼き物の壷が飾ってありました。『ナザール・ボンジュウ』の説明の補足です。青いガラスに中心から青色・水色・白色の着色で目玉が描かれ、邪視から災いをはねのけると信じられています。デザインは様々です。トルコで、一番多く買われているお土産かも知れません。ユニークで、軽くてかさ張りません。(同上)

  • 同じく、頑丈そうな木の枝に飾られていた焼き物の壷の光景です。その壷と、ウチヒサールの岩山の光景です。ウチヒサールは、見所の多いカッパドキアの中でも、大パノラマを一望できる『ウチヒサール城』は、大変に人気の高い観光スポットです。『ウチヒサール(ウチヒサール)』とは、トルコ語で『尖った要塞』の意味を持っています。(同上)

    同じく、頑丈そうな木の枝に飾られていた焼き物の壷の光景です。その壷と、ウチヒサールの岩山の光景です。ウチヒサールは、見所の多いカッパドキアの中でも、大パノラマを一望できる『ウチヒサール城』は、大変に人気の高い観光スポットです。『ウチヒサール(ウチヒサール)』とは、トルコ語で『尖った要塞』の意味を持っています。(同上)

  • 写真は、『ウチヒサール城』と、その周りの街並みのズームアップ光景です。『カッパドキア』の紹介に戻ります。ヘロドトスが言及した、カッパドキアの部族の一つは、帝政ローマ期の政治家で著述家の『フラウィウス・ヨセフス(31~100年頃)』によると、旧約聖書の人物ヤペテの息子メシェクに結び付けられ、『マザカ』という都市は、『メシェクが訛ったもの』とされました。(同上)

    写真は、『ウチヒサール城』と、その周りの街並みのズームアップ光景です。『カッパドキア』の紹介に戻ります。ヘロドトスが言及した、カッパドキアの部族の一つは、帝政ローマ期の政治家で著述家の『フラウィウス・ヨセフス(31~100年頃)』によると、旧約聖書の人物ヤペテの息子メシェクに結び付けられ、『マザカ』という都市は、『メシェクが訛ったもの』とされました。(同上)

  • ペルシャ帝国後期の皇帝の支配のもとで、二つのサトラペイア(行政区)に分割されました。中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシャの地理学者によってカッパドキアの名前が使われ、他方はポントスと呼ばれました。この分割はクセノフォンの時代以前になされました。 ペルシャ帝国滅亡後も二つの州は分離され、両者の区別は恒久化されました。カッパドキアは内陸の州です。(同上)

    ペルシャ帝国後期の皇帝の支配のもとで、二つのサトラペイア(行政区)に分割されました。中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシャの地理学者によってカッパドキアの名前が使われ、他方はポントスと呼ばれました。この分割はクセノフォンの時代以前になされました。 ペルシャ帝国滅亡後も二つの州は分離され、両者の区別は恒久化されました。カッパドキアは内陸の州です。(同上)

  • カッパドキア王国は、ストラボンの時代の紀元前1世紀には、まだ名目上は独立国として存在していました。キリキアはその国全体の首都であるカエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が位置する地域の名前です。ストラボンは、カッパドキアの中で二つの都市のみが名を挙げるに値するとし、『カエサレア(マザカ)』と、『テュアナ』としました。タウルス山脈の麓から遠くない位置の都市です。(同上)

    カッパドキア王国は、ストラボンの時代の紀元前1世紀には、まだ名目上は独立国として存在していました。キリキアはその国全体の首都であるカエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が位置する地域の名前です。ストラボンは、カッパドキアの中で二つの都市のみが名を挙げるに値するとし、『カエサレア(マザカ)』と、『テュアナ』としました。タウルス山脈の麓から遠くない位置の都市です。(同上)

  • カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となりました。ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退により、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態にしました。封建貴族による軍政で、奴隷制度と言えるようです。(同上)

    カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となりました。ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退により、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態にしました。封建貴族による軍政で、奴隷制度と言えるようです。(同上)

  • カッパドキアは、ペルシャ帝国の『アケメネス朝(紀元前550年~紀元前330年)』の『ダレイオス1世(在位:紀元前522年~紀元前486年)』によって設置された区画の中で第3サトラペイアに含まれました。ペルシャ王に対してほぼ完全に従属したとされ、地元の支配者たちによる統治が長く続きました。その後、アリアラテス1世のもとで独立を回復しました。(同上)

    イチオシ

    カッパドキアは、ペルシャ帝国の『アケメネス朝(紀元前550年~紀元前330年)』の『ダレイオス1世(在位:紀元前522年~紀元前486年)』によって設置された区画の中で第3サトラペイアに含まれました。ペルシャ王に対してほぼ完全に従属したとされ、地元の支配者たちによる統治が長く続きました。その後、アリアラテス1世のもとで独立を回復しました。(同上)

  • カッパドキア王国は、『アリアラテス1世(紀元前404年頃~紀元前322年頃)』は、アレクサンドロス3世と同時代の人であり、アケメネス朝が滅びた後も、キュロス2世の子孫と称し、カッパドキアの王位を維持しました。この地域にアレクサンドロス3世が訪れることはありませんでした。彼は、小アジアから出発する前にアリアラテスによってなされた、従属的承認で満足した(同上)

    カッパドキア王国は、『アリアラテス1世(紀元前404年頃~紀元前322年頃)』は、アレクサンドロス3世と同時代の人であり、アケメネス朝が滅びた後も、キュロス2世の子孫と称し、カッパドキアの王位を維持しました。この地域にアレクサンドロス3世が訪れることはありませんでした。彼は、小アジアから出発する前にアリアラテスによってなされた、従属的承認で満足した(同上)

  • カッパドキア王朝は、アレクサンドロスの死後の短い期間のみ中断されました。なぜならその時、帝国の全体的な分割の中で、カッパドキア王国はアリアラテスの許可を得ることなく、アレクサンドロス3世の部下の一人、『エウメネス(紀元前362年頃~紀元前316年)』のものとなったからです。アリアラテスを磔刑は、摂政のペルディッカスにより、紀元前322年に行われました。しかしエウメネスに死をもたらした紛争の中で、アリアラテスの息子は遺産を回復しました。(同上)

    カッパドキア王朝は、アレクサンドロスの死後の短い期間のみ中断されました。なぜならその時、帝国の全体的な分割の中で、カッパドキア王国はアリアラテスの許可を得ることなく、アレクサンドロス3世の部下の一人、『エウメネス(紀元前362年頃~紀元前316年)』のものとなったからです。アリアラテスを磔刑は、摂政のペルディッカスにより、紀元前322年に行われました。しかしエウメネスに死をもたらした紛争の中で、アリアラテスの息子は遺産を回復しました。(同上)

  • アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは共和政ローマとの関係を持ちました。最初は『セレウコス朝(紀元前312年~紀元前63年)』の『アンティオコス3世(在位:紀元前223年~紀元前187年)』の主張を支持した敵対者として、そしてマケドニアの『アンティゴノス朝(紀元前306年~紀元前168年)の『ペルセウス王(在位:紀元前179年~紀元前168年)』に対抗する、ローマの同盟者としてです。(同上)

    アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは共和政ローマとの関係を持ちました。最初は『セレウコス朝(紀元前312年~紀元前63年)』の『アンティオコス3世(在位:紀元前223年~紀元前187年)』の主張を支持した敵対者として、そしてマケドニアの『アンティゴノス朝(紀元前306年~紀元前168年)の『ペルセウス王(在位:紀元前179年~紀元前168年)』に対抗する、ローマの同盟者としてです。(同上)

  • カッパドキアの王達は、これ以後、それまで従属してきたセレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟しました。『アリアラテス5世(在位:紀元前163年~紀元前130年)』は、ローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスとともにアッタロス朝(ペルガモン王国:紀元前282年 ~紀元前133年)』に攻め入りました。(同上)

    カッパドキアの王達は、これ以後、それまで従属してきたセレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟しました。『アリアラテス5世(在位:紀元前163年~紀元前130年)』は、ローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスとともにアッタロス朝(ペルガモン王国:紀元前282年 ~紀元前133年)』に攻め入りました。(同上)

  • ペルガモン王国の王位主張者・『アリストニコス(エウメネス3世):在位:紀元前133年~紀元前129年)』に対して軍を進めましたが、彼らの軍は殲滅されました(紀元前130年)。彼の死後の混乱は、勃興する『ポントス王国(紀元前281年~紀元前64年)』の介入と、王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招きました。ポントスは、アナトリア地方の黒海南岸地方になります。(同上)

    ペルガモン王国の王位主張者・『アリストニコス(エウメネス3世):在位:紀元前133年~紀元前129年)』に対して軍を進めましたが、彼らの軍は殲滅されました(紀元前130年)。彼の死後の混乱は、勃興する『ポントス王国(紀元前281年~紀元前64年)』の介入と、王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招きました。ポントスは、アナトリア地方の黒海南岸地方になります。(同上)

  • カッパドキア人は、ポントス王・『ミトリダテス6世(在位:紀元前120年~紀元前63年)』に対して、ローマの支援を受けつつ、地元の後継領主にアリオバルザネス1世を選任しました(紀元前93年)が、第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、彼の支配は確立されませんでした。(同上)

    カッパドキア人は、ポントス王・『ミトリダテス6世(在位:紀元前120年~紀元前63年)』に対して、ローマの支援を受けつつ、地元の後継領主にアリオバルザネス1世を選任しました(紀元前93年)が、第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、彼の支配は確立されませんでした。(同上)

  • ローマの内戦中には、カッパドキアはグナエウス・ポンペイウスに組し、次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従い、そして彼に対抗しました。アリオバルザネス王朝は終わりを迎え、その代わりにアルケラオスという人物が、始めはアントニウスにより、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援により統治しました。(同上)

    ローマの内戦中には、カッパドキアはグナエウス・ポンペイウスに組し、次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従い、そして彼に対抗しました。アリオバルザネス王朝は終わりを迎え、その代わりにアルケラオスという人物が、始めはアントニウスにより、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援により統治しました。(同上)

  • カッパドキアのこの従属的独立は、紀元17年まで続きましたが、ローマ帝国の第2代皇帝の『ティベリウス帝(在位:紀元14年~紀元30年)』の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはついにローマの属州となりました。カッパドキア属州は、州都をカエサレア(現:カイセリ)に置き、1世紀の後半にはポントゥスやアルメニア・インフェリオルの領域の一部も併せられました。(同上)

    カッパドキアのこの従属的独立は、紀元17年まで続きましたが、ローマ帝国の第2代皇帝の『ティベリウス帝(在位:紀元14年~紀元30年)』の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはついにローマの属州となりました。カッパドキア属州は、州都をカエサレア(現:カイセリ)に置き、1世紀の後半にはポントゥスやアルメニア・インフェリオルの領域の一部も併せられました。(同上)

  • カッパドキアは、ローマ帝国にとって最北東の属州となり、2個軍団といくつかの『アウクシリア(補助軍)』が常駐しました。ローマ皇帝となったディオクレティアヌス帝(在位:284年~305年)』は東方属州の再編を行い、カッパドキア属州は元々の属州面積に戻されました。330年、カッパドキア属州の東半分が、アルメニアに新たに設置された属州へ合併させるため、分離されました。(同上)

    カッパドキアは、ローマ帝国にとって最北東の属州となり、2個軍団といくつかの『アウクシリア(補助軍)』が常駐しました。ローマ皇帝となったディオクレティアヌス帝(在位:284年~305年)』は東方属州の再編を行い、カッパドキア属州は元々の属州面積に戻されました。330年、カッパドキア属州の東半分が、アルメニアに新たに設置された属州へ合併させるため、分離されました。(同上)

  • 371年、『ウァレンス帝(在位:364年~378年)』は更にカッパドキア属州の南西部をカッパドキア・セクンダとして分離させ、残った北東部はカッパドキア・プリマとしました。カッパドキアは、いくつかの地下都市を有し、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用されました。4世紀のカッパドキアの神父たちは、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在でした。(同上)

    371年、『ウァレンス帝(在位:364年~378年)』は更にカッパドキア属州の南西部をカッパドキア・セクンダとして分離させ、残った北東部はカッパドキア・プリマとしました。カッパドキアは、いくつかの地下都市を有し、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用されました。4世紀のカッパドキアの神父たちは、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在でした。(同上)

  • ローマ帝国が東西に分裂しますと、カッパドキアは東ローマ帝国に属しました。535年にユスティニアヌス1世はプリマとセクンダの二つの属州を再び統一カッパドキア属州にしました。その後、イサウリア人による襲撃を受け、7世紀前半までにカッパドキア属州は『サーサーン朝(224~651年)』の支配下となりました。サーサーン朝は、イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国です。(同上)

    ローマ帝国が東西に分裂しますと、カッパドキアは東ローマ帝国に属しました。535年にユスティニアヌス1世はプリマとセクンダの二つの属州を再び統一カッパドキア属州にしました。その後、イサウリア人による襲撃を受け、7世紀前半までにカッパドキア属州は『サーサーン朝(224~651年)』の支配下となりました。サーサーン朝は、イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国です。(同上)

  • 651年、サーサーン朝がイスラム勢力によって滅ぼされると、カッパドキアは東ローマ帝国の領土に再び組み入れられて、アナトリコンとアルメニアコンの二つのテマ制に再編されました。1071年のマラズギルトの戦いで、東ローマ帝国を破ったイスラム系の『セルジューク朝( 1038~1157年)』が、カッパドキアを支配しました。セルジューク朝の支配の元でアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行しました。セルジューク朝の崩壊後、一時期は『カラマニド公国(侯国)』が支配しました。(同上)

    651年、サーサーン朝がイスラム勢力によって滅ぼされると、カッパドキアは東ローマ帝国の領土に再び組み入れられて、アナトリコンとアルメニアコンの二つのテマ制に再編されました。1071年のマラズギルトの戦いで、東ローマ帝国を破ったイスラム系の『セルジューク朝( 1038~1157年)』が、カッパドキアを支配しました。セルジューク朝の支配の元でアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行しました。セルジューク朝の崩壊後、一時期は『カラマニド公国(侯国)』が支配しました。(同上)

  • 15世紀までに『オスマン帝国』がカッパドキアを領有しました。『オスマン帝国(1299~1922年)』は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国です。英語圏では『オットマン帝国(Ottoman Empire)』と表記されます。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼし、その首都だったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都としました。世界史でも特筆される大帝国ですから、この後は、カッパドキアを含めたトルコの歴史として紹介します。(同上)

    15世紀までに『オスマン帝国』がカッパドキアを領有しました。『オスマン帝国(1299~1922年)』は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国です。英語圏では『オットマン帝国(Ottoman Empire)』と表記されます。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼし、その首都だったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都としました。世界史でも特筆される大帝国ですから、この後は、カッパドキアを含めたトルコの歴史として紹介します。(同上)

  • 13世紀末に、『東ローマ帝国』と『ルーム・セルジューク朝』の国境地帯(ウジ)だったアナトリア西北部のビレジクに現れたトルコ人の遊牧部族長・オスマン1世が率いた軍事的な集団が、オスマン帝国の起源です。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では有力ですが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着されていないようです。オスマン帝国の初代皇帝(在位: 1299~1326年)の『オスマン1世(1258~1326年)』の歴史的な人物評価は、武勇と決断力に富み、国民からの人望も厚かった名君として高く評価されています。(同上)

    13世紀末に、『東ローマ帝国』と『ルーム・セルジューク朝』の国境地帯(ウジ)だったアナトリア西北部のビレジクに現れたトルコ人の遊牧部族長・オスマン1世が率いた軍事的な集団が、オスマン帝国の起源です。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では有力ですが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着されていないようです。オスマン帝国の初代皇帝(在位: 1299~1326年)の『オスマン1世(1258~1326年)』の歴史的な人物評価は、武勇と決断力に富み、国民からの人望も厚かった名君として高く評価されています。(同上)

  • 1281年、父・エルトゥールルの死後、後を継いだオスマンはトルクメン系遊牧民やムスリム農民で形成されたガーズィー を率いました。父の代に小アジアに小国家の基盤は築かれていました。1290年代にオスマンは辺境の城8箇所とエスクシェヒルを占領し、その後も領土を拡大しました。オスマンらが得た土地には東ローマ貴族から奪ったものや、政略結婚を通じて平和的に得た土地もありました。(同上)

    1281年、父・エルトゥールルの死後、後を継いだオスマンはトルクメン系遊牧民やムスリム農民で形成されたガーズィー を率いました。父の代に小アジアに小国家の基盤は築かれていました。1290年代にオスマンは辺境の城8箇所とエスクシェヒルを占領し、その後も領土を拡大しました。オスマンらが得た土地には東ローマ貴族から奪ったものや、政略結婚を通じて平和的に得た土地もありました。(同上)

  • オスマン帝国の17世紀の最大版図は、中東からアフリカ・欧州に著しく拡大しました。東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及びました。オスマン帝国の終焉は、1922年のことでした。(同上)<br />*トルコでは、2,400年以上前から続くラクダ相撲が、現在も行われています。

    オスマン帝国の17世紀の最大版図は、中東からアフリカ・欧州に著しく拡大しました。東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及びました。オスマン帝国の終焉は、1922年のことでした。(同上)
    *トルコでは、2,400年以上前から続くラクダ相撲が、現在も行われています。

  • お土産店に展示されている、トルコのお土産です。トルコ名物の目玉の形をしたガラス玉の『ナザール・ボンジュウ』です。昨年も購入しましたが、今年もお土産用に購入しまた。(同上)

    お土産店に展示されている、トルコのお土産です。トルコ名物の目玉の形をしたガラス玉の『ナザール・ボンジュウ』です。昨年も購入しましたが、今年もお土産用に購入しまた。(同上)

この旅行記のタグ

3いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

トルコで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
トルコ最安 429円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

トルコの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP