2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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アルテミス神殿は、エフェス遺跡の一部です。エフェスは、もとは港湾都市でしたが、土砂の堆積により現在は海岸から離れた場所となりました。紀元前4、5世紀の哲学者、ヘラクレイトスの出身地とされます。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
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アルテミス神殿に続いて、エフェス(エフェソス)遺跡の紹介です。トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置しています。ギリシャ神話の女神・アルテミス崇拝で知られたギリシャ人都市でしたが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙があるようです。エフェスの遺跡は、紀元前7千年から紀元前2300年前の時代です。(同上)
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イチオシ
紀元前6千年前の新石器時代には周辺に人が住んでいて、エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人だったと考えられています。ヒッタイト人の文献に登場するアルザワ王国の首都・アパサがエフェソスと同一の都市であると多くの人が考えています。発掘からは青銅器時代のミュケナイ文化に属する陶器が見つかっています。(同上)
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古典期のエフェスはアルテミス崇拝で著名でした。エフェスでは比較的遅くまで王政が布かれました。哲学者ヘラクレイトス(紀元前540年頃~紀元前480年頃)は、この町の出身です。紀元前356年、エフェスのアルテミス神殿に放火すれば、後世に名が残ると考えて実行した者がいて、このとき神殿は完全に焼尽しました。(同上)
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エフェスの市民は、記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録から、その名を削りましたが、この試みは失敗しました。現在に、ヘロストラトスという名が伝わっています。その後アルテミス神殿は再建され、世界の七不思議の一つに数えられました。(同上)
*写真は、エフェス遺跡の平面図のようですが、細部は分かりませんでした。 -
エフェスは、ヘレニズム都市として栄えましたが、紀元前2世紀に共和政ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされました。共和政ローマ最末期に、第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスが、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地です。また、クレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られています。(同上)
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『マルクス・アントニウス(紀元前83年~紀元前30年)』は、共和政ローマの政務官で、第二回三頭政治の一翼として権力を握りましたが、その後は、『ガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100年頃~紀元前44年)』の姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北しました。ユリウス・カエサルは、日本では、『ジュリアス・シーザー』の名前で知られています。(同上)
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『ユリウス・カエサル』と古代ローマを扱った歴史小説では、『塩野七生(しおの・ななみ:1937~)』が有名です。文庫本では40冊(平成22年:2010完)になりますが、あまりに面白くて、それまでは好きでなかった作家でしたが、一気に読み通しました。その後、塩野七生さんの作品は、一通り目を通しました。また、欧州の海外旅行では、ローマ帝国時代の地中海沿岸の国巡りを意識しました。(同上)
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『塩野七生』さんと『カエサル:ジュリアス・シーザー』の紹介を、もう少し続けます。塩野さんは、日比谷高時代は庄司薫、古井由吉らが同級生で、後輩に利根川進がいて親しかったようです。ホメーロスの『イーリアス』を読んで感激して、翻訳者だった『呉茂一(くれ・しげいち:1897~1977年)』氏に学びたいと願い、学習院大に進学したとされます。(同上)
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塩野さんは、1963年からイタリアに遊学し、モード記者として活躍されました。1968年(昭和43年)に帰国し、執筆を開始しました。『中央公論』掲載の『ルネサンスの女たち』でデビューし、1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞、同年から再びイタリアへ移り、フィレンツェやローマに在住し、ローマ名誉市民を経てイタリア永住権を得ました。(同上)
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塩野さんは、一連の著作を通して、日本において古代ローマ史やイタリア史、イタリア文化に対する関心を高めたことが高く評価され、2000年(平成12年)にはイタリア政府より『イタリア共和国功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ章』を受けました。この勲章は、文学・芸術などの分野におけるイタリア共和国大統領が叙勲を決定する、共和国最高位の勲章の一つとされます。(同上)
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著作と受賞歴を主体にした塩野七生さん紹介の締括りです。
〇1968年(昭和43年):『ルネサンスの女たち』:「中央公論」
〇1970年(昭和45年):『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』:毎日出版文化賞:この年からイタリア在住、
〇1982年(昭和57年):『海の都の物語』:サントリー学芸賞
〇1983年(昭和58年):菊池寛賞
〇1993年(平成5年):『ローマ人の物語Ⅰ』:新潮学芸賞
〇1999年(平成11年):司馬遼太郎賞
〇2002年(平成14年):イタリア政府より国家功労勲章
〇2007年(平成19年):文化功労者
*その後も、『ローマ亡き後の地中海世界』、『十字軍物語』、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』、『ギリシア人の物語』などを刊行。 -
エフェス遺跡紹介に戻ります。エフェスは、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となりました。また、現在残るアルテミス神殿の遺構は、ローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていました。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された都伝わります。エフェスの繁栄は、港湾によるところが大きかったとされますが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小されていきました。これは、エフェスの側にある二つの山から流れ込む土砂の堆積によるものでした。(同上)
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エフェスには比較的早くキリスト教が入り、新約聖書にはエフェスの教会にあてた書簡、エフェソの信徒への手紙があります。これは、パウロに帰せられものですが、真筆書簡かどうかを巡って意見の相違があるようです。また伝承では、使徒ヨハネはパトモス島の流刑から解放された後、エフェスの教会の主教(司教)を務める傍ら、ヨハネによる福音書を書いたと伝えられます。ただし、この伝承の史実性を巡っての議論があるようです。また、イエスの母マリアも、使徒ヨハネとともにエフェスで余生を送ったと伝えられます。アンティオキアのイグナティオスには、エフェス教会に宛てた書簡が残っています。(同上)
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4世紀以降キリスト教が公認されますと、エフェスはたびたび教会会議や公会議の舞台となりました。その中でも重要とされるのは、東ローマ(ビザンティン)皇帝・テオドシウス2世の勅令下で開催され、ネストリオス派に異端が宣告された431年のエフェス公会議と、単性説(あるいは合性論)と両性説の論戦が行われて前者が正統とされた449年のエフェス強盗会議です。この決定は後のカルケドン公会議で覆されました。(同上)
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449年のエフェス強盗会議の説明です。448年のコンスタンティノポリス地方公会で異端とされたエウテュケスは、教義の撤回を拒み破門されました。5世紀前半のコンスタンティノポリスの修道院長でした。このため、エウテュケスの後援者のアレクサンドリア総主教・ディオスコロス(在位444~451年)は、東ローマ皇帝テオドシウス2世(401~450年)の側近を動かしました。(続く)
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エフェスでの公会議を開く許可を得て、エウテュケスの教義を正当化し、コンスタンティノポリス大主教・フラウィアノスをエフェスに流刑に処しました。しかし、皇帝テオドシウス2世の急死により教会の動向が変わり,カルケドン公会議(451)は,エフェソス会議の公会議の名称と決議すべてを取り消しました。強盗会議の名は、皇帝テオドシウス2世が姉プルケリアに送った書簡が初出です。(同上)
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本筋の説明に戻ります。東ローマ帝国の下でも、エフェスは引き続きアシア属州の首都として繁栄しました。政治と経済の中心であり、また府主教座が置かれる教会行政の中心でもありました。多神教が禁止された後、一部アルテミス神殿や劇場は街の建築資材を得る場所とされ、石材が搬出されるとともに、一部は住宅地に侵食されていきました。(同上)
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エフェスの神殿の石材の一部は、コンスタンティノポリスの建築資材として使われました。7世紀に入ると、ペルシャやアラブの勢力拡大を受け、7世紀半ばに城壁が設けられました。この頃になると、港の沈降が進み、近郊の港が外港として使われるようになりました。(同上)
*写真は、切込み跡が残る大理石の遺物の光景です。 -
また、帝国の官僚や教会は、古来の都市からアヤソルクの丘に中心を移しました。その結果、市域は分散し、また拡大しました。その後も経済活動は活発に行われましたが、8世紀に至りアラブ人の攻撃をたびたび受けたことから、東ローマ帝国はエフェスを放棄しました。港が完全に埋まったのはその後のことです。(同上)
*写真は、同じく精密な切込み跡が残る大理石の遺物の光景です。 -
現在のエフェスは、トルコの小村アヤソルクの一部です。世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂の『聖母マリアの家』、聖ヨハネ教会、考古学博物館などがあり、トルコの重要な観光地の一つになっています。(同上)
*写真は、二重になった石造の壁面光景です。大理石が、化粧板のようでした。 -
『聖母マリアの家』には、バチカンからの代表者が毎年参拝するほか、歴代のローマ教皇も訪問しています。1967年のパウロ6世の訪問、1979年のヨハネ・パウロ2世の訪問、2006年のベネディクト16世の訪問などです。(同上)
*写真は、廃墟になったエフェス遺跡の石柱頭部のズームアップ光景です。ローマ・ギリシャ建築様式の中のイオニア式のようでした。 -
ローマ・ギリシャ建築様式の補足説明です。古代ギリシャのドリス式、イオニア式、コリント式の三つのオーダーに加えて、古代ローマで加わったトスカナ式、コンポジット式の二つのオーダーを加えて、五つのオーダーも知られています。コンポジット式は、イオニア式とコリント式を複合したものです。(同上)
*写真は、動物の顔をした石造遺物のようです。 -
エフェス遺跡の説明の中で、『共和政ローマ最末期の第二回三頭政治』のことがありましたので、この石像の頭を眺めながら、その説明です。『三頭政治』は、 共和政ローマ 末期に現れた政治体制です。共和政から 帝政 に移行する間に生じた3人の実力者による 寡頭 政治体制です。(続く)
*写真は、動物の顔をした石造遺物の紹介が続きます。 -
『三頭政治』の紹介の続きです。 非公式な政治同盟として成立した第一回三頭政治と、正式な役職として成立した第二回三頭政治があります。第一回三頭政治は、ガイウス・ユリウス・カエサル 、 グナエウス・ポンペイウス 、 マルクス・リキニウス・クラッスス の三者によって成立しました。塩野七生さんの『ローマ人の物語』でも詳しく紹介されています。(同上)
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第2回三頭政治は、アントニウスとオクタウィアヌスの対立が再燃することで崩れることとなりました。アントニウスはオクタウィアヌスの姉のオクタウィアを妻としていましたが、カエサルの死後、寡婦となったクレオパトラの魅力にとりつかれ、ローマを去ってエジプトに移り、彼女とのあいだに三人の子をもうけました。正妻オクタウィアは黙って耐えていたといわれますが、オクタウィアヌスは不信感を強めたようです。アントニウスとの決戦を覚悟したオクタウィアヌスは、その頃西地中海で海賊行為を繰り返していたセクスティウス(ポンペイウスの遺児)を、盟友のアグリッパの艦隊に平定させ、西地中海の制海権を得ました。(同上)
*写真は、小さな劇場のような造りの『プリレリオン』です。ローマ帝国時代の評議会などが開かれた場所です。 -
第2回三頭政治の紹介が続きます。紀元前36年、まず三頭政治の一角レピドゥスを失脚させ、アントニウスとの対決に備えました。紀元前34年、アントニウスがローマの東方属州をクレオパトラに寄贈しようとしたことで、ローマの反アントニウス感情が強まり、ついに紀元前32年にアントニウスがオクタウィアを離縁したことで両者は決定的に離反しました。これで名実ともに三頭政治は終わりを告げました。(同上)
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イチオシ
紀元前31年、オクタウィアヌスは、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍を破り、さらに翌年、アレクサンドリアを征服してプトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、地中海全域の覇権を握りました。その上で紀元前27年、オクタウィアヌスはアウグストゥスとして皇帝となり、ローマ帝国の時代となりました。アウグストゥス(紀元前63年~紀元14年)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年~紀元14年)となりました。(同上)
*写真は、遺跡の見所となっている『プリタネウム』です。ヘレニズム時代のエフェスの政治の中心になった場所です。 -
第2回三頭政治の紹介の締め括りです。志半ばにして倒れた養父のカエサル(シーザー) の後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、『パクス・ロマーナ(ローマによる平和)』を実現しました。塩野七生さんの『ローマ人の物語』の主人公が『カエサル(シーザー)』で、主題が『パクス・ロマーナ(ローマによる平和)』でした。(同上)
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ギリシア~ヘレニズム~ローマ時代の遺跡は、世界遺産だけでも数十を数えますが、これほど破壊されていながら美しい遺跡はまれなようです。世界遺産の旅行ガイドの方は、このトルコの『エフェス』と、シリアの『パルミラの遺跡』が双璧に紹介されていました。シリアの政情が安定していた時期に『パルミラの遺跡』は見学しましたが、その後の遺跡の状態が心配されます。(同上)
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上部だけを見ますと目を回した人の姿にも見える石柱の光景です。ギリシア建築、ローマ建築、ルネサンス建築などの古典系建築にはある共通の構造があります。それが『オーダー』と呼ばれる、床から屋根までの柱と、梁(はり)を中心とした秩序ある一連のセットです。先ほど紹介した、『プリタネウム』には、梁の部分もありましたが、これは柱1本だけです。目を回したような頂部の造りは、『イオニア式』になるようです。なお、『オーダー』と呼ばれる部分を柱だけで定義し、上から、『柱頭(ちゅうとう)』、『柱(はしら)』、『柱礎(ちゅうそ)』と呼んでいる資料もありました。(同上)
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